広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

(43) 問い直す② 2000年頃の私(たち)から

 先回<真理観>と<自己存在観>という二つの観点について書いた。これは吉田さん日録『わくらばの記』に対する私の最初のとっかかりとしての印象表現ということになろうか。こういう自前コトバやテーマは、私のような不勉強、ボキャブラリー不足の人間が、止むを得ず取らざるをえない手段であることを容赦されたい。まったく足元にすら及ばないで恐縮だが、私の見るところ山岸さんは<造語の天才>だった。

 これは同時に吉田さんと私との2000年ごろの「実顕地」への<残留と離脱>という相反する事実選択の背後にある考え方を指す。私自身がジッケンチに残ることを断念した時点で、吉田光男さんがそのいわば理想形骸化した「実顕地」に留まること選んだという選択のことである。そこには人間個々の人生における偶然と必然性がない交ぜ合った結果としての優先感覚が作用するだろう。そのことに私の後悔はないと思う。しかし吉田さんのその後の取り組みは、私もその場に留まるべきだったかもしれないという可能性を暗示させる。そこにいわば吉田さんの理想に向けての、ある深い人間的力量を感じさせる。その資質は決して偶然ではないと思う。

 そのプロセスを吉田さんは次のように記述する。

〈私にとって一番深く悩んだのは、2000年以降の10年である。これまで村の中心で活躍していた何人かの人たちが鈴鹿に居を移し、新しい運動を始めた。それに伴って多くの人たちが鈴鹿に移動した。私にも講習に参加しないかと何人かから声がかかった。しかし十分納得しないうちに、「ここがダメならアッチがあるさ」と簡単に移り変わることなどできない。村に問題があるとしたら、それはどこにあるのか、そしてそれは何なのかを見極めたいと思った。観念の形を変えてみたところで、中身は変わることはないのだ。〉(64p)

 このイメージは当時「村から町へ」運動で大阪に在住し、その後2度ほど訪れた私の鈴鹿での印象と一部符合する。吉田さんとは時期的にはずれているだろうが、以下は初期の頃の私の印象になる。

〈しかし須山はそこでも以前通りの古式蒼然たるテキストを使った研鑽会の雰囲気、昔のリーダーへの追従的態度や互いの依存・持たれ合いの体質を嗅ぎとると、もうダメだった。人々をアリの集団に変質させたJ指導部の一元的な権力集中から離脱した彼らは、ゼロに戻ったのではないのか?・・・・・・須山は多恵子と違ってそこへ飛び込む気にならず、そのことをさらにまだ整理し得ない過去へのこだわりによって正当化した。〉(番一荷『にわか老後』2005より)

 その後の鈴鹿の動きに対して私は無関心ではないが、この違和感のようなものが解消されることはなかった。特にその運動の一見現代的で華々しい進展とは裏腹に、元ヤマギシの前歴を伏せたような印象がどこか問題を感じさせた。これだと「不都合な真実」を隠蔽してきたジッケンチと同じ轍を踏むことにならないのだろうか、という危惧が残る。

 さらに上の吉田さんの文の直後に示された彼の認識の徹底さに深く共鳴する。
〈――今度こそは同じことはできない、と思ったのである。そして自分の考えてきたこと、信じてきたことが誤っていたとすれば、その誤りを見出すだけでなく、誤りを信じ込んだ自分自身がなぜそう信じ込んでいたのかをはっきりさせねばならないと思った。つまり考えという対象の誤りと同時に自分という考える主体の誤りをも、同時に見出すものでなければならない、と思ったのである。帽子をいくら脱ぎ代えても、頭の中身は変わらない。〉(同64p)

 この「自分という考える主体の誤り」という考え方に至る前に、吉田さんは『山岸巳代蔵全集』の編集に参加できたことが大きかったようである。山岸さんの原稿に何度の直面するうちに、「――自分が固定観念の虜になっていることに気づかされる。自分の考えは正しいと自信のある時は絶対に気づくことはできなかったことだ。人間、時に悩むことの重要性を意識させられた」(65p)とある。

 ところが当時、私はこの吉田さんの正論(現在の私が考えられる)という方向にストレートに進まず、いわばかなり開き直ったともいえる方向に転身していったように思う。いわば理想・理念自体への懐疑、否定から、さらにそういうものに自己呪縛されてきた「自分とはいったい何者なのか?」という模索、いいかえれば<自己存在観>の究明の方向へと。それは私には絶対に避けられない究明ではあったが、のちの<真理観>の正否自体とその自己背景まで立ち戻るには時間がかかっている。(続く)2017/05/16

参照・(連載)吉田光男『わくらばの記』⑸2018-03-22