広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

(43) 問い直す② 2000年頃の私(たち)から

 先回<真理観>と<自己存在観>という二つの観点について書いた。これは吉田さん日録『わくらばの記』に対する私の最初のとっかかりとしての印象表現ということになろうか。こういう自前コトバやテーマは、私のような不勉強、ボキャブラリー不足の人間が、止むを得ず取らざるをえない手段であることを容赦されたい。まったく足元にすら及ばないで恐縮だが、私の見るところ山岸さんは<造語の天才>だった。

 これは同時に吉田さんと私との2000年ごろの「実顕地」への<残留と離脱>という相反する事実選択の背後にある考え方を指す。私自身がジッケンチに残ることを断念した時点で、吉田光男さんがそのいわば理想形骸化した「実顕地」に留まること選んだという選択のことである。そこには人間個々の人生における偶然と必然性がない交ぜ合った結果としての優先感覚が作用するだろう。そのことに私の後悔はないと思う。しかし吉田さんのその後の取り組みは、私もその場に留まるべきだったかもしれないという可能性を暗示させる。そこにいわば吉田さんの理想に向けての、ある深い人間的力量を感じさせる。その資質は決して偶然ではないと思う。

 そのプロセスを吉田さんは次のように記述する。

〈私にとって一番深く悩んだのは、2000年以降の10年である。これまで村の中心で活躍していた何人かの人たちが鈴鹿に居を移し、新しい運動を始めた。それに伴って多くの人たちが鈴鹿に移動した。私にも講習に参加しないかと何人かから声がかかった。しかし十分納得しないうちに、「ここがダメならアッチがあるさ」と簡単に移り変わることなどできない。村に問題があるとしたら、それはどこにあるのか、そしてそれは何なのかを見極めたいと思った。観念の形を変えてみたところで、中身は変わることはないのだ。〉(64p)

 このイメージは当時「村から町へ」運動で大阪に在住し、その後2度ほど訪れた私の鈴鹿での印象と一部符合する。吉田さんとは時期的にはずれているだろうが、以下は初期の頃の私の印象になる。

〈しかし須山はそこでも以前通りの古式蒼然たるテキストを使った研鑽会の雰囲気、昔のリーダーへの追従的態度や互いの依存・持たれ合いの体質を嗅ぎとると、もうダメだった。人々をアリの集団に変質させたJ指導部の一元的な権力集中から離脱した彼らは、ゼロに戻ったのではないのか?・・・・・・須山は多恵子と違ってそこへ飛び込む気にならず、そのことをさらにまだ整理し得ない過去へのこだわりによって正当化した。〉(番一荷『にわか老後』2005より)

 その後の鈴鹿の動きに対して私は無関心ではないが、この違和感のようなものが解消されることはなかった。特にその運動の一見現代的で華々しい進展とは裏腹に、元ヤマギシの前歴を伏せたような印象がどこか問題を感じさせた。これだと「不都合な真実」を隠蔽してきたジッケンチと同じ轍を踏むことにならないのだろうか、という危惧が残る。

 さらに上の吉田さんの文の直後に示された彼の認識の徹底さに深く共鳴する。
〈――今度こそは同じことはできない、と思ったのである。そして自分の考えてきたこと、信じてきたことが誤っていたとすれば、その誤りを見出すだけでなく、誤りを信じ込んだ自分自身がなぜそう信じ込んでいたのかをはっきりさせねばならないと思った。つまり考えという対象の誤りと同時に自分という考える主体の誤りをも、同時に見出すものでなければならない、と思ったのである。帽子をいくら脱ぎ代えても、頭の中身は変わらない。〉(同64p)

 この「自分という考える主体の誤り」という考え方に至る前に、吉田さんは『山岸巳代蔵全集』の編集に参加できたことが大きかったようである。山岸さんの原稿に何度の直面するうちに、「――自分が固定観念の虜になっていることに気づかされる。自分の考えは正しいと自信のある時は絶対に気づくことはできなかったことだ。人間、時に悩むことの重要性を意識させられた」(65p)とある。

 ところが当時、私はこの吉田さんの正論(現在の私が考えられる)という方向にストレートに進まず、いわばかなり開き直ったともいえる方向に転身していったように思う。いわば理想・理念自体への懐疑、否定から、さらにそういうものに自己呪縛されてきた「自分とはいったい何者なのか?」という模索、いいかえれば<自己存在観>の究明の方向へと。それは私には絶対に避けられない究明ではあったが、のちの<真理観>の正否自体とその自己背景まで立ち戻るには時間がかかっている。(続く)2017/05/16

参照・(連載)吉田光男『わくらばの記』⑸2018-03-22

(42)「問い直す」ということ

 吉田さん逝去の事態で、少々混乱したり取り乱したりしていることもあるかもしれない。私はどちらかというと感激性型の人間であり、それによって失敗することもままあった。それもあって、まず前回の吉田さん葬送の文章を見直してみる。かなり重大なことを口走っているかもしれない。

 たしかに私はいかにも昂揚した感覚で書いている。「彼のこの志と覚悟をどこまで引き継げるか」と。ふり返ってみてこんな誓い的な物言いはしたことがない。行き当たったのは、あの山岸さん墓前での「オールメンバーの誓い」(1993年)以来のことである。だから「なにかしら途轍もなく恥ずかしくなりそうなことを書いているような」という躊躇を覚えずにはおれなかったと思う。

 そこで書かれたことばの真意を確かめてみた。そこでは「――いや自分が求めつつあるのは、できるかどうかは別に、吉田さんのような問いかけの深さだと思います」とあった。誓約的には他に何も触れてはいない。なかんずく「何を問いかけるか」については。いいかえれば同じヤマギシについて、あるいはヤマギシの<しでかした>ことについて、なかんずくその渦中にあった自分のことについて、私はこれまで同様問いかけ続けるが、おそらく吉田さんと即、テーマは似ていても同じニュアンス、方法で問い返すことはほとんどできないし、しないだろうと思う。

 ところが、「この志と覚悟を」などという表現というものは、ひょっとしてかなり誤解を呼びそうな気がしないでもない。例えば私は、吉田光男さんの後継者になる気はさらさらないし、できないと思う。ただ私が「引き継ぐ」しかないと腹を決めた部分は、あの辺見庸の『1★9★3★7』での問いかけに触れた吉田光男さんの、自分自身への<愕然とした思い>だけ。ただそれは私にできるかどうかわからないし、そこに傲慢な自尊があるかもしれない。だからもっと正確にいえば、その吉田さんの<愕然とした思い>に触れ<さらに愕然とした>私の思いに忠実になろうとしたということになる。

 したがってそのメインテキストとして私は『わくらばの記』を挙げざるをえない。吉田さん逝去の、私にとっての直接の意味はそこにあると思う。しかも2000年以降、ヤマギシ内部にあった人の公開された心の記録として、これほど正直、真っ当な、かつレベルの高い記録は他に出会っていない(コミック本『カルト村に生まれました』も然り)。参照している『わくらばの記』新刊本はすでに付箋でいっぱいになった。知らなかったことは多い。知っていて同感するところ多々だが、気になるところもある。しかしその目的は吉田さんに問いかけるわけではない。それを機に自分への問いかけを、その中身と方法も含め「問い直す」ことから始めたい。

 これは気になるということではないが、その辺見庸の問いかけがあるページ以降、続いている文章はいわば<真理観>に属する。人間の正しさ願望、真理.真実の早計な捉え方とその固守、他への非難の夜郎自大性等々、どれも素晴らしい指摘だと思う。その必要性、意義は充分にある、しかし私には少しばかりしっくりこない。それは私がこれまで意図的というほどではないが、なんとなくすっとばしてきた苦手の分野だった。

  私がいわばホッとできた場面は、以下のゴッホについての記述になる。

「彼は何枚も何枚も自画像を描いた。何のためか。――1枚も絵が売れない、しかし自分は描くこと以外に生きることはできない。そんな自分とは何なのか、描くこと以外に画家としての自分(レーゾンデートル)を確認できなかったのであろう」15p

 これは前後の関係が不明なまま(私には)不意に現れた記述だった。これは、しかし日録というスタイルの欠陥というより自在さでしょう。病気、入院という生活部分の必要から出てくるものだと思う。おかげで暮らしの背景も読み取れ、文章も私の論考のように長ったらしくならない。

 それともうひとつは以下の記述だった。

「少年時代からの自分を振り返ると、自分が自分であろうとするよりも、いつも自分以外の何者かになろうとしてきたように思う」19p

 これも前後関係は不明で不意に出てくる。この内容は、私もある時期痛切に感じた思いだった。

 こういう部分は、私には<真理観>に対してあえて命名すれば<自己存在観>ということになろうか。いうまでもないが、これは吉田さんと私の2000年以降の軌跡のちがいからくると思う。吉田さんには<真理観>がメインでありながら、このような<自己存在観>も時々覗かせてもらえる。吉田さんの思考領域の広さというのか。おまけにそれを支える膨大な読書量がある。

 その間、私はろくに本なぞ読まないで小説的手記ばかり書いていた。本を読みだしたのは2008年以降総括論考を書きだした頃だった。したがって『わくらばの記』は私にはある種峻厳なテキストであるだけでなく、私の問題意識にじかに触れてくるとてもありがたい書でもある。

 ところで先ほどの「自分以外の何者かになろう」という記述のすぐ前に、以下の記述がある。

「ヤマギシでいえば、1980年代以降の急拡、そして急速な縮小、そこにいったい何があったのか、なぜそうなったのか、そしてその時私たち一人ひとりは何を考え、どう行動したのか、繰り返し繰り返し考えてゆく必要がある。そこにしか未来を生かす教訓はないのだ」

 私がこれまでHP等で書き継いできたのはそれ以外のこともあるが、基本的にはこの思いと全く同感である。その「繰り返し」を自分への「問い直し」としてさらに続けていくつもりです。
2017/5/14

参照・(連載)吉田光男『わくらばの記』(2)2018-02-01

◎福井正之(41)吉田光男さんの逝きて「逝かざるもの」

※福井正之氏は以前のブログ「反転する理想」に、吉田光男『わくらばの記』を、ご自分に引き付けながら考察した記録があり、本人の了解のもとに、順次掲載していく。NOは掲載時のままにした。


〇4月30日吉田光男さんが逝去されました。享年85歳。
 吉田光男さんとの最初の出会いは、『天真爛漫』(ヤマギシズム出版社1980)での彼の著述からでした。そこで巻頭に紹介されていたミヒャエル・エンデの『モモ』のことと、楽園村の記録が私にはとても斬新なものでした。それは当時の世界文学、思想の頂きから発想しながら、楽園村の意義に及ぶもので、そのスケールの大きさとそれによる普遍的なリアリティ― は、ヤマギシにもかなりの人物がいると知らされました。しかしそういう発想はその後のヤマギシからどんどん失われていったものです。

 
 その後吉田さんとの接点はほとんどなかったのですが、私のジッケンチ離脱後、彼の元学園生の「個別研」体験手記に触れての論考で、さらに近時の『わくらばの記』の中で、私はふたたび彼と出会えた感触がありました。彼のスケールは依然として健在でした。ただ彼の思索の場がジッケンチであり続けたことが、私にとってなぜそれは可能なのか不思議でもあり、ある種の危惧と驚異にもなっていました。彼の逝去の報を受けて、私にもっとも鮮やかに想い浮かんだのはそういう場の選択の違いでした。

 
 なぜならそれは私にはできなかったことです。そこは私には「金は要らないが、無理暴力のある」集団であるのみならず、「沿う・合わせる」の自縛的な自己拘束とそれによる思考停止の場でもありました。私がそういう「ジッケンチ」を離れるしかないと断念した地点で、吉田さんはそこに踏みとどまったのです。それはまた吉田さんの表現によれば「手垢のついた」言葉の世界であり、あらゆる理想反転の問題群に彼は決して盲目ではありえなかったはずです。事実『山岸巳代蔵全集』の編集にも関わった吉田さんは「何だこれは・・・山岸さんの言うことと実顕地でやってきたこととはかなり違うじゃないか」と感じられたのです。

 
 その間の軌跡を、吉田さんは「2000年からの10年」と総称しています。私には彼がその間「実顕地」というものの真髄を模索しながら「けんさん」の考え方を生き抜いてきた人として浮かび上がってきます。ただそれはいわゆる既成の研鑽会のことでなく、「ことば」の真実を確かめ確かめ、「自分の内部に掘り下げた深さだけ、外に向かって届く距離が長くなる」(論考「手垢の付いた言葉」)という発想に基づくものでした。それこそが、吉田さんがそこに在ったことの唯一の「希望」であり、自己「けんさん」であり、「実顕」であったと思えてなりません。


 ただその志の深さと困難さは、とうてい私の想定に及ぶところではなかったようです。『わくらばの記』の始めの部分で、吉田さんは辺見庸の『1★9★3★7』に触れ、
 

「これを読むと、自分が書いている〈学園問題〉についての手記は、チンケで底が浅く、とうてい書き続けることができなくなった。もっと自分に向き合わなければ、書く資格も意味もない。辺見庸は、『なぜ』と問うことを続けている。物事の重要性は、説明や解明にあるのではなく、問うことであり、問いつづけることの中に存在する。説明、解明、解釈、理論づけ、・・・・・・それらはそれ以上の究明を放棄することの弁明に過ぎない。」


 この記述は私には衝撃でした。こうまで書かれている吉田さんには、ある覚悟のようなものが滲みだしています。私はこの部分を読んで、これはキツイ、自分には無理・・・と躊躇しながら、いつしかそこから離れていたようです。これまでどこからもジッケンチや学園についての問いかけが表立って見えない状況では、そのレベルよりはそのこと自体への言及、解明、理論づけに意味があると考えてきたのです。

 
 私はジッケンチから離れ、まず自分の感覚とアタマで考え抜いてみること、そしてそれを書き表してみること、にずっとこだわってきました。「ジッケンチとは何だったのか?」「自分とはこの世の中で何ものなのか?」と。それは自分への向き合いとしてキツイことではありましたが、他方救いや歓びもありました。そしてそれはジッケンチの外だから可能になった営みだとずっと考えてきたのです。しかし吉田さんはまさにその誰しもそこに流され同調していくしかない環境のただ中で、ずっと独自の思索を絶やすことはありませんでした。

 
 今私は吉田さんの逝去に直面し、これまで通りの自分でいいのかどうか、はたと立ち止まっています。必要なのは、というより求められているのは、いや自分が求めつつあるのは、できるかどうかは別に、吉田さんのような問いかけの深さだと思います。いいかえればその場は、(吉田さんだからいえるのかもしれませんが)どこでもよかったのです。しかもこの思いは、すでに逝去された吉田さんのおそらく「逝去しようのない」、これからもますますその輝きを増すであろう志しを、点火していただいたような感覚でもあるのです。
 

 なにかしら途轍もなく恥ずかしくなりそうなことを書いているような気もします。「志し」なるものは私には、かつて嫌悪に襲われ放棄したと思ってきた<理想>や<理念>に付き物の言葉のようでしたから。でも私はすでに吉田さんのおかげで「百万羽子供研鑽会」のことばが蘇っています(「元学園生の手記を読んで」吉田2013/10より)。

 「研鑽会は、先生や大人の人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます。」

 
 これは山岸さんが書いたと言われている子ども向けの研鑽資料です。しかも大人でもこのように実践されたことはほとんどないように記憶します。しかしこれこそ「けんさん」というものの原型、本領であり、その前提としての「自己けんさん」は不可欠だと考えます。その一方法として書くという営みは欠かせないものであり、なかんずく吉田さんの思索の記述は「後世への最大遺物」だと感じられてくるのです。


 吉田さんの冥福を祈ることは、私には彼のこの志と覚悟をどこまで引き継げるかにかかっていると考えるものです。
(2017年「子どもの日」に)

参照・連載・吉田光男『わくらばの記』(1)2018-01-17
  ・吉田光男さんと「なぜ と問いつづけていく」という生き方(2017-05-07)

◎吉田光男『わくらばの記』(21)

※今回で吉田光男さんの21回に亘った連載『わくらばの記』は最後になります。
 これ以後も、随時その中の文章を取り上げながら、ヤマギシズム関連などの考察を書いていきたいと考えています。
 また、福井正之氏も「わくらばの記」についていくつかの論考をご自分のブログに掲載していました。そのブログは閉じられていることもあり、このブログに載せていきたいと思っています。
 今後ともよろしくお願いいたします。


〇わくらばの記 断想(17・4)

*人間の社会には、偉い人ができやすい。偉い人になりたがる人もたくさんいる。自分にもそうした傾向がある。かつて調正所の世話係をやっていたころ、どこか村人の上に立っているような錯覚を抱いていた。この村とこの運動を正しい路線に導かなければならない、といった思い上がった考え方である。今でも、調正所の係りになると、一段上に立っているように思っている人がいるように感じられる。

 山岸さんは、青本の中で、この社会には指導者や偉い人や特別人間はいない、と何回も言っているのに。


*ある人が見舞いに来てくれて、こんな話をして帰った。

 研鑽会で自分の思っている本当のことが言えない。一度正直に出したことがあるが、〈指導部〉のある人が「まだそんな馬鹿なことを言っているのか」と言い、何となくみんながシーンとしてしまったので、それからは言わないこ とにしている、と。しかし、本当のことが言えない研鑽会で、何が研鑽できるのだろう。 

*研鑽とは何だろう。あらかじめ正しいことがわかっていて、それを広めるためのものであれば、それは講習会であって研鑽会ではないだろう。研鑽会は、本当がどうかわからないからみんなで調べ合うもので、最初から正しいことがわかっていたら、調べる必要はない。「本当はどうか」というのは、そのためのテーマである。

 そしてこれは、みんなの意見を聞きながら、自分が自分で調べることである。他に向かって「本当はどうか」というのは、相手の意見を間違いとして否定することに他ならない。

 
*考えてみたら、ヤマギシでは〈正〉の字を使っている場合が多い。

 私は1974年暮れに参画して、75年正月には春日山の食堂入り口に、新配置が発表されたが、そこにはたしか〈中央調整機関〉と署名されていたように思う。〈調正機関〉ではなく〈調整機関〉であったように記憶している。 当時の古いパンフなどには、ほとんど〈整〉の字が用いられていた。それが、いつしか〈正〉の字に変わった。

 80年代の高度成長期、Sさんを中心とする指導体制が確立した時期である。

 〈整〉が〈正〉に変わって何が変わったのか。

 恐らく、調正所の方針は、いつも正しく、間違いないものとする考え方が込められていたのではないだろうか。少なくとも私の頭にはそんな理解が潜んでいたように思う。

 思えば、これはかなり危険な思い上がった考えである。この危険な思い上がりは、今でも尾を引いている。

 *字は体を表す、というから、正確な字を用いることは大切である。

〈正〉の字でも、「正しくあろう」とする意欲を表すものであれば、それなりの意味を持っている。しかし、意欲や願いを離れて、自己を正しいとするところまで自己肥大すると、もうどうしようもなくなる。

 少し意味合いは違うが、〈聞く〉と〈聴く〉にも、似たニュアンスがある。

〈聞く〉と書くと「何となく聞いている」「聞き流している」というニュアンスになり、〈聴く〉と書くと、「心底聞いている」「真意を聞いている」といっ たニュアンスになる。そうした理解である。

 全集の編集に携わりながら、そんなことにかなり神経を使った。しかし本当は、言葉の形式よりも、その言葉の意味する中身を考えることのほうが、はるかに重要なのではないか。

 山岸さんの『事件雑観』の初期パンフを見ると、〈きく〉は〈聞く〉しか使っていない。表現や形にこだわって、その意味する中身の検討を怠ってはならない。

 
*ヤマギシには〈推進〉という言葉がある。

 特講にも、進行係と推進係がいる。日常の研鑽会にも、推進係や推進役の人がいる。この〈推進〉というのは、どういう役割を指す言葉なのだろう。

 もしこれが、調正所の方針を周知徹底させるための役割でしかないとすれば、〈指導部〉の別働隊でしかない。

 しかし、特講に推進係が置かれたのは、研鑽が横道にそれぬよう、テーマに集中できるよう、そして研鑽が深まるようにするためにこそ置かれたのではないだろうか。

 推進係は、みんなを方向づけるためのものではなく、みんなで真実を探り、研鑽を深めるための役割なのである。

 私は、そう思う。

 
*先日、学園出身のA女が見舞いに来てくれた。

 そのとき彼女が話してくれたことは、若いとき恋愛問題で悩んでいたさい、私の一言で救われた気持ちになった、というのである。

 当時は、学園出身者の恋愛は認められず、すべては結婚調正機関の判断にゆだねられていた。だから、どの調正所の係りも、恋愛に反対であったが、私だけが「相手がふさわしいとは思わないが、どうしても彼がいいというのであれば認めるよ」と言った、というのである。

 ところが当の本人である私自身、何を言ったか覚えていなかった。実にいい加減なものである。

 A女が帰った後、ふっと或る思いが出てきて、首筋が寒くなった。何気ない一言が、一人の人の救いになることがあったとすれば、逆にそんな一言が誰かの心を深く傷つけたことがあったかもしれない、そんな思いが湧き出してきたのである。

 
*Mさんが見舞いに来てくれた。久しぶりに会って、いろいろと話ができて楽しかった。ただ、最後に話してくれた一言が気になった。「最近は研鑽会に出ない。何かすごく不自由感を感じて、出る気がしない」

 同じことをA女も話していたことを思い出した。同じような話を他の人から聞くこともあるから、不自由感はかなり蔓延しているのではないだろうか。

 本来、研鑽は自由の空気の中でこそ成り立つものである。それがなぜ不自由になり、窮屈になっているのか。自分が自分を縛り、不自由になっているのかもしれないし、全体が誰か、あるいは何かに遠慮して、不自由な空気を醸し出しているのかもしれない。テーマを研鑽する前に、この問題を究明することが先決だと思うのだが、どうだろう。

 なお、自由についてはもっと考えたいので、青本をもう一度じっくり読み返してみようと思っている。

 
*雑文を書きながら、けっこう人の文章を引用したりしている。しかし、この〈引用〉というのは、なかなかの曲者である。若かったころ、さまざまな社会主義関係の文献を読むと、もう引用だらけで頭が痛くなったほどである。まさに学問とは、引用で成り立つものかと思わされた。

 しかし、よくよく見てみると、自分の意見をはっきり打ち出して、参考にこの人もこう言っている、あるいはこの人はこう言っているが、自分の見解はこうだ、と明確に言う人もいる。

 しかし、その反対に、人の見解を隠れ蓑に使って、自分はその陰に隠れてしまっている人もいる。その意見が攻撃されたり、否定された場合に、それは自分が間違ったのではなく、あの人が間違ったのだ、と言い訳するためである。まさに、虎の威を借る狐か、虎の皮を被った狐(ちょっと狐に申し訳ないが)である。

 同じことが、日常会話にもよく出てくる。

 「あの人がそう言ってるよ」「みんながそう言ってぜ」

 あの人がそう言ったからどうだというんだ、自分の意見はどうなんだ、と聞きたくなる。そう言ってるみんなって誰と誰なんだ、と聞き返したくなる。

 研鑽会に出た人の報告を聞くと、誰それさんがこう言ったとは言うけれども、それについて自分がどう思ったのかという話はほとんど出ない。

 これは、どうしたことなのだろう。

 
*数日前からだんだん声が出なくなり、人との会話が困難になった。

 医師に聞くと、リンパ節の腫れで言葉を出すのが難しくなってきたためだという。今後はもっぱら筆談に頼るしかない。

 
*今日、坂倉医師と率直な話し合いができた。私にはかねがね二つの疑問点があった。

 一つは、生き物の死は自然現象であり、人間にとっても、戦争や災害を除けば、すべての死は自然死ではないかと思うけれども、法的・医学的には自然死という表現はない。みんな病死として何らかの病名が付けられている。これについて、先生はどう考えるか。

 これについて坂倉医師は、幕末までは死を自然現象と見る見方が普通だったが、近代医学が主流になるにつれて、死という結果に対する原因を明らかにする考え方に変わった、という。死亡診断書には、必ず死因を書かねばならぬ項目があるそうだ。近代合理主義の一つの落とし穴なのだろう。

 もう一つの疑問は、植物的になる前に、自分の判断で自分の人生もここまでと決め、自分で胃瘻チューブをはずしたりした場合、これは自殺ということになるのかどうか、ということである。坂倉医師の見解では、自分を自分で傷つけるわけではないから、自殺にはならないだろう、ということであった。

 すぐにというわけではないが、選択肢が一つ増えた気がした。そして最後に、「今の医療では、生きた時間の長さだけが重視されているが、人生にとって大事なことは、時間の長さよりもその充実度ではないか」という私の意見に、坂倉医師も賛成してくれた。

 いずれにせよ、私の死生観の一端を聞いてもらえたことは、非常によかったと思った。

 
*一つの行為から次の行為に移るまでの時間が、すごくかかるようになった。

 次にこれをしなければ、と思うのだが、面倒であり、しんどいのだ。その間、何かを考えているわけではなく、ただぼーっとベッドに座っている。そのうち、生きること自体が面倒になるかもしれない。

 
*書きたいことは、今思っているだけでも幾つかある。しかし、もう書く気力がない。伊丹十三の映画「大往生」ではないが、「もういいかい」「もういいよ」という感じになってきた。これが、今の心境である。

 

◎吉田光男『わくらばの記』(20)

わくらばの記 断想(17・3)

 8日に入院して、2週間目にしてようやく昨日退院しました。といって良くなったわけではなく、今後は在宅診療を受けることになり、鈴鹿の坂倉クリニックの診察をお願いすることになりました。坂倉先生としらゆり園の看護師さんが早速来てくれて、週1回の訪問診療ということになりました。

 このところの体の衰えはかなり急速に進んでいるように感じられます。退院してからは、本もあまり読めません。関心の範囲も自分の身の回り1尺を超えることなく、世の中の動きに付いていくことがむずかしくなってきました。

 入院中、何人もの知友から、まとまったものでなくとも何か書き続けるようにとの励ましを頂き、まだ多少元気な入院初期にノートに書き綴ったものを、「断想」という名でまとめてみました。

 *考える人は疑問を持つ。疑問を持つ人ほど考える。
 考えない人は疑問を持たない。疑問を持つことがないから考えることもない。

 
 *特講を拡大しようと考える前に、特講になぜ人が集まらなくなったかを、徹底して考えることが先決だ。

 
*海外から人を受け入れる場合、相手をどうするかを考える前に、自分がどうあったらいいかを考えることだ。
 相手をわからせよう、変えようとする前に、自分が変わることが先だ。
 相手が得するよりも、自分がどれだけ得をするかだ。

 
*字を知る人ほど辞書を引く。字を知らない人は辞書にさわることもない。

*正常が異常になり、異常が正常になる。正常と異常の境目があいまいになる。
 ただ異常を正常として受け入れるだけだ。

 
*山折哲雄氏の『「ひとり」の哲学』を読み始める。
「ひとり」とは、孤独や孤絶ではなく、独立=一人立つ姿だと言う。
 親鸞は「歎異抄」の中で、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく考えれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と言っている。
 そういえば、釈迦も、「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられている。
 そして死出の旅路の最後に、アーナンダの「これからどうしたらいいか」との問いに答えて、「自らを灯として犀の角のように真っすぐ歩め」と言った。これも「ひとり」だ。

 そういえば、特講で次のテーマが出されたことがある。「全人幸福は誰のため?」 長らく頭の理解だけで捨て置いてきたが、今ようやく、「全人幸福は自分のため」と言えるような気がする。
 ここで急に思い出したが、茨木のり子氏の詩集『倚りかからず』が発表された当時、倚りかかりの生活しかしてなかった自分が恥ずかしく、まともに読み通すことができなかった。

 
*『「ひとり」の哲学』ざっと目を通したが、意外と底が浅く、あまり面白くなかった。ただ、この「ひとり」というのは、大変重要な問題提起だと思う。
 一人でいても「ひとり」 大勢の中にいても、みんなと共にいても「ひとり」
「ひとり」に徹することができれば、そこから多分、万人への通路が開けるのではないだろうか。
「みんなと一緒にいる安心感」とか、「みんながするから自分もそうする」といった、浮ついた付和雷同的な自分で何ができるだろう。

