〇本書を通して、私の関心は大きく二つある。
(1)ヤマギシズム社会の『金の要らない楽しい村』、実際の「村」のなかでは、お金のやり取りが介在しない暮らしと、「村」離脱後の何事もお金=賃労働を考えざるを得ない暮らしとの違い。
(2)ヤマギシの「村」にいる時と離脱以後の世間での暮らしで、家族、親子、人と人の関係などが、どのように変化したのか。
むろん、一人ひとり「村」での生活でも、離脱以後の世間での暮らしでも、大きな違いはあるだろうが、私が知っている範囲のことを通して見ていく。
私の場合もっとも大きな変化は、自分の足で立ち自分の頭で考える「自律性」のある暮らしになったこと。それに付随してある種の解放感を味わった。
「村」では、自分なりに考えてやっていたつもりだが、たえず「ここでは」どんなふうに考えるかなと思いをはせる、「他律性」のある暮らしであった。
「村」の規模が大きくなるにつれて、他律的な色合いが濃くなっていった。
個人はもちろん、小さな家族であろうと共同体や大きな集団だろうと、人と人の関係は「自律性」のある個人が主体的に他との調和をする「自立性」のある人になって同格で関ることが基本となる。家族から大集団まで貫く大切なことだと考える。
特殊な共同体を考えるとき、「一つの大家族」というような比喩で語られる。
だが、規模が大きくなってからのヤマギシの「村」の中では、家族のつながりはとても薄く、各種手続きをはじめ、衣食住のことを専問分野の人の「任し合い」で、ほとんどのことを、個々人として「村」の一員として向き合う暮らしである。
一方、世間の暮らしにおいて、特に厳しい生活状況の中では、多くのことを夫婦で向き合うことになる。あまり厳しい状況とは思わなかった、私たちもそうであった。
「村」では「ここでは・われわれは」の中での「わたし」であり、世間の暮らしでは「わたし」と「わたしたち夫婦・家族」が密接につながっている。
☆
〇本作『「金要らぬ村」を出る…』から主に夫婦の触れ合いを通してみていく。
※本書は「手記」のようだと考えるし、著者は潔く素直に書いていると思うが、著者が誠実に書いていようとそうでなかろうと、実際にあったこととはずれてくる。無意識にフィクショナルな要素も出てくる場合もある。ここではまず、あくまで作品に描かれたことに即して見ていこうと思っている。
『「金要らぬ村」を出る…』は、20年献身的に打ち込んできたJ会(※ヤマギシの「村」)に疑問を感じて離脱した後の、何事もお金=稼ぎを考えざるを得ない暮らしの実際を描くこととともに、家族との関わり合いや仲間たち(といってもあまり接点のなかった)との心温まる交流を通して、次なる明日に向けるようになっていった。という作品ともいえる。
本作は主人公の置かれた簡単な状況の導入から始まり、二「アリとキリギリス」で夫婦の触れ合いが描かれる。
《「もう気が付いてもいいでしょ。いつまで好き勝手にキリギリスやってるの。わたしはもういやだよ。老後に備えて、いまからなら間に合わないかもしれないけど、まだ働ける間はアリさんにならないと」
こうまで言われてしまえば、おれは生返事を決め込むわけにはいかない。手を止め靖代の方に向き直った。
「おまえはそういうが、人間はただのアリのまま死にたくないというへんな生き物でもあるんだよ。自分のやりたいことをやって死ねるなら本望だ。あの童話に間違いがあるとしたら、あまりにもキリギリスを哀れっぽく描きすぎることだ。ほらあのタイタニックの楽団員たちは、船が沈没する寸前まで楽器を放そうとしなかったじゃないか」》
という大人げない理屈を並べる夫(主人公)と、実生活に根付いた奥さん(靖代)のやりとりから始まって、次の展開になる。
《「よく言うよ! いちばん寒がりでいちばん大食いのあんたが。おまけに昼日中から呑んでるじゃない。男なら女房子どもに心配かけないようにしてよ。それができないあんたのために、なんで私がご飯つくらにゃあかんの。人間やりたいことだけやってたら生きていけないんだよ」
「やりたくないことはやらんでいいよ。飯ぐらいなんとかするわ……」
「ほんとう? あんたそんなこといっていいの」》
実生活の厳しさを感じながらも、自分の夢を追い続ける主人公と、実体に即して的確に生活者として困難を乗り越えてゆこうとする妻・靖代の葛藤が続く。
三「前史」で主人公はこのように語る。
《私のなかに意味不明の余白が広がり、総括・反省への飢渇が前進への欲求にブレーキをかけ始めた。この二〇年はいったいなんだったのか? 共同体Jへの自分の献身はなんだったのだろう、それにどんな意味があったのか?
