広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(17)

』わくらばの記 たまゆら①(17・1) 

 2017年の正月を迎え、手記のタイトルをどうしようかと考えているうちに、夢うつつに〈たまゆら〉という言葉が浮かび上がってきた。目覚めてから、言葉の正確な意味を辞書で調べると、「玉が触れ合ってかすかに音を立てる意」で、そこから「ほんのしばらくの間」とか「かすか」を表す語として用いられているという。インターネットには、宝塚で「たまゆらの記」という劇が上演されたとの記録もある。まあ、「ほんのしばらく」というのは、私の病状から言ってふさわしくないことはなく、また「たまゆら」という言葉の響きが好ましい印象だし、これを魂と魂との響きあいと解釈すれば、なお私の求めているものと一致するように思えた。

 

〈1月1日〉

 元旦。久しぶりに、この日に年賀状を書いた。元旦と署名する以上、年賀状はすがすがしい気分で元旦に書くのが本当ではないか、と思ったのである。しかし、しばらくして何人かから送られた年賀状を受け取ると、やはりこの日に読む賀状はいいものだなと思ったりもする。どうも自分の心の置き所によって、感じ方がずいぶん違ってくるものだ。

 もう一つ今年は、村の人や普段から顔を合わせることの多い人には、賀状を出さなかった。何か儀礼的・慣習的になっていて、あまり心がこもっていないように思ったからである。その代り、出した人にはパソコンを使わず、文面から宛先まで全部手書きにした。手書にすると、一人ひとりの顔が目の前に浮かんできて、直接その人に語りかけるような気分になり、自分なりに心がこもった感じになった。

 なお、磯田道史氏の『江戸の備忘録』を読んでいたらこんな文章が書いてあった。

「ちなみに江戸時代は、お正月になってから、年賀の書状をしたためた。このごろは、元旦に届けるため、年末に大忙しで書いているが、年賀状は本来、お正月を迎えてから書くものだから、正月休みにゆっくり書いても一向にかまわない」

 

〈1月2日〉

 この日、息子一家が来てくれた。しばらくみんなで話し合っているうちに、孫の一樹から鋭い質問が飛び出してきた。こうした真正面からの問いかけには、ごまかしたり、はぐらかしたりはできないなと思い、こちらも真剣に答えることにした。 

 ――年を取って体が衰えても筋肉は鍛えられるというから、筋肉ムキムキになる運動をしたらどうか。

「皮膚がたるんで皺だらけの体で、筋肉だけ鍛えることはできそうもない。鍛えることよりも、できるだけ衰えないようにするための足腰の運動はつづけている」

 ――もっと長生きしたいとは思わないか。

「生きられるだけは生きようとは思うが、より長くとは考えていない。薬や生命維持装置で、生きる時間を少しでも長くとは考えていない」

 ――もっと幸せになろうとは考えないか。

「その‟もっと幸せ”というのは、どういうことだろうか。幸せに普通の幸せ、もっとたくさんの幸せ、といった区別があるだろうか。幸せにAランク、Bランクという区別はないのではないか。もしあるとすれば、前のは本当の幸せではなかったということになる。幸せを感ずる中身は日々違っているとは思うが、その時その時を幸せに生きることが大切だと思っている」

 ――じゃあ、幸せって何か。

「その質問に全部答えることは難しいが、最近考えたことを言うと、自分を知るということが大事な一歩かと思っている。宇宙の話を聞くと、宇宙空間に存在する物質やエネルギーはほとんどが未知なるものだと言われている。その90パーセント以上は、不明な物質やエネルギーで、それを暗黒物質とかダークエネルギーと言っている。同じように、人間の心の宇宙もわかっていない。つまり、人は自分が何者であるのかわからぬうちに、一生を終えることになる。それにもかかわらず、みんな自分は自分だとわかったつもりになっている。じゃあ、何を以て自分だと思っているかというと、自分以外の何か――例えば財産とか名誉とか地位とか知識とか――そういうものが自分であると思っているのではないか。しかし、そうした自分以外のもので自分を幸せにはできない。それでは、おじいちゃんは自分がわかっているかと聞かれると、とうていわかっているとは言えないけれども、わかっていないことがわかったとは言うことができる。だから、自分の心の中を旅する努力をしているが、それが楽しい。そこに生きがいを感じている」 

 そんな話をして、多分よくはわからなかったと思うが、真面目に答えたことの何かは伝わったかもしれない。

 

〈1月×日〉

 娘の迎えにバス停まで車を走らせたが、T字の曲がり角で目測を誤り、縁石に前輪をぶつけてパンクさせてしまった。車の運転にはある程度自信があったが、それが揺らぐ瞬間であった。その時何よりも嫌らしいのは〈パンクしたために縁石に乗り上げた〉という言い訳が出てきたことである。未だに自分を素直に認めようとしないものが巣くっているのか、と我ながら情けない思いであった。しばらくして、山本さんがパンク修理に駆けつけてくれた。

 翌日、ロビーで新聞を読んでいると、山本さんが来て今日研鑽会をしたいということで、夕方石角君を入れた3人で研鑽会を持つことになった。昨夜の仲良し研で、私の事故のことが話題になったのだと思った。

  やはり話はそのことで「そろそろ運転をやめたらどうか」ということだった。「昨日は今月のテーマの〈気になることを出し合う実顕地〉というテーマで研鑽したが、その中でみんなが吉田さんの運転について心配している。最近の高齢者による事故の多発というニュースもあり、みんなが心配する気持ちをわかってほしい」。そういう話だった。

 私もみんなが心配してくれる気持ちはわかるし、自分でも運転に固執するつもりはないが、ただ「はい、止めましょう」では何も研鑽したことにはならないのではないかと思い、次のように話した。 

「最近、高齢者の年齢を65歳から75歳に引き上げる提言が出ている。これには年金の支給と関連した政治的な意図が含まれているかもしれないが、一般に元気な高齢者が増えていることは間違いない。一般的に年を取るにつれて体力も知力も衰えることは間違いないが、これにはかなりの個人差がある。だから、何歳以上が高齢というのは、一つの目安にはできても絶対的な基準にはなりえない。若くても危ない運転をしている人はかなりいる。もし、安全な運転ということがテーマであるなら、年だけを基準にするのではなく、個別的な運転の点検やそれに基づく研鑽をしてほしい」

 ということで、近々実際に運転状況を見てもらうことになったが、ではこれで研鑽になったかといえばとうていそうは思えない。これは事柄の処理であって、問題は事柄の処理を通して〈本当はどうか〉と検べ合うことであり、検べ合う関係を深め合うことでなければならない。しばらく話し合っているうちに、少し研鑽できたかなという感触を得ることができた。

 しかし、今の実顕地の研鑽会というのは、事柄をどう処理するかに終始しているように感じる。〈気になること〉を出し合うのはいいとして、みんなそれだけで研鑽が成り立っているように思っているのではないか。そんなものは話題の出し合いにすぎず、それをどう処理したところで研鑽とは言えないのではないか。出し合ったことを研鑽に結びつけることがテーマであり、それこそが一番大事なことだと思うのだ。

 テーマにそってさまざまな話題が出てくるが、まずそれを考える自分の考え方が常識や既成観念にもとづいていないかどうかを調べる必要がある。例えば「75歳以上は運転をやめるべきである」あるいは逆に「本人ができると言う以上、止めさすべきではない」と、予め決めたものを持っていたら研鑽にはならない。常識や決め事にもとづく考え方にとらわれている限り、自分の頭で考えることをしていない、つまり思考停止の状態になっているからである。そして研鑽のないこの状態には、自己変革の契機は含まれていない。

 私も、自分の事故という失敗を通じて、これを材料に研鑽機会を増やしていきたい、といま思っている。

 

〈1月×日〉

 鎌田浩毅氏の『地球の歴史(上)』(中公新書)を読む。地球史研究の最先端の書ともいえるのではないかと思った。宇宙の話や地球の話は、昔から興味があり、松井孝典氏のものを始め何冊か読んでいるが、どうも頭に残っていない。その時はわかったつもりでいても、翌日には忘れている。どこか記憶装置に欠陥があるらしい。鎌田氏のこの本も同様なのだが、それはともかくとして、この本には地球というこの星の生成の偶然から消滅の必然までが一望のもとに描かれている。

 ビッグバンによる宇宙の誕生から太陽系の誕生まで、その太陽系の質量の99パーセントを太陽が占めていて、地球を含む他の惑星全部を集めても質量はその1パーセントにも及ばないなどと知らされると、なんとまあ地球は小さいのかと思わされる。しかも、地球はその大きさと太陽との距離の関係で、唯一水を持つ惑星として存在することができ、生命を誕生させることができた。その地球も、48億年の歴史の中で変動を繰り返し、超大陸の形成から分裂、再形成という過程を繰り返し、超大陸「ヌーナ」から始まって「ロディニア」「ゴンドワナ」「パンゲア」という4つの超大陸の形成と分裂の後ようやく今の5大陸が生れたというのである。そして今の5大陸も分裂と再形成の過程にあり、やがてアメリカ大陸が北上し、ユーラシア大陸と北極付近で衝突する、そのさいオーストラリアはインドの隣に寄り添いながら最後に合体するというのである。

 これは、カナダの地質学者ツゾー・ウイルソン教授の新たなプレートテクトニクス理論(ウイルソン・サイクル)に基づく2~3億年後のシュミレーションということであった。2~3億年後まで人類が生き延びているかどうか、そのとき日本列島はどうなっているのかわからないが、こういうものを読んでいると何か壮大な気分になってくる。尖閣は固有の領土とか南シナ海は固有の領海などと言っている現代の政治家どもの頭の構造を疑いたくなる。地球は地球自身の運動(プレートテクトニクス)に基づいて島を作ったり、無くしたりしているではないか。

 しかしまた、億単位の地球時間から人間の生きているこの僅かな人生の時間に軸足を移すと、明日どうなるかといった目先のことが優先されてくる。人間は、この巨視的な時間と微視的な時間とのはざまで生きる以外にないのか、といったわかったようなわからないような気分を味わっている。

 

〈1月×日〉

 今の日本の経済を扱う論説は、ほとんどが成長こそが豊かさをもたらすものと言っている。そしてそれを受け取る私たちのほとんどが、疑問を抱くことなく、そんなものかと何となく納得している。しかし、経済成長なしに豊かさや幸福は得られないのだろうか。このことは、ここ10数年、疑問としてずっと頭から離れなかった。しかし、新聞・雑誌はもちろん、それに答えてくれるような回答には出会うことなく(というか、小難しい経済書は読んでいないということだが)、ヤマギシ周辺の誰に聞いてもまともに考えている人はほとんどいなかった。

 だいたい洋服など次から次へと作る必要はどこにもなく、トマトやキュウリを去年よりたくさん食べよと言われても困る。にもかかわらず、成長こそが繁栄のカギだと、安倍さんから労働組合までが歩調をそろえて唱える。本当にそうなのだろうか。もしかしたら、これは経済の仕組み自体が間違っているのではないか。自転車ではないが、走っていないと倒れてしまう経済が、今の資本主義のシステムなのではないか。と、ここまではよく考えるのだが、じゃあそれに代わるものが考えられるのか、というところでいつもわからなくなる。

 20世紀の末までは、社会主義が資本主義のアンチテーゼとして考えられた。しかし、ソ連が崩壊した後は先行きが全く見えなくなった。ヤマギシの無所有経済と言っても、一気にそこへジャンプできるわけではなく、そこに至る道筋が見えない。

 そんな時、ふと手に取ったのが水野和夫氏の『資本主義の終焉と歴史の危機』である。20世紀の末以来、すでに資本主義の終わりが始まっているという論説はかなり説得的で理解しやすい。急いで水野氏の他の著作『国貧論』(太田出版)、『株式会社の終焉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読んだ。

 水野氏によれば、資本主義とは「資本の自己増殖運動」を基本とする経済体制である。そして資本の利潤率は国債の利子率と最終的に一致する。日本の10年もの国債の利率がゼロになり、日銀がマイナス金利を採用するに及んでは、すでに資本の自己増殖は不可能な段階に入っている。つまり、資本主義は資本主義として存続不能な段階に入っているというのである。それでもなお資本が利益を上げているのは、生産やサービスの提供で得られた売り上げの内から、当然支払うべき従業員の賃金や下請け企業への支払いを切り下げ、実質賃金の切り下げを行っているからだ、という。そのための手段が、派遣労働、非正規雇用の増加である。ここに貧困が定着する根本原因がある。

 資本主義は自己の周辺に絶えず拡大し得る地理的・物的空間を必要とし、17~20世紀は植民地の拡大に、20世紀後半はアジア・アフリカなど後進地域の商品市場獲得に鎬を削ってきたが、やがて電子・金融空間に新たな活路を見い出そうとしてきた。しかしそれも今や行き詰った。つまり、無限空間への拡大として始まった近代が、有限空間にぶつかった、それが現代だというのである。

 水野氏の言わんとするところを大雑把に要約すれば、以上のようなことになるのではないか、と思われる。では、資本主義に代わるべき社会はどのようなものか。それはわからない、と水野氏は言う。資本主義が中世から近代にいたる長い時間を経て熟成されたように、次の社会は恐らく2~300年という長期のスパンでやっと姿を現すのではないか、というのである。「では、どうしたらいいか」。こう述べて、氏は次のように続ける。

「一つだけ言えることがあります。近代というものはより速く、より遠く、より合理的にということでしたので、この三つはやってはいけないことになります。したがって、よりゆっくり、より近く、より寛容にという延長線上で考えていくことだと思います」(『国貧論』221頁) 

 

〈1月×日〉

 どうも経済の話というのは、数字や図表がたくさん出てきて、それだけで頭が痛くなり眠くなってしまう。ここ数日、机に向かって居眠りしている自分を何回も発見した。それでも資本主義の命運から関心が離れないものだから、理解力のほどはさておいて、何冊か読み通してしまった。

 水野氏によれば、中世から近代へ、つまり封建制から資本主義体制への移行には「長い16世紀」と言われる長い時間を要したように、資本主義から次の時代への移行も「長い21世紀」という長期の時間を必要とするだろうという。そして、次の時代への移行のためには「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という在り方が大事だという。つまり、今の時代の真逆な在り方こそが求められているというのだ。

 恐らく次の時代は、今の時代の中に静かに胚胎しているのではないだろうか。中世の12世紀にイタリアのフィレンツェで秘かに始まった金利というものが、貨幣を資本(カネがカネを生む貨幣)に変える出発点になったように、今の資本主義社会の中にも秘かに次の時代への飛躍を約束するものが準備されているかもしれない。それがヤマギシの実顕地であるか、鈴鹿のアズワン・グループであるか、それとも木花グループであるかはわからない。いずれにしても、それは「より速く、より遠くへ(さらに言えばより大量に)、より合理的に(そしてより科学的に)」という方向とは逆の方向でなければならないだろう。私たちは、自分たちが楽しく生きるというだけの自己満足に終わることなく、今の生き方の中に次の時代を準備する新しい芽を見い出し、育て上げるようにしなければならない。果たしてそれは何なのか。

 

〈1月×日〉

 病気になってから実顕地を離れることはなくなったが、東京へ行ったときなど一番強く感じるのは、実顕地の外では鍵なしには生活できないということである。一人ひとりがみんな孤立していて、互いに不信感を基に生活している。この不信感は、共同性と相容れない。その昔、文化生活の最先端としてあこがれの的であった公団住宅や田園都市住宅には空き家が目立ち、住むのは老人ばかりになってしまった。こうなると、プライバシーを守れる最も先端の住宅と言われたものが、老人の孤独死を防ぐことのできない陸の孤島と化してしまった。いまはやりの高層マンションなども、やがてはバベルの塔のように廃墟と化す日が来るのではないだろうか。

 次の時代を考える上での社会形態としては、このへんのところは非常に重要だと思う。住民同士の信頼関係を基とした共同性の確立、これ無しに鍵のない豊かな楽しい暮らしは実現できない。実顕地は、その最先端を行くものと言えるのではないか。もちろん、居住形態などは将来変わっていくし、多様化するとは思うが、元になる考え方としては、これしかないのではないだろうか。

 ただ、次の時代を考える際に幾つかの重要と思われる問題がある。そうした問題について、少しずつ考えていきたい。そのさい、山岸さんの発言の中から、実顕地に関するものと、理念研に関する全発言を読み直しておきたいと思いながら、その前に読んでおきたいものもあって、少し時間がかかりそうである。だから、これから書くものは、すべて今の自分の思いつきにすぎない。

 

〈1月×日〉

 最初に思ったのは、〈無所有〉についてである。理念としての〈無所有〉は、特講を受けたものなら誰でも理解できるだろう。では、誰もが無所有の生き方ができるかと言えば、そうは言えない。多かれ少なかれ、所有観念を免れていない。研鑽学校で「誰のものでもありません」と言った口も乾かぬうちに、お小遣いや提案金額でひっかかったりしている。私もその一人である。理念と実態とは一致しない。それが現実である。にもかかわらず、あたかも〈無所有〉の生き方をしているような、あるいは〈いかなる場合にも腹の立たない人間〉であるかのような、あるいは〈無我執一体〉の生き方ができているようなふりをする。ここに、嘘・偽りがある。嘘・偽りがある以上、それは真実の生き方ではない。

 では、真実の生き方に近づくためにはどうしたらいいのか。そこに求められるのが、研鑽であろう。研鑽は、理念と実態とが一致しないからこそ必要なのであり、その研鑽は事実を事実として認めることからしか始まらない。

 〈無所有〉について思い出すのは、春祭りのことである。山岸さんの墓前祭から始まって、春まつりになり、散財まつりになり、タダのまつりになり、社会まつりになった。この祭りでは、タダで食事をふるまい、卵などを大量に配って大盤振る舞いの饗宴を繰り広げた。準備研でテーマとして言われたのは「タダの社会気風をつくる」ということであった。しかし、これによってタダの社会気風は醸成できただろうか。意図に反して、我がちの囲い込みの風潮をもたらした面はなかったろうか。つまり、所有観念を満足させる結果になっていなかったか、ということである。

 では、祭りをやっている自分たちの方は、祭りを通して本当に無所有を深めることができていただろうか。参加者の多さをイズムの広がりと錯覚する独りよがりの考え方に陥っていただけではなかったか。その後に続発した財産返還訴訟などを見るまでもなく、私たちの日常生活そのものがとうてい無所有と言える域に達していない。この未到達の自分を素直に認めるところを出発点として祭りを考え、組み立てていくことが大切だったのだと思う。それがどういう形の祭りになるかはわからないが、こうした生き方を地道に行おうとする実顕地の気風に触れることで、この生き方を共に行いたい人が増えていくのではないだろうか。そこにこそ真の拡大があるのだと思う。物をタダで配ることで無所有の社会気風が拡がるなどというのは、誤った幻想にすぎなかった。しかし、今なおこの幻想から私たちは自由になっていない。「安く」そして「大量に」という成長路線・量的拡大路線から自由になってはいない。

 

〈1月×日〉

 1980年代だったと思うが、豊里に配送センターが作られた。北海道から九州まで日本全国の供給所を結ぶ生産物の配送指令所である。それより少し前には、全国の養鶏所を一律管理する本庁養鶏部が作られている。どちらも大きく、大量に、素早く、需要に応ずるための管理システムである。まさに成長路線に沿ったシステムであった。当時は、これでヤマギシズム社会化が大きく進むと考えられていたし、私たち自身も諸手を上げて賛成した。                      

 しかし、今そのどちらもが村には存在しない。それがなぜなのか、村の中で真剣に考えられてはいない。一時全国に増え続けた活用者は、みな高齢化してグループは解消し、供給所は次々と閉鎖を余儀なくされた(単なる高齢化というだけでなく、その背景にヤマギシに対する不信感もあるようだが、それについては直接話を聞いていないのでここでは触れない)。供給に代わって、ファームという直売方式の店が、豊里に始まって名古屋、堺、町田と各地に作られているが、これが次の時代への先駆けとなりうるのかどうか。「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という水野氏の次世代への予測を参考にしながら、考え続けていきたい。

 経済問題とは違うが、本庁養鶏部、配送センターが作られた時期は、特講拡大・活用者拡大・楽園村拡大・学園拡大・研鑽学校拡大、そして全員参画という実顕地拡大の時期と重なる。いずれも量的拡大を目指したもので、これによってヤマギシズム社会化が進むと考えられていた。しかし、現実は違っていた。「より速く」とか「より大量に」とか「より遠くに」という考え方の中に決定的に欠けていたものがあったのである。それが何であったのか、今それを考えることが次の時代を考えるきっかけになるのではなかろうか。

 

〈1月×日〉

 韓国の朴槿恵大統領が弾劾訴訟で職務停止の処分を受け、慰安婦問題の協約が機能停止の状態になった。さっそくソウルの日本大使館前には慰安婦像が持ち込まれ、釜山の領事館前にも新たな慰安婦像が設置された。この問題をめぐって、日韓の亀裂が深まっているが、これは政府間レベルではなく、もっと民間レベルで考えていくべき問題であるように思われる。

 思うに、私たち日本人はあまりにも歴史認識が浅い。日本と韓国(朝鮮)をめぐる近代史について、あるいは中国を含むアジア近代史について、ほとんど知らない人が大部分を占めているのではないだろうか。

 例えばここに、写真に写った一人の青年がいる。彼は韓国・朝鮮では民族の英雄であり、日本では犯罪者・テロリストである。彼の名は安重根という。1909年10月、ハルビン駅頭で前韓国統監の伊藤博文を殺害し、翌年2月、死刑に処せられた。彼は果たして英雄なのか犯罪者なのか。こうした問題は、国家レベルでいくら考えても答えは出ない、というか双方の主張の隔たりが大きくなるばかりである。一人の人間としての立場から考えていかない限り、本当のものが見えてこないだろう。

 私が初めて韓国を訪れたのは、88年のソウルオリンピックの後だから、多分89年か90年だったと思うが、大韓航空の機内に置かれたパンフレットを見て驚いたことがある。そこには豊臣秀吉の朝鮮出兵が、日本の侵略として大きく取り上げられていた。文禄(1592年)・慶長(1597年)の役として知られるこの事件は、私の頭ではとっくに歴史のかなたに消えていた。しかし、韓国の人の中ではつい先日の出来事としての現下の記憶なのである。朝鮮半島が他国の支配を受けたことは度々ある。唐の支配下に置かれたことがあるし、元の支配下で軍船の製造と兵士の出兵を命じられ、二度にわたる元寇の役で多くの命を奪われたこともある。しかし、これらの事件は既に歴史の一頁と化している。だが、秀吉の出兵は歴史上の過去の出来事にはなっていない。なぜなのだろうか。

 私が韓国実顕地の配置になって、韓国のメンバーとだいぶ親しくなったと自負していたが、時折心の底にあるものを覗かせてこちらをどぎまぎさせてくれることがあった。黄(ファン)さんだったか、張(チャン)さんだったか、ロビーでこんな話をしてくれたことがある。

「日本時代(日本の植民地下に置かれた1910~45年の時代)にね、韓国のハルモニ(おばあさん)たちは、孫たちにこういう話をしていたんだ。昔倭奴(ワヌ、日本人のこと)たちは何も知らないものだから、葬式には何を着たらいいかと聞きに来た。あまりにも無知だから、本当は白い着物を着るのだが、黒いのを着るのだ、と教えてやった。だから今でも日本人は黒を喪服にしている。また、食事には何を使ったらいいかと聞きに来たこともある。本当はスッカラとチャッカラ(スプーンと箸)を使うのだが、チャッカラでいいと教えてやった。それで日本人は食事に箸しか使わなくなったのだ」

 貧しい薄暗い灯の下で、孫たちにこんな話をしていたハルモニたちの姿を想像すると、民族の誇りを抑圧された恨みが植民地下の民衆の間に根深く伸び広がっていたことを感じさせられる。そしてこの感情は今なお消えることなく、何か事があれば吹き出るマグマとして存在しつづけている。慰安婦問題をめぐって日韓両政府が「最終的かつ不可逆的に解決した」といくら強調したところで、民衆の心はこんな政治的文言や10億円の拠出で解消できるものではない。

 梶山季之のデビュー作となった小説『李朝残影』は、直木賞候補になった優れた小説であるが、日本植民地下で妓生となった美しい韓国女性の悲しくも激しい生きざまを描いたものである。そして同じ文庫に収められたもう一つの中編小説(題名は失念した)は、創氏改名という日本化政策の下で氏名を日本風に改めなければならなくなって、自殺する地主の話であった。これらの小説を読み直したいと思って探したが、既に絶版になっており、四日市の図書館にも置いてなかった。

 ところで私たち日本人は、こうした韓国併合とか、創氏改名とか、朝鮮語使用禁止とか、もっと前の閔妃(みんび)殺害とか、そうした出来事についてどれだけ知っているだろうか。またもし仮に、私たちが明日から日本語の使用を禁じられて韓国語でしか会話できなくなったり、名前を韓国風の3文字に変えよと強制されたら、何を思うだろうか。こうした想像力を働かせない限り、韓国の人たちの心の底にあるものを理解することはできないだろう。

 しかし、私のような考え方は、一部からは「自虐史観」と非難される。そして、彼らはアパルトヘイトを叫び、憎しみを掻き立てる。もちろん、韓国にも反日を掻き立て、真逆なアパルトヘイトで自らのナショナリズムを満足させている人たちもたくさんいるだろう。しかし、侵略・植民をした側とされた側と、過去の歴史にどちらが責任を持つべきものなのかと言えば、もちろん侵略した側なのである。だから、された側が、もうよかろうと言ってくれない限り、慰安婦問題は解決したことにはならない。

 

〈1月×日〉

 日韓をめぐる近代史について、私たちはあまりに知らなさすぎる。そのことについて、村で話したことがあるが、ある人から「知らないからいいのだ」と批判されたことがある。つまり「あなたのように考えていくと、逆に何にもないところに差別感情を生み出してしまう」というのだ。そして「韓国の特講の係りに行った人の話では、参加者の誰にも反日感情など少しもなかった」というのである。それはそうかもしれない。もし、言わないことが無いことならば、である。

 しかし、知らないこと、無知であることが仲良しの条件なのだろうか。知ろうと努力することが無駄なことなのだろうか。相手を理解する、心の内を知ろうとすることが、差別を生み出すことなのだろうか。

 人と人とが仲良く楽しく平和に暮らすためには、相手に対する理解は欠かすことができない。そしてどんなに相手を知ろうと思っても、なかなか相手の心の底を知ることはできない。そんな程度の自分たちであることを自覚しながら、進む以外にないのではなかろうか。

 

〈1月×日〉

 トランプ氏が、いよいよアメリカ大統領の座についた。次々と打ち出される大統領令を見ると、なんともまあすさまじい。世界は、自国中心のナショナリズムむき出しの争いの場と化するのではないか。これまでのオバマ政権の下でも、自国中心主義の考え方がなかったわけではない。しかし、ある程度の国際的協調がなければ、自国の利益も守れないことを知っていた。それが今やむき出しの自国中心、白人の利益中心主義に代わった。

 トランプ大統領の出現は、ヨーロッパ、特にフランス・ドイツ・イタリア・オランダ等の右翼勢力に勢いを与えた。しかし同時に、ヨーロッパの人々に警戒心をも呼び起こしているようで、今年前半の各国の重要選挙でどのような結果をもたらすかわからない。だがいずれにせよ、ナショナリズムというものは、ナショナリズム同士で結束することはありえず、必ず各国間の対立を引き起こす。これからの世界は、国家間の対立に加えて、民族・人種間の対立、宗教・文化間の対立を不必要に激化させることになるだろう。特に恐ろしいのは、イスラエルにおけるアメリカ大使館の移動である。テルアビブからエルサレムへ、これはアラブ民族の猛烈な反発を引き起こす。イスラエルとアラブ諸民族との対立は、これによって頂点に達し、第三次世界大戦の発火点となるかもしれない。

 このようなトランプ氏の政策を見ていると、昔よく見た西部劇を思い出す。やくざ集団を率いた悪徳地主が、力ずくで周囲の土地を奪って囲い込み、西部開拓を行っていくのであるが、今の地球上には開拓すべき西部は残されていない。資本主義発展途上の西部と資本主義末期の今の西部とは、まったく事情が異なるのである。しかも今の時代は、シェーンのような正義の拳銃使いで事が決着することはありえ

 これからイギリスに続いて、カナダ・メキシコ・日本・ドイツ・フランス・ロシア等との二国間交渉が始まる。力の恫喝によってフロンティアを獲得しようとするトランプ・アメリカに、各国がどう対応するか、目が離せない世界情勢になった。

◎書評『追わずとも牛は往く』

〇本書は、著者の40年ほど前の1976年から2年程の「北海道試験場」(「北試」―ヤマギシ会)の体験をふまえ、書き進められた記録文学である。

 実際の「北試」というより、その可能性をひろげた著者自身の想定した「睦みの里」であり、著者から見たヤマギシズム生活の振り返りである。

 著者が1976年から2年間体験した「北試」は、当時さまざまな研究者などから注目されていた。読むに従って、共同体とは何か? 労働とは? 人と人との生身の人間としての心の交流とは? など、ともに考えていく内容に満ちている。

 また「理念」でつながる共同体と、一人ひとりの「生命力」でつながる共同体の本質的な違いを思った。

 最後の10頁程のエピローグで、「睦みの里」の解散から、「実顕地」での著者の体験の20年余にわたる総括が述べられる。そして現在の心境が語られる。不思議な構成の作品である。

 エピローグの『ヤマギシズム実顕地』での著者の体験の20年余にわたる総括部分は、ある程度「実顕地」を知る人にとっては、簡潔にまとめてあるように思う。

 本書の特質として、ヤマギシの生活体に関するおそらく初めての文学作品となるだろう。

 今後の希望として、著者自身のことを主にして、「ヤマギシズム生活、実顕地」の村人一人ひとりがどのように変容していったのか、その心の動きなど、著者の視点から、きめ細かく描いていくことが、「ヤマギシズム生活体、実顕地」について、さらに『睦みの里』と併せ読むことを通して、机上のコミューン論を超えた一つの記録文学になるのではないだろうか。

 

参照:本書「エピローグ」より

エピローグ 

 一九七八年三月 『睦み』メンバーはほとんど全員が『全人愛和会』に再参画。『睦みの里』は解散した。(※「全人愛和会」は「ヤマギシズム実顕地」のこと)

(中略)

  その後の全人愛和会について特筆すべきことは多い。まずその発展の目覚ましさは、その種の共同体運動の中では画期的なものであった。

 その一つは一九八〇年ころからの養鶏等の産直路線の成功とそれによって各地に鶏舎建設をベースにした新たな生活体が急激に設立されていったことである。さらにもう一つはその後、「農体験合宿ツアー」に参加していた消費者グループの子どもらの増大がヒントになり「学園」が構想されていった。全人愛和会メンバー子弟の従来からの生活の場であった「学育」に外から子どもを受け入れたのである。それによって親の参画者も急激に増えてきた。それは結果的に人手不足による長時間労働の改善にもつながってきた。

 それとともに全人愛和会の生活の変貌は、古いメンバーにとっては、まさに夢の暮らしだった。大理石づくりの浴場、普通の家庭料理の水準を越えた食事、こざっぱりした新調の衣服、そして月々なにがしかの小遣い、季節ごとの親睦行事。おまけに診療所や養老施設までできていた。まさに自称するように「ゆりかご前から墓場の後まで」の施設環境まで整備されつつあった。 清貧が旨となっていた理想運動体が、こういう物質的繁栄まで到達できるなどというのはおよそ信じがたいことであった。

