広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎「ひとつ」という見方。

〇先週、1976年実顕地本庁のもとに強力に一本化されるようになった後の、実顕地の変容について記録した。強力に一本化することの弊害について、別の角度から見ていく。

 実顕地では、「何々一つ」の表現がよく使われていた。
〈財布一つ〉〈実顕地一つ〉〈一つの社会〉、大袈裟になると〈世界にただ一つの真実の学園〉と言うこともあった。

 ヤマギシズム運動では自然全人一体の見方など「一体」という表現がよく使われる。
 それは、「ひとつ」という指向性の強いことば、典型として「財布一つ」という実顕地づくりの根幹をなす方式につながり、多くの参画者の心構えにもなっていた。

 5年前、長年実顕地で活動し、その後離脱していた10人ほどの仲間と寄る機会があった。また、そこで活動していた青年、今では40代半ばで活躍している人たちも来てくれて、それぞれの現況や当時の実顕地についての思いを聴かせてもらった。

『僕らがイズム運動で一番大事にしてきた、「ひとつ」とか、「研鑽」とか、もっともそれを実践すべき時に、それをやらなかったことに対しての残念さがある』というような真摯な問い掛けが、当時は青年だった人からでて、そうできる役割についていた私には課題として残った。付随して「ひとつ」という表現について考えてみた。


 2016年10月、吉田光男さんは『わくらばの記』で次のことを述べている。
《先日、ある実顕地のメンバーと話していて、気になることがあった。彼は「最近は村人テーマの〈実顕地一つ〉の資料で研鑽しているが、どうも意見が出しづらい」というのである。彼の言うには、何か〈こうすることが実顕地一つなのだ〉と決まったものがあって、それと違うことはなかなか言えない雰囲気なのだというのである。これは、私にも経験があるのでよくわかる。自分もそんな雰囲気に委縮したり、自分からそうした雰囲気づくりに貢献したりした苦い経験がある。しかし、もうとっくにそんな経験は卒業していなければならない。

 ここで考えなければならないと思うのは、〈実顕地一つ〉のテーマが意味することの中身である。つまり「実顕地は一つである」ということなのか、あるいは「実顕地は一つにならなければならない」ということなのか。もし、後者であるとすれば、今は一つでないから一つを目指していこうということになるし、前者であれば、いろいろ意見の違いはあっても一つの中の多様な見方であって、違いは豊かさを表すだけで対立にはならない。この「一つである」ことなのか、「一つになる」ことなのか、ということの違いは、決定的に大きい。

 そして私たちが目指したいのは「一つである」あり方である。「一つである」から何でも言える、何でも聞ける、「誰もが思った事を、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、又は誰の発言や行為をも忌憚なく批判」できる、そんな社会づくりである。

 言葉で言ってしまえばこんな簡単なことなのだが、実際にそうなっていかない原因はどこにあるのだろうか。恐らく、方向や事柄を一つにしようとする側にも、それに委縮したり反発する側にも、一つでないものが介在しているからではないだろうか。特に「正しいもの」「本当のもの」を自分(たち)の考えや行動の原理としている場合は、それを他に押し付ける危険が大きくなる。強制力を働かせることも起こりうる。そうして作られた流れや空気が、人を押し流してしまいかねない。

 いま大切なことは、「実顕地一つ」の研鑽を、「事柄の研鑽」から「あり方の研鑽」へと変えていくことなのではないだろうか。(連載『わくらばの記』(14)(2018-11-04))》
          ☆

 ヤマギシの独特の理想に共鳴して参画した人たちがある方向性のもとに、〈一つ〉のあり方を目指すのは、ある意味当然である。

 しかし、組織は人の集まりであり、共鳴して参画したとはいえ、一人ひとり考え方の違いがあり、意見の相違点も生まれる。その違いが組織を動かす大きなエネルギーになることがある。

 また、今進めている方向性そのものを改めて見直す契機にもなる。そのために一本化するには、それに対して検証機能が絶えず働いていることが大事である。

 そのため、山岸巳代蔵は組織の生命線として「けんさん」方式を考えて、それに即して実顕地づくりがされていった。

「けんさん」方式の要点は、どこまでもキメつけないで、あらゆる社会通念や権威などにとらわれず、本質を探究し続け、最も深く真なるものを解明し、それに即応しようとする考え方、生き方ということになるかと思われる。

 そして、山岸巳代蔵の描く研鑽会のエッセンスを次のように表現した。
【4 感情を害しないこと
 いかなる場合にも絶対腹をたてないことと、暴力を用いないことになってありますから、何を言われても悪感情を残さないこと、それから、誰もが思ったことを、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、または誰の発言や行為をも忌憚なく批判します。
 政治批判も、人格批難(同席者の)も、差支えなく、そんなことで弾圧したり、腹を立てたらおしまいです。

