広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎山岸巳代蔵伝 ―自然と人為の調和を―

 〇まえがき 「執筆にあたって」 

 本書は、ヤマギシ会の理念提唱者、山岸巳代蔵(一九〇一~六一年)の評伝である。

 これまでヤマギシ会は、特異な思想集団として様々に語られてきた。しかし、近年は往時の勢いをなくし、あまり話題にもならなかったが、最近、大ベストセラーとなった村上春樹『1Q84』の謎の団体のモデルとして、ヤマギシ会を取り上げる人も出てきたりしている。長年、ヤマギシズム実顕地(じっけんち)の参画者として活動していた私にとって、面白く読み進めながらも、いろいろ考えさせられることがあった。

 村上春樹は二〇〇九年のエレサレム賞のスピーチで、「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」と語った。その発言の比喩でいうと、この物語の構造については、壁(人間が作り出したシステム)からの、卵(そのシステムの呪縛にからめとられた側)の自由への方途を探る物語として読んだのだが、その壁・システム(卵の側にもそれがあるという二重構造であるが)なるものの自らの行為について、「正しい」という言葉が頻繁に使われていることが気になった。

 宗教団体、思想団体、政治結社など形態はどうあろうとも、原理主義的になっていく集団は、「われわれは正しいことをしている」「意義あることをしている」と、自分たちの言動について殊更に「正義」を振りかざすことで自らを納得させるようになる。特にその集団が孤立してくる、逆に支持者が増えて組織として管理的になってくると、その傾向が増してくる。ヤマギシズム実顕地もそのようになっていく面もあったのではないだろうか。

 

1 ヤマギシ会について

 ヤマギシ会について、小事典に載せるごとく表面的ではあるが簡潔にまとめてみる。

 ヤマギシ会は、一九五三年(昭和二八)に山岸巳代蔵の提唱する理念「自然と人為の調和を基調とした理想社会」の実践母体として、その独自の養鶏法に共鳴した人たちを中心に、「山岸式養鶏会」及び「山岸会」として発足した(一九九五年に幸福会ヤマギシ会に名称変更)。そして一九五八年に、山岸会会員の有志により、『百万羽(科学工業養鶏)』及び「ヤマギシズム生活実践場・春日実験地」を設立し、「無所有・共活」の一体生活を開始した(後のヤマギシズム実顕地の萌芽となる)。当初は農民の会員や参画者が多数をしめた。一九五九年には、七泊八日の特別講習研鑽会(けんさんかい)の軟禁容疑から始まり、死者を出すことにもなった山岸会事件がマスコミを賑わせることになる。

 その後ヤマギシズムに関心を持つ人も現れ、一九六〇年代後半からは、全国学園紛争を経験した青年やコミューン志向の若者たちの参加者が増え続けた。そして、自家製の生産物を一般消費者に供給し始め、その品質を支持する人々を母体とした活動が全国的に広がっていった。また、新島(にいじま)淳良(あつよし)などの著名人が参画し、幸福学園を立ち上げ、教育や子育てに関して提言を行うようになり、楽園村運動や非認可のヤマギシズム学園(幼年部から大学部)を設立することになる。それに着目する学者、研究者も少なからず現れた。社会的に活躍していた三十代~六十代の人たちの、一家揃っての参画も目立つようになり、子どもを学園に送る親も増えていった。

 しかし、一九九〇年代後半よりヤマギシズム学園の子どもの人権問題に対する批判や参画を取り消す場合の持ちこんだ財産の返還に関する訴訟・裁判が起こり、一九九七年秋には、脱税容疑による名古屋国税局の税務調査があり、それらの動きを伝えるマスコミの報道などによって、ヤマギシズム実顕地に対する激しいバッシングが起こるようになった。

 そして二〇〇〇年以後になると、様々な疑問を抱えて参画を取り消す人も目立つようになり、マスコミで取り上げられることも少なくなってきた。

 

※ヤマギシ会(山岸会)とヤマギシズム実顕地は別の機関であることに注意する必要がある。特別講習研鑽会を経て、その趣旨に賛同した人がヤマギシ会会員であり、その中から、財布一つの「一体生活」をするために、家も財産も放して「参画」した人とその家族から構成される機構が初期の『百万羽』であり、後に生まれたヤマギシズム実顕地である。つまり、「参画」とは『百万羽』や「ヤマギシズム実顕地」の一員となることである。

 

2 山岸巳代蔵について

 山岸会誕生前の大きな出来事として、一九五〇年(昭和二五)九月二日発生の京阪神を中心に猛威を振るったジェーン台風がある。農作物の被害は甚大で出穂間際の水稲がほとんど倒伏し、中には秋の収穫が皆無に近いものも少なくなかった。そのような状況の中、京都府農業改良普及員の和田(わだ)義一(ぎいち)が台風被害の実地踏査中、見事に立ち揃って、しかも瑞穂が房々と出揃っている一区画の田を発見し、その田の持ち主・山岸巳代蔵を訪ねた。