  それが可能になってきたのは、直接共同体理念自体への希求があったわけではない。時流にかなった自然食品や教育への敏速な対応からだった。それはそれで経営的には見事なものだったとも思うが、そこに慎ちゃんのいう「なーに理念に負けたんやない、ゼンコに負けたんや」という指摘が一面当たっていないとも言えない。

(中略)

 多くのメンバーにとって全く無自覚であったろうが、そのように全人愛和会の挫折は意外にも早かったのである。学園世話係の暴力事件や参画者の離脱時における財産返還問題を機に外部に反対派も生まれ、マスコミの批判も厳しくなっていった。上層部はその事実をひた隠しに隠し続けたが、一般メンバーはテレビを通じてその事実を知ることになる。その流れの大きな帰結が二〇〇〇前後の全人愛和会メンバーの急激な離脱だった。丈雄夫妻もいち早くそこを離脱する。離脱の始まりはなんらかの内部的な持続運動の帰結というより、個々人の「このままではここには居れない」の直観から始まった〝相互無告〟の行動だった。後には組織的に大がかりな行動に転化し、かなりのメンバーが「全人愛和」の〝壁〟を越えることになる。

 このような過程が示すものは、当然全人愛和会の組織構造の問題だった。これまで「大きな家族」の総親和的イメージの背後に、そこではいつしかごく一握りの指導部による序列化とトップダウンの体制が確立していたのである。丈雄がかつて感銘した「見出そう」「引き出そう」「合わせよう」のメンバーの相互関係がいつしかくずれ、体制に「沿う」「合わせる」が取り組みの主たるテーマになっていった。いつしか上部批判は影を潜め、互いに遠慮なく議論を交わした仲間の姿は消え、残るのは自問自答の息苦しさだけだったと言ってもいい。もはや「ブラブラ」は存在を許されなくなっていた。

したがって〝相互無告〟は必然だったのである。いわば「沿う」「合わせる」だけの世界は、自分の過ちの発見とそれへの自己批判だけが主たる理念上の取り組みとなるしかなかった。丈雄はそれを「取り組みの 内面化による無意識的自己抑制と自他隔離」と密かに規定していた。 

 

◎吉田光男『わくらばの記』(16)

わくらばの記 ごまめの戯言⑧

 〈12月×日〉

「世界一貧乏な大統領」として有名なウルグァイの前大統領ホセ・ムヒカ氏は、来日した際、自ら希望して学生を対象とする講演を行った。その講演で、氏はこう語った。

「みなさんは物を買うとき、それをお金で買っていると思うでしょうが、実はお金を稼ぐために費やした時間で買っているのです。ここを勘違いしてはいけない。人生の時間を大切にしてほしいものです」

 やたらと消費を煽る今の風潮の中で、この発言には意味深いものがある。政府も財界も、マスコミも世論も、GDPの6割以上を占める消費こそが経済成長の根幹であり、消費を伸ばしてこそ豊かになれるのだと主張している。ここには、消費が人のためにあるのではなく、消費のために人が存在しているかのような倒錯がある。テレビをつければ食べる話や観光の案内ばかり。お笑いタレントから女子アナまで、大口を開けてご馳走をほおばり、中には早食い競争で死ぬ人間まで出てくる。アフリカや中近東ばかりでなく、この日本の足元にもその日の食事に事欠く人たちがいるというのに、全く恥ずかしい話だ。

 ムヒカさんの話を聞いて、最初に思い浮かべたのは、ミヒャエル・エンデの『モモ』の物語である。ここに登場する時間泥棒の灰色人間は、便利・スピード・物的豊かさと引き換えに、人々の生活から時間を奪っていく。物があふれ、何事も早く便利になるにつれて、人はますます時間に追われて忙しくなり、心はぎすぎすして他を顧みることがなくなり、孤独になっていく。これはまさに今の消費社会そのものではないか。

 真の豊かさというのは、心の豊かさを意味し、心の豊かさの続く人生を豊かな人生、幸福な人生というのであれば、現代はそれに逆行している。物を持てば持つほど不足感が増し、食べれば食べるほどもっと美味しいものを食べたくなり、今以上の情報を得るためにスマホを片時も手放すことができない。こうしてどっと観光地に押しかけ、化粧にうつつを抜かし、ポケモンGOのモンスター集めに押しかける。これのどこが豊かなのだろうか。こうした消費を煽りながら、政府はさらにIR法案とかいう総合リゾート施設と称する賭場を作ろうとしている。博打の場貸しが儲かることは昔からの常識であり、それが射幸心を煽るということで長らく禁止されてきた(実際はパチンコや競馬等の博打は公認されているが)。非公認のギャンブルに手を出したスポーツ選手は、オリンピック出場から締め出されたが、今度は国家がそれを公認するというのだ。

 話が横道にそれた。私がテーマにしたいのは、ムヒカさんの言う時間の問題であり、時間とはいったい何かということである。この問題は、昔から哲学者や物理学者がテーマにしてきたことで、難しいことはわからないが、私は単純に時間は二種類あると考えている。一つは、地球の自転と公転によって刻まれる時々刻々の変化を表したもので、カレンダーや時計によって表現できる。もう一つは、人の心を流れる時間で、この方は時計では測ることができない。たとえば、叱られたときや失敗したときなどに、僅か数分がものすごく長く感じられたり、楽しい1時間が一瞬の出来事のように感じられたりする、そうした心の時間である。一方は、外的・物理的時間と言えるのに対して、もう一方は内的・心的時間ということができるだろう。人間はこの二つの時間の中に生きている。もう一つ付け加えれば、空間にも外的・物理空間と内的・心理空間があり、人間はこの二つの時空の中を生きているのであるが、今は主に時間について考えてみたい。

 と、ここまで書いてきて、その先がさっぱり書けなくなった。というのも、私は別に哲学的な時間論を展開するつもりはないし、第一私の貧弱な知識でそんな大それたことができる筈がない。もっと身の丈に合った形で時間について考えてみたいのだ。要するに、幸福とは心を流れる時間が充実している状態を指すのではないか、ということである。では、充実した時間とはどのようなものなのだろうか。

 

〈12月×日〉

 エンデの『モモ』に、こういう話が出てくる。ある日、モモが住家にしている廃墟の石段に、等身大のきれいな人形が置かれている。誰が忘れたんだろうとモモが触ってみると、人形が「こんにちは。あたしはビビガール、完全無欠なお人形です」と喋り出す。モモはぎょっとしてとびすさり、思わず「こんにちは。あたしはモモよ」と答える。するとまた人形は「あたしはあなたのものよ。あたしを持っていると、みんながあなたをうらやましがるわ」と言い、「あたし、もっといろいろなものがほしいわ」と続けるのである。

 実は、この人形は灰色人間がモモを誘惑するために置いたもので、モモから時間を奪い取るために仕掛けた罠であった。この人形と遊ぼうとモモはいろいろ試みるが、いつも同じ言葉を同じ順序でしか喋らないビビガールに、モモはどうしていいかわからなくなる。

「しばらくすると、モモはいままでにいちども感じたことのなかったような気持ちにとらわれました。生まれてはじめての気持ちだったもので、それがたいくつさだとわかるまでには、だいぶ時間がかかりました」

 いつものモモだったら、人形と会話しながら、自分の中にたくさんの物語を作り、その豊かな世界に遊ぶことができたはずである。しかし、なまじ人形が喋り、次々と着せ替えや持ち物を要求するために、想像力の働く余地を奪われてしまったのだ。しかしモモは、灰色人間の誘惑に負けなかった。かれらの取り出したたくさんの着せ替えや持ち物を受け取らず、心の世界を守ることができた。

 この本が日本で翻訳されて40年になるが、私たちの暮らし振りはどうなっているだろうか。みんなますます忙しくなり、心がギスギスして落ち着かなくなり、その暮らしは40年前よりもっとひどくなっているのではないだろうか。何事も早く、大量に、便利に、と求められ、スマホが手放せなくなり、SNSなどのアプリを見ていないと不安になる強迫神経症に陥る人が、大人から子どもまで増加している。また聖地巡礼などと言って、人と同じことをすることで僅かに心の安らぎを得るが、人ごみの中にいても孤独に苛まれることから逃れることができない。これはどうしたことなのだろう。

 私は、便利であることを否定したいわけではない。ただ、便利さによって何か大事なものが失われている現実があるのではないか、と思うのだ。もしかしたら、これは現代の灰色人間の仕掛けた罠かもしれない。そしてこの罠があまりにも巧妙に仕掛けられているために、私たちは知らず知らずのうちにそれが罠だとも不自然だとも思わなくなってしまっている。こうして私たちの心から考える力が失われ、現象に振り回される生き方しかできなくなってきているのではないか。

 

〈11月×日〉

 灰谷健次郎氏の編んだ子どもの詩集『せんせいけらいになれ』に、「チューインガム一つ」という詩が載っている。小学3年生の村井安子さんの作品だ。

    せんせい おこらんとって

    せんせい おこらんとってね

    わたし ものすごくわるいことした

    

    わたし おみせやさんの

    チューインガムとってん

    一年生の子とふたりで

    チューインガムとってしもてん

    すぐ みつかってしもた

    きっと かみさんが

    おばさんにしらせたんや

    わたし ものもいわれへん

    からだが おもちゃみたいに

    カタカタふるえるねん

    わたしが一年生の子に

    「とり」いうてん

    一年生の子が

    「あんたもとり」いうたけど

    わたしはみつかったらいややから

    いややいうた

 

    一年生の子がとった

 

    でも わたしがわるい

    その子の百ばいも千ばいもわるい

    わるい

    わるい

    わるい

    わたしがわるい 

    おかあちゃんに

    みつからへんとおもとったのに

    やっぱり すぐ みつかった

    あんなにこわいおかあちゃんのかお

    見たことない

    あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見たことない

    しぬくらいたたかれて

    「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」

    おかあちゃんはなきながら

    そないうねん

 

    わたし ひとりで出ていってん

    いつもいくこうえんにいったら

    よその国へいったみたいな気がしたよ せんせい

    どこかへ いってしまお とおもた

    でも なんぼあるいても

    どこへもいくとこあらへん

    なんぼ かんがえても

    あしばっかりふるえて

    なんにも かんがえられへん

    おそうに うちへかえって

    さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん

    けど おかあちゃんは

    わたしのかお見て ないてばかりいる

    わたしは どうして

    あんなわるいことしてんやろ

    もう二日もたっているのに 

    おかあちゃんは

    まだ さみしそうにないている

    せんせい どないしよう 

 

 この詩は、灰谷さんがまだ教師であった頃の教え子たちの作品の一つで、30年ほど前の初版本で読んだ。そこにはこの詩が誕生するまでの過程が語られていた。おぼろげな記憶をたどると、そこにはこのように書かれていたように思う。本はもう手元にはないので、近くの図書館で灰谷さんの全集から詩を写しとったが、そこには作品誕生のいきさつは書かれていなかった。記憶違いがあるかもしれないが、大筋は違っていないと思う。

「安子ちゃんは母親と一緒に来て、経過を話した後、もう悪いことはしません、と話していた。公式的な謝罪で、これでは子どもの心は変わらないのではないかと思い、残って作文を書いてもらうことにした。最初のうちは表面的な謝罪の言葉だけだった。私は『本当のことを書こうね』とそれだけを言って黙って待っていた。何時間かして、涙ながらに書き上げた詩がこれだ」

 私が初めてこの詩を読んだとき、子どもの心の深さに思わず涙がにじみ出て仕方がなかった。安子ちゃんはどれほど苦しかったろう、悲しかったろう、辛かったろう、だけど自分の心の底をしっかりと見据えることができて、本当によかったね、と言いたくなった。この苦しみの時間、悲しみの時間は、決して時計で測ることのできる時間ではない。なぜならそれは心を流れる時間であり、また心の空間に広がる心象の世界でもあるからだ。「いつもいくこうえんにいったら よその国へいったみたいな気がしたよ」。本当にそうだったろうな、と思う。

 盗みが悪いことは、誰でも知っている。盗んだ本人だってよく知っている。それを「悪いことをしました。もう致しません」と反省の言葉を並べるだけでは何も変わらない。本人が自分の心の底を見つめ、そこに自分の本当の姿を見い出す以外に変わるきっかけはつかめない。

 今回、この詩をもう一度読み直してみて、安子ちゃんが変わるためには、そこに灰谷健次郎という若い教師の存在が不可欠であったことを強く感じた。「本当のことを書こうね」という一言以外に何もしゃべらず、じっと待ち続けられる教師の存在なしに、この詩は絶対に生まれることはなかったはずである。とすれば、この詩は、灰谷さんと安子ちゃんの二人の心の時間が織りなした共同の風景であり、共同の作品だということができる。

 これを書きながら、もう一つの作品についても思い当たることが出てきたが、それは明日考えることにする。

 

〈12月×日〉

「チューインガム一つ」の詩を書き写しながら思い出したのは、大道寺将司氏の句集である。句集は、4年前の2012年に『棺一基』の書名で出版された。そこにこういう句が載っていた。    

    先行きのあてどは読めず蜷の道 

 2000年問題以来、自分の先行きもヤマギシの先行きも見えない状態の中で、この句には私の心を捉えるものがあった。さっそく買ってきて読み出した。

 大道寺将司氏は、「東アジア反日武装戦線‟狼”」のメンバーとして、1974年、丸の内の三菱重工業爆破で8名の死者と百数十名の負傷者を出して逮捕され、死刑判決を受けた。実は、大道寺氏たちには、三菱重工爆破の直前にそれよりはるかに重大な計画があった。それは天皇のお召列車を荒川橋上で爆破する計画であった。「日本による侵略と植民地支配の加害責任を、戦後の今も天皇は果たしていない」との論理で、この〈虹作戦〉と名づけられた計画が立てられ、実施寸前までいく。1974年8月13日未明、大道寺たちは導火線方式の爆弾用電線9巻900メートルを現場に敷設し終える。そして最後の爆弾を接続する段階で、複数の「正体不明者」に見られていることがわかり作戦を中止するのだが、もしこの作戦が実行されていたならば、戦後の歴史に大きな変化をもたらしたことだろう。

 逮捕・死刑判決後、その時の状況を思い浮かべながら詠んだ句が、次のものである。

    大逆の鉄橋上や梅雨に入る

    時として思ひの滾る寒茜

 子ども時代の大道寺氏は、正義感にあふれる心優しい少年であったという。その心優しい正義感が一つのイデオロギーと結びつくとき、それはテロルへと一直線に走り出してしまい、一般庶民多数の死傷者を出す惨事を引き起こしてしまった。そして死刑判決を受け、東京拘置所に拘置されるに及んで、自分の為したことを振り返り、心の風景を見つめる果てしない苦しみの時間を持つこととなった。こうして氏は、俳句の中に自分の今の姿を映し出し、それをさらに見つめ直す作業の中に今を生きている。    

    還らざる人の影立つ年の夜

    枯野ゆく胸にひとつの灯を点し

    なほ残る未練の嵩や帰る雁

    病み伏して他の痛み知る浅き春

    悪行も善根もまた蜷の道

    消え失せて漸う気づく花野かな 

 2011年の東日本大震災の報道を知ってから、次のような句も詠んだ。

    加害者となる被曝地の凍て返る

    原発に追はるる民や木下闇    

    暗闇の陰翳刻む初蛍

    初蛍異界の闇を深くせり 

 自分の死を見つめつづけて詠んだ句が、本の題名にもなった次の句であった。

    棺一基四顧茫々と霞みけり

  人は生きていく過程でさまざまな過ちや失敗を侵し、幾多の悲しみも経験する。決して成功と喜びだけではない。大事なことはそれをどう受け止めるかにかかっているように思う。決して急ぐことはないのだ。じっくりゆっくりそれを受け止め、心の底まで落とし込むときに、そこから自分の本来の姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。その本来の姿こそ、幸福と言えるのではないかと思われる。今の私にはまだその姿が垣間見えるにすぎないが、そこを目指して残りの人生を過ごしたいと思っている。

 大道寺氏は、今(多分今も)多発性骨髄腫というがんに侵され、苦しみながら東京拘置所に生きている。外界との接触は許されていない。句にうたわれた蛍も風景も、実際に目にしたものではない。にもかかわらず、そこに浮かび上がる景色は現実以上に生き生きとしている。私の目にするものと彼の心象に去来するものとの違いに圧倒される。

 

〈12月×日〉

 エンデの『モモ』は、私の好きなファンタジーの一つだが、後半の物語には不満が残る。それは、モモがみんなの奪われた時間を取り戻すために、時間の国へ出かけ遂にそれに成功するからである。奪われた時間が心の時間であるとすれば、それは誰かが取り戻してあげることなどできない。一人ひとりが自ら取り戻す以外にないからである。モモができることといえば、心の時間を取り戻そうとする一人ひとりに寄り添い、その手助けをすることだけだ。もし、話がそのように展開していたならば、物語はもっと面白くなったのではないか、と勝手に想像している。

 ただ、物語の後半で面白い話が二つほど出てくる。灰色人間に追われるモモがある地区の通りに入ると、そこは急げば急ぐほど先へ進むことができなくなる通りで、車で追跡する灰色人間たちはモモに追いつけなくなる。また少し先に進むと〈さかさま小路〉というところに出る。そこは後ろ向きに歩かないと先へ進めない通りなのだ。このあたりはエンデが、急ぎすぎる現代を風刺して書いたのだろう。

 いま『モモ』を読み返してみて、大切に感ずることが一つある。浮浪児で勝手に廃墟に住み着いたモモが、どうして近隣の人たちと仲良くなったか、という話である。

「小さなモモにできたこと、それはほかでもありません。あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって」

「でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は。めったにいないものです」

 モモに話を聞いてもらっていると、急にまともな考えが浮かんできたり、迷いが晴れて自分の意思がはっきりしてきたりする。自分が一人で喋っているにもかかわらず、モモと二人でよく話し合ったと思えるのだった。

 こういう話の聞き方ってできるだろうか、と考えてみる。黙っているけど聞いている。聞きながら一緒に考えている。話が深い水底に吸い込まれていく。けれども温かく受け止められている。そこには拒否するものも否定するものもない。そんな聞き方。

 特講の時の自分の聞き方を振り返ってみる。「なんで腹が立つのか」と聞く。聞いて、こちらからは何も言わない。けれども、本当に聞いていただろうか。参加者の悩みを、迷いを、怒りを。形として聞く姿勢をとっていただけではないだろうか。あるいは、ただ跳ね返していただけではなかったか。テーマを出すだけで、一緒に考えてきたとはとうてい思えない。要するに参加者の一段上に立っていたのだ。これを「聞く」とは言わない。

 そんなことを考えているとき、急に、そうだ河合隼雄を読んでみようと思い立った。さっそく『心の最終講義』と『河合隼雄自伝』の二冊と最相葉月の『セラピスト』を注文した。

 

〈12月×日〉

 耳が聞こえずらくなって10年以上になる。最初は相手の声が小さい、話し方が悪いなどと考えていたが、他の人がちゃんと聞こえているのを見ると、問題が自分の方にあるとはっきりする。年々聞こえずらくなってきて、最近ではそれが日を追って進行してきている。やがて、まったく聞こえなくなる日が来るかもしれない。そうなったとき、人の話をどう聞いたらいいのだろうか。今年の8月6日、広島の原爆慰霊祭の日に、新聞のコラムにこんな話が載っていたのを思い出す。

 ヘレンケラーが来日して広島の原爆資料館を訪れたとき、目が見えず、耳が聞こえず、口がきけないヘレンのために、一人の原爆被災者がケロイドに被われた自分の顔をそっと差し出したというのである。ヘレンはその人の顔を静かになぞることで、原爆が人間にとって何であるかを一瞬にして理解したというのだ。そのことを謳った詩(であったか短歌であったか)が紹介されていたが、うかつにも切り抜くことを怠ったために忘れてしまった。

 河合隼雄さんの講演録『こころの最終講義』には、面白い話が幾つも出てくる。一つは、長新太の絵本『ブタヤマさんたらブタヤマさん』の話である。ブタヤマさんは蝶を追いかけるのに夢中で、後ろからどんな怪物が出てきても、前の蝶だけを見て追い続けている。絵本には、次から次へとさまざまな怪物が登場する。しかし、ブタヤマさんは蝶しか見ない。そして最後に「何、どうしたの、何か御用」と後ろを振り返るのだが、その時は既にそこには何もいない。河合さんは、そこが大事なところだという。つまり、一つを追いかけるのに夢中だったり、何かに固執して他を顧みようとしない態度でいると、周囲の気配を感じ取る能力を失い、大事なシグナルを見落としてしまう。心理学や臨床心理学をやるものが最も心すべきことだ、と河合さんは言う。これは、特講や研学を進めるものも、同じように心すべきことではないだろうか。

「聞く」ことが本当にできたなら、『モモ』で描かれたように人は変わりうるものなのだろうか。私には精神病理のことはよくわからないが、たいていの人には問題解決の能力が備わっているのではないか、と思う。そしてそれは、自らが問題を発見し、自らが解決の糸口を発見することによってのみ解決する。聞き手は、その人が自らの心の中を旅して、糸口を発見するのをじっと見守ることができる人でなければならないだろう。答え(らしきもの)を言ったり、助言や指示を与えることは、その人の自発性を奪うことになる。しかし、この「聞き」「見守る」ということは、とても難しい。聞き手の絶えざる自己変革なしにできることではない。特講や研学の世話係に要請されるのは、このことだ。子どもの世話係は特にそうだ。だから、子ども自らが学び育つ意味の「学育」という言葉が用いられてきたのであるが、実態は大きくずれてしまった。聞けない人間に学育の係はできない。

 しかし、自分に立ち返ると、耳が聞こえなくなり、記憶力が衰え、眼にも霞がかかってくると、どうしたら人の話が聞けるだろうかと考えてしまう。その上、周囲の気配や言葉ならざる言葉、沈黙の言葉にも心するとなると、もう能力をはるかに超えてしまう。

 

〈12月×日〉

 会話は言葉と言葉のやり取りで成り立つ。しかし、日常の自分の会話を振り返ってみると、自分の思っていることの半分も喋っていない。せいぜい2割から3割ぐらいだ。それでいて、腹ふくるる思いがするわけではない。恐らく他の人もそうなのではないだろうか。話したくないこともあるだろうし、必要を認めないこともあるだろう。話したいけど話せないこともある。あるいは、もやもやしてまとまらない話もある。心の氷山は深く海中に沈み、水面に出たほんの表面でのみ会話を成り立たせているのかもしれない。本当に人の話を聞くのは難しいし、自分の本当の思いを人に伝えるのも難しい。空振りに終わることがほとんどだ。山岸さんが死の直前に「みんな誤解や」と言ったのは、真意の伝わらない嘆きが思わずほとばしり出たものであろう。しかし、その後私たちは、真意をきちんと聞き直しているかどうか。

 河合さんは、創造的市民大学というところで「アイデンティティの深化」と題する講演を行い、そこでこう語っている。

「非常に大事なことばというものは、一言にしていえないということが多い……。一言でいえるようなことだったら、あまり大事だということにならない、すぐわかってしまう……」

 同じように、自分が本当に大事だと思っているようなことは、やすやすと人には言えない。言えないからこそ悩み、苦しんだりしている。それを聞き取るには、大変な人間力がいる。特講や研学の係には、そうした能力が求められている。ただ、特講や研学は研鑽方式をとっているため、受講者同士の意見のやり取りで自ずから深め合う可能性を持っている。係りはその進行を妨げないよう心掛けねばならないだろう。係りが一定の方向性や予断を持っている場合は、受講者の思考の深化を妨げ、浅いところでの理解に終わってしまうことになる。私には或る一人の女性についての苦い記憶がある。彼女は、特講の最後に「山岸は天国です」と言っていた。少し宗教じみているなと心配だったが、そのままで特講を終わらせてしまった。その後、彼女は参画したが、2000年問題の後、自殺してしまった。

 とにかく心の問題にはわからないことが多い。大脳学者は、心は意識であり、意識は大脳の働きであるから、大脳の科学的解明によってすべて明らかになる、と言ったりしている。「全脳論」などという本もある。

 しかし、自分の実感からすると、意識と心が全く同じとは思えないし、その上、河合さんがユング派の説を持ち出して、「アニマ=たましい」の重要性を語り、「アニマは『たましい』で、アニマ像はそのイメージ。たましいそのものをわれわれは知ることはできないけれど、それを何らかのイメージとして把握できる」と語ったりすると、ますますわからなくなってくる。

 脳、意識、心、魂、とさまざまな言葉で語られる心の問題は、私などにはよくはわからない。しかし、それが自分にとっても人にとっても、最も重要な問題であることは理解できる。あまり早わかりすることなく、これからもじっくり考えていきたいテーマだ。

 

〈12月×日〉

 いつ頃だったか、「自分らしく」とか「その人らしく」という言葉が頻繁に使われた時代があった。それまでの村の暮らしが「自分らしさ」「その人らしさ」を奪っていたのではないか、というニュアンスを含んでいたように思う。だから「自由」のテーマと共に、この言葉が流行したのであろう。しかしその当時、この言葉に私はもう一つ同調できなかった。というのは、それを唱えている人を見ていて、自分の我を主張しているようにしか見えなかったからである。ええっ、それが「自分らしく」ってことかい? という疑問である。我執丸出しの生き方が「その人らしい」生き方なら、そんなもの一般世間にいくらでもいるじゃないか、と思った。

 いつの間にか「らしさ」を強調する人もいなくなって、すっかり忘れていたが、心の問題を考えるようになって、やはりこれは大事なテーマだなと改めて思うようになった。

 近年はやりの「アイデンティティ」というのは、要するに「自分が自分であること」の確認ということであろうが、これは簡単なようで簡単ではない。私たちは、自分以外のさまざまな飾り物を身にまとって、それがあたかも自分であるかのように錯覚しながら生きている。宇宙論で、いまわかっている宇宙の質量は、全体の僅か4パーセントほどで、残りの96パーセントの物質とエネルギーの実体はわからず、それを「暗黒物質」とか「ブラックエネルギー」と名づけているという。それと同じように、自分という宇宙についても、わからない部分、自覚できていない部分が大半を占めているのではないだろうか。だから、「自分らしく」生きようとすれば、まず自分を知ることから始めなければならない。我執だらけの自分をそれが自分だと押し出していたら、世の中から争いはなくならない。「自分らしく」生きるためには、自分という宇宙を自分で開発する以外にないように思う。そうすることによって、自分に付着しているさまざまな自分以外のものや飾り物をはぎとっていくことではないだろうか。「チューインガム一つ」の村井安子ちゃんのように、「棺一基」の大道寺将司氏のように。

『河合隼雄自伝』に興味深い話が出ている。それは影について語った次の言葉である。

「影というのは、簡単に言えば『その人の生きてこなかった半面』と言えます。私の生きてこなかった半面です」

 人は、自分の生きてこなかった半面と共に生きている、ということなのか。よくはわからないけれども、どこか響くものがある。そういえば村上春樹さんの小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』には、影を失う世界が描かれている。それは、もしかしたらオウムのような〈陽の当たる場所〉なのかもしれないし、またもしかしたら、ヤマギシのような‟幸福一色”の世界なのかもしれない。今回、アンデルセン文学賞受賞のためデンマークを訪れた村上さんは、受賞講演でこう語っている。

「小説を書いていると、暗いトンネルの中で、思ってもみなかった自分の姿、つまり影と出会う。逃げずにその影を描かなければいけない。自分自身の一部として受け入れなければいけないのです。……あらゆる社会や国家にも影がある。私たちは時に、目をそむけようとします」

 しかし「自らの影、負の部分と共に生きていく道を、辛抱強く探っていかなければいけない」と結んでいる。(11月21・22日、朝日新聞より) 

 私たちは幸福一色の世界を目指しながらも、その過程で起こったさまざまな事象について、その影の部分、目をそむけたくなる事象についても、しっかりと受け止めていかなければならないということなのだろう。自分自身についても当然そうしなければならないのだ、と思う。 

◎吉田光男『わくらばの記』(15)

わくらばの記 ごまめの戯言⑦        

〈11月×日〉

 11月度の村人テーマは、「『研鑽会にしていく』とは?」である。テーマ解説には、さまざまな事例が紹介されており、例えばメニュー板の表示の仕方や風呂の蓋を開けておくのか閉めておくのかといったことが、話題になったと書かれている。前には、シャンプーをどこの製品にするかとか、味付けの濃い薄いといったことも話題になったらしい。しかし、こうした話題のどこがテーマで、何が研鑽されたのかは書かれていない。

 大体、味などというものは、人によって、またその日の天候や体調によっても好みに違いが出るもので、これが絶対に正しい味付けだなどというものはない。しかし、愛和館で大勢の食事作りをする以上、どこかに一致点を求めるのは当然であろう。だから、食生活の人は利用者の声に絶えず気を配るのは当りまえだし、利用者の方も自分の好みと全体との調和を考えていく必要があるだろう。

 しかし、これは話題であって研鑽テーマとは言えない。「メニューどおりに作っているのに、不平を言うとは何か」という一部の食生活の人の心にあるもの、あるいは「今の食生活はまるでセンスがない」と一方的に決めつけている利用者、あるいはまた毎回食材を持ち帰っている愛和館離れの人たち、こういう人たちがお互いに話し合わず、話し合おうともしない心の内にあるものこそテーマであり、それをぜひ研鑽してほしい。そしてそうしたものを出し合う機会がどうしたら作れるかを研鑽していってほしい。

 とにかく今の研鑽会は、現象面や事柄の話ばかりで、その元の心の面は少しも研鑽されていないように感じられる。村人テーマの「研鑽会にしていく」は「研鑽会を研鑽にしていく」と変えた方がいいのではないだろうか。

 

〈11月×日〉

 ブラジルから養鶏法に参加した人が、ひどく嘆いていたという話を人づてに聞いた。嘆きというのは、「若者たちが、時によっては係りまでもが、研鑽中にスマホでゲームをしている」というのである。「こんなことで研鑽になるのか」と言っていたそうだ。

 この話を朝の出発研で出したら、Yさんが「実顕地づくり研でも若者たちは壁際に寝そべってスマホをやっている」と言い、「それでもちゃんと話を聞いているそうですよ」と言った。そこで私は「ちゃんと聞いているかどうか、どうしてわかるの?」と聞き返した。答えはあやふやなものでしかなかった。

 最近はスマホをやりながら車を運転して、事故を起こすケースが続出している。死傷事故も多い。「ながら運転」ではきちんと運転できないからだ。では「ながら研鑽」できちんと研鑽できるのだろうか。

 最近一人の若者に会う機会があり、そのことを聞いてみた。彼は次のような話をしていた。

「学園時代の研鑽と言えば、正座させられて一方的に押し付けられる嫌な経験しかしてこなかった。それでみんな研鑽会嫌いになっている。みんなに勧められて出てはいるけれども、周囲もそれを知っているので研鑽会の雰囲気に触れるだけでもいいと考えて、スマホもゲームも放任しているようだ」

 学園時代の傷跡が今なお深いことを思い知らされた。しかし、スマホをやりながらの参加で、研鑽会が好きになるなどということが考えられるだろうか。そんな状態で行われる研鑽会自体が、ますます研鑽のない、フワフワと浮き上がった集まりになっていくのではないか。そんな参加よりも、別室でゲーム大会でも開く方がよっぽどいい。そして、一度「なぜ研鑽会が嫌いになったのか」を徹底的に出し合う話し合いの場をもったらどうだろうか。心の内にあるものを出し切らない限り、次に進むことはできない。

 

