※吉田光男さんは「特講」の係を何度もしていて、「わくらばの記」で、おかしなこともしていたなと真摯に振り返っている。そこに受講者のみならず世話係、推進係がおちいりやすい盲点がいくつかあり、それを見ていく。
〇吉田光男『わくらばの記』(5)から
〈3月8日〉
人間は観念の虜になりながら、自分が観念に縛られていることに気がつかない。私にそれを気づかせてくれたのは、特講である。これなしに、自分が自縄自縛に陥っていることに気づくことはなかったかもしれない。
私にとって、特講で何かが変わったとか、何かが明確になったというものがあったわけではない。が、すごく楽になったのである。何かが外れたのである。その時はよくわからなかったが、後で考えると、自分の観念の枠組みがストンと外れたのだと思う。途端に世の中が明るくなり、誰とでも仲良くやれそうな気分になった。ものすごい開放感である。
しかし、これで自分の観念から自由になったわけではない。特講は初めの第一歩にすぎなかった。だから山岸さんも、特講生へのメッセージの中でこう書いている。
「これで終わりでなしに、これから研鑽生活の始まり。良かった、分ったと一応喜んでも、つぎつぎと問題がいろいろの形で現われてくる」
このメッセージは繰り返し何回も読んでいたのに、自分の中では特講の出発を特講を卒業したかのように錯覚していた。始まりを終わりと取り違えていたわけだから、観念の呪縛を逃れられないのは当然である。
〈3月10日〉
私は、参画してから特講の係りをやるようになった。10年近く山岸会本部の事務局にいて、数えきれないほど係りをつとめた。また大田原に移ってからも那須特講を手掛け、韓国配置になってからは韓国でも特講や研鑽学校の世話係をやった。
この世話係体験を通してはっきり言えることは、自分の、或いは自分たちの特講の進め方は、根本的に間違っていたということである。それを一口で言えば、特講を研鑽方式ではなく教育方式で運営してしまった、ということだ。研鑽方式というのは、終わりのない旅のように、どこまで行っても結論のない「本当はどうか」の連続のはずである。しかし実際には、
「腹が立たないのが本当」
「仲良しが本当」
「一体が本当」
「無所有が本当」
と、結論に到達したところで終わりにしてしまった。鶴見さんの言う「一丁上がり」である。そのために研鑽の連続性が断ち切られ、参加者は本音と建前の乖離にさらされることになる。
「腹が立たないのが本当だと思うのに、自分は何で腹が立つのだろう」と自分を正直に調べることをせず、「腹は立っていませんよ」と人にも自分にも言いつくろう態度をとることになる。「仲良しが本当」と言いながら、陰で人の悪口を言ったりする。本音を隠して嘘を言うような、建前だらけの生活に陥ってしまうのだ。ここからは人間性の一部が失われてゆく。
これは、まさに自分自身のことなのである。と同時に、多くの人の実態でもあった。世話係自身がこの程度であれば、特講生にそれ以上を望むのは難しい。特講が研鑽生活への入り口ではなく、出口になってしまっていたのは無理もない。
特講という研鑽方式への重要な機会を生かすには、まず世話係自身が真に研鑽できる人、研鑽しようとする人になることが出発点であろう。よく「誰でもやれる」と言われたりするが、それではマニュアル方式で運営する特講もどきにしかならない。
〇吉田光男『わくらばの記』(12)から
〈8月×日〉
特講の歴史を自分なりの見方でまとめてみたが、夜中に目が覚めたりすると、それに関連したさまざまな出来事が思い出されてくる。そんなことをポツリポツリと書いてみることにする。
あれは私がまだ韓国にいてビザの切り替えで帰国していた時のことだから、90年代の初めの頃だったと思う。久しぶりに春日のヤマギシ会本部を訪ねた。最近の拡大の進め方について聞きたいと思っていたからだ。
事務局に声をかけると、見知らぬ中年の女性が出てきて応対してくれた。「最近の拡大のやり方は?」と尋ねると、マニュアル通りなのかどうか、いきなり私に次々と質問を投げかけてきた。いわゆる“想定問答”というものなのだろう。これには度肝を抜かれた。そうか、こんなやり方で特講拡大をやっているのか。そう言えば、子育て講座も、楽園村勧めも、すべてマニュアル化していることを改めて思った。その時は違和感は残ったものの、それ以上深く考えることもなかったが、いま思えばこれは大きな問題である。
ファミレスなどに入ると、メニューを聞いた後、必ず「○○と○○ですね」「以上でよろしいでしょうか?」と聞かれる。「しばらくお待ちください」ではなく、「以上でよろしいでしょうか?」である。以上だけではいけないのだろうか、と一瞬考えてしまう。後ろめたい気持ちを押さえて「以上でいいです」と言うわけだが、最初の頃は何か嫌な気分が残ったりした。
それはともかく、山岸会の中でこのマニュアル化が進められたのは、マクドナルド方式が日本に定着したのと軌を一にしている。要するに、対象とする相手をすべて同一の人間、大衆という砂粒の一つ、悪く言えば木偶人形のように見做すことなのである。ここには「人間とはこういうもの」とする、すごく安易な人間観が潜んでいる。人間一人ひとりの違いが見えてこない。またここには、合理化、効率化の思想が含まれていて、テーブル回転率を上げるように、拡大回転率を上げようとしたのであろう。そのためには、誰でもができる、誰がやってもいい、というマニュアル化が最大の武器となった。
