広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎気が置けない仲間との交流(3)

〇自分の身体で「感じ、考える」人へ

 今回参加したメンバーに、私を含めて、各部門で主になって進めていた人たちもいた。当時の実顕地の方向性、実情について、ある程度掴んでいることもあり、様々な角度からの話が弾んだ。その中で、実顕地全体を進めていく核になるようなリーダー的な立場の人のことに及んだ。

 1961年5月に山岸巳代蔵が59歳で亡くなり、その後の進め方を巡って、紆余曲折があり、しばらくしてから、S氏が全体を見る立場につき、徐々に参画者も増えて、より確かな経済的基盤が形成されるようになっていく。

 1975年私が北海道試験場に参画するとき、調正世話係から、本当の社会づくりを進めたいならば中央調正機関へ、楽しく暮らしたいなら実顕地調正機関へと言われ、違いがよく分からなかったが中央調正機関参画を選んだ。

 ほどなく、実顕地調正機関に一本化される。その時に激しい権力争いがあったそうだが、参画したての私には、皆目わからなかった。それ以来S氏の影響力が強くなっていった。

 長い間、その影響力は強いものがあったが、実顕地の脱税を巡っての国税局の取り調べの中で、極度に精神的に落ち込んで、やがて亡くなる。

 S氏亡きあと、いろいろな改革案がほとばしり出て、しばらくして、当時の実顕地、ヤマギシズム運動を大きく変えていくような動きと、徐々によくしていけばいいという現状の実顕地を維持していこうという見解と、話がかみ合わないようになる。

 その動きとは別に、実顕地の方向性に疑いを持ち始めた人の流れもあり、その空気の中で、2000年前後の大量の参画取消の人を産むことになる。 

 

 そのときの動きを巡ってのリーダー的な人にも話が及んだ。

『僕らがイズム運動で一番大事にしてきた、「ひとつ」とか、「研鑽」とか、最もそれを実践すべき時に、それをやらなかったことに対しての残念さがある』というような真摯な問い掛けが、当時は青年だった人からでて、私には一つの課題として残った。付随して「ひとつ」という表現と、実顕地と「リーダー」についての関連について考えてみた。

  ブログでその組織独特の表現を使うことの、弊害や指向性について書いた。

 ヤマギシズム運動では自然全人一体の見方など「一体」という表現がよく使われる。それは、「ひとつ」という指向性の強いことば、典型として「財布一つ」という運営の根幹をなす見方が、多くの実顕地メンバーの気風として体質化していたのではないだろうか。

 特定の目的を掲げた組織は、ある程度大きくなり組織維持を確実なものにしようと思うと、指導力、統率力のあるリーダーたちのもとで一丸となって全体のビジョン、方向性を実現すること、そのための諸部門の緊密な連携は不可欠となる。というのが大きな傾向としてある。

 そのことと、専門分業による「任し合い」という運営方式とリンクして、「おまかせ」の体質が強固なものとなっていたのではないだろうか。

 実顕地とリーダーに対する私の見解は、確かにリーダー的な人たちの影響力は大きいものがあるとしても、そのような実顕地の気風を作ったのは、少なくとも、各部署でその人なりに精一杯活動を繰り広げていたつもりの数多の村人が、そのような風潮を作っていったと思っている。

 私自身を振り返るとき、実顕地の中で様々な部門に携わっていたが、誰かに指示、服従を強いられたことよりも、ほとんどのことを自分(たち)の裁量で進めていたと思っている。翻って、私自身が他の人に対しそのような圧力を及ぼしていたことはあるとしても。

 

 私が携わったのは、25年間関わった「牛肉部門」、長らく関わった新参画者のための「予備寮」と「青年研修所」、独特の研修システムである「振出寮」などが主な部門だった。

 予備僚のように構想や実験的な試みは初期のころにあったが、いずれも私が主になってつくりあげていった部門である。そこではリーダーとして、中心的な役割を担っていて、ここで行ったことの責任は全面的に私にあるといえる。むしろ私が圧力を及ぼしていたことも多々あるだろう。

 その運営についての検討には一部S氏も関わっていたが、特に異を唱えられたことの記憶はあまりなく、その感想や意見でいいなと思ったことは、自分(たち)の裁量で工夫をし、どちらかといえば、ある程度任せられていたと感じている。

 その他、実顕地では大きな役割を担っていた、「参画者受付、研鑽学校」などでも、中心になって進めていたときもあるが、そこではどこまでも合議制であった。しばらく人事部にいたこともあり、配置にまつわる様々なことについては、ある程度掴んでいるので、どこかで整理しておく必要もあり、当然私に対する非難も受けていこうと思っている。

 このように振り返ってみると、私自身が、中間管理職というよりも、リーダー的な動きをしていたともいえる。そのことをふまえて、次のようなことを思っている。

 勿論リーダー的な人もからも影響を受けているだろう。しかしそれよりも、私にとっては実顕地が醸し出す気風、指向性のようなものの影響がより大きいのではないかなと考えている。

 特定の人(たち)がつくりだすような、単純な形態の組織ではなく、いろいろな要素が絡み合った、日本の戦後社会が産みだした特殊なコミュニティではなかったのか。

 そういう意味では、視野の広がりすぎるおそれはあるが、70年前の太平洋戦争に至った要因のごとく、特定のだれかに責を負わすことでは見えてこない、失敗から学ぶこと、学びほぐすことができない組織ではなかったのかと考えている。

 

