広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎百万羽子供研鑽会について

※ヤマギシズム社会の運営の根幹をなす研鑽会について、吉田光雄さんは指標のごとく取り上げています、私も同様に思っています。ここに「百万羽子供研鑽会」について書かれた記録を 二編の論考から抜粋しました。

〇「山岸巳代蔵の思想についての覚書➀」から
 研鑽会について、もっとも簡潔に要点を言いあらわしたものとして、『百万羽子供研鑽会』から「研鑽会」の個所を抜粋する。

・「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます。(中略)
 本当に自分も良くなろうと思えば、みんなが良くならなければ、自分が良くなることが出来ませんから、みんなが良くなることは正しく、そうでないものを間違いとしてきめていきます。そうして、みんながそうだとわかるところまで考えてきめます。その中で、そうでないと言う人や、わからないと言う人が一人でもいれば、みんなでもっと考えます。
 こういうようにして、一つ一つみんながそうだと言うところまで考え、正しいことを実行していきます。間違っていたらすぐあらためます。
 そこで、人がしないからしない、あの人に言われるからしない、あの人がするから自分もする、というのでなく、人のことを言わずに正しく考えて、自分から進んでするのです。
 こうして自分自分が考えて、正しいことを実行していくのですから、ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめいに考えます。そうして何事をするにも、自分だけのことでなく、みんなのこともよく考えて、正しいことは、先ず自分から実行して、みんなが仲良い、住みよい社会にしていきます。(『全集三巻』『百万羽子供研鑽会』p356より)」 

 この資料は、後の実顕地構想につながる「百万羽科学工業養鶏」の建設で、参画者が子どもなどを伴って一家で参画してきたころ、子どもたちも増えてきて、そこで使用されていたようだ。

 全集刊行にあたって、山岸巳代蔵の著述についてできる限りもらさず掲載するように心がけた。だが、相当山岸が関与したと思われるものも、署名がないもの不確かなものについては参考資料として掲載するようにした。

『百万羽子供研鑽会』は、山岸の関与が相当濃いものだと思われるが、その意を受けて他の人が作成したものを吟味してできあがったのかまではわからない。わたしは山岸の著述の一つとみなしていいと思っている。

 この資料を読んで、「研鑽会」のようなよく説明しようとするとギクシャクした表現になりがちな概念を平易な日常生活語で子どもにもわかる表現ができるのだなと思う。中学生ぐらいになってある程度論理的に考えられるようになれば、どのような人にも考えることができるように表現するのは、優れた思想の条件だと思う。勿論そうでないからといって、優れた思想ではないとはいえないが。

・「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。」

・「そうして、みんながそうだとわかるところまで考えてきめます。その中で、そうでないと言う人や、わからないと言う人が一人でもいれば、みんなでもっと考えます。こういうようにして、一つ一つみんながそうだと言うところまで考え、正しいことを実行していきます。間違っていたらすぐあらためます。」

・「こうして自分自分が考えて、正しいことを実行していくのですから、ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめいに考えます。そうして何事をするにも、自分だけのことでなく、みんなのこともよく考えて、正しいことは、先ず自分から実行して、みんなが仲良い、住みよい社会にしていきます。」

  資料から三か所を取り出してみたが、これは子どもに限らず、大人にとっても「研鑽会」になっていく必要条件である。むしろ観念漬けで縛られている大人よりも、子どものほうが素直に受け取れるかもしれない。あえて述べると、ヤマギシズム運動に限らず、異質な人たちと暮らしていく社会生活においても、このような心のあり方で生きていける、話し合いができるのは大きなことだなと思っている。


〇「元学園生の手記を読んで 吉田光男」から
 ヤマギシの学育という考え方は、子どもを育てる上でもっとも大事な考え方だと思う。「教え育てるのではなく、子ども自らが学び育つ」ようにする。そのためには大人は、教えない・導かない・枠にはめない・個々の能力が個性に応じて伸びるようにする、その環境を用意し、見守る。これは大変大きなテーマであり、世話をする大人の大変な能力と情熱を必要とする。子どもは一人ひとり違っている。体力や能力が違うだけでなく、何よりもその一人ひとりを形成する心の宇宙が異なっている。大人ももちろんそうであるが、子どもは自分の心の宇宙で物事を感じ取り、理解し、それを広げることも、狭めることも、歪めることもする。大人と違って、子どもの宇宙はまだ柔らかくたくさんの色に染め上げられていない。しかも、個性があって、一律ではない。