 
*特講について。
「一粒万倍に」という山岸さんのメッセージがある。
 特講が低迷しているのは、万倍になるような一粒がいないからだ。少なくとも次の種子を育むような一粒がいない。
 あるいは、そこが砂漠か肥料分のない不毛の大地になっているからだ。不毛の種子と不毛の大地の上で、いくら笛太鼓をかき鳴らしても人は集まらない。
 

*かつて自分もそうであったが、人はなぜ正解や結論を求めたがるのだろう。
 この世に真の正解などあるのだろうか。正解を得たと信じた瞬間、結論に達したと安心した瞬間、人は考えることを止める。考えることを止めたとき、人は固定する、化石となる。
 

*石川啄木は昭和のはじめに、「時代閉塞の現状」を書いた。今はその時代によく似ている。言論が時代の壁を突き破れない。
 内山節氏の解説も次第にマンネリになった。小熊英治氏の説も『民主と革命』の勢いを失った。
 加藤典洋氏の分析は、なるほどと頷かされるものを持っているが、それだけだ。
 池澤夏樹氏も次第に常識的になった。みんな時代に抗しながら、時代に取り込まれていく。
 言葉や学問は、時代の壁を突き破れないのか。もしかしたらそれは、彼らが学者や哲学者や作家や評論家という自ら築いた 壁の中に納まってしまっているからかもしれない。
 かすかに村上春樹氏だけが壁を通り抜けられるのか。『騎士団長殺し』面白かった。

 
*昨日豊里の6人ほどの仲間が、見舞いに来てくれた。
 話の中でOさんが、「公的研鑽会と自分たちの私的研鑽会」と言ったので、私は首をかしげた。研鑽会に「公的」なものと「私的」なものがあるのだろうか。公人たらんとして集まった村人の研鑽会に、公私の区別があったらおかしいのではないだろうか。
 

*もう一人のOさんが、「村人全員がもう一度特講を受けるべきではないか」といった。
 私の中の反応は、「面白いけど、それは無理だ。第一それをやれる世話係がいない」というものであった。しかし、一人ひとりが、もう一度自分の特講を振り返る機会をつくるのは、いいことかもしれないと思った。ただそのさい注意したいのは、「特講があったので、今の自分がある」といった言い草である。この言い方は、今の自分を〈完成品〉と見て、そうした自分をつくった元に過去の〈特講〉がある、というかなり偉ぶった考え方が潜んでいる。
 そうではなくて、今のこの不出来な自分の中に特講がどう生かされているのか、いまそれをどう生かそうとしているのか、を問い直すものでなければならないだろう。
 

*『沈黙』について、書きたいことを書ききらぬうちに入院してしまった。
 私の言いたかったことは、思想や理念や信仰が普遍性を持ちうるかどうかにとって大事なことは、大きな問いを抱き、それに真正面から取り組む人材がどれだけいるかにかかっているということである。
『沈黙』の中で、パードレのロドリゴは、追い詰められる中で二つの疑問を抱き続けた。
 一つは、幕府によるこれほど血なまぐさい弾圧の中で、神はなぜ沈黙を守り続けているのか。これは「神は存在するのか」という問いにも直結している。
 もう一つは、キチジロウという日本のユダに付きまとわれながら、ロドリゴはキリストに問う。「あなたはゲッセマネの夜、最後の晩餐の席上で、ユダの裏切りを知りながら、『行け、そして汝の為すことを為せ』とユダを突き放してしまわれた。これは、愛と許しの思想からユダを排除してしまわれたことにならないでしょうか」
 つまり、キリストの全人愛の思想にユダという例外を設けることにならないか、ということである。
 もし、例外を一つでも認めれば、例外は次々と増え、思想としてのキリスト教は破綻する。
 こうした危うい大きな問いを、歴史上何人もの人たちが抱き、取り組んできたからこそ、キリスト教の世界性・普遍性が保たれてきたのであろう。中には、異端として処刑された人が何人もいたかもしれない。
 遠藤周作氏も、この作品を通じて自らの問いを問い続けたものと思われる。

 

*大きく問うものは、大きく考え、小さく問うものは、小さく考え、問うことのないものは、何も考えない。
 ただ、この問うということは、批判したり、攻撃したり、反対することではない。批判・攻撃・反対は、すでに何がしかの結論をもってそうするのであるから、そのときにはもう問うことも考えることも止めている。
 問うとは、ただただ問うことである。問い続けることである。その過程で何がしかの結論を得ることがあったにしても、それは〈とりあえず〉の結論であり、疑問符つきの結論にすぎない。

 
*ヤマギシズム生活とかヤマギシズム社会と言いながら、「ヤマギシズムって何?」と聞かれたら、何と答えられるだろうか。
 私たちは、ヤマギシズムを問うことをせず、すべて解釈に終始してきたのではないだろうか。例えば、「親愛の情」とはどんなものか、と問うことをしてきただろうか。
「自然と人為との調和」と言うが、それはどういうものか、今の暮らしでそれをどう実現しているか、と問うことはあるだろうか。
「仲良し」とよく口にするけれども、自分の都合に左右される程度では、問うことにもならない。
 私たちは、問うことをせずに、ヤマギシズムの言葉に解釈を付けることで、それを自明の真理としてやってきたのではないだろうか。
 

*偉大な思想が生まれた場合、それを引き継ぐのは容易なことではない。
 二代目、三代目は、どうしても初代の思想の枠外には出られないからである。その思想の解釈の枠を超えられない。
 ところが、時代や状況は絶えず変化するから、当初の解釈のままでは動きが取れなくなる。
 親鸞の思想も、5代目蓮如の登場でようやく一大宗派としての普遍性を獲得した。しかし、それが親鸞の思想を正しく継承したものであるかどうかは、わからない。
 第一、親鸞は、教団をつくったり、教祖・教主を置くことを認めていなかった。信者はみな、同行の人であり、みんな弥陀の前では同列の人であって、そこに上下の区別など置かなかった。
 また蓮如は『歎異抄』を危険な書として封印してしまい、明治になるまで人目に触れることはなかった。当時の福田とされた大衆信者の誤解を避けるために、「悪人正機」や「本願ぼこり」の考え方を封じ込めたのかもしれない。
 明治になって、清沢満之やその弟子暁烏敏らインテリ信者によって、『歎異抄』はようやく誰でもが手に取ることができるようになった。
 思想の継承は、このように難しい。初代を超える思想家の誕生によってのみ、継承は可能なのであろう。
 私たちのできることは、せいぜい思想の断片なりとも絶やさぬことでしかない。

 
*落語で、耳の遠い老人同士が川をはさんで会話する場面があった。言っていることは、お互いに全く違ったことなのだが、二人は互いに納得して別れていく。志ん生だったか円生だったか、実に巧みに枕に振った。
 ふとこれを思い出したのは、私たちももしかしたら、つんぼの老人同士の会話をやっていはしないか、と思ったからである。
 言っていることと聞いていることが全く違っているにもかかわらず、互いにわかったつもりで、あるいはわかった振りをしてして、日常を過ごしてはいないか、ということである。
 自分を振り返っても、勝手読み、勝手聞きの連続で嫌になることがある。相手の言葉をきちんと聞いていない、まして真意となったら、その一端も聞き取っていないのかもしれない。

 言葉というものは、発語されたものの背後に、もっとたくさんの言葉がある。言葉の背後には、無数の語られざる言葉が潜んでいる。語られた言葉と語られざる言葉が、全く違う場合もある。真意は、その語られざる言葉の中に含まれている場合が多い。とにかく、言葉が通じ合わないこと、まして真意が通じ合わないのは当然なのかもしれない。
 言葉が通じ合わない原因は、私たち一人ひとりが、自分の心の中に一つの壁を作り、その壁を通して聞いたり話したりしているからではないだろうか。この壁は強固なもので、自分自身ではなかなか自覚できない。
 トランプの壁やパレスチナの壁は、ベルリンの壁のようにやがては崩壊するだろうが、そうした目に見える外壁とは違う心の内壁は、よほど本人が自覚して取り組まない限り、崩れることがない。
 この心の内壁が、別の言葉で言えば、我執ということになるのだろう。

 

○海くんへの手紙――

 海くん こんにちわ。
 わたしは みつお おじいちゃんです。
 ほんとうは ひ おじいちゃんなのですが いちいち 「ひ」をつけるのはめんどうなので ただ おじいちゃんと よばせて ください。

 おじいちゃんは 海くんに 二さつの えほんを おくりますが 海くんが このほんを てにするころ わたしは たぶん このよに いないでしょう。
 えっ どこに いったかって?
 それは わたしにも わかりません。
 そこは ひとが かならず いちどは ゆかねばならない ところですが
 まだ かえってきたひとが いないので どういうところか わかりません。
 いまは ただ こわいような たのしいような きが しています。
 

 さて この 二さつの えほんですが これは おじいちゃんが ちかくのとしょかんで みつけ たいへん かんどうしたので 海くんに よんでほしいな とおもったのですが なにしろ 海くんは そのとし うまれたばかり とうてい よむことは できません。
 そしたら ひろみおばあちゃんから 4、5ねん さきの海くんにおくったら といわれ それなら おくれるな とおもい このてがみを つけて おくることにしました。
 しじんの たにがわ しゅんたろうさんと えかきの ちょう しんたさんの えほん 『あなた』と『わたし』です。

 あなたって だれ? 
 わたしって だれ? 

 そうきかれたら きっと こう いうでしょうね。
 あなたは あなた わたしは わたし
 そんなこと きまってるじゃない。

 しかし 海くんからみたら 海くんは わたし おじいちゃんは あなたですが おじいちゃんからみたら おじいちゃんが わたし 海くんは あなたです。

 それに 海くんは いつから そこに いるんだろう。なんで そこにいるんだろう。
 おとうさんや おかあさんが いなかったら 海くんは そこにいることができただろうか。
 ももこ おかあさんの おかあさんは ひろみおばあちゃん ですが ひろみおばあちゃんが いなかったら 海くんは うまれることが できただろうか。
 また ひろみおばあちゃんの おとうさんが この みつおおじいちゃんです。
 みつおおじいちゃんが いなかったら 海くんも うまれることが できなかったのです。
 おとうさんの ほうも おなじです。

 おとうさんの おとうさん おかあさんが いて そのまた おとうさん おかあさんがいる。
 そのさき そのさきと どこまでも ずーっと つづいているのです。
 こう かんがえると 海くんは かぞえきれない ひとたちとの つながりで うまれることが できたのです。

 ひと だけでは ありません。たくさんの ものや しぜんの どうぶつや しょくぶつとも つながっているのです。
 海くんは けっして ひとりでは ないのです。
 しかし また 海くんは せかいじゅうで たった ひとりしかいません。
 なまえの おなじ ひとや かおの にた ひとは いるでしょう。
 だけど 海くんと おなじ ひとは ひとりも いないのです。

 たくさんの ひとに つながっている わたし だけど せかいで たったひとり しかいない わたし。
 わたしって なんだろう? 
 あなたって だれだろう?

 このえほんを よみながら いろいろ かんがえていったら いいなと おもいます。

 ながい てがみに なりました。
 では げんきでね。 さようなら。

◎言葉のお守り的使用と三重県アンケートとヤマギシズム学園について

〇「ヤマシズム学園についての三重県アンケート」について
 友人から「ヤマシズム学園等から公立小中学校に通学する児童・生徒に対するアンケート調査記述内容一覧表」をコピーしたものの資料が送られてきた。
 このアンケートは、1998年頃ヤマギシズム学園が自前の小中学校設立を企図し、三重県に申請している。その実態調査のため三重県生活部私学課という部門で調査した内容を指す。調査日:平成10年11月27日、調査場所:県内7小中学校、平成11年3月9日三重県生活部青少年・私学課となっている。

 このアンケートは、2003年に刊行されていた『虐待の真実』によるものであり、友人によるとその資料が記載されていた書籍はすでに廃刊され、所持されていた方から拝借してコピーしたものという。それ以前に米本和広『カルトの子』(文藝春秋、2000年)の巻末に抜粋紹介がある。

 アンケート調査の内容は「選択回答の集計結果」と「記述式の内容一覧」からなる。記述式の内容は、子どもたちや元学園性などから断片的に聞いていたが、このように当時の小学生190名、中学生217名の一人ひとりのを読み始めると、なんともやるせない思いが沸いてくる。

 ヤマギシ会は幸せに生きることを願う共同体としてうまれ、農民たちをはじめ多くの共鳴者を得て、その後実顕地をつくり、それなりに発展してきた。私を含めて、そこに参画した人、熱心な会員活動をしていた人は多かれ少なかれその思いを懐きながら活動していたと思う。
 その後参画者も増え学園構想「心あらば愛児に楽園を」に基づき、幸福学園、幼年部、ヤマギシ学園をつくってきて、一部の研究者などに注目され、子どもを伴って参画する人も少なからずいた。

 私は25年以上携わったヤマギシでの在り様について、あれはどういうことだったのか? 面白いところも、社会実験的なことも、おかしなところも、きちんと振り返っておきたいと思っている。
 自責の念というより、そこで人生の多くを過ごした自分にとって、戦後生まれた最大のコミュニティとして理想を掲げた集団の影響力の大きさから、次代に活かすためにもそこで起こった課題にきちんと向き合い分析したいと思っている。

 このアンケートから見えることは、大人が描く考え方に相応しい人になるための学育方式の極端な統制型であった。要するにこの学育方式は、実顕地を担う養成所だったのである。
 そのような学育方式でも、ある程度こなしていけた子にとっては、その子の持っている力やその他の要因で、ある種の逞しさを身に着けた人もいるが。
 しかし、その学育方式についていけなかった子に対しては、あまりにも非道なためなおしや、ここにいる資格がありませんなどの切り捨てが安易に行われていた。そのことで押しつぶされ、いまだに悶々としている人も少なからずいる。
 大人・親はある程度、調べ考えた末に共鳴して参画した。ところが親に連れてこられた、自らの意思で選び取ったわけではない多くの子どもたち、成長段階にあり、これからいろいろなことを身に着けていく子どもから見たら、実顕地の学育方式が一枚岩のごとく立ちはだかっていたのではないだろうか。

〇言葉のお守り的使用と当時(1990年代)の学園について
「ひこばえの記」4月19日に「鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法」から」を掲載した。
 それは、鶴見俊輔は自らも含めて立ち上げた雑誌『思想の科学』の活動目的は、「第一に敗戦の意味をよく考え、そこから今後も教えを受け取る」こととし、「大衆は何故、太平洋戦争へと突き進んでいったのか?」を問い始める。その理由の一つとして、「言葉による扇動である」と考え、最初の論文として、『思想の科学』1946年5月号(創刊号)に発表した論考である。

 鶴見俊輔は(『期待と回想』(上巻),p.141)で次のように語っている。
〈----(戦時中)余暇にジャカルタの図書館からマリノフスキーの「未開人の言語における神話」という論文を借りだして読んだ.それが「言葉のお守り的使用法について」のヒントになった.軍人が殴る前に説教するでしょ。まず「畏れ多くも」とあって,「パチン!」とくる。これは記号論として解明できる。「肇国の歴史の精神に則り」とか,そこに出てくるシンタックスはカルナップのいう「変形の法則」なんだ。かれに習った分析哲学が勅語の演説にきちっと合う。「ああ,これは一つの仕事になるな」と思った。「言葉のお守り的使用法について」は,オグデン,リチャーズ,その付録にあったマリノフスキーの影響を受けている。これはコミュニケーション論です。〉

 個別研を頻繁に受けていた子どもによると、その理由は、どうもこの学園に相応しくない言動によるものらしいが、本人にはまったく訳が分からない。したがって反省文を書くらしいが、何を書いていいか全くわからなかったという。
「この学園に相応しくない」ということは、この学園は素晴らしいものという含意があり、それを決めている人、多くは指導的立場にある人の見解によるもので、曖昧この上ないものである。
 この曖昧な「学園に相応しい子」が育つような方針のもとにカリキュラムが組まれていて、指導的立場の人が編み出したとはいえ、少ならずの世話係が忠実に従い、あるいはそれ以上に忖度していたのではないだろうか。
「この学園の精神に則り」、「畏れ多くも」とあって,「パチン!」とくる。その言葉もなしに、いきなり「パチン!」とくるのが、その当時(1990年代)の学園の一つの現象だと思っている。

 アウシュビッツの経験を問い続けたプリーモ・レーヴィに、「ありとあらゆる論理に反し慈悲と獣性は同じ人間の中で同時に存在し得る」(『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日選書)というような表現がある。ごく普通の人たちがナチス体制を支えていたとの記述がいくつか見られる。

 ここで課題にしたいのは、同じ人間が、どのようなときに「善性」が働き、どのような経緯で人を思い通りに制御するような「悪性」のようなものが色濃くでてくるのか。その態度はどのようにできてくるのか、その頃の自分にも引き付けてじっくりと見ていきたい。

 参画者による実顕地の暮らしでは、『カルトの村で生まれました』に描かれているような、体罰や食事抜きなどのことは、私の知っている範囲では全くなかった。(精神的な圧迫感を覚えていたひとはいただろう)ので、その頃の学園の実態に殊更愕然とするものがあった。

 だが、その頃の実顕地に、そのようなことになるような構造があったのではないかと考えている。そのことは、その構造の一端を担ってきた自分の課題にもなってくる。

参照:鶴見俊輔(『期待と回想』〈上巻〉(晶文社,1997)
   高田 かや (著)『カルト村で生まれました』( 文藝春秋、2016)

◎説得的定義と「言葉のお守り的使用法」と実顕地

※日々彦「ひこばえの記」4月13日に「手づくりの定義へ(『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』から)」を掲載した。その中に次の文章がある。

〈『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』の解説、鶴見俊輔「手づくりの定義へのすすめ」は次の言葉から始まる。
・〈私は、自分なりの定義をもっている。人はそれぞれ、その人なりの定義をもっている。私の思想の根もとにあるのは、痛みによる定義だ。-----痛みによって定義する。たのしみによって定義することもあろう。そういう、自分のからだの記憶としてもっている定義の束が大切だ。(中略)
「これは善い」という時の「善い」の定義には、「私はこれが好きだ」+「あなたもこれを好きになってください」という二つの判断の組みあわせがこもっており、そこには説得への努力がふくまれているとC・L・スティーブンスン『倫理と言葉』に書いた。「説得的定義」とスティーブンスンの呼ぶものは、数学や自然科学にも少量ふくまれており、社会科学や歴史学においてはさらに大量、そして日常生活で使われる言語では野ばなしで使われている。政治や広告では、説得的定義の本領が発揮される。
科学や技術の名の下に、どれほど説得的定義が、その性格を見わけられることなしに使われてきたが、ある年月の間隔をへてわかってくることもある。〉


 C・L・スティーブンスン「説得的定義」について考えたとき、鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法(1946)」と私の所属していた頃(2001年以前)の実顕地について考えました。

 C・L・スティーブンスン『倫理と言葉』によれば、説得的定義とは自分の態度を表す言葉を表明することで相手の態度を変化させようという言語行為である。説得的定義でしばしば使われるのは、「自由」「教養」「愛」 など、一般に定義は曖昧だが一定の肯定的あるいは否定的な評価が結びついているような語(二次的評価語)である。説得的定義においては「本当の」「真の」という語がもちいられることがよく見うけられる、とある。

 ヤマギシズム社会の構成にとってもっとも根本にある言葉に「研鑽」があります。そのことを「ヤマギシズム実顕地について思うこと」に述べました。それを引用します。

〇〈「けんさん」は、「本当はどうなのか」「もっと考えられないのか」「間違っているかもしれない」という疑問の持続という側面をもちます。今まで常識とされていたことに対しても、自分の観方・捉え方に対しても厳しい問いかけが続くという自覚がいります。山岸が理想社会実現の方法として、「けんさん」方式を基本としたのは卓見であると思います。

 だが、ヤマギシ会に深く関係した人達の中には、この研鑽という言葉を、「少し考えておく」とか、単なる打合せに、「研鑽しよう」と使っていて、その集団内だけでしか通用しないような使い方をしていました。そのために、研鑽ということばに食傷を感じている人も少なからずいました。私をはじめ実顕地にくらす人々が「けんさん」の本質をどこまで掴んで自覚していたのかと自問してみると、かなりの疑問符がつきます。

 鶴見俊輔氏の考察に「言葉のお守り的使用法」があります。
「言葉のお守り的使用法とは、人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場を守るために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事の上にかぶせたりすることをいう。このような言葉のつかいかたがさかんにおこなわれているということは、ある種の社会条件の成立を条件としている。もし大衆が言葉の意味を具体的にとらえる習慣をもつならば、だれか煽動する者があらわれて大衆の利益に反する行動の上になにかの正統的な価値を代表する言葉をかぶせるとしても、その言葉そのものにまどわされることはすくないであろう。言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとり能力がひくいことと切りはなすことができない。」とし、お守り的に用いられる言葉の例として、「民主」「自由」「平等」「平和」「人権」などを挙げている。(※『鶴見俊輔集3 記号論集』筑摩書房、p390)

 ヤマギシズム)実顕地でいえば、「研鑽、一体、調正、本当の仲良し、~が本当、私意尊重公意行、理----」などがあります。その言葉をお守りのように身につけることで、あたかも自分が体得しているかのように錯覚し、その言葉や表現を用いて論をたて人々の説得の道具にするような使い方をしている人、が少なからずいたのではないかと思っています。
 実顕地の中で日常的によく使われる言葉は研鑽と研鑽会でした。それは次のように使われていました。
「研鑽したの」「研鑽会で決まったよ」「研鑽しておくね」「研鑽してないでしょう」とのように。このような表現そのものが「けんさん」の本質から逸脱しています。

 言葉というものは、その意味するところの奥に、それを発している人全体の世界を抱えている場合があり、「けんさん」「無我執」「自然と人為の調和」あるいは、「最も相合うお互いを生かし合う世界」「やさしさ一色のけんさんで、みんなの仕合せの世界を作ろう」「みんな好きや、仲良ういこうな」などの言葉・表現には、山岸自身の心や問題意識を背負っていると思われます。その発した言葉の奥底の心や問題意識まで迫っていかないと、その隠された大きな意味をとらえることが出来ず、浅薄なとらえ方に陥ってしまいます。
※このブログ「ヤマギシズム実顕地について思うこと」(2015/5/28)より抜粋)〉

「研鑽」の限らず、その頃の実顕地は説得的な「お守り的言葉」の使用に闌けていたと思います。その言葉の一つひとつを吟味することなく、自らの感性に照らすことなく、安易な使いかたをしていた。むろん私も例外ではありません。

 このことは特定の理念を掲げた集団にはよく見られることで、その集団内でしか通用しない言葉で語りがちになります。学術分野、健康分野、教育分野などにも感じます。

 鶴見俊輔は『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』の解説で、〈「説得的定義」とスティーブンスンの呼ぶものは、数学や自然科学にも少量ふくまれており、社会科学や歴史学においてはさらに大量、そして日常生活で使われる言語では野ばなしで使われている。政治や広告では、説得的定義の本領が発揮される。〉と述べています。

 「説得的定義」「言葉のお守り的使用法」は、その頃の実顕地を語るための一つの視点になると思っています。また、情報化の激しい現社会の留意しておきたい課題だと考えています。

 

◎吉田光男『わくらばの記』(19)

わくらばの記 たまゆら➂(17・3)

(3月×日)

 朝日新聞掲載の片山杜秀氏の文芸時評を読んでいたら、次のような言葉にぶつかった。

「近代西洋思想は進化や発展や成長のことばかりを言いたがり、過去よりも未来に高い値打ちを与えたがる。しかし、過去も現在も未来も、結局はそれを考える人間の意識の中にしか存在せず、意識は常に現在進行形なのだから、過去と未来という一緒にならぬはずの時間は現在の意識の中で重なる。そういう時間を一所懸命に区別しようと思うことがおかしい」

 

 進化や進歩や成長がかなり疑わしくなった今では、この言葉はかなり納得できる。ただ今回この言葉に注目したのは、先月書いた老蘇についての私の見方が、やや偏っていたのではないかと思わせられたことである。つまり、「年をとるまでに自分の内部に蓄積(内化)したものが少ないか無に等しい場合は、老蘇としての生き生きとした人生は送れないのではないか」と書いたことだ。

 内化したものの質や量が、人によってそれぞれ違うことは当然だが、それが少ないとか無に等しいなどとは言えないのではないか。人によってそれぞれの経験があり、記憶・思い出がある。その過去の経験・記憶・思い出を今に蘇らせ、それが自分の人生にとって何であったのかを見つめなおし、残された人生に活かす。こうして、過去は現在の中で未来と重なることができる。ここに老蘇の生き方を可能にするものがあるのではないだろうか。

 ただ、過去を過ぎ去った昔の出来事として固定して動かすことができなければ、それは古びた日記帳のようにただ朽ち去る以外にない。介護にとって一番大事なことは、身体的なケアとならんで、この心のケア、過去を今に蘇らせることを、老蘇自身ができるように手助けすることではないかと思った。

 

〈3月×日〉

 このところ全く食欲がない。味の感覚もどんどん失われていく。いよいよ食べなくてもいい体になりつつあるのかもしれない。一時は栄養学説などに惑されて、食べなくてはいけないと思い込み、無理にも食べていたが、体の欲求と頭の思い込みとが全く違うことを思い知らされている。『月刊文春』3月号で、鎌田実氏だったか誰かが言っていたが、昔は死者はやせ衰えて軽かったが、最近はやたらと肥え太って運び出すのに苦労する遺体が多いそうだ。食べられなくなったら食べない、それが本当の姿かもしれない。

 日本には木喰という生き方があった。死期が迫ったとき、米食など普通の食事をやめて、木の実だけで静かにそのときを待つ生き方である。江戸後期の遊行僧にそんな生き方をした木喰上人がおり、各地に木彫仏を残している。

 私自身は悟りとは縁遠い人間であるから、これからどうなるかはわかったものではない。ただ、できる限り自分の体と心の変化を受け止めながら、それを見続けていきたいと思っている。

 

〈3月×日〉

 今回の芥川賞受賞小説『しんせかい』は全くつまらぬ小説だった。倉本聰氏の富良野塾を舞台にしているというので少し期待していたのだが、選考委員の一人である村上竜氏が、「何でこの小説がみんなに推されたのかわからない」 

というように、私には時間の無駄だったという思いしか残らなかった。

 それに引き換え、遠藤周作氏の『沈黙』は、すごい小説だ。映画化されたのをきっかけに読んでみようと思い立ったのだが、ちょうどその前に、中野京子氏の『名画と読むイエス・キリストの物語』を読んでいて、旧約の〈怒りと懲罰〉の世界から、新約の〈愛と許し〉の世界へと変わることで世界宗教に発展するキリスト教が、現実の歴史の中でどのように命脈を保ってきたのかを知りたいと思ったのである。

 

 寛永14(1637)年の島原の乱以後、隠れキリシタンが僅かに残る江戸期日本に、二人のポルトガル宣教師(パードレ)が潜行してくる。そのうちの一人、セバスチァン・ロドリゴが物語の主人公である。二人が日本に密航するきっかけは、二人の師でかねがね尊敬おくあたわざるフェレイラ師が、日本で転宗したという情報が伝わったからであった。

 二人は澳門(まかお)で密航船を探し、日本人の漁師キチジロウと出会う。そして支那人の船員を雇って大海原に乗り出し、ついに日本への上陸に成功する。問題はここからである。

 二人は隠れキリシタンが潜むいくつかの集落で、洗礼を授け、告悔を聞き、ミサを行うが、やがて当局の知るところとなり、二人は別々に逃亡するが追跡の果てに逮捕される。たくさんの農民も逮捕されるが、彼らは次々と残酷な方法で処刑される。彼らの逮捕は、キチジロウの密告によるものであった。

