〇5年前に始めたブログに、ヤマギシ関連のことを述べると、そういうお前は何なんだと言われることもある。
これまでも断片的に触れているが、簡単に私の来し方、主にヤマギシとの関わりを振り返る。といっても記録を残していなくて、曖昧な記憶を頼りにしている。
1947年、福島須賀川で生まれた。通俗的な言い方になるが、小さい頃ことばがまともに喋れなかったことを除いて、ふつうの家庭環境でふつうに育った。両親や叔母には、よく見守っていてくれたという思いがある。
18歳頃、社会的な問題に関心を寄せ、しばらく三里塚の援農支援に加わり、その後何かを求めて、沖縄各地に放浪していた。
その後、釜ヶ崎で暮らしていた1975年27歳の時、特別講習研鑽会(特講)に参加、続いて北海道試験場(北試)の研鑽学校に参加、すぐに参画した。その頃の北試に魅力を覚えたのが大きな理由の一つである。
北試では、主に分場の姉別農場で酪農に従事していた。
その頃、ヤマギシは有精卵をはじめ、ミカン、豚肉などの供給活動が始まり、北試では肉牛部門をたちあげ、牛肉を供給に乗せようとの機運が高まり、私に声がかかった。
関東方面で屠場、肉卸などを手掛けていた肉屋に見習いを1年程して、ヤマギシの牛精肉部門を立ちあげたときは、30歳になっていた。
その後20年程、牛精肉部門を中心になって担ってきた。
実顕地の経営にとってかなり大きな部門となり、さまざまな役割についたが、そこにもっともエネルギーを注いだ。実際に牛の解体作業に携わったのは、ゆうに1万頭を越えているだろう。
1987年から10年程、豊里実顕地の人事として活動した。実顕地全体の「本庁」の人事にはなっていない。
そこで、その頃実顕地全体の中で大きな影響を及ぼしているS氏や同じく学園に大きな影響を及ぼしているN女史などと、よく一緒になった。
人事の中では主に、新参画者の受け入れ、「予備寮」の世話係、その頃増えていた青年の受け入れ、「青年研修所」の世話係をしていた。
その後、「振出寮」の世話係、学園でやれなくなったいわゆる実習生の世話を、妻としていた。
また、「村」を辞めたくなった子どもの受け入れ先、就職先を一緒に尋ねたりしていた。
私の子ども3人とも、「学園でやる資格はありません」「ここではやりたくない」とのことで早くから「村」を離れているが、私の中では「村」でやれたらいいと思う反面、いろいろな人と出会い、さまざまな体験をすることが大事と思っていて、「学園でやる資格はありません」といわれた子に、それなら外でやろうと、知り合いのところに連れて行った。
その後、機会を作っては、受け入れ先の挨拶も兼ねて、子どもと会っていた。
1997年、振出寮から戻った真夜中に倒れて、そのまま2か月程入院した。主たる病因は肺気腫。
それ以来、豊里人事を外れ、やがて牛精肉部門を後任に引き継ぎ、研鑽学校だけにして、宿舎も研鑽学校のある「村」に移る。
2001年に参画を取り消し、離脱した。
なお、牛精肉については全面的に、予備寮、振出寮については、アドバイスは受けたが、最終的にはそのとき精一杯自分なりに考え、中心になって行っていたことで、人がどのように感じようと一切反論しようと思わない。
離脱後は、新聞の配達業務をしながら、同じころ離脱した仲間といろいろ模索していた。
割合すぐに、介護支援の仕事につき、その職場には男の介護士は私一人で、困難な事例にあたる人などはよく回ってきて面白かった。
しばらくして、重度心身障害者支援、養護学校などに関わるようになり、その後、二人暮らしが難しくなった90歳過ぎの妻の義父母と暮らすようになった。
一方、2003年から『山岸巳代蔵全集』の刊行・編集委員として8年程関わったことにより、ヤマギシズム運動、実顕地の経緯について、「あれは何だったのか」「その時の自分はどうだったのだろう」と自分の課題として考えていた。
また、元の親しい仲間と会うと、その頃の話になることが多かったが、そのよう事を話題にする人も少なくなっている。
義父母が亡くなって、家の整理をして、当地に越してきたのは5年前。
それ以来体が思わしくないこともあり、収入のある仕事についていない。
また、ブログ「わえいうえを通信」は、その年に入って始めていた。
最初は何もかも一緒に記載していたが、3年前から、日々の暮らしで考えたことと、ヤマギシ関連を分けて記録している。むろん厳密に分けることはできないが。
今の私にとって、日々彦「ひこばえの記」は、日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだしてゆくことの妙味を大事にしているブログと思っている。
ここにきて、二人目の孫の誕生、二歳近くの孫の成長、親しい人の困難な状況や死が続いていること、私の難病の症状が進み妻の支えがないと暮らしていけないことなど、生きて死んでいくこと、夫婦とは、家族とは、それを支える社会とはなど、とりとめもなく思っている。
「広場・ヤマギシズム」は「ヤマギシ」に関心のある方、研究者に参考になればいいという位置づけで、責任というか、実顕地が変質していた渦中に、中心になって進めていたものとして、『山岸巳代蔵全集』の刊行・編集委員として関わったことなどにより、記録に残しておく自分の役割はあるのではと思い、随時書いている。
☆
わたしの好きな哲学者に鶴見俊輔がいる。このことは鶴見氏だったらどのように見るかなと、度々ブログに取り上げている。その中から、次の記録をあげる。
《マルクス主義というのは、You are wrong でしょ。あくまでも自分たちが正しいと思っているから、まちがいがエネルギーになるということがない。
しかし、思想の力というのはそうではなくて、これはまちがっていたと思って、膝をつく。そこから始まるんだ。まちがいの前で素直に膝をつく。それが自分のなかの生命となって、エネルギーになる。
(略)
「私はI am wrong だから、もしそれらから「おまえが悪い」といわれても抵抗しない。この対立においては、結局決着はつかないんですよ。私がYou are wrongの立場に移行することはないし、You are wrongは私の説得には成功しないから。」
(鶴見俊輔『言い残しておくこと』(作品社、2009年の第二部「『まちがい主義』のベ平連」))
鶴見氏の「I am wrong」の心意気にはとても及ばないが、心に置いておきたいと思っている。