広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎青年を惹きつけるもの(ヤマギシズム社会への参画をめぐって)

〇私はヤマギシの実顕地で40歳前後から10年ほど人事や研修の役についていて、当時20歳代前後の若者たちの世話をしていた。(※1886年~1996年頃)

 牛精肉の第二次製品部では、学園高等部の生徒を受け入れ、その頃増えていた若者対象の「青年研修所」の世話係をしていた。

 その青年たちもその頃の私よりも年齢を重ね、各地で活躍している。いまでも交流をしている人もある程度いる。

 1960年代後半からは、全国学園紛争を経験した青年やコミューン志向の若者たちの参加者が増え続けた。そして、自家製の生産物を一般消費者に供給し始め、その品質を支持する人々を母体とした活動が全国的に広がっていった。

 また、新島淳良などの著名人が参画し、幸福学園を立ち上げ、教育や子育てに関して提言を行うようになり、楽園村運動や非認可のヤマギシズム学園(幼年部から大学部)を設立することになる。それに着目する学者、研究者も少なからず現れた。

 わたしが参画した1975年頃は、ある程度ヤマギシのことが話題になることもあり、青年の参画者も増え続け、生産物供給や楽園村運動が軌道に乗るにつれ、徐々に、社会的に活躍していた30代~60代の人たちの、一家揃っての参画も目立つようになり、子どもを学園に送る親も増えていった。

 初期の頃はよく知らないが、1960年代後半あたりから青年の参画者が徐々に増え、1990年頃は「青年研修所」を作るように、若者の参画者が多くなった。

 わたしをはじめ、時代の影響もあるだろうし、若いという気楽な立場もあるとしても、ある意味特異なコミューンであるヤマギシズム社会へ参画したくなるものがあったと思う。

 親に連れられて「むら」で暮らすようになった学園生などとは違って、「特講」をはじめ、ある程度熟慮して参画することにしたのである。


 わたしの関心は大きく二つある。
 一つは、その頃若者を惹きつけたものは何だったのか? そこで結構関っていたわたしはどうだったのだろうか?
 もう一つは、では現在そこで培ったものが、どのように生かされているのか、ほとんど関係ないのか、嫌なこととして引きずっているものがあるのか、ということなど。
 
 二つ目は、親に連れてこられたとはいえ、元学園生にもいえることで、むしろ、今現在がどうなっているのかが大事なことと考える。
 
 いずれにしても、今後の人生に生かしていってほしいと願っている。

  なお、学園生などに関しては、わたしの身近な子どもたちを見ていて、その捉え方は一人ひとりだいぶ違うが、学園の同期生や仲間たちとの関係は、とても親密なものがある。同じ釜の飯を食ったというような半端なものでない深さを感じることが多い。

 同じことは、参画した青年たちにも当てはまるような気がする。とにかく寝食をはじめ、各種作業や研鑽会などで、ほとんど一緒の機会がある暮らしなので。
          ☆

 年末に増田望三郎さんの安曇野地球宿通信が送られてきて、そこに、自伝『安曇野で夢をかなえる』を電子書籍で読めるとの記事があり、正月はこの本を読みこんでいた。

 彼の旺盛な活動の原動力が伝わって、大事なことが多々語られていると思い、自分のブログ・日々彦「ひこばえの記」に書評を掲載した。

 増田望三郎(著)『安曇野で夢をかなえる』
 https://masahiko.hatenablog.com/

 その本の「第三章 僕の巣立ち」で、「ヤマギシ会」のことが出てくるので、少し書評で取り上げた。

 本書では参画することになったことから脱退するまで、詳細に語られ、そこで培ったことにも触れている。

 むろん、何事もとらえ方は一人ひとり違いがあり、一つの参考記録として、余計な解釈を入れずにあげておく。
          ☆
『安曇野で夢をかなえる』「第三章 僕の巣立ち」から

・ヤマギシ会
 何でも見てやろう、そして、自分の器を大きくしてやろう!
 大学時代の僕は血気盛んだった。
 ある日、大学構内に貼られていたポスターを見て、三重県で行われた農業イベントに参加した。
 イベント名は「若人楽園村」。主催はヤマギシ会。世界最大の農村共同体=コミューンだ。
 当時僕は、ヤマギシ会についての知識は皆無で、
「全国からたくさんの若者が集まる」
というポスターの文面を見て、
「きっと面白いことを考えている奴がいて、僕の国づくり構想にも乗ってくる奴がいるかもしれない」
 そんな思いで、九州からフェリーと電車を乗り継いで、単身三重まで出かけて行った。

 舞台となったのは、鈴鹿山麓にある果樹園。
 収穫後の果樹に、肥料を施すということで、園のあちらこちらに堆肥の山があった。
 農作業は初めてだった。堆肥は臭いなあと思いながらも、僕も頑張って堆肥を撒いた。
 夜には、自分の感じたことを出し合う研鑽会という話し合いがあった。