 柱に括りつけられたまま海水に付けられ、潮の干満によって徐々に体力を奪われていく処刑、流れの速い海流に放り込まれて殺す処刑、深い穴に宙吊りのまま放置されて苦しみながら死ぬ処刑、ロドリゴはそのつど「いま一番神の奇跡が必要な時に、神はなぜ沈黙のままなのか」と問う。これは神の実在に対する根本的な問いである。小説の中でこの問いが、繰り返し繰り返し出てくる。「あなたはこんな時になぜ沈黙しているのですか?」と。この問いは、キリストが十字架上で死ぬ直前に発した「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまひし)」という叫びと共通しているように思える。

 キリスト教徒にとって、この問いは信仰の根本に触れる問題であろう。ドストエフスキーは、「神は実在するか、不死は実在するか」と小説の中で何回も問いかけている。宗教史に無知な私には、詳しいことはわからないが、恐らく何人もの人たちがこの問題に真正面から取り組み、神の実在を証明しようとする生き方を通してキリスト教の生命力を持続させることに成功したのであろう。

 
(ここまで書いてきて、この先数行が書けない。体調が急速に悪くなっている。

 食欲が無く、食べる意欲がわかない。集中力が失われてきた。いよいよその時が近づいてきたことを思い知らされる。いま風呂に行き、体重を量ったら40・3キロ、遂に41きろを大幅に割り込んでしまった。鏡に映る姿はまるでアウシュビッツの囚人さながらだ。しかし、この文章は最後まで何とか書き上げてしまいたいと思っている。恐らくそれは、思想なり、理念なり、信仰なりが、歴史的に生き残り、普遍化するための決定的な条件をなすものと私には思えるからだ)

 
〈3月7日〉

 今日病院へ行ったら、即明日から入院ということになった。食事ができず、ジュースとヨーグルトで生き延びてきたが、そろそろ限界らしい。検査の結果は、ガンがだいぶ進行して、肝臓に転移したものがかなり大きくなってきているとのことであった。他にもいろいろあったが、細かいことは素人にはよくわからない。とりあえず一週間ほどの入院になる。

 この「わくらばの記」も、このへんで打ち止めということにしたい。まとまった思考が困難になってきている。集中力を持続できない。もし、何か書くことがあったにしても、それは恐らくそれは思考の断片か思いつきの域を出ることはないだろう。

 では皆さん、お元気でお過ごしください。

◎吉田光男『わくらばの記』(18)

わくらばの記   たまゆら②(17・2)

〈2月×日〉

 最近は、食事を摂るのがひと苦労になった。少量の食事にすぎないが、全部食べ終わるまでに時間がかかり、まるで作業をしている感じになる。しかしまた、これが生きるための大事な手段ともあれば、おろそかにすることもできない。ただ、味に関する感覚が次第に失われていくのがなんとも残念である。頭の中に味の感覚は残っているのだが、実際にはほとんど食べることが禁じられているだけでなく、食べられるものであっても美味しさを感じられない。喪失は頭の中で補うしかない。 

 夜中に目覚めたときなど、ふと自分はなぜこんな文章を書いているのだろうか、と考えることがある。去年の1月以来だからだいぶ長いことになる。文章としては拙いし、考えていることも侏儒の戯言に過ぎない。何人か読んでくれる友人知人がいるからという理由もあるが、そうした知友に甘えて書いているだけであれば、貴重な時間を奪うだけで申し訳ないし、自分にも嘘をつくことになりかねない。出発は、ガンになったことをきっかけに、自分を見つめなおすことにあった。何もしなければ、時間の流れにただ流されるだけで一生を終わってしまう。流されながらも、自分が何者でどこから来てどこへ行くのかを見つめなおしてみたい、そのために書き始めたはずである。あくまで、自分のために書き始めたはずである。昨夜、ふとそのことを思った。

 

〈2月×日〉

 自分の中に、今が進化の最高段階にあって、宇宙や地球の歩みも、或いは生物や人間の歴史も、すべてここに向かって進んできたかのように思っている感覚がある。だから今が最高の段階であり、この先は今という現状の単なる延長線上にあるかのように思ってしまっている。つまり、今が最高の段階だということは、これで進化は終わりで人類こそが進化の最終達成者であるということになる。しかし考えれば、これはかなり疑わしい。これをもっと身近な事例にで考えると、こうした心の状態をもってすれば、自分の今の政治的・文化的、或いは宗教的信条を唯一最高の真理として他を顧みることがなくなってしまう。私の学生時代など、一つ覚えの唯物史観で、人類は奴隷制から封建制、資本制、そして社会主義から共産主義社会へと向かっていると信じ込んでいた。ヤマギシズムを考える場合でも、実顕地の今の形を最終のものであるかのように考えていたら、とんでもない間違いに陥るだろう。そしてヤマギシズムそのものも、自分の考えるそれが本当のそれかどうかはわからないのである。

『地球の歴史』(中・下巻)を読むと、そこには恐るべき冷厳な事実が語られている。約40億年前に地球上に誕生した生命は、現在に向かって一路進化したのではなく、何回かの種の絶滅を経験している。それも誕生した種の9割以上が死滅する「大量絶滅」を過去5億年の間に何回も経験しているというのだ。つまり進化は、直線的・必然的にではなく、偶然的に、断続的に行われてきたのだ。

「逆に言えば、生物は絶滅することで新しい種に生存の場を提供してきたとも言える」

 こう蒲田氏は言う。人類も、中生代に1億年以上にわたって進化の頂点を極めた恐竜が絶滅した後、ようやく生き残った哺乳動物から進化を遂げることができた。しかも、恐竜の絶滅は、チリのユカタン半島に激突した巨大隕石による全地球規模の大自然災害の結果だ。

「この衝突で発生したエネルギーは広島型原爆の10億倍にあたる。また、地震の規模で言うと、マグニチュード11に相当する」

 これによる津波の高さは300メートルに達し、全世界に押し寄せたという。そのほか、地磁気の逆転やスノーボールアースといわれる地球の全面凍結や火山の大噴火による寒冷化など、生命にとっての幾多の危機的状況に見舞われながら今日に至った。今のホモサピエンスが誕生してからも、12万年前には、地球環境の急速な悪化で総人口が1000人程度にまで減少したと推定されている。ただこうした危機的状況が、人類をアフリカからユーラシア大陸に移動せしめ、それまでの狩猟採集生活から遊牧・牧畜の技術を身につけ、農業技術を開発するきっかけになったそうなのである。

 こうして今、地球上には70億人の人間が住んでいる。仲良く平和に暮らしているかといえば決してそうではなく、「アメリカ第一」の「フランス第一」のと、自国中心、自分中心の主張をぶつけ合っている。こうした歴史を顧みれば、「人間は本来仲良く暮らせて当たり前」と簡単に言い切ることもできそうにない。

 とにかく地球の歴史は、今が最終段階でも到達点でもないし、人類もまた生命史の最高・最終の到達点にいるわけではない。地球科学者の推定によれば、今から10億年後には、地表の水は全部マントル内部に運び込まれ、火星のように海が無くなるという。もちろん生命は存在できない。

「地球史は想定外の歴史だ」という鎌田氏の言葉を噛み締めながら、この地球・生命史の大パノラマから目を身近なところに移そうとすると、しばらくボーっとして頭が回らない。しかし、自分というものが流れに浮かぶうたかた(泡沫)に過ぎぬとしても、生命史の一部をなしていることを思えば、やはり何か自分のできることをしておきたいと思うのも当然だと思う。そして今できることの最高を願うのは、生命というものの本能なのかもしれない。ただ自分が「最高と思う」ことと「最高である」こととは全く違うことを、心しておきたいと思った。

 

〈2月×日〉

 いま経済界では「働き方改革」ということがテーマになっている。これは、電通の高橋まつりさんという新人女性の自殺をきっかけに、長時間労働に対する内外からの批判を受けて始まったものだ。残業、時間外勤務の短縮が、その主な内容とされている。私の孫の一人も、ある外食チェーンで働いているが、労働時間はかなりのものらしい。

 しかし、経済環境の厳しい今の状況では、「働き方改革」も結局は掛け声だけに終わってしまうだろう。それよりも、もっと根源的な、人はなぜ働くのかという労働観について考えてみる必要があるのではないだろうか。つまり、働くとはどういうことか、何のために働くのか、働くことを通して人と人とがどういう関係を取り結ぶのか、といった問題である。前に引用したことがある吉本隆明氏と春日山Sさんとの対話を、吉本氏の『中学生のための社会科』から再度引用してみよう。

 

 質問吉本)それぞれの会員はユートピアに叶うためにどんな等価労働をしているのか。

 山岸会の会員)自分の得意な労働をすればよい。掃除が得意な者は掃除、洗濯の好きなものは洗濯、大工仕事の得意な者は大工といった具合だ。

(それでは等価労働にならないのではないか。たぶん経済的に成り立つには主催者は別の等価源が要るはずだ)

 

 ここで吉本さんが「等価労働」といっているのは、何を指しているのだろうか。おそらく資本制社会の中で行われている労働力の売買、自分の労働力を売って、労働力の再生産に必要な賃金を得るという労働形態、さらには山岸会という共同体を維持するための産業形態とそこでの労働とその対価、そういうことを言いたかったのではないかと思う。そういう意味で、洗濯や掃除は等価労働にならないと言ったのだろう。しかし、ヤマギシズム社会は資本制社会の中にありながら、労働力の売買というこの社会の根源を超える内容を持っている。たとえば食堂、もし愛和館が世間一般の食堂と同じものであったならば、毎回お金のやり取りだけでも大変なことになる。毎日何百人もの人たちが、好きなものを好きなだけ食べるということは、とうていできるものではない。洗濯でも同じだ。

 要するに吉本さんのヤマギシ批判は、資本制社会の法則がすべてに貫徹されている状況を前提としたものだということができる。とはいっても、実顕地が資本主義社会という大海に浮かぶほんの小さな一点に過ぎない以上、社会の法則を逃れることはできない。自動車も、トラクターをはじめとする農業機材も、電気もガスも各種建設機材も、すべて一般社会で作られたものを購入しなければならない。当然、それに見合う収入をもってそれに当てる必要がある。吉本さんが「それでは等価労働にならないのではないか」と言ったのはその意味であろう。ただ、「等価的産業形態」があるということと、その中での労働が「等価労働」であるということとは別のことではないかと思うのだが、どうだろうか。

 

〈2月×日〉

 吉本さんの「等価労働」というのは、おそらくマルクスの労働価値説に基づくものではないかと思う。商品の価値は、それの生産に投下された社会的必要労働時間によって決まり、交換は等しい労働時間によって作られた物同士の間で成り立つということである。だから、「各自が自分の得意な仕事をするだけでは、等価労働にならないではないか」「等価源として別の労働が必要ではないか」と批判するわけだ。その点は、先に書いたように実顕地が「等価源」としての産業形態を、養鶏・養豚・養牛・蔬菜等の産業として備えていることは間違いない。しかし問題は、「等価源としての等価労働」ということではなく、実顕地での労働が資本制での労働力の売買に基づく「等価労働」というものであるかどうか、ということである。

 そのへんを考えるために、大昔に読んだマルクスの『経済学・哲学草稿』をざっと読み返してみた。ここには場が資本制社会の出発点になったこと、そして労働力という商品は労働によって自己の再生産に必要なもの以上の価値を生産物に付け加えること、しかしその生産物は労働者の所有にはならず、それが新たな資本となって自分たちと対立せざるを得なくなること、つまり自己の外化が自己の疎外として表れること等が書かれている。

 

「労働は商品を生産するだけではない。労働と労働者とを商品として生産する」

「労働の生産物は、労働が対象のうちに固定されて物となった姿であり、労働の対象化だ。……対象の獲得が、対象の疎外ないし外化としてあらわれる。……この疎外は、労働者が対象を生産すればするほど、所有できる対象はそれだけ少なくなり、かれは自分の生み出した資本にそれだけ大きく支配される……」

 こう書いた上で、マルクスは労働者の状態を次のように描き出す。

「だから、労働者は労働の外で初めて自分を取りもどし、労働のなかでは自分を亡くしている。労働していないときに安らぎの境地にあり、労働しているときは安らげない」(以上長谷川宏訳・光文社文庫版より)

 

 どうも自分でもよくわからぬ古典的な文章を、長々と引用してしまった。ただ言いたかったことは、吉本さんの「等価労働」という言葉には、こうしたマルクス主義の労働観が前提になっていて、ヤマギシもその例にもれないという考え方が潜んでいるように感じられるということである。この労働観が、資本制社会一般に今でも当てはまるのかどうか、またそれは実顕地の労働観・仕事観及びその実態と一致するものなのかどうか、そして今の過渡的な段階の村でこれからどういう働き方を目指していったらいいのか、そうしたことを考えてみたい。

 

〈2月×日〉

 マルクスは「労働者は労働の外で初めて自分を取り戻し、労働のなかでは自分を亡くしている」と書き、それが資本制社会での疎外された労働の実態だと書いている。この言葉は、今の社会状況にもよく当てはまるのではないだろうか。よく自己実現ということが言われるが、大半のサラリーマンが仕事の中にそれを見出せず、仕事が終わってからようやく自由の気分を味わえる。が、その自由の中に自己実現を見出せるかといえば、決してそうではないだろう。だから、仕事以外のグルメやファッションや旅行や趣味に、つまり自分以外の外的な飾りを自己実現の代わりとするのである。今の社会での労働は、労働の中でも、労働の外でも自己疎外として現れざるを得ない。こう考えると、「働き方改革」として、労働時間を多少短くしたところで、労働者やサラリーマンの労働の実態が良くなるとは考えられない。

 私は会社勤めをしていた昔、一年ほど産業教育ソフトの製造販売会社に出向していたことがある。この会社にプロの営業専門集団が入ってきた。彼らは、毎朝朝礼をし、スローガンを声高に叫んでから出かけていく。私ら制作部門に何ら注文も提案もせず、与えられたものを恰も最高の作品であるかのようにして売りに出て行く。要するに売れさえすれば何でもいいのだ。世の中にこういう人種もいるのか、と驚いたものである。

 しかし、考えてみれば資本制社会での労働の実態は、ほとんどこのようなものかもしれない。自分の労働の対象が何であるかは問題ではなく、仕事が終わった後の時間だけが自分の人生なのである。マルクスが疎外された労働と言い、自己疎外と表現したのはこうした実態を指してのことであろう。

 では、ヤマギシズム社会としての今の実顕地における労働は、どうなのだろうか。

 

〈2月×日〉

 マルクスは、資本制社会での労働生産物は自己の外化であり、自己の疎外された労働である、と語っている。単純化して言えば、一足の靴を作るのに1時間かかるとすると、一日8時間で8足の靴を作ることができる。出来上がった靴は、自分が労働力を支出して作ったものであるにもかかわらず、自分のものではなく自分を雇った資本のものであり、自分は売り上げのごく一部を報酬として受け取るに過ぎない。利益は新たな資本として、労働者の前に現れる。労働力の支出・外化が、自分にとってよそよそしい生産物、つまり疎外された対立物にならざるを得ない。こうして労働によって自分自身が疎外される。

 理解の仕方に誤りがあるかもしれないが、私の解釈は以上である。その点、昔の職人の仕事には、外化が疎外に終わらず、労働力の外化を通して自己の中に培うもの、内化するものをもたらした。それは、技であり、精神であり、天地自然に通じる何物かである。職人の仕事のかなりの部分が、人間的・文化的な豊かさをもたらす面を持っていた。

 〈自己に発し、自己に還る〉

 こう山岸さんは言ったが、外化がそのまま内化につながるような生き方、働き方を指しているのではないかと考えられる。この言葉は、決して因果応報的な道徳律を意味するものではないだろう。ところが、資本制社会での労働には、内化されるものがない。疎外された自分を補うためには、仕事外の自由な時間に、グルメなり、ファッションなり、観光なりの代償行為で自分の空白の内面を補うしかない。しかし、これも一時的な満足感だけの消費的行為にほかならない。こうして資本制下の労働では、仕事中も仕事が終わってからも、労働者・サラリーマンは疎外状態から逃れることができない。

 では、ヤマギシの実顕地での労働・仕事・作業はどうなっているか。村人一人ひとりは何を目指し、何を意識して働いているのか。

 

〈2月×日〉

 私は参画1年後に、ヤマギシ内部の改変に伴って、参画先を中央調正機関から実顕地本庁に切り替え、山岸会本部から恵那中野方実顕地へと移った。ここで初めて山岸養鶏に触れることになり、その奥深さの一端を垣間見ることができた。その時よくはわからなかったが、後になって「なるほど」と納得させられるものがずいぶんあった。餌箱の数や配置の仕方、3個の水鉢への水の入れ方、鶏の観察のポイント等、恵那での養鶏の中心にいたSさんから話を聞きながら毎日が勉強になった。特に鶏の寝かせをまかされて、鶏が自発的に止まり木に上がるにはどうするか、何日か取り組んで遂に全棟の寝かせに成功したときの嬉しさは今でも忘れられない。このとき学んだことは、鶏でも、果樹でも、子どもでも、飼育者や世話係が強制的に働きかけても反発を招くだけで、けっして受け入れられることがない、ということである。鶏が自分から止まり木に上がるよう仕向けえること、果樹であれば木が太陽を求めて伸びたいと思う方向やそのバランスをどう見極めるかが大切であり、子どもには一人ひとりの可能性にそってそれを自ら学び育てるには何が大切かを世話係が学ぶ努力である。もちろんこれらは、恵那でのわずか1年未満の生活で身についたものではなく、その後の暮らしの中で反省と共に徐々に熟成されてきたものだ。ただ「外化」は一方的な支出ではなく、「内化」を伴うものでもありうる、とどこか心の中に思うものがあった。

 もうひとつ恵那での養鶏で心に残っていることは、鶏の鳴き声で鶏の状態が少しわかるのではないか、と思った経験である。餌を食べ終わり、或いは砂浴びなどで満足した時の”グルグル”というような鳴き声、水が切れて水が欲しいと催促する声、何かを警戒する声、餌を求める声、退屈だなあといった感じの声、鳴き声ひとつにいろいろな表情があるのだなあと感心させられた。

 しかし、恵那での生活は長続きせず、1年未満でまた山岸会本部に呼び戻され、特講拡大に専念することになった。その後また内部川と野田で養鶏をやる機会はあったが、そのころの養鶏はもう拡大一路の機械的作業の連続状態になっていた。いかに効率を上げるかがテーマで、人と鶏との交流というものはなくなっていた。一棟30分で餌をやることを競うのでは、鶏を観察することなどできない。ここには外化はあっても、内化するものはない。働くことを通じて人が豊かになることがないのである。

 80年代に入ると、高度成長に伴う中産階層の増大により、生産物の供給はどんどん伸びていった。多摩供給所に始まった活用者によるグループ拡大が、大阪供給所を中心とするする余供、つまり移動販売に重点が移り、生産物を通して人と人とが繋がるのではなく、お金を媒介とする物のやり取りに取って代わられることとなった。実顕地生産物は、単なる商品になった。20万円余供、30万円余供が称揚された。しかし、こうしたお互いに顔の見えない商取引は、いったん消費者にそっぽを向かれると、落ち目になるのも早い。もちろんこの背景には、高齢化や生活環境の変化も関係しているが、活用者を切り捨てた生産や供給のあり方も大きく影響していると思う。このへんはぜひ供給関係者で研鑽して欲しいものだ。

 なお、予供という言葉は、「予備供給」の略で、多摩供給所のKさんが生産物のグループ供給を始めるさい、30キロ単位の仲良しグループづくりを目標に、それに至らぬ10キロ、20キロのグループへの供給を、本供給に至る前の予備供給と名づけたのである。だから、移動販売を予供と名づけるのは意味をなしていない。

 

〈2月×日〉

 実顕地に参画して一番感じたことは、これまでのサラリーマン生活と違って、ここではお金のために働くことがない、他と競争して地位・名誉を競うことがない、何時から何時までという時間に縛られることがない、ということであった。

〈無所有〉〈無中心〉〈無重力〉〈無時間〉〈権利なし〉〈義務なし〉〈賞罰なし〉……こういう言葉を聴くとその奥深さに心うたれる感じがした。だが、実際の生活の中で、これらの意味するものを探り深めることはなく、日常に流されていった。

 今これらの言葉の意味するものを、もう一度問い返してみると、ここには資本制社会での労働を乗り越える大きな可能性があるように思う。例えば、自分

にこのように問うてみたらどうだろう。

「自分は何のために働いているのか」――

「何を目指し、何を目的に働くのか」――

「働くことを通してどんな人間関係・社会関係を築こうとしているのか」――

 この問いに“正しい”答えがあるわけではなく、自分の中でこの問いを問い続けることが大事なのだと思う。それをなくすと、ただ何となく惰性で働くことになって、集卵や餌やりの単なるロボット的作業者になってしまうか、売り上げの多寡を競う商人になってしまう。もうここには働く喜びはなく、労働という外化を通じて内化するものもない。

 私たちは、ヤマギシズム実顕地という山岸さんが残した恵まれた環境の中にいる。これを生かし切ることができるかどうか、あるいは資本主義体制の一般社会の中に拡散させてしまうかどうか、今その岐路に立っているように思われる。よく「拡大」がテーマになるが、何を、どこを、拡大しようとしているのかわからないことが多い。しかし、もしこの働くということの意味を実顕地が問い続けることができるとすれば、世の多くのサラリーマンや労働者に、「一緒に考えてみませんか」と呼びかけることができる。拡大というのは、単に特講に来ませんかというのではなく、今一般社会で人々が何に当面して苦しんでいるのかを探り、それを共に考える姿勢をまず村人自身がつくることから始まるのではないだろうか。

 

〈2月×日〉

 年をとり、その上ガンなどという病気にかかると、だんだんやせ細っていく。1月に43キロ台だった体重が、いよいよ42キロ台に落ちた。それでもけっこう元気なのは、これまでに蓄えた自分の細胞を自分が消化・再利用しているためなのだろう。大隅良典さんがノーベル賞受賞記念講演で語ったところによ れば「人体は毎日200グラムのタンパク質を作る。食事で取るのは70~80グラム」だという。必要とするタンパク質の6割以上が、自分の古い細胞の再利用だというのである。人体が人体として存在できるのは、このオートファジーという自己再生能力のおかげであるらしい。

 このように体のほうはこれまでに内化された細胞を自己消化することで維持されるとすれば、心や精神といった人間のもうひとつの機能はどうやって維持されるのだろうか。もし内化されたものが非常に乏しいか無に等しいとすれば、老後の生活をどのように過ごすことができるのだろう? 年をとれば当然さまざまな機能は衰える。目も耳も、足も手も、衰える。その中で「ますます蘇る老蘇の生き方」とはどういうことなのだろうか。これは恐らく年をとってから考えたのでは遅いのかもしれない。それまでの生き方、考え方、それを通して自分に蓄積されたもの、つまり内化されたものによって決まってしまうのだろう。心のオートファジーと言っていいものが、あるのではないかと思う。

 しかし、年をとってからでもできることはある。若い人のようにはできなくても、自分の頑固観念をはずし、決め付けや諦めをはずすことで、自分の頭を使う練習をしていくことだと思う。そのためには、自分が関心を持つこと、興味を抱くことを大事にすることだ。関心の無いことに頭は働かない。頭が働かなければ、自ら発するものがなく、自ら発するものがなければ自分に還るものもない。外からの刺激にただ流されるだけだ。少しでも自分に蓄積するものがあれば、その蓄積したものを再活用しながら、自分の老後を楽しく過ごすことができるのではないだろうか。村は環境は用意できても、一人ひとりの幸せを用意することはできない。老蘇の生き方というのは、私たち一人ひとりのテーマなのである。年をとったからといって、老蘇になれるわけではないだろう。このへんも、村全体のテーマとして取り組んだら、今の社会への強烈なアピールになるはずだと思う。

 

〈2月×日〉

 今月は、働くとは、労働とは、どういうことかといったことを中心に考えてきた。ところで、この「働くこと」と「労働」という言葉には、何かが少しばかり違ったニュアンスがあるように感じられる。例えば、植物の働きとか、手の働きとは言えても、植物の労働とか手の労働とは言わない。つまり「働く」とは、それそのものの持つ機能が正常に作用している状態を指すのではないだろうか。植物が水や栄養を求めて根を伸ばし、枝や葉を広げて太陽を目指すのはまさに植物が働いている姿そのものである。また動物が餌を求めて草を食べたり、他の小動物を追ったりするのは動物の働きであろう。20万年前に誕生した今の人類ホモ・サピエンスも、自然界の他の動物と同じように食べられる植物を漁り、動物の狩などをして生きのびてきた。これを働きとはいっても、労働とは言わないのではないか。労働は、人間の世界だけに生まれたもののように思われるが、では人間界に労働はいつから始まったのだろうか。

 このへんは、私の乏しい知識ではよくわからない。ただ、文字が発明され、歴史が書かれるようになったときには、すでに労働は始まっていた。人間の社会に支配するものと支配されるものとの区別が生じたときには、労働が生まれていたのである。古代メソポタミア、古代エジプト、古代中国、いずれも王侯貴族の支配下にたくさんの奴隷労働が置かれていた。『創世記』を読むと、アダムとイヴが神が禁じた木の実・知恵の実を食べたことで楽園を追放されるが、そのとき神はアダムにこう言う。

 「君のために土地は呪われる。

 そこから君は一生の間労しつつ食を獲ねばならない。

 土地は君のために荊(いばら)と棘(おどろ)を生じ、

 君は野の草を食せねばならない。

 君は顔に汗してパンを食い、

 ついに土に帰るであろう。

 君はそこから取られたのだから。

 君は塵だから塵に帰るのだ」(岩波文庫版『創世記』)

 

 このように旧約聖書によると、労働は神からの罰として人間に課されたものと描かれている。古代ローマにキリスト教が浸透してからは、この労働観がヨーロッパ世界に広く認められていったのであろう。神からの罰である汗苦労働として。これは、支配者である領主や国王や司祭階層にとって都合のよい考え方であった。

 とにかく、労働というものは、働かせるものと働かされるものとの間で成立したと言っていいのではないだろうか。近代に成立した資本制社会では、企業や株主という働かせるものとそこで働く労働者・サラリーマンとの間で労働関係が生まれる。労働者・サラリーマンは、お金のために働くのである。

 そうすると、労働は自分のためにではなく、誰か他のため、何かのために働く状態を指しているように考えられる。昔の農民は領主のために、今のサラリーマンは企業のために。では、ヤマギシの村で私たちが働くのは、金のためではなく、地位や名誉や出世のためでもなく、誰か長に命じられているわけでもないとすれば、何で働くのだろうか。誰のために、何のために、働いているのか。それは、自分の真の幸福に結びつくものなのだろうか。そしてそれはまた、新しい時代を切り開く可能性を秘めたものなのだろうか。

 

〈2月×日〉

 昨日、病院へ行った。血液検査の結果は、あまり思わしくなかった。3種類のガンマーカーの数値が、いずれも上昇しているのだ。終局が近づいていることを受け止めざるを獲ない。ただ、残された時間をどう過ごすかは、自分だけの自由に任されている。あまり関心が拡散しないようにしたいと願いながらも、どこかに絞り込むこともできそうにない。生来の拡散型なのかもしれない。もうしばらくは、自分の関心の赴くままにあれこれ考え続けることになりそうだ。

 

◎吉田光男『わくらばの記』(17)

わくらばの記 たまゆら①(17・1) 

 2017年の正月を迎え、手記のタイトルをどうしようかと考えているうちに、夢うつつに〈たまゆら〉という言葉が浮かび上がってきた。目覚めてから、言葉の正確な意味を辞書で調べると、「玉が触れ合ってかすかに音を立てる意」で、そこから「ほんのしばらくの間」とか「かすか」を表す語として用いられているという。インターネットには、宝塚で「たまゆらの記」という劇が上演されたとの記録もある。まあ、「ほんのしばらく」というのは、私の病状から言ってふさわしくないことはなく、また「たまゆら」という言葉の響きが好ましい印象だし、これを魂と魂との響きあいと解釈すれば、なお私の求めているものと一致するように思えた。

