広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎社会や人生のあり方を根本的に究明(新・山岸巳代蔵伝⑦))

第三章 社会や人生のあり方を根本的に究明することが先決
1 一定の師がなく、型がなく
 二一歳から郷里で小規模の養鶏をはじめた。この頃について千代吉は、
「実に熱心なもんやった。いつ寝ていつ起きるのか皆目見当つかんことやった。わしがいつ起きても仕事しとった」と語っている。

『山岸会養鶏法』の「六 本養鶏法の沿革」に、養鶏を始めてから農業養鶏として確立するまでの経緯が簡潔に述べられている。そこからの引用を時代状況と関連させながら見ていく。


《六 本養鶏法の沿革
 月界への通路
 私は一九歳の時、或る壁にぶつかり、苦悩の内に一生かけての仕事を始めたのです。そして人生の理想について探究し、真理は一つであり、〝理想は方法によって実現し得る〟という信念を固め、只今ではその方法を「月界への通路」と題しまして記述し続けております。

 養鶏への動機
 この仕事をなすために、別に職業を必要とした訳で、ふとしたことから養鶏を職業としたのです。》


 養鶏に携わるようになった経緯については『山岸養鶏の真髄』「六 求むれば得らる」において山岸自身が書いている。

《山岸養鶏の真髄》は、『農工産業新聞』の養鶏特集号などに、一九五五年一〇月から一九五六年四月まで、七回にわたって連載された。著者名は山岸巳。

六 求むれば得らる
 私が養鶏に入った動機は、フトした奇縁とも云うべきものがあり、青年時代、人生及び当時の社会組織に疑問を抱き、それの探究に没頭し、昼夜の別なく参考書を読み漁り、身心を酷使し、かつ再三、拘引留置等の圧迫のために健康を害し、やせ細った秋の一日、郊外に出て読もうと一書を携えて葛飾方面に行った時、またイヤな尾行が付き出し、犬を撒くためにある会社へ飛び込んだのが、小穴氏の日本家禽産業会社(東京)で、種鶏舎に飼われていた純白の白レグ(当時は銘鶏)の美しさと、広い建物の中に整然と並べられたサイファー式孵卵器や電熱育雛器の中の可愛い雛に愛着を感じ、かつ私が把握した社会組織のあり方を鶏に応用実験すべく、郷里(滋賀)に帰って養鶏(初めは人工孵化)に着手したのです。》

 
 養鶏に入った頃は、一九二一年二〇歳の徴兵検査のあと、一九二二年の話だ。
 この時な話はこの記録のみで、多少物語化していることは否めないとしても、煩悶青年としての巳代蔵を思う。

 一九二二年の政治的、治安的な出来事としては、(四月)「 治安警察法改正公布。女子の集会参加禁止を撤廃」、(七月)「日本共産党結成(堺利彦・山川均らによる)」、(一一月 )「コミンテルン第4回大会、日本共産党を日本コミンテルン支部として承認。「日本共産党綱領草案」(22年テーゼ)が示される」、(一二月)「 ソビエト社会主義共和国連邦成立」

 一九二三年には関東大震災がおきた。
 これに関しては、さまざまな見解があり、わたしはウィキペディア(Wikipedia)の「関東大震災朝鮮人虐殺事件」を一つの参考にしている。

 このことをどのように考えていたのか、記録がないので、これ以上触れるのは控える。

 当ブログ【煩悶青年として(新・山岸巳代蔵伝➂)】に述べたことをあげておく。

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 山岸は一九一九年頃の二〇歳前後に朝鮮にいて、朝鮮のことを語っている。

「私が十八、九、二十(歳)頃に京城(ソウル)で、雪はないけど、寒いこと寒いこと。四十年前。……懐かしい第二の故郷、にんにくや唐辛子が好きになったのも、朝鮮人の中へ入って、親しい友達になり、何でも食べる。赤エイの造りやらおいしい」(「編輯計画について」)

 一九一九年に三一独立運動が起こり、京城から朝鮮半島全体に広がり数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して治安維持にあたった。

 理想社会究明に専心していた時期と重なること、尊敬する兄が朝鮮で活動していたこと、この発言からは、朝鮮にある程度長く滞在し、かなり親密になっていたと思われることから、私は、山岸の言う「ある壁」は、朝鮮の状況や社会運動に絡んだものではないかなとも推測している。新潟と朝鮮間を行き来していたとも考えられる。

