※山岸巳代蔵がヤマギシズム社会はどのような社会なのか述べたなかで、もっともよく現れているのは『ヤマギシズム社会の実態』の「一 真実の世界」の「各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会を、ヤマギシズム社会としているのです。」と私は思っている。
『山岸巳代蔵全集』刊行の終了に伴って、その手引きとなるようなものの必要性を覚え、全集刊行・編集の過程で明確になった事実経過をふまえ、俯瞰的な観点から伝記形式にまとめた『山岸巳代蔵伝―自然と人為の調和を―』の「第六章」に私の見解を載せた。
以下にその一節を掲載する
〇第六章 各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会
1 ヤマギシズム社会の実態について
『会報3号』に、山岸巳代蔵は『ヤマギシズム社会の実態』として、「解説ヤマギシズム社会の実態(一)」、「知的革命私案(一)」、「知的革命の端緒・一卵革命を提唱す」の三論文を発表した。これらの論文は、それまでのような、養鶏の経営や技術の中に山岸の思想や哲学や方法論を織り込んで発表するものでなく、山岸の考える理想社会(ヤマギシズム社会)の構想やその実現方法を、包括的に、具体的に、初めて正面から発表したものである。極めて短時間のうちに綴られたものであるが、青年期に構想しその後再検討を加えてきたものが端的に提案されている。この論文が発表された背景には、山岸式養鶏会の全国への急速な拡がりがあり、社会的にも山岸の思想が受け容れられる素地ができてきたという確信があったのではないかと思われる。
これらの論文はその後、『ヤマギシズム社会の実態―世界革命実践の書』という一冊の本としてまとめられ、発表から約一年後に開催される「山岸会特別講習研鑽会」の研鑽資料として使用された。そして現在に至るまで、一三版を重ね、今もなお「ヤマギシズム特別講習研鑽会」において使用されている。その中の第一章概要「真実の世界」を見ていく。
一 真実の世界
ヤマギシズム社会を、最も正確に、簡明に、云い現すものは「真実の世界」であります。幸福社会・理想郷・天国・極楽浄土等呼ばれるものも、言葉の上では、これと同じ意味を寓した場合が多いでしょうが、実態においては、他の云われる社会との相違は、極端なものがあると思います。
しかしまた私も、真実の世界の謂(いい)として、便宜上それらの言葉を用いますが、仮や、ごまかしや、空想的なものでなく、絶対変わらない一つ限りのものを目指しています。
人間社会のあり方について、一つの理想を描き、それが実現した時、またその上に、次の理想が湧いてくるなれば、先のは真実の理想社会でなかったということです。
幸福についても、真の幸福と、幸福感とがあり、真の幸福は、いつになっても変わらないものであるが、幸福感は、場合によりでありまして、ある人には、ある社会ではいかにも幸福に思っていても、他が迷惑したり、中途から不幸に変わるなれば、真実の幸福でなかったことになります。
不幸な人が一人もいない社会、いつまでも安定した幸福社会が本当のものです。
誰の心のうちにも、社会組織にも、うそ、偽りや、瞞着の無いことが肝要で、判らないことを、架空的な、こじつけ理論で組み立てた社会等は、やがては崩壊する惧(おそ)れがあり、真実の世界ではありません。
物財を求めていたものが、財産を掴んだ時や、地位・名声を望んでいた人が、それを得た時、無上の幸福を感ずることがあったとしても、それが安定した真実の幸福と云い切ることは出来ないでしょう。
また何一つ病気にもならない健康体で、働けてあることは、幸福条件の一つとは云えましょうが、これも場合によると、病身の人より不幸のこともありますから、真実の働きをしているかどうかを、知らないと意外のこともありましょう。
農業者が真の農人でなかったり、商人が真の商人でなかったり、政治・教育・宗教家が真のそれでないこともよくあることです。工場等でも、組織そのものにも、間違ったものがありますが、各々の立場において、真実、それに自己を生かすことによって、闘争等絶対に起るものではなく、かえって工場は繁栄し、自己を豊かにします。妻は妻、夫は夫、子に対しての親は親として、間違いない真の生き方があります。
各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会を、ヤマギシズム社会としているのです。
『ヤマギシズム社会の実態』は、本文だけで六万字余、B5版百ページほどの冊子である。おそらく十日間位で書き上げたと思われる。山岸の頭の中にあった理想社会の構想が迸(ほとばし)り出たのだろう。
「真実の世界」の項は、「解説ヤマギシズム社会の実態(一)」の「まえことば」に続いて最初の章にある全体の骨子となる部分である。「真実の世界」の具現方式として、「知的革命私案(一)―人情社会組織に改造」」では次のように述べている。
ここに三つの方法がある。
その一つは、その限界を定めて、お互いにその線を越えないこと。
今一つは、他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気づくこと。
他の一つの方法は、有り余って保有していることの、無駄であり、荷厄介になるほど、広く豊富にすることです。