 

〈1月1日〉

 元旦。久しぶりに、この日に年賀状を書いた。元旦と署名する以上、年賀状はすがすがしい気分で元旦に書くのが本当ではないか、と思ったのである。しかし、しばらくして何人かから送られた年賀状を受け取ると、やはりこの日に読む賀状はいいものだなと思ったりもする。どうも自分の心の置き所によって、感じ方がずいぶん違ってくるものだ。

 もう一つ今年は、村の人や普段から顔を合わせることの多い人には、賀状を出さなかった。何か儀礼的・慣習的になっていて、あまり心がこもっていないように思ったからである。その代り、出した人にはパソコンを使わず、文面から宛先まで全部手書きにした。手書にすると、一人ひとりの顔が目の前に浮かんできて、直接その人に語りかけるような気分になり、自分なりに心がこもった感じになった。

 なお、磯田道史氏の『江戸の備忘録』を読んでいたらこんな文章が書いてあった。

「ちなみに江戸時代は、お正月になってから、年賀の書状をしたためた。このごろは、元旦に届けるため、年末に大忙しで書いているが、年賀状は本来、お正月を迎えてから書くものだから、正月休みにゆっくり書いても一向にかまわない」

 

〈1月2日〉

 この日、息子一家が来てくれた。しばらくみんなで話し合っているうちに、孫の一樹から鋭い質問が飛び出してきた。こうした真正面からの問いかけには、ごまかしたり、はぐらかしたりはできないなと思い、こちらも真剣に答えることにした。 

 ――年を取って体が衰えても筋肉は鍛えられるというから、筋肉ムキムキになる運動をしたらどうか。

「皮膚がたるんで皺だらけの体で、筋肉だけ鍛えることはできそうもない。鍛えることよりも、できるだけ衰えないようにするための足腰の運動はつづけている」

 ――もっと長生きしたいとは思わないか。

「生きられるだけは生きようとは思うが、より長くとは考えていない。薬や生命維持装置で、生きる時間を少しでも長くとは考えていない」

 ――もっと幸せになろうとは考えないか。

「その‟もっと幸せ”というのは、どういうことだろうか。幸せに普通の幸せ、もっとたくさんの幸せ、といった区別があるだろうか。幸せにAランク、Bランクという区別はないのではないか。もしあるとすれば、前のは本当の幸せではなかったということになる。幸せを感ずる中身は日々違っているとは思うが、その時その時を幸せに生きることが大切だと思っている」

 ――じゃあ、幸せって何か。

「その質問に全部答えることは難しいが、最近考えたことを言うと、自分を知るということが大事な一歩かと思っている。宇宙の話を聞くと、宇宙空間に存在する物質やエネルギーはほとんどが未知なるものだと言われている。その90パーセント以上は、不明な物質やエネルギーで、それを暗黒物質とかダークエネルギーと言っている。同じように、人間の心の宇宙もわかっていない。つまり、人は自分が何者であるのかわからぬうちに、一生を終えることになる。それにもかかわらず、みんな自分は自分だとわかったつもりになっている。じゃあ、何を以て自分だと思っているかというと、自分以外の何か――例えば財産とか名誉とか地位とか知識とか――そういうものが自分であると思っているのではないか。しかし、そうした自分以外のもので自分を幸せにはできない。それでは、おじいちゃんは自分がわかっているかと聞かれると、とうていわかっているとは言えないけれども、わかっていないことがわかったとは言うことができる。だから、自分の心の中を旅する努力をしているが、それが楽しい。そこに生きがいを感じている」 

 そんな話をして、多分よくはわからなかったと思うが、真面目に答えたことの何かは伝わったかもしれない。

 

〈1月×日〉

 娘の迎えにバス停まで車を走らせたが、T字の曲がり角で目測を誤り、縁石に前輪をぶつけてパンクさせてしまった。車の運転にはある程度自信があったが、それが揺らぐ瞬間であった。その時何よりも嫌らしいのは〈パンクしたために縁石に乗り上げた〉という言い訳が出てきたことである。未だに自分を素直に認めようとしないものが巣くっているのか、と我ながら情けない思いであった。しばらくして、山本さんがパンク修理に駆けつけてくれた。

 翌日、ロビーで新聞を読んでいると、山本さんが来て今日研鑽会をしたいということで、夕方石角君を入れた3人で研鑽会を持つことになった。昨夜の仲良し研で、私の事故のことが話題になったのだと思った。

  やはり話はそのことで「そろそろ運転をやめたらどうか」ということだった。「昨日は今月のテーマの〈気になることを出し合う実顕地〉というテーマで研鑽したが、その中でみんなが吉田さんの運転について心配している。最近の高齢者による事故の多発というニュースもあり、みんなが心配する気持ちをわかってほしい」。そういう話だった。

 私もみんなが心配してくれる気持ちはわかるし、自分でも運転に固執するつもりはないが、ただ「はい、止めましょう」では何も研鑽したことにはならないのではないかと思い、次のように話した。 

「最近、高齢者の年齢を65歳から75歳に引き上げる提言が出ている。これには年金の支給と関連した政治的な意図が含まれているかもしれないが、一般に元気な高齢者が増えていることは間違いない。一般的に年を取るにつれて体力も知力も衰えることは間違いないが、これにはかなりの個人差がある。だから、何歳以上が高齢というのは、一つの目安にはできても絶対的な基準にはなりえない。若くても危ない運転をしている人はかなりいる。もし、安全な運転ということがテーマであるなら、年だけを基準にするのではなく、個別的な運転の点検やそれに基づく研鑽をしてほしい」

 ということで、近々実際に運転状況を見てもらうことになったが、ではこれで研鑽になったかといえばとうていそうは思えない。これは事柄の処理であって、問題は事柄の処理を通して〈本当はどうか〉と検べ合うことであり、検べ合う関係を深め合うことでなければならない。しばらく話し合っているうちに、少し研鑽できたかなという感触を得ることができた。

 しかし、今の実顕地の研鑽会というのは、事柄をどう処理するかに終始しているように感じる。〈気になること〉を出し合うのはいいとして、みんなそれだけで研鑽が成り立っているように思っているのではないか。そんなものは話題の出し合いにすぎず、それをどう処理したところで研鑽とは言えないのではないか。出し合ったことを研鑽に結びつけることがテーマであり、それこそが一番大事なことだと思うのだ。

 テーマにそってさまざまな話題が出てくるが、まずそれを考える自分の考え方が常識や既成観念にもとづいていないかどうかを調べる必要がある。例えば「75歳以上は運転をやめるべきである」あるいは逆に「本人ができると言う以上、止めさすべきではない」と、予め決めたものを持っていたら研鑽にはならない。常識や決め事にもとづく考え方にとらわれている限り、自分の頭で考えることをしていない、つまり思考停止の状態になっているからである。そして研鑽のないこの状態には、自己変革の契機は含まれていない。

 私も、自分の事故という失敗を通じて、これを材料に研鑽機会を増やしていきたい、といま思っている。

 

〈1月×日〉

 鎌田浩毅氏の『地球の歴史(上)』(中公新書)を読む。地球史研究の最先端の書ともいえるのではないかと思った。宇宙の話や地球の話は、昔から興味があり、松井孝典氏のものを始め何冊か読んでいるが、どうも頭に残っていない。その時はわかったつもりでいても、翌日には忘れている。どこか記憶装置に欠陥があるらしい。鎌田氏のこの本も同様なのだが、それはともかくとして、この本には地球というこの星の生成の偶然から消滅の必然までが一望のもとに描かれている。

 ビッグバンによる宇宙の誕生から太陽系の誕生まで、その太陽系の質量の99パーセントを太陽が占めていて、地球を含む他の惑星全部を集めても質量はその1パーセントにも及ばないなどと知らされると、なんとまあ地球は小さいのかと思わされる。しかも、地球はその大きさと太陽との距離の関係で、唯一水を持つ惑星として存在することができ、生命を誕生させることができた。その地球も、48億年の歴史の中で変動を繰り返し、超大陸の形成から分裂、再形成という過程を繰り返し、超大陸「ヌーナ」から始まって「ロディニア」「ゴンドワナ」「パンゲア」という4つの超大陸の形成と分裂の後ようやく今の5大陸が生れたというのである。そして今の5大陸も分裂と再形成の過程にあり、やがてアメリカ大陸が北上し、ユーラシア大陸と北極付近で衝突する、そのさいオーストラリアはインドの隣に寄り添いながら最後に合体するというのである。

 これは、カナダの地質学者ツゾー・ウイルソン教授の新たなプレートテクトニクス理論(ウイルソン・サイクル)に基づく2~3億年後のシュミレーションということであった。2~3億年後まで人類が生き延びているかどうか、そのとき日本列島はどうなっているのかわからないが、こういうものを読んでいると何か壮大な気分になってくる。尖閣は固有の領土とか南シナ海は固有の領海などと言っている現代の政治家どもの頭の構造を疑いたくなる。地球は地球自身の運動(プレートテクトニクス)に基づいて島を作ったり、無くしたりしているではないか。

 しかしまた、億単位の地球時間から人間の生きているこの僅かな人生の時間に軸足を移すと、明日どうなるかといった目先のことが優先されてくる。人間は、この巨視的な時間と微視的な時間とのはざまで生きる以外にないのか、といったわかったようなわからないような気分を味わっている。

 

〈1月×日〉

 今の日本の経済を扱う論説は、ほとんどが成長こそが豊かさをもたらすものと言っている。そしてそれを受け取る私たちのほとんどが、疑問を抱くことなく、そんなものかと何となく納得している。しかし、経済成長なしに豊かさや幸福は得られないのだろうか。このことは、ここ10数年、疑問としてずっと頭から離れなかった。しかし、新聞・雑誌はもちろん、それに答えてくれるような回答には出会うことなく(というか、小難しい経済書は読んでいないということだが)、ヤマギシ周辺の誰に聞いてもまともに考えている人はほとんどいなかった。

 だいたい洋服など次から次へと作る必要はどこにもなく、トマトやキュウリを去年よりたくさん食べよと言われても困る。にもかかわらず、成長こそが繁栄のカギだと、安倍さんから労働組合までが歩調をそろえて唱える。本当にそうなのだろうか。もしかしたら、これは経済の仕組み自体が間違っているのではないか。自転車ではないが、走っていないと倒れてしまう経済が、今の資本主義のシステムなのではないか。と、ここまではよく考えるのだが、じゃあそれに代わるものが考えられるのか、というところでいつもわからなくなる。

 20世紀の末までは、社会主義が資本主義のアンチテーゼとして考えられた。しかし、ソ連が崩壊した後は先行きが全く見えなくなった。ヤマギシの無所有経済と言っても、一気にそこへジャンプできるわけではなく、そこに至る道筋が見えない。

 そんな時、ふと手に取ったのが水野和夫氏の『資本主義の終焉と歴史の危機』である。20世紀の末以来、すでに資本主義の終わりが始まっているという論説はかなり説得的で理解しやすい。急いで水野氏の他の著作『国貧論』(太田出版)、『株式会社の終焉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読んだ。

 水野氏によれば、資本主義とは「資本の自己増殖運動」を基本とする経済体制である。そして資本の利潤率は国債の利子率と最終的に一致する。日本の10年もの国債の利率がゼロになり、日銀がマイナス金利を採用するに及んでは、すでに資本の自己増殖は不可能な段階に入っている。つまり、資本主義は資本主義として存続不能な段階に入っているというのである。それでもなお資本が利益を上げているのは、生産やサービスの提供で得られた売り上げの内から、当然支払うべき従業員の賃金や下請け企業への支払いを切り下げ、実質賃金の切り下げを行っているからだ、という。そのための手段が、派遣労働、非正規雇用の増加である。ここに貧困が定着する根本原因がある。

 資本主義は自己の周辺に絶えず拡大し得る地理的・物的空間を必要とし、17~20世紀は植民地の拡大に、20世紀後半はアジア・アフリカなど後進地域の商品市場獲得に鎬を削ってきたが、やがて電子・金融空間に新たな活路を見い出そうとしてきた。しかしそれも今や行き詰った。つまり、無限空間への拡大として始まった近代が、有限空間にぶつかった、それが現代だというのである。

 水野氏の言わんとするところを大雑把に要約すれば、以上のようなことになるのではないか、と思われる。では、資本主義に代わるべき社会はどのようなものか。それはわからない、と水野氏は言う。資本主義が中世から近代にいたる長い時間を経て熟成されたように、次の社会は恐らく2~300年という長期のスパンでやっと姿を現すのではないか、というのである。「では、どうしたらいいか」。こう述べて、氏は次のように続ける。

「一つだけ言えることがあります。近代というものはより速く、より遠く、より合理的にということでしたので、この三つはやってはいけないことになります。したがって、よりゆっくり、より近く、より寛容にという延長線上で考えていくことだと思います」(『国貧論』221頁) 

 

〈1月×日〉

 どうも経済の話というのは、数字や図表がたくさん出てきて、それだけで頭が痛くなり眠くなってしまう。ここ数日、机に向かって居眠りしている自分を何回も発見した。それでも資本主義の命運から関心が離れないものだから、理解力のほどはさておいて、何冊か読み通してしまった。

 水野氏によれば、中世から近代へ、つまり封建制から資本主義体制への移行には「長い16世紀」と言われる長い時間を要したように、資本主義から次の時代への移行も「長い21世紀」という長期の時間を必要とするだろうという。そして、次の時代への移行のためには「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という在り方が大事だという。つまり、今の時代の真逆な在り方こそが求められているというのだ。

 恐らく次の時代は、今の時代の中に静かに胚胎しているのではないだろうか。中世の12世紀にイタリアのフィレンツェで秘かに始まった金利というものが、貨幣を資本(カネがカネを生む貨幣)に変える出発点になったように、今の資本主義社会の中にも秘かに次の時代への飛躍を約束するものが準備されているかもしれない。それがヤマギシの実顕地であるか、鈴鹿のアズワン・グループであるか、それとも木花グループであるかはわからない。いずれにしても、それは「より速く、より遠くへ(さらに言えばより大量に)、より合理的に(そしてより科学的に)」という方向とは逆の方向でなければならないだろう。私たちは、自分たちが楽しく生きるというだけの自己満足に終わることなく、今の生き方の中に次の時代を準備する新しい芽を見い出し、育て上げるようにしなければならない。果たしてそれは何なのか。

 

〈1月×日〉

 病気になってから実顕地を離れることはなくなったが、東京へ行ったときなど一番強く感じるのは、実顕地の外では鍵なしには生活できないということである。一人ひとりがみんな孤立していて、互いに不信感を基に生活している。この不信感は、共同性と相容れない。その昔、文化生活の最先端としてあこがれの的であった公団住宅や田園都市住宅には空き家が目立ち、住むのは老人ばかりになってしまった。こうなると、プライバシーを守れる最も先端の住宅と言われたものが、老人の孤独死を防ぐことのできない陸の孤島と化してしまった。いまはやりの高層マンションなども、やがてはバベルの塔のように廃墟と化す日が来るのではないだろうか。

 次の時代を考える上での社会形態としては、このへんのところは非常に重要だと思う。住民同士の信頼関係を基とした共同性の確立、これ無しに鍵のない豊かな楽しい暮らしは実現できない。実顕地は、その最先端を行くものと言えるのではないか。もちろん、居住形態などは将来変わっていくし、多様化するとは思うが、元になる考え方としては、これしかないのではないだろうか。

 ただ、次の時代を考える際に幾つかの重要と思われる問題がある。そうした問題について、少しずつ考えていきたい。そのさい、山岸さんの発言の中から、実顕地に関するものと、理念研に関する全発言を読み直しておきたいと思いながら、その前に読んでおきたいものもあって、少し時間がかかりそうである。だから、これから書くものは、すべて今の自分の思いつきにすぎない。

 

〈1月×日〉

 最初に思ったのは、〈無所有〉についてである。理念としての〈無所有〉は、特講を受けたものなら誰でも理解できるだろう。では、誰もが無所有の生き方ができるかと言えば、そうは言えない。多かれ少なかれ、所有観念を免れていない。研鑽学校で「誰のものでもありません」と言った口も乾かぬうちに、お小遣いや提案金額でひっかかったりしている。私もその一人である。理念と実態とは一致しない。それが現実である。にもかかわらず、あたかも〈無所有〉の生き方をしているような、あるいは〈いかなる場合にも腹の立たない人間〉であるかのような、あるいは〈無我執一体〉の生き方ができているようなふりをする。ここに、嘘・偽りがある。嘘・偽りがある以上、それは真実の生き方ではない。

 では、真実の生き方に近づくためにはどうしたらいいのか。そこに求められるのが、研鑽であろう。研鑽は、理念と実態とが一致しないからこそ必要なのであり、その研鑽は事実を事実として認めることからしか始まらない。

 〈無所有〉について思い出すのは、春祭りのことである。山岸さんの墓前祭から始まって、春まつりになり、散財まつりになり、タダのまつりになり、社会まつりになった。この祭りでは、タダで食事をふるまい、卵などを大量に配って大盤振る舞いの饗宴を繰り広げた。準備研でテーマとして言われたのは「タダの社会気風をつくる」ということであった。しかし、これによってタダの社会気風は醸成できただろうか。意図に反して、我がちの囲い込みの風潮をもたらした面はなかったろうか。つまり、所有観念を満足させる結果になっていなかったか、ということである。

 では、祭りをやっている自分たちの方は、祭りを通して本当に無所有を深めることができていただろうか。参加者の多さをイズムの広がりと錯覚する独りよがりの考え方に陥っていただけではなかったか。その後に続発した財産返還訴訟などを見るまでもなく、私たちの日常生活そのものがとうてい無所有と言える域に達していない。この未到達の自分を素直に認めるところを出発点として祭りを考え、組み立てていくことが大切だったのだと思う。それがどういう形の祭りになるかはわからないが、こうした生き方を地道に行おうとする実顕地の気風に触れることで、この生き方を共に行いたい人が増えていくのではないだろうか。そこにこそ真の拡大があるのだと思う。物をタダで配ることで無所有の社会気風が拡がるなどというのは、誤った幻想にすぎなかった。しかし、今なおこの幻想から私たちは自由になっていない。「安く」そして「大量に」という成長路線・量的拡大路線から自由になってはいない。

 

〈1月×日〉

 1980年代だったと思うが、豊里に配送センターが作られた。北海道から九州まで日本全国の供給所を結ぶ生産物の配送指令所である。それより少し前には、全国の養鶏所を一律管理する本庁養鶏部が作られている。どちらも大きく、大量に、素早く、需要に応ずるための管理システムである。まさに成長路線に沿ったシステムであった。当時は、これでヤマギシズム社会化が大きく進むと考えられていたし、私たち自身も諸手を上げて賛成した。                      

 しかし、今そのどちらもが村には存在しない。それがなぜなのか、村の中で真剣に考えられてはいない。一時全国に増え続けた活用者は、みな高齢化してグループは解消し、供給所は次々と閉鎖を余儀なくされた(単なる高齢化というだけでなく、その背景にヤマギシに対する不信感もあるようだが、それについては直接話を聞いていないのでここでは触れない)。供給に代わって、ファームという直売方式の店が、豊里に始まって名古屋、堺、町田と各地に作られているが、これが次の時代への先駆けとなりうるのかどうか。「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という水野氏の次世代への予測を参考にしながら、考え続けていきたい。

 経済問題とは違うが、本庁養鶏部、配送センターが作られた時期は、特講拡大・活用者拡大・楽園村拡大・学園拡大・研鑽学校拡大、そして全員参画という実顕地拡大の時期と重なる。いずれも量的拡大を目指したもので、これによってヤマギシズム社会化が進むと考えられていた。しかし、現実は違っていた。「より速く」とか「より大量に」とか「より遠くに」という考え方の中に決定的に欠けていたものがあったのである。それが何であったのか、今それを考えることが次の時代を考えるきっかけになるのではなかろうか。

 

〈1月×日〉

 韓国の朴槿恵大統領が弾劾訴訟で職務停止の処分を受け、慰安婦問題の協約が機能停止の状態になった。さっそくソウルの日本大使館前には慰安婦像が持ち込まれ、釜山の領事館前にも新たな慰安婦像が設置された。この問題をめぐって、日韓の亀裂が深まっているが、これは政府間レベルではなく、もっと民間レベルで考えていくべき問題であるように思われる。

 思うに、私たち日本人はあまりにも歴史認識が浅い。日本と韓国(朝鮮)をめぐる近代史について、あるいは中国を含むアジア近代史について、ほとんど知らない人が大部分を占めているのではないだろうか。

 例えばここに、写真に写った一人の青年がいる。彼は韓国・朝鮮では民族の英雄であり、日本では犯罪者・テロリストである。彼の名は安重根という。1909年10月、ハルビン駅頭で前韓国統監の伊藤博文を殺害し、翌年2月、死刑に処せられた。彼は果たして英雄なのか犯罪者なのか。こうした問題は、国家レベルでいくら考えても答えは出ない、というか双方の主張の隔たりが大きくなるばかりである。一人の人間としての立場から考えていかない限り、本当のものが見えてこないだろう。

 私が初めて韓国を訪れたのは、88年のソウルオリンピックの後だから、多分89年か90年だったと思うが、大韓航空の機内に置かれたパンフレットを見て驚いたことがある。そこには豊臣秀吉の朝鮮出兵が、日本の侵略として大きく取り上げられていた。文禄(1592年)・慶長(1597年)の役として知られるこの事件は、私の頭ではとっくに歴史のかなたに消えていた。しかし、韓国の人の中ではつい先日の出来事としての現下の記憶なのである。朝鮮半島が他国の支配を受けたことは度々ある。唐の支配下に置かれたことがあるし、元の支配下で軍船の製造と兵士の出兵を命じられ、二度にわたる元寇の役で多くの命を奪われたこともある。しかし、これらの事件は既に歴史の一頁と化している。だが、秀吉の出兵は歴史上の過去の出来事にはなっていない。なぜなのだろうか。

 私が韓国実顕地の配置になって、韓国のメンバーとだいぶ親しくなったと自負していたが、時折心の底にあるものを覗かせてこちらをどぎまぎさせてくれることがあった。黄(ファン)さんだったか、張(チャン)さんだったか、ロビーでこんな話をしてくれたことがある。

「日本時代(日本の植民地下に置かれた1910~45年の時代)にね、韓国のハルモニ(おばあさん)たちは、孫たちにこういう話をしていたんだ。昔倭奴(ワヌ、日本人のこと)たちは何も知らないものだから、葬式には何を着たらいいかと聞きに来た。あまりにも無知だから、本当は白い着物を着るのだが、黒いのを着るのだ、と教えてやった。だから今でも日本人は黒を喪服にしている。また、食事には何を使ったらいいかと聞きに来たこともある。本当はスッカラとチャッカラ(スプーンと箸)を使うのだが、チャッカラでいいと教えてやった。それで日本人は食事に箸しか使わなくなったのだ」

 貧しい薄暗い灯の下で、孫たちにこんな話をしていたハルモニたちの姿を想像すると、民族の誇りを抑圧された恨みが植民地下の民衆の間に根深く伸び広がっていたことを感じさせられる。そしてこの感情は今なお消えることなく、何か事があれば吹き出るマグマとして存在しつづけている。慰安婦問題をめぐって日韓両政府が「最終的かつ不可逆的に解決した」といくら強調したところで、民衆の心はこんな政治的文言や10億円の拠出で解消できるものではない。

 梶山季之のデビュー作となった小説『李朝残影』は、直木賞候補になった優れた小説であるが、日本植民地下で妓生となった美しい韓国女性の悲しくも激しい生きざまを描いたものである。そして同じ文庫に収められたもう一つの中編小説(題名は失念した)は、創氏改名という日本化政策の下で氏名を日本風に改めなければならなくなって、自殺する地主の話であった。これらの小説を読み直したいと思って探したが、既に絶版になっており、四日市の図書館にも置いてなかった。

 ところで私たち日本人は、こうした韓国併合とか、創氏改名とか、朝鮮語使用禁止とか、もっと前の閔妃(みんび)殺害とか、そうした出来事についてどれだけ知っているだろうか。またもし仮に、私たちが明日から日本語の使用を禁じられて韓国語でしか会話できなくなったり、名前を韓国風の3文字に変えよと強制されたら、何を思うだろうか。こうした想像力を働かせない限り、韓国の人たちの心の底にあるものを理解することはできないだろう。

 しかし、私のような考え方は、一部からは「自虐史観」と非難される。そして、彼らはアパルトヘイトを叫び、憎しみを掻き立てる。もちろん、韓国にも反日を掻き立て、真逆なアパルトヘイトで自らのナショナリズムを満足させている人たちもたくさんいるだろう。しかし、侵略・植民をした側とされた側と、過去の歴史にどちらが責任を持つべきものなのかと言えば、もちろん侵略した側なのである。だから、された側が、もうよかろうと言ってくれない限り、慰安婦問題は解決したことにはならない。

 

〈1月×日〉

 日韓をめぐる近代史について、私たちはあまりに知らなさすぎる。そのことについて、村で話したことがあるが、ある人から「知らないからいいのだ」と批判されたことがある。つまり「あなたのように考えていくと、逆に何にもないところに差別感情を生み出してしまう」というのだ。そして「韓国の特講の係りに行った人の話では、参加者の誰にも反日感情など少しもなかった」というのである。それはそうかもしれない。もし、言わないことが無いことならば、である。

 しかし、知らないこと、無知であることが仲良しの条件なのだろうか。知ろうと努力することが無駄なことなのだろうか。相手を理解する、心の内を知ろうとすることが、差別を生み出すことなのだろうか。

 人と人とが仲良く楽しく平和に暮らすためには、相手に対する理解は欠かすことができない。そしてどんなに相手を知ろうと思っても、なかなか相手の心の底を知ることはできない。そんな程度の自分たちであることを自覚しながら、進む以外にないのではなかろうか。

 

〈1月×日〉

 トランプ氏が、いよいよアメリカ大統領の座についた。次々と打ち出される大統領令を見ると、なんともまあすさまじい。世界は、自国中心のナショナリズムむき出しの争いの場と化するのではないか。これまでのオバマ政権の下でも、自国中心主義の考え方がなかったわけではない。しかし、ある程度の国際的協調がなければ、自国の利益も守れないことを知っていた。それが今やむき出しの自国中心、白人の利益中心主義に代わった。

 トランプ大統領の出現は、ヨーロッパ、特にフランス・ドイツ・イタリア・オランダ等の右翼勢力に勢いを与えた。しかし同時に、ヨーロッパの人々に警戒心をも呼び起こしているようで、今年前半の各国の重要選挙でどのような結果をもたらすかわからない。だがいずれにせよ、ナショナリズムというものは、ナショナリズム同士で結束することはありえず、必ず各国間の対立を引き起こす。これからの世界は、国家間の対立に加えて、民族・人種間の対立、宗教・文化間の対立を不必要に激化させることになるだろう。特に恐ろしいのは、イスラエルにおけるアメリカ大使館の移動である。テルアビブからエルサレムへ、これはアラブ民族の猛烈な反発を引き起こす。イスラエルとアラブ諸民族との対立は、これによって頂点に達し、第三次世界大戦の発火点となるかもしれない。

 このようなトランプ氏の政策を見ていると、昔よく見た西部劇を思い出す。やくざ集団を率いた悪徳地主が、力ずくで周囲の土地を奪って囲い込み、西部開拓を行っていくのであるが、今の地球上には開拓すべき西部は残されていない。資本主義発展途上の西部と資本主義末期の今の西部とは、まったく事情が異なるのである。しかも今の時代は、シェーンのような正義の拳銃使いで事が決着することはありえ

 これからイギリスに続いて、カナダ・メキシコ・日本・ドイツ・フランス・ロシア等との二国間交渉が始まる。力の恫喝によってフロンティアを獲得しようとするトランプ・アメリカに、各国がどう対応するか、目が離せない世界情勢になった。

