〇一九五三年の山岸会誕生に入る前に、山本英清(かばく・ひろし)の著者自身の記録と取材に基づいた、山岸巳代蔵と山岸会創設の頃の回想録である『懐想・メーポール』を見ていく。
山岸会誕生前後のことは、この記録で克明に語られている。
山本英清(一八九八年生)は、山岸会初期の機関誌『山岸会・山岸式養鶏会会報』の編集責任者であり、山岸会誕生前後の回想録『懐想・メーポール』を、機関紙『ヤマギシズム』に一九六一年四月から三三回にわたり克明に記録している。
その記事から抜粋して、『ボロと水ーヤマギシズム運動誌』に紹介された。
『ボロと水』はヤマギシ会発足から18年経て、提案者山岸巳代蔵の思想をソシャクし、それを絶対視や固定することなしにたえず前進していく性質のものとして、1972年刊行されたもので、1973年第5号まで出版された。
ヤマギシ会が出版したものとして、第一級の資料と私は思っている。実顕地本庁に一本化される前の出版物で、随時この評伝でも取り上げる。
されにそこから抜粋して『山岸巳代蔵全集』第一巻に掲載した。
そこでは、山岸会創設及び創設時の動きに関連の深いものを抄録した。
〇かばく・ひろし『懐想・メーポール』から
山岸会と山岸巳代蔵
山岸さんの生前には、本人やその身近い人々にも直接あたって、山岸さんの経歴について尋ねもし、聞いてもみたのだが、第一ご本人がそれにふれることを好まれぬ様子で、必要なことを断片的に言われる程度だし、家族の方や親戚・知人の方達も、自分に関係した事実については話して下さるが、それもそれぞれの場から主観的にキャッチされた範囲のものなので、時には話が食いちがったり、反対の見方があったりしてどうも筋が通りにくい。
ことに山岸さんの精神的な部面のことになると、ほとんど五里霧中と言ってよいくらいなのである。
山岸会は、山岸さんが主唱し率先して人を集めて結成されたもののように思っている人が少なくないようだが、それはむしろ反対で、現実社会にとびこんで「わが理想を実現しよう」とか、「同志を求めて実践にのり出そう」など思ってもみられなかったことは、山岸さん自らの筆になる文献の中に、はっきり述べていられるとおりである。
養鶏と山岸さん
今はそうでもなくなって来たが、初期の頃ほとんど山岸会は養鶏の会だと思いこんでいたし、知名の人や新聞雑誌などでも、そうきめつけて世に発表したものである。
事実それも無理からぬことで、初期に打ち出したものは、もっぱら養鶏であったし、会に集まって来た大部分の人々は、養鶏が目あてであった。しかも山岸さん自身が青年時代からずっと養鶏を生業として来られたのも事実であったからである。
が、果して山岸さんの生業である養鶏が本業であったのであろうか。
「私は一九歳のときある壁にぶつかり、苦悩のうちに一生かけての仕事を始めたのです」とは、山岸さんの最初の著書『山岸式養鶏法』〈以下、『養鶏書』〉の文中の一節である。
また「この仕事を成すために別に職業を必要としたわけで、ふとしたことから養鶏を職業としたのです」と同じ著書の中に記されておられる。
いってみれば職業は養鶏で、本業は別にあった訳で、山岸さん自身の口を借りると、本業を始めたのが二一歳、職業についたのが二二歳ということになる。
それからずっと四十年、五九歳で亡くなられるまで、一貫して一刻も山岸さんのいのちと共にあって離れなかったものはその本業であって、養鶏の方は前後あわせて二十年。
しかも心身共に養鶏に打ちこまれたのは、その間わずか二ヵ年にすぎなかったのである。
向島の住居
私が山岸さんを初めて知ったのは、前にも記したとおり昭和二六年二月だったが、その頃、山岸さんはすでに、京都市の南郊伏見向島に居をかまえておられた。
そして職業として、米作主体の農業を主とし、養鶏もすでに以前の専業養鶏から、農業経営と一体化した農業養鶏として二百羽ほどの成鶏を飼っておられた。
ここに居を移されたのは、戦争もいよいよ行き詰まって敗戦の色濃い時のことで、この移転を機として今までの養鶏を全廃して、生涯の本業に専念されたので、これは前記の著書には「(養鶏を)廃業して年来の仕事に専念すべく現在の地(向島)に移住しました」とあり、これが昭和一九年であった。
それからは「体からいのちがさようならしたら止めるとして、悠々と綴っていた……」(『知的革命私案』〈第二巻掲載予定〉)とあるとおり、向島の新宅で一生涯を著述に専念しようとされた。
これが「……そして人生の理想について探求し、真理は一つであり、理想は方法によって実現し得るという信念をかため、ただいまはその方法を〝月界への通路〟と題して記述し続けております」(『養鶏書』)の〝月界への通路〟と題する著述なのであった。