〈11月×日〉

 呉智英氏の『吉本隆明という「共同幻想」』を、題名に惹かれて読んだ。面白かった。呉氏は、まず吉本さんの「マチウ書試論」を取り上げ、新約の「マタイ伝」をなぜフランス語の「マチウ」にしなければならないのか、また「イエス」を「ジェジュ」とフランス語読みにする意図がわからない、と批判し、また「関係の絶対性」といったキーワードも、「人間関係、社会関係全体が、人間の行動を決める」と言えばいいところを、わざわざ難しい特殊概念を持ち出しているだけではないか、と批判している。そしてこの難しさが、当時の青年・学生の信仰を呼びおこし、吉本隆明という共同幻想を招いた、と書いている。

 私が吉本さんを最初に知ったのは、竹井昭男氏との共著『前世代の詩人たち』である。坪井繁治をはじめとする戦時下の詩を取り上げ、こっぴどく批判したもので、鶴見さんの転向共同研究と相まってその後の転向論のきっかけとなった作品である。へー、すごい思想家が出てきたものだ、と圧倒される感じを抱いた。

 その後何年かして、吉本さんの『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『思想の自律的拠点』等が出版され、一応目を通したが、私の悪い頭ではとうてい理解することができなかった。理解はできないけれども、何かすごそうだという印象だけは残った。この印象は今なお消えずに残っている。しかし、最近になってこうした印象にもとづく肯定や否定の考え方は、おかしいのではないかと思うようになった。つまり、吉本さんの思想を肯定するのではなく、共同幻想による吉本信仰になっていたのではないか、ということである。

 これが呉氏の本を買った動機である。ただ私は、呉氏の言うように、吉本さんを批判したいとは思わない。吉本さんの著作を読み直してもいないし、理解もしていないからである。死後、あれだけ多くの言論人が「戦後最大の思想家」と評価する吉本氏を、人の尻馬に乗って批判したり肯定したりするのは失礼な話である。それよりも、自分たちが知らぬ間に行っている別の形の「共同幻想にもとづく信仰」について考えてみたい。

 

〈11月×日〉 

 参画間もなくのこと、ある人から「吉本さんをヤマギシに呼ぼうと思っている」という話を聞いた。私が「吉本さんと話せるような人がヤマギシにいるのか」と聞くと、「一人だけいる」とのことであった。後でわかったことであるけれど、それがSさんであった。すごい人がいるのだなあ、と思った。なにしろ、当時の私は吉本隆明と言えば日本を代表する思想界のトップランナーと思っていたのだ。

 その後話がどうなったのかは知らないけれど、ヤマギシにはすごい人がいる、という印象だけは消えなかった。そして研鑽会などでSさんと一緒になる機会もあり、「なるほどそうか」と感心することが少なくなかった。同席者もみな、「なるほど、なるほど」と頷くばかり。そのうち「Sさんがこう言った」という発言を、その真意や中身を検討するのではなく、それを正しさの基準として物事を判断する風潮が出来上がった。そればかりでなく、Sさんを取り巻く指導部門の人たちまでも、すごい人というヴェールを纏うことになっていった。こうして権威のピラミッドが出来上がってしまった。しかし、この権威のピラミッドを支えていたのは、私たち村人自身である。

 私が「ヤマギシにおける共同幻想」と思うのは以上のようなことである。これは、ヤマギシズムが否定する宗教形態であり、信仰形態にほかならない。信仰による権威が成立すると、極端な論理で全体を動かすこともできる。それが研究・検討・研鑽をことごとく排除してしまうからである。学園の失敗などは、この信仰による権威なしには考えられない。

 ではなぜ共同幻想が成立するのか。自分自身を振り返れば、ずっと人の思想に寄りかかって考えてきたように思う。自分の頭で考えることをなおざりにしてきた。吉本さんの言う〈自立の思想的拠点〉をないがしろにしてきたのである。だからヤマギシズムにしても、山岸さんが何を言っているかはあまり考えようとせず、いま村で言われていることを正しいとして信ずれば足りる、と無意識のうちに考えていた。例えば山岸さんは、青本の中の「自己弁明」のところでこういうことを書いているのに、それを一向に理解しようとはしていなかった。

「……これを以て最上決定的なものと思い込まずに、又貴方の今持って居られるものと、一致しないから駄目ともしないで、相対者と、条理とを、切り離して考察される事が大切で、人物を通さずに、盲信しないで、厳正な批判の眼で検討し、容赦なく叱正され度いです」

 これほど懇切丁寧に語っているにもかかわらず、しかもそこを何回も読んでいるにもかかわらず、なんでこれをきちんと受け止めることができなかったのだろうか。AさんだろうとBさんだろうと、相手がどんなに偉いとされる人物であろうと、相手とその言うこととを切り離して検討し、「人物を通さずに」「盲信しないで」検討・研鑽することがなんでできなかったのだろうか。

 

〈11月×日〉

 人間は権威に弱い。自分がどこか頼りない、弱い人間であることを意識している。しかし、多くの人はそれを認めたくないと無意識のうちに思っている。だから、何かの権威を借りて自分を大きく、あるいは強く見せようとする。虎の威を借る狐である。ここに権威の成立する大衆的基盤があるように思う。そしてこれはそのまま権力が発生する原因にもなる。アンナ・ハーレントがアイヒマン裁判に触れて、アイヒマンを〈巨大な悪〉ではなく〈凡庸な悪〉と言った時、彼女はアイヒマンやそれを認めた当時のドイツ人ばかりでなく、権力にすり寄った一部ユダヤ人さえもその中に含めていたのであろう。そのため、彼女はユダヤ社会から猛烈に非難されさえした。

 とにかく人間は弱い存在である。政治家であれば派閥やボスに頼り、学者であればその道の権威に頼り、サラリーマンは社内の権力者に身をすり寄せる。昔、マルクス主義を信奉していたころ、学者たちがマルクス・レーニン・スターリン・毛沢東やヨーロッパの著名な学者の引用で自分の文章を飾っているのを見て、学問とはこういうものなのかと思ってしまったことがある。批判的検討のための引用ではなく、自分の中身の無さを権威づけるための引用であった。こうした引用癖は、今なお自分の中に根深く残っている。

 村に参画して間もなく、ヤマギシにはすごい人がいる、ということをずいぶん聞かされた。そうかすごい人か、すごいというからにはとにかくすごいんだろう、と

 単純に、会う前から〈すごい〉を自分自身に刷り込んでしまった。そしてSさんばかりでなく、Sさんを取り巻く奥の院の人たちに対しても、次かその次にすごい人というレッテルを張って、自分もその列に加わろうとした。こうした権威主義の体系がどれほど真実の研鑽を妨げてきたかは計り知れない。

 確かに村には尊敬すべき人物はいる。Sさんはもちろん、古い参画者の中には尊敬に値するような人はいる。しかし、私たちにとって尊敬することと権威に服することとは違う。尊敬される人、信頼される人は、他より余計に自らを最も低い位置に立たせるよう努力する必要がある。これを怠ると、いつの間にか自分が高い位置に立つことが当たり前になってしまい、それに気づかずに道を誤ることになりかねない。

 人間は弱いものであり、頼りないものである。それを自覚したときに、人の前には二つの道が開けている。弱く頼りないものだからこそ強いもの、絶対的なものにすがって生きようとする道、ここから宗教・信仰、あるいは信仰的権威への依存が始まる。もう一つの道は、弱く頼りないものであることの自覚の上に、だからこそどんな権威にも頼らず、自分たちの不確かな知恵を持ち寄って研鑽し、より良くより正しからん方向を模索しながら歩むことである。ヤマギシはこの後者の道を歩もうとするものだ。だからこそ山岸さんは、〈自信のない生き方〉を大切にし、自らを〈優柔不断〉と言ったのだと思う。

 

〈11月×日〉

 昨日はひどい目にあった。夜食に豆腐と豆乳のインスタント鍋料理を買ってきて食べたところ、夜中の2時、3時まで吐き続けてしまった。最後の味つけに入れたスープが、韓国風の唐辛子味であることを知らなかったのである。スープが赤いので「もしかしたら」と思いながらも、もともと辛いものに目のない私は、病気になって禁じられているにもかかわらず、少しならよかろうと、二口、三口食べてしまったのだ。眠れないままに、ベッドで『史記』と宮沢賢治の童話を読んだ。

 賢治の童話は筑摩文庫版で全部読んではいる。が、読みながら、自分が賢治の童話をそのまま味わっていないことに気がついた。どうも今までは世間的評価を前提に作品を読み、世評に応じた序列を付けながらその作品群を読んでいたのだ。あまり、取り上げられない短い作品、例えば「蜘蛛となめくぢと狸」「めくらぶだうと虹」などは、改めて読むとすごく味わい深い。そうしてみると、賢治にかぎらず、小説にしても、評論にしても、そのものそれ自体を味わわずに、すべて世評やその他の外的評価に基づく先入観で読んでいたのではないか、と疑われてきた。

 共同幻想による権威への依存という現象も、こうした本の読み方と根は同じであるように思える。食べ物の味わい方から、人の話の聞き方まで、すべて共通しているのではないだろうか。といって、自分の感性を後生大事と守っているだけでは、それそのものの味を味わうことから遠ざかる。頑固人間になるだけだ。

 

〈11月×日〉

 井上ひさしの講演録を読むと、その一つに宮沢賢治のユートピアを語ったところがある(『この人から受け継ぐもの』)。まず井上さんは賢治の思想をこう要約している。

「これは賢治が羅須地人協会でしきりにいっていることですが、百姓はただ土を耕しているだけではだめであって、同時に芸術家でなければいけない。さらに同時に宗教家でも科学者でもなければいけない。一人の人間はその四つぐらいを兼ね備えないと人間として楽しく一生を送れないということを、手を替え、品を替えていっています」

 ちょうど第一次大戦の後、バリ島ブームが起こって、新たに発見された桃源郷として世界の注目を集め、賢治もずいぶん資料を集めていたらしい。当時のバリ島の人たちがどんな生活をしていたかを、井上さんは次のように語っている。

「バリ島の人たちというのは、まずヒンズー教徒であり、そして農民であり、同時に芸術家でもあります。バリ島では朝早く起きて村へ行きますと、きれいな田んぼでみんな働いています。ところが、それは十時ぐらいにはもうやめて、ごはんをゆっくり食べて、昼寝なんかして、ちょっと近所のお寺へ行く。それからお寺で闘鶏の賭事をやったりして、夕方五時ぐらいになりますとそれぞれの家へ引きあげて、今度は観光客が来ようと来まいと、いろいろ芸事に精をだします」

 昔、何で読んだのか覚えていないが、マルクスが未来の共産主義社会の住民の姿として「朝は農民として、昼は牧人として、そして夜は批判的批判者として」と書いていたように思う。どうも不正確であまり責任は負えないが、バリ島の話を読んで、この言葉を思い出した。また、水木しげるさんの漫画『総員玉砕せよ』にも、近代社会に毒されていないボルネオ原住民のユートピアが描かれている。

 宮沢賢治のユートピアは、こうした社会を岩手の花巻に作ろうとして、その理想の社会を〈イーハトーボ〉と名づけた(イーハトーボとはエスペラント語で岩手県のことらしい)。そのための母体が羅須地人協会なのだが、現実的にはあまりうまくはいかなかった。

 ここで井上さんは、ユートピアは実際には成り立たないだろうと言う。なぜなら、ユートピアというものは「結局、平等をめざすのですから、もしみなさんがそこの住民になったとしたら、即日けんかになってくると思います」「まず、着ているものは同じでなければいけない。人とちがったことをしてはいけない。そうじゃないユートピアもありうるかもしれませんが、しかし、あくまで平等をめざすということであれば、最初はそうなると思います」

 そこで井上さんは、そうした空間的・場所的なユートピアではなく、時間限定のユートピア、例えば芝居やコンサートで或る一定の時間だけみんなの心が溶け合い、終われば元の生活に戻るようなユートピアを提唱し、これを時間のユートピアと名づけている。

 確かに歴史上のユートピア運動を見れば、それが社会主義的なものであれ、無政府主義的なものであれ、あるいは宗教的なもの、協同組合的なものも含めて、すべて失敗に終わっている。それは、井上さんの言うように平等を目指すものであったからだと思われる。しかし、井上さんの言う〈平等〉は私たちの考える平等とは異なっている。それは均等であり、悪平等であって、真の平等とは違うのではないだろうか。次はそのへんを考えてみたい。

 

〈11月×日〉

 山岸さんは青本の中で、平等についてこう書いている。

「平等にしても、誰もが同じ大きさの家に住み、同じ衣服をまとい、同じ物を同じ量たべて、同じ作業をし、又は同一の考え方を押し付けたりするのは、悪平等で、誰もが、どんな家にでも棲み得て、身に合う衣服を着、胃の欲求に応じて食を摂り、心身が充分に休まる丈眠って、起き度い時に起きる等の自由が、平等に得られる事が、真の平等だとします」

 戦後の民主主義教育の中で、平等とは均等に分けることだ、という教えが広く浸透した。私たちの頭の中にもしっかりと根付いてしまった。もちろん井上さんの頭の中にも染みついてしまったことだろう。だから、井上さんが時空のユートピア、場としてのユートピアに反対する理由はわかる。しかし、そのままでは人類から永遠に争いは無くならない。戦争、公害、自然破壊はなくならない。では、どうするか。

 昭和28年、農業養鶏を契機に始まったヤマギシズム運動は、戦争・公害・自然破壊のない、自由と平等の新しい社会を目指す運動として展開されてきた。特講も、百万羽も、試験場も、実顕地も、すべてその目的に沿って設けられてきた。その後の、供給活動・楽園村運動・学園運動もすべてその目的のために行われてきたのである。では、その内実はどうであったか。

 現実は山岸さんの考えとは違って、真の平等とはほど遠い悪平等の世界を作ってきた。例えば学園では、朝は5時から一斉に農作業、着るもの、食べるもの、生活時間もほぼ同じで、読むものは漫画は禁じられて或る一定のものしか読むことができなかったという。しかもこれが、暴力をも含む或る種の強制力で行われてきた。そしてその実態を知らされていなかったとはいえ、学園は多くの村人たちの支えによって15年以上にもわたって運営されてきたのである。

 学園運動や楽園村運動については、もっと専門的に調べていく必要があるが、ここで考えたいのは私たちの間に今なお存在する誤った平等観についてである。平等とは、みんな同じにすること、均等に分けること、こうした横並びの思想はかなり根深く染みこんでいるのだはないだろうか。このへんを徹底的に研鑽しておかないと、井上さんの言う〈平等〉意識に再び足をすくわれることになりかねない。悪平等を平等と考えている間は、人類は戦争から抜け出すことはできず、破滅への道を歩み続けることになる。

 

〈11月×日〉

 今月の検査結果が出た。ある程度予想していたことではあるが、ガンマーカーの数値が上昇している。担当医からは、抗がん剤をまた使ったらどうかと提案された。しかし、抗がん剤使用後の不快感を思うと、自分としては使いたくないと思った。医師は「もちろん本人の意思が一番大事ですから、それは尊重さるべきものです。ただ、ご家族の考えも大事ですから、ぜひ皆さんで話し合って結論を出してほしい」と言う。自分一人で生きているわけのものではないから、いかにももっともな話である。さっそくひろみが段取りして、娘夫婦、息子夫婦と妻・私の6人の話し合いを持った。

 まず私から状況説明をしたあと、自分の死生観のようなものを話した。

「抗がん剤というのは、がん細胞ばかりでなく健全な細胞も攻撃するので、さまざまな副作用が出てくる。例えば白血球・ヘモグロビンの減少、食欲不振・吐き気・下痢など、こうした副作用で体力はかえって衰えるのではないかとも考えられる。抗がん剤を使って多少の長生きができたところで、それがただ生命現象を長引かせるだけのものであれば生きる意味がない。多少短くとも、最後まで充実した人生を送りたいと思っている」

 みんなの意見は、Yを除いて「それでも抗がん剤を使った方がいい。前の80グラムではなく、先生の言う50グラムに落として使ったらどうか。それでもしんどいのであれば、その時止めても遅くないのではないか」という意見であった。

 私は、もう一度立場を変えてみての意見を求めた。

「もし自分が80を過ぎてがんになり、余命旦夕に迫っている中で、多少の延命効果しか期待できない抗がん剤を、苦しさと不快感を押してまで使うだろうか」

 しばらく考えてもらったが、結果は変わらなかった。もし、自分が子どもの立場だったらどう思うかと考えてみたら、みんなと同じことを言ったかもしれない。よく「相手の立場に立って」などと言うが、そんなに簡単に相手の立場に立てるものでないことがよくわかった。結局、みんなの意見に従って、しばらく抗がん剤を使うことにした。

 このことを書きながら、ふと昔の増田さんとの別れを思い出した。増田さんとは老蘇・病身者特講を一緒にやったりして、結構深い付き合いをしていた。大田原から全国調正世話係研に来て、終わってからその病室を見舞った。末期がんの増田さんは、明らかにその最期が迫っていたが、大粒のブドウを一つ口に入れて「おいしい」と言ったのが印象的であった。別れの握手をしたとき、増田さんの眼から大粒の涙が一つだけ転げ落ちた。このとき、増田さんの心の中に何があったのかはわからない。が、この時の情景はいつまでも私の心に残っている。その日の夜、大田原の帰り着くと「増田さん逝去」のファクスが追いかけてきていた。

 

〈11月×日〉

 時々、自分の特講を思い出すことがある。昭和48年だから、もう43年も前のことになる。白い共産部落と言われた心境農産を訪ね、樫原神宮を詣でた後、春日山に行った。

 特講は20数人の参加者であったが、日大全共闘の闘士ややくざっぽい若者などもいて、なかなかにぎやかなものだった。最後の晩は、酒盛りで夜を明かすありさまで、どこまで研鑽できたのかわからない。私は、怒り研も割り切り研もさっぱりで、何ひとつわからぬうちに終わってしまった。しかし、終わったとき、霧が晴れたような、温かい太陽に包み込まれたような、かつて味わったことのない開放感に浸っていた。これは、本当に不思議な感覚だった。

 特講でもう一つ耳に焼きついたのは「なんで?」という問いかけである。いくら自分が答えを言っても「なんで?」の問いしか返ってこない。一晩徹夜でこの問いを問いつづけられると、もう「なんで?」が、相手からの問いなのか自分が発する問いなのかわからなくなって、自分の中にどっしりと居座ってしまった。

 今考えると、これは実に大きな宝物であった。永久にその姿を現すことのない宝物ということができる。ただ参画後は、その問いに答えを見い出すことに力を入れてしまった。そして、問いに答えを見い出したと思った瞬間に、宝物はガラクタに変じてしまった。永遠の問いが、ありきたりの、常識的な問いに変わってしまったのである。

「なんで?」の問いとならんで「本当はどうか?」も、同じように重要な問いである。「これが本当」と思えることがあったにしても、それは「今はそう思える」というだけであって、今、とりあえずの答えにすぎず、本当はどうかわからない。この二つの問いを持ちつづける限り、イズムに固定も停滞も生じない。生命力を失うことはあり得ない。

 

〈11月×日〉

 アメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝った。E・トッドさん以外にトランプ氏の勝利を予測した人はほとんどいなかった。これは、民族主義的な右派勢力の勝利というより、資本主義の終末現象の表れと言うべきものかもしれない。

 最近、前から気になっていた水野和夫さんの『資本主義の終焉と歴史の危機』を読んだ。2年以上前に出されたこの本の主張は、古くなるどころかますます事実として認証されてきたように思える。水野さんは、現在の資本主義体制は「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなっていると書き、続けてこう言っている。

「資本主義を資本が自己増殖するプロセスであると捉えれば、そのプロセスである資本主義が終わりに近づきつつあることがわかります」

 NHKの3回シリーズ「マネーワールド」によれば、世界の大金持ち62人の総資産は地球上の36億人の総資産と同じであるという。また国家と企業の総収入を一列の並べると、ベスト100中70が企業の占める割合だというのだ。グローバル企業は、すでに国家を超えた存在になっており、南米などでは企業が国家を収奪しているという。

 資本主義は、絶えずフロンテイァを開拓することによって発展してきた。最初は物づくりによって市場を世界に広げ、商品市場の伸びが鈍化すると、次に電子・金融空間を作り上げて新たなフロンティアを開拓してきた。そして今、それも飽和状態になると、次のフロンティアとして国内外の差別化を推し進め、中間層からの収奪と貧困化を生み出している。かつて中間層が7割を占め、オール中流化と言われた日本は、今や正規労働者が減り非正規が圧倒的多数を占めるようになってきた。そして年金は削られ、医療費負担は増やされ、その上カジノまで作って有り金を搾り取られようとしている。

 こうした資本主義の現状は、アメリカでも、カナダ、イギリス、フランスでも同じような現象を引き起こしている。アメリカのトランプ現象は、単なる右派国家主義的勢力の勝利というより、こうした資本主義の行き詰まりの表れと見なければならないだろう。この先資本主義がどうなるか、どうすべきなのか、誰も答えを知らない。ヤマギシズムの考えの中にその正しい答えが含まれているのか、もし無所有一体の考え方の中にその答えがあるとしたら、それを世界に広めるためにはどうすべきなのか、いま私たち一人ひとりに問いかけられている。

 

〈11月×日〉

 中国の流行語に「喫土」という言葉があるという。投資市場などで持ち金全部を失い、食べるものもなく、土を食べる以外にない状態を言うそうだ。こうした人々がものすごく増えているという。

 最近、中国に関する番組を続けて3本見た。録画しておかなかったので、ほとんど忘れてしまったのだが、一つは農民工の大都市から中小都市への強制的大移動の話である。これまで、8パーセント以上の高成長の中で、農村からの出稼ぎ労働者が大都市や産業都市の建設を支えてきた。しかし、成長に限りが見え始めると、政府は次のフロンティアを中小都市に求め、農民工の中小都市への移動を強制的に行い始めた。その数なんと1億人である。日本の総人口に匹敵する数の農民工を力ずくで移動させ、しかもなんの保証もないのだから、容易なことではない。さまざまなトラブルが発生するが、それは力ずくで押さえつけられる。こうした映像を見ていると、中国に民主主義が定着できない理由が納得できる。

 もう一つの映像は、上海の投資金融市場の話だった。今中国では一日に平均2万社ものヴェンチャー企業が立ち上げられているという。そのヴェンチャー企業の資金需要をまかなうために作られたのがネット金融である。これまでの成長を支えてきた物作りが頭打ちになり、全国1800兆円という民間に眠る個人資産を新たな成長産業に注ぎ込むために、政府の肝いりで民間投資会社の設立が推進された。そして、民間資産の吸収装置として作られたのがネット金融である。雨後の竹の子のように作られる投資会社の利益目標が、或る代表的企業の場合半年で30パーセントというのだからすさまじい。金融ビジネスでも、平均の年利が9パーセントだという。もう事業というより博打である。詐欺により、失敗により、なけなしの金を失うものが続出する。こうして、「喫土」の民が生れる。

 欧米や日本だけでなく、中国でも、都市と農村の基本的な格差のほかに、都市中間層の貧富の格差は激しくなりつつある。インドなどはもっとひどい状態になっているのではないだろうか。

 現代文明の先行きはどこに向かうのだろうか。私などにはとうてい見通すことはできない。

◎吉田光男『わくらばの記』(14)

わくらばの記 ごまめの戯言⑥

10月×日〉

 昨日、豊里のSさん夫妻が来た。ゆっくり話すのは久しぶりのことで、いろいろ意見を交換できて面白かった。特に、養豚では最近、最新式の豚舎が建てられるようになったが、かえって手間のかかることが多くなったらしい。人手不足の解消や労働の軽減をねらっての新設ではあるが、十分な試験研究がなされていないために、さまざまなトラブルが発生しているとのことであった。これは導入直後の一時的な現象で、やがて解消されていくのかもしれないが、一部に次のようなことが言われているとのことで、それにはいささか首を傾げざるを得なかった。

「試験場がなくとも、世の中の最新のものを利用すればいいのだ」と。

 本当にそうなのだろうか。確かにIT関連のものなど、世の最新の技術を利用していることは間違いないが、それだけでは世の一般企業と何ら変わらぬことになってしまう。

 技術と精神は切り離せぬもの、とするイズムの本質から見てどうなのだろうか、との疑問を打ち消すことができなかった。

 

〈10月×日〉

 最近、いろいろの人が訪ねて来てくれるようになった。宿舎まで来てくれるので、ゆっくりと話ができる。病気見舞いを兼ねてということではあるが、私が意外と元気なので拍子抜けさせているのではないかと、かえって申し訳ない気持ちがする。考えてみたら、これほどゆったりと人と話をしたことはあまりなかった。研鑽会での話し合いやロビーや道端での会話が多く、何となくせわしない感じがしていた。しかし、今のような本心からの話し合いができるのは幸せである。これも、病気になった功徳かもしれない。

 病気の功徳ということを考えると、一番大きかったのは、ガンという病名を告げられた時に、「ああ、これで自分の死にざまが決まった」という覚悟ができたことだ。考えてみたら、あの世に持っていけるものなど何一つないし、自分を飾ったり、ごまかしたりする必要が全くないことにも気づかされたのである。無所有とか無我執というのは、頭ではわかっていても、なかなか身に染みてわかるところまではいかない。しかし、眼前に死が迫れば、いやでもそれを認めざるを得ない。知人の葬儀で死者に対面すると、ほとんどの人が仏様のような顔をしているが、恐らくすべてを放し切った心境になったからなのだろう。私自身は、まだまだその心境には遠いけれども、だいぶ楽になったことは間違いない。

 病気のもう一つの功徳は、病気をきっかけに自分の人生を振り返ってみようと思い立ったことである。何も誇るべきもののない、恥ずかしいような生き方しかしてこなかったが、その恥ずべき生き方を見つめ直せば、人間一般に通ずる何かが見えてきはしないか、と思ったのである。

 今は読みたい本を読み、書きたいものを書き、話したいことを話す毎日で、実に快適である。実顕地がそれを許容してくれていることは、本当にありがたいことだと思っている。このぶんなら、死の瞬間を最大の極楽境にできるかもしれない、と思ったりする。

 

〈10月×日〉

 先月のテーマに、「お互いが〈らしく〉生きられる介護環境」というのがあった。〈らしく〉というのはよくわからないが、介護が世間でもヤマギシでも、大きなテーマになってきたことは間違いない。しかし介護というと、どうしても「介護環境」というように、環境面、ハード面に目が行きがちになる。また、ここでは「お互いが」と断ってはいるが、世話する側のあり方だけがテーマになりやすい。村ネットなどを見ても、世話する立場から「こうした、ああした」という話が出て、それがどうであったかという自分の心境面の報告はあるけれども、世話される側の立場から「それが本当にどうだったのか」という反応は出ていない。発表されるのは、世話する立場からの〈自分の見方・見え方〉なのである。つまり、そこには介護する側の一方的な見方に陥りやすい危険をはらんでいるのだ。

 自分が入院したりして介護される立場になってみると、そのことがより強く感じられる。そう感じた時、もう40年も昔の一つの記憶が蘇ってきた。それは参画する少し前に、当時の有名な共同体を幾つか訪問した時のことで、その訪問先の一つに奈良の大倭紫陽花邑があった。そこの身障者施設で、今でいうボランティアをさせてもらい、一人の重度障害者の食事の世話をさせてもらった時の経験である。世話といっても特別に何かするわけではなく、傍の椅子に座って食事を見守るだけなのだが、見ているとその人は手が震えて食事を口元に運ぶまでに大半を床にこぼしてしまう。施設の職員はそれを黙って見ている。思わず私が手を伸ばそうとすると、その職員は「このまま見ていてください」と言う。何か腑に落ちない気持ちで見ていたが、その障害者が僅かの食事をスプーンで口に運び、おいしそうに食べてニコッと笑った時に、疑問はいっぺんに氷解した。そうか、食事は単なる栄養補給のためのものではない、それは生きる喜びであり、しかも自分の手で食べることで日々生きる実感を確かめているのだ、世話をすることでその喜びを奪ってはならない、そういうことが漠然とではあったがスーッと入ってきた。職員の人と話をしていても、食事に時間がかかるとか、後の床掃除が大変だなどという話は一切なかった。そこには〈効率〉などという考え方は全く存在しなかったのである。

 いま内部川には、70歳以上のいわゆる老蘇年代の人が8人おり、他に障害を抱えている人が1人いる。この中で実際に介護を必要とする人はほんの数人にすぎないが、いずれみんなに介護が必要になることは間違いない。『ヤマギシズム社会の実態』には「死の瞬間を最大の極楽境にします」と書いてあるけれども、今の自分たちの実態がそれに見合うものであるかどうか、と考えたときに、これはもっと真剣に考えなければならないと思い立った。そこで、調正所に提案して、老蘇世話係、調正所、仲良し班窓口の三者と、老蘇から私も参加させてもらって研鑽会を開いた。

 研鑽会で何かがはっきりしたというわけではないが、世話する側と世話される側の関係が非常に近くなったことは間違いない。「最大の極楽境」というときの「極楽境」の「境」は、環境の「境」でもあるし、心境・境地の「境」でもあるのではないか、そして「極楽境にします」というときの「極楽境にする」主体は誰なのか、またそういう心境に最後の瞬間に立ち至ってから突然なれるものでないとすれば今をどう生きるべきなのか、こういうことをみんなで気軽に出し合って、大変面白かった。そして今後も月一回程度研鑽していこうということになった。

 介護に関する研鑽が、ともすれば介護者だけの研鑽になりがちであるが、老蘇や被介護者を加えることで中身が深まるのではないかと思った。

 

〈10月×日〉

 2年ぐらい前に春日山から始まった「村人テーマ」が、実顕地全体のテーマのようになってきた。各種の実顕地づくり研では、この毎月のテーマを中心に研鑽会が持たれているという。「村人テーマ」が、何を目的とし、どんないきさつで、どこの場で決められているのかはわからないが、1980年から20年間続いた「村人テーマ」が、2000年に突然中止され、今また復活するにはそれなりの理由があるに違いない。一度そのへんの事情を説明してもらえるといいのだが、と思っている。またテーマというものの性格がどういうものなのかもはっきりさせてもらいたい、とも思う。つまり、それが実顕地の進むべき方針として提起されているのか、それとも共に考えたい問題として提起されているものなのか、ということである。

 しかし一番よくわからないのは、実顕地研鑽部が出してくる「テーマ解説」だ。もしテーマというものが、みんなで考えたい問題提起として出されたものなら、みんなの間から出てきたさまざまな意見を取り上げて紹介し、さらに研鑽が深まるように仕向けることが重要になる。またもしテーマが実顕地の進路を示す指導方針というのであれば、研鑽部は指導部の別称ということになる。しかし、ヤマギシには指導者や特別人間はいないことになっているのだから、研鑽部が指導方針を出したり、村人の考え方や行動を方向づけることはあり得ないはずである。ところが、研鑽部のテーマ解説を読むと、ほとんどが考える方向を指し示すものになっている。これでは、2000年以前の研鑽部と全く同じことになってしまう。

 人は案外弱いもので、"上からの指示”や"集団の流れ”ができると、それとは違う意見は出しにくくなり、自由な研鑽の雰囲気は作れなくなる。そうなると、研鑽会が沈黙に打ち沈んだり、出席者が少なくなっていく。研鑽会が研鑽の場ではなくなる。しかし、本来研鑽会は「親愛・和合の社会気風を醸成し、何かしら、会の雰囲気そのものが楽しくて、寄りたくなるような機会」(「ヤマギシズム社会の実態」)であり、それを推進するのが研鑽部の本来の役割のはずであろう。

 

〈10月×日〉

 9月度のテーマ解説を読んでいて、不思議な感じになった。この解説は実顕地研鑽部の名前で出されているが、この研鑽部の構成員はみんなできちんと研鑽して、その結果をまとめて出しているのだろうか、それとも誰か一人の思いつきの作文なのだろうか、という疑問である。中身があまりにお粗末なのだ。

