〇8月下旬(24日予定)に、福井正之さんの新刊『〝金要らぬ村〟を出る…』が出版されます。
70代半ば過ぎの2018年に、初めての刊行作品『追わずとも牛は往く』の自費出版をしました。
その後、身体的な「衰え」を感じつつ、次なる営みとして、さらに作品を刊行したいと考えていて、紆余曲折を経て、この度出版に至ったそうです。
その経過を氏のブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」から見ていきます。
☆「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(74)から
《 出版の方もようやっと印刷までこぎつけた。4月初めに申し込んだときは、もう新型コロナの渦中で本になるのかどうかずっと危ういものだった。
------ところでふり返ってみて不可思議というしかないが、何といっても最大の課題は、この本のタイトルと「帯」(表紙をくるむ)の内容を決定することだった。こんなに何転もしたことはない。しかもこの時点では目の症状が悪化して、かすみ目中断しばしば・・・。それでも表紙の映像構想と絡んで、ずいぶん楽しくなった。無茶クチャ苦労したともいえるが、ふり返ればここまで面白かったこともなかった。あえて紹介しておきたい。
[タイトル]は、はじめっからずうと変わらなかった堅物だったのが、ようやっと動いた。
「金の要らない村」から離れて→「金要らぬ村」を出る…
「帯」案①
「――しかしそこを飛び出したいま歴然と見えてきたのは、こちらの社会の方こそ自分がアリにならねば生きていけない社会だった。かつては心ごとアリに変えたが、いまは心を隠してアリになることが生きる方便だった。いったいどちらがましなのだろうか。」
「帯」案② 上の「アリ」という表現に到達するのにかなりかかったが、ずいぶん気に入っていた。ところが、うちの元高等部生にはよくわからんと散々だった。それでもっとわかりやすくした。事実は変わらないが、視点が少し変わった。いやそんなもんじゃない。この「金の要らない」には私(たち)にとっての全思想、生き方がからむ。そのことをさらりと言えば次のようになる。
「金無しで25年も暮らした。今さら外で金目当てに働く気がしないのだが…」》(2020年07月05日記)
☆「回顧―理念ある暮らし、その周辺」(80)から
《この作品の元になっているのは、<古い>人なら目通しされているかもしれない「今浦島にわか老後」という私の手記です。もう10年以上前に概要はできていました。この頃からなにかと文章化、物語化する習性が芽生え、かなりの量産がされていたと思います。つまり自分なりの「総括」化がそこまで行くしかなかったということでしょう。
これに今回かなりの量の「ある前史」という部分を加えました。おそらくこれがないとなぜヤマギシがヒエラルキーと体罰を持ち出すに至ったかの過程が不明であり、私が25年もそこで「金の要らない」暮らしが可能だったか理解不能だろうと思います。
そういうことではこれらは短期間に仕上げたというより、これまで出版の機会がないまま公表し、また感想をもらっては修正してきたという歴史があります。そういう旧作はまだごろごろしており、その中で私にとって最も愛着があり忘れがたいと思えるものを上梓したということです。
さらにここでは、これまた旧作で私にとって忘れがたい「息子の時間」という小編(2006年作逗子で)を付け加えてあります。公開タイトル『〈金要らぬ村〉を出る・・・』作品の第2弾というべきか「付」をつけてあります。これは私にとって唯一の文学志向作品で懸賞に応募したものです。結果として私はこの道を踏みませんでした。
それでともあれこれらの作品は、「私記」ないし「手記」の範疇にあるものであり、ちょっと「小説」とはいいがたい。強いていえば「ノンフィクション」といっていいと思います。これらの営みが「金要らぬ社会」で将来どんな営みになっていくものかは興味深いですが、またいずれ別の機会にしましょう。》(2020年08月07日)
※ブログ「回顧―理念ある暮らし、その周辺」
http://okkai335.livedoor.blog/