第四章 日常の総ての現れはもとの心の顕れ
3 たった一人でもよい、ほんとうに聴いてくれたら
日本の終戦直後の経済状況は、領土の四四%を喪失、住宅・工場・輸送設備の著しい損耗、海外復員者・引揚者約六百万人、戦後賠償負担と惨憺たる状況からの出発であった。配給・価格統制の中で食料危機・物不足は収まらず、ヤミ市の横行、食料調達のための買い出しと、国民は悲惨な生活を強いられることになる。農産物生産指数は一九三五年(昭和一〇)時に比較して六割ほどとなった。
アメリカを中心とする連合国の占領下で、戦後の改革はあらゆる側面に及んだが、経済的には財閥解体、労働改革、農地改革が三大改革とされる。特に農地改革は農村経済社会構造を一変し、地主制の基本的解消がすすみ、農家の大部分が自作農となり、食糧不足ということもあって就業者の二人に一人は農・漁・林業に従事した。次第に農村社会は民主化され、農民の創造性を高め、様々な活動が自由に展開された。戦後の経済再興や食糧増産のなかで、低米価、強権(きょうけん)供出(きょうしゅつ)、重税などの厳しい状況にも耐えながら、かなり高いテンポで生産が回復し、一九五一年(昭和二六)には戦前水準(一九三五年頃)に戻った。
養鶏関連では、敗戦直後の採卵養鶏は厳しい食糧事情のもとで飼料もきわめて不足していたが、国民の生活の向上とともに卵の需要も供給を上回るようになり、供給不足から高卵価となった。一九四八年の卵価は一個二五円となった。このため農作物の残渣(ざんさ)が利用できる少羽数で日常収入が得られる農家養鶏の全盛時代となった。
一方諸国では、一九四八、九年に朝鮮民主主義人民共和国、中華人民共和国が相次いで成立し、資本主義と社会主義勢力の対立が深まり、世界の各地で戦争・紛争が絶え間なしに続いていた。一九五〇年六月には朝鮮戦争が勃発。五三年七月に朝鮮休戦協定が成立する。この朝鮮戦争による特需は日本の経済復興の加速を促した。
このような社会状況の中、様々な後遺症を抱えながらも自由なエネルギーが溢れた。戦争や紛争のない平和な社会への希求が高まり、民衆の間に様々な農民運動、社会運動がいっせいに起こりあるいは復活した。こうした時代背景の下に山岸は見出され引き出された。
和田の要請で山岸は各地で講演をしていたが、ときにはまったく無視されることもあった。京都市烏丸の民生会館のときは、背広姿だが細おもて痩躯で目立って青白い、ひげのある山岸が話するも、大半の人は雑談していた。だが山岸は同じ調子で、声をはりあげるのでも熱をあげるのでもなく、ボソボソとつぶやいているような話し振り。それを山本英清は、何か痛々しい気がしながらハラハラして聞いていた。
後に山岸は、「私は話が下手でその上わかりにくいことを言うので、今の人はなかなか聞いてくれません。私もまた強いて聞かそうともしません。たった一人でもよい、ほんとうに聴いてくれたら、それで大きなもうけものだと思っています」と、山本英清に語っている。
一九五一年二月に、山本が初めて京都府伏見区向島の山岸宅を訪ねた頃の、山岸とその居宅の様子が、『懐想・メーポール』に克明に記されている。
(宇治川の観月橋から南二〇〇メートル程のところに山岸の居宅があった。)
《「むくげの垣はほどよく手入れされて、その両側は畑で、ことに左側奈良街道まで二百坪もあろうか、その畑に五糎(センチ)ばかりの小麦の勢いのよい筋が美しくならんで、草一本見えぬ。畑の南を区切って瓦ぶきの東西に長い平屋建ては鶏舎で、むくげの道の二十米程先に、まだ新しい高い二階建ての母屋が建ち、門先右側に、本塗りのしてない方二間余と思われる大きな土蔵がしゃんと建っている。麦の緑、母屋の表や二階の窓の格子や柱などの紅がらのセピアがかった暗紅色とが鮮やかで、私等の方でもあまり見かけぬ新しい式の百姓屋であるなと思った。(……)
はっきり記憶に残っているのは、山岸さんと門先の鶏舎の前に植え込んであるいちじくの木のそばで、日記にある「信念を聞く」以下の話し合いの場のことである。
山岸さんは先日の着物姿と打って変わって、何度か洗濯されたらしいさっぱりした紺の半纏パッチのりりしい百姓姿で、すっかり元気な五十がらみの、戦時中から戦後にかけて続出したインテリ百姓タイプだった。ぜい肉がなく、頭をわけ、ひげをたくわえ、心持ち青白い顔色などは、どうしても根っからの百姓とも見えず、それで鶏の話にも深入りしなかったらしく、覚えているのはもっぱら人生観といった話題で、何だかおとなし過ぎて、私のようなガラガラのざっくばらんでなさそうなのは、如何にも近づきにくいと思っていたのに、その話し合いから、すっかり近づきになってしまったようである。(……)
話し合いの内容 ―根本問題―
山岸さんは、その経歴や、今どうして生計を立てているかなど、有形的な現実についてほとんど触れず、もっぱら人間のあり方についての精神面に関する問題が主であった。
現在の農業経営も、それ自体やこれによって得る利益が目的でなく、これはあくまで手段であって、本当の目的は外にあり、これは古往今来、生きとし生けるものの、ひとしく求めきたった根本問題でありながら、それが明確に意識されずに、大方は手段を目的視して、空しい紛糾の社会にうごめき終っていくのが現実であるとの意味を話された。(……)