 こうした子どもたちを世話しようとすれば、大人は自分たちの考えで子どもを律することなどできることではない。導くよりも何よりも、世話係はまず子ども一人ひとりを知り理解する努力から始めなければならない。子どもに教えるのではなく、子どもに学ぶことが学育の出発点なのだと思う。しかし、これは口で言うほど簡単なことではない。また、配置で誰でもができることではないだろう。それだけの能力と情熱と感受性を備えていなければならない。学園にはそれをやりぬくだけの人材は用意されていなかった。しかし、何よりも問題なのは、学園の方向が学育理念とは懸け離れたものになっていたことである。 

 学育理念について最初に書かれた資料がある。山岸さんが書いたと言われている「百万羽子供研鑽会」という子ども向けの研鑽資料である。その資料は、次の言葉で始まっている。

「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます」

  この文書には昭和33(1958)年8月の日付があり、春日山に百万羽が発足した当初、参画者の子どもたち用に書かれたものとされている。ここに言われている「先生やおとなの人」という言葉は、「学園の係や村の大人」と言い換えることもできる。つまり、係の言うことも「そのとおりとしないで考える」ということである。学育や学園という仕組みができる前に、学育の考え方が既にはっきりと示されていたのである。

 しかし現実は、学育とは全く違った指導・育成の方向にいってしまった。おねしょをしたら裸にして立たせる、あるいは水をかける。個別研と称して狭い部屋に閉じ込め、反省文を書かせる。しかも自由に書くはずの作文に「こう書け」と言わんばかりの指示を与える。こうした指示や体罰は、「教えない、自ら学び・育つ」という学育とどこに一致するところがあるだろうか。押しつけ・強制・体罰は、本来ヤマギシズム学育とは無縁のはずである。

 「子供研鑽会」資料には、続いてこう書かれている。

「みんながそうだとわかるところまで考えて……その中でそうでないと言う人や、わからないと言う人が一人でもいれば、みんなでもっと考えます。
 こういうようにして、一つ一つみんながそうだと言うところまで考え、正しいことを実行していきます。間違っていたらすぐあらためます。
そこで、人がしないからしない、あの人に言われるからしない、あの人がするから自分もする、というのではなく、人のことを言わずに正しく考えて、自分から進んでするのです。
 こうして自分自分が考えて、正しいことを実行していくのですから、ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめい考えます」(全集三巻)

 学園問題を論ずるときに、よく学育理念そのものがおかしかったのだ、という人がいる。しかし、決してそうではないだろう。学園のあり方・運営が、学育理念と懸け離れていたことが、躓きのもとになったのだと思う。そして、こうした躓きのもとは、学園世話係や学園事務局だけにあったのではない。本庁をはじめとする当時の指導部門、そしてその方向を無条件で信じ支持して学園運動を展開してきた私たち村人一人ひとりにその大元がある。したがって、“自分は関係なき第三者”という立場を装って、学園世話係の責任だけを追及する人もいたが、そこからは問題の本質が浮かび上がることはないだろう。

 しかし、学園世話係の多くが、学園生から恨みをかっていたのは事実である。学園出身者の一部には、仲間同士で集まると、「あいつだけは許せない」と今でも言っているそうである。よほどひどい仕打ちや暴力を振るわれたのであろう。そういえば、学園崩壊が始まった2000年前後に、「あいつが実顕地に戻ってきたらボコボコにしてやる」と息巻く子どもたちがいたと聞いたことがある。その係は実顕地の外に緊急避難して、遂に村に帰ることがなかった。そしてまた、当時の多くの世話係や学園関係者は、いま村を離れている。自分が、自分たちが行ってきた学園運動が何であったのかを振り返ることなしに。これは悲しい。

 参照:◎山岸巳代蔵の思想についての覚書➀(2016-10-08)
   ◎元学園生の手記を読んで 吉田光男(2013-10-30)