〇組織の頭で考える人から、自分の身体で「感じ・考える人」へ
「疑う」ことは「考える」ことと重なってくるが、大きく二つの方向性がある。
 一つは、自分のこととはほとんど関係なく、ある対象に向けられること。二つ目は、自分の見方、とらえ方にメスをいれ、見直しを迫られること。二つ目の方向性が「疑う」ことの醍醐味があり、遙かに難しいこととなる。

 私が実顕地に対してあれこれ考えるのは、二つ目の方向となる。あまりよく分かっていなかったとはいえ、参画の段階では熟慮して選択し、自分なりではあるが精一杯活動してきたと思っている。精一杯というのは、まともであるというのとは全く関係ないが。
 したがって、自分の当時のあり方と関係なく、実顕地を語ることはできないと思っている。

 

 組織を離れた人の一つの傾向として、ジッケンチの頭で感じ・思考する人から、自分の身体で「感じ・考える人」への転換がある。

 これに関して、東北大震災以後、私たちの暮らし方について精力的に考え続けている、臨床哲学者・鷲田清一氏の発言に共鳴するものを覚えた。
 最近の鷲田氏の論点は、現日本社会は専門分業が極端に進み、「いのちの世話」の多くのことが専門家、組織にゆだねられ、長い歴史の中で培われてきた「いのちの世話」の相互支援の機能が極端にやせ細ってしまったのが現社会の特徴である。

 氏は、カントの「理性の公的使用と私的使用」との捉え方に引き付けて、氏の問題意識から「知性の公的使用」による、専門家とか素人とかの垣根を取っ払って、関心を抱く人たちのお互いの専門や囲いをのりこえて、心ゆくまでの話し合いで探求していくことが、複雑化した現代の課題に対処していくには欠かすことが出来ないと述べている。

  カントによれば、国家的、公的な官職についている、軍隊に所属している、なんらかの組織、会社に属しているところからの理性の使用は、専門家であろうがなかろうが、何らかの手かせ、足かせのある不自由なものである。結局どのような地位についていようが、境遇にあろうが、そのくびきや利益の享受から自由でない使用は私的なものとなる。
 それに対して、一切のくびきから離れて、個人として自分の頭で考える人の理性の使用を公的使用としている。そして、そのような個人を世界市民(コスモポリタン)と呼んだ。

 極端に細分化して自分の専門以外のことにはうとい専門家への「おまかせ」の風潮から解き放たれて、自分の身体で「感じ・考える人」の知性(理性)の公的使用を駆使して、そういう人らで、複雑に絡み合った各種の課題に対処していくことが大事ではないだろうかという提言である。

 

 これについては、ヤマギシズム運動の理念提唱者である山岸巳代蔵が、組織の方法論として最重要なものとして挙げた「けんさん」の中身と重なってくると思っている。

 実顕地は、その「けんさん」の本質と、甚だかけ離れたものとなっていったといえる。

 したがって、実顕地を離れた人にとって、今実顕地で様々に取り組んでいる人にとっても「自分の身体で感じ・考える人」への転換が、大きな課題となった。

 だが、自分の頭で考えるといっても、計り知れないほどの影響や恩恵から自分というものが成り立っているのであり、なかなか容易ではないと思っている。
 個々人の自覚からはじまるが、知性の相互支援的なつながりのなかで、自分の頭で考えることが出来るのであり、そこから「普通」の人としての公的使用が生きてくるのではないだろうか。

(※これに関しては、自分にとっての課題として稿を改めて触れていこうと考えている。)

 

【参照資料】
〇「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。」
「人々をつねにこうした未成年の状態においておくために、さまざまな法規や決まりごとが設けられている。これらは自然が人間に与えた理性という能力を使用させるために(というよりも誤用させるために)用意された仕掛けであり、人間が自分の足で歩くのを妨げる足枷なのだ」
「理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである」(カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006より)

 

〇「理性の私的利用と公的利用の違い:
鷲田:カントの『啓蒙とは何か』という本に出てきますが、カントは理性の私的使用と公的使用という分け方をしています。私も若いときは、プライベード、パブリックという文字どおりの意味で軽く読んでいましたが、よくよく丹念に読むとカントはすごいことを言っています。
 つまり、理性、もしくは、知性をプライベートに使う、私的に使用するということは、自分が得になるように使うという意味ではなくて、たまたまこの社会の中で、自分にあてがわれた地位や境遇やポジションにひたすら忠実に知性を使うということです。
 カントに言わせると、企業人が会社の利益のために、官僚が国家の利益のために自分の知性を使うのは、プライベートな使用になります。だから、普通、日本で官僚はみんな公的に知を使っているように見えますが、カントに言わせると、それは私的使用になるわけです。
 では、知性の公的使用とは何かと言うと、「理性」にもとづく思考、世界市民、コスモポリタン的なそれものです。国家、企業や特定の組織のためではなく、それを超えたところで知性を使うのが本当の公的使用です。
 そうすると、今回の震災や原発事故でも、何が問題だったか、つまり専門家がなぜここまで信用を失ったかというと、役人の記者会見でも、東京電力の社長の発言でも、誰が見てもカント的な私的使用をしていることからです。企業を守るために、あるいは官僚の責任を問われないように知性を使っている。それを多くの人が直感的に理解したがゆえに、役人も東京電力も信用を失ってしまった。」(インターネット「現代の科学者には、どんな教養が必要か?」山折哲雄×鷲田清一より)