広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎(付)「息子の時間」を読んで。(福井著『「金要らぬ村」を出る…』より)

※本書は「手記」のようだと考えるし、著者は誠実に書いていると思うが、誠実であろうとなかろうと、実際にあったこととはずれてくる。少なからずフィクショナルな要素も入ってくるかもしれない。
 ここでは、あくまで作品に描かれたことに即して見ていこうと思っている。


 本文は《自分の息子が自分の思い描いていた像とはまったく似ても似つかない存在に育っている、と気づいたのはいつの頃だろうか? 》との書き出しから始まる。

 これは息子との交流の物語であるが、語り手のとらえる理想社会の変質にも抱いた感情であり、物語の前半では、息子との行き違いと同時に、理想社会のこと、その変質がきめ細かく語られる。

 本作は、語り手「おれ」が理想を覚えてG会に一家を連れて参画した時の小さな息子が高校生になったとき、G学苑になじまないまま、Gの「村」を出ることになった。

 おれは、G学苑幼児部の創設の方にも奔走していて、息子が「村」を出ることに危惧をいだいて、長い説得をするが、息子は「おれはここでやっていけん」とぽつりと云う。それでまたおれの長い語りがはじまるのだった。つまり平行線が数日続いた。息子は、親の描いた理念の世界とコトバでは届かない、自分の未だコトバにならない世界を呼吸し始めているようだったとおれは思う。結局息子は「村」を出ることになった。

 ところが、一七歳の息子と会ったとき、仲間や寄る辺となる、ある家庭などにより快活に育っているのを見て、対等に向き合い、息子の存在感を覚えるようになり、自分の子供時代から青年期への成長を振り返ることで何かしら同質のものが流れていることを感じるようになる。

 一方G会は、おれがかなり長い間、かってない理想社会への大壮挙と思っていて、そこに自由で平等な社会の雛型を見ていたが、組織が巨大になる同時並行に、そこも序列化とトップダウンの管理社会を形成して大きく変質していった。
 指導部の選任・解任も形式化し、衆知を集めるとされた研鑽会も整理・専門化され、全体で運動のビジョン、路線について論議すべき場がもはやどこにもなかった。

 そしてそこを離脱することになる。

《 おれには「村」の内情が、蓄財へと結果する無限運動に従属しながら、そのことに無自覚な「理想に燃える」働きアリの巣に見えてきた。公開された情報のもと、理想への沸騰する想像力を村人挙って集中する機会があれば、たぶんちがって見えたことだろう。しかしそれを喚起したかつての理念は、もっともらしい宗教教義か、こじつけに、威容を誇る大食堂や生活施設はただの金に任せたガラクタに変わった。
 なんのせいか、はたまた誰のせいか不明だが、見た目の壮大さに反比例してなにかが停滞し鬱屈していた。おれは呼吸困難を覚え、ともかく一息つきたかった。当時企画された都市居住の村外活動はおれには格好のはけ口となり、それに乗って「村」を離れた。そこで元村人たちとの遠慮のない交流に触れ、それによって得た少しばかり多様な視点と置かれた距離によって、かつての疑惑は確信に近いものに変わった。その後、しばらくして参画も取り消した。》

 
「村」離脱後になって、「親」として息子と、より「純粋」に向かい合うことになったと思う。そのことを実直に赤裸々に明かしながら、臨場感のある描写は心に迫ってくる。


 ここでは後半の「村」離脱後の印象的な場面を見ていく。

〇息子の「街の親」
《自分らの生活に余裕がないのに、妻は息子に些少の金品を贈り出した。息子がフリーターの暮らしを続けていたということもある。その最初が布団だった。電話での息子との話から、「村」を出たときに持っていった布団をぼろぼろのまま使っているらしいと推測したのだ。これまでなにもしてやれなかった、という自責の感情が彼女から溢れ出すようだった。あったかいすよ……、息子は素直に感謝の弁を伝えてきた。》

 それからしばらくして息子と「村」で出会うことになる。息子たちが東京で世話になっていた岩城さん一家がG会に参画していて、その岩城さんが肝臓ガンで病没した。

 岩城さんはG会のいわゆるシンパで「村」と行き来があり、「村」の学育にいて街に出ていた仲間がよく集まっていて、その子どもらの世話をなにかと心がけていた。

《おれたちは大阪から、息子は東京からM県の「村」の葬儀に参列した。もはや短髪の普通の勤め人の姿だった。
「いや、もうロックどころでなくなってきたすよ」と息子は苦笑した。ご多分に漏れず生活に追われ出しているようだ。息子はお通夜で缶ビールを祭壇に捧げた。村人は酒タバコをやっていなかったから、それは目立った。岩城さんと一緒にビールを酌み交わした街での思い出があったからだろう。翌日息子は一緒に世話になった若者とともに棺を運んだ。その印象はおれには鮮烈だった。》

