広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎根本問題から究明しなければ、永続する養鶏は成り立たない(新・山岸巳代蔵伝⑧)

(第三章 社会や人生のあり方を根本的に究明することが先決)
3 根本問題から究明しなければ、永続する養鶏は成り立たない
 一九三四年九月に室戸台風にあって鶏舎は大損害を受け、それを機会に下京区の台風で倒れた養鶏場を買って移転することになる。その頃について次のように述べている。

《その後風害に遭遇し、それを機会にまたまた移転し、それからは順風満帆で、一時は三ヵ所の鶏舎に飼鶏一万羽を詰めたこともありますが、苦難時代ほどの刺激も興味もなく、また大した進歩もせず、もとの自分の仕事に帰り、養鶏はただ惰力で職業として継続し、来訪の人々から日中でも、「お寝みですか」と挨拶されるほどの不熱心さで、鶏舎へは殆ど足を踏み入れなかったけれども、この養鶏法の特徴を発揮して不馴れな雇人まかせで、秋季はことに部屋一杯に卵が積まれ、同業養鶏家にまでも多量に融通することが出来たほどで、上得意先は思いのままに選択する自由を得ました。

 先輩養鶏家達は私の鶏舎を見て、鶏舎なり育雛法等の余りにかけ離れているに驚き、こんな乱暴なことは出来ぬと恐れて自分で試みようとしませんし、私としましては、今でもそうですが、個人の自由を尊重し、他の生活・職業に立ち入らない者で、親切の押し売りまでしなかったのです。》
(「本養鶏法の沿革―順風満帆」)


 山岸は自家種鶏から出した種卵すべてを、京都進出以来親交のあった山下照太郎経営の孵卵場で委託孵化してもらっていた。山下とは同年輩で、お互いの経営ぶりから家庭内のことまでよく知り理解しあう仲だった。後に山下は、山岸会結成から初期の基礎固めに、大きな役割を果たすようになる。

 この山下照太郎の先代栄次郎が京都養鶏界の長老で、「京都市養鶏組合」を組織し、自ら専務理事になっていたが、役員が一斉に引責辞任する事件があり、照太郎の主唱で、その頃頭角を現していた山岸が一九三四年から京都養鶏組合の専務理事につくことになった。

 一九四一年からは組合の専務理事は辞めて飼料部係長となり、戦時中は、一般生活者の栄養の支えに京都市殖産課に協力し、国民一人一羽の「家庭養鶏のすすめ」を提唱し、パンフレットをつくり普及に努めた時期もあった。この頃、戦時下の飼料にまつわるいくつかの出来事があった。


《私は飼料欠乏時代に京都専業養鶏組合の責任者としてその鶏を維持するために、麦糠・粟・稗糠・焼酎粕のような牛も好まぬ粗飼料を多量入荷して分配しました。組合員の多くはそれを鶏に与えて鶏を痩せさせました。卵を産まなくなったと不足を云って来ました。人が鶏舎へ近づくと、餌を求めて一斉に鳩のように飛んで来るそうで、餌が足りないかと給餌器を見ると殆ど食べずに残ってあり、風船鶏や飛行機鶏が続出で、冥土とやらへ毎日飛んでいくそうで、散々迷惑を相掛けました。給餌係の先走りとして一人の従業員が給餌器の残餌を捨てて回り、無理して手に入れた餌を捨てるために人手が要り、忙しそうでした。

 強硬派は私の鶏舎へ押しかけます。私の鶏舎へ案内しますと鶏は静かなものです。皆満腹し、落ちついてよく肥っています。恥ずかしいのか真っ赤な顔して、満足そうに卵を普通に産んでいるのです。秋には特に大卵を産んでいるのです。同一の鶏で卵量が変わるのです。産み細る傾向の時には先ず小卵となります。大卵を産むことは産卵数の上昇をも意味します。そこで責任上粗飼料による飼養法について説明しますと、一応納得して帰ります。後に結果を聞くと自分の鶏はどうしても食わぬから餌は他へ譲って鶏も売ったとの報告で不足顔です。こんな主人に飼われた鶏も多分不足顔でハンストしたのでしょう。》                  
(『獣性より真の人間性へ(一)』)


 山岸はふとした機縁で携わることになった養鶏を通して、その思想が膨らみをもって培われてきた。

 京都市養鶏組合の要職にあった一養鶏家として、国民一人一羽の「家庭養鶏のすすめ」を提唱し、パンフレットをつくり普及に努めた時期もあったところから、諸般の考えから「農業養鶏」として打ち出すようになる。

 その一つのかたちである「山岸養鶏」が戦後の日本農業界において一世を風靡する中、山岸巳代蔵の思想に触れ、それに共感を覚えた人達によって山岸会が結成され、その後、様々な活動が行われていった。山岸の没後、活動は時代と共に移り変わり、農業面のみにとどまらず、流通、教育、環境など多岐にわたって展開され、日本国内はもとより世界各地にも伝播していった。

