広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎山岸巳代蔵の本領(新・山岸巳代蔵伝⑪)

第四章 日常の総ての現れはもとの心の顕れ
1 農業改良普及員和田義一との出会い
 一九四四年に向島に移転してからは、家の傍の池を利用して多数のアヒルを飼って、海軍機関学校へ食糧補給として納めたりして生計を立てていたが、ほどなく終戦となる。

 敗戦に終わった一九四五年前後は極端な物資不足で、山岸の生活も厳しくなる。
 そこで自活農業を始めることになり、そこから、養鶏法と農業の相互関係を一体に結び付けた形態を編み出すことになる。

《戦後、生活が年と共にきびしくなり、芋と水の生活さえも続かず、一九四九年心ならずも自活農業を始めてみましたところ、これは結構な職業で、反復作業が多く、体さえ動かしておれば、頭はかえって思考が纒まり、好都合なことを発見しました。なお経営を良くするために鶏の必要なことも解りました。》
(「本養鶏法の沿革―養鶏廃業と農業養鶏の確立」)

 一九五〇年三月には、農業経営の合理化に資するために、過去専業時代の養鶏法を農家の実際に当てはめた養鶏法に組み立てて、農業養鶏と命名して発表することになる。

 この年の九月にジェーン台風が京阪神を中心に猛威を振るう。あたり一望倒伏田の中、稲が見事に立ちそろっている山岸の耕作田を発見したのが、台風被害の実地踏査をしていた京都府の農業改良普及員の和田義一である。

 当時は戦後の食糧難時代で一にも二にも増産増産一本槍であった。和田は普及員として米の増収に最も力をそそぎ、担当地区を視察しつつ指導して廻っていたのである。

 和田は山岸を訪れ、その人柄に触れ、これほど優れたものをここだけにとどめておくことの惜しさを痛感し、心進まぬ山岸を口説いて講演会などに引っぱり出した。

 はじめ山岸は心進まなかったようである。当時の山岸の願いは本来の仕事・理想社会の究明とその著述であり、根本問題の解決が先決で、養鶏はその一小部分であり、あまり道草をしたくなかったのではないだろうか。農業養鶏を発表したのは当時の農業事情からのものであり、未完成で絶対的なものでなく他に推奨するほどのものではないと考えていた。しかし和田の熱意に誘われて、新たな可能性に向けて船出することになる。

 このエピソードは興味深いものである。歴史研究者にとって「もし」は禁じ手らしいが、もしここで山岸が引き出されていなかったら、誰からも理解されることもなく、秘められたままで終わるかも知れなかったのだ。山岸会も誕生しなかった。
 このエピソードから、その「無名性」と実際家としての山岸について見ていく。


2 山岸の本領
 私は山岸の特質の一つに「無名性」があると考えている。
「無名性」とは、発生が個人からのものであっても、それが広く深く公共の生活に組み込まれると、その発生源の固有名が意識されなくなり、その制作されたものは多くの人々に受け容れられ、日常化すれば当り前のものになる。そうなると「誰がつくったか」「誰が考えた」ということは問題にならなくなる。

 この無名性については、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美を見出し、これを世に広く紹介する活動に尽力した柳宗悦の民藝運動が知られている。

 柳は「この世の多くの優れた作品が、一文不知の名もなき工人たちによって作られている事実を、どうすることも出来ぬ」(『民藝四十年』)と述べている。植民地支配下の朝鮮の美術文化にも深い理解を寄せ、三一独立運動の際には朝鮮総督府に対し鋭く批判した。

 私が山岸に無名性を覚えるのは、その著作についてである。
 最初のまとまった著書『山岸会養鶏法・農業養鶏編』の(前編)は著者山岸巳になっているが、一新された増補改訂版には他の人の書き加えもあり、著者の名前はなくなって山岸会出版部発行となっている。

 山岸巳著作も多いが、これも長男の名前であり、大村公才などのペンネームもいくつかある。無署名のもの、他の会員の名前で発表した著述もあり、全集編集の過程で、おそらく山岸の著述ではないだろうかと推測しつつ検討を重ねた経緯がある。

 山岸会創設時にも、ただの一会員として参加し、「その名称もいずれ時がくれば変わるでしょう」と思っていた。
 山岸にとって自身の固有名などどうでもよく、実質的に、その考え方なり作品なりが、何ほどかでも社会に生かされることを願っていた。それが「山岸の本領」である。


『山岸会養鶏法』の「特別解説」に「山岸の本領」と題した一節がある。

《大したものでもなく、用い方によっては他を傷める山岸養鶏にしても、何ほどかでも役立つなれば、そこに山岸が生かされることを思えば、御礼の一つも云いたくなります。
 ただ念うことは、自分(近い周囲も)のみの儲けに利用されないようにと思うのです。

 しかも山岸養鶏等と名付けられていますが、全部皆他から受けたもののみのデッチ上げで、私のものは一つもありません。私の生まれる以前からあった山岸という符牒も、いつどんな人が付けたものか、身体も心も物の考え方や能力も、社会関連により両親を経て受け継いだものや、周囲から与えられたものに過ぎなく、幾多先輩の業績を継ぎ合せ、鶏や自然に教えられ、受けた頭脳で考察、発案し、組合せたもので、こうして全部社会・周囲から受けたものを、凡て社会に提供利用されることは、当然の帰結だとしています。