◎書評『追わずとも牛は往く』

〇本書は、著者の40年ほど前の1976年から2年程の「北海道試験場」(「北試」―ヤマギシ会)の体験をふまえ、書き進められた記録文学である。

 実際の「北試」というより、その可能性をひろげた著者自身の想定した「睦みの里」であり、著者から見たヤマギシズム生活の振り返りである。

 著者が1976年から2年間体験した「北試」は、当時さまざまな研究者などから注目されていた。読むに従って、共同体とは何か? 労働とは? 人と人との生身の人間としての心の交流とは? など、ともに考えていく内容に満ちている。

 また「理念」でつながる共同体と、一人ひとりの「生命力」でつながる共同体の本質的な違いを思った。

 最後の10頁程のエピローグで、「睦みの里」の解散から、「実顕地」での著者の体験の20年余にわたる総括が述べられる。そして現在の心境が語られる。不思議な構成の作品である。

 エピローグの『ヤマギシズム実顕地』での著者の体験の20年余にわたる総括部分は、ある程度「実顕地」を知る人にとっては、簡潔にまとめてあるように思う。

 本書の特質として、ヤマギシの生活体に関するおそらく初めての文学作品となるだろう。

 今後の希望として、著者自身のことを主にして、「ヤマギシズム生活、実顕地」の村人一人ひとりがどのように変容していったのか、その心の動きなど、著者の視点から、きめ細かく描いていくことが、「ヤマギシズム生活体、実顕地」について、さらに『睦みの里』と併せ読むことを通して、机上のコミューン論を超えた一つの記録文学になるのではないだろうか。

 

参照:本書「エピローグ」より

エピローグ 

 一九七八年三月 『睦み』メンバーはほとんど全員が『全人愛和会』に再参画。『睦みの里』は解散した。(※「全人愛和会」は「ヤマギシズム実顕地」のこと)

(中略)

  その後の全人愛和会について特筆すべきことは多い。まずその発展の目覚ましさは、その種の共同体運動の中では画期的なものであった。

 その一つは一九八〇年ころからの養鶏等の産直路線の成功とそれによって各地に鶏舎建設をベースにした新たな生活体が急激に設立されていったことである。さらにもう一つはその後、「農体験合宿ツアー」に参加していた消費者グループの子どもらの増大がヒントになり「学園」が構想されていった。全人愛和会メンバー子弟の従来からの生活の場であった「学育」に外から子どもを受け入れたのである。それによって親の参画者も急激に増えてきた。それは結果的に人手不足による長時間労働の改善にもつながってきた。

 それとともに全人愛和会の生活の変貌は、古いメンバーにとっては、まさに夢の暮らしだった。大理石づくりの浴場、普通の家庭料理の水準を越えた食事、こざっぱりした新調の衣服、そして月々なにがしかの小遣い、季節ごとの親睦行事。おまけに診療所や養老施設までできていた。まさに自称するように「ゆりかご前から墓場の後まで」の施設環境まで整備されつつあった。 清貧が旨となっていた理想運動体が、こういう物質的繁栄まで到達できるなどというのはおよそ信じがたいことであった。

  それが可能になってきたのは、直接共同体理念自体への希求があったわけではない。時流にかなった自然食品や教育への敏速な対応からだった。それはそれで経営的には見事なものだったとも思うが、そこに慎ちゃんのいう「なーに理念に負けたんやない、ゼンコに負けたんや」という指摘が一面当たっていないとも言えない。

(中略)

 多くのメンバーにとって全く無自覚であったろうが、そのように全人愛和会の挫折は意外にも早かったのである。学園世話係の暴力事件や参画者の離脱時における財産返還問題を機に外部に反対派も生まれ、マスコミの批判も厳しくなっていった。上層部はその事実をひた隠しに隠し続けたが、一般メンバーはテレビを通じてその事実を知ることになる。その流れの大きな帰結が二〇〇〇前後の全人愛和会メンバーの急激な離脱だった。丈雄夫妻もいち早くそこを離脱する。離脱の始まりはなんらかの内部的な持続運動の帰結というより、個々人の「このままではここには居れない」の直観から始まった〝相互無告〟の行動だった。後には組織的に大がかりな行動に転化し、かなりのメンバーが「全人愛和」の〝壁〟を越えることになる。

 このような過程が示すものは、当然全人愛和会の組織構造の問題だった。これまで「大きな家族」の総親和的イメージの背後に、そこではいつしかごく一握りの指導部による序列化とトップダウンの体制が確立していたのである。丈雄がかつて感銘した「見出そう」「引き出そう」「合わせよう」のメンバーの相互関係がいつしかくずれ、体制に「沿う」「合わせる」が取り組みの主たるテーマになっていった。いつしか上部批判は影を潜め、互いに遠慮なく議論を交わした仲間の姿は消え、残るのは自問自答の息苦しさだけだったと言ってもいい。もはや「ブラブラ」は存在を許されなくなっていた。

したがって〝相互無告〟は必然だったのである。いわば「沿う」「合わせる」だけの世界は、自分の過ちの発見とそれへの自己批判だけが主たる理念上の取り組みとなるしかなかった。丈雄はそれを「取り組みの 内面化による無意識的自己抑制と自他隔離」と密かに規定していた。 

 

◎吉田光男『わくらばの記』(16)

わくらばの記 ごまめの戯言⑧

 〈12月×日〉

「世界一貧乏な大統領」として有名なウルグァイの前大統領ホセ・ムヒカ氏は、来日した際、自ら希望して学生を対象とする講演を行った。その講演で、氏はこう語った。

「みなさんは物を買うとき、それをお金で買っていると思うでしょうが、実はお金を稼ぐために費やした時間で買っているのです。ここを勘違いしてはいけない。人生の時間を大切にしてほしいものです」

 やたらと消費を煽る今の風潮の中で、この発言には意味深いものがある。政府も財界も、マスコミも世論も、GDPの6割以上を占める消費こそが経済成長の根幹であり、消費を伸ばしてこそ豊かになれるのだと主張している。ここには、消費が人のためにあるのではなく、消費のために人が存在しているかのような倒錯がある。テレビをつければ食べる話や観光の案内ばかり。お笑いタレントから女子アナまで、大口を開けてご馳走をほおばり、中には早食い競争で死ぬ人間まで出てくる。アフリカや中近東ばかりでなく、この日本の足元にもその日の食事に事欠く人たちがいるというのに、全く恥ずかしい話だ。

 ムヒカさんの話を聞いて、最初に思い浮かべたのは、ミヒャエル・エンデの『モモ』の物語である。ここに登場する時間泥棒の灰色人間は、便利・スピード・物的豊かさと引き換えに、人々の生活から時間を奪っていく。物があふれ、何事も早く便利になるにつれて、人はますます時間に追われて忙しくなり、心はぎすぎすして他を顧みることがなくなり、孤独になっていく。これはまさに今の消費社会そのものではないか。

 真の豊かさというのは、心の豊かさを意味し、心の豊かさの続く人生を豊かな人生、幸福な人生というのであれば、現代はそれに逆行している。物を持てば持つほど不足感が増し、食べれば食べるほどもっと美味しいものを食べたくなり、今以上の情報を得るためにスマホを片時も手放すことができない。こうしてどっと観光地に押しかけ、化粧にうつつを抜かし、ポケモンGOのモンスター集めに押しかける。これのどこが豊かなのだろうか。こうした消費を煽りながら、政府はさらにIR法案とかいう総合リゾート施設と称する賭場を作ろうとしている。博打の場貸しが儲かることは昔からの常識であり、それが射幸心を煽るということで長らく禁止されてきた(実際はパチンコや競馬等の博打は公認されているが)。非公認のギャンブルに手を出したスポーツ選手は、オリンピック出場から締め出されたが、今度は国家がそれを公認するというのだ。

 話が横道にそれた。私がテーマにしたいのは、ムヒカさんの言う時間の問題であり、時間とはいったい何かということである。この問題は、昔から哲学者や物理学者がテーマにしてきたことで、難しいことはわからないが、私は単純に時間は二種類あると考えている。一つは、地球の自転と公転によって刻まれる時々刻々の変化を表したもので、カレンダーや時計によって表現できる。もう一つは、人の心を流れる時間で、この方は時計では測ることができない。たとえば、叱られたときや失敗したときなどに、僅か数分がものすごく長く感じられたり、楽しい1時間が一瞬の出来事のように感じられたりする、そうした心の時間である。一方は、外的・物理的時間と言えるのに対して、もう一方は内的・心的時間ということができるだろう。人間はこの二つの時間の中に生きている。もう一つ付け加えれば、空間にも外的・物理空間と内的・心理空間があり、人間はこの二つの時空の中を生きているのであるが、今は主に時間について考えてみたい。

 と、ここまで書いてきて、その先がさっぱり書けなくなった。というのも、私は別に哲学的な時間論を展開するつもりはないし、第一私の貧弱な知識でそんな大それたことができる筈がない。もっと身の丈に合った形で時間について考えてみたいのだ。要するに、幸福とは心を流れる時間が充実している状態を指すのではないか、ということである。では、充実した時間とはどのようなものなのだろうか。

 

〈12月×日〉

 エンデの『モモ』に、こういう話が出てくる。ある日、モモが住家にしている廃墟の石段に、等身大のきれいな人形が置かれている。誰が忘れたんだろうとモモが触ってみると、人形が「こんにちは。あたしはビビガール、完全無欠なお人形です」と喋り出す。モモはぎょっとしてとびすさり、思わず「こんにちは。あたしはモモよ」と答える。するとまた人形は「あたしはあなたのものよ。あたしを持っていると、みんながあなたをうらやましがるわ」と言い、「あたし、もっといろいろなものがほしいわ」と続けるのである。

 実は、この人形は灰色人間がモモを誘惑するために置いたもので、モモから時間を奪い取るために仕掛けた罠であった。この人形と遊ぼうとモモはいろいろ試みるが、いつも同じ言葉を同じ順序でしか喋らないビビガールに、モモはどうしていいかわからなくなる。

「しばらくすると、モモはいままでにいちども感じたことのなかったような気持ちにとらわれました。生まれてはじめての気持ちだったもので、それがたいくつさだとわかるまでには、だいぶ時間がかかりました」

 いつものモモだったら、人形と会話しながら、自分の中にたくさんの物語を作り、その豊かな世界に遊ぶことができたはずである。しかし、なまじ人形が喋り、次々と着せ替えや持ち物を要求するために、想像力の働く余地を奪われてしまったのだ。しかしモモは、灰色人間の誘惑に負けなかった。かれらの取り出したたくさんの着せ替えや持ち物を受け取らず、心の世界を守ることができた。

 この本が日本で翻訳されて40年になるが、私たちの暮らし振りはどうなっているだろうか。みんなますます忙しくなり、心がギスギスして落ち着かなくなり、その暮らしは40年前よりもっとひどくなっているのではないだろうか。何事も早く、大量に、便利に、と求められ、スマホが手放せなくなり、SNSなどのアプリを見ていないと不安になる強迫神経症に陥る人が、大人から子どもまで増加している。また聖地巡礼などと言って、人と同じことをすることで僅かに心の安らぎを得るが、人ごみの中にいても孤独に苛まれることから逃れることができない。これはどうしたことなのだろう。

 私は、便利であることを否定したいわけではない。ただ、便利さによって何か大事なものが失われている現実があるのではないか、と思うのだ。もしかしたら、これは現代の灰色人間の仕掛けた罠かもしれない。そしてこの罠があまりにも巧妙に仕掛けられているために、私たちは知らず知らずのうちにそれが罠だとも不自然だとも思わなくなってしまっている。こうして私たちの心から考える力が失われ、現象に振り回される生き方しかできなくなってきているのではないか。

 

〈11月×日〉

 灰谷健次郎氏の編んだ子どもの詩集『せんせいけらいになれ』に、「チューインガム一つ」という詩が載っている。小学3年生の村井安子さんの作品だ。

    せんせい おこらんとって

    せんせい おこらんとってね

    わたし ものすごくわるいことした

    

    わたし おみせやさんの

    チューインガムとってん

    一年生の子とふたりで

    チューインガムとってしもてん

    すぐ みつかってしもた

    きっと かみさんが

    おばさんにしらせたんや

    わたし ものもいわれへん

    からだが おもちゃみたいに

    カタカタふるえるねん

    わたしが一年生の子に

    「とり」いうてん

    一年生の子が

    「あんたもとり」いうたけど

    わたしはみつかったらいややから

    いややいうた

 

    一年生の子がとった

 

    でも わたしがわるい

    その子の百ばいも千ばいもわるい

    わるい

    わるい

    わるい

    わたしがわるい 

    おかあちゃんに

    みつからへんとおもとったのに

    やっぱり すぐ みつかった

    あんなにこわいおかあちゃんのかお

    見たことない

    あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見たことない

    しぬくらいたたかれて

    「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」

    おかあちゃんはなきながら

    そないうねん

 

    わたし ひとりで出ていってん

    いつもいくこうえんにいったら

    よその国へいったみたいな気がしたよ せんせい

    どこかへ いってしまお とおもた

    でも なんぼあるいても

    どこへもいくとこあらへん

    なんぼ かんがえても

    あしばっかりふるえて

    なんにも かんがえられへん

    おそうに うちへかえって

    さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん

    けど おかあちゃんは

    わたしのかお見て ないてばかりいる

    わたしは どうして

    あんなわるいことしてんやろ

    もう二日もたっているのに 

    おかあちゃんは

    まだ さみしそうにないている

    せんせい どないしよう 

 

 この詩は、灰谷さんがまだ教師であった頃の教え子たちの作品の一つで、30年ほど前の初版本で読んだ。そこにはこの詩が誕生するまでの過程が語られていた。おぼろげな記憶をたどると、そこにはこのように書かれていたように思う。本はもう手元にはないので、近くの図書館で灰谷さんの全集から詩を写しとったが、そこには作品誕生のいきさつは書かれていなかった。記憶違いがあるかもしれないが、大筋は違っていないと思う。

「安子ちゃんは母親と一緒に来て、経過を話した後、もう悪いことはしません、と話していた。公式的な謝罪で、これでは子どもの心は変わらないのではないかと思い、残って作文を書いてもらうことにした。最初のうちは表面的な謝罪の言葉だけだった。私は『本当のことを書こうね』とそれだけを言って黙って待っていた。何時間かして、涙ながらに書き上げた詩がこれだ」

 私が初めてこの詩を読んだとき、子どもの心の深さに思わず涙がにじみ出て仕方がなかった。安子ちゃんはどれほど苦しかったろう、悲しかったろう、辛かったろう、だけど自分の心の底をしっかりと見据えることができて、本当によかったね、と言いたくなった。この苦しみの時間、悲しみの時間は、決して時計で測ることのできる時間ではない。なぜならそれは心を流れる時間であり、また心の空間に広がる心象の世界でもあるからだ。「いつもいくこうえんにいったら よその国へいったみたいな気がしたよ」。本当にそうだったろうな、と思う。

 盗みが悪いことは、誰でも知っている。盗んだ本人だってよく知っている。それを「悪いことをしました。もう致しません」と反省の言葉を並べるだけでは何も変わらない。本人が自分の心の底を見つめ、そこに自分の本当の姿を見い出す以外に変わるきっかけはつかめない。

 今回、この詩をもう一度読み直してみて、安子ちゃんが変わるためには、そこに灰谷健次郎という若い教師の存在が不可欠であったことを強く感じた。「本当のことを書こうね」という一言以外に何もしゃべらず、じっと待ち続けられる教師の存在なしに、この詩は絶対に生まれることはなかったはずである。とすれば、この詩は、灰谷さんと安子ちゃんの二人の心の時間が織りなした共同の風景であり、共同の作品だということができる。

 これを書きながら、もう一つの作品についても思い当たることが出てきたが、それは明日考えることにする。

 

〈12月×日〉

「チューインガム一つ」の詩を書き写しながら思い出したのは、大道寺将司氏の句集である。句集は、4年前の2012年に『棺一基』の書名で出版された。そこにこういう句が載っていた。    

    先行きのあてどは読めず蜷の道 

 2000年問題以来、自分の先行きもヤマギシの先行きも見えない状態の中で、この句には私の心を捉えるものがあった。さっそく買ってきて読み出した。

 大道寺将司氏は、「東アジア反日武装戦線‟狼”」のメンバーとして、1974年、丸の内の三菱重工業爆破で8名の死者と百数十名の負傷者を出して逮捕され、死刑判決を受けた。実は、大道寺氏たちには、三菱重工爆破の直前にそれよりはるかに重大な計画があった。それは天皇のお召列車を荒川橋上で爆破する計画であった。「日本による侵略と植民地支配の加害責任を、戦後の今も天皇は果たしていない」との論理で、この〈虹作戦〉と名づけられた計画が立てられ、実施寸前までいく。1974年8月13日未明、大道寺たちは導火線方式の爆弾用電線9巻900メートルを現場に敷設し終える。そして最後の爆弾を接続する段階で、複数の「正体不明者」に見られていることがわかり作戦を中止するのだが、もしこの作戦が実行されていたならば、戦後の歴史に大きな変化をもたらしたことだろう。

 逮捕・死刑判決後、その時の状況を思い浮かべながら詠んだ句が、次のものである。

    大逆の鉄橋上や梅雨に入る

    時として思ひの滾る寒茜

 子ども時代の大道寺氏は、正義感にあふれる心優しい少年であったという。その心優しい正義感が一つのイデオロギーと結びつくとき、それはテロルへと一直線に走り出してしまい、一般庶民多数の死傷者を出す惨事を引き起こしてしまった。そして死刑判決を受け、東京拘置所に拘置されるに及んで、自分の為したことを振り返り、心の風景を見つめる果てしない苦しみの時間を持つこととなった。こうして氏は、俳句の中に自分の今の姿を映し出し、それをさらに見つめ直す作業の中に今を生きている。    

    還らざる人の影立つ年の夜

    枯野ゆく胸にひとつの灯を点し

    なほ残る未練の嵩や帰る雁

    病み伏して他の痛み知る浅き春

    悪行も善根もまた蜷の道

    消え失せて漸う気づく花野かな 

 2011年の東日本大震災の報道を知ってから、次のような句も詠んだ。

    加害者となる被曝地の凍て返る

    原発に追はるる民や木下闇    

    暗闇の陰翳刻む初蛍

    初蛍異界の闇を深くせり 

 自分の死を見つめつづけて詠んだ句が、本の題名にもなった次の句であった。

    棺一基四顧茫々と霞みけり

  人は生きていく過程でさまざまな過ちや失敗を侵し、幾多の悲しみも経験する。決して成功と喜びだけではない。大事なことはそれをどう受け止めるかにかかっているように思う。決して急ぐことはないのだ。じっくりゆっくりそれを受け止め、心の底まで落とし込むときに、そこから自分の本来の姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。その本来の姿こそ、幸福と言えるのではないかと思われる。今の私にはまだその姿が垣間見えるにすぎないが、そこを目指して残りの人生を過ごしたいと思っている。

 大道寺氏は、今(多分今も)多発性骨髄腫というがんに侵され、苦しみながら東京拘置所に生きている。外界との接触は許されていない。句にうたわれた蛍も風景も、実際に目にしたものではない。にもかかわらず、そこに浮かび上がる景色は現実以上に生き生きとしている。私の目にするものと彼の心象に去来するものとの違いに圧倒される。

 

〈12月×日〉

 エンデの『モモ』は、私の好きなファンタジーの一つだが、後半の物語には不満が残る。それは、モモがみんなの奪われた時間を取り戻すために、時間の国へ出かけ遂にそれに成功するからである。奪われた時間が心の時間であるとすれば、それは誰かが取り戻してあげることなどできない。一人ひとりが自ら取り戻す以外にないからである。モモができることといえば、心の時間を取り戻そうとする一人ひとりに寄り添い、その手助けをすることだけだ。もし、話がそのように展開していたならば、物語はもっと面白くなったのではないか、と勝手に想像している。

 ただ、物語の後半で面白い話が二つほど出てくる。灰色人間に追われるモモがある地区の通りに入ると、そこは急げば急ぐほど先へ進むことができなくなる通りで、車で追跡する灰色人間たちはモモに追いつけなくなる。また少し先に進むと〈さかさま小路〉というところに出る。そこは後ろ向きに歩かないと先へ進めない通りなのだ。このあたりはエンデが、急ぎすぎる現代を風刺して書いたのだろう。

 いま『モモ』を読み返してみて、大切に感ずることが一つある。浮浪児で勝手に廃墟に住み着いたモモが、どうして近隣の人たちと仲良くなったか、という話である。

「小さなモモにできたこと、それはほかでもありません。あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって」

「でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は。めったにいないものです」

 モモに話を聞いてもらっていると、急にまともな考えが浮かんできたり、迷いが晴れて自分の意思がはっきりしてきたりする。自分が一人で喋っているにもかかわらず、モモと二人でよく話し合ったと思えるのだった。

 こういう話の聞き方ってできるだろうか、と考えてみる。黙っているけど聞いている。聞きながら一緒に考えている。話が深い水底に吸い込まれていく。けれども温かく受け止められている。そこには拒否するものも否定するものもない。そんな聞き方。

 特講の時の自分の聞き方を振り返ってみる。「なんで腹が立つのか」と聞く。聞いて、こちらからは何も言わない。けれども、本当に聞いていただろうか。参加者の悩みを、迷いを、怒りを。形として聞く姿勢をとっていただけではないだろうか。あるいは、ただ跳ね返していただけではなかったか。テーマを出すだけで、一緒に考えてきたとはとうてい思えない。要するに参加者の一段上に立っていたのだ。これを「聞く」とは言わない。

 そんなことを考えているとき、急に、そうだ河合隼雄を読んでみようと思い立った。さっそく『心の最終講義』と『河合隼雄自伝』の二冊と最相葉月の『セラピスト』を注文した。

 

〈12月×日〉

 耳が聞こえずらくなって10年以上になる。最初は相手の声が小さい、話し方が悪いなどと考えていたが、他の人がちゃんと聞こえているのを見ると、問題が自分の方にあるとはっきりする。年々聞こえずらくなってきて、最近ではそれが日を追って進行してきている。やがて、まったく聞こえなくなる日が来るかもしれない。そうなったとき、人の話をどう聞いたらいいのだろうか。今年の8月6日、広島の原爆慰霊祭の日に、新聞のコラムにこんな話が載っていたのを思い出す。

 ヘレンケラーが来日して広島の原爆資料館を訪れたとき、目が見えず、耳が聞こえず、口がきけないヘレンのために、一人の原爆被災者がケロイドに被われた自分の顔をそっと差し出したというのである。ヘレンはその人の顔を静かになぞることで、原爆が人間にとって何であるかを一瞬にして理解したというのだ。そのことを謳った詩(であったか短歌であったか)が紹介されていたが、うかつにも切り抜くことを怠ったために忘れてしまった。

 河合隼雄さんの講演録『こころの最終講義』には、面白い話が幾つも出てくる。一つは、長新太の絵本『ブタヤマさんたらブタヤマさん』の話である。ブタヤマさんは蝶を追いかけるのに夢中で、後ろからどんな怪物が出てきても、前の蝶だけを見て追い続けている。絵本には、次から次へとさまざまな怪物が登場する。しかし、ブタヤマさんは蝶しか見ない。そして最後に「何、どうしたの、何か御用」と後ろを振り返るのだが、その時は既にそこには何もいない。河合さんは、そこが大事なところだという。つまり、一つを追いかけるのに夢中だったり、何かに固執して他を顧みようとしない態度でいると、周囲の気配を感じ取る能力を失い、大事なシグナルを見落としてしまう。心理学や臨床心理学をやるものが最も心すべきことだ、と河合さんは言う。これは、特講や研学を進めるものも、同じように心すべきことではないだろうか。

「聞く」ことが本当にできたなら、『モモ』で描かれたように人は変わりうるものなのだろうか。私には精神病理のことはよくわからないが、たいていの人には問題解決の能力が備わっているのではないか、と思う。そしてそれは、自らが問題を発見し、自らが解決の糸口を発見することによってのみ解決する。聞き手は、その人が自らの心の中を旅して、糸口を発見するのをじっと見守ることができる人でなければならないだろう。答え(らしきもの)を言ったり、助言や指示を与えることは、その人の自発性を奪うことになる。しかし、この「聞き」「見守る」ということは、とても難しい。聞き手の絶えざる自己変革なしにできることではない。特講や研学の世話係に要請されるのは、このことだ。子どもの世話係は特にそうだ。だから、子ども自らが学び育つ意味の「学育」という言葉が用いられてきたのであるが、実態は大きくずれてしまった。聞けない人間に学育の係はできない。

 しかし、自分に立ち返ると、耳が聞こえなくなり、記憶力が衰え、眼にも霞がかかってくると、どうしたら人の話が聞けるだろうかと考えてしまう。その上、周囲の気配や言葉ならざる言葉、沈黙の言葉にも心するとなると、もう能力をはるかに超えてしまう。

 

〈12月×日〉

 会話は言葉と言葉のやり取りで成り立つ。しかし、日常の自分の会話を振り返ってみると、自分の思っていることの半分も喋っていない。せいぜい2割から3割ぐらいだ。それでいて、腹ふくるる思いがするわけではない。恐らく他の人もそうなのではないだろうか。話したくないこともあるだろうし、必要を認めないこともあるだろう。話したいけど話せないこともある。あるいは、もやもやしてまとまらない話もある。心の氷山は深く海中に沈み、水面に出たほんの表面でのみ会話を成り立たせているのかもしれない。本当に人の話を聞くのは難しいし、自分の本当の思いを人に伝えるのも難しい。空振りに終わることがほとんどだ。山岸さんが死の直前に「みんな誤解や」と言ったのは、真意の伝わらない嘆きが思わずほとばしり出たものであろう。しかし、その後私たちは、真意をきちんと聞き直しているかどうか。

 河合さんは、創造的市民大学というところで「アイデンティティの深化」と題する講演を行い、そこでこう語っている。

「非常に大事なことばというものは、一言にしていえないということが多い……。一言でいえるようなことだったら、あまり大事だということにならない、すぐわかってしまう……」

 同じように、自分が本当に大事だと思っているようなことは、やすやすと人には言えない。言えないからこそ悩み、苦しんだりしている。それを聞き取るには、大変な人間力がいる。特講や研学の係には、そうした能力が求められている。ただ、特講や研学は研鑽方式をとっているため、受講者同士の意見のやり取りで自ずから深め合う可能性を持っている。係りはその進行を妨げないよう心掛けねばならないだろう。係りが一定の方向性や予断を持っている場合は、受講者の思考の深化を妨げ、浅いところでの理解に終わってしまうことになる。私には或る一人の女性についての苦い記憶がある。彼女は、特講の最後に「山岸は天国です」と言っていた。少し宗教じみているなと心配だったが、そのままで特講を終わらせてしまった。その後、彼女は参画したが、2000年問題の後、自殺してしまった。

 とにかく心の問題にはわからないことが多い。大脳学者は、心は意識であり、意識は大脳の働きであるから、大脳の科学的解明によってすべて明らかになる、と言ったりしている。「全脳論」などという本もある。

 しかし、自分の実感からすると、意識と心が全く同じとは思えないし、その上、河合さんがユング派の説を持ち出して、「アニマ=たましい」の重要性を語り、「アニマは『たましい』で、アニマ像はそのイメージ。たましいそのものをわれわれは知ることはできないけれど、それを何らかのイメージとして把握できる」と語ったりすると、ますますわからなくなってくる。

 脳、意識、心、魂、とさまざまな言葉で語られる心の問題は、私などにはよくはわからない。しかし、それが自分にとっても人にとっても、最も重要な問題であることは理解できる。あまり早わかりすることなく、これからもじっくり考えていきたいテーマだ。

 

〈12月×日〉

 いつ頃だったか、「自分らしく」とか「その人らしく」という言葉が頻繁に使われた時代があった。それまでの村の暮らしが「自分らしさ」「その人らしさ」を奪っていたのではないか、というニュアンスを含んでいたように思う。だから「自由」のテーマと共に、この言葉が流行したのであろう。しかしその当時、この言葉に私はもう一つ同調できなかった。というのは、それを唱えている人を見ていて、自分の我を主張しているようにしか見えなかったからである。ええっ、それが「自分らしく」ってことかい? という疑問である。我執丸出しの生き方が「その人らしい」生き方なら、そんなもの一般世間にいくらでもいるじゃないか、と思った。

