広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎福井著『「金要らぬ村」を出る…』の書評①

〇新刊の書評に入る前に、私が思っている、福井氏の来し方に触れてみる。

 人はある時、心が躍る出来事に出会う。その「虹」のようなものに劇的な感慨を覚えて、その人の生き方につきまとうことがある。

 あるいは、ある出来事と遭遇することで、その後の生き方を左右された人も少なからずいるだろう。

 1941年生誕の福井氏にとって、初期のヤマギシ会の北海道試験場との出合いはそのようなものだったのではないだろうか。

 彼は大学卒業後、北海道東部で高校教員をして、1960年代の学生運動の挫折を引きずりながらも、理想の教師たらんと日夜励んでいた。その時分に出会ったのが北海道試験場である。

 そこは理念の頭でっかちの学生運動とは違って、日々の暮らしに根ざした、一個人や一家族を越えた無所有の一体生活(「財布ひとつ」の生活)体として、ひとりも不幸のない「金の要らない楽しい村」の理想を実践していた。何よりもそこに暮らす人たちに魅力を覚えた。

 1976年35歳の時、彼は妻と子供二人を伴って、そこに丸ごと参画した。

 そこは、後の名称もヤマギシズム実顕地となり、参画者や共鳴する会員も増え続け、組織の拡大が進むにつれ、初期の頃に持っていた理想が変質していき、特に大きな期待をもって始まった学園運動が数々の人権問題を起こすなど、2000年頃、疑問を感じた人による大量の離脱者を生み、60歳を迎えようとしていた彼もその一人だった。


 氏の場合は、この度の新刊『「金要らぬ村」を出る…』に描かれているように、世間での厳しい生活に追われつつ、20年以上暮らしたヤマギシのことを、「あれは何だったのか」と思う日々だった。

 一方、「何が本当に必要なことなのか」「自分とは何者か」「俺は何をしたいのか」と、先人たちの知見を参照しつつ、数々の論考を自身のブログに発表していた。
 また、自分なりの「ヤマギシ総括」の意味合いもあったのだろう、詩や小説の試作に書き現すことをしていた。

 この辺りのことを、福井氏の処女詩集「今浦島抄」の一部を見ていく。この詩集は2011年に書いたもので、ヤマギシの「村」を離れての感情、思いが切々と描かれている。


(詞 集 <今浦島 抄> 番 一荷より)
・私の思想<自分の住む所には自分の手で表札をかけるに限る 精神の在り場所も、ハタから表札をかけられてはならない。石垣リん。それでよい>(石垣りん)

ところが住むところには同居もあれば貸室もあって
他人の表札が下がっている場合がある
貧乏でやむを得ずそうしていることもあるが
身を隠すために好んでそうしている場合もある
私は
その主人に相共鳴したばかりでなく
さらに一体化せんことをねがい
自分の表札を外した
その方が大きな目的だったし
また安楽だったのだ
それは精神にとって、つまり“私の思想”にとって危機なのだといつしか思うようになった<大事なのは他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ>(村上春樹)

“私の思想”とは
どうもその小さなことに関わりがあるようだ
でもこれまで<他人の頭で考えられた>ことが
いっぱい詰まっていて
それ以外のことはぼんやりしている
そのなにかが蘇るために
貧しく不安多くともあえて別居し
いまだなにもない小さな部屋の表札に
番正寛と記す

・自分を知りたい
社会を変えようとするなら自分が変わること
しかし今は自分を変えようとは全然思わない
その前にもっと自分を知りたいのだ
自分を知るとは
たぶん自分の変わらないところを
明らかにすること
これまであまりにも当座の必要に合わせて
色々なことをやりこなしてきた
「何でもやれる人」を目指して
結局自分が何をやりたいのか
自分にとって何がかけがえのない仕事なのか
さっぱり分らなくなっている
精神といい自我という
それらはなにゆえに
かくも執拗に問いかけてくるのか?
お前はなにもので
お前の本当にやりたいことはなにか、と
たとえ生活や生命が十二分に満たされても
満たされずうごめくそれら! 
             ☆

 組織を離脱した以後、自分で考え、自分で目標を定め、自分で行動を選択する「自律的」な暮らしの中で、厳しい生活にも関わらず、喪失感とともにある種の解放感を味わっていたと思う。

 ところが、体罰などの学園の問題が顕在化するにつれ、学園運動につながる幼年部拡大を担当していたこともあり、自責感の強い自己批判の重い日々に陥っていく。

 その後の時間の経過もあり、徐々に重いくびきが溶解し始め、世間での暮らしや仲間との出合い、さらに理論書や文学作品などにより、ささやかながら「自己肯定感」を覚えるようになっていた。
 同時に自己のこともヤマギシのことも、負い目のつきまとったところから客観的に見られるようになる。


 そして、70代半ば過ぎの2018年になって、初めての刊行作品『追わずとも牛は往く』の自費出版に結実した。
 本書は、著者の40年ほど前の1976年から2年程の「北海道試験場」(「北試」―ヤマギシ会)の体験をふまえ、書き進められた記録文学である。
 エピローグの『ヤマギシズム実顕地』での著者の体験の20年余にわたる総括部分は、ある程度「実顕地」を知る人にとっては、簡潔にまとめてあるように思う。
 本書の特質として、ヤマギシの生活体に関するおそらく初めての文学作品となるだろう。


 新刊『「金要らぬ村」を出る…』の本作は、20年以上献身的に打ち込んできた実顕地(※ヤマギシの「村」)に疑問を感じて離脱した後の、何事もお金=賃労働を考えざるを得ない暮らしの実際を描くこととともに、家族とのギクシャクした関わり合いにおける感情の変化を巧みな文章でつづり、以前の「村」での仲間たち(といってもあまり接点のなかった)との心温まる交流に、離脱前の「村」には感じられなかった親身さを覚え、彼の活力を孵化させ次なる明日に向けるようになっていった。
 また、20年以上暮らしたヤマギシズム社会(「金要らぬ村」)とは何だったのかと問うことになる。
 とても読み応えのある作品に仕上げられている。


 もう一つの短編「息子の時間」は、著者が理想を覚えてヤマギシの「村」に一家を連れて参画した時の小さな息子が高校生になったとき、「村」になじまないままそこを出ることになった。ところが世間で、ほとんど父親とは関係なく、息子は生き生きとはつらつと育っていた。
 著者は「村」離脱後になって初めて「親」として息子と「純粋」に向かい合うことになる。そのことを実直に赤裸々に明かしながら、臨場感のある描写は心に迫ってくる。
(つづく)