 この場面はとりわけ印象深い。
 疑問を覚えて離脱したおれたち夫妻、学苑に馴染まなく高校生のときに「村」から出た息子、岩城さんに世話になった元学苑生の若者たち、その人らを温かく包み込む「村」の気風がふつふつと伝わってくるような場面だと思う。

 お通夜で、酒タバコをやっていなかった村人の中での祭壇に捧げた缶ビール。元学苑生の若者たちによって岩城さんの遺体が入った棺が運ばれた場面は読んでいても映像がまざまざと浮かんでくる。


〇離脱親元にやってきた息子
《(二十九歳の》彼は意外なほど冗舌な一面も見せたが、反面なにをするでもなく沈黙したまま狭い台所の椅子に腰掛けたまま過ごした。瞑想しているか、ぼんやりしているか分からないたたずまいで。
――おまえはなにをするでもなくどこへ出かけるわけでなく、ようそんなにじっとしてられるなあ。
――そう、そうなんすよ。こうしてるのが好きなんすよ。いろいろ聞こえてくるというか、聞いてるというか……
 不意に息子の過去の姿が蘇ってきた。あのバス停で、なにをするわけでもなくぼんやりと地べたを眺めていた息子が。》

 息子中学生の時の、バス停での場面でのおれの思いは次のようなことだった。
《おれは、なにをするわけでもなくここに座っていた息子の時間を思った。それはぼんやりととりとめのない時間以外に考えられなかった。えらいボーとしたやっちゃなあという印象だった。》

《あの時には気づかなかったが、息子のそのいわば覇気のなさは、環境にがんじがらめにされた諦めによるだけではなかったのではないか。
 おれは街に出て仕事を探し始めた時、面接の結果を待ちながらまったくなにをすることもなく日を送らねばならなかったことがあった。------なにをするか考えるのにも疲れ本やテレビにも飽き、ぼんやりしてまったく時間の流れに身を任せていた。いわば自己を放擲していた。

 空に漂う翩翻たる雲を眺め、近くにあった沼の風に揺れる波形を眺め、彼方の高速道に渋滞する車の遅々とした動きを眺めていた。いつしか夕日が沈み、辺りが暗くなっているの気づく。こういう時が経つのを意識しなかった時間、そのことでかえって、ああ「時間」とはこういうものかと感じる。すなわち無為の充実とでもいうものを、その時になって初めて知ったような気がした。
 その瞬間瞬間に、おれの感官の奥深くに感応するなにかで時が止まり消える。そしてそのなにかとともに流れ漂いどこかに運ばれていく感触。それは微かで取り出すことも滅多にできないが、その感覚を手がかりに外界を把握し、自分なりの世界認識が広がっていきそうな気さえしてきたのだ。》

 このような無為の充実を味わうことにより、次のような述懐をする。

《そうか、おれは若い頃あまりにも学ぶこと、すなわち外から知識や情報を吸収することに走ってきたのではないか。振り返ってみれば、こういう「ぼんやり」はおれの中高校生時代には知らなかったものだった。たぶんおれには受験勉強があり、暇があったら英単語を覚えるという脅迫観念がおれの生活を支配した。
 その後の学生運動も教師生活も、暇があればなにかをやっていなければ気が済まない半生を過ごした。「村」での生活も基本的には意識生活の連続、一日二四時間全てに理念、イズムを顕わす生活だった。G会の「進展合適」の理念は本来自然適合性を指していたのだろうが、「成るのではなく為す」「合うのでなく合わせる」という方にウエイトがかかっていた。》

 本文から私が思うのは、理想社会づくりに燃えていた頃の息子への見え方に対比して、そのようなことがなくなった離脱後のおれの息子への見え方が、極端に違っていること。
 
 また、高齢になっての離脱後の厳しい状況であることゆえか、G会にとどまらず現社会の「する、なす、進めること」に力点を置く傾向を問いかけるものになっている。

 それにしても息子の「ぼんやり」は、どのような「時間」なんだろう。
 また、本書全体にも言えるが、この辺の描写の確かさ巧みさを思う。


〇息子の境地
 本作は親子との短い会話のやりとり、それについての親の感慨が語られ、随時心に留まったエピソードが入り、「息子の時間」「ぼんやり」「悠揚な言動」などが語られることで、前半部分の重苦しさが、後半はのびやかになってくるような気がする。

