〇私的信念と私的態度
信念と態度について、今の自分に引き付けて考えてみる。ここでいう信念は、辞書的な固く信じて動かさない考え方であるとともに、もっと緩やかなもの、だが疑いをさしはさもうとしない心をも含んでいる。
信念も態度も、時代や社会、環境の影響を受けながら、生育段階での様々な体験、経験から形成されていく。
態度は、生れ落ちてからの母親(あるいは母親がわりのだれか)との関係、家庭(生育)環境に大きな影響をうけ、その後の幼少期、児童期での様々な体験を経て、先ずは、その人にとっての体に蓄積された反射や身体的な感性として培われていくことからつくられていく。
信念は、種々の体験、経験によって形成されていくが、どこまでも言葉の習得を欠かすことができない観念的なもので、知識、理論、あるいは学問、教育などによって色濃く影響されたものである。
鶴見俊輔は、「思想の底にある態度ということを重く見る立場です。それは言いかえれば反射ということの重視なのです。」「反射とは、日常的に反復することによって、肉体にしみついた反応の仕方のこと」(『戦後とは何か』など)と、態度と反射を度々おなじような意味合いで使っている。
鶴見の思想を主に「信念と態度」の複合から分析した上原隆は、『「普通の人」の哲学―鶴見俊輔・態度の思想からの冒険』で、「反射」は物質や生き物、すべてにみられる現象に対して、「態度」は人間についてのみみられる現象である。つまり、「態度」はすべて「反射」を基礎としている。などと辞書的な定義をあげて態度と反射に触れている。私も適切なとらえ方と思っている。
ブログに「信念と態度」について書いてから、現在の自分のそれはどのようなものなのか考えている。そして、結局どこまでも私的なもので。この視点を欠かすことはできないのではないだろうかと考えている。
では、ある信念のもとで形成された集団、組織(理念に共鳴して行動を共にした)とはどういうものになるだろうかという課題がある。
当然似たような傾向の考え方、感じ方をする人はいて、同じような信念まで高められて集団、組織を形成することもあるが、どこまでも一人ひとりのそれであり、多かれ少なかれ食い違っている。
したがって、その違いを受容し大切にしたうえでの組織でないと、一人ひとりによって形成された組織というよりも、その信念に引きずられた組織になってしまう。
原理的に全く同じ考え方、感じ方をする人はいないのであり、組織に限らず、その違いを受容できることが、ひとと共に生きていく最低限の基本となる。
組織においても、一人ひとりの違いを尊重すること、ある大文字の信念(組織が掲げる)によって、個々の意思を拘束、制御しないことなどが組織を形成する場合の大きなポイントになるのではないだろうか。当然柔軟で緩やかなものになり、かえってその組織を活力あるものにしていく可能性があるだろうとも思う。
長年私が所属していたヤマギシズム実顕地についてみていくと、組織が掲げた数々の理念が、組織としての〈大文字の信念〉まで高められ、それをもとに運営がなされ、結局のところ一人ひとりを拘束していた、せざるを得ないような圧迫感を醸し出していたのではないか。
また、宗教における〈信仰〉についても、どこまでも私的なものにすぎないというとらえかたをしたい。
ある理念、信念、信仰に共通したような思いを持つことで、集団や組織が形成されることは、ごくありふれたことであり、そのことで一人ひとりでは及ばない力や可能性が拡がることもあるだろう。
しかしどこまでも、個別性のある人の集まりであり、その思い方をとらない人たちを排除する、否定するなどは到底できないことである.
これについて実顕地や自分を振り返ってみると、私(たち)は「かってない新しい社会をつくろうとしている」というような心のおごりがあったのではないか。
家の事情や拡大関係などで組織以外の人と接触する場合も、組織の掲げる方針に引き込むような傾向あるいは一方通行的なものとなっていたと思う。
高等学校などの地域社会の教育システムを否定するようなことで、その頃の学園が成り立っていた。
『カルトの村で生まれました』にあるように、自らの意思というよりも、親の意向によってそこで暮らすようになった元学園性に対する、執拗な信念の押しつけについては論外であるが、自分の意思で選んで、そこで中心的になって活動していた私を振り返っても、大文字の信念による圧迫感を醸し出していたに違いないと思っている。
これは、理想を掲げた集団構成員の陥りやすいところだと思っている。高邁な理想、理念には、それを支える一人ひとりの態度を培っていくよりも、信念を硬直なものにしていく面があるという自覚が必要になってくる。
現在の私は、〈信念〉についてもう一つ躊躇するものがある。それは、「考える」と重なる「疑う」ということをなによりも大事にしていきたいと思っているから。
ほとんどのことに、ささやかでもいいので心のスミに疑問符をつけておきたいとの思いがあり、それが私的信念かもしれない。それと「曖昧さ」を許容する余裕を常に持っていたいとの思いもある。
現在の自分の態度や反射はどのようなものであるか、いろいろなことを通してじっくり見ていきたいと思っている。
どんな見方、事柄にも一方的にならないような、複眼的にみていくような態度、そのための聴く態度がポイントだと思っていて、その角度から自分をみていく必要を感じている。