私はこの三案を併用すべしとしますが、そのうちで一番重点を置き、他の二案を欠いても、この一法だけは外すことは出来ないと思う案は第二案で、即ち幅(はば)る辱(はずか)しさに気づいて、他に譲り度くなる、独占に耐えられない人間になり合うことだと決定しています。……これこそ無理のない自然の真理であり、ヤマギシズム社会の基本となるものであり、他の二案が如何に完璧であっても、これがない社会は、無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会です。
しかも、他の二案よりも容易に出来ることで、今すぐでも、資金も設備も資材も製品も、新しく造らなくとも、今あるままで、不平も不満も、紛争も犠牲も、強奪も侵犯もなくして、にこやかな真実世界になります。
以上の述べ方は、物の世界に偏しているやに解釈されやすいでしょうが、物質のみについての突っ張り合いを指してのことでなく、心の対人的持ち方、特に人と人との社会連繋の、切ることの出来ない真理性に立って、完全社会の要素として、人情の必要性を云ったのです。
人は、人と人によって生まれ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなることが解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく、今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目していることにあり、政治・経済機構も大改革されますが、そのいずれにも相互関連があり、この条件を必ず重大要素として組織し、総親和社会への精神革命を必要とする所以(ゆえん)です。
これは後に展開する「金の要らない楽しい村」の、親愛の情を絶対条件とした村人の基本となる流儀である。「容易に、今あるままで」とあるように、日本の村・部落のもっている特質に焦点をあてた守田志郎が、
「他を絶対に侵さないという強い強い自制力をもっている」、「侵さずつくり、侵さず食し、人間の値打ちをみずからのなかにためこんでいく、そのいいしれぬ激しさのなかに小農のもつ人間的本源性を見る思いなのである」(『日本の村』)
と、照らし出した村人のあり方に重なってくる流儀であり、人情味あふれる日本の小さな生活区域で、いくらか見ることのできる流儀ではないだろうか。またこの度の東日本大震災で、このような気風がいくつかの小区域で滲み出ていたのではないかと思われる。
社会では様々なコミュニティがつくられ、模索されているが、人間愛を基調とした社会気風と共に、この流儀が最も基本的な原則になるのではないかと、私は思っている。
「解説ヤマギシズム社会の実態(一)」は未完となっている。山岸には、力を注いでいたが未完となっているままの論考がいくつかある。その著作類には、推敲(すいこう)を重ねて繰り返し書き改めていたものと、この書のように未完ではあるが一気に書き上げたものがある。
山岸会の展開に応じて、山岸の考え方を包括的に打ち出したものであり、その時点での、山岸の生々しい息づかいが随所に感じられるものとなっている。
「状勢の展開につれて、機を見て断続的に、具体的に、解説しましょう。理解ある協賛により、実践しながら完結できれば幸いとします」(「まえことば―零位よりの理解」)とあるように、実践の書であり、ヤマギシズム社会への提言の書でもある。
「体から生(いのち)がさよならしたら止めるとして、悠々と綴っていたが、糊ゆえの百姓、百姓ゆえの鶏と、ペンだこが鍬だこと交替し、生まれて初めての、あかぎれの手を見る詩人? になっているところへ、本会が産声を上げての、てんてこ舞いの今日です。こせがれ泣くし飯(まま)焦げるで、どっちつかずの昼夜(ねるま)なしには、頭がふらふらになりました。……文章も」 (「知的革命私案(一)―革命提案の弁」)
「私は私としての理想を描き、理想は必ず実現し得る信念の下に、その理想実現に生きがいを感じて、明け暮れる日夜は楽しみの連続です。家が傾こうが、債鬼に迫られようが、病気に取りつかれても、将来誤った観方をする人達から、白州に引き出されようとも、先ずこのよろこびは消えないで、終生打ち続くことでしょう。欠点や間違いに対しては、正面から指摘されることを待っています。」(「まえことば―自己弁明」)
山岸は「永遠に変わらぬ」「永久に責任を持つ」「揺ぎない幸福世界が実現される」などの言い方をすることもよくある。しかし、どこまでも「私には、こう思える」の連続で、あくまでも現段階での「観方」であって、そうした観方や表現を採用することによって、一つの視点を指し示そうとしていたのではないかと思う。
山岸の思考法は直観型である。感覚が事実性を追求しようとするのに対し、直観は事実そのものよりも、その背後にある未来への可能性に注目する機能である。
その独創性は想像力の豊かさに負うものであり、データの豊富さに伴って精密度を増す自然科学的推論の場合とは違って、それをみる山岸の構想力、閃きによって思考が組み立てられていく傾向がある。
参照・本ブログ◎各々の立場において、真実、それに自己を生かす(2017-12-20)
・◎『山岸巳代蔵伝―自然と人為の調和を―』の刊行(2015-02-05)
・◎山岸巳代蔵伝 ―自然と人為の調和を―(2015-02-06)