広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎煩悶青年として(新・山岸巳代蔵伝➂)

第一章 理想は方法によって実現し得る

4 ある壁にぶつかり、苦悩の内に一生かけての仕事を始める
 一九一六年(大正五)、山岸は一五歳で高等小学校を卒業し、学校の募集に応じて京都の今出川にある大橋商店という絹問屋に奉公に出る。しかし罵り合い喧嘩が絶えない老夫婦や、毎晩ばくち打ちに興じる店員たちに嫌気がさし、頭のけがを契機に離職。養生のため実家に帰る。その後、いっとき長浜の縮緬問屋で働いたことはあるそうだが、ほとんど定職を持つこともなく、横浜、東京、新潟、朝鮮など各地を転々と歩いたようである。

 一九二一年二〇歳のときに郷里で徴兵検査を受けるが、この間の詳しい足跡は、残された記録からはあまりハッキリしない。この四、五年の青春彷徨の時期は様々な精神上のドラマもあったようで、一九歳の時に大きな壁にぶつかり、一九歳から二一歳まで三年間、この世界のもとのもとを徹底的に考え抜くことになる。その後郷里に帰って生業として養鶏に着手した。後に、養鶏に着手した経緯について触れている。

〈私が養鶏に入った動機は、フトした奇縁とも云うべきものがあり、青年時代、人生及び当時の社会組織に疑問を抱き、それの探究に没頭し、昼夜の別なく参考書を読み漁(あさ)り、身心を酷使し、かつ再三、拘引留置等の圧迫のために健康を害し、やせ細った秋の一日、郊外に出て読もうと一書を携えて葛飾方面に行った時、またイヤな尾行が付き出し、犬を撒くために、ある会社へ飛び込んだのが、小穴氏の日本家禽産業会社(東京)で、種鶏舎に飼われていた純白の白レグ(当時は銘鶏)の美しさと、広い建物の中に整然と並べられたサイファー式孵卵器や電熱育雛器(いくすうき)の中の可愛い雛に愛着を感じ、かつ私が把握した社会組織のあり方を、鶏に応用実験すべく、郷里(滋賀)に帰って養鶏(初めは人工孵化)に着手したのです。〉
(『山岸養鶏の真髄』「求むれば得らる」)


 一九歳から二一歳までの理想社会についての思索で、これ以後の活動への方向性が確定する。山岸はその経緯については折々に触れている。いくつか挙げる。

「私は十九歳の時、或る壁にぶつかり、苦悩の内に一生かけての仕事を始めたのです。そして人生の理想について探求し、真理は一つであり、〝理想は方法によって実現し得る〟という信念を固め、只今ではその方法を『月界への通路』と題しまして記述し続けております」
(『山岸会養鶏法 農業養鶏編』「本養鶏法の沿革―月界への通路」)

「若い時連続徹夜で酷使して使い物にならないように毀し、肉体までも台なしに御見掛け通りの残骸を晒しているのです。その後は及ばないことながらも、それ等を捨てた犠牲の代償として、当時見つけ出した私なりの真理の再檢討のために、半生を浪費してしまったのです」 
(『山岸式農業養鶏について』「真理追究から発した養鶏」)

「私が十八、九、二十(歳)頃に京城(ソウル)で、雪はないけど、寒いこと寒いこと。四十年前。……懐かしい第二の故郷、にんにくや唐辛子が好きになったのも、朝鮮人の中へ入って、親しい友達になり、何でも食べる。赤エイの造りやらおいしい」(「編輯計画について」)

「一九歳の時、新潟方面へ出向いていったある日、ある寒村の農家の縁先でほとんど絶食状態で雪の中に座り込んで、二四時間ほど考え抜いた。大部分の人なら発狂するであろう……哲学のもとのもとを探求した」という山岸についてのエピソードを、安井登一が『山岸巳代蔵伝草稿』に記録している。


 京城にいた頃の話は、『正解ヤマギシズム全輯』著述の「編輯計画について」に関して設けられた、一九六〇年二月会合のテープ録音から奥村通哉が書き出したものである。前後のつながりの分からない部分が多くなっている。私はこの発言に注目した。というのは、

 ➀一九一〇年の日韓条約で韓国併合し、植民地支配の下であらゆる階層からの反日感情が強まっていて、山岸が一八歳になる一九一九年に三一独立運動が起こり、京城から朝鮮半島全体に広がり数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して治安維持にあたった。

 ②何のために新潟に出向いたのか。新潟は朝鮮渡航へのルートであったのではないか。
 更に、理想社会究明に専心していた時期と重なること、尊敬する兄が朝鮮で活動していたこと、この発言からは、朝鮮にある程度長く滞在し、かなり親密になっていたと思われることから、私は、山岸の言う「ある壁」は、朝鮮の状況や社会運動に絡んだものではないかなとも推測している。新潟と朝鮮間を行き来していたとも考えられる。

 自分の履歴を語る場合、程度の多少はあるとしても整合性をつけることになり、実際とは違ってくる面もあることは否めない。山岸の場合は、具体的に事例をあげる場合が多く、それがある種の説得性を帯びるのだが、この件に関しては一貫して「ある壁」として、それ以上触れていない。まとまった表現にし難い経緯だったのではないだろうか。

 一五歳まで比較的おおらかな家族、環境の中で育ってきた山岸にとって、この五、六年の体験は、その思想形成に多大な影響をもたらしたのではないだろうか。大正時代は日本型デモクラシーが芽生えた時期でもあるが、明治維新後、文明化・近代化を歩み続け、日本民族意識の高揚感のもとにアジアへの同化政策がすすんだ時期でもある。