 そこで和田は山岸の人柄に興味を持ち、その経営の画期的であること、農業経営の中に包括され一体として営まれる養鶏、即ち従来の副業でない農業養鶏があり、この農業養鶏を取り入れての経営の結果がこの見事な稲作りとして現れたことを知ったのである。これほど優れたものをここだけに止めておくことの惜しさを痛感し、心進まぬ山岸を口説いて、半ば強引に講演に引き出しにかかったことから、その後の目覚しい活動が展開する。その経緯について山岸は次のように述べている。

 私として、青少年時代より一貫して持ち続けているものがあります。ハッキリした思想であり、時代に相容れかねるものがあることも、知っていますから、私はそれを強引に暴力で押し付けようなど、考えたことは一度だってありません。またそれは暴力では絶対に成就しないことも、自覚しておりますし、今全部を発表する時機でもなく、時間的にも不可能なことで、歿後に気づいた人達によって、二百年以内には完成される予想の下に、余命のある間に書き綴っているのですが、たまたま私の稲作から養鶏を見つけ出した人に引き出され、伝えられた稲作なり養鶏法そのものが、ヤマギシズム社会の縮図で、自然私の思想を感じとった人々の思想と、相一致する多くのものを見つけ合い、相共鳴して出来たのが、山岸会なり山岸式養鶏会で、自然と人為の調和を基調とした思想です。          (「解説ヤマギシズム社会の実態(一)―まえことば」)

 

 これまでヤマギシ会について様々な方面から語られてきたが、その理念の提唱者である山岸巳代蔵に言及したものはあまり多くはない。山岸の近辺にいた人によるいくつかの記録はあるが、その思想に切り込んだものとしては、玉川しんめい『真人山岸巳代蔵』(一九七九年刊。後に『評伝山岸巳代蔵』として二〇〇六年に補足を加えて出版された)が挙げられる程度である。玉川は、山岸の事実上の夫婦として共に暮らした福里(ふくざと)柔和子(にわこ)からの聞き書きをもとにして、自らの思想にひきつけて著述している。その著作に、一貫して山岸巳代蔵及びヤマギシ会に温かい眼差しを向けておられる鶴見俊輔は序文を寄せている。

 

・鶴見俊輔「この人をまっすぐ見る」

ヤマギシズムは、戦争下に山岸巳代蔵の心中に芽生えてそだち、戦後に工業化の波をうけて行方を見失った農民の間に、ひとつの社会運動をつくり出した。この思想がどのようにしてあらわれ人びとをむすびつけ、ひきさいたかはこれまではっきりと語られたことがなかった。それは山岸巳代蔵の人間としての、また思想家、運動家としての軌跡が不明であったことにもよる。玉川信明はこの本で、山岸巳代蔵の生涯を当事者のききがきをもとにして、遠慮するところなく描いている。

 

3 山岸巳代蔵全集刊行の経緯

 私は二〇〇一年に参画を取り消し、ヤマギシズム実顕地を離脱した。当時少なからぬ人々が実顕地を離れた。その離脱理由は様々であったが、「山岸巳代蔵の思想と実顕地の実状があまりにも違ってきている」との見方をする人もある程度いた。そういう人たちと共に、山岸巳代蔵関連の記録を残しておきたいと考え、山岸の生存当時を知る人にインタビューをして記録を取ったりしていた。

 二〇〇三年五月に山岸会創設五〇周年を期し開催された全国集会で、山岸巳代蔵の著作を何とか形にして世に発表し、よりよい社会を希求する人々の研究材料として提供できないだろうか、という話がもちあがった。その後、有志による具体化への努力が実り、九月に、「山岸巳代蔵全集刊行委員会」の初めての会合がもたれ、私はその一員として参加した。

 刊行委員会のメンバー構成は、ヤマギシズム実顕地を離脱した人、山岸没後その意志を継ぐべく福里柔和子と共に独自の活動を展開している人、現状の実顕地を本質的なものにせんと組織の中で活動している人、合計一四名であった。

 その中に、生前山岸巳代蔵の近辺にいて口述筆記の多くを担当された奥村(おくむら)通哉(みちや)氏(一九二三年生)、福里柔和子の長女で、福里哲学実顕場の主宰をされている福里美和子(みわこ)さん(一九三九年生)、現在その一員である大島(おおしま)康弘(やすひろ)氏(一九二五年生)、山岸の身辺近くにおられた川口(かわぐち)兵衛(ひょうえ)(一九二九年生)・和子(かずこ)(一九三四年生)夫妻の五名も加わった。

