〇守下尚暉『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』を紹介したとき、元学園生から養鶏書にある記事の写真とコメントをいただきました。
〈 生魚屑養鶏を排する理由
生魚屑につきましても、農業養鶏では、無代で庭までそれを運んで貰っても「使うな」と強調していることは、飼育羽数が五〇〇羽未満の人が多く、労力と技術の点から、他の重点作業と生活時間を尊重する理由からで、一家の主人がそのような小利のために、他の作業・全体の経営・社会人としての責任に支障を及ぼさないよう、また主婦が日々その管理に忙殺されて、一家の生活が疎かになるなれば、賢明な行き方とは云えません。人格完成のために、勉学途上の青少年の貴重な時間を、毎日の残菜・生魚屑集めに空費する等は、目に見える肉体は大きく伸び、金銭は積まれても、目に見えぬ尊さが備わらないなれば、人間としての生き方を忘れた、迂闊な歩み方であることに気付きます。青少年は体の錬成と、読む・聞く・見る・試みる、即ち培う時代で、奪ってはならないです。〝一人の頭脳は百万人に幸福を齎すもの〟です。生魚屑を用いて一日一回給餌の方法もあり、その方が数回給餌よりも成績はよろしいが、ちょっと技術が要り専業家向きで、この方法については山岸会専業養鶏編で述べることとし、ここでは農業養鶏向きの事項のみ採り上げましょう。〉
これは『山岸式養鶏法・農業養鶏編』の「八 農業養鶏には」の「生魚屑養鶏を排する理由」の文章である。
元学園生からのコメントは次のようなものです。
〈T・Y:私はあまりヤマギシズムについては詳しく知らないのですが、この著者(守下尚暉)の方に養鶏書? とか言う本のある一節を写真で撮って送ってあげました。著者の方も当時見たことも無いとのことで無知やったと言ってましたが、その部分を当時本人が知っていたら、当時のヤマギシがちゃんと素直に学園で顕していたら、学園と言うもの、青年期の時間も違っていたと言っていたのかもと。
少なくとも創設者の理念にはちゃんと書いてあったのに、そういう要素が、子供たちに感じられなかったというのが、残念なように思います。〉
『山岸式養鶏法・農業養鶏編』と『ヤマギシズム社会の実態』は山岸巳代蔵の初期の著述になる基本的なもので、参画者にとって、もっとも馴染みのある本だと思います。
T君がこのような箇所に注目していることにビックリするとともに、守下氏にこの記事の写真を送ったことに、この積極性はすごいものだと思いました。
おそらく、参画者の多くはこの記事のことをちゃんと読んでいないと思います。
本書にある〈人格完成のために、勉学途上の青少年の貴重な時間を、毎日の残菜・生魚屑集めに空費する等は、目に見える肉体は大きく伸び、金銭は積まれても、目に見えぬ尊さが備わらないなれば、人間としての生き方を忘れた、迂闊な歩み方であることに気付きます。青少年は体の錬成と、読む・聞く・見る・試みる、即ち培う時代で、奪ってはならないです。〝一人の頭脳は百万人に幸福を齎すもの〟です。〉
このような文章を読むと、今回は守下著のことで学園に焦点を当てましたが、実顕地も初期の構想とは正反対のことをしていたんですね。その延長上に学園問題があると思います。
この文章の少し前に次の記事があります。
〈「余剰労力と人間生活」
長男は二三才で力もあり、体が頑健ですが、田畑や鶏に手を触れさせません。それは可愛いから楽をさすためではなく、息子には息子としての一番大切な生活があるからです。子供が遊んでいるから、蝗採りや草刈りをさすではいけないと思います。それは教育の重要性を考慮に入れて、家全体としてどうか、その子供の生活にどういうことになるかを考える必要があり、老人等もこの世へ働きに生まれて来たのだ、死ぬまで働くのだ、と云う人もありますが、それはその人の自由意志にありまして、主婦を一家の道具視するものと同じように、本当の生活を忘れた考え方だと云えます。〉
山岸巳代蔵は、このような表現は基本的な両書に限らず随所に触れていて、この角度から青少年がどのように育ったらいいと想っていたのか、山岸の思想を考えるうえでも、見ていこうと思っている。