当時の私は、全くそのことに気づかなかったし、自ら進んでそのマニュアルを推し進めてもいた。第一、特講の進め方がそのようなものであった。もちろん、特講は人間の思考を閉じ込めている観念の壁を突き崩すために仕組まれたものであるから、そこにはテーマもあれば、それを出す順番もほぼ決まっている。また特講の目標として、5つの項目が垂れ幕に書かれて、最初から正面の壁に掲げられている。しかし、これはマニュアルではない。だが、当時の私と私たちの多くは、「係りなんて誰がやってもいい」と口にし、特講生一人ひとりと向き合うことをしてこなかった。
「腹が立たなくなった」
「かばんは誰のものでもない」
「自然全人一体が本当の世界」等々。
大半の参加者がこう口にすれば、それで特講は大成功と思っていた。鶴見俊輔さんの言う「一丁上がり」である。しかしこれで、最も大事な研鑽力、どこまでも真実を検べていく姿勢が養われたかどうか。恐らく"わかってしまった人”ばかりをつくってきたのではないか。わかってしまったら、もうその先は検べることはしない。研鑽停止の状態になる。
人は一人ひとり違う。係りはその一人ひとりと向き合い、共に考える姿勢が必要なのである。つまり、参加者から学ぶ姿勢である。それによって世話係りは、もたらす者であると同時に、もたらされる者であることができる。
特講での手痛い経験が幾つかある。確か70年代の後半のことだったと思うが、参加者には京大霊長類研究所の鈴木さん(今は教授か助教授だと思うが、当時は助手)ら比較的知的レベルの高い人が多かった。後に参画して豊里・多摩で供給活動などをしていた谷野夫妻も参加者の一員であった。私は、その時は事務局で窓口をやっていたが、3日目か4日目に突然参加者全員が出てきて、垂れ幕を焼く事件が起きた。そのあと、「責任者を出せ」ということで、私も被告席に坐らされた。
要するに「こんな垂れ幕のようなものがあるから、特講が機械的でおかしなものになってしまうのだ」という主張である。もうその時の対応のやり取りについては忘れてしまったが、何とか説得して特講を最後まで続けることはできた。しかし、内容は特講とは言い難い気の抜けたものでしかなかった。世話係りはと言えば、みなシュンと落ち込んでしまって進めることができず、他のものが変わって進めた。
これと似たような事件をもう一度経験しているが、要するに「誰でもができる」というマニュアル化された進め方が、いかに特講の真目的を歪めてしまうかを、この段階で気づくべきであったろう。
〈8月×日〉
これも70年代か80年代のことだったと思うが、安井登一さんが夜中にヤマギシ会本部にやってきた。話をしているうちに、事務局東側の大会場から世話係りの怒鳴り声が聞こえてきた。
「何でや?」
「お前ら、アホか」
畳を叩く音まで聞こえる。安井さんは「これは、ちょっとひどいね」とつぶやき、「特講は知的革命なんだよ。暴力革命とは違う」と話した後、帰っていった。恐らく安井さんは、最近の特講の進め方を心配して、様子を見に来たのだろう。しかしその時の私には、安井さんの言うことがよく理解できなかったし、どこをどう考えたらいいのかもわからなかった。
また、亀井のおばちゃんからは、こんなことを言われたことがある。
「どうも最近の特講は理屈ばかりで、身についたものがないんじゃないか。私らの時は一体がどうのこうのといったことはさっぱりわからんじゃったけど、食卓に一人だけパンが足りんと聞けば、あちこちからパンが集まってくる。また帰りの旅費が足りんと聞けば、財布ごとお金が集まるといったことがあったよ」
同じような批判を、中身は忘れたが奥村明義さんからも受けたことがある。しかし、そうした批判を受け止めて、研鑽につなげるということは、当時の私たちにはなかった。自分たちの今のやり方でいいのだ、とする固定した考え方に捉われていたからである。批判がすべて正しいというわけではなく、また自分たちがすべて間違っていたというのでもない。しかし、誤り多い人間の考えで「これが本当だ」といかに主張したところで、そうかどうかはわからない。だからこそ、検べる、研鑽するのであり、この研鑽力を身に付ける仕組みが特講なのである。世話係り団にこの研鑽する姿勢がない以上、特講参加者にそれを求めても無理、というものであったろう。
これは、誰だったか名前を思い出せないが、古い参画者から聞いた話が耳に残っている。初期の、まだお寺を借りて特講をやっていたころ、ちょうど怒り研の最中に、別室で休んでいた山岸さんが風のようにスーッと入ってきて、「何でや?」と怒鳴り声を上げている係りに、「それで、あなたはどうなの?」と問いかけたというのである。これには係りも驚いたらしい。いっぺんにシュンとなって、それまでの居丈高の態度から、「なぜなんだろう?」と共に考える姿勢に変わったというのである。
正解を求めたがる姿勢は、特講だけでなく研鑽学校もほぼ同じようなものであった。最近のことは知らないが、私の経験した研鑽学校は、すべて‟正しい答え”を覚えるように進められていた。だから、終わって一週間程度はみな溌剌としているが、すぐに元の木阿弥になってしまう。研鑽する力がほとんど身についていないのだ。
とかく人間は、正しい答えを求めたがる。第一自分がそうだ。正しい答えを得れば、それだけで自分が正しい立場に立てたように安心する。安心するためにこそ、正しい答えを欲しがる。易しく、簡単に、スピーディーに。しかし、‟正しい”物や事など、観念のつくりあげた幻影にすぎない。研学後一週間で賞味期限が切れるのも当然なのである。
参照:◎吉田光男『わくらばの記』(5)2018-03-22
◎吉田光男『わくらばの記』(12)2018-10-03