広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎2000年の実顕地からの大量離脱について①

※体調不良で、しばらくこのブログの掲載は途絶えていましたが、少しずつ発信していこうと思います。

〇以前、ヤマギシズム実顕地に参画していた人と交流する機会があると、2000年頃の大量離脱など、「あれはどういうことだったのか?」、と話が及ぶことが多い。
 その頃、推進的に活動し要職にあった私に対し、何があって、何故離脱することになったのかという問いかけもある。
 また、その頃熱心に会員活動を担っていた人にも、同じような問いかけがされることがある。
その経緯を私なりに述べようと思う。

 2000年頃の離脱については、その渦中で動いていたので、ある程度現象的には掴めているのではないかと思うが、その頃参画して活動していた人たち、まして熱心に会員活動をしていた人のほとんどが、まったく訳がわからないのではないかと思っている。

 それは、大きな要因の一つとなった、「オールメンバー研」「社会過程研鑽学校」「実践の書研」などよく参加していた人、その動きに共鳴した人の中に、今まで各部署で推進していたような人が多かった。また、何故そのような人たちが、離脱することになったのか、それらの研鑽会に参加していない多くの人たちにとって不可解だったのではないだろうか。

 つまり、とても大雑把な見方になるが、ボトムアップ式な革命ではなく、一人ひとりの意思が働いていたとはいえ、各部門で推進していたような人による一種の反乱だったのではないだろうか。そこの中で、S氏やそれに同調する人の役割が大きかったが。

 そして、「オールメンバー研」などその研鑽会に推進的に担っていた人の多くが、鈴鹿に流れていき、山岸巳代蔵が描いた構想、本来のモノにしていこうと寄って集まり、そこに「村から街」の人が加わり、鈴鹿コミュニティになっていき、その活動の進展とともに、「ヤマギシズム」や「研鑽」を一切使わない「サイエンズ」になっていく。

 もちろんその動きにより、その頃の実顕地に違和感、疑問、嫌な思いを抱いていた人たちが、見切りをつけ、離脱する大きな契機になったことはあるだろう。
 だが、実顕地そのものの屋台骨は、かなりの影響を受けただろうが、初期の頃の高邁な理想とは違ったものになっていたが、経営基盤はそれほど変わらなかったのではないだろうか。

 参照:本ブログ 2015-05-28記「ヤマギシズム実顕地について思うこと」