広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎『わくらばの記』から、わたし自身の課題として

〇わたし自身の課題として

 「病床妄語」〈2月3日〉
 利尿剤のおかげで、夜中でも2時間おきに目を覚ます。そのため頭が少しボーっとする感じ、まさに夢か現かといった暮らしである。ただ、今のところ痛みが全くないので助かる。

 今思うと、半年くらい前から夜中に心臓のあたりにうすら寒い感じがあり、何か変だなと思っていた。しかし昼間は全く異変を感じなかったので気にしなかったが、この頃からがん細胞が動き出していたのかもしれない。

 学園のことを考え始めると、あれこれ思い出すことがある。その一つに「赤えんぴつ」という文書がある。あれは、私が95年に韓国から帰って成田実顕地の造成のあと、2度目の大田原配置のときだったと思うから97、98年ごろのことだ。調正所に学園事務局から「赤えんぴつ」という文書が送られてきた。中身は高等部生の作文に誰かが朱筆を入れ、「これは良い」「ここはこう直したらいい」「これはもっと考えるべきだ」等、細かいチェックが入った文集である。

 読むと、どの作文も金太郎飴のように一律で、書き手である子どもたちの心が全く表れていない。検閲者の目をよほど気にしない限り、子どもがこんな作文を書くはずがない。「なんだこれは!」と思ったものの、その時はそのままやり過ごしてしまった。

 しかし、3年前、M・Iさんという女性の手記を読んで、当時の事情が鮮明になった。彼女は高等部生時代に、服の購入提案で不満を述べたことから「反抗的だ」と批判され、個別研の対象になった。2週間ほど4畳半の狭い一室に閉じ込められ、毎日反省文を書かされたという。ところが何を書いても認められず、「早く出してもらうには、何を係りの人に言えばいいのか」毎日そればかりを考えていたそうだ。

 これなどは、もう教育とは無縁な強制・強圧にほかならない。「世界に唯一の学園」と銘うち、あれほどわれわれ参画者、会員、活用者、そして一部教育関係者の期待を集めた学園が、このような内実のものであったかと思うと情けなくなる。

 ただ、それにもかかわらず、学園出身者のかなりの部分が、仲間同士の結束・連携の中でたくましく育っていることを知ると、救われた感じになる。

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●以前、元ヤマギシズム学園の世話係Eさんと同じ時期に学園生だったDさんとが交流する機会があり、その場に私も同席していた。その当時(20年ほど前)の学園の様子が話題になり、ほんの一部記事にしてみる。勿論すべての文責は私である。

 Dさんは、中等部・高等部を通してかなりの頻度で個別研を受けていたそうで、同期生たちからまた個別研なのとよく言われたそうである。係りのEさんからも言われることもよくあったそうである。そのたびに理由を聞いても一切応えてくれなかったそうである。

 

【D:Eさんからよく今から個別研といわれたけれど、どういう理由だったの。
E:私は中心になって推進している人から指示されるだけで理由なんか分からなかった。おそらくBさん(赤エンピツの担当者)あたりから、学園の推進係に指示があり、そこから学園生に直接あたるのは私のときがあった。

D:反省したことをレポートに書くようにいわれていたけれど、理由が分かれば書くこともできるが、ほとんど思い当る理由もないので書きようがなかった。同期生たちから、赤ペンさん(Bさん)が気に入りそうなことを書けば、すぐに出られるよという子もいたが、そんなことはしたくなかったので、長期になることも多かった。ところがある日解除になって、わけわかんなかった。

 私:どんな部屋でするの。
D:暗い狭い部屋や、何かの置場みたいなところで個別に各部屋で。トイレにいくときに出ていけるけれど、同時期に個別研をしている人と話をしたりしているのが見つかるのはやばいから、あまり話もしなかった。
E:お風呂にもはいれないので長期になると、部屋全体がじっととしてきて、臭くなるのね。

 私:個別研の間はどんなことを思っていた。
D:いろいろなことを思っていた。なんか試されているのかとも感じていた。こんなの一時のことで、仲間たちのところに戻るのを楽しみにしていた。総合的にそちらの時間の方が多かったよ。
 だが、個別研などあんなの絶対に許せないよ。このことに限らないけれど、この時期に、どのような困難にも立ち向かっていけるようなものが培われたと思っている。
今は、仲間と会うのは楽しみにしているし、先日も豊里に遊びに行って、同期生と話をしたりした。】 

 

 Eさんは学園で一目を置いていた推進係や学育全体に影響力を駆使していたB(赤ペン)の存在は大きく、この人たちの見方はかなり気になっていたという。ヤマギシズムズムの理解が浅い私が、ヤマギシズムの理解が深い人と感じていた人の見方に敬意を払い、注目していた。アレっと思ったときもあるが、何か考えがあってそう言ったのではないだろうと思ったそうだ。また、影響力のある推進係やBにきつくとがめられたときは、酷く落ち込んでいたそうである。

 二人の出会いのあとEさんに話し合いの印象などをきいてみた。
 中等部の頃のDさんは、学園係りと真っ向から渡り合っていて、もっともぼこぼこにされた三人のなかに含まれていたという。現在のDさんの明るさと、元学園に対する思い方・捉え方に触れて、同じころに過ごした元学園生に接するのは心苦しいものがあるが、話ができて、こういう元学園生もいたのだなと感嘆しきりであった。

 しかしかなり例外的で、彼女の知っている範囲では、意識的にも無意識にも精神的にダメージをかかえている元学園生も少なからずいるという。
 さらに、Dさんのように、自らの主体性を崩さなかった子、抵抗していた子は、むしろあっけらかんとしていて、彼女から見た、何となく学園に収まっているように思っていた子の中に、相当なダメージをうけているのではないだろうかとも仰っていた。

 なお、Dさんと「カルトの村で生まれました」の著者とは学園高等部の同期生で、その著作については、こんなこともあったなと懐かしく、面白く読んだそうである。

 

 このブログの(2)で、吉本隆明氏の問いに対しての答えに「係りがいて要求通りのものを必ず購入してくれるのだから不必要です」とあり、Eさんは学園、学育の食生活の担当をしていたこともあり、それに関しての話も出ていた。

・「豊里実顕地の学園舎に子ども達用の菓子類、食品類の大きな冷蔵庫があった。そこに頑丈な鍵がかかっていて、何度も壊されては、より強力なものになっていった。その繰り返しが続いていて、菓子類に対する制限の厳しさを知っていた彼女は心を痛めていたそうである。
 村を離れて20年以上もたっているが、未だに彼女の娘は菓子類を大量に買い込んで(彼女によると半端な量でないそうだ)、手元においていないと安心できないといっていることなどで、思い出すのもたまらないと仰っていた。」

 わたしはBさんなどと実顕地のいろいろなことを検討する立場にしばらくいた。その頃の任されていた各持場で中心になって進めていた。
 加害―被害の図式(これは何かが抜け落ちてしまうおそれがあり好きではないが)に当てはめれば加害者側のひとであった。
 そこから当然、今のわたしから見たその頃の実態を語ることをしながら、わたし自身の向き合っていく課題になってくる。