わくらばの記 断想(17・3)
8日に入院して、2週間目にしてようやく昨日退院しました。といって良くなったわけではなく、今後は在宅診療を受けることになり、鈴鹿の坂倉クリニックの診察をお願いすることになりました。坂倉先生としらゆり園の看護師さんが早速来てくれて、週1回の訪問診療ということになりました。
このところの体の衰えはかなり急速に進んでいるように感じられます。退院してからは、本もあまり読めません。関心の範囲も自分の身の回り1尺を超えることなく、世の中の動きに付いていくことがむずかしくなってきました。
入院中、何人もの知友から、まとまったものでなくとも何か書き続けるようにとの励ましを頂き、まだ多少元気な入院初期にノートに書き綴ったものを、「断想」という名でまとめてみました。
*考える人は疑問を持つ。疑問を持つ人ほど考える。
考えない人は疑問を持たない。疑問を持つことがないから考えることもない。
*特講を拡大しようと考える前に、特講になぜ人が集まらなくなったかを、徹底して考えることが先決だ。
*海外から人を受け入れる場合、相手をどうするかを考える前に、自分がどうあったらいいかを考えることだ。
相手をわからせよう、変えようとする前に、自分が変わることが先だ。
相手が得するよりも、自分がどれだけ得をするかだ。
*字を知る人ほど辞書を引く。字を知らない人は辞書にさわることもない。
*正常が異常になり、異常が正常になる。正常と異常の境目があいまいになる。
ただ異常を正常として受け入れるだけだ。
*山折哲雄氏の『「ひとり」の哲学』を読み始める。
「ひとり」とは、孤独や孤絶ではなく、独立=一人立つ姿だと言う。
親鸞は「歎異抄」の中で、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく考えれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と言っている。
そういえば、釈迦も、「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられている。
そして死出の旅路の最後に、アーナンダの「これからどうしたらいいか」との問いに答えて、「自らを灯として犀の角のように真っすぐ歩め」と言った。これも「ひとり」だ。
そういえば、特講で次のテーマが出されたことがある。「全人幸福は誰のため?」 長らく頭の理解だけで捨て置いてきたが、今ようやく、「全人幸福は自分のため」と言えるような気がする。
ここで急に思い出したが、茨木のり子氏の詩集『倚りかからず』が発表された当時、倚りかかりの生活しかしてなかった自分が恥ずかしく、まともに読み通すことができなかった。
*『「ひとり」の哲学』ざっと目を通したが、意外と底が浅く、あまり面白くなかった。ただ、この「ひとり」というのは、大変重要な問題提起だと思う。
一人でいても「ひとり」 大勢の中にいても、みんなと共にいても「ひとり」
「ひとり」に徹することができれば、そこから多分、万人への通路が開けるのではないだろうか。
「みんなと一緒にいる安心感」とか、「みんながするから自分もそうする」といった、浮ついた付和雷同的な自分で何ができるだろう。
*特講について。
「一粒万倍に」という山岸さんのメッセージがある。
特講が低迷しているのは、万倍になるような一粒がいないからだ。少なくとも次の種子を育むような一粒がいない。
あるいは、そこが砂漠か肥料分のない不毛の大地になっているからだ。不毛の種子と不毛の大地の上で、いくら笛太鼓をかき鳴らしても人は集まらない。
*かつて自分もそうであったが、人はなぜ正解や結論を求めたがるのだろう。
この世に真の正解などあるのだろうか。正解を得たと信じた瞬間、結論に達したと安心した瞬間、人は考えることを止める。考えることを止めたとき、人は固定する、化石となる。
*石川啄木は昭和のはじめに、「時代閉塞の現状」を書いた。今はその時代によく似ている。言論が時代の壁を突き破れない。
内山節氏の解説も次第にマンネリになった。小熊英治氏の説も『民主と革命』の勢いを失った。
加藤典洋氏の分析は、なるほどと頷かされるものを持っているが、それだけだ。
池澤夏樹氏も次第に常識的になった。みんな時代に抗しながら、時代に取り込まれていく。
言葉や学問は、時代の壁を突き破れないのか。もしかしたらそれは、彼らが学者や哲学者や作家や評論家という自ら築いた 壁の中に納まってしまっているからかもしれない。
かすかに村上春樹氏だけが壁を通り抜けられるのか。『騎士団長殺し』面白かった。
*昨日豊里の6人ほどの仲間が、見舞いに来てくれた。
話の中でOさんが、「公的研鑽会と自分たちの私的研鑽会」と言ったので、私は首をかしげた。研鑽会に「公的」なものと「私的」なものがあるのだろうか。公人たらんとして集まった村人の研鑽会に、公私の区別があったらおかしいのではないだろうか。