 そのテーマ解説は、ある人の研鑽会での発言を紹介したあと、次のような結論を導き出している。

「引き継ぐというのは、一般にいわれている、古い人が今までやってきて積み重ねたことを、新しい人に引き継ぐというのではなく、積み重ねた経験などがあったとしても、新しい人が新しいことをやることに対して、温かく見守り喜んでいられるということなのでしょう」

 これは、いったい何を言いたいのだろうか? 大体この文章は、日本語の意味からして不可思議きわまりない。ふつう「引き継ぐ」というのは、「誰か」から「誰か」が、「何か」を受け継ぐことであろう。そうでなければ、「引き継ぎ」の意味をなさない。「新しい人が新しいことをやることに対して、(古い人はただ)温かく見守り喜んで」いればいい、それが引き継ぐということだと言われて、これで誰が何を引き継いだのかわかる人がいるとすれば、不思議である。こんな不可解な日本語を、実顕地研鑽部という公的機関が出すことは恥ずべきことではないだろうか。

 むしろ、本当に言いたいことは、こんなことことかもしれない。

「もうお前ら年寄りの時代は終わった。余分な口出しはやめて、おとなしく引っ込んでいればいいのだ。マッカーサーもGHQを解任されたとき"老兵はただ消え去るのみ”と言ったじゃないか」

 この方が正直でわかりやすい。そして「古い人」のどんな考え方が時代遅れで、「新しい人」のどんなところが新しい時代を切り開く考え方なのか、それを具体的に出し合って研鑽に結び付ければ、そこから何かが生まれてくるかもしれない。一方的な切り捨てからは、何も生まれることはないだろう。

 ただ、「古い」「新しい」という線引きの基準はどこにあるのだろうか。年齢? もし年齢だとすれば何歳以上が古いのか? またもし参画年次だとすれば、何年以前の参画者が古い人なのか? ヤマギシでは老いてますます蘇るという意味で、年寄りを老蘇と呼んでいるが、これは既に死語になってしまったのだろうか? 確か山岸さんは、どこかで「80歳の青年もいれば、20歳の老人もいる」と書いている。これはおかしな考え方なのだろうか? 山岸さんは55年前に亡くなっているから、山岸さん自身を「古い人」と言いたいのかもしれないが……。

 研鑽を深めるためには、言葉とその中身をできるだけ正確に使わなければならない、と私は思っている。「古い」という形容詞を使えば、古臭くて使い物にならないような印象を与え、「新しい」と言えば、何か画期的な新機軸のように印象づけようとする、こういう表記法は実は何の意味も持ちえない。「進歩」「発展」「革命」、これらはすべて言葉、名辞にすぎず、何らその内実を示すものではない。問題はその言葉の意味するもの、指し示すものであり、その中身によってのみ人は考え、研鑽することができる。

 研鑽部は、まず言葉の正確な使い方から研鑽を進めてほしい。

 

〈10月×日〉

 昨日に続いて、古い・新しいということを考えている。

 青年期は、"青春”という言葉が示すように、春に例えられる。これからどんどん成長し、いかなるものにもなりうる無限の可能性を秘めているように見える。一方老年期は、成長が終わり、死の晩年が訪れる秋にも例えられる。

 自分の80年の人生を振り返ったとき、青年期(何歳から何歳までとはっきりはしないけれど)を過ぎるということは、自分の中の可能性を一つひとつ捨て去ることだったように思う。もっと正確に言えば、そんな可能性はなかったのだと、自己確認する(させられる)過程だったようにも思う。しかし、若いときはそんなことはない。どんな無茶と思われることでもできるし、夢に命を賭けることもできる。

革命は青年抜きに考えることはできない。

 では老人は、ただ消え去るだけの存在なのだろうか。秋に木の葉が色づき、山々が美しい紅葉に彩られるのは、葉に蓄えた栄養(炭水化物)を枝や幹に送り出し、来る年へと引き継いだ後の姿である。この引き継ぎが不十分であれば、翌年の実りは保証されない。これと同じことが人間の世界でも見られるのだろうか。

 若い人に無くて年寄りだけにあるものが一つだけある、と私は思っている。それは、失敗の経験である。失敗の経験に学ぶ者だけが、次の時代を切り開いていける。成功経験も大事であるが、失敗経験はもっと大事である。なぜなら、成功の経験はほとんど無きに等しいのに、失敗の経験はそれこそ数え切れぬほどあるからである。しかし、多くの場合、失敗は愚かなこと、恥ずべきこととして否定され、無視されてしまう。その結果、失敗の歴史は何回でも繰り返されることになる。

 

〈10月×日〉

 先日、ある実顕地のメンバーと話していて、気になることがあった。彼は「最近は村人テーマの〈実顕地一つ〉の資料で研鑽しているが、どうも意見が出しづらい」というのである。彼の言うには、何か〈こうすることが実顕地一つなのだ〉と決まったものがあって、それと違うことはなかなか言えない雰囲気なのだというのである。これは、私にも経験があるのでよくわかる。自分もそんな雰囲気に委縮したり、自分からそうした雰囲気づくりに貢献したりした苦い経験がある。しかし、もうとっくにそんな経験は卒業していなければならない。

 ここで考えなければならないと思うのは、〈実顕地一つ〉のテーマが意味することの中身である。つまり「実顕地は一つである」ということなのか、あるいは「実顕地は一つにならなければならない」ということなのか。もし、後者であるとすれば、今は一つでないから一つを目指していこうということになるし、前者であれば、いろいろ意見の違いはあっても一つの中の多様な見方であって、違いは豊かさを表すだけで対立にはならない。この「一つである」ことなのか、「一つになる」ことなのか、ということの違いは、決定的に大きい。

 そして私たちが目指したいのは「一つである」あり方である。「一つである」から何でも言える、何でも聞ける、「誰もが思った事を、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、又は誰の発言や行為をも忌憚なく批判」(「ヤマギシズム社会の実態」)できる、そんな社会づくりである。

 言葉で言ってしまえばこんな簡単なことなのだが、実際にそうなっていかない原因はどこにあるのだろうか。恐らく、方向や事柄を一つにしようとする側にも、それに委縮したり反発する側にも、一つでないものが介在しているからではないだろうか。特に「正しいもの」「本当のもの」を自分(たち)の考えや行動の原理としている場合は、それを他に押し付ける危険が大きくなる。強制力を働かせることも起こりうる。そうして作られた流れや空気が、人を押し流してしまいかねない。

 いま大切なことは、「実顕地一つ」の研鑽を、「事柄の研鑽」から「あり方の研鑽」へと変えていくことなのではないだろうか。

 

〈10月×日〉

 前に、出席者のあいだに何らかの規制する力が働くと「研鑽会が研鑽の場でなくなる」と書いた。この「研鑽会」と「研鑽」との関係について、もう少し考えてみたい。

 ヤマギシには「研鑽会」と名前の付いた会合はたくさんあるけれども、単なる打ち合わせにすぎないこともあるし、雑談に終わることも少なくない。するとこれは、世間一般で行われている「ミーティング」や「打ち合わせ」とどこが違うのか。しかし漠然とではあれ、私たちは「研鑽」と「ミーティング」とは違うと思っている。しかも、「研鑽こそが生命線」とも口にしている。どこかに明確な違いがあるはずだが、それがはっきりしない。

 そうした疑問を数年前にある会合で口にしたら、榛名のYさんから「お前は昔からずっと同じことを言っている」と笑われたことがある。また、2000年問題に絡んで「なぜ大事な場面で研鑽が機能せずに対立になってしまったのか」と書いたところ、春日山のSさんから「実顕地メンバーの研鑽力はまだよちよち歩きの段階なのだ」と批判された。Sさんは自著『贈り合いの経済』の中の「吉本隆明氏との対話(12)」に、「いわばどこまでも自分の自由意思を曲げないための『研鑽力』が問われているわけだが、その日常化においてはいまだよちよち歩きの域を出ない」とも書いている。ただSさんは、いつ、どうしたら、よちよち歩きを脱して一人歩きできるようになるのかは明らかにしていない。

 自分を振り返れば、確かによちよち歩きもいいところだけれども、一体生活が始まって58年、会発足から数えれば63年にもなるヤマギシ会メンバーの研鑽力が、未だよちよち歩きの乳幼児段階にあるとすれば、これはもう異常事態というべきだし、乳幼児どころか回復不能な障害者だと決めつけられても仕方がない。

 確かに私たちは、日常的に研鑽会を開き、何事かを話し合っている。にもかかわらず、研鑽力がそれに伴っていない。これはどういうことなのか。もしかしたら、研鑽会を開いてはいるけれども研鑽はしていない、ということの積み重ねの結果ではないか。では、研鑽って何なのだ、という最初の疑問に戻ってしまう。話し合い、ミーティング、討論、ディスカッション、ディベート、打ち合わせ等々、さなざまな言い方はあるけれども、こうした話し合いと研鑽との違いはどこにあるのか。

 

〈10月×日〉

 毎月開いているある研鑽会で、よく「自分の聞きたいようにしか聞いていないからね」という言葉が出る。「相手がそう言った」という聞き方から「相手の言ったことを自分はそう聞いた」という聞き方への転換。自分の聞きたいように聞き、自分の見たいようにしか見ていない、そうでしかない自分への自覚、これは確かに大事なことではあるが、たいていの場合そこで終わっている。しかし、本当に大事なのはそこからなのではないか。

「何で自分はそう聞いたのか」

「そうとしか聞けない自分に何があるのか」

 こう問いつづけることで、自分の心のあり様を調べることができる。これが研鑽の最も大事なところではないか。

 研鑽についての説明で、よくこんなことが言われた。

「人の話をよく聞き、自分の意見をはっきり出し、そして本当はどうかと検べ合う」

 しかし、こんなことはヤマギシでなくともどこでもやっていることだ。ヤマギシ以上にシビアに調べ合っている企業はいくらでもあるだろう。だが、自分の内面を調べることはどこでも行われていない。もちろん、宗教的な心の修養として自己を見つめることは昔から行われてきた。しかし、幸福な社会づくりを目指して、対象を検べることが同時に自己を検べることであり、自己を検べることが同時に対象を 検べることにつながるような、終わりのない検べる生き方は他にはない。これこそが研鑽なのではないか。だから山岸さんは、研鑽生活の連続を〈ゴールインスタート〉と言ったのだと思う。

 どうも自分の実感を言葉でうまく言い表すことができない。要するに、一般に言われている「検討」とか「調べる」というのは、自分の外側に存在する対象を、自分の見方・考え方に基づいて論ずるのに対して、研鑽は対象を検べると同時に、自分の見方・考え方、さらにはその見方・考え方を下支えしている深層の心理までをも検べようとするものではないか。外へ向かう力と内へ向かう力が同時に働くことで研鑽が成り立つ。そう思う。

  

〈10月×日〉

 鶴見俊輔さんの『敗北力』を読む。その冒頭の詩稿にこういう言葉が出ている。

    憲法、それは私から遠い

    むしろ、自分からはなれず、

    私の根の中に、

    憲法とひびきあう何かをさがしあてなければ、

    私には憲法をささえることはできない

       (それをさがしあてたい) 

 これを読んでずしりと響くものがあった。確かに私は憲法改正には反対だし、9条を守りたいと思っている。しかし、その反対は頭の中に存在するにすぎない。だから自分から遠い。では、自分の「根の中にひびきあう何か」とは何だろう??

 鶴見さん晩年最後の著作となったこの本には、こういう言葉もある。

 「『知識』はね、『自分の中の態度』に根差していなければ、『思想』になりません」

 また、東大を始めとする大学人を批判して、こう書く。

 「大学に位置を得ると、その人は、インサイダー取引の文章を書いて、終わりまで書き続けるようになる。

 このことは、その人の書く論文の形に刻印を押す。

 こうした論文には、へその緒がない。自分自身、自分にとっての自分がない」

  今は亡き鶴見さんの思想を一貫して支えていたものは、「自分の中の根」であり、「自分の中の態度」「へその緒」であった。それを見い出し、確かめ、支え、深めることに思想の拠点を置いた。

 私は、研鑽とは何かとずっと考えてきたが、この鶴見さんの言葉に出会って、そうか研鑽とはへそで考え、へそを確かめることではないかと思った。

 

〈10月×日〉

 S・アレクシエーヴィチの『セカンドハンドの時代』を読む。ソヴィエト体制が崩壊した1991年以降のロシアに暮らす一般庶民の声と魂の膨大な記録である。前作の『チェルノブイリの祈り』と同じように、さまざまな立場に置かれた人々の声が集められ、混沌としたロシア社会のあり様を混沌としたままに浮かび上がらせている。600頁にも及ぶこの本の中身を、一言で言い表すことなどとうていできない。ただ、この本は、70年間のソビエト社会主義というものが何であり、崩壊後の20年間が何であったのか、そしてまたそれがこれからの世界に何をもたらすのかを考える材料を豊富に提供している。しかも、それを国家論や社会論としてではなく、政治や社会の変動に翻弄される一般庶民の生の声を通して伝えている。

 91年のソビエト体制の崩壊前後、私はテレビの前に釘付けになっていた。ゴルバチョフによるペレストロイカ、軍部の反乱、エリツインによる政権奪取、民主化、こうした一連の変動の結果は、大方の予想に反し、自由とは弱肉強食であり、国家財産・共有財産の奪い合いであり、一部の富裕層と大多数の貧困層を生み出すものにすぎなかったことを明らかにした。そして100年も前にドストエフスキーが『カラマーゾフ』の「大審問官」篇で語った、「人間の自由を支配するかわりに、おまえ(キリスト)はそれを増大させ、人間の魂の王国に、永久に自由という苦しみを背負わせてしまった」という詰問から逃れられないでいる。その結果、スターリンの代わりにプーチンという新たな大審問官を戴き、「強いロシア」を旗印とするその強権支配に、かなりの人々の支持が集まっている。

 しかし、これはロシアに限った話ではない。旧ソ連邦から独立した国々も同じ状態であるし、また何より中国がいま、自由の抑圧なしには国家の統一を維持できない苦しみの中にいる。一方のアメリカは、マネー資本主義の強風の中で貧富の極端な格差に苦しんでいる。

 とにかく、私たちは「思想もことばもすべてが他人のおさがり、だれかのお古のよう」な「セカンドハンド(使い古し)の時代」を生きている。なかなか希望を見い出せないし、かつての理想はすっかり色あせてしまった。新たな希望、新たな理想をどこに求めたらいいのか、この本は今を生きる私たち一人ひとりにこの問いを投げかけている。

◎吉田光男『わくらばの記』(13)

わくらばの記 ごまめの戯言⑤

 〈9月×日〉

 喜一さんは、自分の葬儀について、なぜ親族に限る、つまり村人の参列を拒否するような遺言を残したのだろうか。偲ぶ会などで、自分の棺を前にしてあれこれ語ってほしくないという心境だったのかもしれないが、それがなぜなのか、その疑問がしばらく頭から離れなかった。そしてここからは私の妄想にすぎないのだが、喜一さんの中にヤマギシ養鶏についてのやり残した思い、無念の思いが潜んでいたのではないか、と思わされた。

 中西喜一さんという人は、農業養鶏の時代から山岸さんに技術係りとして嘱望されていた人である。動植物に対する感性が鋭く、研究心も旺盛である。実顕地の社会式養鶏が始まってからは、当然養鶏試験場の技術部門の中心となるべき人材であった。

 しかし、70年代に入り卵の供給が伸び始めると、試験場の役割は小さくなり、しまいには廃止されて、養鶏はすべて本庁養鶏部の管理するところになった。ヤマギシ養鶏は完成されたものとして、試験研究の必要性が認められなくなったのである。各実顕地養鶏部は、卵の増産だけに励むことになる。喜一さんは技術係りとはいえ、日常の作業は洗卵センターの責任者にすぎなかった。洗卵センターの職務内容については私の詳しく知るところではないが、飼育の技術者がやらなくとも、機械に詳しい人材であれば十分務まる職場であったろう。要するに、経営の重視が技術や研究の軽視へと導いたのである。

 このへんの動きについて年表を繰ってみると、75年9月に「実顕地経営研」が始まり、「経営的センスの養成」がテーマになった。そして翌76年3月には、参画申し込みを実顕地本庁に一本化することが決まる。それまで参画申し込みは中央調正機関と実顕地本庁の二か所で受け付けていたものを、実顕地本庁に一本化したのである。これは、即中央調正機関廃止の方向であり、これに伴って中央調正機関に属していた中央試験場も実顕地本庁の管理下に移ることになる。この時期は、74年7月の多摩供給所発足に伴い、供給活動が軌道に乗り始め、卵の増産が望まれて新たな実顕地の造成が急がれた時期でもあり、参画者の「経営的センス」の養成は喫緊のテーマでもあった。

 そしてこの頃からだったと思うが、日常の会話の中にも「経営」や「効率化」が言われるようになった。古いものを活かすという考えよりも、それを捨てて新しく買い替える方が効率的だという考え方である。私たちの多くも、できるだけ安く仕入れて、できるだけ高く売る、という市場経済の論理に次第に馴染んでいったように思う。こういうときに、金を食うばかりで儲けにならない試験研究のようなものが、軽視されていくのは必然的であったかもしれない。こうして、試験場は機能停止になり、新たにつくられた本庁養鶏部が全実顕地の養鶏所を管理することになった。

 しかし、本庁養鶏部は試験や技術面を代替する機関ではない。卵の需要に応じて、全国各実顕地の入雛計画を立てたり、餌の購入計画やその配合率を決めたりする実務機関である。

 こうした流れの中で、喜一さんを活かし活躍してもらう場はありえたであろうか。このへんについて、もう少し自分の妄想の範囲を広げて考えてみたいのだが、今日はこのぐらいにしておく。

 

〈9月×日〉

「養鶏書」を開くと、ヤマギシ養鶏は「(技術20+経営30)×精神50」と書いてある。これは恐らく誰でもが知っている公式であろう。しかし、目を凝らしてもう一度よく見ると、また違ったものが見えてくるかもしれない。私は再度読み返してみて、このヤマギシ養鶏の等式のカッコを開いてこう書き直してみた。

 (技術20+経営30)×精神50=(技術20×精神50)+(経営30×精神50)=ヤマギシ養鶏 =幸福

 つまりヤマギシ養鶏は、技術も経営も精神と掛け合わされていて、両者は絶対に切り離すことができないものとして位置づけられている。そしてまた、経営がいかに重要であっても、技術をゼロにして経営を50にすれば、それは既にヤマギシ養鶏ではなくなってしまうだろう。そのことについて、山岸さんは「社会式養鶏法発表会に寄せて」という文書にこう書いている。

 

 「技術を離れた山岸養鶏はなく、精神のない技術は山岸養鶏でなく、またヤマギシズム精神のない経営は山岸式経営ではない。山岸養鶏技術は、経営とヤマギシズム精神が組み合わさって初めて技術となる。即ち、精神や経営を度外視した山岸養鶏技術はない」(全集④196頁)

 

 この文書は、1961年4月16日に名古屋市の半僧坊で行われた「ヤマギシズム社会式養鶏法発表会」に送られた山岸さんのメッセージで、当初山岸さんも出席を予定していたが、体調不良のため急遽口述筆記されたもの。(なお、この半月後に山岸さんは亡くなる)

 ところで、社会式養鶏の飼育現場における技術は、どのように保証されるかといえば、それは試験場の試験研究によってなのである。そのことを山岸さんはこう語っている。

 

 「それぞれの実顕地が出来て、飼育専門の係は試験場へ問題を持ち寄り飼育専門研をやり、試験場ではその案を採り上げ、そこで試験、組み立てと、それをまた実顕地に適用する。……実顕地の方は、自分の考えで何かやりたいとの案が出たら、試験場へ持ち寄るので、自分ではやらず、試験場の出た案はそのままやる。そして試験場は誰も入れないで飼育(技術)専門の人でやる」(全集④155頁「ヤマギシズム社会式養鶏法について――名古屋での座談会記録から」)

 

 個々の農家を母体としていた農業養鶏時代の技術係と違って、社会式養鶏においては、技術は試験場で試験と組み立てがなされ、実顕地はそれを無条件で実施するものとなっている。したがって、経営重視、効率優先の考え方で試験場が無くなってしまえば、それは既にヤマギシ養鶏ではなくなっていく。

 ところで、実顕地とは「実際に顕す地」の意味であるが、何を顕すかと言えば、それは中央試験場(養鶏試験場はその産業部門の一つ)で試験研究されたヤマギシズムの考え方を実際に顕す地ということである。つまり実顕地は完成されたものでも独立したものでもなく、試験研究されたその時々の最先端をたえず実施することによって、ヤマギシズム社会へ、理想社会へと進む前進無固定の社会構成の一機関と構想されている。なお、もう一つ付け加えれば、これら試験場・実顕地の構成員が最も正しく研鑽生活を送れるようにするための仕組みが研鑽学校である。このように試験場、実顕地、研鑽学校の三つの機関が、ヤマギシズム社会構成の基本とされ、互いに自立しながら一体で運営されることとなっている。(全集④396頁「ヤマギシズム実践諸機関について」)

 

 しかし、実顕地急成長時代の経営重視の中で、試験場は無くなり、研鑽学校も実顕地に吸収され、ヤマギシズム社会構成の3機関が、実顕地一つに統合されてしまった。このことをどう考えたらいいのだろうか。今まであまり問題にもされてこなかったことだが、喜一さんの葬儀のことを考えているうちに、このことに突き当たった。ぜひみんなで考えてみたいと思った。

 

〈9月×日〉

 私が参画したばかりの頃、初めて養鶏書を見て「老鶏は若雌(若々しく)のような、若雌は老鶏(牛のような)の如きタイプを常に保たすこと」という言葉に少し違和感を覚えた。何で老鶏は「若鶏」の如くと言わずに「若雌」と言うのだろう、と疑問に思ったのである。しかし、答えは簡単なことだった。山岸さんは養鶏書の中で、「農業養鶏は強健でよく稼ぐ交配種の雌のみを飼います」と書き、他のところでも「食卵に雄性は不要」と書いている。つまりヤマギシ養鶏は、採卵鶏においてはもともと雌のみを飼うことになっていたのである。では、なぜ今のように雄を入れて有精卵にしたかと言えば、1971(S46)年に安全食糧開発グループ代表の岡田米雄氏から「有精卵を作ってほしい」と要請され、それに応えて始めた有精卵が岡田氏の四つ葉グループに歓迎されたばかりでなく、2年後の多摩供給所発足のきっかけになったからである。

 長い間、ヤマギシ養鶏は有精卵と信じ込んでいたが、調べてみたらそんなことはなく、外からの要請に応じて"とりあえず”有精卵にした、というにすぎない。今は有精卵がヤマギシ養鶏の特徴のように考えられているが、雄と雌がいることがヤマギシ養鶏の本質を表わすものではなく、本質はもっと別のところにあるのではないかと考えられる。同じように、「これこそがヤマギシ」と信じ込んでいることの中にも、私たちの勝手な思い込みによる誤解が含まれているかもしれない。

 この‟とりあえずそうした”ということでいえば、喜一さんからこんな話を聞いたことがある。

 私が「養鶏書では『奥行4間の鶏舎で、細長い3間先まで1週間の雛を走らす』と書いてあるけれども、社会式では生まれてすぐの雛を中雛寝枠に放して狭いガードで囲うのはなぜか」と聞いたのに対して、

「いや、あれは小羽数の堆肥熱育雛と違って、大羽数に適した育雛設備がなかったので、とりあえず中雛寝枠を使おうということで、あれで良いというわけではないんだ」

 実は、中雛寝枠は研究課題の一つだったということである。それが今では育雛設備の決定版として、何の疑いもなく使いつづけられている。

 養鶏に関わったことのない人のために、山岸さんが農業養鶏について書いた文書の一部を引用しておく。

 

「奥行4間(7.2メートル)の鶏舎で、細長い3間〈5.4メートル)先まで1週間の雛を走らすのも、40日雛を成鶏収容密度の広濶な成鶏舎へ放つのも、脚の丈夫な、胸肉の張った、餌負け、暑さ負け、産み疲れを知らぬ、途中落伍のない、環境に打ち勝っていく、成鶏になっての稼ぎ高の多い鶏を造るのが目的で、3間先に水を置き、乾燥飼料を食べさせては水を呑みに走り、寒くなれば温室へと、繰り返し、真っ暗の寒夜も3間先までお百度マラソン、これで丈夫にならねば不思議でしょう」(全集④「真理追求から発した養鶏」『愛農養鶏』1954年5月号)

 

 熱室・温室・冷室と三段階に分けられた育雛枠で40日まで過ごした雛は、40日経つと育雛枠が取り払われて、広い鶏舎いっぱいに放たれる。このとき用いられるのが止り木と中雛寝枠である。この中雛寝枠が、今の実顕地では初生雛から用いられ、周囲をガードで囲っている。囲いは雛の成長につれて広げられるとはいえ、3間先まで飛んでいけるような広さはない。

 このように、今の中雛寝枠方式は研究課題として残されたものであり、当然それは試験場で研究すべきものであった。

 

〈9月×日〉

 1980年代のことだったと思うが、配置で首都圏実顕地の大田原に行った。そこには、実顕地育ちのSK君がいた。わりと親しい関係だったのでよく話をしたが、S君は当時の本庁の方針に何かと異を唱えていて、私としては何とか全体の流れに沿って一つになれないかと考えていた。

 当時の養鶏部では、冬場は鶏舎をビニールで囲うことになっていて、大田原でもその作業を始めようとしていた。ところがS君は、それに疑問を投げかけた。

「冬の寒さ対策としてビニールをかけるというが、それによって空気の流通が悪くなり、鶏の呼吸器系の病気が出やすくなるのではないか。いまのやり方は、それで病気が出れば薬をたくさん使って直そうとする。しかし、それって山岸養鶏に逆行するのではないか」

 そうか、確かに一理あるなと思ったものの、その頃の私は本庁の方針こそ絶対と思っていたので、S君の考えを無視してしまった。しかし、その後養鶏書を調べたりすると、S君の考えの方が正しいことがわかる。なにしろ山岸さんは「水と空気と太陽」といった自然の恵みを他の何物よりも大切としており、空気の流通を止めるような飼育が認められるはずがない。例えば、山岸さんはこういう文書を書き残している。

「薬物偏重医学者は少し反省しなければならないと思います。……稲作等も薬を使い過ぎますが、全て人間にしても、鶏の場合でも、病気の発生に好条件を与えておき、医学で糊塗し、または治療手段に訴えるよりも、先決問題はそうした原因をつくらないことで、それには病虫害の起因、特性、生態を深く究明すると共に、それ等を受け付けない態勢を整えるにあります」(全集①303頁)

 

 ほかにもS君は、「鶏舎の通路を全部コンクリートで固めてしまったが、夏場は太陽光の輻射熱で鶏舎内の温度が高まり、鶏に影響しているのではないか」とか、「オールアウトのあと、鶏糞をきれいに取り出して水洗いと消毒までしているが、昔は古い鶏糞の上に直接雛を放していた。病原菌はどこにでもいる。菌を無くすことより菌に負けない鶏を育てることがヤマギシ養鶏の根本ではないか」と語っていた。当時は聞き流してしまったとはいえ、いずれも私の心に残った言葉である。

 しかし、これは何が正しいかという問題もあるけれども、それよりも飼育に関する試験研究がきちんと行われず、経営効率優先の考え方から、思い付きで事が進められたことがより大きな問題なのである。同じようなことで、一時雛のデビークが行われたことがある。入雛間もない雛の嘴の先端を切り取ってしまうのだ(ということは、鶏は必ずつつき合いをするものという前提に立っている)。確かに、成鶏になってからデビークするより遥かに効率的ではある。しかし、雛にものすごいストレスを与えるだけでなく、成長するにつれて嘴がおかしな具合に伸びて、上下不揃いのカケスのような鶏が続出して、すぐ取りやめになった。

 このように、試験場が無くなり本庁養鶏部に一本化されることによって、経営だけが重要視され、飼育に関する技術的な検討、研究、試験が行われなくなり、飼育者は日常作業を通じて感じた疑問や感想を深める機会が無くなってしまった。それらについては、明日また書いてみることにする。 

 

〈9月×日〉

 私の参画したての頃は、鶏舎の離巣檻や産卵箱は下(鶏糞の上)に置かれていた。今のような宙づりの形ではなかった。しばらくして今の宙づりの方式になり、作業はしやすくなった。ところが、産卵箱はともかく、離巣檻については「養鶏書」に次のような記述がある。

「離巣檻は鶏舎の一番明るい一隅に、A、B2個の小室を作り、A方に3日間巣鶏をいれ、次の3日間はBの方にいれ、……特に注意すべきは、檻内の鶏と檻外鶏舎内の鶏とが、見忘れないよう給餌器を内外両方から食べられるようにし……」(全集①158頁)

  この「見忘れないように」という記述にはびっくりした。鶏の本性を知り尽くした山岸さんの細かな配慮が、ここまで及んでいるのか、という驚きである。とにかく、物忘れの典型に鶏頭があげられるように、鶏はしばらく別飼いにすればすぐ相手を見忘れる。再び一緒にすると、すぐつつき合いを始める。それを防ぐために、内外双方から餌を食べられるような構造にしてある、ということなのだ。

 そこから考えると、羽数調正という飼育の日常作業がどうなんだろう、という疑問が生じてきた。餌量を全連一定にするために、羽数調正をごく当たり前に行ってきて、疑問に思うこともなかったが、住み慣れた部屋から違った部屋に移動させられる鶏にとっては、相当のストレスになっているのではないだろうか。人間にとって都合のよい(つまり人間よりの)飼育方法が、飼育される鶏にとってどうかという視点が、これまでほとんどなかったのである。

 また、全連餌量を一定にするという方法が、理に適っているかどうか。養鶏書には、「給餌法」としてこう書かれている。

「(本養鶏法では)1日1回空腹、1回満腹となるよう切餌とし、毎日、日没2時間ほど前に、1日分全量を与えます。分量は、翌日正午までは餌箱にいくらか残っているが、日没2時間前の給餌の時には、すっかり食い尽くしているのを適量とし、正午までに食い尽くし、または給餌の時余っている場合は、給餌量をそれぞれ適当に加減します」(全集①151頁)

 

 鶏が生き物である以上、同じ羽数であっても、その日の天候や気温、湿度、あるいは健康状態などによって、餌の食い方が違ってくるのは当然である。もちろん養鶏書は、小羽数の農業養鶏用に書かれたものであるが、私の参画したころの養鶏部でも、毎日きちんと餌見と餌量調正を行っているところがあった。ど素人の私には、ちゃんとした観察や対応ができたわけではないが、何かしら身につくものがあったように感じられる。しかし、いつしか鶏を見るのではなく、羽数表の数字を見てそれを配合に伝えるだけになってしまった。

「鶏のことは鶏に聞く」という山岸さんの考え方からすると、これは異常だ。成鶏管理が羽数表管理になり、飼育者はただ餌を餌箱に入れ、卵を採り出すだけの作業者に成り下がってしまった。だから、飼育者から日々の飼育作業を通しての感想や喜びや疑問が提出されることはほとんどなくなっている。当然、試験場に問題を持ち寄って、試験研究を委嘱する必要もなくなる。試験場を無くし、実顕地一本の体制を敷いたことが養鶏の飼育現場を歪めてしまったのではないか、と思うのである。

 ただ、技術的な疑問や考えを個人レベルで解決しようと思っても、それは思い付きの範囲を越えるものではないし、かえって混乱を招くだけだと思う。今それだけの人材がそろうかどうかは別として、試験研究に関心のある人が3人以上寄って、実顕地から一切の制約を受けない飼育試験に取り掛かれるとしたら、試験場再興への足掛かりが得られるのではないかと思ったりする。これには、実顕地のバックアップが不可欠であるが……。

