〇内観、自分を観る
日々の暮らしを詳細に見ていくと、意識的にも無意識的にも「----のために」「----に向かって」など前へ向かうことをよしとして、動いていることが多い。「良い暮らしをするため」、「健康のため」「子どもの将来や家族のため」など、漠然としていても、突き詰めてみていくと、そのことで動いている。その目標が、組織、会社、国のため、などと対象が広がってくると、個人的なものというよりも、別なものになっていくことも多いような気がする。
さらに、組織的な理想、理念、スローガンなど、単なる個人的な抱負からかけ離れたものになると、折々立ち止まりつつ、その内容をよく吟味して、自分に引き付けて見ていかないと、訳が分からなくなってしまうこともある。
わたしは、ヤマギシズム運動、実顕地に参画して25年ほど活動してきた。組織の掲げる理念には共鳴するものがあり、そこにエネルギーを注ぎ込んだつもりである。その過程は自分としても充実感を覚え面白いものだった。そのうちに疑問を感じ始めて、やがてそこから離れた。
一生懸命に働いた、エネルギーを注ぎ込んだというのは、物事の本質に迫っていることとは全く関係ないどころか、始末におけない様相を示すときもある。振り返ってみると、どうかな? と思うことは時折感じたが、突き詰めて考えようとはしなかったことを残念に思っている。
離れた大きな理由は、簡単に言えば、家族を含めた個人に立ち戻って暮らし始めようというものだ。組織的なものを否定したわけでなく、つながりの輪を大事していきたいとも思っている。どこまでも一人ひとりの息吹が色濃く反映するような和を。
しかし、その後の自分の動きを見ていくと、何かに向かって、熱意を覚えのめりこんでいくような傾向があるのに気づく。
あることにのめりこむことは、特定の人との交流、その分野での特定の価値観でしか物事を見られなくなるおそれを生じやすい。
「内観研修」を体験したとき、「何かを分かる、知る、調べる」など、そういうことには熱心に力を入れていたけれども、ものごとをよく『観る』ということに淡白で、まして『自分を観る』ということに関して、ほとんど手付かずではないのかと思ったことがある。
何か「する」「つくる」「できる」ことよりも、立ち止まって「じっくり観る」「疑いつづける」「振り返る」ことを生き方のベースにしたいと改めて思っている。
【参照資料・詩】
『島』
姿見の中に私が立つている。
ぽつんと
ちいさい島。
だれからも離れて。
私は知つている
島の歴史。
島の寸法。
ウエストにバストにヒップ。
四季おりおりの装い。
さえずる鳥。
かくれた泉。
花のにおい。
私は
私の島に住む。
開墾し、築き上げ。
けれど
この島について
知りつくすことはできない。
永住することもできない。
姿見の中でじつと見つめる
私――はるかな島。
(石垣りん『表札など』第2詩集。思潮社刊、1968年より)