広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎「あれは知的でもなんでもない 間違えている」(元学園生のコメントから)

〇先回、Facebookの「思い出機能」のお知らせから、4年前の4月30日にお亡くなりになった吉田光男さんのことを取り上げた。

 その後、元学園生の友人T君からコメントがあった。
《T君が学園を辞める時に、所縁のあるAさんが京都から飛んできて「暴力はイズムでもなんでもない」「あれは知的でもなんでもない 間違えている」とえらい血相で来たのをおぼえています。その感覚が当時の村人にあれば 救われた子供がいたのかもしれないなと思います。》との内容。

 Aさんは山岸会の初期の頃に参画し、いろいろあったと思うが、その後の発展の土台をつくった方である

 そのコメントからいろいろなことを感じ、次のような返信をした。
《この社会づくりに魅力を感じて参画してきた人、特に初期の頃に参画して亡くなっている方も多いですが、その後の実顕地の展開にいろいろ思うことはあると感じます。
「わくらばの記」に〈学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返らずには、自分自身を前に進めることはできない。〉とあるように、その問題が出てくる実顕地の体質や自分の見方にもメスを入れながら、考察・発言するようになることが、光男さんのその後につながります。
 僕自身も、いろいろ反省することもあります。
 また、今後に生かす、繋げていくことも大事だと思い、専用のブログ「広場・ヤマギシズム」を立ち上げ、自分なりに記録しています。》


 Aさんに限らず、初期の頃、山岸会発展の土台をつくった方々は、亡くなった方も多いですが、ある意味参画者も増え、経営的にも安定する一方、実顕地や特講の進め方などに疑問をいだいた人も少なからずいると思います。

 私は1980年代後半から2001年に参加取り消しするまで、かなり中心的な役割についていたので、いろいろ批判的に見ている人もいると思うし、いまだに苦情もあります。

 その一つの私なりの対処がこのブログを立ち上げたことです。
 出来るだけ自己正当化はしないようにと思っていますが、おそらく甘くなっているでししょう。

 吉田さんは『わくらばの記』において、自分に引き付けながら、随時いろいろなことを記録していて、そうだよなと思う参考になることも多く、このブログに連載を記録しました。

 その中からある部分を見ていきます。
 なお、当ブログカテゴリーの連載『わくらばの記』をクリックすると一覧が出てきます。
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 ◎吉田光男『わくらばの記』(12)から
 わくらばの記 ごまめの戯言④

 〈8月×日〉
 特講の歴史を自分なりの見方でまとめてみたが、夜中に目が覚めたりすると、それに関連したさまざまな出来事が思い出されてくる。そんなことをポツリポツリと書いてみることにする。

 あれは私がまだ韓国にいてビザの切り替えで帰国していた時のことだから、90年代の初めの頃だったと思う。久しぶりに春日のヤマギシ会本部を訪ねた。最近の拡大の進め方について聞きたいと思っていたからだ。

 事務局に声をかけると、見知らぬ中年の女性が出てきて応対してくれた。「最近の拡大のやり方は?」と尋ねると、マニュアル通りなのかどうか、いきなり私に次々と質問を投げかけてきた。いわゆる“想定問答”というものなのだろう。これには度肝を抜かれた。そうか、こんなやり方で特講拡大をやっているのか。そう言えば、子育て講座も、楽園村勧めも、すべてマニュアル化していることを改めて思った。その時は違和感は残ったものの、それ以上深く考えることもなかったが、いま思えばこれは大きな問題である。

 ファミレスなどに入ると、メニューを聞いた後、必ず「○○と○○ですね」「以上でよろしいでしょうか?」と聞かれる。「しばらくお待ちください」ではなく、「以上でよろしいでしょうか?」である。以上だけではいけないのだろうか、と一瞬考えてしまう。後ろめたい気持ちを押さえて「以上でいいです」と言うわけだが、最初の頃は何か嫌な気分が残ったりした。

 それはともかく、山岸会の中でこのマニュアル化が進められたのは、マクドナルド方式が日本に定着したのと軌を一にしている。要するに、対象とする相手をすべて同一の人間、大衆という砂粒の一つ、悪く言えば木偶人形のように見做すことなのである。ここには「人間とはこういうもの」とする、すごく安易な人間観が潜んでいる。人間一人ひとりの違いが見えてこない。またここには、合理化、効率化の思想が含まれていて、テーブル回転率を上げるように、拡大回転率を上げようとしたのであろう。そのためには、誰でもができる、誰がやってもいい、というマニュアル化が最大の武器となった。