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《(本養鶏法の沿革)滋賀県時代
 さて養鶏も職業となると、なかなか容易なものでなく、一九二二年人工孵化を、養鶏未開地滋賀県の僻村で小規模に始めましたが、当時その地方では、専業養鶏場の卵は会社玉、人工孵化雛を機械子と呼ばれ、機械子は育たぬものとされていまして、雛を売るのに一苦労で、前金等とは思いもよらず、ようやく奨めて、出た雛を届けると先方では大騒ぎで、雛に気を取られ、決済は後廻しとなり、次に訪ねて見ると雛の姿は後形もない有様で、私も雛は出しても育てる自信がなく、私の性格からも代金の事等持ち出せず、先方委せの幼稚極まる商法で営業にならず、先進地へ乗り出す程の資力も、熱意もなく、そこで雛販売を中止して先ず雛を育てるのが先決と発生ごとに自分で育雛を試みました。

 実業養鶏に入るには二つの道がありまして、養鶏場等へ入って実地見習してから始める方は失敗が少なく、その間研究を続けて改良して、自分のものにする方法は、成功率も高く、安全な行き方です。しかしまた何か型に捉われ、脱皮し難い人も多いようです。

 私の場合は、飼養・管理・経営総てに何たるを知らずして先ず雛を手掛け、しかも知らないが故に、年中連続育雛して、或る時は失火で育雛器・雛諸共焼失し、或る時は目ずれで全滅に近く、ループ・ジフテリー・鶏痘、瓦斯(ガス)や飼料中毒、換気不良・食滞・日光不足等で病気の一通り、脱肛(だっこう)・肛門啄(たく)食(しょく)・啄羽(たくは)の悪癖、さてはワクモ・蛔虫に至るまで経験させられ、養鶏を捨てかけたり、失敗を重ねる内に、時には無類の好成績の場合もあり、自家孵卵も止めて若鶏養成に力を注ぎ、専業養鶏家達に認められて、産卵用若雌を大口物として、京都の佐藤銕彦(てつひこ)氏その他に多数提供し、一方採卵鶏も充実して、養鶏景気も上昇時代で雛を入れれば必ず利益があり、業績はようやく軌道に乗って参りました。》                   
(「本養鶏法の沿革―滋賀県時代」)

※注 孵化:卵をかえすこと。育雛:卵からかえした雛を成鶏に育てること。目ずれ・ループ・ジフテリー・鶏痘:鶏の病気。肛門啄食・啄羽:尻つつき・羽食いのこと。ワクモ:鶏に寄生するダニの一種。大口物:売買取引の多額な品物。


 大正末期から昭和にかけての日本は社会全体が大きな変貌を遂げていった時期である。第一に、農業国から工業国への変化。日本の経済は、農業を基幹産業とした産業構造から、工業に主導された産業構造へと経済の構造を大きく転換する。第二に、都市型社会の成立。東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸を「六大都市」と言うようになり、都市と農村の格差がより拡大する。第三に、文化のスピード化と大衆化。出版文化が花開き、週刊誌が登場する。現代までつながるライフスタイルを成立させた。

 その流れの中で牛乳・鶏卵や畜産物は急激に生産量を伸ばしていた。養鶏分野では、初生ヒナ雌雄鑑別技術が国際的な注目を浴び、一九二七年(昭和二)からは鶏卵増産運動が展開され、一九三一年には有畜農業奨励規則が公布された。

 そのような時代背景の下で、山岸の業績は軌道に乗り始めたのである。
 一九二九年二八歳のときに、従妹にあたる蒲生郡安土村中屋の山根志津子と結婚する。

 これについて刊行委員でもある川口和子は、
「結婚を決める時、志津子さんとどうかと言われた時は別にどうともなかったが、志津子さんの縁談が決まりそうと聞いたとたん、自分で頼みに行って貰ってきたという話を先生から聞いた」と語っている。

 一九三〇年九月に長男・巳(み)が誕生する。上の兄二人は共に三五歳ほどで早世していて、一家の柱として家業を継いでいたが、一九三一年に家を千代吉に譲って、新たな展開を求めて若い妻と幼い子を連れて京都市に進出した。


