広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎奥村通哉さんを偲ぶ会で 

〇奥村通哉さんを偲ぶ 

 先日、6月29日に亡くなられた奥村通哉さんを偲ぶ会が京都の船南実顕地であり参加した。船南実顕地は奥村和雄・きみゑ夫妻がはじめた実顕地で、きみゑさんも6月2日に亡くなられている。また、近くに通哉さんの居宅がある。

 当日は、船南実顕地のT夫妻、M子さん、関西在住の会員さんや実顕地、元実顕地メンバー20人程が集まり、通哉さんを偲んでの様々な話題が出て、付随してお互いの親睦を交わすことになった。

 通哉さんとは、『山岸巳代蔵全集』の刊行委員として、8年間程定期的にお会いする機会があり、その後も『山岸巳代蔵伝』の執筆、出版の過程で、度々連絡を取り合い、その後も、手紙などで交流していた。

 6月になり、入院されたとの知人からの連絡を受け、電話連絡をしたとき、話しぶりはしっかりしていて、いろいろ話したいことがあり、退院したら会いましょうと交わしたのが最後の会話になった。よりよい社会や山岸巳代蔵の思想を次代に繋げようとの意欲、熱意や鮮明な記憶力は最後まで衰えを見せることがなかった。

 当日は、巳代蔵さんに絶大な信頼を寄せていたこと、膨大な各種の記録や文書をかばんに入れて持ち歩いていたこと、よく人の話を聞いていく姿勢、何事にも意欲的でその明るさ、積極性が魅力的であったこと等々、通哉さんの様々なエピソードが次から次へと出て、また、自分や家族のことについては殆ど話をしないこと。通哉さんと息子さんのことなども話題に上った。

 

 その中で、通哉さんが「優柔不断」はいいことだと肯定的にとらえていたとの発言があり、それについて思うことがあり、その場で少し話をした。

 山岸巳代蔵の「優柔不断が本当」と小さな字で添えられている『ヤマギシズム実顕地の造成を』という論考に触れて、私は面白いなと感じていた。(『山岸巳代蔵伝(p246)』より。全集には何らかの原因でその部分は載っていない)

 その論考は59歳で亡くなる少し前に書かれたもので、死の直前の研鑽会でも、「優柔不断が本当」と言うように、との福里柔和子の発言がある。

 一方、山岸自身が『子供の時分を想い出して』(全集資料編)で述べているのは、少年期に一見優柔不断に見えるような恥ずかしがりであったらしいが、熟慮断行の人になろうとしていたとある。

 これは私の推測だが、青年期から、特に山岸会創設以来、(熟慮)断行でしてきたことが多いのではないだろうか。何時頃から優柔不断が本当と思い始めたのか、興味は尽きない。
 この辺りは通哉さんにも、お聞きしたかったと少し悔いが残った。

 なお、最近の私は「優柔不断」に限らず「あいまい」「ためらい」などのことばに親しみを感じている。

 

【折々のことば】
※参照資料として『山岸巳代蔵伝ー自然と人為の調和をー』(萌友出版、2012)から抜粋
 ○二日夜から開催されていた「一体高度研鑽会」に、三日午後四時から出席していたが、夕方に変調をきたし、そのまま帰らぬ人となった。
 その研鑽会の記録によると、
「一体が本当で、なれないというものは何か、どっちかに邪魔してるの。で、何か方法をもってすれば簡単にいけるもので、心も大事やけど、仕組みも大事。この実顕地というか、一体生活の正常なあり方になるために、いっぺんにいけるとせずに、あまりにも永年人間の間に妙なものが蟠踞してるので、一発にいかんので、現象界と違って心の中はなかなかなので、先ず仲良くで、気の揃った者が寄って、まず始めて、そこで仕組みを考えて、本当に仲良くならないとどうにもならないという方法を以てすれば、元の姿に帰ってやれる。仕組みと方法が今まで出来てなかった」
 などの山岸の発言があり、引き続き会話が進み、山岸に対する柔和子の、
「ものすごく押し付けに聞こえ、永い間厳しく感じたが、今になると、これほど頼りない人はないね。今ここで話を決めてると、次の人と会うと『ああ、これよいな』、また次に『これよいな』と変わって、気にいらなんだ。優柔不断だと決めつけて、幕を持って見てたが、それに「全人のためにこれを」と思ってたが、まあ頼りないもので、この頃、『優柔不断が本当』という言葉で言うように、頼りないというか、全然自分の考えを固持しない人」との発言がある。


そして最後に、
 柔和子 結局十人の中で研鑽できない人があるとすると、私自身、その人も迷惑がってついていかんくらいに思っているから、「その人を退けて出したらよいのやないか」というものが私には出てくるが、それを先生は根気よいというか、どんなにしてもそれを退けようとされん。「どの人もなれるのが本当やないか、その原因を取り除こう」と、その方を究明してられるので、私らとはずいぶん違うなと思ってるの。
 山岸 (山本)英清さんという人が、去年の秋頃か、「私はもうちょいと賢いと思っていた」と言ったが、あれから楽やったわ。
ああ、あかんの、頭痛くなってきた。(山岸横になる)
(小休 十七時三〇分)
 この直後、山岸変調となり、医者を呼ぶ。
 この後、山岸は床につき、ときどき意識を回復して、
「本当の本当は通じないままに死んでしまうのかな」
「みんな好きや、仲良ういこうな」等の言葉を遺し、
五月四日午前零時五十分、くも膜下出血により、死去。享年五九歳だった。
(『山岸巳代蔵伝』p251より)

 

〇思いのまま出来る環境にあったのに、恥ずかしがりで陰気そうに見えて、ものは本当に言わなかった。よく考えたもので、皆と一緒に遊びに行くなど滅多になかった。お祭りでも、山登りでも、運動でも。何時も何ということなしに、まあ考え込むというほどではないが、まあ(遊んで)用事がなしに、なおないからついじっとして閑居すれば、考えるともなしに考えるということになるのやろうね。優柔不断というか、そう見えるものであって、そうそう、お盆にお母さんの里から毎年履物と扇と対でもらうの。その扇子に熟慮断行と書いてあったね。これはとても気に入ったね。その方へなろうとしていたのか、自分もその方になろうとしていたのを言い当てられたのかな。熟慮断行と優柔不断と、よう似て全然異うと思うね。……
(資料編「子供の時分を想い出して」、『山岸巳代蔵伝』p24より)

2015年12月8日