〇ヤマギシズム学園の構造
K市に移住してから、食事時間は娘と一緒のときが多い。ほとんど1時間どころか2時間以上に及ぶこともある。夫婦二人だけの食事が長かったこともあり、とにかく面白い。感覚・感性がまるで違うのである。気兼ねを全く感じさせないので、込み入った話をしても、三人共々とにかく陽的である。
夫婦の会話といっても「ん、そう」「それとって」「えーと、あれあれ」、妻が嫌う「どちらでもいいよ」などが頻繁にでる。貴方の「いいよ」はどちらなのかはっきりしないと苦言を呈するが、どちらでもいいときが多い。お蔭で滑舌が少しずつよくなってきている気がして、これも嬉しい。
娘とは、そこで生まれ育ったヤマギシの村の学園、学育のこともよく話題に出る。ヤマギシの村とは、ヤマギシズム実顕地のことで、全国各地にあり、そのように表現している人も多い。学園とは幼年部からだ大学部まで実顕地が独自につくりあげた非認可の学校で、その教育方針を学育方式と呼称していた。
娘はいろいろな勉強がしたくて、そこの大学部に入り、意欲にあふれていたが、入って間もなく事情により〈村〉を離れた。
特殊な形態ではあったが、そこで育ったことは、いろいろあっただろうがプラス思考でとらえている。交流を続けている友人も多い。最近その娘が、一番大きな実顕地を訪れる機会があり、いろいろな人に声かけられ、同期の仲間や会社の同僚のお母さんなどと歓談し、とても楽しかったらしい。
だが、実顕地の寂れたあり様に愕然としたそうだ。人はいいのだが、実顕地全体に覇気、活気を全く感じなかったそうである。往時次々と建てた建造物の閑散としているのを見て、なぜ地域社会に還元していかないのか疑問に感じたといっていた。
あるとき、高校に行きたかったという話になった。子ども三人とも中卒で、〈村〉を離れてから通信教育で学ぶことになった。三人に限らず、中卒で〈村〉を離れた多くの元学園生の共通の感情だという。勉学よりもそのような高校生活を送りたかったという思いもあるそうだ。娘の場合は、非認可の学園ができて以来、一般の高校にいくような気風が失われ。また、実顕地で生まれ育ったので、そういうものだと思っていたという。娘の祖母にあたるひとは教育熱心で、とにかく高校にだけは行くようにと頻繁に手紙をよこしていたが、お母さんが、「そんなもの行かんでいいよ」ということで取り合わなかったそうだ。そのことで特に私とは話をしなかったが、同じような反応だっただろう。
その事例を通して、私には実顕地の学園の構造、そこで活動していた私の親としてのあり様が見えてきたような思いがした。
8月にK市の娘と同じマンションに暮らすことになった際、「今までお父さんと暮らしたことがないから、楽しみにしている」と聞いたとき、そんなこと考えたこともなかったので、気にかかっていた。
「一つ財布」のもとに、大家族と称する実顕地に参画してきた親ではあるが、実の子どもに対する感情は様々であったと思う。
だが、実顕地の気風が醸し出す力が、私たち親の見方にも影響を及ぼし、自分もそうだったが、おそらく多くの親も、世間の高校ではなく、せっかく私たちで作りあげた非認可の学園、高等部への入学を願っていたのではないだろうか。
ただ、実顕地の学育方式では、<どの子もわが子><任せあい>の一体理念の下、実親の役割を過小に評価しがちであり、実親もそれを当然として任せっきりになっていたきらいがある。学園世話係という立場の人がいたが、子どもの扱いに困ったとき、親もとに帰すというようなことで始末をつけていた。
留意しておきたいことは、実顕地は全国にわたって多くの職場があり、そこの経営理念のもとで、私のように主になって進めている人がいて、一つになって取り組んでいたことでは似たような面があるが、そこを構成する一人ひとりは、自分の意思で集まってきた人たちで、また、当然のように違いがあり、実顕地全体の気風は影響していても、各地、各職場それぞれの特色があった。
ところが親に連れてこられた、自らの意思で選び取ったわけではない多くの子どもたち、成長段階にあり、これからいろいろなことを身に着けていく子どもから見たら、実顕地の学育方式が一枚岩のごとく立ちはだかっていたのではないだろうか。
このことは、人は異質な様々な人(他者)との出会いを通して成熟し、社会性を身に着けていくという観点からみて、児童教育的にも、発達心理学的にも、人類学的にも奇妙な構造だったということになる。
私は、知性とはいろいろなことを知っているということではなく、一つの問題をいくつものの補助線を引きながら複眼的に調べていける能力だと思っている。その力を、いろいろな出来事、他者との出会いを体験していくことで、その人の見方に奥行ができ、社会性を身に着け成熟していく。
人類学、哲学史の知見として、よく取り上げられるレヴィ=ストロースの「親族の基本構造」の分析がある。これについては、武道家・内田樹が彼なりの方式で取り上げている。
【内田樹:レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』で書いている親族の最低単位は、男の子と両親と母方の伯叔父の四人から成るというものです。核家族ではなく、プラスワンになっている。父が息子に厳しく接する社会集団ではおじさんが甥を甘やかす。おじさんが甥を厳しく育てる社会では父と息子が親密である。これはよく考えると当然だろうと思うんです。同性の年長者が二人のロールモデルとして登場してきて、それぞれが子どもに向かって違う接し方をする。極端な話、違う考え方、違う生き方を指示する。それが親族の基本構造として要請されていたということが重要だと思うんです。だって、それだと子どもの中に葛藤が生まれますからね。どちらの言うことを聞いたらいいのか。でも、成長のためにはまさにその葛藤が不可欠だと思うんです。( 鷲田清一・内田樹『大人のいない国』(プレジデント社2008より)