 刊行委員としては、山岸巳代蔵関連の様々な著作や資料の蒐集(しゅうしゅう)・確認・整理をしながら、それと並行して、整理されたものを順次刊行していくということを確認した。その後、編集委員として数名が加わり、二〇〇四年五月に『山岸巳代蔵全集第一巻』を出版することになる。全集の「刊行にあたって」から一部抜粋する。

 

(前略)誰もが幸福に生きることは何も難しいことではなく、「幸福が当り前で、一人の不幸な人もいない社会は人間自身の知恵と力によって必ず実現し得る」という信念を抱いていた、山岸巳代蔵の思想である。

 一人ひとりは、「幸福でありたい」、「争いなどしたくはない」と心の底では望んでいるのに、なぜ仲違いしたり、反目しあったり、しまいには同じ人間同士での闘争にまで至ってしまうのだろう。山岸は、そんな人と社会のあり方に疑問を持ち、「人生の真の姿とはどのようなものか」、「本当の社会とは何か」と、真理の究明に自らのすべてを注ぎ込んで理想社会の実現を目指した。戦争の世紀とも云われる二〇世紀前半のことである。

 そして、その思索の中から一つの考え方を見つけ出し、〝ヤマギシズム〟と名づけた。同時に、その考え方を通して、「誰もが幸せに生きられる社会」を齎(もたら)すための理念や具体的方法も、数多く提唱していくことになる。

 その一つのかたちである「山岸養鶏」が戦後の日本農業界において一世を風靡する中、山岸巳代蔵の思想に触れ、それに共感を覚えた人達によって山岸会が結成され、その後、様々な活動が行われていった。山岸の没後、活動は時代と共に移り変わり、農業面のみにとどまらず、流通、教育、環境など多岐にわたって展開され、日本国内はもとより世界各地にも伝播していった。

 だが一方で、かたちとなって現れた姿を、〝ヤマギシズム〟そのものと受け取り、誤解してしまうということが、実践しようとする人にもままあったし、周りからもそう見られがちであった。目に見える部分ではなく、どうしたら皆が幸せに暮らせる社会になるだろうか、本当に人間らしい生き方とは何だろうか、と探究しつつ実践する一人ひとりの中に、その精神が息づいてきたのだろうが……。

 今ここで、私たちは改めて出発点に立ち返り、考えてみたい。はたしてヤマギシズムとはいかなる考え方なのだろうか。そして、山岸巳代蔵がその生涯をかけて究明した思想は、その到達した世界は奈辺にあるのだろうか、と。

 それには様々なアプローチが可能であろうが、私達は、提唱者である山岸自身の著作や講演記録、口述記録などから、なんとかその本質を読み取ることができないだろうかと考えた。(後略)   (『山岸巳代蔵全集第一巻』「刊行にあたって」)

 

4 この評伝の意図するところ

 山岸巳代蔵の著作の中には、これまでに発表されたものも少なからずある。しかし、半世紀も前の掲載紙誌を保管されている方は少なく、写し間違いや誤植もあり、編集過程で変わっていると見受けられる文面もある。元の原稿がないものがほとんどなので、どのように整理し、訂正を加えたらよいか、判然としないところも多々あった。また、生前の山岸巳代蔵を直接知る人も、老齢の方が多く、時を経るにしたがって貴重な証言を得る機会が少なくなっていく状況であった。

 そのような中、多くの人の協力を得て、ほぼ年一冊のペースで出版を重ね、『山岸巳代蔵全集』一巻~七巻刊行と関連資料編を編集し、山岸没後五〇年目の二〇一一年八月に、刊行委員の八年に及ぶ活動は一応終了することになった。

 この全集刊行の第一の目的は、様々な人々・学者・研究者・実際家へ、研究資料として広く提供することである。山岸の思想は、日々の生活と養鶏・稲作などの仕事を通して鍛錬されていった面が大きく、その人となりについて知ることは必要不可欠といってもいいほどである。そこで、刊行・編集の過程で明確になった事実経過をふまえ、その肩に乗って、「評伝」という形式にまとめることが肝要と思い、書き進めてきた。その独創的な思想については、私からの問題提起も含めて簡潔にまとめてみた。その思想の詳細については、一つひとつ、これからの研究課題として丁寧に探求していきたいと考えている。

 私は『思想の科学』で山岸会のことを知り、二七歳のときに特別講習研鑽会に参加。そこで使用されていたテキストで山岸巳代蔵の思想に触れ、ほどなく参画して二五年間所属した。二〇〇一年にヤマギシズム実顕地への参画を取り消し、その後は福祉関連の活動に携わっている。山岸巳代蔵は、破天荒ともいえるほど天真爛漫に生き抜いた人であり、言動は多面的であり、矛盾とも見えるところもあり、よく分からない不可思議な部分も多々ある。だからこそ大きな魅力を感じるという面もある。現在の人や社会についての観方、考え方に示唆を与えることも多々あると思っている。