*もう一人のOさんが、「村人全員がもう一度特講を受けるべきではないか」といった。
私の中の反応は、「面白いけど、それは無理だ。第一それをやれる世話係がいない」というものであった。しかし、一人ひとりが、もう一度自分の特講を振り返る機会をつくるのは、いいことかもしれないと思った。ただそのさい注意したいのは、「特講があったので、今の自分がある」といった言い草である。この言い方は、今の自分を〈完成品〉と見て、そうした自分をつくった元に過去の〈特講〉がある、というかなり偉ぶった考え方が潜んでいる。
そうではなくて、今のこの不出来な自分の中に特講がどう生かされているのか、いまそれをどう生かそうとしているのか、を問い直すものでなければならないだろう。
*『沈黙』について、書きたいことを書ききらぬうちに入院してしまった。
私の言いたかったことは、思想や理念や信仰が普遍性を持ちうるかどうかにとって大事なことは、大きな問いを抱き、それに真正面から取り組む人材がどれだけいるかにかかっているということである。
『沈黙』の中で、パードレのロドリゴは、追い詰められる中で二つの疑問を抱き続けた。
一つは、幕府によるこれほど血なまぐさい弾圧の中で、神はなぜ沈黙を守り続けているのか。これは「神は存在するのか」という問いにも直結している。
もう一つは、キチジロウという日本のユダに付きまとわれながら、ロドリゴはキリストに問う。「あなたはゲッセマネの夜、最後の晩餐の席上で、ユダの裏切りを知りながら、『行け、そして汝の為すことを為せ』とユダを突き放してしまわれた。これは、愛と許しの思想からユダを排除してしまわれたことにならないでしょうか」
つまり、キリストの全人愛の思想にユダという例外を設けることにならないか、ということである。
もし、例外を一つでも認めれば、例外は次々と増え、思想としてのキリスト教は破綻する。
こうした危うい大きな問いを、歴史上何人もの人たちが抱き、取り組んできたからこそ、キリスト教の世界性・普遍性が保たれてきたのであろう。中には、異端として処刑された人が何人もいたかもしれない。
遠藤周作氏も、この作品を通じて自らの問いを問い続けたものと思われる。
*大きく問うものは、大きく考え、小さく問うものは、小さく考え、問うことのないものは、何も考えない。
ただ、この問うということは、批判したり、攻撃したり、反対することではない。批判・攻撃・反対は、すでに何がしかの結論をもってそうするのであるから、そのときにはもう問うことも考えることも止めている。
問うとは、ただただ問うことである。問い続けることである。その過程で何がしかの結論を得ることがあったにしても、それは〈とりあえず〉の結論であり、疑問符つきの結論にすぎない。
*ヤマギシズム生活とかヤマギシズム社会と言いながら、「ヤマギシズムって何?」と聞かれたら、何と答えられるだろうか。
私たちは、ヤマギシズムを問うことをせず、すべて解釈に終始してきたのではないだろうか。例えば、「親愛の情」とはどんなものか、と問うことをしてきただろうか。
「自然と人為との調和」と言うが、それはどういうものか、今の暮らしでそれをどう実現しているか、と問うことはあるだろうか。
「仲良し」とよく口にするけれども、自分の都合に左右される程度では、問うことにもならない。
私たちは、問うことをせずに、ヤマギシズムの言葉に解釈を付けることで、それを自明の真理としてやってきたのではないだろうか。
*偉大な思想が生まれた場合、それを引き継ぐのは容易なことではない。
二代目、三代目は、どうしても初代の思想の枠外には出られないからである。その思想の解釈の枠を超えられない。
ところが、時代や状況は絶えず変化するから、当初の解釈のままでは動きが取れなくなる。
親鸞の思想も、5代目蓮如の登場でようやく一大宗派としての普遍性を獲得した。しかし、それが親鸞の思想を正しく継承したものであるかどうかは、わからない。
第一、親鸞は、教団をつくったり、教祖・教主を置くことを認めていなかった。信者はみな、同行の人であり、みんな弥陀の前では同列の人であって、そこに上下の区別など置かなかった。
また蓮如は『歎異抄』を危険な書として封印してしまい、明治になるまで人目に触れることはなかった。当時の福田とされた大衆信者の誤解を避けるために、「悪人正機」や「本願ぼこり」の考え方を封じ込めたのかもしれない。
明治になって、清沢満之やその弟子暁烏敏らインテリ信者によって、『歎異抄』はようやく誰でもが手に取ることができるようになった。
思想の継承は、このように難しい。初代を超える思想家の誕生によってのみ、継承は可能なのであろう。
私たちのできることは、せいぜい思想の断片なりとも絶やさぬことでしかない。