 いつの間にか「らしさ」を強調する人もいなくなって、すっかり忘れていたが、心の問題を考えるようになって、やはりこれは大事なテーマだなと改めて思うようになった。

 近年はやりの「アイデンティティ」というのは、要するに「自分が自分であること」の確認ということであろうが、これは簡単なようで簡単ではない。私たちは、自分以外のさまざまな飾り物を身にまとって、それがあたかも自分であるかのように錯覚しながら生きている。宇宙論で、いまわかっている宇宙の質量は、全体の僅か4パーセントほどで、残りの96パーセントの物質とエネルギーの実体はわからず、それを「暗黒物質」とか「ブラックエネルギー」と名づけているという。それと同じように、自分という宇宙についても、わからない部分、自覚できていない部分が大半を占めているのではないだろうか。だから、「自分らしく」生きようとすれば、まず自分を知ることから始めなければならない。我執だらけの自分をそれが自分だと押し出していたら、世の中から争いはなくならない。「自分らしく」生きるためには、自分という宇宙を自分で開発する以外にないように思う。そうすることによって、自分に付着しているさまざまな自分以外のものや飾り物をはぎとっていくことではないだろうか。「チューインガム一つ」の村井安子ちゃんのように、「棺一基」の大道寺将司氏のように。

『河合隼雄自伝』に興味深い話が出ている。それは影について語った次の言葉である。

「影というのは、簡単に言えば『その人の生きてこなかった半面』と言えます。私の生きてこなかった半面です」

 人は、自分の生きてこなかった半面と共に生きている、ということなのか。よくはわからないけれども、どこか響くものがある。そういえば村上春樹さんの小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』には、影を失う世界が描かれている。それは、もしかしたらオウムのような〈陽の当たる場所〉なのかもしれないし、またもしかしたら、ヤマギシのような‟幸福一色”の世界なのかもしれない。今回、アンデルセン文学賞受賞のためデンマークを訪れた村上さんは、受賞講演でこう語っている。

「小説を書いていると、暗いトンネルの中で、思ってもみなかった自分の姿、つまり影と出会う。逃げずにその影を描かなければいけない。自分自身の一部として受け入れなければいけないのです。……あらゆる社会や国家にも影がある。私たちは時に、目をそむけようとします」

 しかし「自らの影、負の部分と共に生きていく道を、辛抱強く探っていかなければいけない」と結んでいる。(11月21・22日、朝日新聞より) 

 私たちは幸福一色の世界を目指しながらも、その過程で起こったさまざまな事象について、その影の部分、目をそむけたくなる事象についても、しっかりと受け止めていかなければならないということなのだろう。自分自身についても当然そうしなければならないのだ、と思う。 

◎吉田光男『わくらばの記』(15)

わくらばの記 ごまめの戯言⑦        

〈11月×日〉

 11月度の村人テーマは、「『研鑽会にしていく』とは?」である。テーマ解説には、さまざまな事例が紹介されており、例えばメニュー板の表示の仕方や風呂の蓋を開けておくのか閉めておくのかといったことが、話題になったと書かれている。前には、シャンプーをどこの製品にするかとか、味付けの濃い薄いといったことも話題になったらしい。しかし、こうした話題のどこがテーマで、何が研鑽されたのかは書かれていない。

 大体、味などというものは、人によって、またその日の天候や体調によっても好みに違いが出るもので、これが絶対に正しい味付けだなどというものはない。しかし、愛和館で大勢の食事作りをする以上、どこかに一致点を求めるのは当然であろう。だから、食生活の人は利用者の声に絶えず気を配るのは当りまえだし、利用者の方も自分の好みと全体との調和を考えていく必要があるだろう。

 しかし、これは話題であって研鑽テーマとは言えない。「メニューどおりに作っているのに、不平を言うとは何か」という一部の食生活の人の心にあるもの、あるいは「今の食生活はまるでセンスがない」と一方的に決めつけている利用者、あるいはまた毎回食材を持ち帰っている愛和館離れの人たち、こういう人たちがお互いに話し合わず、話し合おうともしない心の内にあるものこそテーマであり、それをぜひ研鑽してほしい。そしてそうしたものを出し合う機会がどうしたら作れるかを研鑽していってほしい。

 とにかく今の研鑽会は、現象面や事柄の話ばかりで、その元の心の面は少しも研鑽されていないように感じられる。村人テーマの「研鑽会にしていく」は「研鑽会を研鑽にしていく」と変えた方がいいのではないだろうか。

 

〈11月×日〉

 ブラジルから養鶏法に参加した人が、ひどく嘆いていたという話を人づてに聞いた。嘆きというのは、「若者たちが、時によっては係りまでもが、研鑽中にスマホでゲームをしている」というのである。「こんなことで研鑽になるのか」と言っていたそうだ。

 この話を朝の出発研で出したら、Yさんが「実顕地づくり研でも若者たちは壁際に寝そべってスマホをやっている」と言い、「それでもちゃんと話を聞いているそうですよ」と言った。そこで私は「ちゃんと聞いているかどうか、どうしてわかるの?」と聞き返した。答えはあやふやなものでしかなかった。

 最近はスマホをやりながら車を運転して、事故を起こすケースが続出している。死傷事故も多い。「ながら運転」ではきちんと運転できないからだ。では「ながら研鑽」できちんと研鑽できるのだろうか。

 最近一人の若者に会う機会があり、そのことを聞いてみた。彼は次のような話をしていた。

「学園時代の研鑽と言えば、正座させられて一方的に押し付けられる嫌な経験しかしてこなかった。それでみんな研鑽会嫌いになっている。みんなに勧められて出てはいるけれども、周囲もそれを知っているので研鑽会の雰囲気に触れるだけでもいいと考えて、スマホもゲームも放任しているようだ」

 学園時代の傷跡が今なお深いことを思い知らされた。しかし、スマホをやりながらの参加で、研鑽会が好きになるなどということが考えられるだろうか。そんな状態で行われる研鑽会自体が、ますます研鑽のない、フワフワと浮き上がった集まりになっていくのではないか。そんな参加よりも、別室でゲーム大会でも開く方がよっぽどいい。そして、一度「なぜ研鑽会が嫌いになったのか」を徹底的に出し合う話し合いの場をもったらどうだろうか。心の内にあるものを出し切らない限り、次に進むことはできない。

 

〈11月×日〉

 呉智英氏の『吉本隆明という「共同幻想」』を、題名に惹かれて読んだ。面白かった。呉氏は、まず吉本さんの「マチウ書試論」を取り上げ、新約の「マタイ伝」をなぜフランス語の「マチウ」にしなければならないのか、また「イエス」を「ジェジュ」とフランス語読みにする意図がわからない、と批判し、また「関係の絶対性」といったキーワードも、「人間関係、社会関係全体が、人間の行動を決める」と言えばいいところを、わざわざ難しい特殊概念を持ち出しているだけではないか、と批判している。そしてこの難しさが、当時の青年・学生の信仰を呼びおこし、吉本隆明という共同幻想を招いた、と書いている。

 私が吉本さんを最初に知ったのは、竹井昭男氏との共著『前世代の詩人たち』である。坪井繁治をはじめとする戦時下の詩を取り上げ、こっぴどく批判したもので、鶴見さんの転向共同研究と相まってその後の転向論のきっかけとなった作品である。へー、すごい思想家が出てきたものだ、と圧倒される感じを抱いた。

 その後何年かして、吉本さんの『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『思想の自律的拠点』等が出版され、一応目を通したが、私の悪い頭ではとうてい理解することができなかった。理解はできないけれども、何かすごそうだという印象だけは残った。この印象は今なお消えずに残っている。しかし、最近になってこうした印象にもとづく肯定や否定の考え方は、おかしいのではないかと思うようになった。つまり、吉本さんの思想を肯定するのではなく、共同幻想による吉本信仰になっていたのではないか、ということである。

 これが呉氏の本を買った動機である。ただ私は、呉氏の言うように、吉本さんを批判したいとは思わない。吉本さんの著作を読み直してもいないし、理解もしていないからである。死後、あれだけ多くの言論人が「戦後最大の思想家」と評価する吉本氏を、人の尻馬に乗って批判したり肯定したりするのは失礼な話である。それよりも、自分たちが知らぬ間に行っている別の形の「共同幻想にもとづく信仰」について考えてみたい。

 

〈11月×日〉 

 参画間もなくのこと、ある人から「吉本さんをヤマギシに呼ぼうと思っている」という話を聞いた。私が「吉本さんと話せるような人がヤマギシにいるのか」と聞くと、「一人だけいる」とのことであった。後でわかったことであるけれど、それがSさんであった。すごい人がいるのだなあ、と思った。なにしろ、当時の私は吉本隆明と言えば日本を代表する思想界のトップランナーと思っていたのだ。

 その後話がどうなったのかは知らないけれど、ヤマギシにはすごい人がいる、という印象だけは消えなかった。そして研鑽会などでSさんと一緒になる機会もあり、「なるほどそうか」と感心することが少なくなかった。同席者もみな、「なるほど、なるほど」と頷くばかり。そのうち「Sさんがこう言った」という発言を、その真意や中身を検討するのではなく、それを正しさの基準として物事を判断する風潮が出来上がった。そればかりでなく、Sさんを取り巻く指導部門の人たちまでも、すごい人というヴェールを纏うことになっていった。こうして権威のピラミッドが出来上がってしまった。しかし、この権威のピラミッドを支えていたのは、私たち村人自身である。

 私が「ヤマギシにおける共同幻想」と思うのは以上のようなことである。これは、ヤマギシズムが否定する宗教形態であり、信仰形態にほかならない。信仰による権威が成立すると、極端な論理で全体を動かすこともできる。それが研究・検討・研鑽をことごとく排除してしまうからである。学園の失敗などは、この信仰による権威なしには考えられない。

 ではなぜ共同幻想が成立するのか。自分自身を振り返れば、ずっと人の思想に寄りかかって考えてきたように思う。自分の頭で考えることをなおざりにしてきた。吉本さんの言う〈自立の思想的拠点〉をないがしろにしてきたのである。だからヤマギシズムにしても、山岸さんが何を言っているかはあまり考えようとせず、いま村で言われていることを正しいとして信ずれば足りる、と無意識のうちに考えていた。例えば山岸さんは、青本の中の「自己弁明」のところでこういうことを書いているのに、それを一向に理解しようとはしていなかった。

「……これを以て最上決定的なものと思い込まずに、又貴方の今持って居られるものと、一致しないから駄目ともしないで、相対者と、条理とを、切り離して考察される事が大切で、人物を通さずに、盲信しないで、厳正な批判の眼で検討し、容赦なく叱正され度いです」

 これほど懇切丁寧に語っているにもかかわらず、しかもそこを何回も読んでいるにもかかわらず、なんでこれをきちんと受け止めることができなかったのだろうか。AさんだろうとBさんだろうと、相手がどんなに偉いとされる人物であろうと、相手とその言うこととを切り離して検討し、「人物を通さずに」「盲信しないで」検討・研鑽することがなんでできなかったのだろうか。

 

〈11月×日〉

 人間は権威に弱い。自分がどこか頼りない、弱い人間であることを意識している。しかし、多くの人はそれを認めたくないと無意識のうちに思っている。だから、何かの権威を借りて自分を大きく、あるいは強く見せようとする。虎の威を借る狐である。ここに権威の成立する大衆的基盤があるように思う。そしてこれはそのまま権力が発生する原因にもなる。アンナ・ハーレントがアイヒマン裁判に触れて、アイヒマンを〈巨大な悪〉ではなく〈凡庸な悪〉と言った時、彼女はアイヒマンやそれを認めた当時のドイツ人ばかりでなく、権力にすり寄った一部ユダヤ人さえもその中に含めていたのであろう。そのため、彼女はユダヤ社会から猛烈に非難されさえした。

 とにかく人間は弱い存在である。政治家であれば派閥やボスに頼り、学者であればその道の権威に頼り、サラリーマンは社内の権力者に身をすり寄せる。昔、マルクス主義を信奉していたころ、学者たちがマルクス・レーニン・スターリン・毛沢東やヨーロッパの著名な学者の引用で自分の文章を飾っているのを見て、学問とはこういうものなのかと思ってしまったことがある。批判的検討のための引用ではなく、自分の中身の無さを権威づけるための引用であった。こうした引用癖は、今なお自分の中に根深く残っている。

 村に参画して間もなく、ヤマギシにはすごい人がいる、ということをずいぶん聞かされた。そうかすごい人か、すごいというからにはとにかくすごいんだろう、と

 単純に、会う前から〈すごい〉を自分自身に刷り込んでしまった。そしてSさんばかりでなく、Sさんを取り巻く奥の院の人たちに対しても、次かその次にすごい人というレッテルを張って、自分もその列に加わろうとした。こうした権威主義の体系がどれほど真実の研鑽を妨げてきたかは計り知れない。

 確かに村には尊敬すべき人物はいる。Sさんはもちろん、古い参画者の中には尊敬に値するような人はいる。しかし、私たちにとって尊敬することと権威に服することとは違う。尊敬される人、信頼される人は、他より余計に自らを最も低い位置に立たせるよう努力する必要がある。これを怠ると、いつの間にか自分が高い位置に立つことが当たり前になってしまい、それに気づかずに道を誤ることになりかねない。

 人間は弱いものであり、頼りないものである。それを自覚したときに、人の前には二つの道が開けている。弱く頼りないものだからこそ強いもの、絶対的なものにすがって生きようとする道、ここから宗教・信仰、あるいは信仰的権威への依存が始まる。もう一つの道は、弱く頼りないものであることの自覚の上に、だからこそどんな権威にも頼らず、自分たちの不確かな知恵を持ち寄って研鑽し、より良くより正しからん方向を模索しながら歩むことである。ヤマギシはこの後者の道を歩もうとするものだ。だからこそ山岸さんは、〈自信のない生き方〉を大切にし、自らを〈優柔不断〉と言ったのだと思う。

 

〈11月×日〉

 昨日はひどい目にあった。夜食に豆腐と豆乳のインスタント鍋料理を買ってきて食べたところ、夜中の2時、3時まで吐き続けてしまった。最後の味つけに入れたスープが、韓国風の唐辛子味であることを知らなかったのである。スープが赤いので「もしかしたら」と思いながらも、もともと辛いものに目のない私は、病気になって禁じられているにもかかわらず、少しならよかろうと、二口、三口食べてしまったのだ。眠れないままに、ベッドで『史記』と宮沢賢治の童話を読んだ。

 賢治の童話は筑摩文庫版で全部読んではいる。が、読みながら、自分が賢治の童話をそのまま味わっていないことに気がついた。どうも今までは世間的評価を前提に作品を読み、世評に応じた序列を付けながらその作品群を読んでいたのだ。あまり、取り上げられない短い作品、例えば「蜘蛛となめくぢと狸」「めくらぶだうと虹」などは、改めて読むとすごく味わい深い。そうしてみると、賢治にかぎらず、小説にしても、評論にしても、そのものそれ自体を味わわずに、すべて世評やその他の外的評価に基づく先入観で読んでいたのではないか、と疑われてきた。

 共同幻想による権威への依存という現象も、こうした本の読み方と根は同じであるように思える。食べ物の味わい方から、人の話の聞き方まで、すべて共通しているのではないだろうか。といって、自分の感性を後生大事と守っているだけでは、それそのものの味を味わうことから遠ざかる。頑固人間になるだけだ。

 

〈11月×日〉

 井上ひさしの講演録を読むと、その一つに宮沢賢治のユートピアを語ったところがある(『この人から受け継ぐもの』)。まず井上さんは賢治の思想をこう要約している。

「これは賢治が羅須地人協会でしきりにいっていることですが、百姓はただ土を耕しているだけではだめであって、同時に芸術家でなければいけない。さらに同時に宗教家でも科学者でもなければいけない。一人の人間はその四つぐらいを兼ね備えないと人間として楽しく一生を送れないということを、手を替え、品を替えていっています」

 ちょうど第一次大戦の後、バリ島ブームが起こって、新たに発見された桃源郷として世界の注目を集め、賢治もずいぶん資料を集めていたらしい。当時のバリ島の人たちがどんな生活をしていたかを、井上さんは次のように語っている。

「バリ島の人たちというのは、まずヒンズー教徒であり、そして農民であり、同時に芸術家でもあります。バリ島では朝早く起きて村へ行きますと、きれいな田んぼでみんな働いています。ところが、それは十時ぐらいにはもうやめて、ごはんをゆっくり食べて、昼寝なんかして、ちょっと近所のお寺へ行く。それからお寺で闘鶏の賭事をやったりして、夕方五時ぐらいになりますとそれぞれの家へ引きあげて、今度は観光客が来ようと来まいと、いろいろ芸事に精をだします」

 昔、何で読んだのか覚えていないが、マルクスが未来の共産主義社会の住民の姿として「朝は農民として、昼は牧人として、そして夜は批判的批判者として」と書いていたように思う。どうも不正確であまり責任は負えないが、バリ島の話を読んで、この言葉を思い出した。また、水木しげるさんの漫画『総員玉砕せよ』にも、近代社会に毒されていないボルネオ原住民のユートピアが描かれている。

 宮沢賢治のユートピアは、こうした社会を岩手の花巻に作ろうとして、その理想の社会を〈イーハトーボ〉と名づけた(イーハトーボとはエスペラント語で岩手県のことらしい)。そのための母体が羅須地人協会なのだが、現実的にはあまりうまくはいかなかった。

 ここで井上さんは、ユートピアは実際には成り立たないだろうと言う。なぜなら、ユートピアというものは「結局、平等をめざすのですから、もしみなさんがそこの住民になったとしたら、即日けんかになってくると思います」「まず、着ているものは同じでなければいけない。人とちがったことをしてはいけない。そうじゃないユートピアもありうるかもしれませんが、しかし、あくまで平等をめざすということであれば、最初はそうなると思います」

 そこで井上さんは、そうした空間的・場所的なユートピアではなく、時間限定のユートピア、例えば芝居やコンサートで或る一定の時間だけみんなの心が溶け合い、終われば元の生活に戻るようなユートピアを提唱し、これを時間のユートピアと名づけている。

 確かに歴史上のユートピア運動を見れば、それが社会主義的なものであれ、無政府主義的なものであれ、あるいは宗教的なもの、協同組合的なものも含めて、すべて失敗に終わっている。それは、井上さんの言うように平等を目指すものであったからだと思われる。しかし、井上さんの言う〈平等〉は私たちの考える平等とは異なっている。それは均等であり、悪平等であって、真の平等とは違うのではないだろうか。次はそのへんを考えてみたい。

 

〈11月×日〉

 山岸さんは青本の中で、平等についてこう書いている。

「平等にしても、誰もが同じ大きさの家に住み、同じ衣服をまとい、同じ物を同じ量たべて、同じ作業をし、又は同一の考え方を押し付けたりするのは、悪平等で、誰もが、どんな家にでも棲み得て、身に合う衣服を着、胃の欲求に応じて食を摂り、心身が充分に休まる丈眠って、起き度い時に起きる等の自由が、平等に得られる事が、真の平等だとします」

 戦後の民主主義教育の中で、平等とは均等に分けることだ、という教えが広く浸透した。私たちの頭の中にもしっかりと根付いてしまった。もちろん井上さんの頭の中にも染みついてしまったことだろう。だから、井上さんが時空のユートピア、場としてのユートピアに反対する理由はわかる。しかし、そのままでは人類から永遠に争いは無くならない。戦争、公害、自然破壊はなくならない。では、どうするか。

 昭和28年、農業養鶏を契機に始まったヤマギシズム運動は、戦争・公害・自然破壊のない、自由と平等の新しい社会を目指す運動として展開されてきた。特講も、百万羽も、試験場も、実顕地も、すべてその目的に沿って設けられてきた。その後の、供給活動・楽園村運動・学園運動もすべてその目的のために行われてきたのである。では、その内実はどうであったか。

 現実は山岸さんの考えとは違って、真の平等とはほど遠い悪平等の世界を作ってきた。例えば学園では、朝は5時から一斉に農作業、着るもの、食べるもの、生活時間もほぼ同じで、読むものは漫画は禁じられて或る一定のものしか読むことができなかったという。しかもこれが、暴力をも含む或る種の強制力で行われてきた。そしてその実態を知らされていなかったとはいえ、学園は多くの村人たちの支えによって15年以上にもわたって運営されてきたのである。

 学園運動や楽園村運動については、もっと専門的に調べていく必要があるが、ここで考えたいのは私たちの間に今なお存在する誤った平等観についてである。平等とは、みんな同じにすること、均等に分けること、こうした横並びの思想はかなり根深く染みこんでいるのだはないだろうか。このへんを徹底的に研鑽しておかないと、井上さんの言う〈平等〉意識に再び足をすくわれることになりかねない。悪平等を平等と考えている間は、人類は戦争から抜け出すことはできず、破滅への道を歩み続けることになる。

 

〈11月×日〉

 今月の検査結果が出た。ある程度予想していたことではあるが、ガンマーカーの数値が上昇している。担当医からは、抗がん剤をまた使ったらどうかと提案された。しかし、抗がん剤使用後の不快感を思うと、自分としては使いたくないと思った。医師は「もちろん本人の意思が一番大事ですから、それは尊重さるべきものです。ただ、ご家族の考えも大事ですから、ぜひ皆さんで話し合って結論を出してほしい」と言う。自分一人で生きているわけのものではないから、いかにももっともな話である。さっそくひろみが段取りして、娘夫婦、息子夫婦と妻・私の6人の話し合いを持った。

 まず私から状況説明をしたあと、自分の死生観のようなものを話した。

「抗がん剤というのは、がん細胞ばかりでなく健全な細胞も攻撃するので、さまざまな副作用が出てくる。例えば白血球・ヘモグロビンの減少、食欲不振・吐き気・下痢など、こうした副作用で体力はかえって衰えるのではないかとも考えられる。抗がん剤を使って多少の長生きができたところで、それがただ生命現象を長引かせるだけのものであれば生きる意味がない。多少短くとも、最後まで充実した人生を送りたいと思っている」

 みんなの意見は、Yを除いて「それでも抗がん剤を使った方がいい。前の80グラムではなく、先生の言う50グラムに落として使ったらどうか。それでもしんどいのであれば、その時止めても遅くないのではないか」という意見であった。

 私は、もう一度立場を変えてみての意見を求めた。

「もし自分が80を過ぎてがんになり、余命旦夕に迫っている中で、多少の延命効果しか期待できない抗がん剤を、苦しさと不快感を押してまで使うだろうか」

 しばらく考えてもらったが、結果は変わらなかった。もし、自分が子どもの立場だったらどう思うかと考えてみたら、みんなと同じことを言ったかもしれない。よく「相手の立場に立って」などと言うが、そんなに簡単に相手の立場に立てるものでないことがよくわかった。結局、みんなの意見に従って、しばらく抗がん剤を使うことにした。

 このことを書きながら、ふと昔の増田さんとの別れを思い出した。増田さんとは老蘇・病身者特講を一緒にやったりして、結構深い付き合いをしていた。大田原から全国調正世話係研に来て、終わってからその病室を見舞った。末期がんの増田さんは、明らかにその最期が迫っていたが、大粒のブドウを一つ口に入れて「おいしい」と言ったのが印象的であった。別れの握手をしたとき、増田さんの眼から大粒の涙が一つだけ転げ落ちた。このとき、増田さんの心の中に何があったのかはわからない。が、この時の情景はいつまでも私の心に残っている。その日の夜、大田原の帰り着くと「増田さん逝去」のファクスが追いかけてきていた。

 

〈11月×日〉

 時々、自分の特講を思い出すことがある。昭和48年だから、もう43年も前のことになる。白い共産部落と言われた心境農産を訪ね、樫原神宮を詣でた後、春日山に行った。

 特講は20数人の参加者であったが、日大全共闘の闘士ややくざっぽい若者などもいて、なかなかにぎやかなものだった。最後の晩は、酒盛りで夜を明かすありさまで、どこまで研鑽できたのかわからない。私は、怒り研も割り切り研もさっぱりで、何ひとつわからぬうちに終わってしまった。しかし、終わったとき、霧が晴れたような、温かい太陽に包み込まれたような、かつて味わったことのない開放感に浸っていた。これは、本当に不思議な感覚だった。

 特講でもう一つ耳に焼きついたのは「なんで?」という問いかけである。いくら自分が答えを言っても「なんで?」の問いしか返ってこない。一晩徹夜でこの問いを問いつづけられると、もう「なんで?」が、相手からの問いなのか自分が発する問いなのかわからなくなって、自分の中にどっしりと居座ってしまった。

 今考えると、これは実に大きな宝物であった。永久にその姿を現すことのない宝物ということができる。ただ参画後は、その問いに答えを見い出すことに力を入れてしまった。そして、問いに答えを見い出したと思った瞬間に、宝物はガラクタに変じてしまった。永遠の問いが、ありきたりの、常識的な問いに変わってしまったのである。

「なんで?」の問いとならんで「本当はどうか?」も、同じように重要な問いである。「これが本当」と思えることがあったにしても、それは「今はそう思える」というだけであって、今、とりあえずの答えにすぎず、本当はどうかわからない。この二つの問いを持ちつづける限り、イズムに固定も停滞も生じない。生命力を失うことはあり得ない。

 

〈11月×日〉

 アメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝った。E・トッドさん以外にトランプ氏の勝利を予測した人はほとんどいなかった。これは、民族主義的な右派勢力の勝利というより、資本主義の終末現象の表れと言うべきものかもしれない。

 最近、前から気になっていた水野和夫さんの『資本主義の終焉と歴史の危機』を読んだ。2年以上前に出されたこの本の主張は、古くなるどころかますます事実として認証されてきたように思える。水野さんは、現在の資本主義体制は「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなっていると書き、続けてこう言っている。

「資本主義を資本が自己増殖するプロセスであると捉えれば、そのプロセスである資本主義が終わりに近づきつつあることがわかります」

 NHKの3回シリーズ「マネーワールド」によれば、世界の大金持ち62人の総資産は地球上の36億人の総資産と同じであるという。また国家と企業の総収入を一列の並べると、ベスト100中70が企業の占める割合だというのだ。グローバル企業は、すでに国家を超えた存在になっており、南米などでは企業が国家を収奪しているという。

 資本主義は、絶えずフロンテイァを開拓することによって発展してきた。最初は物づくりによって市場を世界に広げ、商品市場の伸びが鈍化すると、次に電子・金融空間を作り上げて新たなフロンティアを開拓してきた。そして今、それも飽和状態になると、次のフロンティアとして国内外の差別化を推し進め、中間層からの収奪と貧困化を生み出している。かつて中間層が7割を占め、オール中流化と言われた日本は、今や正規労働者が減り非正規が圧倒的多数を占めるようになってきた。そして年金は削られ、医療費負担は増やされ、その上カジノまで作って有り金を搾り取られようとしている。

 こうした資本主義の現状は、アメリカでも、カナダ、イギリス、フランスでも同じような現象を引き起こしている。アメリカのトランプ現象は、単なる右派国家主義的勢力の勝利というより、こうした資本主義の行き詰まりの表れと見なければならないだろう。この先資本主義がどうなるか、どうすべきなのか、誰も答えを知らない。ヤマギシズムの考えの中にその正しい答えが含まれているのか、もし無所有一体の考え方の中にその答えがあるとしたら、それを世界に広めるためにはどうすべきなのか、いま私たち一人ひとりに問いかけられている。

 

〈11月×日〉

 中国の流行語に「喫土」という言葉があるという。投資市場などで持ち金全部を失い、食べるものもなく、土を食べる以外にない状態を言うそうだ。こうした人々がものすごく増えているという。

