広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎各々の立場において、真実、それに自己を生かす

〇山岸巳代蔵の思想についての覚書(2)

 山岸巳代蔵の「ヤマギシズム社会の実態」に次の表現がある。

〈各々の立場において、真実、それに自己を生かすことによって、闘争等絶対に起るものではなく、かえって工場は繁栄し、自己を豊かにします。妻は妻、夫は夫、子に対しての親は親として、間違いない真の生き方があります。

 各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会を、ヤマギシズム社会としているのです。〉(『山岸巳代蔵全集・第二巻』「第一章 概要〈一 真実の世界)」)

 これは、山岸の根っこにある考え方であり、「ヤマギシズム」についての簡潔に述べた表現であると思っている。

 

 広辞苑など辞書では、「真実=うそいつわりでないこと、本当のこと。」とある。真実とは、単純にいえば「うそいつわりでないこと」だと思う。

 つまり「各々うそいつわりでない自分を知り、それぞれがうそいつわりでない生き方の出来る社会」となる。

 では果たして、「うそいつわりでない」自分とは、社会とは、どんなんだろうという問いかけが続くが。

 

 留意しておきたいこととして、次のようなことがある。

・医師・徳永進さんは、病状がかなり進んだ人などに、まず第一に、その人の気持ちに寄り添うことが大事だと、あえて、身体状況と違うことをいう場合がある。

・臨床心理学者・河合隼雄さんは、治療して治ると、人によっては、その人の人生がつまらないものになってしまう場合があるという。また、日本ウソツキクラブ会長を自称し、架空人物・大牟田雄三との共著もある。「うそは常備薬、真実は劇薬」という箴言も残している。

・いま小説を書いている知人F氏は「小説とはフィクション(虚構)であり、それによってしか表しえない真実を目指せるもののようです。」と述べていられるが、そうだと思う。

 

 三つの例を挙げたが、同じようなことを思っている専門家、作家は少なからずいると思う。このような例を出すまでもなく、わたしたちの会話でも、うそをついた方が円滑にすすむ場合がある。

「うそいつわりでない」とは、うそをついたとかつかないとか、事実であるとかないとか、言動など表面に現れたものではなく、その場面に応じて、その奥にあるものを、よく見ていかないと分からないのではないだろうか。

 また「真実」の安易な使い方は、、より深く物事の本質を究明していくときの妨げになる場合もあるのではないだろうか。

 

 歴史上のある人物を見るとき、あるいは自らの過去を振り返るとき、その後の人生で、あの時は間違っていたなとか、どうしてあの人はあんなことをしたのだろうとか、あのときは未熟だったなと思うことは沢山あるだろう。また、多かれ少なかれ記憶と実際とは違ってくる。

 そのもたらした影響も考えていくことも必要だが、それ以上に、その時点を考察していくときに、今の見方を一旦括弧に入れて、真摯に振り返らないと難しいとは思うが、その時点では「うそいつわりのない」人や自分であったのか、そうでないとしたら、何故そうなったのかという問いかけも大事だと思う。

 

 本題に戻ると、真実の自分を知り、「各々の立場において、真実、それに自己を生かす」。

 これが自分自身の出発点になり、結局はおのれの生き方が問われてくるのではないか。

   

【参照資料】

〈第一章 概要(一 真実の世界)

 ヤマギシズム社会を、最も正確に、簡明に、云い現すものは「真実の世界」であります。

 幸福社会・理想郷・天国・極楽浄土等呼ばれるものも、言葉の上では、これと同じ意味を寓した場合が多いでしょうが、実態においては、他の云われる社会との相違は、極端なものがあると思います。

 しかしまた私も、真実の世界の謂として、便宜上それらの言葉を用いますが、仮や、ごまかしや、空想的なものでなく、絶対変わらない一つ限りのものを目指しています。

 人間社会のあり方について、一つの理想を描き、それが実現した時、またその上に、次の理想が湧いてくるなれば、先のは真実の理想社会でなかったということです。

 幸福についても、真の幸福と、幸福感とがあり、真の幸福は、いつになっても変わらないものであるが、幸福感は、場合によりでありまして、ある人には、ある社会ではいかにも幸福に思っていても、他が迷惑したり、中途から不幸に変わるなれば、真実の幸福でなかったことになります。

 不幸な人が一人もいない社会、いつまでも安定した幸福社会が本当のものです。

 誰の心のうちにも、社会組織にも、うそ、偽りや、瞞着の無いことが肝要で、判らないことを、架空的な、こじつけ理論で組み立てた社会等は、やがては崩壊する惧れがあり、真実の世界ではありません。

 物財を求めていたものが、財産を掴んだ時や、地位・名声を望んでいた人が、それを得た時、無上の幸福を感ずることがあったとしても、それが安定した真実の幸福と云い切ることは出来ないでしょう。

 また何一つ病気にもならない健康体で、働けてあることは、幸福条件の一つとは云えましょうが、これも場合によると、病身の人より不幸のこともありますから、真実の働きをしているかどうかを、知らないと意外のこともありましょう。

 農業者が真の農人でなかったり、商人が真の商人でなかったり、政治・教育・宗教家が真のそれでないこともよくあることです。工場等でも、組織そのものにも、間違ったものがありますが、各々の立場において、真実、それに自己を生かすことによって、闘争等絶対に起るものではなく、かえって工場は繁栄し、自己を豊かにします。妻は妻、夫は夫、子に対しての親は親として、間違いない真の生き方があります。

 各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会を、ヤマギシズム社会としているのです。〉(『山岸巳代蔵全集・第二巻』「第一章 概要〈一 真実の世界)」)