 山岸巳代蔵の思想は、養鶏や農業にとどまるものでなく、人間の幸福や社会のあり方の理想を追求し実現しようとするものであろう。

 しかし、戦時下という時代の制約もあって、山岸は当初、自分の思想を鶏に適用して山岸式養鶏法を組み立てた。それが非常に画期的な省力養鶏で、短期間に効果のあがったこともあって、山岸の思想本体そのものよりも、その具現体の一つである「山岸養鶏」が戦後の農村を中心に急速に広まった。


 一方山岸は。養鶏・稲作などの「農」の実際家として実践が、その思想に鮮やかな色どりを添えていて、農民をはじめ多くの共鳴者を得て山岸会誕生となる。

 この新・評伝で順次、山岸巳代蔵の初期の頃の思想が繰り広げられている「山岸養鶏」に関する魅力的な諸種のテキストに触れていく。



養鶏廃業と農業養鶏の確立
《話を元へ戻しましょう。かような訳で戦争の影響で飼料入手難の時も、本法により、麦糠や粗飼料を多給し、量に不足は感じなかったが、統制経済で面白味がなくなり、かつ当初の計画羽数、延べ一〇万羽を遙かに超えたので、廃業して年来の仕業に専念すべく、現在地に移住しました。が戦後、生活が年と共にきびしくなり、芋と水の生活さえも続かず、一九四九年心ならずも自活農業を始めてみましたところ、これは結構な職業で、反復作業が多く、体さえ動かしておれば、頭はかえって思考が纏まり、好都合なことを発見しました。

 なお経営を良くするために鶏の必要なことも解りました。
そこで過去専業時代の養鶏法を、農業に織り込んで、相互関係を一体に結びつけた形態に改組したものを、農業養鶏と名付けたのです。》
(本養鶏法の沿革―養鶏廃業と農業養鶏の確立)


・大水禍と農業養鶏
《稲作農業を始めて第五回の秋を迎え、栽培法も養鶏を織り込んだ形で、年々慣行法を改変し、私は四五(よんご)農法と云って、労働標準一週四五時間勤労で成り立つ省力農法を目指し、育苗に、施肥法に、或いは除草・中耕を一回もせずして、かえって増収する稲作法、その他の農法を組織的に体系づけていますが、成績も漸次向上して来たところを、宇治川決壊により、一町六反歩の耕地全部と住宅に一丈の深さに浸水し、横斑ロック初産雌七四〇羽をはじめ、多数の鶏が溺死しました。その中で農業養鶏の形で一五〇羽の名白若雌収容の一棟は、棟木下二尺まで浸水して全滅と思っていましたところが、三日目にやや減水しましたので、気が付いてみますと、一羽も死なずに浮き上がった敷藁の上で卵を産み、生存しておりましたのには一驚しました。その鶏舎は初生雛から、鶏糞を一回も取らずに、その上へ麦稈や螟虫刈りをした稲の穂や、虫を食べさすために、敷藁代用を兼ねて投げ込んでおいたものが全部浮き上がったもので、農業養鶏の良さがこんなところで奇跡的に発見されたことは、一〇〇〇羽近くの成鶏を死なせた損失を、償ってなお余りある収穫であると愉快に思っています。》
(本養鶏法の沿革―大水禍と農業養鶏)

註 横斑ロック七四〇羽云々は会のモデル種鶏舎の方で、私は作業も出資もしておらず、営利目的ではないが、責任者の立場にあり、何ら経済面に関係なく、そこでやっているバタリー育雛も、私の職業から離れた専業型のもので、私は職業的に見て鶏二〇〇~三〇〇羽を飼う一農民に過ぎないのです。



 一九四四年に、食料統制法違反の罪で留置されることになった。当時は闇屋が横行した時代で、京都精麦会社から出る麦糠を組合の養鶏家たちに配っていた山岸を、怪しいと言い出す人が組合員の中にいたからである。約一ヶ月して京都の有力飼料商が警察にもらいに行ってやっと帰されることになり、その後裁判で、弁護士もつけずに無罪放免となる。

 この留置所生活の間、書物を読むなどの悠揚とした生活ぶりに、署長が「私の警察生活三〇年の間にこんな人を見るのは初めてでした」と、山下照太郎に語っていたそうである。

 その頃戦争の影響で飼料入手難になるが、この養鶏法の特徴が活かされて、麦糠や粗飼料を多給し餌量に不足は感じなかったが、統制経済で面白味がなくなり、かつ当初の計画羽数の延べ十万羽を遥かに超えたので、先の事件に巻き込まれたこともあり、年来の仕事に専念すべく廃業して京都府伏見区向島に移住することになる。