しかし戦後の現実の窮迫にのっぴきならなくなり、「……芋と水の生活さえも続かず、一九四九年(昭和二四)心ならずも自活農業を始めてみましたが……」(『養鶏書』)のように、生まれて初めての鍬をにぎる百姓になられたのであるが、これは山岸会誕生までの五ヵ年続くのである。
私が初めて山岸さんに逢ったのはその三年目であったが、「……たまたま私の稲作から養鶏をみつけた人に引き出され」(『ヤマギシズム社会の実態』〈第二巻掲載〉)の、見つけて引き出した人が、向日町の和田義一さんで、これは農業二年目の昭和二五年の秋だったのである。
宇治本さんのこと
山岸さんを見つけて引き出したのは和田さんであるが、それまでにすでに山岸式の養鶏を始めていた人があった。それは山岸さんが米作りの農業を始められた時、一番に必要な田地の周旋にあたられた人で、宇治本さんといい、山岸さんの作出された雛をゆずりうけて、すでにその春から飼っていられた。
その後宇治本さんはその知人である向島の土井さんや、初期山岸会の会計係として重要な役割を果された鳥羽の中村正一さん達を紹介して、共に山岸式養鶏を始められたのであるが、これらの人達はその当初はただ自分達の養鶏にとどまって、それ以上には進まれなかった。
これに反して進んで山岸さんを引き出して、会結成にまでもちこむ主動力になった人達が、和田さんをはじめとする向日町の人達であったのであるが、それにふれるまでに、山岸さんの居宅のあった向島の地にちょっとふれておく必要がある。
巨椋の干拓地
……〈中略〉……
山岸さんの居宅は観月橋から国道沿い三百メートルほどのところにあり、私の初めて訪ねたころは、家の前の一反歩あまりの畑は、麦の青が美しく、夏になると甘藷が植えこまれて、草一本も見あたらぬほど手入れがゆきとどいていた。
家の裏はその昔の桃山城出城の堀の跡で、藻の茂った五反ばかりの池があって、それから南に巨椋(おぐら)の干拓地が広がっている。
私の幼い頃、山に登ると、まっ先に見えるのはこの巨椋の沼で、六五平方キロ以上もあったろうか、いわゆる宇治川の水の調節の役を果す一大プールであったのを、大正の初め頃全部埋めたてて豊穣で名高い巨椋の干拓田となってしまったもので、これは後でふれるが、昭和二八年秋の台風一三号の大洪水に、人工の無理は大自然の猛威にひとたまりもなくうち破られて、一望たちまちもとの巨椋の沼と化す宇治川の大決壊に、山岸さん宅も田も鶏舎も水没する惨事が起こるのである。
ジェーン台風
山岸さんが初めてこの地で鍬をにぎられた頃は、その耕作田は大体三ヵ所にあって、干拓田続きの田が居宅から三百メートルほど離れてあって一番広く、遠いのは一キロ以上も離れて宇治川堤南近くにあった。
和田義一さんはちょうどその頃京都府の農業改良普及員として、この地区の担当であった。
当時は戦後の食糧難時代で、一にも二にも増産増産一本槍で、和田さんも普及員として最も米の増収に力をそそぎ、担当地区を視察しつつ指導して廻っていられた。
ちょうど山岸さんの米作り二年目、二五年九月三日、いまだに関西の人達の語り草になっているジェーン台風が襲来した。
これはそれよりも十余年前の第一室戸台風に匹敵するくらいのもので、当時の日記を見ると、農作物の被害は甚大で、稲は早いものはすでに出穂をはじめる大事なときで、それがほとんどべったり倒れてしまって、中には秋の収穫が皆無に近いのも少なくなかった。
巨椋干拓地は肥沃な上に、当時は肥料の出まわりがひっ迫していた頃なので、近郊の百姓は、主として市街地の下肥を主要肥料として施していたので、巨椋の稲は窒素過多によって草丈も高く、分蘗も多く、かつ軟弱であったので、この猛台風にひとたまりもなく、一望ただの倒伏田の惨状をあらわしていた。
見つける
和田さんが台風被害の実地踏査をしていられると、この一面の倒伏の中にあって、実にめずらしく、一区画の田だけ見事に立ちそろって、しかも瑞穂が房々と出揃っているのを発見されたのである。人にたずねるとこれが山岸さん自作のものだったので、和田さんはすぐに山岸さんを訪ねられたのである。
和田さんはここで山岸さんの人柄に興味を持ち、その経営の画期的であること、農業経営の中に包括され一体として営まれる養鶏、即ち従来の副業でない農業養鶏があり、この農業養鶏を取り入れての経営の結果が、この見事な稲作りとしてあらわれたことを知られたのであった。これが二五年の秋だったのである。
これから和田さんは、これほどすぐれたものをここだけに止めておくことの惜しさを痛感し、心進まぬ山岸さんを口説いて、強引に講演に引き出しにかかられるのである。
……〈中略〉……
「引用文献」
・『懐想・メーポール』かばくひろし(山本英清)→『全集・第一巻』(一九六一年四~一〇月)