 最近、中国に関する番組を続けて3本見た。録画しておかなかったので、ほとんど忘れてしまったのだが、一つは農民工の大都市から中小都市への強制的大移動の話である。これまで、8パーセント以上の高成長の中で、農村からの出稼ぎ労働者が大都市や産業都市の建設を支えてきた。しかし、成長に限りが見え始めると、政府は次のフロンティアを中小都市に求め、農民工の中小都市への移動を強制的に行い始めた。その数なんと1億人である。日本の総人口に匹敵する数の農民工を力ずくで移動させ、しかもなんの保証もないのだから、容易なことではない。さまざまなトラブルが発生するが、それは力ずくで押さえつけられる。こうした映像を見ていると、中国に民主主義が定着できない理由が納得できる。

 もう一つの映像は、上海の投資金融市場の話だった。今中国では一日に平均2万社ものヴェンチャー企業が立ち上げられているという。そのヴェンチャー企業の資金需要をまかなうために作られたのがネット金融である。これまでの成長を支えてきた物作りが頭打ちになり、全国1800兆円という民間に眠る個人資産を新たな成長産業に注ぎ込むために、政府の肝いりで民間投資会社の設立が推進された。そして、民間資産の吸収装置として作られたのがネット金融である。雨後の竹の子のように作られる投資会社の利益目標が、或る代表的企業の場合半年で30パーセントというのだからすさまじい。金融ビジネスでも、平均の年利が9パーセントだという。もう事業というより博打である。詐欺により、失敗により、なけなしの金を失うものが続出する。こうして、「喫土」の民が生れる。

 欧米や日本だけでなく、中国でも、都市と農村の基本的な格差のほかに、都市中間層の貧富の格差は激しくなりつつある。インドなどはもっとひどい状態になっているのではないだろうか。

 現代文明の先行きはどこに向かうのだろうか。私などにはとうてい見通すことはできない。

◎吉田光男『わくらばの記』(14)

わくらばの記 ごまめの戯言⑥

10月×日〉

 昨日、豊里のSさん夫妻が来た。ゆっくり話すのは久しぶりのことで、いろいろ意見を交換できて面白かった。特に、養豚では最近、最新式の豚舎が建てられるようになったが、かえって手間のかかることが多くなったらしい。人手不足の解消や労働の軽減をねらっての新設ではあるが、十分な試験研究がなされていないために、さまざまなトラブルが発生しているとのことであった。これは導入直後の一時的な現象で、やがて解消されていくのかもしれないが、一部に次のようなことが言われているとのことで、それにはいささか首を傾げざるを得なかった。

「試験場がなくとも、世の中の最新のものを利用すればいいのだ」と。

 本当にそうなのだろうか。確かにIT関連のものなど、世の最新の技術を利用していることは間違いないが、それだけでは世の一般企業と何ら変わらぬことになってしまう。

 技術と精神は切り離せぬもの、とするイズムの本質から見てどうなのだろうか、との疑問を打ち消すことができなかった。

 

〈10月×日〉

 最近、いろいろの人が訪ねて来てくれるようになった。宿舎まで来てくれるので、ゆっくりと話ができる。病気見舞いを兼ねてということではあるが、私が意外と元気なので拍子抜けさせているのではないかと、かえって申し訳ない気持ちがする。考えてみたら、これほどゆったりと人と話をしたことはあまりなかった。研鑽会での話し合いやロビーや道端での会話が多く、何となくせわしない感じがしていた。しかし、今のような本心からの話し合いができるのは幸せである。これも、病気になった功徳かもしれない。

 病気の功徳ということを考えると、一番大きかったのは、ガンという病名を告げられた時に、「ああ、これで自分の死にざまが決まった」という覚悟ができたことだ。考えてみたら、あの世に持っていけるものなど何一つないし、自分を飾ったり、ごまかしたりする必要が全くないことにも気づかされたのである。無所有とか無我執というのは、頭ではわかっていても、なかなか身に染みてわかるところまではいかない。しかし、眼前に死が迫れば、いやでもそれを認めざるを得ない。知人の葬儀で死者に対面すると、ほとんどの人が仏様のような顔をしているが、恐らくすべてを放し切った心境になったからなのだろう。私自身は、まだまだその心境には遠いけれども、だいぶ楽になったことは間違いない。

 病気のもう一つの功徳は、病気をきっかけに自分の人生を振り返ってみようと思い立ったことである。何も誇るべきもののない、恥ずかしいような生き方しかしてこなかったが、その恥ずべき生き方を見つめ直せば、人間一般に通ずる何かが見えてきはしないか、と思ったのである。

 今は読みたい本を読み、書きたいものを書き、話したいことを話す毎日で、実に快適である。実顕地がそれを許容してくれていることは、本当にありがたいことだと思っている。このぶんなら、死の瞬間を最大の極楽境にできるかもしれない、と思ったりする。

 

〈10月×日〉

 先月のテーマに、「お互いが〈らしく〉生きられる介護環境」というのがあった。〈らしく〉というのはよくわからないが、介護が世間でもヤマギシでも、大きなテーマになってきたことは間違いない。しかし介護というと、どうしても「介護環境」というように、環境面、ハード面に目が行きがちになる。また、ここでは「お互いが」と断ってはいるが、世話する側のあり方だけがテーマになりやすい。村ネットなどを見ても、世話する立場から「こうした、ああした」という話が出て、それがどうであったかという自分の心境面の報告はあるけれども、世話される側の立場から「それが本当にどうだったのか」という反応は出ていない。発表されるのは、世話する立場からの〈自分の見方・見え方〉なのである。つまり、そこには介護する側の一方的な見方に陥りやすい危険をはらんでいるのだ。

 自分が入院したりして介護される立場になってみると、そのことがより強く感じられる。そう感じた時、もう40年も昔の一つの記憶が蘇ってきた。それは参画する少し前に、当時の有名な共同体を幾つか訪問した時のことで、その訪問先の一つに奈良の大倭紫陽花邑があった。そこの身障者施設で、今でいうボランティアをさせてもらい、一人の重度障害者の食事の世話をさせてもらった時の経験である。世話といっても特別に何かするわけではなく、傍の椅子に座って食事を見守るだけなのだが、見ているとその人は手が震えて食事を口元に運ぶまでに大半を床にこぼしてしまう。施設の職員はそれを黙って見ている。思わず私が手を伸ばそうとすると、その職員は「このまま見ていてください」と言う。何か腑に落ちない気持ちで見ていたが、その障害者が僅かの食事をスプーンで口に運び、おいしそうに食べてニコッと笑った時に、疑問はいっぺんに氷解した。そうか、食事は単なる栄養補給のためのものではない、それは生きる喜びであり、しかも自分の手で食べることで日々生きる実感を確かめているのだ、世話をすることでその喜びを奪ってはならない、そういうことが漠然とではあったがスーッと入ってきた。職員の人と話をしていても、食事に時間がかかるとか、後の床掃除が大変だなどという話は一切なかった。そこには〈効率〉などという考え方は全く存在しなかったのである。

 いま内部川には、70歳以上のいわゆる老蘇年代の人が8人おり、他に障害を抱えている人が1人いる。この中で実際に介護を必要とする人はほんの数人にすぎないが、いずれみんなに介護が必要になることは間違いない。『ヤマギシズム社会の実態』には「死の瞬間を最大の極楽境にします」と書いてあるけれども、今の自分たちの実態がそれに見合うものであるかどうか、と考えたときに、これはもっと真剣に考えなければならないと思い立った。そこで、調正所に提案して、老蘇世話係、調正所、仲良し班窓口の三者と、老蘇から私も参加させてもらって研鑽会を開いた。

 研鑽会で何かがはっきりしたというわけではないが、世話する側と世話される側の関係が非常に近くなったことは間違いない。「最大の極楽境」というときの「極楽境」の「境」は、環境の「境」でもあるし、心境・境地の「境」でもあるのではないか、そして「極楽境にします」というときの「極楽境にする」主体は誰なのか、またそういう心境に最後の瞬間に立ち至ってから突然なれるものでないとすれば今をどう生きるべきなのか、こういうことをみんなで気軽に出し合って、大変面白かった。そして今後も月一回程度研鑽していこうということになった。

 介護に関する研鑽が、ともすれば介護者だけの研鑽になりがちであるが、老蘇や被介護者を加えることで中身が深まるのではないかと思った。

 

〈10月×日〉

 2年ぐらい前に春日山から始まった「村人テーマ」が、実顕地全体のテーマのようになってきた。各種の実顕地づくり研では、この毎月のテーマを中心に研鑽会が持たれているという。「村人テーマ」が、何を目的とし、どんないきさつで、どこの場で決められているのかはわからないが、1980年から20年間続いた「村人テーマ」が、2000年に突然中止され、今また復活するにはそれなりの理由があるに違いない。一度そのへんの事情を説明してもらえるといいのだが、と思っている。またテーマというものの性格がどういうものなのかもはっきりさせてもらいたい、とも思う。つまり、それが実顕地の進むべき方針として提起されているのか、それとも共に考えたい問題として提起されているものなのか、ということである。

 しかし一番よくわからないのは、実顕地研鑽部が出してくる「テーマ解説」だ。もしテーマというものが、みんなで考えたい問題提起として出されたものなら、みんなの間から出てきたさまざまな意見を取り上げて紹介し、さらに研鑽が深まるように仕向けることが重要になる。またもしテーマが実顕地の進路を示す指導方針というのであれば、研鑽部は指導部の別称ということになる。しかし、ヤマギシには指導者や特別人間はいないことになっているのだから、研鑽部が指導方針を出したり、村人の考え方や行動を方向づけることはあり得ないはずである。ところが、研鑽部のテーマ解説を読むと、ほとんどが考える方向を指し示すものになっている。これでは、2000年以前の研鑽部と全く同じことになってしまう。

 人は案外弱いもので、"上からの指示”や"集団の流れ”ができると、それとは違う意見は出しにくくなり、自由な研鑽の雰囲気は作れなくなる。そうなると、研鑽会が沈黙に打ち沈んだり、出席者が少なくなっていく。研鑽会が研鑽の場ではなくなる。しかし、本来研鑽会は「親愛・和合の社会気風を醸成し、何かしら、会の雰囲気そのものが楽しくて、寄りたくなるような機会」(「ヤマギシズム社会の実態」)であり、それを推進するのが研鑽部の本来の役割のはずであろう。

 

〈10月×日〉

 9月度のテーマ解説を読んでいて、不思議な感じになった。この解説は実顕地研鑽部の名前で出されているが、この研鑽部の構成員はみんなできちんと研鑽して、その結果をまとめて出しているのだろうか、それとも誰か一人の思いつきの作文なのだろうか、という疑問である。中身があまりにお粗末なのだ。

 そのテーマ解説は、ある人の研鑽会での発言を紹介したあと、次のような結論を導き出している。

「引き継ぐというのは、一般にいわれている、古い人が今までやってきて積み重ねたことを、新しい人に引き継ぐというのではなく、積み重ねた経験などがあったとしても、新しい人が新しいことをやることに対して、温かく見守り喜んでいられるということなのでしょう」

 これは、いったい何を言いたいのだろうか? 大体この文章は、日本語の意味からして不可思議きわまりない。ふつう「引き継ぐ」というのは、「誰か」から「誰か」が、「何か」を受け継ぐことであろう。そうでなければ、「引き継ぎ」の意味をなさない。「新しい人が新しいことをやることに対して、(古い人はただ)温かく見守り喜んで」いればいい、それが引き継ぐということだと言われて、これで誰が何を引き継いだのかわかる人がいるとすれば、不思議である。こんな不可解な日本語を、実顕地研鑽部という公的機関が出すことは恥ずべきことではないだろうか。

 むしろ、本当に言いたいことは、こんなことことかもしれない。

「もうお前ら年寄りの時代は終わった。余分な口出しはやめて、おとなしく引っ込んでいればいいのだ。マッカーサーもGHQを解任されたとき"老兵はただ消え去るのみ”と言ったじゃないか」

 この方が正直でわかりやすい。そして「古い人」のどんな考え方が時代遅れで、「新しい人」のどんなところが新しい時代を切り開く考え方なのか、それを具体的に出し合って研鑽に結び付ければ、そこから何かが生まれてくるかもしれない。一方的な切り捨てからは、何も生まれることはないだろう。

 ただ、「古い」「新しい」という線引きの基準はどこにあるのだろうか。年齢? もし年齢だとすれば何歳以上が古いのか? またもし参画年次だとすれば、何年以前の参画者が古い人なのか? ヤマギシでは老いてますます蘇るという意味で、年寄りを老蘇と呼んでいるが、これは既に死語になってしまったのだろうか? 確か山岸さんは、どこかで「80歳の青年もいれば、20歳の老人もいる」と書いている。これはおかしな考え方なのだろうか? 山岸さんは55年前に亡くなっているから、山岸さん自身を「古い人」と言いたいのかもしれないが……。

 研鑽を深めるためには、言葉とその中身をできるだけ正確に使わなければならない、と私は思っている。「古い」という形容詞を使えば、古臭くて使い物にならないような印象を与え、「新しい」と言えば、何か画期的な新機軸のように印象づけようとする、こういう表記法は実は何の意味も持ちえない。「進歩」「発展」「革命」、これらはすべて言葉、名辞にすぎず、何らその内実を示すものではない。問題はその言葉の意味するもの、指し示すものであり、その中身によってのみ人は考え、研鑽することができる。

 研鑽部は、まず言葉の正確な使い方から研鑽を進めてほしい。

 

〈10月×日〉

 昨日に続いて、古い・新しいということを考えている。

 青年期は、"青春”という言葉が示すように、春に例えられる。これからどんどん成長し、いかなるものにもなりうる無限の可能性を秘めているように見える。一方老年期は、成長が終わり、死の晩年が訪れる秋にも例えられる。

 自分の80年の人生を振り返ったとき、青年期(何歳から何歳までとはっきりはしないけれど)を過ぎるということは、自分の中の可能性を一つひとつ捨て去ることだったように思う。もっと正確に言えば、そんな可能性はなかったのだと、自己確認する(させられる)過程だったようにも思う。しかし、若いときはそんなことはない。どんな無茶と思われることでもできるし、夢に命を賭けることもできる。

革命は青年抜きに考えることはできない。

 では老人は、ただ消え去るだけの存在なのだろうか。秋に木の葉が色づき、山々が美しい紅葉に彩られるのは、葉に蓄えた栄養(炭水化物)を枝や幹に送り出し、来る年へと引き継いだ後の姿である。この引き継ぎが不十分であれば、翌年の実りは保証されない。これと同じことが人間の世界でも見られるのだろうか。

 若い人に無くて年寄りだけにあるものが一つだけある、と私は思っている。それは、失敗の経験である。失敗の経験に学ぶ者だけが、次の時代を切り開いていける。成功経験も大事であるが、失敗経験はもっと大事である。なぜなら、成功の経験はほとんど無きに等しいのに、失敗の経験はそれこそ数え切れぬほどあるからである。しかし、多くの場合、失敗は愚かなこと、恥ずべきこととして否定され、無視されてしまう。その結果、失敗の歴史は何回でも繰り返されることになる。

 

〈10月×日〉

 先日、ある実顕地のメンバーと話していて、気になることがあった。彼は「最近は村人テーマの〈実顕地一つ〉の資料で研鑽しているが、どうも意見が出しづらい」というのである。彼の言うには、何か〈こうすることが実顕地一つなのだ〉と決まったものがあって、それと違うことはなかなか言えない雰囲気なのだというのである。これは、私にも経験があるのでよくわかる。自分もそんな雰囲気に委縮したり、自分からそうした雰囲気づくりに貢献したりした苦い経験がある。しかし、もうとっくにそんな経験は卒業していなければならない。

 ここで考えなければならないと思うのは、〈実顕地一つ〉のテーマが意味することの中身である。つまり「実顕地は一つである」ということなのか、あるいは「実顕地は一つにならなければならない」ということなのか。もし、後者であるとすれば、今は一つでないから一つを目指していこうということになるし、前者であれば、いろいろ意見の違いはあっても一つの中の多様な見方であって、違いは豊かさを表すだけで対立にはならない。この「一つである」ことなのか、「一つになる」ことなのか、ということの違いは、決定的に大きい。

 そして私たちが目指したいのは「一つである」あり方である。「一つである」から何でも言える、何でも聞ける、「誰もが思った事を、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、又は誰の発言や行為をも忌憚なく批判」(「ヤマギシズム社会の実態」)できる、そんな社会づくりである。

 言葉で言ってしまえばこんな簡単なことなのだが、実際にそうなっていかない原因はどこにあるのだろうか。恐らく、方向や事柄を一つにしようとする側にも、それに委縮したり反発する側にも、一つでないものが介在しているからではないだろうか。特に「正しいもの」「本当のもの」を自分(たち)の考えや行動の原理としている場合は、それを他に押し付ける危険が大きくなる。強制力を働かせることも起こりうる。そうして作られた流れや空気が、人を押し流してしまいかねない。

 いま大切なことは、「実顕地一つ」の研鑽を、「事柄の研鑽」から「あり方の研鑽」へと変えていくことなのではないだろうか。

 

〈10月×日〉

 前に、出席者のあいだに何らかの規制する力が働くと「研鑽会が研鑽の場でなくなる」と書いた。この「研鑽会」と「研鑽」との関係について、もう少し考えてみたい。

 ヤマギシには「研鑽会」と名前の付いた会合はたくさんあるけれども、単なる打ち合わせにすぎないこともあるし、雑談に終わることも少なくない。するとこれは、世間一般で行われている「ミーティング」や「打ち合わせ」とどこが違うのか。しかし漠然とではあれ、私たちは「研鑽」と「ミーティング」とは違うと思っている。しかも、「研鑽こそが生命線」とも口にしている。どこかに明確な違いがあるはずだが、それがはっきりしない。

 そうした疑問を数年前にある会合で口にしたら、榛名のYさんから「お前は昔からずっと同じことを言っている」と笑われたことがある。また、2000年問題に絡んで「なぜ大事な場面で研鑽が機能せずに対立になってしまったのか」と書いたところ、春日山のSさんから「実顕地メンバーの研鑽力はまだよちよち歩きの段階なのだ」と批判された。Sさんは自著『贈り合いの経済』の中の「吉本隆明氏との対話(12)」に、「いわばどこまでも自分の自由意思を曲げないための『研鑽力』が問われているわけだが、その日常化においてはいまだよちよち歩きの域を出ない」とも書いている。ただSさんは、いつ、どうしたら、よちよち歩きを脱して一人歩きできるようになるのかは明らかにしていない。

 自分を振り返れば、確かによちよち歩きもいいところだけれども、一体生活が始まって58年、会発足から数えれば63年にもなるヤマギシ会メンバーの研鑽力が、未だよちよち歩きの乳幼児段階にあるとすれば、これはもう異常事態というべきだし、乳幼児どころか回復不能な障害者だと決めつけられても仕方がない。

 確かに私たちは、日常的に研鑽会を開き、何事かを話し合っている。にもかかわらず、研鑽力がそれに伴っていない。これはどういうことなのか。もしかしたら、研鑽会を開いてはいるけれども研鑽はしていない、ということの積み重ねの結果ではないか。では、研鑽って何なのだ、という最初の疑問に戻ってしまう。話し合い、ミーティング、討論、ディスカッション、ディベート、打ち合わせ等々、さなざまな言い方はあるけれども、こうした話し合いと研鑽との違いはどこにあるのか。

 

〈10月×日〉

 毎月開いているある研鑽会で、よく「自分の聞きたいようにしか聞いていないからね」という言葉が出る。「相手がそう言った」という聞き方から「相手の言ったことを自分はそう聞いた」という聞き方への転換。自分の聞きたいように聞き、自分の見たいようにしか見ていない、そうでしかない自分への自覚、これは確かに大事なことではあるが、たいていの場合そこで終わっている。しかし、本当に大事なのはそこからなのではないか。

「何で自分はそう聞いたのか」

「そうとしか聞けない自分に何があるのか」

 こう問いつづけることで、自分の心のあり様を調べることができる。これが研鑽の最も大事なところではないか。

 研鑽についての説明で、よくこんなことが言われた。

「人の話をよく聞き、自分の意見をはっきり出し、そして本当はどうかと検べ合う」

 しかし、こんなことはヤマギシでなくともどこでもやっていることだ。ヤマギシ以上にシビアに調べ合っている企業はいくらでもあるだろう。だが、自分の内面を調べることはどこでも行われていない。もちろん、宗教的な心の修養として自己を見つめることは昔から行われてきた。しかし、幸福な社会づくりを目指して、対象を検べることが同時に自己を検べることであり、自己を検べることが同時に対象を 検べることにつながるような、終わりのない検べる生き方は他にはない。これこそが研鑽なのではないか。だから山岸さんは、研鑽生活の連続を〈ゴールインスタート〉と言ったのだと思う。

 どうも自分の実感を言葉でうまく言い表すことができない。要するに、一般に言われている「検討」とか「調べる」というのは、自分の外側に存在する対象を、自分の見方・考え方に基づいて論ずるのに対して、研鑽は対象を検べると同時に、自分の見方・考え方、さらにはその見方・考え方を下支えしている深層の心理までをも検べようとするものではないか。外へ向かう力と内へ向かう力が同時に働くことで研鑽が成り立つ。そう思う。

  

〈10月×日〉

 鶴見俊輔さんの『敗北力』を読む。その冒頭の詩稿にこういう言葉が出ている。

    憲法、それは私から遠い

    むしろ、自分からはなれず、

    私の根の中に、

    憲法とひびきあう何かをさがしあてなければ、

    私には憲法をささえることはできない

       (それをさがしあてたい) 

 これを読んでずしりと響くものがあった。確かに私は憲法改正には反対だし、9条を守りたいと思っている。しかし、その反対は頭の中に存在するにすぎない。だから自分から遠い。では、自分の「根の中にひびきあう何か」とは何だろう??

 鶴見さん晩年最後の著作となったこの本には、こういう言葉もある。

 「『知識』はね、『自分の中の態度』に根差していなければ、『思想』になりません」

 また、東大を始めとする大学人を批判して、こう書く。

 「大学に位置を得ると、その人は、インサイダー取引の文章を書いて、終わりまで書き続けるようになる。

 このことは、その人の書く論文の形に刻印を押す。

 こうした論文には、へその緒がない。自分自身、自分にとっての自分がない」

  今は亡き鶴見さんの思想を一貫して支えていたものは、「自分の中の根」であり、「自分の中の態度」「へその緒」であった。それを見い出し、確かめ、支え、深めることに思想の拠点を置いた。

 私は、研鑽とは何かとずっと考えてきたが、この鶴見さんの言葉に出会って、そうか研鑽とはへそで考え、へそを確かめることではないかと思った。

 

〈10月×日〉

 S・アレクシエーヴィチの『セカンドハンドの時代』を読む。ソヴィエト体制が崩壊した1991年以降のロシアに暮らす一般庶民の声と魂の膨大な記録である。前作の『チェルノブイリの祈り』と同じように、さまざまな立場に置かれた人々の声が集められ、混沌としたロシア社会のあり様を混沌としたままに浮かび上がらせている。600頁にも及ぶこの本の中身を、一言で言い表すことなどとうていできない。ただ、この本は、70年間のソビエト社会主義というものが何であり、崩壊後の20年間が何であったのか、そしてまたそれがこれからの世界に何をもたらすのかを考える材料を豊富に提供している。しかも、それを国家論や社会論としてではなく、政治や社会の変動に翻弄される一般庶民の生の声を通して伝えている。

 91年のソビエト体制の崩壊前後、私はテレビの前に釘付けになっていた。ゴルバチョフによるペレストロイカ、軍部の反乱、エリツインによる政権奪取、民主化、こうした一連の変動の結果は、大方の予想に反し、自由とは弱肉強食であり、国家財産・共有財産の奪い合いであり、一部の富裕層と大多数の貧困層を生み出すものにすぎなかったことを明らかにした。そして100年も前にドストエフスキーが『カラマーゾフ』の「大審問官」篇で語った、「人間の自由を支配するかわりに、おまえ(キリスト)はそれを増大させ、人間の魂の王国に、永久に自由という苦しみを背負わせてしまった」という詰問から逃れられないでいる。その結果、スターリンの代わりにプーチンという新たな大審問官を戴き、「強いロシア」を旗印とするその強権支配に、かなりの人々の支持が集まっている。

 しかし、これはロシアに限った話ではない。旧ソ連邦から独立した国々も同じ状態であるし、また何より中国がいま、自由の抑圧なしには国家の統一を維持できない苦しみの中にいる。一方のアメリカは、マネー資本主義の強風の中で貧富の極端な格差に苦しんでいる。

 とにかく、私たちは「思想もことばもすべてが他人のおさがり、だれかのお古のよう」な「セカンドハンド(使い古し)の時代」を生きている。なかなか希望を見い出せないし、かつての理想はすっかり色あせてしまった。新たな希望、新たな理想をどこに求めたらいいのか、この本は今を生きる私たち一人ひとりにこの問いを投げかけている。

◎吉田光男『わくらばの記』(13)

わくらばの記 ごまめの戯言⑤

 〈9月×日〉

 喜一さんは、自分の葬儀について、なぜ親族に限る、つまり村人の参列を拒否するような遺言を残したのだろうか。偲ぶ会などで、自分の棺を前にしてあれこれ語ってほしくないという心境だったのかもしれないが、それがなぜなのか、その疑問がしばらく頭から離れなかった。そしてここからは私の妄想にすぎないのだが、喜一さんの中にヤマギシ養鶏についてのやり残した思い、無念の思いが潜んでいたのではないか、と思わされた。

 中西喜一さんという人は、農業養鶏の時代から山岸さんに技術係りとして嘱望されていた人である。動植物に対する感性が鋭く、研究心も旺盛である。実顕地の社会式養鶏が始まってからは、当然養鶏試験場の技術部門の中心となるべき人材であった。

 しかし、70年代に入り卵の供給が伸び始めると、試験場の役割は小さくなり、しまいには廃止されて、養鶏はすべて本庁養鶏部の管理するところになった。ヤマギシ養鶏は完成されたものとして、試験研究の必要性が認められなくなったのである。各実顕地養鶏部は、卵の増産だけに励むことになる。喜一さんは技術係りとはいえ、日常の作業は洗卵センターの責任者にすぎなかった。洗卵センターの職務内容については私の詳しく知るところではないが、飼育の技術者がやらなくとも、機械に詳しい人材であれば十分務まる職場であったろう。要するに、経営の重視が技術や研究の軽視へと導いたのである。

 このへんの動きについて年表を繰ってみると、75年9月に「実顕地経営研」が始まり、「経営的センスの養成」がテーマになった。そして翌76年3月には、参画申し込みを実顕地本庁に一本化することが決まる。それまで参画申し込みは中央調正機関と実顕地本庁の二か所で受け付けていたものを、実顕地本庁に一本化したのである。これは、即中央調正機関廃止の方向であり、これに伴って中央調正機関に属していた中央試験場も実顕地本庁の管理下に移ることになる。この時期は、74年7月の多摩供給所発足に伴い、供給活動が軌道に乗り始め、卵の増産が望まれて新たな実顕地の造成が急がれた時期でもあり、参画者の「経営的センス」の養成は喫緊のテーマでもあった。

 そしてこの頃からだったと思うが、日常の会話の中にも「経営」や「効率化」が言われるようになった。古いものを活かすという考えよりも、それを捨てて新しく買い替える方が効率的だという考え方である。私たちの多くも、できるだけ安く仕入れて、できるだけ高く売る、という市場経済の論理に次第に馴染んでいったように思う。こういうときに、金を食うばかりで儲けにならない試験研究のようなものが、軽視されていくのは必然的であったかもしれない。こうして、試験場は機能停止になり、新たにつくられた本庁養鶏部が全実顕地の養鶏所を管理することになった。

 しかし、本庁養鶏部は試験や技術面を代替する機関ではない。卵の需要に応じて、全国各実顕地の入雛計画を立てたり、餌の購入計画やその配合率を決めたりする実務機関である。

 こうした流れの中で、喜一さんを活かし活躍してもらう場はありえたであろうか。このへんについて、もう少し自分の妄想の範囲を広げて考えてみたいのだが、今日はこのぐらいにしておく。

 