5 命令者はいない
 特別人間や、神や、仏は仲間入りしていませんから、ある人を盲信し、屈従迎合しないことで、偉い人のお説教を聞くのではなくて、お互いの持っているものを出し合って、自分達で共によく検討し、一致点を見出し、実行に移すのです。提案はしますが、個人の意志により命令する者はいないのです。人間の知能を持ち寄れば、神や、仏とやら云う仮名象徴態や、絶対者がなくとも、人生を真の幸福にすることが出来ます。(『ヤマギシズム社会の実態』「第二章構成 一幸福研鑽会」より)】


 したがって〈財布一つ〉で実顕地が運営されていくにあたって、原則としては、その実顕地の参画者構成員の「けんさん」によってなされていく必要がある。

「けんさん」方式が形骸化していったことが、実顕地のおかしくなるもっとも大きな要因であったと思っている。

 しかし、実際のところ一部の人に任されていくのだが、そのための工夫として「自動解任」「長を置かない」「私意尊重公意行」など考えたが、先に触れたように、指導的立場の人の固定化もあり、一部の特定の人たちによる操作的調整という面が強くなり、本来のねらいから逸脱した形骸化したものになっていく。

 このことは、機構運営の柱である「私意尊重公意行」の「私」と「公」のあり方、「集団」と「個」の関係につながり、ヤマギシに限らず、共同体やある集団における、大きな課題となると思う。


「付記」
 5年前、長年実顕地で活動し、その後離脱していた10人ほどの仲間と寄る機会では、一本化された後の実顕地について、いろいろな話が交わされた。

 そのことは、2015年10月に、当ブログ「気が置けない仲間との交流(1)⑵⑶」に記載した。
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 【参照】
▼「けんさん」が生命線
「全部ではないが、ヤマギシズムの基本となるものが研鑽である。研鑽は話し合いだけではなく、理論、方法、実践の一貫したもので、生活即研鑽である」として、『正解ヤマギシズム全輯』の構成は、第一輯に「けんさん・もうしん」の項目を考えていて、「出版計画打合せ」に〈本題 第一章 けんさん〉が書かれている。その抜粋を見ていく。

《この研鑽というのは、過去の文献だとか、実績だとか、それぞれの人の考えだとか、教書、指導書、研究発表などを基本としてやるのでない。間違いないものとキメつけて、それから物事を判断するものでない。哲学とか科学とか言われても、みなそれぞれ決定した、動かない基本体系を持ったもの。それを持たないもの……。
 研鑽は学問と違う。
 こう一応定義をしても、そのもの、キメつけたそのものでない。文字でも、言葉でも、学問でも、実験も、それらは含まれるが、そのものでもない。一応は定義づけても、それは一応であって、絶対間違いないと、不動のものとキメつけて変わらないもの、変えようとしないものでない。やはり、真に正しいことを期すために、どんなに真に正しいと思われることでも、立証されたから間違いないとか、正しいとか思っても、それは一応の段階的正しいとするもので、やがては正しくなかったという結果になるかも分からないとするもの。したがって、これで間違いないとキメつけた最終のキメつけでなく、一旦最終的な、変わらないものと思っても、なお間違いかどうかの検べる余地の残されたもので、どこまでもどこまでも、間違いあるかもしれないとして検べようとする観方、考え方、とり方、実験、また実験等を通して検討する、正しいかどうかを究めていく。実験に出たからといって正しいとキメつけない観方、考え方である。
 これが正しい、間違いない、真理だというものによって安定確保を求めようとする考え方からすれば、でなければ、不安定だとする考え方としてキメつけて動かない考え方には、実に不安定で、掴まえどころがないような、頼りなさを感じるものである。例えば、適切でないかも分からないが、これが正しいという理は分かっていても、正しい測定が出来ない。正確な場合もあるが、これが正確だとキメつけ、科学的に調べた、物理的に調べたといっても、これが絶対と言い切れないものである。
(『全集七巻』「編輯計画打ち合わせー本題第一章 けんさん」より)》


▼『ヤマギシズム社会の実態』「第二章構成」(1954.11.25)
 第二章 構 成
 一 幸福研鑽会
1 幸福研鑽会とは
 幸福一色の理想社会を実現さすために、幸福研鑽会を設けます。そして、幸福は何処にあるやを見つけ出し、近隣・同業の反目をなくし、親愛・和合の社会気風を醸成し、何かしら、会の雰囲気そのものが楽しくて、寄りたくなるような機会ともします。

2 出席者は
 この研鑽会には誰でも出席できます。
 年令・性別・性格・知能・思想・人種・国籍・学歴・研究部門・職業・党派・所属団体・宗門・官公民・役務・階層・地位・貧富・好悪感・理論及び実現に対しての賛否の如何にかかわらず、助産婦も僧侶も、大臣も乞食も、みな同格で出席します。
 ただ狂人・妨害者は寄れないことと、伝染のおそれある悪疾患者等は、別の機会を造って開きます。