2 天職と趣味職業が一致し、一事に没頭
 京都養鶏界では名の知られた岡本俊輔という人の世話で、京都市上京区に鶏舎を建てた。その当時について「本養鶏法の沿革―京都進出」から見ていく。

《一時に五千羽の雛を入れたり、従業員や食客(しょっかく)にも無頓着で、放漫極まる経営ぶりでありましたに加え、ちょうどその年から翌年にかけて鶏界大不況に見舞われ、若雌一羽六〇銭・名古屋種二歳雌五〇銭・白色レグホ―ン三二銭・鶏卵秋雛の初産一個九厘で買い取られた記憶がありますほどで、すっかり行き詰まり大整理をして、小さな貸鶏舎へ移転し、自家採種・母鶏孵化で採卵一方にし雇人もやめ、今までの交友係累(けいるい)を断ち、冗費を省き、別の仕事も一旦中止し、総ての作業一切を自身でかたづけ、約二ヵ年養鶏に心身共に打ち込んで働きました。今もその当時を追憶する事があります。天職と趣味職業が一致し、一事に没頭出来る人は、能率も上がり仕合せだと思います。》
(「本養鶏法の沿革―京都進出」)


 鶏界大不況とは、一九二九年の世界大恐慌の影響による翌年からはじまる昭和恐慌のあおりを受けてのものである。輸出が激減、米をはじめとする農作物の価格も急激に低下する。同時期に北海道・東北大凶作もあり、農村では若い娘が親に売られる「子売り」が続出。失業による自殺や一家心中が急増する。自作農でも赤字農家が五〇%台に達し、農家の負債総額は恐慌三年間に六〇億円を超えたとも言われている。

 だが、「農村恐慌・東北大冷害は、わが国経済に大きな打撃を与えた反面、技術の重要性を認識させ、研究の飛躍的発展につながったという点では歴史的な役割を果たした」(『昭和農業技術発達史第一巻』)とある。戦争が科学技術の発展を促してきたと言われるが、必要は発明の母となる面があるのだろう。

 養鶏分野では、それ以前からの鶏卵増産などの高まりで、長年にわたって養鶏界の指導者として活躍した高橋(たかはし)広治(こうじ)や、「スパルタ育雛」の斉藤虎松、「青菜青草多給論」の榎本誠などの注目される論考が次々と発表され、山岸にも多大の影響を及ぼしていた。

 一九三二年には長女・映(はゆる)が誕生した。
 二人の幼子を抱えながらも、山岸生涯の中でもっとも養鶏に専心した時期となる。

 千代吉は「京都へいった当時は、薪炭みな送った。その時分は他の本やらあまり読んでなかったようだし、仕事に追われていたようだ。青草を集めてきたり、ネギの青葉を寄せてきたり、青草の上にアラをやって、糠も相当使っていた」と語っている。

 そして、このとき組み立てられた養鶏法が、その後更に実験、検証を重ね、一九四九年(昭和二四)に名づけられた「農業養鶏」となる。


《本養鶏法は、その当時に専業養鶏の型として組み立てたものです、それまでの養鶏は時の波に乗った甘いものでしたが、苦難時代に鍛えられて、どんな不況も乗り越えられる自信が得られました。もちろんそれまでに、幾多の先輩諸氏の貴重な基礎研究、わけても愛知の高橋広治氏の養鶏法に負うところ甚大で、それら先輩の方々に対し尊敬し、誰に何を習ったたかを忘れずに常に感謝しています。私のように実地見習の時を得ないものは犠牲が多く、書籍により、または大学研究室から学理を、実際家から応用実績を、専門雑誌等により推移及び綜合的な面を知って積み上げ、理論的に立案し、実験・観察を加えて、失敗と永い年月を重ねなければ纏(まと)まらなかったのです。》
 (「本養鶏法の沿革―山岸会養鶏法の発祥」)

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「引用文献」
・山岸会養鶏法 農業養鶏編』「六 本養鶏法の沿革」→『全集・第一巻』(一九五五年七月)
・『山岸養鶏の真髄』「求むれば得らる」→『全集・第二巻』(一九五五年)
・『正解ヤマギシズム全輯』「編輯計画について」→『全集・第七巻』(一九六〇年二月)