 これを後の人に伝えず、自分で停滞独占して、狭い自分のみの経営で、五万、十万に用いて、何百万円を掻き集めて、貯金して通貨異変を心配したり、威張る子女に養育して不幸に一生を暮れしめるよりも、薄くとも広く、多数の鶏に活用される方が大きいと思うのです。微力でも本当に良い社会に使われたいのです。》
(『山岸会養鶏法』―山岸の本領)


 山岸はエジソンやプラグマティズムの源流の一人、フランクリンの頭脳・業績とそれを引き出した環境・機会に極めて高い評価を与えていた。山岸自身も、日々の暮らしや養鶏などから実験、試行錯誤を重ねて、理想社会のあり方や独自の農法を編み出し、山岸会という組織のもとで、理念の究明にとどまらず、現実的に問題を提起し自分で答を見出していきながら、社会に向けて様々な具現方式を打ち出していった実際家であった。

 私は山岸の考え方に、「プラグマティズム」(実用主義)の精神を感じる。「プラグマティズム」とは、事象に即して具体的に考える立場で、観念の意味と真理性は、それを行動に移した結果の有効性いかんによって明らかにされるとする立場をさす。

 山岸会が結成されてから、山岸の思想というよりも、その農法・養鶏法に魅力を感じて集まってきた人が多かった。

 その後の拡がりや参画者の多くも、一週間の特講体験に併せて、実顕地やその村人に触れて、あるいは暮らしに根ざした具体的な農法、生産物、楽園村を通しての子ども達の様子などから誘われるものが要因としては大きかったと思われる。

 私自身も、特講体験や二週間の研鑽学校に参加してヤマギシズムに参画を決めたのだが、そこで出会った村人の魅力と、鶏や卵の見事さ、北海道で生き生きと酪農に携わっている青年達に触れたことが参画につながったと思っている。ヤマギシ会には、実際の日常の暮らしに根ざした具体的な運動形態があると、魅了するものがあった。

 和田義一は稲の出来栄えから山岸の考え方に魅力を覚えて、山岸会結成に加わるようになった。この順序でヤマギシ会に関わっていった人が多かった。


「山岸の本領」は『特別解説』の「4 頭の悪い人のために」の中で述べている。
《自分さえよければ、またはわが家・わが村・わが国をと、国家個々人主義に出発した対立精神は、絶対に永続性がない原理を知り、人間生きていくには一人立ちは出来ない、自分一人離れたものでなく、世界中の人と相繋がる自分であることを意識し、相共に栄える社会愛社会の一員であることを自覚して、養鶏する精神を云うのです。

 人の厄介にならなくとも、自分は自分でやっていくからかまってくれるな、人のことは見殺しで見過ごす個々人主義では、必ず行き詰まる日が来ます。全世界の人の知識を皆と共に集めて、皆と共に繁栄しようという精神を云っているのです。

 解り易く云うと、永久に儲け続けていくには、自分一人の知恵や考えでは限度があり、他から取り集めるにも、自分一人で絶えず探し求めたところで、労して功少なく、よし専売特許的なものを得たとしても、一時的には栄えても、またその上その上が現れて永久に優位は保ち得ず、狭い自分の経営範囲でそれを利用するよりも、世界全体の養鶏に活用した方が、その効果が幾層倍かに現れ、自分の持った知恵や技術が最大限に生かされ、世界中の富が増進し、自分が及び子孫が、世界中の人(相棒)の住む社会が豊かになります。

 知恵も技術も世界中の人のものであり、世界中の人のために最大に役立たすことで、これが最も大欲で自分を大きく生かし、生きがいを楽しむことになり、一番楽しい人生です。》
(『特別解説』の「4 頭の悪い人のために」)


 そして、「多川柿」「山岸の本領」と続く。
多川柿
 奈良の多川という柿の先生が、柿の優秀品種の接穂を冷蔵庫で沢山貯蔵しておいて、老躯・病身を厭わず、その接穂を持って、各地を自費で訪ね廻り、実生樹や劣悪柿樹の接換をさせて貰っていました。無論タダです。

 私の方へも来ました。その時私は云いました。「あなたは欲の深い人ですね。自分の柿畑で足りないで、そんなことして日本中多川柿を接いで廻り、多川が死んでも柿に多川を生き続けようとは執念深い男だね」と。 「その通りです。よう接がしてくれました。有難う」とお礼を云って、何か置土産までして帰りました。

 こちらは接がして上げて、御礼まで貰って、憎まれ口たたいて、一言の御礼も云わないのです。

 私にしてみれば、多川の素晴しい技術と、その精神を永久に生かさして、彼氏に喜びを与えたのであるから、御礼を云って貰うことは当然で、常識外れで、時季外れの柿の接穂から、昨今いきいきと青い芽をふき出したから、やがて来る年には熟れる柿の実に、広く、永く、多くの人々と共に、多川の味を思い浮かべるでありましょう。》
(『特別解説』「4 頭の悪い人のために」)


「特別解説」は『山岸会養鶏法・増補改訂版』において加筆された。
 その文章は、初期の山岸巳代蔵の思想が詳細に語られている。

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「引用文献」
・『山岸会養鶏法・増補改訂・農業養鶏編』「特別解説―4 頭の悪い人のために」→『全集・第一巻』(一九五五年七月)