 当時の私は、全くそのことに気づかなかったし、自ら進んでそのマニュアルを推し進めてもいた。第一、特講の進め方がそのようなものであった。もちろん、特講は人間の思考を閉じ込めている観念の壁を突き崩すために仕組まれたものであるから、そこにはテーマもあれば、それを出す順番もほぼ決まっている。また特講の目標として、5つの項目が垂れ幕に書かれて、最初から正面の壁に掲げられている。しかし、これはマニュアルではない。だが、当時の私と私たちの多くは、「係りなんて誰がやってもいい」と口にし、特講生一人ひとりと向き合うことをしてこなかった。

「腹が立たなくなった」

「かばんは誰のものでもない」

「自然全人一体が本当の世界」等々。

 大半の参加者がこう口にすれば、それで特講は大成功と思っていた。鶴見俊輔さんの言う「一丁上がり」である。しかしこれで、最も大事な研鑽力、どこまでも真実を検べていく姿勢が養われたかどうか。恐らく"わかってしまった人”ばかりをつくってきたのではないか。わかってしまったら、もうその先は検べることはしない。研鑽停止の状態になる。

 人は一人ひとり違う。係りはその一人ひとりと向き合い、共に考える姿勢が必要なのである。つまり、参加者から学ぶ姿勢である。それによって世話係りは、もたらす者であると同時に、もたらされる者であることができる。

 特講での手痛い経験が幾つかある。確か70年代の後半のことだったと思うが、参加者には京大霊長類研究所の鈴木さん(今は教授か助教授だと思うが、当時は助手)ら比較的知的レベルの高い人が多かった。後に参画して豊里・多摩で供給活動などをしていたT夫妻も参加者の一員であった。私は、その時は事務局で窓口をやっていたが、3日目か4日目に突然参加者全員が出てきて、垂れ幕を焼く事件が起きた。そのあと、「責任者を出せ」ということで、私も被告席に坐らされた。

 要するに「こんな垂れ幕のようなものがあるから、特講が機械的でおかしなものになってしまうのだ」という主張である。もうその時の対応のやり取りについては忘れてしまったが、何とか説得して特講を最後まで続けることはできた。しかし、内容は特講とは言い難い気の抜けたものでしかなかった。世話係りはと言えば、みなシュンと落ち込んでしまって進めることができず、他のものが変わって進めた。

 これと似たような事件をもう一度経験しているが、要するに「誰でもができる」というマニュアル化された進め方が、いかに特講の真目的を歪めてしまうかを、この段階で気づくべきであったろう。

 

〈8月×日〉
 これも70年代か80年代のことだったと思うが、安井登一さんが夜中にヤマギシ会本部にやってきた。話をしているうちに、事務局東側の大会場から世話係りの怒鳴り声が聞こえてきた。

「何でや?」

「お前ら、アホか」

 畳を叩く音まで聞こえる。安井さんは「これは、ちょっとひどいね」とつぶやき、「特講は知的革命なんだよ。暴力革命とは違う」と話した後、帰っていった。恐らく安井さんは、最近の特講の進め方を心配して、様子を見に来たのだろう。しかしその時の私には、安井さんの言うことがよく理解できなかったし、どこをどう考えたらいいのかもわからなかった。

 また、亀井のおばちゃんからは、こんなことを言われたことがある。

「どうも最近の特講は理屈ばかりで、身についたものがないんじゃないか。私らの時は一体がどうのこうのといったことはさっぱりわからんじゃったけど、食卓に一人だけパンが足りんと聞けば、あちこちからパンが集まってくる。また帰りの旅費が足りんと聞けば、財布ごとお金が集まるといったことがあったよ」

 同じような批判を、中身は忘れたが奥村明義さんからも受けたことがある。しかし、そうした批判を受け止めて、研鑽につなげるということは、当時の私たちにはなかった。自分たちの今のやり方でいいのだ、とする固定した考え方に捉われていたからである。批判がすべて正しいというわけではなく、また自分たちがすべて間違っていたというのでもない。しかし、誤り多い人間の考えで「これが本当だ」といかに主張したところで、そうかどうかはわからない。だからこそ、検べる、研鑽するのであり、この研鑽力を身に付ける仕組みが特講なのである。世話係り団にこの研鑽する姿勢がない以上、特講参加者にそれを求めても無理、というものであったろう。
(以下略)