 

〈9月×日〉

 喜一さんの葬儀のことから、養鶏の飼育についてあれこれ考えてきたが、一番強く思ったことは、経営の合理化・効率化が飼育管理の合理化・効率化になって、作業はしやすくなったが、鶏にとってはストレスを高める方向に向かってしまったのではないか、ということである。

 山岸さんは、こういう言葉を残している。

「心が豊かな鶏は豊かな稔りを積みます。鶏にも豊かな生活を。」そしてまた、

「大きな胃袋の雛が多く食べても、胃袋の小さい雛は決してそれを咎めませんし、消化器の働きの鈍い雛が負けまいと無理に食べて、胃腸障害を起こしたりしません。これが『ヤマギシズム』から発した養鶏法で、山岸式養鶏会員の鶏に1羽の羽衣食われ鶏も、同胞相食む尻ツツキ鶏もなく、健康で元気に満ち充ちながら、物静かで、競い合いをしませんことと……」(全集①280頁「稲と鶏」)

 また別のところでは、こうも書いている。

「……快適な環境に、物静かで、心理的にも豊かさに充ちた、競合の無い、愛善社会が、鶏の日常に実現していることが見えるのです」(同上295頁)

 

 ヤマギシ養鶏においては、「愛善社会が鶏の日常に実現している」と山岸さんは言っている。快適な環境の中で、物静かで、心理的にも豊かさに充ちた、競合のない、愛善社会――確かに実顕地の鶏たちは静かで落ち着いている、臭気も少ない。しかし、よく鶏糞は固まるし、ツツキが出て血を流し、落ちる鶏も出る。これはどうしてなのか。「1羽の羽衣食われ鶏も、同胞相食む尻ツツキ鶏も」いないはずのヤマギシ鶏舎で、なぜそうした鶏が発生してしまうのか。飼育者にとっては、大きなテーマのはずである。これを「鶏種が変わったから」などの一言(言い訳)で済ますことなどできない。(なお、ここで"愛善社会”という言葉を用いているのは、この文書が愛善みずほ会(大本教)の機関紙に掲載されたためで、養鶏書では幸福社会と記している)

 韓国配置のころ、喜一さんにツツキについて相談したことがあるが、喜一さんは「つつかれた鶏を取り除くよりも、最初につつく鶏を取り除いてみてはどうか」と言ってくれた。なるほど、いじめられたものを見つけるのではなく、いじめの張本人を見つけて手を打つ、その方が本当かもしれない。しかし、私の観察力不足でそうした鶏を見つけることはうまくできなかった。後になって考えると、原因はもっと別のところにあるように思えてきた。それは、私ら飼育者が鶏を見ることなく、羽数表を見て鶏を管理するという飼育方法である。山岸さんは「百万羽科学工業養鶏」構想の説明会で、こういう話をしている。

「既に"一羽の鶏が完全に飼えれば、百万羽の鶏も同じように飼えて当然だ”と、こういう理論は成り立っておったわけなんです。一羽の鶏が飼えないのに、十羽の鶏も飼えない、千羽の鶏も飼えない、百万羽の鶏なおさらということなんです」(全集③14頁)

「一羽の鶏が完全に飼えれば」という言葉は、飼育者にはかなり強烈に突き刺さってくる。とうてい完全に飼うことのできない自分であることを自覚すれば、鶏舎の前に謙虚に立たざるをえない。またそれは個々人の力では不可能であることに思い至れば、試験場を盛り立て、共に進もうとするだろう。

 この「一羽の鶏」という言葉は、「一本の柿の木」「一本の桃の木」とも「一匹の豚」「一頭の牛」とも読み替えることができる。そしてこれを「一人の子ども」と置き換えた場合にどうだろうか。一人の子どもも見ることのできない世話係りが、大勢の子どもを世話したらどういうことになるか。「子どもとはこういうもの」という画一化した見方によって、子ども一人ひとりの違いも秘められた可能性も無視することになる。

 山岸さんは「養鶏書は幸福の書だ」と書いているが、まさにその通りの奥深さであることを改めて感じさせられた。

 

〈9月×日)

 喜一さんの葬儀のことから、養鶏書を読み返す作業を繰り返して、少し疲れてしまった。山岸さんは「本書は……天才的知能を持つ非凡な人でも、30回以上熟読しなければ判らないでしょう」と書いているが、凡庸な上にもなお凡庸な知能しか持ち合わせていない自分には、なかなか理解できないとしても当然であろうと思われる。しかも、まだ数回しか読んでいないのだから尚更である。そして序文の最後に、次のように書いて警告を発していることが心に響いてくる。

 

「本養鶏法は、唯今すぐに間に合いそうな技術とか方法に関する部分を、切り離して実施するなれば、必ずや詰りと不幸が、必然的に見舞う様に仕組まれてあるのですから、決して拾い読みしたり、走り読みしないで、全巻初めの序文から末尾の結びの文まで一字も余さず、繰り返しくり返し熟読し理解して頂くこと、そして必ず、研鑽会に於て輪読会を開き、お互同志が、徹底的に研鑽し合うべきことを、銘記して頂きたいのであります」(全集①17頁)

 

  昨日は、午前中に息子と一緒にS夫妻来てくれた。また、午後からはE夫妻の訪問を受けた。そのいずれでも、喜一さんの葬儀のことが話題になった。私の思うところも出してみたり、みんなの話も聞いてみて、推測は推測にすぎないけれども、これをきっかけにヤマギシの養鶏や養豚、養牛のことや、更にもう一つ突っ込んで実顕地のあり方が、考えられていったらいいなと思った。みんな実顕地の現状に危惧の念を抱いているのだし、口には出さないけれどもそういう思いを抱いている人は、かなりたくさんいるように感じた。 

 

〈9月×日〉

 小林雅一氏の『ゲノム編集とは何か』(講談社)を読む。非常にわかりやすく現代の遺伝子工学の現状を解説している。従来の「遺伝子組み換え技術」が一万分の一、百万分の一の確率でしか成功しなかった遺伝子の組み換えを、「クリスパー」と呼ばれるゲノム編集の技術を用いれば、DNAを構成する無限の文字列をピンポイントで書き換えることができる、というのである。そのため、組み換えに要する期間とコストを劇的に圧縮することができるらしい。遺伝子工学や生命科学の分野では、今その応用・実現化に向けて熾烈な競争が繰り広げられているという。

 科学というものが、一方において人類の幸福と福祉に貢献してきたことは間違いないが、他方においてとんでもない不幸の原因にもなってきたことは疑いようもない。この「クリスパー」の技術を使って、今は不治の病とみなされているガンやパーキンソン病などを根治できるかもしれないが、これを「人間の改良」に使おうとする動きも出てきている。アメリカのジョージ・チャーチ博士(ハーバード大学医学大学院教授)は「ちょうど美容整形をするような気持ちで、自分の遺伝子を改良する時代がくる」と語っているそうだ。これをもう一歩進めて、DNAを全部人工的に作り上げる「ヒト・ゲノム設計計画」というものまで始まっている。ここまでくると、どこまでが人間でどこからがロボットなのかわからなくなる。しかし、これが人類にとって幸せと言える事態なのだろうか。

 

〈9月×日〉

 科学というものを戦争との関連でとらえると、その二面性がよりはっきりする。NHKの「映像の世紀プレミアム第2集」を見て、その感をいっそう強くした。この映像は、20世紀初めからの科学者の戦争への関わりを歴史的に映し出しているが、最初の登場人物がアルフレッド・ノーベルである。彼は、ダイナマイトの発明で莫大な財産を築き、"死の商人”と言われた。その彼が罪滅ぼしかどうか、遺産を基にノーベル賞を創設したが、その際こういう言葉を残している。

「この世の中に悪用されないものはない。科学技術の進歩は常に危険と背中合わせだ。それを乗り越えて初めて人類に貢献できるのだ」

 第一次大戦前後から、兵器の発明・改良が相次いだが、その際に科学者が語る言葉は決まっている。

「早く戦争を終わらせるために」。あるいは、

「犠牲者をできるだけ出さないために」

 こうして、ドイツのガトリングは、それ一丁で大部隊を撃滅できる機関銃を発明し、ライト兄弟は飛行機の軍事利用に努力を重ねた。またドイツのハーバーは、空気中から窒素を取り出す方法を発明して、農産物の増産に寄与したが、同じ技術から毒ガスを作り出し、第一次大戦で大量に使用した。毒ガスは後にユダヤ人虐殺に用いられたし、今なお研究が続けられている。ハーバーは、妻クララの反対を押し切って毒ガスを開発するにあたり「毒ガスは戦争を早く止めさせ、ドイツの兵士を救うのだ」と語っていた。

 この「戦争を早く終わらせ、犠牲者を少なくするため」というキャッチフレーズは、戦時下の科学者たち誰もが異口同音に発した言葉である。アインシュタインもそうだし、原爆開発にあたったオッペンハイマーも、V2ロケットから宇宙開発まで手掛けたフォン・ブラウンも、そう語った。アメリカ国民の多くが、今なお広島・長崎に対して同じ考えを持ちつづけている。

 ただ、この中でアインシュタインだけは、ルーズベルトに原爆開発を勧めたことを生涯最大の失敗と認め、後の人生を核廃絶運動に捧げた。そのアインシュタインが、フロイトに書いた手紙が、映像の中で紹介されている。

「人類を戦争の脅威から救う術はあるのだろうか」

 それに対してフロイトはこう返事を書いた。

「歴史を見ると、人間の心の中にとてつもなく強い破壊欲望があることがわかる。この破壊欲望はどの生物の中にも存在しており、それは生命のない物質に引き戻そうとしている。人間から攻撃的欲望を取り除くなどできそうにありません」

 ウ~ン、フロイトはそう言ったか。山岸さんは人間の知能によって戦争は無くすことができる、と言った。しかし、太古以来、人類が戦争を免れたことなどあったのだろうか。とにかく、書かれた歴史(記録された歴史)は、すべて戦争の歴史でもある。もし万一にも、人類が戦争を免れることができたにしても、科学は人類に役立つと同時に破壊的作用を及ぼすことを避けることはできないだろう。科学、あるいは人間の知能の持つ、相反する二面性を認めたうえで、私たちは自分のできるところから少しでも平和な世界が広がるよう努力する以外にないのか、と思ったりする。

 

〈9月×日〉

 NHKスペシャル「縮小日本の衝撃」を見る。

 地方の諸都市で人口減少が続いていることは知っていたが、東京都区内でも減少が始まっているとの報道には驚いた。地方からの人口流出で、都市の人口は増え続けているものとばかり思っていたが、すでに頭打ちが始まっているというのだ。とにかく高齢化が進み、出生率は1・4と伸び悩んでいる。

 夕張市はすでに財政破綻し、いまなお再建のメドはたっていないし、破綻寸前の市町村は増え続けている。幾つかの市では、住民による自主的再建への道が模索されているらしいが、これといった成功例は見出されていない。

 こうした現実の中で、この国の若者たちはどうしているのだろうか。朝日新聞に紹介された日本財団の調査によると、20歳以上の日本人の4人に一人が本気で自殺を考えたことがあるという。なかでも20~30代の若者世代では、男女とも30パーセントを越えている、という結果が出ている。

 とにかく今日本の社会からは先行きの見通しが見えず、若者は希望を持てない環境に置かれている。こういう中で、ヤマギシは何を提示できるのだろうか。少なくとも、孤立化して内向きに閉じこもっている若者たちに、共に話し合える連帯への可能性を示すことはできないだろうか。学園出身者、あるいは楽園村経験者の中にも、いま苦しんでいる人たちがいるかもしれない。こういう状況を見ると、何か時代から問いかけられている気がして仕方がない。

 

〈9月×日〉

 人の話を聞くのは、本当に難しい。何らかの予見をもって自分の聞きたたいように聞いていることが多いからだ。一方、自分が話をする場合でも、自分の思っていることを全部話しているかといえば、そんなことはない。ごく一部しか話していないし、場合によっては思いとは違うことを話すこともある。人と人との間で繰り返される会話というものが、いかに危ういコミュニケーション通路であるかがわかる。しかし、この危ういコミュニケーション通路以外に、人と人とが心を通じ合わせる手段はない。とすれば、人の話を聞くにはどうあったらいいのかは最大のテーマであろう。

 最近、沢木耕太郎氏の『流星ひとつ』を読んだ。これは、彗星のように現われ、彗星のように消えていった稀有な歌い手、藤圭子に対する、全編インタビューで構成されたドキュメントである。私は、歌についての感覚が乏しいから、強烈に記憶に残っている歌は少ないが、藤圭子のあのサビのきいた「夢は夜開く」だけは、耳奥にずっと消えずに残っていた。 

   「15、16、17と 私の人生暗かった

    過去はどんなに暗くとも 夢は夜ひらく」

 沢木さんのこのインタビューは、藤圭子が歌手をやめてアメリカに渡る30年前に行われたものであるが、彼女が再び芸能界に復帰することを慮って、発表を封印していたものであった。しかし、彼女が自殺し、娘の宇多田ヒカルが「母はずっと精神を病んでいた」というコメントを出したのを見て、藤圭子にはこんな精神の輝きがあったことを知ってほしいとの思いから、この本を世に出すことにした、と沢木さんは後書きに書いている。

 いや、私の書きたいのは、こうした出版事情ではない。このインタビューの見事さを言いたいのだ。人の話を聞くとはどういうことかが、よく示されている。相手の話を聞いて、それをその通りに書くだけなら誰でもできる。ある種の予見を持って、こちらの意図したように相手の言葉を引き出すこともできないことではない。しかし、相手の心の奥底に秘かにしまいこまれているもの、あるいは思ってもいないもの、意識下、無意識にあるものが、思わずポロッと出てきてしまうような聞き方というものは、なかなかできるものではない。鋭い質問、時には相手の心にメスを入れるような問いかけ、それでいて相手に寄り添い誠意を失わない態度、こうした姿勢があって初めてインタビューが成立する。

 聞くというと、ただ黙って相手の話を聞くことだと思われがちだが、これではとうてい人の心を聞くことはできないだろう

◎吉田光男『わくらばの記』(12)

わくらばの記 ごまめの戯言④

 〈8月×日〉

 特講の歴史を自分なりの見方でまとめてみたが、夜中に目が覚めたりすると、それに関連したさまざまな出来事が思い出されてくる。そんなことをポツリポツリと書いてみることにする。

 あれは私がまだ韓国にいてビザの切り替えで帰国していた時のことだから、90年代の初めの頃だったと思う。久しぶりに春日のヤマギシ会本部を訪ねた。最近の拡大の進め方について聞きたいと思っていたからだ。

 事務局に声をかけると、見知らぬ中年の女性が出てきて応対してくれた。「最近の拡大のやり方は?」と尋ねると、マニュアル通りなのかどうか、いきなり私に次々と質問を投げかけてきた。いわゆる“想定問答”というものなのだろう。これには度肝を抜かれた。そうか、こんなやり方で特講拡大をやっているのか。そう言えば、子育て講座も、楽園村勧めも、すべてマニュアル化していることを改めて思った。その時は違和感は残ったものの、それ以上深く考えることもなかったが、いま思えばこれは大きな問題である。

 ファミレスなどに入ると、メニューを聞いた後、必ず「○○と○○ですね」「以上でよろしいでしょうか?」と聞かれる。「しばらくお待ちください」ではなく、「以上でよろしいでしょうか?」である。以上だけではいけないのだろうか、と一瞬考えてしまう。後ろめたい気持ちを押さえて「以上でいいです」と言うわけだが、最初の頃は何か嫌な気分が残ったりした。

 それはともかく、山岸会の中でこのマニュアル化が進められたのは、マクドナルド方式が日本に定着したのと軌を一にしている。要するに、対象とする相手をすべて同一の人間、大衆という砂粒の一つ、悪く言えば木偶人形のように見做すことなのである。ここには「人間とはこういうもの」とする、すごく安易な人間観が潜んでいる。人間一人ひとりの違いが見えてこない。またここには、合理化、効率化の思想が含まれていて、テーブル回転率を上げるように、拡大回転率を上げようとしたのであろう。そのためには、誰でもができる、誰がやってもいい、というマニュアル化が最大の武器となった。

 当時の私は、全くそのことに気づかなかったし、自ら進んでそのマニュアルを推し進めてもいた。第一、特講の進め方がそのようなものであった。もちろん、特講は人間の思考を閉じ込めている観念の壁を突き崩すために仕組まれたものであるから、そこにはテーマもあれば、それを出す順番もほぼ決まっている。また特講の目標として、5つの項目が垂れ幕に書かれて、最初から正面の壁に掲げられている。しかし、これはマニュアルではない。だが、当時の私と私たちの多くは、「係りなんて誰がやってもいい」と口にし、特講生一人ひとりと向き合うことをしてこなかった。

「腹が立たなくなった」

「かばんは誰のものでもない」

「自然全人一体が本当の世界」等々。

 大半の参加者がこう口にすれば、それで特講は大成功と思っていた。鶴見俊輔さんの言う「一丁上がり」である。しかしこれで、最も大事な研鑽力、どこまでも真実を検べていく姿勢が養われたかどうか。恐らく"わかってしまった人”ばかりをつくってきたのではないか。わかってしまったら、もうその先は検べることはしない。研鑽停止の状態になる。

 人は一人ひとり違う。係りはその一人ひとりと向き合い、共に考える姿勢が必要なのである。つまり、参加者から学ぶ姿勢である。それによって世話係りは、もたらす者であると同時に、もたらされる者であることができる。

 特講での手痛い経験が幾つかある。確か70年代の後半のことだったと思うが、参加者には京大霊長類研究所の鈴木さん(今は教授か助教授だと思うが、当時は助手)ら比較的知的レベルの高い人が多かった。後に参画して豊里・多摩で供給活動などをしていた谷野夫妻も参加者の一員であった。私は、その時は事務局で窓口をやっていたが、3日目か4日目に突然参加者全員が出てきて、垂れ幕を焼く事件が起きた。そのあと、「責任者を出せ」ということで、私も被告席に坐らされた。

 要するに「こんな垂れ幕のようなものがあるから、特講が機械的でおかしなものになってしまうのだ」という主張である。もうその時の対応のやり取りについては忘れてしまったが、何とか説得して特講を最後まで続けることはできた。しかし、内容は特講とは言い難い気の抜けたものでしかなかった。世話係りはと言えば、みなシュンと落ち込んでしまって進めることができず、他のものが変わって進めた。

 これと似たような事件をもう一度経験しているが、要するに「誰でもができる」というマニュアル化された進め方が、いかに特講の真目的を歪めてしまうかを、この段階で気づくべきであったろう。

 

〈8月×日〉

 これも70年代か80年代のことだったと思うが、安井登一さんが夜中にヤマギシ会本部にやってきた。話をしているうちに、事務局東側の大会場から世話係りの怒鳴り声が聞こえてきた。

「何でや?」

「お前ら、アホか」

 畳を叩く音まで聞こえる。安井さんは「これは、ちょっとひどいね」とつぶやき、「特講は知的革命なんだよ。暴力革命とは違う」と話した後、帰っていった。恐らく安井さんは、最近の特講の進め方を心配して、様子を見に来たのだろう。しかしその時の私には、安井さんの言うことがよく理解できなかったし、どこをどう考えたらいいのかもわからなかった。

 また、亀井のおばちゃんからは、こんなことを言われたことがある。

「どうも最近の特講は理屈ばかりで、身についたものがないんじゃないか。私らの時は一体がどうのこうのといったことはさっぱりわからんじゃったけど、食卓に一人だけパンが足りんと聞けば、あちこちからパンが集まってくる。また帰りの旅費が足りんと聞けば、財布ごとお金が集まるといったことがあったよ」

 同じような批判を、中身は忘れたが奥村明義さんからも受けたことがある。しかし、そうした批判を受け止めて、研鑽につなげるということは、当時の私たちにはなかった。自分たちの今のやり方でいいのだ、とする固定した考え方に捉われていたからである。批判がすべて正しいというわけではなく、また自分たちがすべて間違っていたというのでもない。しかし、誤り多い人間の考えで「これが本当だ」といかに主張したところで、そうかどうかはわからない。だからこそ、検べる、研鑽するのであり、この研鑽力を身に付ける仕組みが特講なのである。世話係り団にこの研鑽する姿勢がない以上、特講参加者にそれを求めても無理、というものであったろう。

 これは、誰だったか名前を思い出せないが、古い参画者から聞いた話が耳に残っている。初期の、まだお寺を借りて特講をやっていたころ、ちょうど怒り研の最中に、別室で休んでいた山岸さんが風のようにスーッと入ってきて、「何でや?」と怒鳴り声を上げている係りに、「それで、あなたはどうなの?」と問いかけたというのである。これには係りも驚いたらしい。いっぺんにシュンとなって、それまでの居丈高の態度から、「なぜなんだろう?」と共に考える姿勢に変わったというのである。 

 正解を求めたがる姿勢は、特講だけでなく研鑽学校もほぼ同じようなものであった。最近のことは知らないが、私の経験した研鑽学校は、すべて‟正しい答え”を覚えるように進められていた。だから、終わって一週間程度はみな溌剌としているが、すぐに元の木阿弥になってしまう。研鑽する力がほとんど身についていないのだ。

 とかく人間は、正しい答えを求めたがる。第一自分がそうだ。正しい答えを得れば、それだけで自分が正しい立場に立てたように安心する。安心するためにこそ、正しい答えを欲しがる。易しく、簡単に、スピーディーに。しかし、‟正しい”物や事など、観念のつくりあげた幻影にすぎない。研学後一週間で賞味期限が切れるのも当然なのである。

 

〈8月×日〉

 1974(昭和49)年の何月だったか、埼玉の団地に渡辺操さんが訪ねてきてくれたことがある。2回目の研鑽学校で参画申請はしたものの、子どもの問題もあって最後の踏ん切りがつかなかった時である。土産に「青梅の卵です」と言って、新聞紙にくるんだ10個ほどの卵を置いていった。その卵は、見るからに光り輝いていて、衝撃的な感動を受けた。「これはすごい」と思わずうなってしまった。

「やはりヤマギシは本物かもしれない」

 参画への最後の後押しをしてくれたものの一つが、この青梅の卵であった。 

 今年の4月、入院中の病院に、多摩のTKさんが見舞いに来てくれた。いろいろ話しているうちに、卵の話になった。彼女はこんな話をしてくれた。

 2~3年前までよく内部川から養鶏部の人に来てもらって、卵の懇談会を開いていたが、ある時から活用者が怒ってしまい、「もうこんなのだったら、懇談会などやる必要がない」と言って開かれなくなった、というのである。

「こんなのってどんなこと?」

「最近卵の質が悪いが、どうしたのか、という質問に対して、『鶏種が変わったので』と答えたのよ。鶏種が悪けりゃ変えればいいし、肝腎なことを鶏のせいにするのだったら、懇談会などやる意味がないというわけ」

「鶏種が変わったので」という答え方は、私も聞いたことがある。要するに、活用者が一番聞きたいことをきちんと受け止めていない。というよりも、むしろその前に自分が世話をしている鶏としっかり向き合っていないし、鶏の声に耳を傾けてもいないということである。

 養鶏の参観案内などを聞いていると、30年も前とほとんど同じことを話していて、自分が養鶏を通して感じたこと、学んだことがほとんど語られることがない。しかし、飼育というのは、一方的に人が鶏を世話するだけでなく、鶏から人が受けるものがあって初めて成り立つもの、つまり飼育者はもたらす者であると同時にもたらされる者なのではないだろうか。「自己に発し、自己に還る」というが、自分から発するものがなければ還るものもない。飼育が、ただ餌をやり、卵を採るという作業の繰り返しにすぎないのであれば、それは誰でもができる代わりにロボットでもできるわけで、心を一切必要としない。しかし、心のないところにヤマギシ養鶏は成り立たない。私たちは、自分が世話をしている鶏や豚や牛から、あるいは野菜や果樹からもっと学ぶべきものがあるはずだし、お互いに育ち合うことができるはずである。そうしてこそ、活用者の意見や批判にも耳を傾けることができるのではないだろうか。

 

 〈8月×日〉

 今日、Eさん夫妻が見舞いに来てくれた。いろいろ近況を聞かせてくれたが、最近の鈴鹿の様子やセミナーに参加しての感想が中心であった。その中には、私の納得できることもあったし、納得できないこともあった。

 E夫人のKさんはセミナーに参加しての感想として、「人の本来の姿というものがはっきりわかった」と言い、「本来、もともとというものが、自分がどう思おうと事実として存在しているということがはっきりした」というのである。「本来」「もともと」という言葉を「真理」と言い換えてもいいのだろうが、自分が捉えた「真理」が、果たして真理であるかどうかはわからないし、そもそも真理そのものは存在するのではなかろうかとは言えても、間違いなく存在するなどと断言することなどできないのではないか。第一、人間は真理の実在を知ることも確証することもできない。できることといえば、その周辺を手探りで動き回るだけで、近づくことはできたとしても、到達することなどとうていできない。だから、「人間は本来こうだ」「社会はもともとこういうものだ」と断言するとすれば、それは人間を超越したいわば「神の言葉」になってしまう。

 またEさんはこんな話をしていた。

「セミナー参加者の一人に、原発反対を言いつづけていた人がいたが、最後のころには全く口にしなくなった。‟それは事実か?”というテーマを考え続けているうちに、それを事実と思い込んでいる自分の思い込みのほうに目が向くようになったのだと思う。これはすばらしいことだ」

 半分は納得できるが、半分は納得しかねるものが残った。

 事実と思いが違うこと、思いはあくまで観念のつくりあげたフィクションであり、人はこのフィクションを事実と混同していることは間違いなく(と簡単に言い切ってはいけないのだろうが)、自分もまたこの間違いを繰り返してきたし、今も同じことをやり続けているのかもしれないとは思う。そして人間の思い・考えとはそのようなものでしかない、と思っている。しかし、問題はそこからである。そうした思い・考え・物の見方しかできない人間である自分が、現実、事実、対象を前にどうあったらいいのか、ということだ。

 そうした自分を自覚した上で、現実に向き合うのか、それとも現実を放棄して自分の認識力を調べることだけに立ち止まりつづけるのか、ということである。「原発を口にしなくなった」ことが、そんなにすばらしいことなのだろうか。どんどん内向きの論理に閉じこもってしまわないだろうか。そんな感想を抱いた。特に「自分のできることと言えば身近なごく狭い範囲のことにすぎないのだから、その範囲を超えることについては考えないようにしている」という意見には、どうにも賛成しかねた。確かに自分の生きる場はちっぽけな世界にすぎないが、それは世界中のあらゆる出来事、宇宙自然界を含むあらゆる出来事とつながっており、過去の歴史的な出来事とも切り離すことができないものなのだ。原発から排出されるプルトニウムが無害になるまでに10万年もかかるとすれば、私たちの今は10万年先の未来とも、その間生存するであろう子や孫のそのまた孫の世界ともつながっている。だから私は、自分の身近な日常の世界だけに閉じこもりたいとは思わない。原発の問題は、やはり考え続けていきたいと思っている。

 ただ、以上は私の聞いて思ったことにすぎず、とんでもない聞き違い、そこからの誤解が含まれているかもしれない。

 

 〈8月×日〉

 昨日のEさんたちとの話し合いを思い返しているうちに、昔の嫌な経験を思い出した。

 私が韓国から帰って成田実顕地の造成に取り掛かったのは、1995年の10月のことであった。この年は1月に阪神淡路大震災、3月にオウムの地下鉄サリン事件があって、世情はどこか騒然としていた。永らく韓国にいて、日本の新聞もろくに見ていない私には、そうした事情に疎かった。成田に移った翌日、開発許可のことで大栄町役場を訪ねると、つい最近大栄町議会が「ヤマギシ会進出反対」の決議案を可決したばかりだという。どうも、山岸会をオウム類似のカルト集団と決めつけての決議らしい。その頃、Kさんたちが進めていた実顕地拡大計画は、新潟でも、富士山麓でも、地元の強烈な反対運動で挫折を味わっていた。同じことが成田でも起きる心配があった。

 実顕地が取得した土地は、ミニゴルフ場計画が失敗した跡地で、一部は高利貸に抵当権を押さえられていた。しかも、周辺はたくさんの土地所有者に囲まれていて、開発の許可をもらうためには、それら小地主に開発同意書の判をもらわなければならない。水利組合の同意も必要である。そのため、夜な夜な一軒一軒農家を訪ねるのであるが、すぐに判を押してくれる家など一軒もない。何回も訪問を繰り返し、その都度手土産は受け取るが、「おまえら、あそこで何をするんや。子どもを閉じ込める施設でも作るのか」など、皮肉の一つや二つは言われる。

 そんな最中、豊里のほうから「オウム事件は事実か」だったか「地下鉄サリン事件は事実か」といったテーマが聞こえてきた。これは、聞きようによっては、オウム事件は政府・官憲のでっち上げ事件で、事実としてそんなことはなかった、というふうにも聞こえる。毎日、オウム同様に見られて苦労している身としては、何とも嫌なテーマである。事実と思いの分離のテーマであるにしても、この時の不快な思いはトラウマとなって、なかなか消えることがない。それもお前の思いの中の出来事さ、と言われればそれまでの話ではあるが。

 

〈8月×日〉

 船戸与一の『満州国演義』全9巻を読み終えて、大団円という言葉が浮かんできたが、大団円はめでたしめでたしの結末で終わるのに対して、こちらは大日本帝国の悲劇的終章で幕を閉じる。ガンで死を宣告されながら、よく書き上げたものだ。小説として成功しているかどうかは別として、船戸与一の執念を感じさせる作品である。

 この小説は、1929(S4)年1月の張作霖爆殺事件から、31年の満州事変、37年の日中戦争を経て41年の太平洋戦争、そして45年の敗戦に至る戦争の時代を、霧島4兄弟というそれぞれ違った4つの視点から描き出す。

 昭和7〈1932〉年生まれの私には、この時期はちょうど幼少年期にあたり、戦争の詳細は知らなかったが、昭和史を少しずつかじり出すと、満州(現中国東北部)というものが今なお日本の現実に尾を引いていることに思い当たる。時の満州国家経済を主導し、商工大臣を務めた岸信介の強権的手法を、孫の安倍総理が引き継ぎ、「日本を取り戻す」というスローガンを掲げて、再び戦争のできる国に復活させようとしている。

 もう今の若い人たちには、満州と言ってもピンとこないだろうが、ぜひとも昭和史ぐらいは勉強してもらいたいと思う。満州の利権を巡る最初の争いが、1904~5年の日露戦争であり、次が満州の領土化を目指す満州事変である。その足掛かりとして、朝鮮の植民地化が強引に推し進められた。

 私の小学校時代の地理の教科書は、日本の領土をすべて赤色で表していたが、樺太・千島はもちろん、台湾・朝鮮・満州はすべて赤く塗りこめられ、太平洋戦争が始まると、香港・フィリピン・仏印等が赤く塗り替えられていった。私ら子どもたちは、それを無邪気に喜んでいたが、勝手に自国を戦場にされ、踏みつけられ、殺されたアジア諸国の人たちが何を感じていたかは私たちの想像の外にあった。そして今なおそれは、多くの日本人の想像力の外に置かれたままである。それどころか、最も身近な朝鮮の人々が、日本の植民地下で創氏改名を迫られ、自国語の使用禁止を強要されていたこともろくに知らないありさまである。8月15日は日本人にとって「終戦の日」であるが、韓国人にとっては「光復節」、つまり解放記念日なのである。歴史を知る努力なしに、心底からの仲良しはできないのではないだろうか。船戸与一の小説を読みながら、そんなことを思った。