 全集には、山岸の記録に関して判明したものについては、まとめて掲載してある。ここではそこからの引用に準拠している。特に山岸の著述の要となると思われる箇所からの引用は多く取り入れた。詳細なことは全集から読み取ってもらえたら、と願っている。なお、引用箇所の典拠については簡潔に付記した。詳細は巻末に一覧表を掲載してある。

 

〇山岸巳代蔵伝・目次

まえがき 執筆にあたって

1 ヤマギシ会について

2 山岸巳代蔵について

3 山岸巳代蔵全集刊行の経緯

4 この評伝の意図するところ

第一章 理想は方法によって実現し得る

1 山岸巳代蔵生誕の地を訪問

2 熟慮断行の少年期

3 ある壁にぶつかり、苦悩の内に一生かけての仕事を始める

第二章 人間の生活は一生を通じて遊戯であり

1 何しにこんなところへ来んならんかな

2 青春彷徨と、その時代背景

3 山岸と近江人の「商い」のセンス

4 山岸養鶏=(技術二〇+経営三〇)×精神五〇

第三章 社会や人生のあり方を根本的に究明することが先決

1 一定の師がなく、型がなく

2 天職と趣味職業が一致し、一事に没頭

3 鶏にも豊かな生活を

4 根本問題から究明しなければ、永続する養鶏は成り立たない

第四章 日常の総ての現れはもとの心の顕れ

1 農業改良普及員和田義一との出会い

2 山岸の本領

3 たった一人でもよい、ほんとうに聴いてくれたら

3 本来の仕事とは

第五章 〝われ、ひとと共に繁栄せん〟

1 山岸会誕生

2 自然と人為の調和を基調とした社会

3 見ずして行うなかれ! 行わずして云うことなかれ!

4 自己より発し、自己に返る

5 物足りて争いなく、人その所において幸いなる社会

第六章 各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会

1 ヤマギシズム社会の実態について

2 「けんさん」方式で

3 真の幸福と幸福感

4 正常・健康が即幸福である

第七章 最も相合うお互いを生かし合う世界

1 山岸巳代蔵と釈迦(ゴータマ・ブッダ)

2 無執着から無我執へと

3 金の要らない楽しい村では、衣食住すべてはタダである

4 保ち合える真理こそ、愛の無測・無限・無形の力

5 理想社会には、親愛の情が絶対条件

第八章 ボロと水でタダ働きの出来る士は来たれ

1 第一回山岸会特別講習研鑽会(略称、特講)開催される

2 「一粒万倍」の拡大方式で

3 われわれ人間、一人一人の知恵と協力の集積で

4 特別講習研鑽会目標

第九章 朝は情感に明け、夜は情感に暮れ

1 苦悶する人の一人もなくなることを願って

2 妻子も家も財産も放して

3 山岸巳代蔵と志津子と子ども達

4 福里柔和子との出会い、そして結婚へ

第十章 あっても見えない人、ないものが見える人

1 百万羽科学工業養鶏構想の発表、具体化へ

2 一羽の鶏が完全に飼えれば、百万羽の鶏も同じように飼えて当然だ

3 『百万羽』への参画

4 「ヤマギシズム生活実践場 春日実験地」発足

第十一章 狂気と隣り合わせの世界

1 これは生きるか死ぬかの問題であり、幸福への根本問題だ

2 熱湯事件

3 山岸巳代蔵と福里柔和子の書簡から

4 真目的達成の近道「急進拡大運動」とは

第十二章 真理から外れて、真果は得られない

1 山岸会事件

2 失敗や間違いから学び、次なる可能性へ

3 『正解ヤマギシズム全輯』の著述に専念

4 「盲信」はすべて自分の中にある自己信仰

5 『山岸会事件雑観』発行と自意出頭

第十三章 ひとりも不幸な人のない社会、金の要らない楽しい村

1 事件以降初めてのヤマギシズム特別講習研鑽会が実施される

2 「ヤマギシズム理念徹底研鑽会」開催される

3 一切の妥協をも許さぬ、峻烈な研鑽は毎度のこと

4 ヤマギシズム生活実顕地の誕生

第十四章 本当の本当は通じないままに、死んでしまうのかな

1 二度とない人生ですさかいな、生き甲斐ある生き方をしましょうね

2 やさしさ一色のけんさんで、みんなの仕合せの世界を作ろう

3 みんな好きや、仲良ういこうな

4 山岸巳代蔵の求め、歩んだ道

参考文献

あとがき

山岸巳代蔵年譜