この話し合いの中で未だにはっきり覚えていて、印象深い話題は長男の純さんのことである。
純さんは当時京都美大に在学して日本画の研究に精進していられたのだが、実は幼い頃には政治家にさせたいと思っていたが、本人が中学に進む頃から画家になりたいと熱望する上、その方の才能もあるらしいので、意志どおりその学校に入学させたが、絵をやるからには、絵を売り名を成し、それによって生活する道を行かず、本当の絵をたった一枚でもよい、描き上げることに一生をかけて欲しい、生活の方は父である自分が何とかするからと言い聞かせ、ずっとそのつもりでやっているとの話であった。(……)
話はいつの間にか社会改革にまで及んで、それには日本人といわず、世界人類すべての人生観、世界観に一大変革を来たす必要があることに、期せずして話が合ってしまっていた。
山岸さんは寒い二月の風の中に立って、『私はそれについて書いております。未発表ですが出来たら単行本にしたいのです。それも日本では出したくないのです。というのは日本人の通弊として、どんな新しい立派なよいものでも、日本人の考えたものとか日本製だといえば駄目で、一度外国を通して来ると、とたんに舶来品として珍重し流行するもので、一つこれを利用し、出来たらイギリスから出版したいのです。……』
と熱をこめての話である。この話は二人ともよほど印象に深くきざみこまれたらしく、山岸さんの生前も度々話したことであり、最後はたしか岡山へ旅立たれる前に逢った時、山岸さんからこれをいい出され、当時を追憶して感慨にふけり合ったものである」。》
この頃の山岸の営農規模は、次のようであった。「鶏」二〇〇羽~三〇〇羽。
〈表作〉「稲」一町三反歩(畑一反歩)、「甘藷(かんしょ)」一反歩、「果菜」一反歩。
〈裏作〉「小麦」一町一反歩、「裸麦」一反歩、「菜種」一反歩(半湿田)、「蔬菜」二反歩。
一九五二年に、山下照太郎が枚方市から講演依頼されたときに、
「養鶏の話は自分の柄でない。それより目あたらしい農業養鶏法で実績を確実にあげている山岸が適任者だ」と思い、山岸に枚方講演を頼んだところ、即座に快諾を得た。
枚方市の公会堂には市の農協組合員が百人以上集まっていた。講演のため農協で印刷した講演要項があらかじめ各自に渡されてあり、これは従来の常識的な養鶏法で、養鶏の話といえば、この範囲を出ないであろうと農協が勝手に決めて作ったものである。
ところが講演が始まってみると、開口一番から徹頭徹尾それとかけ離れたもので、いまだ聞いたことも見たこともない方法である。山下のそばで聞いていた農協技術員の橋本幸夫は気が気でなかった。
山下に、「これは大変なことであるが、あんな事ではたして鶏が育つものか」と、小声ながら気色ばんでなじって来た。
山下は、「まあそうせかずに最後まで聞きましょう」となだめて、その日の講演は終わった。
橋本は責任者として「まず自分が試してから」と、五〇羽の雛でやってみると予想に反し、従来のそれとは格段の違いで素晴らしい成績であった。
早速三千羽の雛を注文し、これを会員に配り、結果として枚方市農協の好成績につながった。翌年の第二回の講演も「是非山岸先生に」ということになり、参加者は公会堂に入りきれないほどの盛況。
この講演では、養鶏技術の話は一時間できりあげ、あとは精神面を取り入れた話で、お昼過ぎまで続けられた。枚方市では二年目には一万一千羽の雛を入れることになった。
一九五三年には、枚方地区だけで百人以上の山岸式農業養鶏を通しての共鳴者ができ、これがやがて結成される山岸会の地方進出の強力な一つの突破口になるのである。
同じ頃、和田が企画した向島農協の講演でも、藤田菊次郎、林田定三、伊藤正一の三名が山岸の話に共鳴し、共同で鶏舎を建てて二百羽の雛を飼いだした。三人で向日町(むこうちょう)から向島まで六キロ余の道を自転車で何度も山岸宅を訪ねるうちに、やがて見事な卵を産み出すようになる。三人が当時山岸式養鶏を始めていた中村正三と連れ立って訪れたある日、山岸に、「人の迷惑を考えずに、昼の日中に自分のために来るのはどうだか」と、叩かれた。三人にはこれがこたえたらしい。何のために、誰のためにこんなにして鶏を飼うのか、と。
山岸の口吻からすると、技術だけで養鶏はやり通せるものではない。もっと大切なものがあるとのこと。三人の話し合いが真剣に始まった。この養鶏法を自分たちだけのものにしたくない。日本中の各農家にやって貰いたいのだが、三人誰が言い出したともなく、それには……そうだ、この養鶏を全国に普及するための会をつくるに限る。そこでその旨を、和田を通じて山岸に伝えた。これが一九五三年三月の山岸会誕生につながることになる。
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「引用文献」
・『懐想・メーポール』かばくひろし(山本英清)→『全集・第一巻』(一九六一年四~一〇月)