広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎福井著『「金要らぬ村」を出る…』の感想文。

〇新刊福井著『「金要らぬ村」を出る…』の書評をブログに掲載した後、著者からある人の新刊感想文の連絡を受けた。
 それは心にしみるような感想と文学的な観点のある文章で、私の書評にはないものだった。

 私の書評は、素直な感想というより本書の背景となる考察から簡単な紹介というもので、この新刊感想文を読んで、再度本書に向き合うことになった。


 また、昨日読み終えた妻の読後感を聞いてみた。
 妻は前作『追わずとも牛は往く』については、それほど評価をしていなかった。
 
 新刊本の妻の感想は、総じて言葉遣いや描写力の確かさを感じ、伝わってくるものがあり、とても読み応えがあったという。

 私よりも文学作品に造詣が深いこともあり、それについてどうかと聞いてみたが、どうしても、奥さん、娘さんや文中に出てくる人に「今どうしているのかしら」など、気がいってしまいがちになり、いろいろと事情を知りすぎているゆえ、一つの作品として見るのは難しいという。
  
 もう一つの短編「息子の時間」については、16歳で「村」の学園を辞めさせられて、その後町工場で働くことになった自分の息子とダブってきて、身につまされるものがあったそうだ。
 
 私は、妻以上に事情や作品の経過を知っているので、かえって一つの作品として見るのは難しい面もあるかもしれない。
 本書の作品としての深みや面白さをまだまだ掴めていないと思っている。

 だが、人によってその作品から受ける印象はさまざまで、心にしみる箇所もいろいろだ。
 一人ひとりの持つ見方には限りがあり、他の人の感想に触れて、その作品の見え方が深まっていく面もある。

 作品は刊行したら、あとは読者が膨らませ、広がっていく。その意味でも他の人の感想から刺激を受ける醍醐味、面白さがある。
 
 私としては、同時期に限らず離脱した仲間、そこで過ごした元学園生、現実顕地のメンバーがどのように感じるのか、それ以上に、そのへんの事情を知らない読者が作品としてどのように思うのかはとても関心がある。
               ☆
 
 著者から連絡受けた、新刊感想文の観点は特に印象に残った。 
 
《旧友NI氏より、今回の新刊についての書評をいただいた。同じく旧友K氏(1作目の編集担当)を通してかつての同窓生に届いたものを再転送します。

【福井大兄の本、しばらく前に届いて読了してたんですが何か「読んだよ」と言えないまま一週間がたちました。内容が少しつらかったし、ヤマギシ退会して随分立っているのに前作もそうだが今回も時間がかかっていて精神的なくくりも大変だったろうなと、安易な感想はダメだよって感じでした。なまじ福井さんを多少知ってるからいけませんね。

 最後の飛行場見送りの場面が一番印象的です。お嬢さんも含めて、寂しさと悲しみと、少し光射す希望の揺らぎ見えるフィナーレでほっと慰められました。言葉も文体もいいですね。全編の思いがここにつめられたと思いました。

 それにしても「村」を出て「新しいまち」に向かった仲間たちの人の好さはどこから来るのだろう。小さなかたまりは出来てもコミュニティがないと社会は成り立たないしねえ。自立共助かあ。その後のみんなはどうしてるかなあなんて思わせられます。ふつうのフィクションではそうならないけどね。いいおみなの多恵子さんはどうしただろうね。福井さんが美浦の村長室に来てくれたのは三重の実顕地でリーダー的に頑張っていたときだったな。生き生きして見えましたね。様々な世界、いろいろな人生選択、今作も貴重な記録文学と思います。

「追わずとも・・」の方が物語性はあったと言えますね。ページ繰るのたのしみだったから。デモ今回も労作ありがとうです。続編もありですね。皆で待ちましょう。
 お元気でまた。 福井さんによろしく  NI生】


(福井記 NI氏への感想)
 NI氏からは前作「追わずとも牛は往く」で実に繊細で心温まる書評をいただいた。それ以来の付き合いどころか、実はずっと札幌の大学寮からのつながりがあった。当時彼はランボーの愛好者でフランス語でそれを読んで見せる根っからの詩人だった。私がヤマギシに入った頃は彼はすでに田舎村の村長に収まっていた。それでも時折「図書新聞」にも寄稿する読書人でもある。

 いうまでもないがその精神の痕跡はずばり、最後の飛行場見送りの場面に現れる。ぼくのこの書のモチーフはいうまでもなく、「金要らぬ」であり、「ただ働き」の世界であって、これまでの広報もあくまでその部分を前面に掲げた。しかし彼のこの指摘によって、私にまざまざと蘇ってきたのは、あの夕陽に燃えながら飛んでいった飛行機の場面だった。つまりこの新作は、あの映像から起爆しあの映像で終わる。そのぼくの心中を彼は詠んで見せたのである。そういう意味で彼は典型的な文学者だといっていい。

 このことはぼくがこれまで私記だ、手記だ、ノンフィクションだなんて区別だてしてきたことが宙に飛ぶ。それはそれで否定できないが、同時のその書き出しの発端となる衝迫には何かしら特別の感動や感激を伴うものがあるらしい。それが「文学」だというなら何も否定することはない。

 その観点もあるのだろうが、そのあとで彼が取り上げる作中人物の捉え方が極めて的確であることに驚く。そこには私がなんとか描こうとした作中人物が生きて動いていたのである。

「(あの)仲間たちの人の好さはどこから来るのだろう」

「その後のみんなはどうしてるかなあなんて思わせられます。ふつうのフィクションではそうならないけどね。いいおみなの多恵子さんはどうしただろうね」

 ほんとうに短い文章の一説ながら、ずばりと心に刻まれる。さよう、この頃の皆は今どうしているのだろう。ぼくはずっと長いこと会えなくなった彼らと再会したくて、この本を書いたといってもいいのである。
(ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(84)から)》

 なお、ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(85)に、新刊感想②が掲載されている。
  http://okkai335.livedoor.blog/