これまではJで救われたと思ってきたが、考えようによってはそこで人生を棒に振ったといえないこともない。なぜJ会はこんなことになってしまったのか? 勧誘してきた同調者、追随参画者への、さらに係暴力が問題となった子どもらへの自責感、自己批判も含め、J会の総括、すなわちその<裏切られた革命>について様々な問題を考えざるをえなくなった。》
また、四「村から町へ」で次のことが述べられている。
《私はいったんは自ら放棄していた読み、かつ書くことを必死に始めようとした。本は高価で買えなかったが、幸い街には図書館というものがあった。それは実は整理総括の欲求を越え、なにかを必死に取り戻そうとしたともいえる。これまではタブーとして蓋をして失われ、忘れてきたこと、やりたかったことが渦巻いていた。》
まだこの頃は、生活の厳しさ以上に、上記の思いでいっぱいだったのだろう。
この物語は、主人公の「私」の語りで展開する。
妻とのギクシャクした関わり合いにおける感情の変化を赤裸々に明かしながら、臨場感のある描写が続くが、妻・靖代の存在が物語の深みを添えている。
《私がムラを出て四、五か月経った頃、ムラを離れた仲間たちと連絡が取れ始め、有志による〈淀川グループ〉と名づけ、それぞれの暮らしや老後などを忌憚なく話すようになり、私はこの楽しさ懐かしさはなんだろうと訝んだ。そして、それぞれに口座番号を知らせ合うようになり、時々互いの口座に正体不明の金が振り込まれた。
それは娘がムラを出て転がり込んできたばかりの後で、その送金に私は感動したが、靖代は「なんかママゴトじゃないの」と笑った。》
この娘の同居、その屈託のない存在は、この一家にある種の明るさをもたらした。
このグループとの老後の暮らしを語るなかに、「しかし靖代のなかにはなにか堅固なものがあると思う。もう三十年以上も一緒に暮らしながら、私にもよく分っていない。」との書き出しのJ会離脱前のことが語られる。
《私は共同体にいる間何度か、靖代の深層にあるその堅固な常識的エゴイズムを崩そうとした。やんわり批判したつもりだが、彼女はとことん責められたと感じたのだろう。それは私への靖代の根元的な不信感を引き起こし、いまに至る後遺症になっている。》
ここでは、靖代のことをよく分かっていないのに、根元的な不信感を引き起こすようなことを何度もする主人公の傲慢さを感じる。
本作では主人公が靖代をどのように見ているのかと思いながら読んで、どうも一面しか捉えていないように感じた。
私は、厳しい暮らしの中でしたたかさに生きている靖代の存在により、一家を生活面でも精神面でも逞しく支えているとみている。
懇請していた「村」からの援助金への話に絶望した主人公と靖代の会話がある。
《「結局はもっと稼げということやろ。なんとかするよ」
「そんな言い方をされると私一人が悪いみたいね。私は必死に働いてるのよ。あんたのように余裕なんかないよ」
私は黙っているしかない。靖代のこの街に出てからの必死さというものを知らないわけではない。彼女は私と同じくハローワークに並ぶ苦労も、金銭のやりくり参段も二〇年にわたって知らなかった。彼女の街暮らしへの無知からくる不安と心労は、どちらかといえば気楽、無頓着な私の想像を超えていたにちがいない。》
そして、ニューヨークの世界貿易センタービルなどへの連続テロ攻撃事件の翌朝、靖代は次のようにいう。
「よーし、私も決めた。あんたたちが、好きなことをやるなら私も好きにしていいのね。今日から私はあんたたちのご飯を作らないから、洗濯もしないから! それからあんたは頼りになれないから、お金も別々にするからね!」
その後、それぞれが適当に自炊し、主人公のわびしい食生活が続く。
ある日、グループから「どこか二人で温泉旅行に行ってきてよ」という内容のFAXと、かなりの額の金が振り込まれていて、山陰方面への夫婦温泉旅行となった。