 これは私の推測ではあるが、山岸がこの頃の朝鮮の状況から掴んだものは、理想社会の究明にも多少関連性があるのではないだろうか。当時の日本国家の状況、その後の満州事変から太平洋戦争とつながる象徴的な出来事なので、武田幸男編『朝鮮史』などを参考にして、その要点をあげておく。

 独立運動の宣言書は、朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。

 この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であること、朝鮮の独立によって日本及びそこに住む人々との間に正しい友好関係を樹立することなどが骨子となっている。

 特徴的なのはその戦闘性の希薄さであって、日本に対する独立宣言でありながら、その日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている。これは三原則の一つ非暴力理念を反映した結果といえる。
 運動は京城から朝鮮北部に波及し、その後南部に及んで朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して治安維持をはかり、数しれぬ朝鮮人を殺害した。

 一方日本の世論は、吉野作造、宮崎滔天(とうてん)、石橋湛山(たんざん)、柳宗悦(やなぎむねよし)などごく一部の人が独立運動への理解を表明しているが、マスコミはじめ三一運動を暴動とみなす論調が圧倒的に強かった。

           ☆

『月界への通路』について、山岸会初期の頃、山岸の身近にいた山本英清は『懐想・メーポール』で次のことを述べている。

〈・「謎の存在」
 山岸さんは、向島へ移られた当時のことを、自著の〝知的革命〟の一節に「体からいのちがさようならしたら止めるとして、悠々と綴っていたが……」と記していられる。その綴っていられたものは、前に記した『月界への通路』の著述のことであるが、このことに関してはっきり明示されたのは、自著の養鶏書の一節にただ一ヵ所だけ記されてあるだけで、何年頃から始められたのか、その内容はどんなものか、ことにその草稿はどんなもので、どこにしまってあるのか、私は山岸さんから一度も聞いたことも、まして見てもいない。これはおそらく他の会員さんも同様でないかと思う。

 しかし或いはそれが今現存していて、誰かが見、またどこかで保管されてあるのかも知れないが、それは私には全然わからぬ。私は向島の山岸さん宅に随分出入りもし、また第一回高研〈高度研鑽会。一九五六年一月の第一回特講の後、二月に第一回高研が山岸宅で開かれた〉以来、相当の期間、まるでわが家のようにふるまって寝泊りもし、必要があって倉庫になっていた門先の大きな倉の二階にまであがって、そこここと物を探したものだが、かつてそれらしいものを見たことがなかった。

 そこで私はこう思った。これは山岸さんらしく、二〇歳代の頃から夢だにも離れぬこの構想を、詳しく頭の中に丹念に記述し、これを一生涯続けられたのでないか。そして山岸会創設二年目の二九年二月に発行された山岸さんの最初の著書『山岸式養鶏法』以後の各種の著書や、機関新聞への数多い投稿、それから講演会、講習会、研鑽会においてのいろいろの発言や、山岸会の組織や運営、百万羽〈山岸会式百万羽科学工業養鶏〉その他諸機関の設立運営に関する提案やアドバイス等々は、すべてその脳裏に記述されたものの一端ではなかったのか。いや山岸さんのその後の四十年の生涯の、あらゆる生活をつらぬいて一貫する生き方一切、その著述の表白でなかったのかと思ったことであった。

 ただちょっと不思議に思った一事がある。それは昭和二九年の初夏、私が会から委嘱されて山岸会会報〈正しくは山岸式養鶏会会報〉第二号を編集した時のことで、山岸さんから渡された三十数枚の原稿は、創刊号からの続きの「獣性より真の人間性へ」の第二回分で、その最初の小見出し「方法あり」の下に括弧して(自著、実践哲叢一二八号のうちより)とあったので、私はさては『月界への通路』も相当進んでいるなと思い、その原稿を見たい衝動に駆られたが、どうせ「この実践哲叢を一度拝見したいのですが」と頼んでみても、例のとおりにんまりとして「見たってどうということもないでしょう」とか何とかですまされることと思い、そのまま編集に入ってしまったことを覚えている。こんなわけで『月界への通路』は私の場合に限り、謎の存在ということになっていて、私のイメージにある山岸さんにうってつけの話なので、大事にしまいこんでいるのである。〉

 
 山本英清(一八九八年生)は、山岸会初期の機関誌『山岸会・山岸式養鶏会会報』の編集責任者であり、山岸会誕生前後の回想録『懐想・メーポール』を、機関紙『ヤマギシズム』に一九六一年四月から三三回にわたり克明に記録している。

「懐かしさは過去に属する現在である。現在の人間はのぞみに活かされている。のぞみは未来にあって他はない。しかし現在は過去の一切を踏まえて未来をはらんだもの。懐かしさの過去になずむ時、現実は固定し停頓する。懐想は未来を最高たらしむるために、過去を見る眼でありたい。断層停止のない時間の中の懐想は、過現未の久遠永劫を貫いて生かされ産み創る現実であるはずである」の前文からはじまる著者自身の記録と取材に基づいた、山岸巳代蔵及び山岸会創設の頃の回想録である。
 
 山岸巳代蔵や山岸会創設の頃については、それを参考にしながら書き進めている。

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「引用文献」
・『山岸養鶏の真髄』「求むれば得らる」→『全集・第二巻』(一九五五年)
・『山岸会養鶏法 農業養鶏編』「月界への通路」→『全集・第一巻』(一九五五年七月)
・『山岸式農業養鶏について』「真理追究から発した養鶏」→『全集・第一巻』(一九五四年)
・『正解ヤマギシズム全輯』「編輯計画について」→『全集・第七巻』(一九六〇年二月)
・安井登一『山岸巳代蔵伝草稿』→新島淳良『墳』に掲載(一九九四年九月~九月)
・『懐想・メーポール』かばくひろし・山本英清のペンネーム(一九六一年四~一〇月)