・内田樹はレヴィ=ストロースの「親族の基本構造」に関して次のことを述べている。
【「タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。
これは私の経験的確信である。
この二人の同性の成人は「違うこと」を言う。
この二つの命題のあいだで葛藤することが成熟の必須条件なのである。
多くの人は単一の無矛盾的な行動規範を与えれば子どもはすくすくと成長すると考えているけれど、これはまったく愚かな考えであって、これこそ子どもを成熟させないための最も効率的な方法なのである。」(内田樹の研究室 2,007年11月より)】
私がレヴィ・ストロースの「親族の基本構造」の知見から考えたのは、人は、異質な人との出会い、捉え方の異なる人との交流を通して、自分の考えを形成し、奥行をまして成熟していくのではないだろうかということ。
児童教育学、発達心理学の知見でよく言われる、父が厳しく、母が優しく受容していくことの生来的に持っている役割の違い、その大きさ。おじさん・おばさんがいれば、親はあんなこと言っているが、「わたしはそう思わない、こう思う」という人が身近にいる。この中で、はたしてどうなんだろうかと、考え始めることができる。
一般的に子どもの成長過程は、母親から始まり、父親が視野に入ってきて、圧倒的に親(親の役割をしている人)の存在が大きい。次に、現在の核家族化では薄れてきたが、じいさん・ばあさん、おじさん・おばさんが身近にいればその役割も大きいものがある。やがて兄弟姉妹、友達、その家族、近所のひと、学校では先生や同級生と人のつながりが増えつづける。
当然一人ひとり考え方も感性も違うので、ときにはけんかをしたり、仲良くなったり、好きになったり、嫌いになったり、迷ったり、その葛藤の中で、人格的な厚みを増しながら成長していく。
その点、実顕地学育方式での実親の役割の過小評価、場合によってはほとんど実親不在の実態は、子どもたちの育ちにとって、とても大きな欠陥をかかえていたのではないだろうか。
そのような学育方式でも、ある程度こなしていけた子にとっては、その子の持っている力やその他の要因で、ある種の逞しさを身に着けた人もいるが。
しかし、その学育方式についていけなかった子に対しては、あまりにも非道なためなおしや、ここにいる資格がありませんなどの切り捨てが安易に行われていた。そのことで押しつぶされ、いまだに悶々としている人も少なからずいる。
要するにこの学育方式は、ジッケンチを担う養成所だったのである。
大人が実顕地に参画するときは、偏った情報であれ、状況は様々だが、大方は一人ひとりの熟考の末参画した。どこかの組織のように、強引にだまして連れてこられたというより、調べる期間が長くとってあり、それぞれが選択して参画してきた。
ところが学園生の参画については、熟慮も何も、高等部をでたら参画するのが当たり前に扱っていた。そのように願っていた〈村人〉も多いのではないだろうか。
一応参画の研修期間(2週間研鑽学校)を設けて、一人ひとりの意思を確かめてはいたが、娘によると、〈村人〉になる手続きぐらいに思っていて、参画したとか取り消したという感覚が全くないそうである。
私も参画受付を担当していたので、その経緯はある程度掴めているが、娘と同じような感じで手続きしていた人も多かったと思う。なかには、〈村〉を離れて、独自の道を歩んだ人もいるが、およそ8割近くの人が参画の手続きをしたのではないかと思っている。なお、娘と同期の人60人程のうち、現在も〈村〉で暮らしている人は2人だけだといっている。
(※これらのことについて、私も責を負っていると思っているので、稿を改めて触れていこうと考えている。なお、私がここで書いているのは、実顕地を離れる2000年頃までのことで、その後いろいろな面で改良されてきたらしいが、いま実顕地がどうなっているのかは、よく分からない)
次に、テーマは変わるが、この〈村〉の大きな特質である、兄弟姉妹のひろがりと親密度の深まりについて触れておく。
子どもたちを見ていて、学園の同期生や仲間たちとの関係は、とても親密なものがある。同じ釜の飯を食ったというような半端なものでない深さを感じることが多い。
特殊な観念の学育方式のもとで、実際に身体を動かすことの多い種々の活動の中で、仲間たちで切磋琢磨しあいながら、ときには助け合い、ときには言い争いしながら育ってきた。
現在娘は、知人と小さな会社を立ち上げ、そこの全体を見る立場にあり、会社の人事的なことも担っていて、積極的に元学園生を採用し、その仕事ぶりにかなりの信頼をおいている。ヤマギシの村で育った元学園性に対して、会社全体がヤマギシそのものに好感触を持っているという。
娘は海外との取引の一切を担っていて、取引上の書類の翻訳、作成などの仕事も多い。先日、集中してかかりたいということで、同僚と自宅で仕事をした。
学園1期下のその人は、英語の先生をしていたが、赤ちゃんが生まれ、今はやめて、時折娘と仕事をしている。
赤ちゃんを抱えた人の仕事先は厳しいもので、会社では、そのような人の希望を取り入れ、一緒に仕事をしているそうだ。
そこで、6カ月ぐらいのその子を、4~5時間程我が家で預かることにした。夫婦とも元学園性で、その親は村に暮らしていて、私たちの知人でもある。
その子を見ていた妻は、しきりにお爺ちゃんであるYさんに似ているという。私たちの様子を見ながらぐずぐずしていたが、とにかく微笑ましかった。
妻は、のんびり暮らしていきたいが、こういうのは張り合いがあるし、ささやかながら自分たちのやれることで関わっていきたいといって、娘も喜び、これからも続く予定である。
その人も含めて、中卒である元学園生達は、そういうのがバネになっている人も多いと娘はいっている。
実顕地学育方式での実親の役割の過小評価のなか、兄弟姉妹の多い中で、どのような育ちが展開したのか、課題として残っている。