十三「〈新しい街〉とやさしさの磁場」で靖代から声がかかる。
《「混ぜご飯を作ったけど食べたけりゃ食べていいよ」
炊飯器から立ち上る煙は、鰻のにおいを漂わせていた。お前の料理がなくてもへいちゃらだよ、というポーズをとり続けてきた私もこれにはイチコロだった。
しばらく口ごもったあと、靖代はなにげなく訊いた。
「ハイウエーの集金の仕事って大丈夫なの。排気ガスがもうもうとしてるし、これからは吹きっさらしで立ちんぼだよ」
私が勤務している警備員の仕事は来年三月で契約切れだった。
「あんたは肺が弱いんだから無理せんとき」
鰻のにおいといっしょに吸い込んだなにかで胸が蒸せた。そして目元が熱くなった。靖代の優しさを感じたのだが、ただそれだけではないような気がした。
私は思う。ふだん疲れ固まっている私はそんな涙もろくもないし、やさしくもない。もう歳で涙腺が弱くなったせいだろう。ただなにかに触れたような気がする。やさしさの磁場というのか。それはたぶん悲しみと不幸の場に虹のように架かり、触れるとやさしさが吹き出す。やさしい人に育たなくとも、やさしい人になろうと取組まなくとも、やさしい人になれと強持てに迫らなくとも、その場に触れたらだれでも吹きだすやさしさ。やさしさがないのではない。たまたまそういう場に出会わなかっただけかもしれない。》
日々の暮らしの中で、いろいろな人との触れ合いで、「やさしさの磁場」をビンビン感じるようになっていったのだろう。この辺の巧みな表現は、本作の醍醐味である。
読み応えがあったという私の妻は、この場面に限らず本作を通して「靖代さんは偉いね、このような状況下での踏ん張りに、したたかな意識を感じる」などという。「私だったらこのような亭主(主人公)についていけるだろうか」ともいう。
十四「生活援助金受領」では「J会」から主人公一家への援助金の受領の話があり、「終章 漂泊へ」となる。
娘さんは関西空港発の旅客機でデザインの勉強をしにアメリカにいき、主人公夫妻は六九歳まで勤務できる「夫婦住み込みマンション管理員」の職が決まり、今夜の天王寺発の夜行バスで湘南に向かう。
《「あの子はたしか窓際だったよね。今どの窓にいるんだか……」と靖代は旅客機の窓の一つ一つを覗うように見るが、この位置からは人が居るなんの痕跡も見えない。
「いやあ、こっちのことなんかさっぱり気にしてなんかいないやろ」そう、私ら親なんかふり返るな、子どもはそれでいいのだ。
ほどなく飛行機はとぼとぼと頼りなげに動きだし、滑走路に入り始めた。いったんそこに入った飛行機は、先ほどとは打って変わって雄叫びを上げて飛びかかって行く巨獣のように、轟音を上げて白い路を驀進した。雲は夕陽になぶられてオレンジ色に発色し、そのなかを飛び立った飛行機は白銀色に輝いた。そしてたちまち空の彼方に消えた。
やおら私たちは展望台から降り始めた。幻想を抱くことがなければ、これからの私たちを待つのは<今浦島>の死ぬまで続く漂泊の旅だろう。たしかに《淀川》グループとは切れるが、あそこはメンバーの紐帯や組織が至上の場ではない。私には各人が自分の道を見出す過渡の場であってよかったと思う。後は残ったメンバーが決めることだ。
私は娘の出発を見送り、自分たちもここに新たな出発の時を刻みたいとねがった。》
ここは、主人公たちの息吹がふつふつと描かれていて、印象的な場面だ。ここでとりわけほっとするものを感じ、明日につながる「私たちの漂泊へ」の旅立となっている。
ここまで主語はほとんど「私」で、靖代の発言や、何か説明するとき「私たち夫婦・一家」という使い方もあるが数少ない。
後半に少し見受けられるようになるが、この終章にきて、「私ら」「私たちを待つのは<今浦島>の死ぬまで続く漂泊の旅だろう」「自分たち」という表現など続く。
十二「夫婦温泉旅行」あたりから、主人公中心の物語から夫婦、家族の物語になってきているように感じ、また、主人公の実生活者としての成熟をも覚えた。