広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎守下尚暉『根無し草』などについてのコメントから

〇守下著『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』のことをFacebookに取り上げたとき、同じころに育った元学園生からいくつか疑問も含めてコメントをいただきました。
 さらに、参考になるかとも思い、学園に触れた故吉田光男さんの論考「元学園生の手記を読んで」を紹介したところ、いろいろな反響がありました。

 当ブログは、理想集団がどのように変容していったのか、様々な視点から考察することで、今後に生かしていければいいかなと考えています。
 特にヤマギシ会、実顕地が力を入れ、異様な展開をしたヤマギシズム学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返ることは大切で、その意味合いにおいても守下著『根無し草』やそれに関してのコメントで、いろいろな方が、考え、思うことを寄せることで、様々な角度から焦点があたり、過去のことを現在につなげるのは,このブログの目的の一つであり、その一部を上げておきます。


「元学園生のコメントから」
T・Y:正しいと思われることを言うのは気持ちのいいことなんだけど注意しないといけないんでしょう。正しいっていうのが 語弊があるのなら 全人幸福って感じ?
 これは この組織に限らず 世界や社会の幸せを訴えたり、良いことをしていると思われる他の組織についてもいえることで 人間は間違いやすく 普遍的に同じ失敗もする。
 ひょっとしたら 戦中、戦後の日本も似たようなものやったのかもしれない。もっとちゃんと 感じていることをオブラートに包まずに後の世代に伝えていたら 良かったのかもしれない。自分が撃った鉄砲の流れ弾で、埋めた地雷で亡くなった被害者がいるかもしれない・・・と思うとぞっとするけど 自分の家族をまもるため・・・・・に。
 組織が大きくなればなるほど 気をつけないといけないということなんでしょうね。

 おはようございます。でもあそこで学んだことも多かったことも事実です。
 後悔は無駄だと言う人もいたり、しますが、少しの後悔と沢山の反省はより良い人生には必要なのかな? と思ったりもします。

K・N:学育部とかもあったかと思うが。おかしな考えも公意となり。半ば強制的でもあった。
 当時の本庁メンバーからさえもその後の反省を聞いたこともなく、山口さんがこうして振り返ってくれることは、気持ちの整理もついて嬉しいことではあります。
 当時から壮大な社会実験だと思って参画したつもりであったが、軌道修正も難しい組織だなとも思った。
 矛盾したこともかなりあった。まあやっぱり本庁の偉そうにしていた人の責任は重大だと思う。
 失われた命もけっこうあり、続く影響もあり。私の一生にもつきまとうことのようだ。

 誰かが、とんでもないことを言って、別の人が、それは違うこうじゃないか、また別の人が、いやいや2人とも全然違うわ!、それぞれの思うところを出し合い、足し合い、とんでもないことの正体が何となく探り出していけるのが、楽しかった気がする。
 最終の方では、誰かの考え、本庁の考え(黒幕😱)の考えに依存する、指示を仰ぐってのがあったんじゃないの? いやあったと思う。どこで話し合っても本庁に確認するってのが多過ぎたわ。そしてその場には本人不在でね。まあ当初からそこは崩壊していた部分なんだと思うが。

 誰もが何かに操られていたような。誰もが傷ついたのかと思うが。当時、どういう気持ち、どんな背景があったのか知りたい。
 今も許せないと思う人も多いことだろうが、赦すことも必要のように思うし、当時の反省は必要だ。

H・W:今でも学園生時代での反省した事柄を覚えています。反省をしないでいたら又同じことを繰り返すのでは…と、思うのです。
 山口さんがこうして出してくれている事は自分にとってとても大きな事です。吉田さんの読ませてもらって、当時のこと思い出されます。
 本当にどうだったんだろうと振り返ってみたいと思いますね。

 常々学園、学育で育った人達は心に何らか傷があるのを感じていました。鬱病になっている人が何人もいたりと…。話を聞くたびに憤りを感じたり。
 当時主力でやられていた人の発信としては山口さん福井さんしか知らないです。
 みなさんどの様に思われているのか知りたいと思っています。


H・S:当時を生きた学生として中高と色々、ありましたが恨み言は言いたくないので言いませんが一つだけ。中学の係の事は一生忘れないと思います。まさに動物実験でしたね。


「学園以外の方からのコメント」
K・H:吉田光男さんの手記、初めて読ませていただきました。シェアさせていただいて、何度も何度も読ませていただきます。

H・M:学園に限らず、結局のところヤマギシズム実顕地構想全体が、「こころの解決」より「形に依存」することが原因だったと私は反省しています。幸福社会という架空の極楽浄土のような理想をかかげ、それを正しいとして、時間軸を未来に逃避し「いつかそうなる」と、理想を追っていました。平和の為に戦争をするのと同じ発想です。
 こころの解決も理想社会も「今ここ」でないと意味がありません。だって、本当に実在するのは、今のありのままの自分だけです。社会とは人のことで、最小単位の社会が自分のこころの世界です。人を変えることができないなら、自分のこころの解決が何より肝心なことだと思うのです。
 私はヤマギシズムに出会って、本当に多くのことを学びました。自分の原点だと今でも思っています。私は仏教の世界に帰って、私も含めたすべての生命の幸福を願う、慈しみのこころを育てながら、ブッダの瞑想を実践して暮らしています。こころの解決は、結果ではなくその姿勢にあります。おなじ志の人といるとそこに、柔和な社会が努力せずともあらわれます。
 40歳の頃、実顕地で暮らしていて「これは間違いだ」と静かに気づきました。不思議なことに同じ時期に、因果具時の如く、多くの人が目覚めはじめました。実顕地を離れて鈴鹿に集結したころが懐かしく思われます。そこにも、こころの解決に中心を置く人と、寄らば大樹の陰のように、形に惹かれる人があらわれます。
 憧れた無所有社会は、自分のこころにあります。我利我利の生存欲をありのままに見て、何だ生きているってその程度のことかと見て、生存欲から離れることも難しいとは思いません。一切の理想を追わないと、ありのままが自分の理想と合致します。私は支配者ではないのです。


「わたしからの返信」
・自分のやれることとして、実顕地や学園のことを過去のこととせず、現在の問題として考えていくことやっていこうと思います。その意味でも、今回のいろんなコメントは励みになります。

・どんなことも失敗や間違いはつきもので、たえず見直し、軌道修正が必要だと思います。また、そのことをきちんと振り返ることが大事だと思っています。

・「あとは研鑚しておくよ」という反応が多かったですね。要するに本人たち不在で、上のもの指導者に決めてもらいましょうというような、本来の「研鑽」になっていないことですね。学園生活では頻繁にあったと思います。

・そんなこともあったなと、簡単にやり過ごすことはしたくないです。現実に犠牲になった人はいるのですから。

・ある会員さんから中等部のある人について「その人の名前を聞くと、胸が張り裂けそうで一杯です。」という投稿がありました。

・今回は守下著のことで学園に焦点を当てましたが、実顕地も初期の構想とは正反対のことをしていたんですね。その延長上に学園問題があると思います。

・このようにいろいろな方が、考え、思うことを寄せることで、あることが様々な角度から焦点があたり、またそれぞれに還っていくような気がします。
 過去の事を振り返るのは大事だと思いますが、注意する必要もあり、躊躇するものもあります。どちらにしても自分にとっても誰にとっても、何かいまに繋がるものがあればいいかと思っています。