 その場では参加者が、自分の思いを素直に出していることに僕は驚いた。そして、つられるように、僕も自分の思いを素直に出していた。

 このイベントにはスローガンがあった。
『百年の稔り 今が元づくりの適期』
 壁に大きく貼られたそのテーマの意味が、最初はよく分らなかった。
 しかし、農作業と夜の研鑽会を通じて、自分の中にもこのテーマが入ってきた。堆肥を撒く時、樹元ではなく、そこから離れた場所に撒くのには理由があった。離れた堆肥を吸収しようと、根が伸びて広く張るようになるのだ。

 見た目は立派でも、根が張ってなければ、強風に倒れたり病虫害にもあう。逆に、根がしっかりと張っていれば、果樹は100年後も稔り続けることができる。
 そして、100年後の豊かさを創り出すのは、今この時の元づくりにあるのだ。
「ここの人たちは、100年後まで思い描いて、今をきているのか!」

 バイトで二時間働けばいくらもらえる、そんな尺度でしか、時間と仕事を捉えていなかっ た自分には、この体験はカルチャーショックだった。
 このイベントをきっかけにして、僕は共同体運動に傾倒していった。


・親父に勘当される
 若人楽園村に参加してから半年のうちに、僕は大学を中退して、ヤマギシ会に参画することを決心した。
 わずか半年でのこの変わりように、周囲の友人たちは驚き、反対をした。
 それでも僕の意思は固く、大学四年次を迎える春に、仲間たちに見送られて大学を後に した。

 ヤマギシ会へ向かう前に、親元に戻り、大学の中退と自分の思いを伝えることにした。
「すべての人が、幸せに生きられる社会を作りたくて、その運動に参画する」
 親父は、僕の話をしっかりと聞いてくれた上で、
「まだ二十歳のお前が、どれだけ社会のことを語ってみたって、何も伝わって来ない」と語った。
「やるなら、三十歳までしっかりやってみろ。男なら三十まで同じ仕事をやり続けていれ ば、『これだけのことはやっている』という仕事を任されるようになっているはずだ。それ までは家の敷居は跨がせない」
 僕は親に勘当された。
 僕は、自分の巣立ちの時が来ているのだと思った。

 今は親に理解されなくとも、自分の思いが親に届く日が来ることを信じ、そして何よりも、
「自分の人生で本当にやりたいことが見つかったなら、それを真っ直ぐやっていこう」そう思った。
 それから十年。三十歳までの十年間を、僕はヤマギシ会で過ごした。

 その間、何度か実家を訪ねることがあったが、親父は僕を家に上げてくれなかった。
 夏の暑い日も、玄関先で麦茶を二杯出して飲ませてくれただけだった。
 それでも、別れ際には必ず、
「しっかりやれよ!」
と、力強く僕の手を握り締めるのだった。

 今、僕は四十歳を過ぎ、二人の子どもを育てている。
 子育てをしながら、当時の親父について思いを馳せる。
「親父は、どんな思いで僕を育ててくれたのだろうか・・・」
 僕も親父のように、一貫した厳しさと、大いなる優しさをもった 父親になりたいと
思う。


・脱会
 三十歳になり、僕は結婚し、その半年後にヤマギシ会を脱会した。
 僕が過ごした ヤマギシ会での十年間を語るのは、容易なことではない。

 ヤマギシ会は社会的な批判を受けたり、マスコミにバッシングされた時期もあった。理想 を追い求めるあまり、他を受け入れられなくなり、集団組織の閉鎖性や硬直性からくる間違いがあったと思う。

 しかし、このことは書いておきたい。
 それは、僕の人生において、二十代という未熟で、これから社会の中で、いかようにも染め上っていく真っ白な時期を、この共同体で過ごせて良かったということだ。
 そこには、「理想の社会づくり」に燃える素敵な大人たちがたくさんいた。
 その大人たちに見守られて、地力をつける若者たちや、自然に触れて本物を見て育つ子どもたちがいた。

「自分の国を作りたい」
という、誇大な夢を持った僕に、それを実際に実践している社会活動体に出会ったことは、僕の心の支えになった。

「何のために働くのか」という仕事の本質、
「人は何のために生きるのか」という人生の本質、そして、
「人と人は、どうやったら幸せに生きられるのか」
という社会の本質を、ここでは絶えず研鑽し続けた。

 そこで得た仕事観、人間観、社会観は、僕にとってかけがえのないものとなった。
 自分を愛し、他者を愛し、そして社会を愛する心を育んだ、大切な二十代の十年間だったのだ。

 この十年間が無ければ、地球宿も生まれて来なかったかもしれない。それでも僕は、ヤマギシ会から脱会することを決めた。

 囲われた小さな箱庭は歪みを生み、限界も感じていた。そこを出て、広い社会の中で自分 の理想を存分に発揮してみたかった。
 また、組織の中で肥大化した自分の思想や思考を、もう一度、等身大に戻すためには、ゼロに戻ることが必要だった。

 僕たちは、わずかばかりの所持金を持って、東京に出た。自分の生活を自分で稼ぐ、誰もがやっている当たり前のことを、わくわくドキドキしながらやり始めた。
 二〇〇〇年、三十一歳の夏のことだった。

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