〈9月×日〉

「養鶏書」を開くと、ヤマギシ養鶏は「(技術20+経営30)×精神50」と書いてある。これは恐らく誰でもが知っている公式であろう。しかし、目を凝らしてもう一度よく見ると、また違ったものが見えてくるかもしれない。私は再度読み返してみて、このヤマギシ養鶏の等式のカッコを開いてこう書き直してみた。

 (技術20+経営30)×精神50=(技術20×精神50)+(経営30×精神50)=ヤマギシ養鶏 =幸福

 つまりヤマギシ養鶏は、技術も経営も精神と掛け合わされていて、両者は絶対に切り離すことができないものとして位置づけられている。そしてまた、経営がいかに重要であっても、技術をゼロにして経営を50にすれば、それは既にヤマギシ養鶏ではなくなってしまうだろう。そのことについて、山岸さんは「社会式養鶏法発表会に寄せて」という文書にこう書いている。

 

 「技術を離れた山岸養鶏はなく、精神のない技術は山岸養鶏でなく、またヤマギシズム精神のない経営は山岸式経営ではない。山岸養鶏技術は、経営とヤマギシズム精神が組み合わさって初めて技術となる。即ち、精神や経営を度外視した山岸養鶏技術はない」(全集④196頁)

 

 この文書は、1961年4月16日に名古屋市の半僧坊で行われた「ヤマギシズム社会式養鶏法発表会」に送られた山岸さんのメッセージで、当初山岸さんも出席を予定していたが、体調不良のため急遽口述筆記されたもの。(なお、この半月後に山岸さんは亡くなる)

 ところで、社会式養鶏の飼育現場における技術は、どのように保証されるかといえば、それは試験場の試験研究によってなのである。そのことを山岸さんはこう語っている。

 

 「それぞれの実顕地が出来て、飼育専門の係は試験場へ問題を持ち寄り飼育専門研をやり、試験場ではその案を採り上げ、そこで試験、組み立てと、それをまた実顕地に適用する。……実顕地の方は、自分の考えで何かやりたいとの案が出たら、試験場へ持ち寄るので、自分ではやらず、試験場の出た案はそのままやる。そして試験場は誰も入れないで飼育(技術)専門の人でやる」(全集④155頁「ヤマギシズム社会式養鶏法について――名古屋での座談会記録から」)

 

 個々の農家を母体としていた農業養鶏時代の技術係と違って、社会式養鶏においては、技術は試験場で試験と組み立てがなされ、実顕地はそれを無条件で実施するものとなっている。したがって、経営重視、効率優先の考え方で試験場が無くなってしまえば、それは既にヤマギシ養鶏ではなくなっていく。

 ところで、実顕地とは「実際に顕す地」の意味であるが、何を顕すかと言えば、それは中央試験場(養鶏試験場はその産業部門の一つ)で試験研究されたヤマギシズムの考え方を実際に顕す地ということである。つまり実顕地は完成されたものでも独立したものでもなく、試験研究されたその時々の最先端をたえず実施することによって、ヤマギシズム社会へ、理想社会へと進む前進無固定の社会構成の一機関と構想されている。なお、もう一つ付け加えれば、これら試験場・実顕地の構成員が最も正しく研鑽生活を送れるようにするための仕組みが研鑽学校である。このように試験場、実顕地、研鑽学校の三つの機関が、ヤマギシズム社会構成の基本とされ、互いに自立しながら一体で運営されることとなっている。(全集④396頁「ヤマギシズム実践諸機関について」)

 

 しかし、実顕地急成長時代の経営重視の中で、試験場は無くなり、研鑽学校も実顕地に吸収され、ヤマギシズム社会構成の3機関が、実顕地一つに統合されてしまった。このことをどう考えたらいいのだろうか。今まであまり問題にもされてこなかったことだが、喜一さんの葬儀のことを考えているうちに、このことに突き当たった。ぜひみんなで考えてみたいと思った。

 

〈9月×日〉

 私が参画したばかりの頃、初めて養鶏書を見て「老鶏は若雌(若々しく)のような、若雌は老鶏(牛のような)の如きタイプを常に保たすこと」という言葉に少し違和感を覚えた。何で老鶏は「若鶏」の如くと言わずに「若雌」と言うのだろう、と疑問に思ったのである。しかし、答えは簡単なことだった。山岸さんは養鶏書の中で、「農業養鶏は強健でよく稼ぐ交配種の雌のみを飼います」と書き、他のところでも「食卵に雄性は不要」と書いている。つまりヤマギシ養鶏は、採卵鶏においてはもともと雌のみを飼うことになっていたのである。では、なぜ今のように雄を入れて有精卵にしたかと言えば、1971(S46)年に安全食糧開発グループ代表の岡田米雄氏から「有精卵を作ってほしい」と要請され、それに応えて始めた有精卵が岡田氏の四つ葉グループに歓迎されたばかりでなく、2年後の多摩供給所発足のきっかけになったからである。

 長い間、ヤマギシ養鶏は有精卵と信じ込んでいたが、調べてみたらそんなことはなく、外からの要請に応じて"とりあえず”有精卵にした、というにすぎない。今は有精卵がヤマギシ養鶏の特徴のように考えられているが、雄と雌がいることがヤマギシ養鶏の本質を表わすものではなく、本質はもっと別のところにあるのではないかと考えられる。同じように、「これこそがヤマギシ」と信じ込んでいることの中にも、私たちの勝手な思い込みによる誤解が含まれているかもしれない。

 この‟とりあえずそうした”ということでいえば、喜一さんからこんな話を聞いたことがある。

 私が「養鶏書では『奥行4間の鶏舎で、細長い3間先まで1週間の雛を走らす』と書いてあるけれども、社会式では生まれてすぐの雛を中雛寝枠に放して狭いガードで囲うのはなぜか」と聞いたのに対して、

「いや、あれは小羽数の堆肥熱育雛と違って、大羽数に適した育雛設備がなかったので、とりあえず中雛寝枠を使おうということで、あれで良いというわけではないんだ」

 実は、中雛寝枠は研究課題の一つだったということである。それが今では育雛設備の決定版として、何の疑いもなく使いつづけられている。

 養鶏に関わったことのない人のために、山岸さんが農業養鶏について書いた文書の一部を引用しておく。

 

「奥行4間(7.2メートル)の鶏舎で、細長い3間〈5.4メートル)先まで1週間の雛を走らすのも、40日雛を成鶏収容密度の広濶な成鶏舎へ放つのも、脚の丈夫な、胸肉の張った、餌負け、暑さ負け、産み疲れを知らぬ、途中落伍のない、環境に打ち勝っていく、成鶏になっての稼ぎ高の多い鶏を造るのが目的で、3間先に水を置き、乾燥飼料を食べさせては水を呑みに走り、寒くなれば温室へと、繰り返し、真っ暗の寒夜も3間先までお百度マラソン、これで丈夫にならねば不思議でしょう」(全集④「真理追求から発した養鶏」『愛農養鶏』1954年5月号)

 

 熱室・温室・冷室と三段階に分けられた育雛枠で40日まで過ごした雛は、40日経つと育雛枠が取り払われて、広い鶏舎いっぱいに放たれる。このとき用いられるのが止り木と中雛寝枠である。この中雛寝枠が、今の実顕地では初生雛から用いられ、周囲をガードで囲っている。囲いは雛の成長につれて広げられるとはいえ、3間先まで飛んでいけるような広さはない。

 このように、今の中雛寝枠方式は研究課題として残されたものであり、当然それは試験場で研究すべきものであった。

 

〈9月×日〉

 1980年代のことだったと思うが、配置で首都圏実顕地の大田原に行った。そこには、実顕地育ちのSK君がいた。わりと親しい関係だったのでよく話をしたが、S君は当時の本庁の方針に何かと異を唱えていて、私としては何とか全体の流れに沿って一つになれないかと考えていた。

 当時の養鶏部では、冬場は鶏舎をビニールで囲うことになっていて、大田原でもその作業を始めようとしていた。ところがS君は、それに疑問を投げかけた。

「冬の寒さ対策としてビニールをかけるというが、それによって空気の流通が悪くなり、鶏の呼吸器系の病気が出やすくなるのではないか。いまのやり方は、それで病気が出れば薬をたくさん使って直そうとする。しかし、それって山岸養鶏に逆行するのではないか」

 そうか、確かに一理あるなと思ったものの、その頃の私は本庁の方針こそ絶対と思っていたので、S君の考えを無視してしまった。しかし、その後養鶏書を調べたりすると、S君の考えの方が正しいことがわかる。なにしろ山岸さんは「水と空気と太陽」といった自然の恵みを他の何物よりも大切としており、空気の流通を止めるような飼育が認められるはずがない。例えば、山岸さんはこういう文書を書き残している。

「薬物偏重医学者は少し反省しなければならないと思います。……稲作等も薬を使い過ぎますが、全て人間にしても、鶏の場合でも、病気の発生に好条件を与えておき、医学で糊塗し、または治療手段に訴えるよりも、先決問題はそうした原因をつくらないことで、それには病虫害の起因、特性、生態を深く究明すると共に、それ等を受け付けない態勢を整えるにあります」(全集①303頁)

 

 ほかにもS君は、「鶏舎の通路を全部コンクリートで固めてしまったが、夏場は太陽光の輻射熱で鶏舎内の温度が高まり、鶏に影響しているのではないか」とか、「オールアウトのあと、鶏糞をきれいに取り出して水洗いと消毒までしているが、昔は古い鶏糞の上に直接雛を放していた。病原菌はどこにでもいる。菌を無くすことより菌に負けない鶏を育てることがヤマギシ養鶏の根本ではないか」と語っていた。当時は聞き流してしまったとはいえ、いずれも私の心に残った言葉である。

 しかし、これは何が正しいかという問題もあるけれども、それよりも飼育に関する試験研究がきちんと行われず、経営効率優先の考え方から、思い付きで事が進められたことがより大きな問題なのである。同じようなことで、一時雛のデビークが行われたことがある。入雛間もない雛の嘴の先端を切り取ってしまうのだ(ということは、鶏は必ずつつき合いをするものという前提に立っている)。確かに、成鶏になってからデビークするより遥かに効率的ではある。しかし、雛にものすごいストレスを与えるだけでなく、成長するにつれて嘴がおかしな具合に伸びて、上下不揃いのカケスのような鶏が続出して、すぐ取りやめになった。

 このように、試験場が無くなり本庁養鶏部に一本化されることによって、経営だけが重要視され、飼育に関する技術的な検討、研究、試験が行われなくなり、飼育者は日常作業を通じて感じた疑問や感想を深める機会が無くなってしまった。それらについては、明日また書いてみることにする。 

 

〈9月×日〉

 私の参画したての頃は、鶏舎の離巣檻や産卵箱は下(鶏糞の上)に置かれていた。今のような宙づりの形ではなかった。しばらくして今の宙づりの方式になり、作業はしやすくなった。ところが、産卵箱はともかく、離巣檻については「養鶏書」に次のような記述がある。

「離巣檻は鶏舎の一番明るい一隅に、A、B2個の小室を作り、A方に3日間巣鶏をいれ、次の3日間はBの方にいれ、……特に注意すべきは、檻内の鶏と檻外鶏舎内の鶏とが、見忘れないよう給餌器を内外両方から食べられるようにし……」(全集①158頁)

  この「見忘れないように」という記述にはびっくりした。鶏の本性を知り尽くした山岸さんの細かな配慮が、ここまで及んでいるのか、という驚きである。とにかく、物忘れの典型に鶏頭があげられるように、鶏はしばらく別飼いにすればすぐ相手を見忘れる。再び一緒にすると、すぐつつき合いを始める。それを防ぐために、内外双方から餌を食べられるような構造にしてある、ということなのだ。

 そこから考えると、羽数調正という飼育の日常作業がどうなんだろう、という疑問が生じてきた。餌量を全連一定にするために、羽数調正をごく当たり前に行ってきて、疑問に思うこともなかったが、住み慣れた部屋から違った部屋に移動させられる鶏にとっては、相当のストレスになっているのではないだろうか。人間にとって都合のよい(つまり人間よりの)飼育方法が、飼育される鶏にとってどうかという視点が、これまでほとんどなかったのである。

 また、全連餌量を一定にするという方法が、理に適っているかどうか。養鶏書には、「給餌法」としてこう書かれている。

「(本養鶏法では)1日1回空腹、1回満腹となるよう切餌とし、毎日、日没2時間ほど前に、1日分全量を与えます。分量は、翌日正午までは餌箱にいくらか残っているが、日没2時間前の給餌の時には、すっかり食い尽くしているのを適量とし、正午までに食い尽くし、または給餌の時余っている場合は、給餌量をそれぞれ適当に加減します」(全集①151頁)

 

 鶏が生き物である以上、同じ羽数であっても、その日の天候や気温、湿度、あるいは健康状態などによって、餌の食い方が違ってくるのは当然である。もちろん養鶏書は、小羽数の農業養鶏用に書かれたものであるが、私の参画したころの養鶏部でも、毎日きちんと餌見と餌量調正を行っているところがあった。ど素人の私には、ちゃんとした観察や対応ができたわけではないが、何かしら身につくものがあったように感じられる。しかし、いつしか鶏を見るのではなく、羽数表の数字を見てそれを配合に伝えるだけになってしまった。

「鶏のことは鶏に聞く」という山岸さんの考え方からすると、これは異常だ。成鶏管理が羽数表管理になり、飼育者はただ餌を餌箱に入れ、卵を採り出すだけの作業者に成り下がってしまった。だから、飼育者から日々の飼育作業を通しての感想や喜びや疑問が提出されることはほとんどなくなっている。当然、試験場に問題を持ち寄って、試験研究を委嘱する必要もなくなる。試験場を無くし、実顕地一本の体制を敷いたことが養鶏の飼育現場を歪めてしまったのではないか、と思うのである。

 ただ、技術的な疑問や考えを個人レベルで解決しようと思っても、それは思い付きの範囲を越えるものではないし、かえって混乱を招くだけだと思う。今それだけの人材がそろうかどうかは別として、試験研究に関心のある人が3人以上寄って、実顕地から一切の制約を受けない飼育試験に取り掛かれるとしたら、試験場再興への足掛かりが得られるのではないかと思ったりする。これには、実顕地のバックアップが不可欠であるが……。

 

〈9月×日〉

 喜一さんの葬儀のことから、養鶏の飼育についてあれこれ考えてきたが、一番強く思ったことは、経営の合理化・効率化が飼育管理の合理化・効率化になって、作業はしやすくなったが、鶏にとってはストレスを高める方向に向かってしまったのではないか、ということである。

 山岸さんは、こういう言葉を残している。

「心が豊かな鶏は豊かな稔りを積みます。鶏にも豊かな生活を。」そしてまた、

「大きな胃袋の雛が多く食べても、胃袋の小さい雛は決してそれを咎めませんし、消化器の働きの鈍い雛が負けまいと無理に食べて、胃腸障害を起こしたりしません。これが『ヤマギシズム』から発した養鶏法で、山岸式養鶏会員の鶏に1羽の羽衣食われ鶏も、同胞相食む尻ツツキ鶏もなく、健康で元気に満ち充ちながら、物静かで、競い合いをしませんことと……」(全集①280頁「稲と鶏」)

 また別のところでは、こうも書いている。

「……快適な環境に、物静かで、心理的にも豊かさに充ちた、競合の無い、愛善社会が、鶏の日常に実現していることが見えるのです」(同上295頁)

 

 ヤマギシ養鶏においては、「愛善社会が鶏の日常に実現している」と山岸さんは言っている。快適な環境の中で、物静かで、心理的にも豊かさに充ちた、競合のない、愛善社会――確かに実顕地の鶏たちは静かで落ち着いている、臭気も少ない。しかし、よく鶏糞は固まるし、ツツキが出て血を流し、落ちる鶏も出る。これはどうしてなのか。「1羽の羽衣食われ鶏も、同胞相食む尻ツツキ鶏も」いないはずのヤマギシ鶏舎で、なぜそうした鶏が発生してしまうのか。飼育者にとっては、大きなテーマのはずである。これを「鶏種が変わったから」などの一言(言い訳)で済ますことなどできない。(なお、ここで"愛善社会”という言葉を用いているのは、この文書が愛善みずほ会(大本教)の機関紙に掲載されたためで、養鶏書では幸福社会と記している)

 韓国配置のころ、喜一さんにツツキについて相談したことがあるが、喜一さんは「つつかれた鶏を取り除くよりも、最初につつく鶏を取り除いてみてはどうか」と言ってくれた。なるほど、いじめられたものを見つけるのではなく、いじめの張本人を見つけて手を打つ、その方が本当かもしれない。しかし、私の観察力不足でそうした鶏を見つけることはうまくできなかった。後になって考えると、原因はもっと別のところにあるように思えてきた。それは、私ら飼育者が鶏を見ることなく、羽数表を見て鶏を管理するという飼育方法である。山岸さんは「百万羽科学工業養鶏」構想の説明会で、こういう話をしている。

「既に"一羽の鶏が完全に飼えれば、百万羽の鶏も同じように飼えて当然だ”と、こういう理論は成り立っておったわけなんです。一羽の鶏が飼えないのに、十羽の鶏も飼えない、千羽の鶏も飼えない、百万羽の鶏なおさらということなんです」(全集③14頁)

「一羽の鶏が完全に飼えれば」という言葉は、飼育者にはかなり強烈に突き刺さってくる。とうてい完全に飼うことのできない自分であることを自覚すれば、鶏舎の前に謙虚に立たざるをえない。またそれは個々人の力では不可能であることに思い至れば、試験場を盛り立て、共に進もうとするだろう。

 この「一羽の鶏」という言葉は、「一本の柿の木」「一本の桃の木」とも「一匹の豚」「一頭の牛」とも読み替えることができる。そしてこれを「一人の子ども」と置き換えた場合にどうだろうか。一人の子どもも見ることのできない世話係りが、大勢の子どもを世話したらどういうことになるか。「子どもとはこういうもの」という画一化した見方によって、子ども一人ひとりの違いも秘められた可能性も無視することになる。

 山岸さんは「養鶏書は幸福の書だ」と書いているが、まさにその通りの奥深さであることを改めて感じさせられた。

 

〈9月×日)

 喜一さんの葬儀のことから、養鶏書を読み返す作業を繰り返して、少し疲れてしまった。山岸さんは「本書は……天才的知能を持つ非凡な人でも、30回以上熟読しなければ判らないでしょう」と書いているが、凡庸な上にもなお凡庸な知能しか持ち合わせていない自分には、なかなか理解できないとしても当然であろうと思われる。しかも、まだ数回しか読んでいないのだから尚更である。そして序文の最後に、次のように書いて警告を発していることが心に響いてくる。

 

「本養鶏法は、唯今すぐに間に合いそうな技術とか方法に関する部分を、切り離して実施するなれば、必ずや詰りと不幸が、必然的に見舞う様に仕組まれてあるのですから、決して拾い読みしたり、走り読みしないで、全巻初めの序文から末尾の結びの文まで一字も余さず、繰り返しくり返し熟読し理解して頂くこと、そして必ず、研鑽会に於て輪読会を開き、お互同志が、徹底的に研鑽し合うべきことを、銘記して頂きたいのであります」(全集①17頁)

 

  昨日は、午前中に息子と一緒にS夫妻来てくれた。また、午後からはE夫妻の訪問を受けた。そのいずれでも、喜一さんの葬儀のことが話題になった。私の思うところも出してみたり、みんなの話も聞いてみて、推測は推測にすぎないけれども、これをきっかけにヤマギシの養鶏や養豚、養牛のことや、更にもう一つ突っ込んで実顕地のあり方が、考えられていったらいいなと思った。みんな実顕地の現状に危惧の念を抱いているのだし、口には出さないけれどもそういう思いを抱いている人は、かなりたくさんいるように感じた。 

 

〈9月×日〉

 小林雅一氏の『ゲノム編集とは何か』(講談社)を読む。非常にわかりやすく現代の遺伝子工学の現状を解説している。従来の「遺伝子組み換え技術」が一万分の一、百万分の一の確率でしか成功しなかった遺伝子の組み換えを、「クリスパー」と呼ばれるゲノム編集の技術を用いれば、DNAを構成する無限の文字列をピンポイントで書き換えることができる、というのである。そのため、組み換えに要する期間とコストを劇的に圧縮することができるらしい。遺伝子工学や生命科学の分野では、今その応用・実現化に向けて熾烈な競争が繰り広げられているという。

 科学というものが、一方において人類の幸福と福祉に貢献してきたことは間違いないが、他方においてとんでもない不幸の原因にもなってきたことは疑いようもない。この「クリスパー」の技術を使って、今は不治の病とみなされているガンやパーキンソン病などを根治できるかもしれないが、これを「人間の改良」に使おうとする動きも出てきている。アメリカのジョージ・チャーチ博士(ハーバード大学医学大学院教授)は「ちょうど美容整形をするような気持ちで、自分の遺伝子を改良する時代がくる」と語っているそうだ。これをもう一歩進めて、DNAを全部人工的に作り上げる「ヒト・ゲノム設計計画」というものまで始まっている。ここまでくると、どこまでが人間でどこからがロボットなのかわからなくなる。しかし、これが人類にとって幸せと言える事態なのだろうか。

 

〈9月×日〉

 科学というものを戦争との関連でとらえると、その二面性がよりはっきりする。NHKの「映像の世紀プレミアム第2集」を見て、その感をいっそう強くした。この映像は、20世紀初めからの科学者の戦争への関わりを歴史的に映し出しているが、最初の登場人物がアルフレッド・ノーベルである。彼は、ダイナマイトの発明で莫大な財産を築き、"死の商人”と言われた。その彼が罪滅ぼしかどうか、遺産を基にノーベル賞を創設したが、その際こういう言葉を残している。

「この世の中に悪用されないものはない。科学技術の進歩は常に危険と背中合わせだ。それを乗り越えて初めて人類に貢献できるのだ」

 第一次大戦前後から、兵器の発明・改良が相次いだが、その際に科学者が語る言葉は決まっている。

「早く戦争を終わらせるために」。あるいは、

「犠牲者をできるだけ出さないために」

 こうして、ドイツのガトリングは、それ一丁で大部隊を撃滅できる機関銃を発明し、ライト兄弟は飛行機の軍事利用に努力を重ねた。またドイツのハーバーは、空気中から窒素を取り出す方法を発明して、農産物の増産に寄与したが、同じ技術から毒ガスを作り出し、第一次大戦で大量に使用した。毒ガスは後にユダヤ人虐殺に用いられたし、今なお研究が続けられている。ハーバーは、妻クララの反対を押し切って毒ガスを開発するにあたり「毒ガスは戦争を早く止めさせ、ドイツの兵士を救うのだ」と語っていた。

 この「戦争を早く終わらせ、犠牲者を少なくするため」というキャッチフレーズは、戦時下の科学者たち誰もが異口同音に発した言葉である。アインシュタインもそうだし、原爆開発にあたったオッペンハイマーも、V2ロケットから宇宙開発まで手掛けたフォン・ブラウンも、そう語った。アメリカ国民の多くが、今なお広島・長崎に対して同じ考えを持ちつづけている。

 ただ、この中でアインシュタインだけは、ルーズベルトに原爆開発を勧めたことを生涯最大の失敗と認め、後の人生を核廃絶運動に捧げた。そのアインシュタインが、フロイトに書いた手紙が、映像の中で紹介されている。

「人類を戦争の脅威から救う術はあるのだろうか」

 それに対してフロイトはこう返事を書いた。

「歴史を見ると、人間の心の中にとてつもなく強い破壊欲望があることがわかる。この破壊欲望はどの生物の中にも存在しており、それは生命のない物質に引き戻そうとしている。人間から攻撃的欲望を取り除くなどできそうにありません」

 ウ~ン、フロイトはそう言ったか。山岸さんは人間の知能によって戦争は無くすことができる、と言った。しかし、太古以来、人類が戦争を免れたことなどあったのだろうか。とにかく、書かれた歴史(記録された歴史)は、すべて戦争の歴史でもある。もし万一にも、人類が戦争を免れることができたにしても、科学は人類に役立つと同時に破壊的作用を及ぼすことを避けることはできないだろう。科学、あるいは人間の知能の持つ、相反する二面性を認めたうえで、私たちは自分のできるところから少しでも平和な世界が広がるよう努力する以外にないのか、と思ったりする。

 

〈9月×日〉

 NHKスペシャル「縮小日本の衝撃」を見る。

 地方の諸都市で人口減少が続いていることは知っていたが、東京都区内でも減少が始まっているとの報道には驚いた。地方からの人口流出で、都市の人口は増え続けているものとばかり思っていたが、すでに頭打ちが始まっているというのだ。とにかく高齢化が進み、出生率は1・4と伸び悩んでいる。

 夕張市はすでに財政破綻し、いまなお再建のメドはたっていないし、破綻寸前の市町村は増え続けている。幾つかの市では、住民による自主的再建への道が模索されているらしいが、これといった成功例は見出されていない。

 こうした現実の中で、この国の若者たちはどうしているのだろうか。朝日新聞に紹介された日本財団の調査によると、20歳以上の日本人の4人に一人が本気で自殺を考えたことがあるという。なかでも20~30代の若者世代では、男女とも30パーセントを越えている、という結果が出ている。

 とにかく今日本の社会からは先行きの見通しが見えず、若者は希望を持てない環境に置かれている。こういう中で、ヤマギシは何を提示できるのだろうか。少なくとも、孤立化して内向きに閉じこもっている若者たちに、共に話し合える連帯への可能性を示すことはできないだろうか。学園出身者、あるいは楽園村経験者の中にも、いま苦しんでいる人たちがいるかもしれない。こういう状況を見ると、何か時代から問いかけられている気がして仕方がない。

 

〈9月×日〉

 人の話を聞くのは、本当に難しい。何らかの予見をもって自分の聞きたたいように聞いていることが多いからだ。一方、自分が話をする場合でも、自分の思っていることを全部話しているかといえば、そんなことはない。ごく一部しか話していないし、場合によっては思いとは違うことを話すこともある。人と人との間で繰り返される会話というものが、いかに危ういコミュニケーション通路であるかがわかる。しかし、この危ういコミュニケーション通路以外に、人と人とが心を通じ合わせる手段はない。とすれば、人の話を聞くにはどうあったらいいのかは最大のテーマであろう。

 最近、沢木耕太郎氏の『流星ひとつ』を読んだ。これは、彗星のように現われ、彗星のように消えていった稀有な歌い手、藤圭子に対する、全編インタビューで構成されたドキュメントである。私は、歌についての感覚が乏しいから、強烈に記憶に残っている歌は少ないが、藤圭子のあのサビのきいた「夢は夜開く」だけは、耳奥にずっと消えずに残っていた。 

   「15、16、17と 私の人生暗かった

    過去はどんなに暗くとも 夢は夜ひらく」

 沢木さんのこのインタビューは、藤圭子が歌手をやめてアメリカに渡る30年前に行われたものであるが、彼女が再び芸能界に復帰することを慮って、発表を封印していたものであった。しかし、彼女が自殺し、娘の宇多田ヒカルが「母はずっと精神を病んでいた」というコメントを出したのを見て、藤圭子にはこんな精神の輝きがあったことを知ってほしいとの思いから、この本を世に出すことにした、と沢木さんは後書きに書いている。

 いや、私の書きたいのは、こうした出版事情ではない。このインタビューの見事さを言いたいのだ。人の話を聞くとはどういうことかが、よく示されている。相手の話を聞いて、それをその通りに書くだけなら誰でもできる。ある種の予見を持って、こちらの意図したように相手の言葉を引き出すこともできないことではない。しかし、相手の心の奥底に秘かにしまいこまれているもの、あるいは思ってもいないもの、意識下、無意識にあるものが、思わずポロッと出てきてしまうような聞き方というものは、なかなかできるものではない。鋭い質問、時には相手の心にメスを入れるような問いかけ、それでいて相手に寄り添い誠意を失わない態度、こうした姿勢があって初めてインタビューが成立する。

 聞くというと、ただ黙って相手の話を聞くことだと思われがちだが、これではとうてい人の心を聞くことはできないだろう