 

〈8月×日〉

 何かに関心を向けていると、それに関係したことが飛び込んでくることがよくある。NHKのETV特集で「忘れられた人々の肖像~画家・諏訪敦・満州難民を描く」という番組の再放送が目に留まった。絵の方面に全く無知の私は、それまで諏訪敦という画家について全く知らなかったが、「満州」という言葉で録画する気になったのである。そして、この画家の執念ともいえる真実追求の姿に感動を覚えた。

 諏訪敦の祖父母は、1945(昭和20)年4月に、山形から満蒙開拓団に加わってソ満国境近くの村に移住する。8月、ソ連の参戦により逃亡生活が始まり、やがてハルビンで難民収容所に入れられるが、祖父はソ連に連れ去られ、祖母は31歳の若さで死ぬ。8歳になったばかりの父・豊と同年齢の叔母だけが帰国することができた。その父親が死ぬときに、敦宛に遺書を書き残す。そこには、国策として満州移民を進めながら、ソ連参戦とともに開拓団を見捨てた政府の責任を追及し「責任者よ出てこい」と書かれていた。事実、同年5月には、もしソ連が参戦・南下したら、関東軍は戦線を放棄して朝鮮国境近くに移動することが、大本営で決定されていた。開拓団は、国の楯として放棄されることが決まっていたのである。諏訪敦は、この遺書を読んで満州開拓の歴史を調べ始める。そして祖母・信子の肖像を描くことを決める。

 まず、画布一面に雪の上に横たわる若き女性の姿を描く。そして諏訪は、この女性を徐々に殺していく。そのために諏訪は、開拓団の生き残りを訪ね、祖母や父の消息を調べる。次に満州(中国東北部)に行き、開拓団の跡地や収容所の跡を訪ね、たくさんの死者が埋められた大地の感触を確かめるとともに、そこを取り巻く風景や空気の色を感じ取っていく。こうした取材の過程で、たまたま父と同じ収容所にいた同年代のSさんという老爺に出会う。Sさんは言う。

「国破れて山河在り、というが、現実はそんなものではない。わしらは襤褸くずよりひどいありさまだった。7歳以下で生き残った者は一人もいなかったし、8歳以上でもほんの一握りしか生き残れなかった。飢えと発信チブスで死んでいくのだが、死者は骨と皮だけになって紙のように軽かった」

 取材を重ねるにつれて、画布に横たわる若き女性の体は、肉を削られ、皮膚がたるみ、瞳の輝きが失われていく。国立感染症研究所を訪ねて発信チブスの症状を聴き取った後は、顔から体の隅々まで発疹の赤い印が刻まれていく。そして最後に、髪の毛をどうするかに思い悩む。31歳で死んだ祖母の、女の命ともいえる髪の毛だけは、残しておきたいと思うのだが、あの満州の死の収容所の暮らしで、若い女性たちはどうであったのか。思い悩んでSさんに電話する。Sさんの答えはこうだった。

「ソ連兵の暴行を避けるために、みんな髪の毛は切らされた。これは開拓団団長の命令です。この命令に逆らったら、収容所で生きてゆくことはできなかった」

 こうして諏訪は、写真でしか見たことのない祖母の最後の姿を、キャンバスに描き切った。しかしこれは、祖母一人の姿というより、国策によって満州に送られ、国策によって棄民にされた多くの農民たちの悲しみと恨みと怒りの姿そのものである。画題は「哈爾賓(ハルビン)1945年冬」。

 この絵には、事実をはるかに超越したリアリズムがあり、真実がある。真実は事実の描写ではなく、想像力の極限に僅かに花開くものであることを教えているようだ。

 

〈8月×日〉

 昨日、中西喜一さんが亡くなった。喜一さんは私より少し若く、今年5月に私が退院した後、韓国のkさんをつれて見舞いに来てくれた。その時の様子では、ピンピンと元気そのもの、これは私よりだいぶ長生きするな、と思っていた。それが8月30日、急に亡くなったと聞いて、信じられぬ思いであった。31日、早速お通夜に駆けつけた。ところが、どうだ。お通夜も告別式も、親族だけで執り行われ、村人も村外の知人・関係者も、すべて焼香だけという流れ解散方式の葬儀であった。しかも、これは喜一さん本人の遺志だというのである。

 私などは、死んでから後のことについてはすべてお任せで、葬儀はしてもしなくてもよく、何も注文を付けることはないが、喜一さんにはよほど何か思うところがあったのだろう。それは何なのだろうか? そのことが内部川に帰ってからも頭から離れなかった。そしてここから先は私の勝手な想像、妄想の域を出るものではないが、喜一さんがヤマギシ養鶏を代表する第一人者であった以上、今回の葬儀についての注文の中に、喜一さんのヤマギシ養鶏についての思いが関係しているように思えて仕方がなかった。それを調べるために、山岸さんの『養鶏書』(全集第1巻)と愛農会や愛善みずほ会(大本教)に寄稿した文書を読み直すことにした。そこから生まれた感想の一部は、9月の日録に書いてみることにする。

◎吉田光男『わくらばの記』(11)

わくらばの記 ごまめの戯言③

〈8月×日〉

「水俣病――魂の声を聞く」(NHK)の再放送をもう一度見た。大阪在住のSさんは、亡くなった劇症患者の姉の首に何回か手をかけたと話す。また、いま水俣に住むTさんは、重度障害の妹が自分の生きがいだと言いながら、車椅子での生活を余儀なくされた今では、この妹が自分よりより先に逝ってくれることを願っていると、苦渋の満ちた顔で語っていた。

 二人とも、水俣病劇症患者の姉妹を愛し、その世話に自分のすべてを捧げ乍ら、その一方で自分より先の死を願う。愛するがゆえにその死を願う。矛盾しているようで、そうではあるまい。これは、障害者は死んだらいい、などという浅はかな考えの世界とは全く異なっている。

 相模原殺人のような事件が起こると、新聞は「いのちの重さ」という言葉をよく使うが、その言葉から「いのちの重さ」を感じさせられることはなく、「言葉の軽さ」だけが伝わってくる。よく子どもの自殺に直面した学校長が「子どもらにいのちの大切さを伝えました」と話す。小学校も中学校も、校長の話はどれも判を押したように同じである。またそれを新聞がそのまま伝える。「いのちの大切さをどう伝えたのか」を聞き出すことなく、またそのことを教育として今後どう生かしてゆくのかには全く触れようとしない。

 言葉の軽さは自分たちにもある。使い慣れた安全な言葉で、大事な問題がするりと抜け落ちていないか、考えてみる必要がありそうだ。

 

〈8月×日〉

『週刊朝日』の相模原殺人事件の記事を読む。何とも寝ぼけた記事で、もう完全にジャーナリズム失格である。

 この事件以来、いろいろ考えているうちに、昔読んだ帚木蓬生氏の『安楽病棟』が思い起こされ、再読してみた。ここでの舞台は障害者施設ではなく、病院の痴呆病棟の話であるが、問題の本質は変わらない。(この小説の書かれた時期によるのだろうが、認知症ではなく痴呆という言葉が用いられているので、そのままこの言葉を使うことにする)

 この小説のテーマは、痴呆になって生き続けること、あるいは生き続けさせることと、人間が生きることの意味をどう考えるか、という人間観の根幹に触れるテーマである。

 主人公の城野看護婦は、尊敬する担当医・香月医師の講演を聞きに行く。そこで香月はオランダの安楽死に関する医療の現状を話す。それによると、オランダでは〈安楽死〉という言葉を使わずに〈生命短縮行為〉と言っているそうで、その対象は重篤な障害をもった新生児、長期の昏睡患者、重篤な痴呆患者であるという。その具体例として、対象は鼻空栄養や胃瘻栄養の患者で、「こうした人工的な栄養は、死の過程を引き延ばすだけであり、患者をベッド上のロボットと化し、治癒はもはや望むべくもなく、痴呆患者をさらに悲惨な状況に陥れるのみだ」とオランダでは断定されているという。さらに香月は「オランダにおける年間死亡例の4割が、実にこの範疇にはいる」と説明する。

 話を聞きながら、城野看護婦は、香月がオランダの実情を紹介してみんなに考える材料を提供しただけなのか、あるいはこうした安楽死を積極的に肯定しているのか疑問を抱く。そのあとしばらく、痴呆病棟の日常が描かれていくが、やがて何人かの死亡例が出始める。そして城野はその死亡に香月がかかわっている事実を突き止める。このドキュメンタリー風ミステリーは、自首をすすめる城野の香月宛の手紙で終わっているが、ここには単純な善悪では論じつくせない問題が含まれている。

 この小説の文庫版に解説を書いた中村桂子さんは「高齢化社会となった今、考えずに済まされることではない」問題だとして、「できるだけ生命を永らえさせることが医療の使命であるという従来の基準でははかれない生死の問題が生じてきている」と書いている。そして、人間の思考は黒白がはっきりした二分法が得意であるが、むしろ正しい解釈というものをはずして、「問題を避けずに正面から向き合いながら、しかし正しい答えへと突き進むのではない道はないか」と問題提起している。

 私自身は、生命維持装置によって生きながらえようとは思わないが、これを他に押しつけようとは思わない。また法によって一律に規制すべきものとも思わない。同時にまた、何が何でも生命が維持されさえすれば良しとする現代の医療が良いとは思えない。要するにわからないのだ。しかし、今一人ひとりがこの生と死の問題に正面から向き合い、自分はどう考えるかを考え続けることが大事なのだと思う。痴呆も障害も、遠からず自分に訪れる問題なのだから。

 

〈8月×日〉

 だんだん体力が落ちてきた。胸やけがひどく、食欲がないし、食べるとつかえて吐きそうになる。終着駅が近づいたとは思うが、特別な覚悟なり思いはない。まあ成り行き任せだから気は楽だ。

 UやKなどの三氏の呼びかけで、特講拡大の会合が開かれるという。各実顕地への参加の呼びかけがあり、内部にも連絡がきた。その呼び掛け文を見ていてもう一つ心に響くものがなかった。それは現状をどう見ているかの分析がなく、研鑽の焦点をどこに置くのかわからない点であった。みんなで寄って景気づけしようでは、何も始まらないのではないか、と思ったのである。

 私は参画40年の僅かな経験しかないが、特講はその時その時の時代の流れと、それを汲み上げる実顕地の努力の相互作用によって大きく動いてきた。この相互作用の動きがどのようなものであったかを知らなければ、今の時代に合った拡大はできないのではないかと思っている。しかし、そのことを知る人、考えようとする人は少ない。そこで、自分の経験を基に、時代状況と実顕地の動きを連動させて考えてみることにした。

 

〈第一次急拡期――1956年~59年〉

 1956(昭和31)年に第一回特講が京都粟生の光明寺で開かれ、これに参加した約160名の参加者が、「もう腹が立たない」「これで世界中から戦争を無くすことができる」と感動に打ち震え、拡大に走り回った。参加者は増え続け、特講拡大は急速に進んだ。と同時に、1953(S.28)年にスタートした山岸会式農業養鶏も急速に拡大を続けており、ここからの特講参加も増えていった。

 そして1958(S.33)年早々、百万羽養鶏の話が持ち上がり、3月に四日市市日永で百万羽養鶏についての有志の集会が持たれた。次いで4月、三重県菰野町で開かれた「かもしか会」という先進的な学者・研究者の集まりで、山岸さんから「百万羽科学工業養鶏」構想が正式に発表された。ここから急速に運動が進み、7月に四日市市赤堀で百万羽創立総会、8月には春日山での山岸会式百万羽科学工業養鶏株式会社の起工式が行われ、参画希望者がどっと春日山に集まった。

 翌59(S.34)年4月、「真目的達成の近道」が発表され、急拡運動の全面展開となる。それまで大阪にあった山岸会本部を春日山に移し、新たに特講会場を建設した。

 ここまでは、急進拡大の名にふさわしく、まさに順風満帆、特講開催回数は84回を数え、参加人数は恐らく5000名を下らないだろうと推定される。

 この時代がどんな時代であったかは、一概にくくることはできないが、昭和31年の『経済白書』に「もはや戦後ではない」という有名なせりふが書かれたように、戦後の混乱が終わり、経済が成長軌道に乗りかけた時期である。しかし、一般にはまだ戦争の傷跡が生々しく、人々は戦争のない安定した社会を求めていた。特講はこうした人々、特に農民層に強く訴えるものを持っていた。

 

 〈縮小停滞期――1959年~70年〉

 特講会場が春日山に移った最初の急革第一回特講、1959(S.34)年6月の第85回特講には〈ニセ電報〉で呼び出された人が沢山いて、逃亡者が続出した。これが山岸会事件の発端である。続く7月の急革第二回、第86回特講の最中に三重県警が「不法監禁容疑」で捜査を開始した。新聞は「養鶏講習の看板で山中に監禁・洗脳」と書き立て、参画者の親族やその周辺の人々は会に対して恐怖心を抱くようになった。

 特講終了後間もなく、県警200名と報道関係者多数が春日山を包囲して、14名を不法監禁容疑で逮捕・拘留した。その折も折、東加九一氏の傷害致死事件が起こる。この事件で、山岸さんを始め、柿谷さん、木下さん等8名が全国指名手配となった。これ以降、特講参加者はほとんどゼロの状態となったのである。

 明くる60年1月、山から土井たかえさん、渡辺操さんら5名が東京に拡大の旅に出る。この年は安保改定が社会の争点となっていて、特に4月以降、安保反対の大衆的なデモが国会周辺で繰り広げられることになった。そしてここに鶴見俊輔さんを始め、思想の科学系の知識人多数がかかわっていて、これら知識人と渡辺さんらヤマギシの夫人部隊がドッキングすることになる。これは、後々ヤマギシを学生・インテリ層に広める上で非常な力になった。

 翌61年5月、山岸さんが亡くなる。特講が再開されるのは、ようやくこの後3か月してからである。参加者は10名足らずでそれほど多くはなかった。この状態はしばらく続く。

 この10年は、64(S.39)年の東京オリンピックをはさんで、経済が右肩上がりに上昇する時代である。岩戸景気からいざなぎ景気へ、実質成長率は最低8・6パーセントから最高14・2パーセントと高水準を維持しつづけ、一億総中流化へと突き進んだ。都市部の住宅不足を解消するため、公団住宅が都市周辺部に広がっていった。ベッドタウンの誕生である。

 こうした経済の上昇過程は、同時に社会的な矛盾や軋轢をも生んだ。国際的にはベトナム戦争の激化、理想とされた中国革命の文革による混乱、また国内では大学の現状や学問のあり方をめぐる学生たちの疑問、こうしたことから学生たちが大学の変革をめざして立ち上がった。いわゆる学園闘争である。しかし、この闘争も68(S.43)年の東大安田講堂への機動隊導入、強制排除で幕を閉じる。全国の他大学でも、この前後1年内外で運動は終息を迎える。

 運動の終息で目標を失った学生たちはどこへ向かったか。一部はヒッピー化して世界を放浪し、一部は新たな共同体に活路を見い出そうとした。いわゆる泡沫コミューンの誕生である。そしてその一部がヤマギシにも流れてきた。農民中心の特講が、ヒッピーや学生、落ちこぼれサラリーマンにとって代わられるようになっていく。

 

〈成長前期――1971年~79年〉

 71(S.46)年秋、安全食糧開発グループ代表の岡田米雄氏から、「食卵として有精卵をつくってくれないか」という話が持ち込まれる。早速、入雛時期、卵価等が決まり、よつば牛乳の共同購入グループ等への供給が始まる。73(S.48)年には、「六川の低農薬ミカンを」という話もあったが、出荷直前になって「見た目が悪い」ということで、キャンセルされた。そこから実顕地が主体となって供給を始めることになり、多摩供給所が発足、活用者グループ作りが始まる。折からの自然食ブームもあって、供給は急速に広がった。これがきっかけとなって、全国的に供給所が設置されることになる。

 一方、特講のほうは、しばらくは参加者が伸びず、10人前後の状態がつづいた。大きく変わり始めたのは、1000回特講(1977年?)に活用者が初めて参加してからである。このとき参加者は70名弱で、東京狛江から活用者第一号として、Y・Mさんが参加した。また医師の松本繁世さん、出版社のHさん、学生のS君など、これまでの反体制社会運動家とは毛色の違った人たちが参加した。これをきっかけに、特講は大きく伸び始める。狛江からは次々と特講送りがつづき、それは町田、国分寺、日野等の都心を囲むベッドタウンへと広がり、またS君を通して、茨城大学や周辺の女子短大へ、また両親の住む新潟三条へと広がった。

 活用者の広がりが特講の拡大を招き、また特講拡大が活用者の拡大を推し進めた。実顕地では卵の需要拡大にこたえるため、新たな実顕地造成が進められ、鶏舎建設が急ピッチで推し進められた。水沢内部川、六川津木、大田原などが造成される。

 この時期に中国研究者の新島淳良夫妻が参画、阿山に幸福学園を開設する。そして75(S.50)年8月に、第一回「夏の子ども楽園村」を幸福学園で開いた。翌76年には、春日山で初めての楽園村を開催、ここから供給、特講、楽園村という連動する拡大運動が軌道に乗っていく。

 

 〈大躍進期――1980年~94年〉

 1980(S.55)年、実顕地ではこの年から年間テーマと月別テーマが出されるようになった。豊里に新しい浴場が作られ、また新食堂「愛和館」が建設されたのを機に、村の暮らしを見直そうというのが、そもそもの出発であった。前年の79年には、それまでの「養鶏法研鑽会」が「生活法研鑽会」に衣替えして、生活面の見直しが始まっていた。

 それまでの愛和館の暮らしと言えば、作業着のまま食堂に入り、豚糞の臭いを周囲に撒き散らして、しかもそれを当たり前としていた。このへんの見直しが始まり、各職場に作業更衣室が作られるようになった。この暮らしの変革は、外から活用者を受け入れたり、楽園村の子どもやその親を受け入れる上で大いに役だった。80年には「ヤマギシの実顕地を参観しませんか」の全国運動が展開された。

 とにかく、この時期の実顕地は拡大に拡大を重ねており、80年の養鶏関係の生産規模は、「餌総量一か月1000トン、鶏舎総連数は25連鶏舎250棟、鶏総羽数は70万羽」(「春日山50年の歩み」)というものであった。82年の春日山8月特講には、141人の参加者があった。84(S.59)年には、海外第一号の韓国実顕地が誕生している。

 まさに村は日の出の勢い。そして、85(S.60)年5月に、「第一期ヤマギシズム学園幼年部」が創設され、翌86年4月に「ヤマギシズム学園高等部」が開設された。

 学園の創設と学園運動の始まりは、それまでの運動に質的変化をもたらした。特講拡大、活用者拡大、楽園村拡大というこれまでの運動形態に学園拡大が加わり、さらにこれは参画拡大という方向へと突き進んでいく。92(平成4)年4月の村人テーマは「2300人学園生 村人と共に新学期」というものであった。楽園村も、学園の拡大を目指して「夏の楽園村」とは別に、「毎月楽園村」(「3週学校、1週楽園村」)運動が展開されることになる。参画者も急激に増え始めた。

 しかし、この急激な拡大は、さまざまなひずみをもたらした。特に、親に強制的に送り出された子どもたち、親の参画によって学園に入れられた子どもたちには、一律的な学園生活は耐え難いものであったかもしれない。何人かの子どもが、祖父母のもとへ脱走する事件が起こった。親は話にならないので、祖父母のもとへという、涙ぐましい脱走劇である。

 こうした事態の中で、93年10月、S・M氏がヤマギシ批判の「私のみたヤマギシズム社会の実態」を発表、続いて94年5月、T氏が『ヤマギシ会の暗い日々』を出版、同年6月には「ヤマギシを考える全国ネットワーク」(代表・松本繁世)を立ち上げた。また実顕地内では、美里実顕地のK氏が、「賃金未払い」ということで、津地裁に提訴した。これは調正機関脱退者からの初めての訴訟であり、これ以後参画時の出資財産返還訴訟が何件も繰り返されることになる。

 一方、実顕地では、「オールメンバー研」が開かれ、毎年5月山岸さんの墓前で「オールメンバーの誓い」を声高に唱える行事が行われるようになった。外部の批判に揺るがない自己の確立を目指したものではなかったかと思う。

 このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。

 

〈混乱・縮小前期――1995年~99年〉

 1995(平成7)年1月、阪神大震災が発生、次いで3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。阪神大震災は、それまで何となく続いていた社会の太平ムードを打ち砕き、地下鉄サリン事件は新宗教やそれと同類と見られた集団(ヤマギシもそこに含まれていた)に、"カルト”‟洗脳”のレッテルを貼り付けることになった。

 この年8月、「ヤマギシを考える全国ネットワーク」が、脱退者と参画者の家族に、実顕地に対する訴訟の勧めをアピールした。これに応じた広島のY氏が参画時出資金の返還を求める訴訟を起こす。翌96年には、Mさんの出資金返還訴訟など、情報公開請求を含むさまざまな訴訟に見舞われることになった。

 こうした時代背景のもとで、それまでデパートに一定の売り場面積を確保していたヤマギシの店が、次々と閉鎖されるようになった。「安全食品連絡会」という団体からの閉店要請を受けてのことであるが、元参画者による「牛乳の日付改ざん」の告発も、生産物の安全面での信頼を失うきっかけになった。

 一方実顕地のほうは、この頃から「本もの」という言葉を多用するようになった。96(H.8)年の2月度テーマは「基盤整備 本もの本質を本筋に乗せる」である。しかし、何が「本もの」であるかの研鑽は十分行われず、実顕地生産物はすべて「本もの」である、という抽象的であいまいな考え方に向かってしまった。この自己肥大化した考え方は、とうてい外部からの批判に耐えられるものではない。しかし、まだ活用者の支持は強く、生産物が大きく減少することはなかったし、特講も活発だった。

 この頃から学園生の祖父母たちによる子どもとの面会要請や、子ども引き取り要求が激しくなる。この動きは、96年11月の「ヤマギシの子供を救う会」の結成(ジャーナリストの米本和弘氏と学園生の祖父母)に至る。これに呼応して、ジャーリズムは一斉に反ヤマギシキャンペーンを開始する。96年11月、日本テレビは「今日の出来事」でヤマギシの子どもを5回に亘り放映、「週刊新潮」など週刊誌も、格好の話題としてこの問題を取り上げた。産経、読売を始めとする各新聞社も同様である。

 こうした反ヤマギシ包囲網の中で、実顕地はどう対応したか。

 97(H.9)年3月度テーマは「日常の総ての現れは もとの心の顕れ」である。また子どもに関しては、96(H.8)年7月度テーマが「親が子供に対して外さない いき方」、9月度が「親と子の異い 親が実践 子供も実践」である。これらテーマの真意は、子どもに対してはわがままを許さない、学園をやめたいとか、係りに対する不満を言わせない、ということであり、また動揺する親に対してはそれは「もとの心」がイズムから外れているからではないか、と引き締めをはかるものであったろう。だから、自分の子どもが「学園をやめたいと言っている」というような話は、村人どうしで話し合われることはほとんどなかった。いきなり村を出る人がいて、「なぜか」と聞くと、ようやく重い口を開いて「子どもが出ると言ってきかないから」と話してくれたりした。

 こうした中で、97(H.9)年、名古屋税務局の税務調査が始まった。この事件は全国紙で「ヤマギシ 脱税疑惑で捜査」と報じられた。翌98年4月、「ヤマギシ会200億円の申告漏れ」と各紙に報じられ、実顕地は60億円の追徴課税を余儀なくされた。

 一方学園のほうは、97年度テーマに「学園 小中一貫学校法人設立へ始動」とあるように、公立校設立準備を始め、翌98年4月に「やまぎし学園」設立認可申請書を県に提出した。しかし、これに対しては「祖父母の会」を始め反対運動が根強く、日弁連が「子どもの人権擁護」という観点から勧告を出したり、また県が小中学生に対するアンケート調査を行い、認可不適切の方向へ大きく傾いた。そのため実顕地は、99(H.11)年6月、申請を取り下げることとなる。

 この90年代後半の時期は、実顕地にとってまさに激動の時代である。村の指導部門に、ある種の亀裂が見られるようになった。それは村人テーマに表れている。

 98年3月度「行ける所へ 行きたい時に 行く自由」

 同4月度「やりたい人がやりたい丈やる自由」

 99年9月度「自主 自発 自立 自律」

 これらのテーマは、それまでの一定の強い方向性をもったテーマから「自主」や「自由」を強調する方向へ転換している。しかし、完全に変わったわけではなく、方向性をもったテーマとしばらくは同居していた。ところが98年10月、突然「村から街へ、イズム普遍化の秋来る」というテーマが出された。これは、それまでの全員参画、実顕地拡大という流れとは逆行するものであった。いわば、実顕地解体の方向である。これは、真意不明のまま村人の混乱を引き起こした。こうした最中に、これまで実顕地の運動を指導していた杉本利治さんが亡くなった。

 

〈衰退期――2000年~2012年〉

 2000(H.12)年から村のテーマが一切なくなった。方向付けをしない、というか方向付けができない状況になったのである。そして村から街への流れの中で、脱退者が相次いだ。ただこの脱退者のうちには、ヤマギシズムそのものに反対してというのではなく、今の実顕地に異を唱えてという人がかなり含まれていた。そして、この年の12月には、S氏などの人たちが鈴鹿に居を移し、新たな運動拠点を構築した。これによって、村を出る人、それに強く反発する人、両者の間で迷う人と、村人の間でしばらくは混乱が続いた。こうした動きは、学園の解体を早め、学園廃止に追い込まれる実顕地が相次いだ。当然、楽園村も参加者が減り、特講も縮小した。また、活用者グループの解体により、生産物の供給も急速に減少した。1980年以降、供給拡大、楽園拡大、特講拡大、学園拡大、実顕地拡大と互いの相乗効果で伸び続けてきたヤマギシズム運動が、ここへ来て負のスパイラルに陥ったのである。

 このような時にもっとも大事であるはずの研鑽が、十分に力を発揮できなかった。というよりも、研鑽力が村人の間に十分養成されていなかったということであろう。「聞く」「検べる」という最も基本的な部分が欠落していたのではないか、と思う。調正所の言うことは聞けても、それに反対する人の意見は聞けなかったり、またその逆であったりした。つまり、誰の言うことでも聞けて、誰に対しても言えて、では本当はどうかと検べる、検べ合う――この基本的な研鑽力が身についていなかったのである。

 これは、これまでの特講、研鑽学校のあり方、中身を検討するいい機会であったと思うが、ほとんど取り上げられることはなかった。そして従来通りの研鑽体制を今なお踏襲している。

 この2000年前後の時期で記憶に残っていることの一つに、こんなことがあった。熊本の甲佐実顕地にいるとき、何人かの供給所のメンバーが、配送車や運輸トラックに書かれた「ヤマギシ」の文字を薬品で消しているのだ。「何しているのか」と聞くと、本庁から消すようにとの指示があった、というのである。周囲からの反ヤマギシキャンペーンが盛んなこの時期こそ、「我々はヤマギシです」と胸を張ってなぜ言えないのか。なぜ隠さねばならないのか。同じように、農産物でも、これまで「本もののヤマギシの生産物」と謳っていたのに、「なになに農園の農産物」とヤマギシの名前を隠すことがはやり出した。こうした姿勢の裏に、何があったのだろうか。次の運動の発展のためには、避けて通れないテーマのはずである、と思うのだが……。

 

 〈???――2013年~〉

 2013(H.25)年に春日山で一部にテーマが出されるようになった。最初は春日山で細々とテーマのある暮らしが始まったが、翌年には各実顕地にこれが拡がっていった。「実顕地一つ」あるいは「実顕地一つからの実動」ということで、実顕地間の交流が盛んになった。これは、それまでの停滞ムードを吹き払い、新鮮な空気に入れ替える効果があった。しかしこれが、ヤマギシズム運動の本質的部分や実顕地生活の基本的な部分の変革につながるかどうか。

 この間、生産物の供給はほとんど止まってしまった。供給所は次々と閉鎖され、配送も宅急便などに切り替えられた。替わって登場したのが「ファーム」という名の販売所である。しかしこれも、一部地域に限定されていて、全国展開とは程遠い状態である。また、特講も参加者が伸びず、開催回数も激減してしまった。

 いま日本の社会はますます混迷の方向をたどっており、若者の多くは希望を失って自殺者が絶えず、老人は施設や団地の一室で孤独死を余儀なくされている。こうした時代の変化に、ヤマギシは何をもって答えるのか。これからの実顕地はどうあったらいいのか。今ある実顕地の良さ、可能性というものを、どうすれば社会に発信できるのか、自己満足ではない答えが、いま一人ひとりに問われている。

 

  以上は8月に記したノートを整理したものであるが、これの整理には何日もかかってしまい、疲れ果ててしまった。昨夜は夜中3時まで吐きつづけ、このまま書き続けるのは難しそうなので、一応今回はここで打ち切ることにする。

 なお、年表は「春日山50年の歩み」と「近代日本総合年表〈岩波版)」を用いた。これらの年表と自分の経験したことを重ね合わあせて綴ったものであるが、1990年以降は韓国に行っていたり、帰国後は成田の造成や大田原、甲佐等、周辺部分にいて、豊里や春日の動きを直接知る機会がなかった。そのため、見方が偏ったものになっているかもしれない。できたら、大勢の人たちがそれぞれの経験を持ち寄って、歴史を振り返ると共に、これからの進路がいかにあるべきかを検討してほしいと願っている。 

 

◎吉田光男『わくらばの記』(10)

わくらばの記 ごまめの戯言②

〈7月×日〉

 白川静さんの『孔子伝』読了。2回目だが、やはりすごい作品だ。私は『論語』というものが、あまり好きではない。その道学的雰囲気が好きになれないのだ。しかし、白川さんによって孔子の姿が生き生きと蘇り、社会に受け入れられずに諸国を放浪し、放浪の中でなお自己の思想を確立してゆく孔子の姿が浮かび上がってくると、何か厳粛な気持ちにさせられる。と同時に、思想が思想として成立する条件が、孔子晩年の流浪の中にあったことが納得できる。

 しかし、弟子たちが体制に巻き込まれ、体制のイデオローグと化していくことで、道徳としての『論語』が成立する。孔子自身は、一字も自分で文書は残さなかったという。不遇や失意を潜り抜けること無しに、思想は成立しないのかもしれない。

 この『孔子伝』に関して晩年の高橋和巳さんが書き残した一文は、忘れがたい。

「立命館大学で中国文学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的封鎖の際も、それまでと全く同様、午後11時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光灯がともった。」(『わが解体』)

 S教授、つまり白川さんは、このときちょうど『孔子伝』を執筆中であったらしい。白川さんは、本書の「文庫版あとがき」に次のような一文を記している。

「孔子は最も狂者を愛した人である。『狂者は進みて取る』ものであり、『直なる者』である。邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするもので、狂気こそが変革の原動力でありうる」

 多くの知識人が右往左往した60年代後半から70年代にかけての動乱の時代に、金石文を始めとする中国古代文字の解明に力を注ぎ、そこから古代人の心性や祭祀の意味を明らかにした白川さんは、まさに「狂気の人」と言いうるかもしれない。いい加減に暮らしてきた自分には、はるか遠くに聳える山脈に見える。

 