3 研鑽事項は
 ここでは人類幸福に関する凡ての事柄について研鑽します。人間性・生命・遺伝・繁殖・健康・人格・本能・感情・思想・欲望・学問・教育・技芸・宗教・家庭・社会・経済・物・人種・国境・法律・制度・政治・慣習・風俗・美醜・善悪・互助・協力・取与・闘争・暴力等、及びその他百般の事項について検討し、真実のあり方と、その実現について研鑽するのです。

4 感情を害しないこと
 いかなる場合にも絶対腹をたてないことと、暴力を用いないことになってありますから、何を言われても悪感情を残さないこと、それから、誰もが思ったことを、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、または誰の発言や行為をも忌憚なく批判します。
政治批判も、人格批難(同席者の)も、差支えなく、そんなことで弾圧したり、腹を立てたらおしまいです。

5 命令者はいない
 特別人間や、神や、仏は仲間入りしていませんから、ある人を盲信し、屈従迎合しないことで、偉い人のお説教を聞くのではなくて、お互いの持っているものを出し合って、自分達で共によく検討し、一致点を見出し、実行に移すのです。提案はしますが、個人の意志により命令する者はいないのです。人間の知能を持ち寄れば、神や、仏とやら云う仮名象徴態や、絶対者がなくとも、人生を真の幸福にすることが出来ます。
 人間のうちにも、特に秀でた知能を持っている人もありましょうが、それもその人個人が築いたものでなく、幾代かの人間の因子の離合と、環境を与えた人達の集積の露面に過ぎず、その人のみが偉いのでなく、人類の知能の高さを示すものです。
 過去の人達が積み上げて出来たものを、自己の代で停滞・消滅ささずに、次代の繁栄・前進への素材として、よりよきものに練り固め、周囲及び後代へ引き継ぐことこそ生きがいというべきです。自分一人で大きくなったように、威張ったり、自慢したり、人に命令したりせず、現在以後の人々のために、最大効果的に役立たすことを研鑽するのです。これが自分を大きく生かすことにもなります。

6 たやすく寄り合える場所で
 人はみなそれぞれに忙しく営んでいますから、しかも直に目に見えない、或いは直接腹の太らない事には寄り難いものです。利害が直接影響する事は、小さい事でも、重大関心を以て目を光らせて臨みますが、間接的な事や、無形的な事となると、何倍か大きな酬いのある事でも、案外他人事のように自分に不親切で、誰かがやってくれるくらいに冷淡で、欲の無いこと、浅いこと、そして、つまらん、忙しいと、一日を惜しみます。
 しかし、これが今の社会普通人の考えであってみれば、今のところ仕方ないから、せめていつでも容易に寄り合えるよう、なるべく近い所で、小地区研鑽会を開きます。小地区で解決できないことや、他に広く関係のあることは、大地区研鑽会へ持ち出します。

7 日と時間は
 日や時間を定めておくと、いちいち日取りの打合せをしたり、通知を出す必要もなく、年中の日程が組みやすく、会の日を忘れなくなり、また他の研鑽会にも出席したり、他地区からの参加にも都合がよく、後にたびたび変更しないよう、支障のない日を選定します。
 幸福研鑽会は、立ち話や、中腰では、店を拡げたばかりで、結論が出難いようですから、心を落ち着け、寛いで、相当時間を長く取れる時刻が好都合です。もし時間中に結論が出ない場合は、次回まで持ち越すことで、軽率な解決は、かえって紛糾の原因になることがあります。
 主婦や、学生や、時間勤務者の出やすい時刻となると、なかなか一致し難くなりますから、あらかじめ月によって、午前・午後・夜等に時間を摩らして取り決め、出席する人も、その日程時間に合うように、日常のプランを組みます。
 私は四五農法と呼んでいますが、商店も、主婦も、早く一週に四十五時間勤労で、世界水準の生活が出来るよう、能率を高める研鑽をして、時間計画を樹て、月一回くらいは研鑽会にも出席することです。出不精の人でも、出かけると出やすくなり、出るから進歩改善されて、時間的余裕が出来て、なお出やすくなるものです。
 四五勤労とは、世界標準労働時間を意味するもので、必ずしも四十五時間が理想でなく、これは今日の標準であっても、将来はますます短縮され、一週十時間か五時間くらいの労働で済まされるようになりましょうし、またそうするための研鑽にも力めます。「働くことは人の本分」とか「労働は神聖なり」と教えていますが、牛馬や機械で出来ることを、その何分の一か何百分の一の能力で、それらに代用して人間が働いたり、頭をちょっと一回だけ働かせておけば、いつまでもどんな省力でも出来ますのに、研究もせず、そういう仕事で額に汗して働いたからとて、神聖でも、尊いことでもないでしょう。なるべく働かないための研鑽をしましょう。