 この辺が山岸らしいところで、あることに心身共に打ち込んでいても、一つの納得のいく線が出てくると次の未開拓の地平に乗り出していく。本人も「私は飽き性や」と言い、実際そのようであったらしい。だが、本来の仕事についての探求は、どこまでも本筋から外れることがない。これに打ち込む持続力とそれへの閃きは並大抵のものではなかった。

 十年間に亘り要職についた社会的な経験は、その後の山岸の方向に一つの観点を与えることになったのではないのか。それは、良かれと思って自分の持っているもの(技術・知識など)を差し出しても、かえって、生半可な人・染め直しの人・不満をもつ人・怒り出す人を生み出すことになり、「養鶏するにも、根本問題から究明しなければ、永続する養鶏は成り立たない」という何にでも通じる根本原理である。

 そこで、養鶏よりも何よりも、社会や人生のあり方を根本的に究明することが先決であると考え、そこできっぱりと廃業し、本来の仕事に専念しようと考えたのではないのか。

 また、山岸が向島に移転した一九四四年は太平洋戦争末期になるが、理想社会のあり方を模索していた山岸にとって、戦争に対しても様々な思わくがあったと思われる。ばかげたことであり負けるに決まっていると思っていたらしいが、具体的な反戦・抗戦行動はしなかったようであり、もちろん協力するようなこともなかった。

 そのことよりも、この状況の中で自分のやれる範囲で様々な実験をし、自分が心底やりたいと思っていた理想社会の究明に専念しようと考えたのではないだろうか。

 
 この頃について、山本英清は「メーポール」に記録している。
不可能を可能に
 山岸さんが養鶏をやめられたのは戦争末期の昭和一九年で、その動機はいろいろあったらしいが、すっかりこれに興味をなくされた上、「統制経済で面白味がなくなり、かつ当初の計画羽数、延べ十万羽をはるかに超えたので、廃業して年来の仕事に専念すべく現在の地に移住しました」と自著〈『山岸会養鶏法』〉の中に記していられる。現在の地とは前記の伏見区向島のことで、「年来の仕事」はもちろん〝次の社会の建設に関する本業〟であることはいうまでもない。

 移られた頃は、おそらくそこにあった古屋に入られたらしく、ここの宅地の地名が、固有名詞で「向島城内本丸」とあるとおり、豊臣秀吉の桃山城の出城向島城の本丸にあたる所なので、内堀の跡らしく五反ばかりの池があった。ここで本業の著述の余暇に家鴨を飼われた。これは、これより先、何かの機会に当時京都の北端舞鶴港にあった海軍機関学校の高官の人と昵懇になり、そこの食糧補給としてあひるを納める契約を結ばれたものらしく、そのために家のそばの恰好のその池を利用して多数の家鴨を飼って納入された。飼料や何かは、当時軍部絶対の頃なので、機関学校の証明で便宜を得、一般には得難いどこかの残飯餌をもらいうけてやられたものであった。

 その頃はいたる所の各都市の空襲が熾烈きわまりなく、京都市もその予感におびえて、御池通りや五条通り等は、強制的に一切の建物がとり払いになったもので、これはいわゆる奉仕団なるものが、文字どおりぶっこわし引き倒したものであった。山岸さんはその壊さるべき家を安価に買い求め、運搬から建築の手続き、建築に要するセメントや木材金具等、我々ではほとんど入手できぬとしていたものを、海軍の証明によってうまく運び、当時住宅建築は三十坪のきびしい制限があったのを、七十坪のものを建てられたものであった。

「別にぜいたくでやったわけでなく、戦争も先が見えていることだし、一つの実験としてやってみたまでで、その頃東条首相でさえ三十坪の家二棟を建てて廊下でつないだといわれた時代に、こんな制限をはずれた大きなものを、しかも闇でも非合法でもなく、りっぱに法規に従って建てたのが不思議だ、珍しいと、その筋の人までその方法をたずねがてら見に来たものでした」
 と笑って話されたもので、これは一般が不可能ときめつけてあきらめていることでも、考えてやれば可能とすることが出来るという実験という意味であったのであろうと思う。

※山本英清は、山岸会誕生前後の回想録『懐想・メーポール』を、一九六一年四月から三三回にわたり克明に記録している。【煩悶青年として(新・山岸巳代蔵伝➂)に紹介。

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「引用文献」
・山岸会養鶏法 農業養鶏編』「六 本養鶏法の沿革」→『全集・第一巻』(一九五五年七月)
・『獣性より真の人間性へ(一)』→『全集・第一巻』(一九五四年四月)
・『懐想・メーポール』かばくひろし(山本英清)→『全集・第一巻』(一九六一年四~一〇月)