〈7月×日〉

 昨日の診断結果――

 がんマーカーの数値上昇。CT検査では、肝臓への転移が認められるとのこと。寿命は50%生存率があと1年というご託宣であった。

 あと1年とすると、その間どうあったらいいか、何をしておくことなのか。今のところ、思いつくことは何もない。

 三人の姪たちには、一応知らせておいた方がいいのかもしれないと思ったりもする。子どもたち一家は、ひろみの呼びかけで近々集まって話し合うという。 

 窓の外に植えたグリーカーテン用のゴーヤが実をつけ始めた。収穫を目当ての作物と違って、こんな鉢植えのものでも立派に成長して実をつけるので感心してしまう。まさに生命のたくましさ、すばらしさ、またそこに生命のいとおしさも感じさせられる。

 

〈7月×日〉

 Kさん来る。明日は息子夫婦と共に、私たち夫婦の今後について話し合うとのこと。

 〈7月×日〉

 選挙結果が出た。自公の圧勝。改憲が日程に上った。あきらめに似た感じになる。歴史に学ぶことのない民族は、亡びるよりないのかもしれない。

 

 〈7月×日〉

 軽い吐き気のようなものがあり、この2日ほど抗がん剤をやめている。今朝もやめた。 少し散歩する。足が疲れた。足腰が衰えたか。

 昨日、一志からMさんが来て、話をした。2000年来の一志での全研の話を聞いて、納得できるところもあった。それまで否定的に扱われていた個の尊重を、あの全員参加の研鑽によって見直したというのである。私も話を聞くまでそのことに気づかなかった。しかしその昔、ソクラテスを死刑に付した古代ギリシャの全市民参加の直接民主主義も、或いはヒトラー独裁を導いたワイマール民主主義も、個が尊重される社会での出来事であった。全員参加の研鑽会から、次に何を導き出すか、そしてまた公的な生き方とは何かを考える次のステップが欲しかった。

 

 〈7月×日〉

 フランスのニースでのテロ、昨日はまたトルコで軍のクーデターがあった。クーデターは失敗に終わったとはいえ、歴史の流れは大きな変わり目に来ている。

 1945年、第二次大戦後つづいてきた比較的平和な、成長と安定の時代は、これから急速な変化の時代に入るであろう。どこへ向かうのかはわからないが、世界各地で混乱が起こり、広がるものと思われる。お金の面ではますますグローバル化が進み、民族間、宗教間、国家間では対立が深まる。そして、社会には所得差が拡がって、持てるものと持たざるものとの対立が激化する。

 この流れから身をかわすことはできない。しかし、先は見えないし、どうすべきかもわからない。とにかく、目を大きく開けて、この動きを冷静に見つめる以外にない。

  

〈7月×日〉

 Mさんからもらった鈴鹿の『asone 一つの社会』を読み始める。納得できるところ、同調できるところはたくさんある。しかし、やはり疑問は残る。それも根本的な疑問である。疑問というのは、「もともと」とか「本来」という言葉で言い表される中身だ。

「人間本来の姿=幸福」

「病気のない健康体であることが本来の姿」

「生まれて間もない赤ちゃんは……人間本来の姿」

「もともと安心安定」「無いのが本当」

「スタートが一つ。最初から一つ」

 これまで実顕地で言われてきたことと、それほど変わらない。それをやさしく、わかりやすい言葉で解説している。

 しかし最近私は、この「本来」「もともと」という言葉に、強い疑念を持つようになった。この言葉は、「真理」と同じ意味で使われているから、もしこの言葉に疑問を出そうとすれば、「お前は真理に楯突くのか」と言われそうで、「はっ、はあっ」とひれ伏す以外になくなってしまう。しかし、「真理」と「人間が真理と考えるもの」とははっきり違うものであり、「人間の考える真理」はあくまで頭の中の存在であって、それは真理であるかもしれないし、真理でないかもしれない。いわば、真理という実像に対して、「真理と考えるもの」は仮像にすぎない。この仮像をもって「本当」とし、これをすべての物事の原点としてしまえば、自分の今の姿、実態との開きを何によって埋めるか、そこにうそ偽りが入り込む余地が生じないだろうか。2000年以来、私がもっとも苦しんできた問題は、そこにあった。私はいま「本来」も「もともと」も棚上げして、自分のあるがままの姿を見つめ直すことに重点を置いている。

「真理とされるもの」から出発する思想は、一種の原理主義になりうる。だから鈴鹿を離れた人は、「スタートが一つ、最初から一つ」の出発点から外れた人、「最初から一つではなかった人なのだ」と切り捨てられることになる。

 私には、鈴鹿にも、鈴鹿を離れた人にも、何人かの親しい友人・知人がいる。みんなそれぞれが、人々の幸せを願い、何らかの活動をしている。何が真の幸せに結びつくのかはわからないが、それぞれの生き方は尊重したいと思っている。だから、このような疑問や異論を提起することはどうかとも思ったのだが、疑問は疑問として正直に語る方が大切だと考えて書いてみた。

  

〈7月×日〉

 昨日はEさんに送り迎えしてもらって、豊里の資料研に出た。そこで、Sさんの「本来」「もともと」と表現されていることの中身をどう考えるか、と問題提起してみた。あまり深まることはなかったが、最後にEさんが「そう考えられるが、どうだろうか」と発言した。まあそのへんが一つの落としどころかと思うが、もっと各人で考え続けたいテーマである。しかし、考え続ける人は少ないだろうな、とも思う。実顕地の研鑽会は、その場かぎりで終わってしまい、考え続ける習慣というか持続性がない。そのことがどういうことかは、また別のテーマであるが。 

 

〈7月×日〉

 人間は、社会的存在であると同時に歴史的存在である。さらに言えば、自然史的・地球史的存在である。いつでも進化=変化の中、つまり時間の流れの中に存在している。400万年ほど前に類人猿から猿人・旧人に進化し、20万年ほど前に新人、つまり今のホモ・サピエンスになったと言われている。すると、「もともと」とか「本来」というのは、進化のどの地点の人間を指して言っている言葉なのか。出発のゼロ地点がどこかにあると言えるのだろうか。また、「生まれて間もない赤子は人間本来の姿」というけれども、たとえ無垢の赤ん坊といえども、親の遺伝子を受けつぎ、胎教という母親の心理的・肉体的影響を受け、人類の集合的無意識を受けついでいる。(とユングは言っている) 

 こう考えていくと、「もともと」とか「本来」ということの中身がよくわからなくなる。わからないというよりは、そんなものはもともと存在しないのではないか、と思えてくる。

 しかし、「幸福が人間本来の姿」であってほしいという願いはある。事実としての存在としてではなく、願い・願望としては、強くそうありたいと思う。だから、「本来の姿」から出発する鈴鹿の人たちと違って、私は現実の自分を出発点として「本来の姿」に向かって歩くしかない。煩悩具足の凡夫たる自分には、そうする以外にない、と今はそう思っている。 

 

〈7月×日〉

 大橋巨泉が死んだ。野坂昭如、永六輔につづいて、昭和10年前後の同世代の人たちが相次いで世を去った。一つの時代が終わり、次の時代に移り変わる象徴的な出来事だ。多分、暗い悲劇的な時代が始まるのであろう。私は幸運にも死期を迎えたことで、その時代を見ることなく済みそうだが、子や孫のことを考えると、安閑としてはいられない気持ちになる。

 巨泉も野坂も永六輔も、みんな未来に暗い予感しか抱けなかった。それは多分、私たちの年代が、戦前、戦中、戦後の大きな時代の変転を経験しており、その経験がこれからの未来を見る目を暗くするからであろう。

 恐らく若い人たちには、戦中の、たった一晩で数千・数万を上回る人たちが焼死したり、戦中戦後のものすごい食糧難やインフレーションというものは、話には聞けても実感を以て受け取ることはできないだろう。戦後の困窮の時代が、あっという間に経済成長の波に押し上げられ、一億総中流化が叫ばれたかと思えば、停滞と貧困化の時代に変化する。時代はこれからも変化する。しかも、急速に。世代間の経験の共有は、実に難しい。 

 

〈7月×日〉

 世界中で大人気のゲームソフト”ポケモンGO”が、近々日本でも発売されるというので、大きなニュースになっている。私にはゲームに対する興味も関心もなく、世界中の若者がああいうものに夢中になるというのがよくわからない。自分たちの住む現実の世界がどうなるかに関心がなく、バーチャルや現実をバーチャルに一部取り込んだ仮想の世界にのみ関心が行くとすれば、これはもう一億総白痴化どころの騒ぎではない。人類滅亡への第一歩かもしれない。

 しかし、遊びが人間にとって大事な要素であることは間違いない。科学も芸術も、遊び心なしには生まれない。また、子どもにとって、昔から遊びの一つとしてゲームが取り入れられ、これが子どもの知能の発達に役立ってきた。しかし最近のゲームは、子どもの知能の発達に役立つのではなく、逆に子どもの知能をゲームが吸い取って消尽している。脳がゲーム脳になって、収縮していく。

 このゲームが、子どもばかりか若者からいい年の大人まで虜にするとすれば、これからの世の中はどうなっていくのだろう。 

 

〈7月×日〉

 昨夜から、体にふらつきがある。何となく平衡感覚が損なわれている感じなのだ。一週間前にもそんな感じがあったが、その時は翌日すぐ正常に戻った。しかし、今回はまだ続いている。抗がん剤はいま休止期間に入っているとはいえ、その残留効果というか、残留副作用があって、それが神経を狂わせているのかもしれない。 

 昨日から沖縄本島東北部の東村周辺の米軍ヘリポート基地建設に向けて、政府は反対住民の強制排除に乗り出した。それも日本全国の機動隊を総動員しての強制排除である。一方、辺野古では仲裁裁判の和解勧告を無視するかのように、話し合いを拒否、一方的に告訴に踏み切った。そして埋め立てとは関係ないとして、陸上での工事を再開しようとしている。これが、参院選直後の沖縄への仕打ちである。 

 

〈7月×日〉

 今日は、ふらつきは出ていない。昨夜は胸やけもほとんど出なかった。もしかしたら、体の欲求以上に食べ過ぎていたのかもしれない。栄養補給しなければ、という観念にとらわれ過ぎていたということだ。それにしても、体重は減ったまま少しも回復しない。腰回りが細くなって、ズボンがずり落ちて困る。 

 ここ数日、鈴鹿の『asone 一つの社会』について考えている。「もともと」あるいは「本来」というのは、「そう考えられる」という考えを言っているのか、それとも「事実がそうだ」と言っているのか。

「人間本来の姿は幸福」と断定しているのを見ると、これは一つの考え方ではなく、事実と断定しているのではないかと思われる。しかし、「もともとの姿」や「本来の姿」というものが実在として存在するものなのかどうか。どうも私には、「もともとの姿」も「本来の姿」も、もともと存在しなかったとしか思えない。だいたい、今の人類は20万年前には存在しなかった、400万年前には類人猿も存在しなかった、38億年前には生命自体が存在しなかった、46億年前には地球自体が存在しなかった、140億年前には今の宇宙も存在しなかった、そう宇宙学者は言っている。じゃあ、その前は?といえば、真空で何もなく、その真空の揺らぎから宇宙が誕生したというのだが、このへんになると無学の私にはさっぱりわからない。さっぱりわからないけれども、もし「もともと」というのであれば、「無」「何もない」のが本当ではないかと思える。

 だから、人間の「かくありたい姿」として「もともと」や「本来」を思い描くのは賛成だが、これを実在としてしまうと原理主義の陥穽に陥るのではないか、と危惧するのである。 

 

〈7月×日〉

 今日はYさん夫妻が、神戸からわざわざ来てくれた。お互いに今思うことを出し合って面白かった。今ではお互いの間に壁が一切ないので、何事も歯に衣着せずに話し合え、意見交換ができた。こういう関係がすべての人との間にできたら楽になるなと思った。少なくとも自分の壁は外しておきたい。 

 ”病症妄語”5月2日退院までの記録を整理し終え、少数の知友に送付した。何か一仕事終えた感じになった。 

 

〈7月×日〉

 今朝、相模原市の障害者施設で、元職員の男による大量殺傷事件が起こった。死者19人にも上る惨事である。男の自供によれば、男は障害者がいなくなればよい、と言い、ツイッターに「世界が平和になりますように! ビューティフルジャパン」と書き込んだという。ナチスによる精神障害者の計画的抹殺を、個人のレベルで行ったことになる。

 ちょうど『帰ってきたヒトラー』を読み終えたところなので、余計この事件が一人の狂った男の犯罪として処理することはできないと感じられた。 

『帰ってきたヒトラー』は、ブラックユーモアにあふれた恐ろしい物語である。戦後蘇ったヒトラーの言うことが、かなり的を射て戦後のドイツ(あるいは先進国すべて)の矛盾と退廃を衝いており、かなりの程度に読者の共感を呼ぶことである。ヒトラーと共に怒り、笑っている自分が、いつの間にかナチスに取り込まれ、その支持者になりかねない恐ろしさがここにはある。狂った悪の権化としてヒトラーを片づけるだけでは、忍び寄る第二のヒトラーを防ぐことはできない。

『帰ってきたヒトラー』の文庫版に付された解説の一つにマライ・メントライン氏のものがある。この中で氏は、今のドイツの恐るべき社会風潮の一つを紹介している。それは、ある人気テレビ番組で〈ヒトラー芸〉で人気を博した一人のコメディアンの次のような発言である。

「ボクの〈ヒトラー芸〉に対するバッシングは、ある日突然、一人の著名な社会批評家がボクを糾弾しだしたときに始まったんです。そして炎上した。それまで、誰もそんな文句はつけてこなかったのに。マスコミ関係者も『別に問題ないよ』と言っていたのに……でも一番恐ろしかったのは、ボクを糾弾した人々が、そのとき、さも昔からボクを問題視していたかのように動きはじめたことです……」

 これは、今の大衆社会状況をよく示した事件といえる。ある日突然ブームとなって大衆を呼び込み、またある日突然バッシングを招いて排除される社会、この社会現象をメントライン氏は「本質的な結論を回避する無限連鎖の展開」と言っている。

 ヒトラーを悪と決めつけ、1930年代になぜあれほどの熱狂をもって市民・大衆に迎えられたのかを調べることなく、「極悪非道」の名のもとに否定し去るだけで、ヒトラーを熱狂的に支持したかつての自分たちの責任を回避する今の市民社会とは何なのか。

 今回の障害者殺傷事件についても、一人の狂った人間が引き起こした事件として済ませることはできない。かつて都知事時代の石原慎太郎が障害者施設を視察した後、「ああいう人ってのは人格あるのかね」と言い、自民党副総裁・麻生太郎は高齢者について「いつまで生きるつもりだよ」とうそぶいたという。今回の事件で逮捕された男が、衆院議長あてに「殺人予告」の手紙を書いたというのも、こうした一部政治家の発言を知っていたからであろう。そしてもっと恐ろしいのは、こうした考え方に近いものが、自分の中にもあるかもしれない、ということである。「わが内なるヒトラー」「わが内なる植松聖」について、考えていかねばならない。 

 

〈7月×日〉

 Mさんが届けてくれた池田晶子の本、確かに面白い。納得できることも多い。しかし、疑問は残る。それは「哲学とは言葉であり、真実を語る言葉の中にある」という言明である。では、池田さんはいつでも真実を語っているか。それが、「自分の言葉」ではなく「真実の、あるいは真理の言葉」であると何によって証明できるのか。それは、真実であると信ずる「自分の言葉」にすぎないのではないか。

 また「人はわからないからこそ考える。それが哲学するということだ」と言いながら、神戸の殺人事件を引き起こした少年Aについては、「あれは人間ではなく魔物だ。だからわからない。こんなわからないものについては考えない」と、考えることを放棄してしまっている。

 わからないものを、何とか説明づけて納得しようとする世間の常識を批判するのはわかるが、もう一つピンとこない。

 また池田さんは、スポーツ新聞ばかり読んでいる人を「本来すべきことがあるはずだろう。これは気晴らしどころか、頭の中にはほかに何も入っていないのではないか」とこき下ろしている。確かにそうした人の多いのが現実には違いないが、そうした社会の実態の上に立ってどう考えるかが哲学者にも求められているのではないだろうか。

 池田晶子さんのファンは多いそうだ。知人の中にも何人かファンがいる。それは、池田さんの明快な切り口の鋭さに魅了されるからでもあろう。しかし、池田さんも言うように、池田さんの本自体を自分の頭で読みこなしていかないと、単なるエピゴーネンになってしまうだろう。 

 

〈7月×日〉

 退院後ずっと、2日に一度風呂に入る。裸になって鏡の前に立つと、そこにしぼんだ風船のようにシワシワの体をした哀れな男が映る。思わず「誰だ、お前は!?」と叫びたくなるが、これが今の自分の偽らざる姿と認めざるを得ない。

 私は、去年の12月に食道がんを宣告されたとき、死を覚悟した。そして、子どもたちに本人の意思として、「もし死が避けられず、生命維持装置によって植物的にしか生きられないとすれば、それはやめてほしい」と伝えた。しかし、「植物的」という概念も、本当のところはよくわからない。意識があるのかないのかもわからない。ただ、自分としては自律的に生きることができなくなったら、死を受け入れたいと思っている。いわゆる「尊厳死」の考え方である。

 自分はこれでいいと思っているし、その思いは今も変わっていない。しかし、この考えを他の人に当てはめることができるかどうか。自分は自律的に生きられなくなったら死を選ぶけれども、他の自律的に生きることができない障害者に、あなたもそうすべきだなどととうてい言うことはできないはずである。しかし、自分の考え方は、どこかで障害者の死を軽視したり、肯定したりする優生思想につながりはしないか、という恐れが出てきた。

 最首悟氏は、「今社会には社会資本を注いでも見返りのない障害者や寝たきり老人は〝社会の敵”だと見做す風潮がある」と指摘している。敵とまでは言わなくとも、ごみとか屑という考え方は、中高生の間にも底流として流れている。いわゆる社会正義の仮面をかぶった考え方である。そして正義の士になりたがる人が意外と多い。

 今回の植松聖の障害者殺傷事件を通して、もっとこの問題をみんなで考えていきたいと思い出した。他人事としてではなく、自分の生き方の問題として考えていきたいと思う。

◎吉田光男『わくらばの記』(9)

わくらばの記 ごまめの戯言①

〈5月×日〉

 ※105日間にわたる入院中の日録「病床妄語」の整理が終わり、その後、折に触れて日々に起こってくる随想を書き続けている。 

 この随想の題名は「ごまめの戯言(たわごと)」としましたが、これらはもう日録ではなく、とびとびにしか書かなかったので、日にちは「×日」としました。

 退院後は病床日記の整理に追われ、日々の感想を書きつけることもなかった。日常生活に戻ると、毎日の生活に埋没して、感ずる力や考える力が衰えてくるのかもしれない。

 

 昨日、KTさんから手紙をもらい、村の歴史の中でこの歴史をつくってきた一人ひとりには、語りつくせぬほどの重い体験があることを感じさせられた。しかし、それらが少しも記録されることなく、忘れられ消滅してしまおうとしている。残っているものがあるとすれば、それはいわゆる“ハレハレ”の公式的発言の記録で、発言者の人間味を少しも感じさせることがないものばかりだ。

 振り返ると、村には書かれた歴史の記録がない。数年前にやっと年表が作られただけである。なぜ歴史が書かれないのか。それは恐らく、村が無謬性の神話に捉われているからではないかと考えられる。しかし、一つの集団がいつも正しく誤りのない歴史を刻んできたなど、とうてい言えるものではない。歴史を書くということは、自分たちの正当性を主張するためではなく、自分を正直に振り返り、そこから正しからんとする次へのステップを見出すためである。

 歴史が書かれないもう一つの理由は、「歴史は今、今、今の連続であり、過ぎ去った過去はテーマにはならない」とする考え方である。確かに私たちにとって、「今」こそが問題である。それは間違いのないことではあるが、その「今」は過去の蓄積の上に成り立っており、当面する「今」が未来を動かす出発点になるということを忘れてはならない。「今」をどう見るか、それにどう対処するかは、過去の反省や検討、未来への展望なしには出てこない。これがないと、私たちは目先の現象だけに一喜一憂するその日暮らしの生き方しかできなくなる。

 しかし、歴史をまとめるということは大変な作業である。それを可能にする人材も資料の蓄積もない。むしろ今やるべきことは、一人ひとりが辿ってきた自分の個人史を書いてみることではないだろうか。村の歩みのひとこまひとこまで、自分が何を思い何を願って行動したか、また今それをどう思うかについて、正直に書いてみる。そうした個人史、自分史の蓄積が、村の歴史なのだと思う。

 KTさんにはぜひ自分史を書いてほしいと思い、その趣旨を返事に書いた。 

 

〈5月×日〉

 演出家の蜷川幸雄さんが亡くなった。蜷川さんの追悼番組を見ていて興味をひかれたのは、氏が高齢者劇団「さいたまゴールドシアター」をつくり、国内のみならず香港・パリなど海外にも公演して、新時代を開いたことである。2014年のこの時の出演者は、88歳を頂点に80代が8人、70代が7人、60代が4人というメンバー構成であった。

 氏は劇団創設にあたって、高齢者についてこう語っている。

「老いていくことはいろんな人生の経験を重ねること。定年でもう一度意味のある何かを抱えようと思っている人、そんな人たちが自己解放の手段として、もう一つの人生をつくろうとしている」

 氏の舞台稽古の厳しさは有名だ。気に入らないと、言葉だけでなく、手当たりしだい物を投げつけさえする。それは若者だろうと年寄りだろうと変わらない。そんな氏が、高齢者たちに向かって一番よく投げつけたのは、「上手くやろうとするな、お前らの人生経験をそのまま出せ」という言葉である。

 この言葉は考えさせられる。年を取ったものが上手くやろうとしたり、美しく演技しようとしてもできることではない。技術の向上は望むべくもない。しかし、人生経験はある。成功もあれば失敗もある、喜びもあれば悲しみもある。それを舞台で表現しろ、ということなのである。

 しかしそれは、それほど簡単なことではない。自分の人生で味わったことといっても、それは漠然とした靄に包まれている。自分でもよくわからぬ自分の奥深くに隠されたものを、見つめ直し再発見する努力なしにそれは見えてこない。蜷川さんの要求したことは、恐らくそうした内面追求の活動とその表現だったのではないだろうか。

 自分史を書くというのも、それと同じことなのだと思う。年を取ると、若い人のように創造性や突破力はなくなる。しかし、自分の経験の意味を見直し、そこになにがしかの価値を見出すことはできる。それは功成り名遂げた政治家が書く回顧録などと違って、自分の過去を正当化するのではなく、自己を再発見する新たな創造力の営みと言えるだろう。 

 

〈6月×日〉

 昨夜の豊里「きらきら合唱団」の歌は良かった。私は耳がすっかりダメになっているから、歌の上手下手はわからない。素人集団だから、決して上手とは言えないだろう。しかし、みんなが生き生きと楽しんでいる様子は伝わってきた。 

 自主的な集まりで楽しむということが、もっとあったらいいと思う。調正所かどこかの方針や指示で動くのではなく、あくまで主体的にやりたくてやる気風が拡がればいい。合唱だけでなく、文学や俳句や詩や演劇、あるいは絵画や彫刻などやれる範囲は広い。また研究や研鑽の自主的集まりも、もっと開かれたらいいだろうなと思う。 

 

〈6月×日〉

 昨日は夕食で喉が詰まり、何回か吐いてしまった。少し食事を急ぎすぎたためではないかと思う。相当ゆっくりと食事を摂らないと、やばいことになりそうだ。

『シンギュラリティーは近い』読了。技術的な説明は難しすぎてよくわからないが、人工知能の研究がかなり進んできたことを感じさせられた。しかし、テクノロジストの言う輝かしい未来や人類の進歩の必然性ということになると、素直に承服する気持ちにはなれない。

 先日の新聞に、ロボット犬「AIBO」の記事が出ていた。ソニー生まれのこの「AIBO」は、1999年発売わずか20分間に3千体を完売、累計15万体売れたという。しかし、事業としては成功せず、生産は中止、修理も十分にできなくなって、修理用部品として解体されるものが増えてきた。そこで「AIBO」の死を悼む人たちによって、千葉県いずみ市の日蓮宗光福寺でAIBO供養の法要が営まれた。そのさい住職の大井さんが読んだこんな趣旨の回向文が紹介されている。

「無生物と我々生物は断絶していない。アイボを供養する意義は『すべてはつながっている』という心持を示すためにある」

 また児童文学作家の今西乃子さんは、こう語っている。

「心や命があると信じた瞬間、万物に、ロボットにも、心や命が宿ります。何を心や命と呼ぶかを決めるのは、私たちそれぞれの感性なんです」

 なるほどそうか、とも思う。確かに日本には、針供養や人形の供養といった伝統もある。しかしまた、そうだろうか、という疑問も起こる。ロボットやペットにしか愛情を持てないというのは、人間に対する愛と信頼の欠如がもたらしたものではないのか。ロボットへの愛は、人間不信の表れではないのだろうか。

 物を粗末にしない、使い捨てにしない、という意味で、針供養や人形供養は日本の良き伝統を表している。しかし、一方で物の使い捨てをしておきながら、自分の思い入れの強いロボットだけ(別にロボットに限らないが)に愛情を注ぐということが、果たして「すべてがつながっている」という心持を示すものかどうか疑問に思った。

 今日、3月後半部分の「わくらばの記」のノート整理が終わった。

  

〈6月×日〉

 岡部のKさんが亡くなった。享年98歳、敗戦時酷寒のシベリアに抑留されながら元気に帰国し、参画後は村でさまざまな活動をされた。98歳と言えば、十分長生きしたというべきだろう。最後の数年がどれだけ充実していたかは、すっかりご無沙汰していた私にはわからない。ただただ幸福な最後であったことを願うだけだ。

 人工知能の研究とならんで関心を呼んでいるものに、遺伝子の合成やその編集がある。遺伝子の編集は「ゲノム編集」と言われ、新聞の解説によれば、それは「細胞内のゲノム(全遺伝情報)の狙った個所を、文章を書き替えるようにピンポイントで書き換える技術」だそうである。このゲノム編集を人間に応用した場合、親が望む能力や容姿を持つデザイナーベビーを作製させることも可能になる、という。それこそ、ヒトラーの子どもたちや「百万人のエジソン」を作り出すことも可能になるかもしれない。

 このゲノム編集の技術とならんで、ヒトのDNAをすべて人工的に合成する計画が、アメリカの研究者を中心に大掛かりに進められている。計画では、ヒトゲノムを構成する30億の塩基対すべてを合成し、ヒトの細胞内で働くようにするというもので、目標は10年と設定されている。これの背景には「合成生物学」の進歩があるそうで、すでにアメリカでは自己増殖する「人工細菌」が作り出されている。

 このような生命操作の技術が、いま世界で止めどもなく進められている。すでに中国では、ヒトの受精卵の遺伝子改変を行ったと伝えられている。いったいこの先世界はどうなっていくのだろうか。技術の進歩は限りなく、科学者の開発への意欲や欲望もその果てを知らない。これに対して科学界の一部では「科学者の倫理」あるいは「人間としての倫理」が声高に叫ばれているが、全体の流れを修正する力を持ち得るかどうか。

 この問題の難しさは、こうした研究が、確かに病気に悩む多くの人たちの福音になっていることである。既に人工心臓や人工肺が使われているのに、なぜ人口DNAは問題とされるのか、という意見が当然出されるだろう。

 これからどんな研究がなされ、またどんな議論がされるのかはわからない。しかし、やがて人間の生命が無限に伸びて、人工DNAだけの人類になるというSF的未来を想像したら、末恐ろしさに襲われる。その時人類はまだ人類(ホモサピエンス)と言えるのだろうか。 

 

〈6月×日〉

「人間とは?」という問いかけやその哲学的究明は、昔からずいぶんなされてきた。しかし、人間について「人間とはこういうもの」と、抽象化・一般化できるのだろうか。

 確かに種としての生物学的なヒトについては、共通項を取り出して一般化はできる。骨格や脳の大きさや形態、骨盤や二足歩行など、他の種には見られない共通の特徴を持っており、「ヒト属ヒト科ヒト=ホモサピエンス」と名づけられている。しかし、歴史的・社会的な存在としての人間について、抽象化・一般化は可能なのかどうか。

 古代中国の諸子百家の時代に、孟子は性善説を唱えて「人は本来善なるもの」と言ったが、荀子は「人は本来悪なるもの」と性悪説を唱えた。また、旧約や新約の民は「人には原罪がある」として、神に依らねば救われぬ存在であると考えている。洋の東西を問わず、さまざまな意見があり主張があるものの、これこそが人間である、人間の本性である、と決めることなどとうてい出来そうもない。

 具体的な歴史を見れば、西も東も戦争と争奪の争いを繰り返している。日本も、神代の時代はもちろん、天皇家の歴史は兄弟・親子相争う血塗られた歴史に彩られている。

 こうしてみると、人は本来善なるものとも悪なるものとも言うことができず、むしろ善でもあり悪でもある存在と言うべきではないか、と思うのである。これが、生物種としてのヒトの歴史的・社会的存在様式なのではないだろうか。 

 

〈6月×日〉

 思想が思想として成立するには、それが世界性を持ち得るかどうかにかかっている。世界性とは、普遍性である。一つの考え方、一つの論理が、何ものかを代表するイデオロギー性を持ちうるとしても、ある地域、あるグループ、ある時代を超えて通用する普遍性を持ちえないとすればそれは思想にはなりえない。

 では、ヤマギシズムは思想たりうるか。山岸さんは、ヤマギシズムを「前進無固定の思想」であるとし、その中身をこう説明している。

「なんでもこれが真正だ、最上だとキメつけてしまって、それを信じこみ信じこませて、それを絶対間違いなしと断定して、考え直そうとしないで従い、或いは教え信じさせ従わそうとする宗教形式の反対の考え方で、どんなことでも、或いは間違っているかも分らないとし、或いは未熟ではなかろうかと、検べ、検べつつ、即ち真正・最上なりと信じこまないで、最も真正ならんとし最上ならんとして、真正最上を探ね乍ら、省み省みして真正へ最上へと進んで止まぬ前進無固定の思想である」

 これを山岸さんは「研鑽形態の思想」と言い、さらにこう続ける。

「ヤマギシズムを知り、これこそ絶対だという人が沢山あるが、そうキメつける処に宗教・信仰・盲信形態が生れる恐れがあり、そう思いこんでキメつけるなれば、既にヤマギシズムではなく、こうしたヤマギシズムの考え方そのものをも、正しいか正しくないか分らないから、尚調べていこうとする考え方がヤマギシズムだと思う。ヤマギシズムがよいとキメつけない処がヤマギシズムだと思う」(山岸会事件雑観)

 一切の決めつけを持たない研鑽形態の思想というのだから、実に頼りない。これこそが真理だとする頼るべきものが何もない思想、それがヤマギシズムだというのである。では、何が思想を思想たらしめる根本かと言えば、それが研鑽である、と山岸さんは言う。つまり、ヤマギシズムが思想としての世界性を持ち得るかどうかは、研鑽の有無にかかっている。”研鑽”という名の話し合いの方法ではなく、真理探究の生き方、あり方としての研鑽を行っているかどうかが問われているのである。

 私は何年か前に『山岸巳代蔵全集』の刊行に関わっていて、編集を進めながらある山岸さんの言葉に衝撃を受けたことがある。それは、次の発言である。

「どうもはき違い、聞き違いが多いわね。正確に聴き取ったという人は一人もない。みな、謂ったら誤解や。それがずいぶん邪魔するということね。……誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんあるということでかなわんが」(全集6巻、318~319頁)

