広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎死者生者まざりあって心をゆききしている。(吉田光男さんのことなど)

〇Facebookに「思い出機能」がありお知らせがくる。
 数年前はこのようなことを考えていたのだなという発見もあるが,同じようなことを繰り返し語っていることも多い。
 焦点に多少の違いはあるが、大事だなと思うから述べていると思う。

 5月1日に吉田光男さんのことを語っていた記録のお知らせが来た。
 吉田さんは4年前の4月30日にお亡くなりになった。

 時折『わくらばの記』など参照していて、このブログでも、頻繁に紹介している。
 吉田さんに限らないが親しい人の死去に触れるたびに、思い起こす文章がある。

 鶴見俊輔さんが、交わりのあった百数十人の故人について悼む心を綴った『悼詞』の「あとがき」である。


▼〈「あとがき」
《私の今いるところは陸地であるとしても波打際であり、もうすぐ自分の記憶の全体が、海に沈む。それまでの時間、私はこの本をくりかえし読みたい。

 私は孤独であると思う。それが幻想であることが、黒川創のあつめたこの本を読むとよくわかる。これほど多くの人、そのひとりひとりからさずかったものがある。ここに登場する人物よりもさらに多くの人からさずけられたものがある。そのおおかたはなくなった。

 今、私の中には、なくなった人と生きている人の区別がない。死者生者まざりあって心をゆききしている。

 しかし、この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、八六年にわたって傷つけた人のこと。そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる。
(二〇〇八年八月一九日  鶴見俊輔)》

         ☆

「Facebook掲載文」
〇吉田光男さんのこと
 吉田光男さんとは、8年間(2003年~2011年)にわたる『山岸巳代蔵全集』の編集・刊行委員として時々お会いしていた。その後私は、それの案内書の位置づけで『山岸巳代蔵伝』を書き始め。その過程で頻繁に連絡を取るようになり、出版後も交流を重ねてきた。

 吉田さん(1932年生)は1974年に出版関係の仕事を辞め、ヤマギシズムに共鳴して参画され、その後40年余、山岸会事務局や様々な実顕地で生活を送り、その間にたびたび。特別講習研鑽会の世話係をしておられた。

 1990年代後半ごろから、実顕地の進めている方向性に疑問を持ち始めた人たちが徐々に増えていき、特に学園の酷い実態が明らかになるにつけ、2000年前後からヤマギシズム実顕地から数多の人が見切りをつけ離れていった。

 吉田さんにお聞きしたところ、この時に、深く悩んでいたという。
〈私にとって一番深く悩んだのは、2000年以降の10年である。これまで村の中心で活躍していた何人かの人たちが鈴鹿に居を移し、新しい運動を始めた。-----しかし、自分が十分納得しないうちに、「ここがダメならアッチがあるさ」と簡単に移り変わることなどできない。村に問題があるとしたら、それはどこにあるのか、そしてそれは何なのかを見極めたいと思った。観念の形を変えてみたところで、中身が変わることはないのだ。〉(「わくらばの記―病床妄語④3・15」)


 吉田さんの温厚な人柄と親身になっての対応などに、私を含めていろいろお世話になった方も多いかと思う。

 親しく交流するようになってからの吉田さんには、山岸巳代蔵の描いた理想とそれの具体的な実現方法としての「けんさん」に焦点を当てながら、縦横無尽に様々なことを問い続けたひととして深く印象に残っている。

 私からみて、吉田さんにとって次のことが大きかったのではないかと思っている。
 一つは『山岸巳代蔵全集』に刊行・編集委員として関わったこと。吉田さんが捉えていた山岸巳代蔵やヤマギシズムへの見解を大きく問い直し、見直すこととなった、そこから、現実顕地の展開の様相、特に学園問題のことを見過ごすわけにはいかないと思うようになる。

〈学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返らずには、自分自身を前に進めることはできない。〉と、その問題が出てくる実顕地の体質や自分の見方にもメスを入れながら、考察・発言するようになった。


〈幸運にも『山岸巳代蔵全集』の刊行が決まり、その編集にかかわることができた。本づくりの必要上、何回も何回も原稿を読んだ。その時はよく理解できなくとも、何かの折にふと山岸さんの言葉が蘇ってきて、心に深く突き刺さることがある。こうした経験を何度か繰り返しているうちに、自分が固定観念の虜になっていることに気づかされる。自分の考えが正しいと自信のある時には絶対に気づくことはできなかったことだ。人間、時に悩むことの重要性を意識させられた。〉(「わくらばの記―病床妄語④3・15)

 
 もう一つは、最近の文書でも書かれていた「ガンが見つかってからこの一年半の間に、自分の人生の大半を占めたヤマギシでの生活について振り返り、大きく見直すことができたことは望外の幸せであった。」とあるように、長期にわたる入院生活を契機に、縦横無尽に思索を繰り広げられ、「ヤマギシ」のことに限らず、ご自身の心のありように引き付けて、様々なことを振り返り、大きく見直す一年半となった。

〈病気のもう一つの功徳は、病気をきっかけに自分の人生を振り返ってみようと思い立ったことである。何も誇るべきもののない、恥ずかしいような生き方しかしてこなかったが、その恥ずべき生き方を見つめ直せば、人間一般に通ずる何かが見えてきはしないか、と思ったのである。

 今は読みたい本を読み、書きたいものを書き、話したいことを話す毎日で、実に快適である。実顕地がそれを許容してくれていることは、本当にありがたいことだと思っている。〉(「わくらばの記―ごまめの戯言⑥10月」)


 このような経過と、食道癌による長期入院を契機として、「ヤマギシに関連して、自分が向き合わなければならないテーマについて、これから書き続けてゆくつもりです」と、その思いを『わくらばの記』として書き続けていった。

『わくらばの記』は「ヤマギシ」という枠を超えて、吉田光男さんの今までの生き方、癌など疾病や障碍を抱えた人の生き方、高齢社会や「老い」の生き方など、共に考えていきたいことが多々あるのではないかと思っている。


 吉田さんがごく身近な人に託された「最後の時を迎えて」には次のような「私の死生観」などが書かれている。

〈「私の死生観」:私は、人の死は自然現象の一つと思っているから、自分の死についても残念とも悔しいとも思っていない。時が来たら自然に還る。当たり前のことである。

 また人生の価値とは、生きた時間の長さではなく、その充実度にあると考えている。ガンが見つかってからこの一年半の間に、自分の人生の大半を占めたヤマギシでの生活について振り返り、大きく見直すことができたことは望外の幸せであった。これを支えてくれた村の人々、たくさんの知友の方々に感謝を申し上げたい。また、家族・親族の方々にも改めてお礼を申し上げたい。〉