《そういえば二、三日前にも、あれっと怪訝に思った息子の物言いがあった。妻はなにかのきっかけで、おれの薄くなった髪や顔の皺やシミをからかった。
――なんか汚くなって、もっと昔はいい男だったのに。契約違反よねえ。
――そんな云い方するもんやないすよ。人生の風雪に刻まれた勲章なんすよ。
 妻もちょっとあっけにとられて、へーおまえ面白いこと云うねえ、というしかなかった。しかしおれは、父親としての自分を許し認めてもらったようでうれしかった。同時にその物分かりのよさ、さらにはそのGイズム的な発想(あるいはその歪曲)が少し気になった。》

《もっとも息子は、少しばかりおれに同情し、人間老けてくるとそうなるという世間知を婉曲に持ち出しただけかもしれない。息子も「村」を出て十年以上たっているから、音楽のメッセージその他によって自ら思想形成してきた部分も大きいだろう。

――おまえにとってもう「村」は過去のものだと思ってきたが、そこで身に付いたものもかなりあるんか。
――あんまり意識したことないが、なんかあるやろ。なんせポン友のほとんどは昔の学育もん、すよ。なんか切れない。今のシャバはおれらに生き辛いところがある。だからついつい寄るんすよ。おれは結婚しとらんが、子どものいるヤツは子どもを育てるならやっぱあんな環境がいいというの。

――へー、昔は「村」の方が生き辛いと思って外に飛び出したんやろ。
――そりゃあ出てみて分かることもある(と息子は言う)。おれもずっと住むならかなわんが、一時的ならあんなところもあっていいと思う。親父たちがそこへ行こうとした気持ちは分からんでもない。》

「学育もん」というのは、「村」での学育は、小学校就学一年前から親から離れて合宿生活をやる寄宿生活体というものだった。そこで、育ち合ってきた仲間たちのこと。

《息子は別にG会の理念を身に付けているというわけではない。ただ親から離れた子ども集団の寄宿生活で身に付いたなにかがあるようだ。そこで教育され仕込まれたものではなく、いわばワルガキ同士寄った解放感と連帯感のなかで培われてきたなにか。それが彼のいう「学育もん」という呼称にこめられた共有感覚なのだ。世間での波風多い体験がそれを郷愁のように析出したのだろう。おれは自分の学生時代の、寮生活のことを思い出していた。個室などはない五人部屋だった。おれが対人赤面症と吃音を克服したのは学生運動だけでなく、あの寮での仲間たちとの親密な暮らしがあったからだ。》


 最期は、岩城さんの葬儀で、「村」で借りた式服を着ていいなと思ったこともあるのか、おれたち夫婦と息子とで式服を買いに出かけた場面で物語は終わる。

《おれも試着をして鏡の前に立ち、外に出ると妻は上から下へとじろじろと眺めた。
「馬子にも衣装、カンリインさんにも衣装、まっいいか」
 息子は云った。「オヤジ、サマになるじゃん」
 その声はなんの屈託もなかった。そう、サマになるか。おれはなんとなく安堵し嬉しくなった。サマにならない人生のささやかな慰めだった。それでも息子は少しばかり照れていた。もちろんおれも相当照れていた。ヘンな親子だと思った。》


 本作は新刊『「金要らぬ村」を出る…』に添えて、掲載された。
 よく取り上げられる諺にベンジャミン・フランクリンの『時は金なり(Time is money)』があり、現社会での時間論では、かなり社会への影響があるし、一人ひとりの意識の上でも根強いのではないでしょうか。

 だが「時間」は、過ごし方により豊かにも貧しくもなる。「時間」の持つ豊饒さや奥深さを考えると、本来的にお金には換算できようのないものと考えている。
  
 本作の一つの大きな特徴は、息子のゆったりした「時間」が描かれ、そこからかもしだされる悠揚とした言動により、期せずして、現社会で根強い「時は金なり」の社会観をはじめ、現社会の「より早く、便利、効率的」に価値を置く傾向を問いかけるものになっているように思う。