〇九州での合宿けんさん会に参加して
昨年、ヤマギシ会会員だった知人に誘いを受けて、九州での合宿けんさん会に参加した。メンバーは、二人の知人の家族(一歳ほどの孫を含めて)とその友人、会社の社員など。阿蘇での合宿けんさん会のときは。参加者は、元学園性、幼年部時代のつながりで寄ってきた青年たちが主体であった。青年たちはみなたくましく成長しているなと感じた。
知人は、若い時から、子どもや若者たちが健やかに育つことを描いて、様々な活動をしてきて、その過程でヤマギシ会を知り、特講を受け会員になり、学園などへの子ども送りなどで活躍していた。しばらくして疑問を覚えて、距離を置くようになる。その後、どの子どもたちも豊かに育っていける社会を描いて、現在仲間たちと模索している。
つまり、はじめに「どの子どもも溌剌と生きる社会への模索」があり、その過程で知ったヤマギシ会は、その熱意をよく実現しそうに思えた一つの器であり、しばらく熱心に関わっていたが、様々な疑問を覚えて、そこから離れるようになる。
あたかも、古くなり、窮屈になった服を脱ぎすてるように。
その服を脱いでも(脱いだので)、生身の身体にしっかり染み込んでいる「次代の子どもたちが輝いて生きる社会」への熱望は消えるどころか、ますます冴えわたってきている。
そして、脱いだ服も、素材はすぐれたものなので、仕立て直して使い勝手のいい「雑巾」のようなものとして使っている。
例えば
○けんさん会
このグループでは、何人かで寄って、和気あいあいと、とことん話し合う機会を「けんさん会」とよんでいる。ほかに相応しい呼び方があればいいが、今はその言葉を使っている。
話し合いをしながら一緒に考えていくことを大事にしていて、それを続けている。知人たちとの交流は、『山岸巳代蔵伝』購入希望から再開した。20冊の要望があり、そんなに読む人がいるのかなと思っていたが、けんさん会で資料として使っていた。
『山岸巳代蔵全集』を読んでいる人、その思想に関心を持っている人もいて、手軽に抜粋ができるものとして使っていたようだ。私たちが参加後も、けんさん会で使ったらいいとおもわれる文章を「全集」「評伝」から選んで、それを資料として使った。
これにはびっくりしたし、山岸巳代蔵の思想を大事にしていること、「全集」を読んでいることを嬉しいと思った。
実際は、ある程度のけじめはあるが、いつのまにか、どこからがけんさん会で、どの辺が話し合いで、だべってのおしゃべりなのか、かなり曖昧で、進行係も一応決めるが、いるのかいないのか曖昧になってくるときもある。
それに、1歳ほどの幼児が部屋の中を歩き回っている。けんさん会にアレルギーがあり、絶対出ないといっていた妻も、このようなものだったらと、横に寝そべりながら参加している。俺がここは大事だなと思って発言すると、ふいに「そうは言っても、あなたは……」と突っ込みを入れてくる。
そのような中でも、それぞれの中で、何かしら心が動いていくような感触がある。山岸巳代蔵がその言葉に託したようには、とてもなってはいないが、そのエッセンスは大事にしたいと思っている。
○「われ、ひとと共に繁栄せん」
けんさん会で、よく使われる資料はヤマギシ会会旨である。知人たちの動きで面白いのは、「われ、ひとと共に繁栄せん」という考え方を、ことさら意識していなく、相互依存の暮らしの中で、無理のないところで、そのようになってきたのだろう。
日々の生活で、相互共存で補いあって暮らしている。知恵のあるものは知恵を、力のあるものは力を、もののある人はものを、悩みのある人は悩みを、困難を抱えた人がいれば困難を等々、その人のものとせず、遠慮、気兼ねなく、みんなの輪の中で活かしていく。
勿論まだまだのところはいっぱいあるし、もっと成熟していかないと、グループの輪が広がるにつれて、中途半端なものになっていくだろう。
べったり密着した関係ではなく、ほどよい距離があり、一人ひとりの時間や差異を尊重し、ときには批判したりされたり、それでもくずれないというような関係がどのように展開していくか楽しみである。
ここで触れた若者の中には、様々な事情で、子どものときにいろいろな家族の一員として育てられたことから、お母さん、お父さんが複数いる人もいた。妻も、交流しているうちに、いつの間にか、何人かの女性からお母さん扱いを受けている。
○陽的社会
知人たちは、会員時代子ども送りに熱心であったので、その後の子どもたちの中には困難な事例もあったと思われるし、いろいろフォローしていたようだ。
熱意のあるヤマギシ会活動家だったこともあり、してきたことについて、きちんと分析して次につなげたい思いは強くあるようだが、参画を執拗に迫られて嫌な思いをしたというような話は聞くが、ネガティブな思いは感じられず、明るく冷静に見ているなと感じる。
それにしても、何せ明るいのである。それもあっぱっぱっの明るさではなく、結構真摯に考えているのだが、陽的なのだ。
今は結婚している人もいるが、知人たちの子ども、その友人たちも、それぞれ悩みはあるようだが、知人たちのような人の輪の中で育ってきて、それぞれに健やかな明るさを覚えた。
九州の知人たちについて好意的に見ているかもしれないが、感覚的だが鋭い見方をする妻が、実顕地については拒否反応が強いが、このような人とやりたいねと言っていて、やはり陽的な明るさからくる魅力を感じているのだろう。
私についていえば、漠然としたものではあったが、三里塚、沖縄で何かを求めて放浪する中で、ヤマギシ会を知り、面白そうだなと参画し、25年余にわたって力を尽くしてきたつもりだったが、疑問を感じて実顕地を離れた。どういうわけか、実顕地に対してはいやな感情はあまりない。
一昨年豊里に行ったとき、懐かしかったし、世話になった高齢の方や、大事にしていきたい友人も多い。しかし、自分のしてきたことや、私のいた頃の実顕地のありようについては、折に触れ、組織論としても分析しながら、発信していきたいし、発信すると、それを考えたかったというような反応もある。
そういうお互いが交流する中で、次代の子どもや若者が健やかに明るく育っていける社会を一緒に描いていきたいと考えるようになった。そのような経緯で、昨年の11月に講演というより座談をすることになった。