*落語で、耳の遠い老人同士が川をはさんで会話する場面があった。言っていることは、お互いに全く違ったことなのだが、二人は互いに納得して別れていく。志ん生だったか円生だったか、実に巧みに枕に振った。
ふとこれを思い出したのは、私たちももしかしたら、つんぼの老人同士の会話をやっていはしないか、と思ったからである。
言っていることと聞いていることが全く違っているにもかかわらず、互いにわかったつもりで、あるいはわかった振りをしてして、日常を過ごしてはいないか、ということである。
自分を振り返っても、勝手読み、勝手聞きの連続で嫌になることがある。相手の言葉をきちんと聞いていない、まして真意となったら、その一端も聞き取っていないのかもしれない。
言葉というものは、発語されたものの背後に、もっとたくさんの言葉がある。言葉の背後には、無数の語られざる言葉が潜んでいる。語られた言葉と語られざる言葉が、全く違う場合もある。真意は、その語られざる言葉の中に含まれている場合が多い。とにかく、言葉が通じ合わないこと、まして真意が通じ合わないのは当然なのかもしれない。
言葉が通じ合わない原因は、私たち一人ひとりが、自分の心の中に一つの壁を作り、その壁を通して聞いたり話したりしているからではないだろうか。この壁は強固なもので、自分自身ではなかなか自覚できない。
トランプの壁やパレスチナの壁は、ベルリンの壁のようにやがては崩壊するだろうが、そうした目に見える外壁とは違う心の内壁は、よほど本人が自覚して取り組まない限り、崩れることがない。
この心の内壁が、別の言葉で言えば、我執ということになるのだろう。
○海くんへの手紙――
海くん こんにちわ。
わたしは みつお おじいちゃんです。
ほんとうは ひ おじいちゃんなのですが いちいち 「ひ」をつけるのはめんどうなので ただ おじいちゃんと よばせて ください。
おじいちゃんは 海くんに 二さつの えほんを おくりますが 海くんが このほんを てにするころ わたしは たぶん このよに いないでしょう。
えっ どこに いったかって?
それは わたしにも わかりません。
そこは ひとが かならず いちどは ゆかねばならない ところですが
まだ かえってきたひとが いないので どういうところか わかりません。
いまは ただ こわいような たのしいような きが しています。
さて この 二さつの えほんですが これは おじいちゃんが ちかくのとしょかんで みつけ たいへん かんどうしたので 海くんに よんでほしいな とおもったのですが なにしろ 海くんは そのとし うまれたばかり とうてい よむことは できません。
そしたら ひろみおばあちゃんから 4、5ねん さきの海くんにおくったら といわれ それなら おくれるな とおもい このてがみを つけて おくることにしました。
しじんの たにがわ しゅんたろうさんと えかきの ちょう しんたさんの えほん 『あなた』と『わたし』です。
あなたって だれ?
わたしって だれ?
そうきかれたら きっと こう いうでしょうね。
あなたは あなた わたしは わたし
そんなこと きまってるじゃない。
しかし 海くんからみたら 海くんは わたし おじいちゃんは あなたですが おじいちゃんからみたら おじいちゃんが わたし 海くんは あなたです。
それに 海くんは いつから そこに いるんだろう。なんで そこにいるんだろう。
おとうさんや おかあさんが いなかったら 海くんは そこにいることができただろうか。
ももこ おかあさんの おかあさんは ひろみおばあちゃん ですが ひろみおばあちゃんが いなかったら 海くんは うまれることが できただろうか。
また ひろみおばあちゃんの おとうさんが この みつおおじいちゃんです。
みつおおじいちゃんが いなかったら 海くんも うまれることが できなかったのです。
おとうさんの ほうも おなじです。
おとうさんの おとうさん おかあさんが いて そのまた おとうさん おかあさんがいる。
そのさき そのさきと どこまでも ずーっと つづいているのです。
こう かんがえると 海くんは かぞえきれない ひとたちとの つながりで うまれることが できたのです。
ひと だけでは ありません。たくさんの ものや しぜんの どうぶつや しょくぶつとも つながっているのです。
海くんは けっして ひとりでは ないのです。
しかし また 海くんは せかいじゅうで たった ひとりしかいません。
なまえの おなじ ひとや かおの にた ひとは いるでしょう。
だけど 海くんと おなじ ひとは ひとりも いないのです。
たくさんの ひとに つながっている わたし だけど せかいで たったひとり しかいない わたし。
わたしって なんだろう?
あなたって だれだろう?
このえほんを よみながら いろいろ かんがえていったら いいなと おもいます。
ながい てがみに なりました。
では げんきでね。 さようなら。