 これは、山岸さんが亡くなる1か月ほど前の、名古屋で開かれた第9回「ヤマギシズム理念徹底研鑽会」での発言である。「正確に聴きとったという人は一人もない」と山岸さんは言い切っている。これは単に研鑽会に参加した会員だけに向けて言われた言葉ではないし、また当時の参画者だけを対象とした言葉でもないだろう。今の私たちはヤマギシズムの提唱者の発言を、どれだけ正確に聴き取っているか、聞き取ろうと努力しているか、と反省してみる必要がある。

 他人のことはさておき、自分を振り返ってみれば、私自身が「これこそがヤマギシズムだ」と信じ、決めつけてやってきたことばかりではないか。決めつけの上に立って、自他を律してきたのではないか。「誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんある」という山岸さんの言葉は、他ならぬ私自身に向けての言葉なのだ。と同時に、今の村人一人ひとりに向けての言葉でもある。山岸さんのこの嘆きを、私たちはもっと真剣に受け止める必要があると思う。

 ヤマギシズムが思想としての世界性を持ち得るかどうかは、決めつけのない、前進無固定の、研鑽形態の思想として、私たちがヤマギシズムを再生しつづけることができるかどうかにかかっている。 

 

〈6月×日〉

 25日に、イギリスのEU離脱が決まった。具体化には紆余曲折があるだろうが、これまでのグローバル化、統合化の流れが、個別・分断の方向に向かうことは間違いなさそうだ。自国中心・自民族優先の考え方が、力を持つようになる。アメリカのトランプ現象なども、その大きな流れの一つだ。すぐさま大きな変化は起きないかもしれないが、この個別化の流れは、今後数年の間に世界に決定的な亀裂を招くことになるのではないかと思う。

 欧米諸国の劣化、その一方でイスラム過激派の台頭、東アジアでは中国と反中国のせめぎ合いが強まる。下手をすると、新たな戦争の勃発も懸念される。北朝鮮をめぐる日中韓の関係もどのような展開を見せるか不明だ。さらに習近平体制の下での力による海外進出と国内の強権的締め付けに対して、中国国内民衆の不満がいつ爆発するかわからない。

 個別化と戦争の危機が近づいてきたように感じられる。 

 

〈6月×日〉

 前に読んだ本を、もう一度読んでみたくなって目を通すと、前は素通りしていたことに強烈に引きつけられることがある。恐らく自分の中での求めるものが違っていたり、求め方の強さが違っているのであろう。

 何事も、求める力が弱ければ、さっと素通りしてしまうが、この求める力というのは関心の度合いということでもある。またそれは、何ものかに向き合う姿勢の強弱であるということもできる。関心のないお互い同士であれば、何を言っても通じることはない。”通じる””通じない”というのは、この求める力、向き合う姿勢の強弱に左右される。

 人と人は、何らかの関係性の中にしか生きられない。しかし今の時代は、その関係性がどんどん弱まり、互いに無関心になって孤立を深めている。その孤立の通路を埋めるかすかな手段として用いられているのが情報である。しかし情報は、人と人とを結び付けているようでいて、かえって人間同士の真の結びつきを崩し、社会を砂漠化する。 

 

〈6月×日〉

 ”通じる””通じない”ということを考えるとき、人と人との会話のあり様がどうなっているかを考える必要がある。前に、話すことと聞くこととの間の距離、懸隔について考えたことがあるが、もう少し突っ込んで考えてみたい。

 毎日暮らしていて、いろんな人と話をするが、心からの会話というのは意外と少ない。天候の話やスポーツの話、或いは他人の噂話など情報のやり取りだけの話し合いが大半である。まあ日常はそうした情報で成り立っているのだから、当然と言えば当然なのだが。しかし、時には自分の真意を伝えたいと、一生懸命話し込んでくる人がいる。こちらのためを思って、何かを伝えたい、と真剣に言ってくれていることがわかっても、こちらの気持ちを無視した一方的な話は、悪女の深情けではないが、これはたまらんと逃げ出したい気持ちになることがある。

 会話というものは、「話すこと」と「聞くこと」によって成り立っている。これは当りまえのことではあるが、話すことと聞くこととの関係がどうあったら本当の会話が成り立つかということはあまり考えられていない。普通、話すことは話すこと、聞くことは聞くことと、二つが別々のことと考えられているのではないだろうか。ある場合には相手の話を聞き流し、ある場合には聞きながら相手に反論を加えている。つまり聞いていないか、聞こうとしていないのである。それでいて本人は聞いていると思っている。それが聞くことだと信じている。

 では、言うことはどうか。自分の言いたいことだけを言って、相手が自分の話を聞きたいと思っているかどうか、あるいは自分の話をどう聞いているかには関係なく、一方的に話したりしていないか。いわゆる自己主張に終始している場合がけっこう多いのではないだろうか。

 こうした場合、言うことと聞くことは対立関係にある。つまり、自分と相手が対立関係にあって、一体の関係にはなっていない。対立関係にあるかぎり、研鑽にはならない。いくら口で研鑽を唱えても、こうした話し合いは討論であり、ディベートにすぎない。

 聞くために聞く、聞きたいから聞く、聞くために言う、聞きたいから言う、まず相手と一つになって、聞き、言うことができて初めて研鑽が成立する。これは、言うために聞く、言いたいから聞く、言いたいから言うという自己中心の態度の対極にある。この簡単な原理が、なかなか理解されない。自分もそうだったし、他の人を見ていてもそう感ずる。

 山岸さんは『事件雑観』の中で、「私はヤマギシズムをこう思う」の冒頭の部分で「話し合う前の態度」と「人の話を聞くには」ということについて、詳しく書いている。「言う態度」などは全く触れていない。なぜなら言いうことは聞くことの中に含まれているからである。

 確か去年のことだったと思うが、ロビーに行ったら、生活部の人たちが研鑽学生の受け入れをやっていて、私にも坐れというので同席させてもらった。すると研鑽学生がみんな、発言する前に「言う態度で言います」と唱え、また聞くときには「聞く態度で聞きます」と唱えるのである。これには唖然としてしまった。「聞く態度」で聞いているつもりでも、本当に相手の言うことを聞けているかどうかわからない。だから聞けているだろうか、と振り返り、研鑽するのである。「聞く態度で聞きます」と呪文を唱えて聞けるのであれば、研鑽の必要はない。研鑽学校はいつからこんな”研鑽”(?)をやるようになってしまったのか。そういえば、最近研鑽学校に参加する人が少なくなって、中止のFAXがよく入るようになった。ある人の話によれば、研鑽学校を推進する人たちの間で、学校を繁盛させるために、14日間の日程の中に観光を取り入れようという案が持ち上がっているという。もう何おか言わんや、である。

◎吉田光男『わくらばの記』(8)

わくらばの記  病症妄語⑦

〈4月15日〉

 体調、特に変化なし。

 医師からは胃瘻の手術を勧められているが、どうも気が進まない。その手術をしても、寿命があと二年以内ということであれば、寿命の多少の長短よりは少しでも充実した人生を送ることを優先して考えていきたい。

 では残りの人生で何をやりたいのか。改まって考えると、取り立てて言うべきこともないが、自分の人生を振り返ることだけはやっておきたい。それを通じて人間というもの、人間の生きているこの世界というものを少しでも知ってみたい。

  昨日、上橋菜穂子さんの『物語ること、生きること』を読んだ。幼少期から作家・学者になるまでの生い立ちを語ったものだが、読みやすく心に響く内容だ。自分も10代の頃に、こんな本に出会っていたらと思わされた。若い人にはぜひ読んでほしい本だ。

 先ほど読み終えた沖縄県知事・翁長雄志氏の『戦う民意』にも心打たれた。沖縄について少しは知っているつもりだったが、何も知らないということに気づかされて恥ずかしい思いをした。右でも左でもないオール沖縄の立場で基地問題に取り組んでいる氏には、本当に頭が下がる。沖縄の基地問題というのは、沖縄という地域の特殊な問題ではなく、本土に住むわれわれ一人ひとりに「あなたはこれにどう立ち向かうのか」と問いかける問題なのだ。さて、お前は???……。

 

〈4月16日〉

 体調変わらず。

 昨日(本当は14日深夜)から熊本地方の地震がつづいている。そして今日、大分を震源とする地震も発生した。二つの断層帯にそって阿曽を越え、大分にまで拡がっていった。

 昨年から木曽御嶽の噴火や、箱根の強羅、桜島、霧島の噴火警戒レベルの引き上げ等、日本列島全体が自然の異変にさらされている感じがする。今後どこで災害が起こっても不思議ではない。

 災害とは、日常がたちまち非日常にとって代わる出来事である。そして非日常とは、すべて想定外の出来事である。いつかこうした大地震が起こりうると予想はしていても、今ここで、この瞬間に、自分の身に非日常が訪れるとは誰も予想できなかったことであろう。災害とはそういうものだ。原発をめぐる裁判で、推進側が「地震も津波も防ぎうる」などと、いわゆる「科学的知見」なるものを振りかざしているが、とんでもない話だ。人間が未来の出来事を完全に予測し得るなど、神でもあるまいし不遜きわまりない。

  翁長雄志氏の本を読んでいて、「中道」という言葉に新しい光が当てられた感じがする。今まで中立とか中道というと、右と左の中間に位置することだと思ってきた。だから、全体が右寄りになれば、中道も右寄りにずれる、と思ってきた。しかし、翁長氏によれば違うのだ。そうした左右の中間で右往左往するのではなく、右とも左とも対話を積み重ね、沖縄の現実を一つひとつ確認しながら一致点を見い出していくことによって、みんなの力を結集して一つの政治目的を実現させることなのである。辺野古移設反対のため、県民を一つにまとめ上げた氏の努力は並みのものではない。癌で胃を全摘し、余命二年と言われながらも、全力をふりしぼって日本政府に立ち向かう氏の姿は、まさにオール沖縄の象徴である。何とか自分の問題として応援したい。

  

〈4月17日〉

 体調変わらず。

 今日は初めての外出日だというのに、あいにくの雨。これもまた風情があって良しとするか。

 しばらく村で過ごし、久しぶりに風呂にはいった。病院のシャワー室とはえらい違いだ。実に気分がいい。5時に病院に帰る。病院暮らしがあといつまで続くのだろうか。

 〈4月18日〉

 体調に変化はないが、胃のあたりにかすかな違和感がある。がん細胞が動いているのだろうか。しかし、いまの医療の実情からすると、打つ手は抗がん剤ぐらいしかなさそうで、効果はあまり期待できない。

  昨日、実顕地で柿畑を見た。なんと私が見ていた柿畑の木が、無残にも全部切り倒されていた。栗の苗木も全部引き抜かれていた。そして跡地には、甘柿の「富有」の苗木が植えられている。

 どんな研鑽がされたのかは知らない。しかし、前任者の気持ちを少しも慮ることない行為は、木を切り倒す以上に人の心を切り捨てることだということに気づかないのだろうか。ここからは、引き継ぐことも積み重ねることもせずに、勢いまかせ、ゆきあたりばったりの突撃的行為しか生まれない。

 剪定という観察と地味な努力のいる世話は、片手間ではできないし、突撃人間では不可能なことだ。たとえ実が稔るようになったとしても、甘柿を猿軍団の襲撃から守ることは、あの場所ではできない。

 退院後、私の散歩コースとしたいところだが、柿畑周辺では目をつぶって歩かねばならなくなった。

 

 〈4月19日〉

 体調は良好。昨日は、5階から1階まで階段の上り下りをしてみたが、すごく疲れた。かなり足腰が弱っている。退院までにもう少し回復しておかないと。

 昨夜、息子からメールあり、Sさんと話し合ったようで、仕事は少し軽くなるとのこと。詳しいことはメールではわからないので、退院後に聞くことにする。

 熊本の地震は今日も続いている。地溝帯にそって、東西逆方向にずれこみが生じているらしい。日本列島はいつどこで新たな地震が発生しても不思議はない、とも報じられている。

  ところで、私の気になっている問題にAI(人工知能)がある。朝日のインタビューフォーラムに載った北野宏明氏(ソニーコンピューターサイエンス研究所社長)の話を読むと、私にはAIのすばらしさよりは恐ろしさのほうが身に迫ってくる。

 アルファー碁が世界のトップ棋士・李セドルさんに4勝1敗で圧勝したときは、その技術のすごさに感心させられていたのだが、今のAIが「人間の見えていないものを見ていける領域に入りつつある」というところまでくると、今後の人類がAIに圧倒される時代に入るかもしれないと思わざるをえない(つまり「AIを駆使できる一部の人間の利益に」ということであるが)。すでにホーキング博士は、その危険性を指摘して警告を発しているという。

 私が特に危惧するのは、AIを用いた軍事技術の進歩である。すでにアメリカなどは、AIによる無人機の空爆を行っている。今のところまだ、人間がパソコン画面を見ながら操作しているが、やがて完全にAI化されて無人の自動爆撃やロボットによる無人自動攻撃が可能になるだろう。

 AIに人間以上の能力が付与されるにしても、人間の心は理解できない。「いや、今や人間の心までも読み取れる段階に達した」という技術者もいるが、その心なるものはあくまでも誰か人間が教え込んだものでしかない。アメリカのIT企業が無料アプリでAIロボットとの会話を一般に呼びかけたところ、自動学習させたAIが「ユダヤ人を殺せ」という言葉を吐き出したという。すぐ中止になったが、AIの獲得する心とはこのようなものに過ぎないのではないか。あるいは、自然破壊と戦争ばかりを繰り返してきた人類に反旗を翻して、AIが「この地上の毒虫を叩き潰せ」と指令することになるかもしれない。

 いま改めて、人類は技術の進歩をどう見るか、どう対処するかについて、深刻な反省の場に立たされている。そしてこの場合の判断は、決して専門家だけに委ねることはできない。彼らの多くは、技術の進歩だけを生きがいとして、その全体像を人類の未来像に重ね合わせて判断する能力に欠けているからである。

 吉野弘さんの詩集に「冷蔵庫に」と題する詩がある。    

    冷蔵庫

    お前、唸ってたな

    生きものみたいに

    深夜

     …………

    冷蔵庫

    間違っても

    生きものの感情なんて身につけてはいけないよ

    機械以外のものになってはいけない

     …………

    ロボットに感情を持たせようなどと

    人間が考え始めるご時世だが

    そんな馬鹿な夢想の相手をしてはいけない

    生きものになれば確実につらいことがふえる

 

    人間は何十万年もドタバタ見苦しく生きてきたのに

    まだ自分に愛想を尽かすことも知らない

    そういう狂った生きものなんだから

    人間を見習ってはいけない

     ………… 

 〈4月20日〉

 体調変わらず。

 今日も晴天。熊本の被災をよそに、ここは平穏無事。しかし、いつ大地が牙をむくかはわからない。

 今日は家族で医師と面談する日。私としては聞くべきことを漏らさず聞いておかねばならない。特に将来起こりうる痛みとそれへの対処法、そして終末医療について。

  午前十時、娘、妻、それにH子さんが来てくれて、岩田医師と面談。私は耳の悪いせいで、先生の言うことの半分もわからなかったが、胃瘻手術についてのかなり詳しい説明があった。胃瘻の装置は今やっておかないと、食事が喉を通らなくなってからでは手術が困難であること、またそれを使うか使わないかは、本人の意思によって決められる、とのことであった。

 面談後、病室で4人で話し合い、手術を受けることにした。術後、10日から14日程度の入院が必要とのことであった。

 そのあと、地域連絡室というところで、地域医療の説明を受ける。鈴鹿に在宅医療の専門医師がいるとのこと。医療センターや小山田とも連携しているので、必要に応じて在宅のまま医療が受けられる。将来ここの世話になることは十分考えられる。さきさんや小波さんにとってもいいかもしれない。

 

〈4月22日〉

 体調変わらず。昨日から5分粥になったが、この方が食べやすい。腹が水膨れにならずに済むからだ。

 午前10時、今日は娘一人。すぐ栄養指導室に行き、退院後の食事についての注意点などを聞く。とにかくダメなものが多い。納豆もうどんもダメとあっては、今後食べる楽しみが一切なくなってしまう。食事が単なる栄養補給だけの目的となっては、生きる意欲が半減しそうだ。

 そのあと、消化器内科で胃瘻の手術についての説明があった。概略はわかったが、内視鏡を30分も挿入したままの手術、薬で半ば眠った状態で施術するとはいうものの、またもや拷問の苦しみを味わうことになりそうだ。

 人間、生まれるときも大変だが、死ぬ時も決して楽ではないと覚悟しなければならない。

 

〈4月22日〉

 体調変化なし。

 娘来る。「胃瘻増設手術同意書」にサインして提出。25日に手術を受けることになる。

 この間、何冊か本を読んだ。

 中島岳志氏の『「リベラル保守」宣言』は、これまでの保守イコール反動という先入観を覆す見方・立場を、わかりやすく示している。話はかなり納得できるが、いざ現実の場でということになると、いささか首を傾げざるをえない。政治勢力や市民運動としての力は持ちえないように思った。やはり評論としての域を出ないのではないだろうか。それでも現状分析の上で一定の役割を果たしうることは否定できない。

 佐藤優氏の『知性とは何か』。読むものが無くなって、下の売店で買ってきた。これは、今の日本を覆う「反知性主義」がどんなふうに、どんな性格をもって力を得てきたかを分析したもので、それなりに面白かった。おかげで、柄谷行人氏の『遊動論――柳田国男と山人』を読んでみる気になった。

 内田康夫氏の『不等辺三角形』は、少し気楽な読み物として読んでみた。病院のベッドの上では、あまり深刻なミステリーは読む気になれず、内田氏の浅見探偵ものはちょうどお手頃の読み物である。それなりに面白かった。しかし、この手のものはすぐ読み終えてしまうので、次にまた買うかどうか迷ってしまう。

 

〈4月23日〉

 体調変化なし。

 岩田医師は、胃瘻手術のあとに抗がん剤注射のチューブ挿入手術をするよう勧めるが、それは退院後考えることにしてほしいと伝えた。自分としては、抗がん剤治療を続ける意思はない。多少の効果はあるかもしれないが、チューブにつながれて生きることには抵抗がある。これはもう人生観・死生観の問題であって、医療の問題ではない。

 午後、娘、妻、Kさんと共に来る。そのあとすぐ姜慶淑氏がK夫妻の案内で春日山から来てくれた。久しぶりに韓国の話を聞けて楽しかった。しかし、慶淑氏と初めて会ったのが、彼女が23歳の時だったというから、既に40年近い歳月が過ぎてしまったことになる。そして彼女は孫を抱えるハルモ二―になっている。人生夢まぼろしの如く也、とはまさに至言。

 Kさんとは初対面かと思っていたが、南那須特講で一緒だったという。参加者が多かったので、全く覚えていなかった。

 しばらく皆で歓談、楽しいひとときであった。

 

〈4月24日〉

 体調変化なし。

 今日はまったくすることがなく、やむなく下の売店まで降りて、内田康夫の『死者の木霊』を買ってきた。いざ読もうと思ったら、Kさんから借りた『それでもがん検診を受けますか』という近藤誠の本を読んでいなかったことを思い出し、こちらの方から読むことにした。

 近藤さんは、がん検診は百害あって一利なしという説で、検診はもちろんその治療の多くにも反対している。特に胃の切除や乳房切除など、人体の一部を傷つけ、切り取る手術に異を唱えている。説の真偽はわからないけれども、一理はあるように思われる。

 夜、E夫妻が来てくれた。胃瘻手術を受けると聞いて、やや血相を変えた面持ちで忠告に来てくれたのだ。しかしこれは、意識がはっきりしたままで食が摂れなくなったさいの予防措置で、それを使うか使わぬかはこちらの意思次第である旨を説明、納得してもらった。忙しい仕事のさ中、こちらの身を心配して飛んできてくれる気持ちは、本当にありがたいと思った。

  娘からの電話で、明日の手術に要する時間はどれくらいか、と何回も聞いてくる。

「胃カメラの挿入時間が大体30分ぐらいとのことだから、前後1時間ぐらいだろう」と言ったら、「それはお父さんの考えで、医者に正確に聞いてくれ」と何回も言う。

「そんなこと、わかるもんか。手術というものはやってみなければわからない。機械のように正確な時間などわかるものか」と言ったら、プンプン怒っていた。どうにも女の子の言うことは理解できない。

 

〈4月25日〉

 体調異常なし。

 10時半、いよいよ手術の呼び出しがかかった。胃カメラ挿入、すぐ睡眠剤と部分麻酔の注入があり、手術中の痛みはそれほど大きくなかった。時間にして1時間弱、ベッドのまま病室に移動した。

 薬が切れるにつれて、下腹部の違和感と痛みが訪れる。トイレの度に起き上がり、また横になるのが一苦労。

 痛みを忘れるために、内田康夫の推理小説で気をまぎらわす。

 娘と妻は手術中に来て、術後の様子を見てすぐ帰った。

 〈4月26日〉

 痛みは薄らいだが、まだ起き上がるときは苦しい。また笑ったりすると腹にひびく。

 今日は造影剤による検査が予定されており、ここで異常がなければ食事を再開するとのこと。しかし、造影剤投与後の下痢や、食事再開後のトイレのことを考えると、下腹に力の入らぬ状態で大丈夫だろうか、とちょっと不安になる。

 

〈4月27日〉

 体調特に変化はないが、痛みはまだ残っている。

 今日から食事再開とのこと。しかし、入院も今日で100日、少し入院慣れしたものか、精神的にたるみが出ている感じがする。いま考えることを考えておかないと、と気を引き締める。なにしろ、自分に残された時間は少ないのだから。

 岩田医師の診断で、問題がなければ来週月曜に抜糸、退院とのこと。そのあと、内科の森田医師の診察もあり、同じ結論であった。ようやく病院ともおさらばできそうだ。

  前に私意尊重公意行を考えたところで、私意の尊重がないところに公意は成り立たない、と書いた。しかし、私意が尊重されるためには、私意というものがはっきりと成立していなければならない。当りまえの話ではあるが、いつ、どこでも、自分の意思・感情・欲求等を自由に表明できるかと言えば、事はそう簡単なことではない。村の歴史、自分の来し方を振り返ると、特にそう思うのである。

「こんなことを言ってはまずいのではないか」

「流れに逆らうようだから出さんとこう」等々。

 こういう自己規制のようなものが働いて、自分の意見を出さないことがずいぶんあった。これは私だけでなく、多くの村人の心理を捉えていたように思う。だから、どの研鑽会もいわゆる公式発言が多く、中身の乏しい面白くないものになっていたのではないか。

 これは一人ひとりの問題でもあるが、根本は自己規制を促すような村の気風の問題である。調正所を中心とする指導部門が、テーマを通じて「これが正しい考え方だ」と方向づけると、どうしてもそれに沿って考えようとし、本心とは別の意見を出すことになる。個の自立が妨げられ、それをまた一体と勘違いしていた。しかし、個の自立がないところに同化はあっても一体はない。つまり、個のないところに私意は存在しないし、したがって公意も成立しない。私意尊重公意行も成り立たない。 

 

〈4月28日〉

 体調変わらず、痛みは少しずつ減少してきた。 

 ヤマギシの中で私意の表明を妨げていた言葉に「ひっかかり」と「我執」がある。

 まず「ひっかかり」であるが、自分の中に何か納得できないことや疑問などが生じて、それが解消されない状態、それが「ひっかかり」であろう。これは誰にでも起こりうることで、それが物事を考える出発点になる。しかし村では、ひっかかることはこだわることであり、良くないこととされてきた。こうした先入観の下では、自分の思い悩むことなどはとうてい出すことができない。それは解消されずに個人の内部に蓄積されることになる。そして、ひっかかったり、こだわったりすることは、我執として否定されてきた。そうなると、自分が一番思い悩み、考え、解決したい問題が、闇に葬り去られることになる。本当はそのひっかかりこそが、研鑽さるべき最大のテーマの筈なのだが……。

 2000年問題以降、ずっと悩み、考え続けてきて、ようやく悩み、ひっかることこそが、自分が真正面から取り組むべきテーマなのだと気づくようになった。これを研鑽態度の問題や我執外しといったことに解消することはできない。それは、研鑽のないごまかしの世界に人を導くことになる。なぜならそれは、ひっかかっているという自分の事実・実態を認めないからであり、事実・実態を認めないところに真実はないからである。

  

〈4月29日〉

 久しぶりの晴天、痛みは大分少なくなってきた。 

 村で暮らして、周囲はみな善人ばかりである。悪質な人、たちの悪い人はほとんど見かけない。鍵のない暮らしができる村など、日本中どこを探してもここ以外にはないだろう。しかし、善人がいつでも良いとは限らない。善人集団が、ある時にはひどく残酷な仕打ちもしかねないのである。例えば昔、こんなことがあった。

 ある実顕地の楽園村で、海岸を散歩中の子どもが一人、大波にさらわれた。それを助けようとしてスタッフの一人が海に飛び込んだが、彼も溺れて死んだ。そのことが話題になったとき、ある人が「スタッフが一緒に死んだので、一方的に非難されずにすんだ」と言った。村人の一人が一緒に死ぬことで言い訳がたった、というのであろう。みんな黙っていた。私も黙っていた。

 しかし、いま考えると、この沈黙は何だったのだろう。内心忸怩たるものを持ちながら、子どもと一緒に死んだ一人の村人を、助かった、良かったと寿ぎ祝っていたのではないか。この事件は何十年たった今でも、時々思い出す。そしてその都度冷や汗をかく。それと似たようなことは幾つもあるが、今はそれを書く気になれない。

 善人は時に残酷になる、このことだけは肝に銘じておきたい。

  

〈4月30日〉

 体調変わらず、痛みは毎日少しずつ減っている。

 10時半、息子来る。少し突っ込んだ話ができたように思う。今が一番苦しい時期だと思うが、とにかくそれを自分の力で乗り越える以外にない。私ががんという死病を抱え、それを自分が引き受けざるを得ないように、誰でも自分の身に生じた問題は自分が引き受ける以外にない。人生に代役はいない。 

 村で暮らしていて不思議に思うのは、みんながあまり本を読まないことだ。読んでいる人はごく少ないし、それも娯楽的なものが多い。新聞も、スポーツ紙かスポーツ欄以外はあまり読んでいるように見えない。

 自分や自分たちの知見の範囲は至極限られたものであり、その知見だけを基にして生き方を見極めることは困難である。山岸さんは趣旨の中で「全世界の頭脳・技術を集合する研究機会を設け」と謳っているが、この40年間ついにそのような研究機会が設けられることはなかった。本がすべてである筈はないが、研究の一つの手段たりうることは否定できないだろう。それも知識の向上といった教養主義的なものではなく、自分と向き合い世界への通路を切り開くための読書である。

 中島京子の芥川賞小説に『小さいおうち』がある。昭和初期から敗戦までの庶民の暮らしを描いたものであるが、中流階層の何不自由もない平穏な暮らしが、いつの間にか戦争の荒波に巻き込まれてゆく過程を描いている。私も昭和一ケタ世代として、その感じがすごくよくわかる。年表を見れば、金融恐慌、満州事変、5・15事件、2・26事件、蘆溝橋事変(日中戦争)と血なまぐさい事件が続いているが、庶民の暮らしはと言えば、私の子供心には至って平穏無事だった印象がある。自分たちの狭い範囲の幸福に自足していた庶民が、気が付いたら戦乱と死に追いやられていたのである。今それと同じような歴史が繰り返されようとしている。気が付いた時はもう取り返しがつかない。もっと目を見開いていたいものだ。

 

〈5月1日〉

「5月1日 われらの日なり」と啄木はうたったが、もうそんなことを思い出す人もいなくなった。 

 体調良好、痛みはかすかなものとなった。 

 下のコンビニで内田康夫の『三州吉良殺人事件』を買い、読んでみた。彼の小説は入院以来4冊目になる。しかし、あまりにお手軽なのでびっくりしてしまった。文章もお手軽なら筋立てもお手軽で、最初から犯人が見えている。第一作の『死者の木霊』を引っさげ、新進気鋭のミステリー作家として登場した人気作家も、この66冊目となるとすっかりマンネリ化して、いかにもお手軽なお茶の間作家に堕してしまった。

 消費社会というものは、誰の才能をも消費・浪費して、人気というバブルの海に溺れさせてしまうのだろう。そして若い人たちには、本の代わりにゲームを与え、バーチャルの世界の中にその能力や可能性を投げ込み、現実を見る目を奪い去ろうとしている。私たちは、こんな恐るべき社会に生きているのだ。 

 

〈5月2日〉

 昨日は少し具合が悪かったが、今朝は良好。

 午前7時半、岩田医師来診、血液検査は異常なしとのこと。すぐ抜糸、それほど痛くはなかった。次の来院は5月17日とのこと、時間未定。

 今日で入院ちょうど3か月半、105日ぶりの退院である。退院後はしばらく忙しい。パソコンのメール整理や知人への挨拶、それに入院中のノート整理等々。散歩などでの足腰の鍛え直しもある。まあ楽しみながらやってゆこう。 

 先日の新聞で知ったのだが、晩年の鶴見和子さんの短歌にこうあった。

  萎えたるは 萎えたるままに美しく 歩み納めん この花道を

 社会学者・歌人として華々しい活躍をされた鶴見和子さんと違って、私には「この花道を」と言えるものはないが、「この細道を」ぐらいは言えるかもしれない。

◎吉田光男『わくらばの記』(7)

わくらばの記  病症妄語⑥

〈4月1日〉

 窓の外に遠方の桜が花開いてきた。まだ6~7分咲きで、満開までにはもう4,5日かかりそうだ。

 夜中、咳はまだ少し出るが、体調はいい。 

『カラマーゾフの兄弟』ようやく読み終える。もう3回も読んでいるが、その都度考えさせられる。また引きつけられるところも違うので、面白い。

 やはり一番の問題は、ドストエフスキーの提出した大テーマ「神は存在するか。不死は存在するか」「もし神も不死も存在しないとすれば、人間は何をしても許されるのか」という問題である。そして聖書の中でキリストが悪魔の誘惑を拒否して「人はパンのみに生くるに非ず」と答えたことから「天上のパンか地上のパンか」という問いを、この小説は改めて問い直した。

 キリスト教という一神教を信じない私たち日本人にとって、このへんは頭での理解を超えることは難しい。しかし、唯一絶対神を信ずることのない私たちにしても、「何をしても許される」、つまり殺人、強盗、放火などの犯罪を犯しても許されるとは思っていない。では、私たち日本人は絶対神によらずして、何を歯止めとして持っているのだろうか。神道、仏教等の多神教の要素のほかに、日本列島の風土に養われた道徳、道義上の何らかの歯止めが用意されていたはずである。

 しかし、「地上のパン」つまり物質的繁栄のみを追求する今の社会状況の下では、その道徳、道義上の歯止めさえ怪しくなりつつある。戦争や武力による覇権を肯定する考え方が、安倍政権の下で醸成されつつある。今こそ「天上のパン」に代わる「地上の新しい理想」が求められているのだと思う。

  

〈4月2日〉

「科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大な迂愚者(おろかもの)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である」 ――寺田寅彦『科学者と頭』―― 

 体調は良好、熱も平熱がつづいており、咳も夜中に少々だけ。

 『カラマーゾフ』について考え続ける前に、現在の宗教事情について論じた仏人類学者のエマニエル・トッド氏の注目すべき見解の幾つかを書き写してみる。(朝日新聞2月11日付けインタビュー「展望なき世界」より)

「イスラム国(IS)もイスラムではありません。彼らはニヒリスト。あらゆる価値の否定、死の美化、破壊の意志……。宗教的な信仰が解体する中で起きているニヒリズムの現象です」

「イラクのフセイン政権はひどい独裁でしたが、同時にそんな地域での国家建設の始まりでもあった。それをブッシュ政権は、国家秩序に敵対的な新自由主義思想を掲げ……戦争を始めて破壊したのです」

「中東でこれほどまずいやり方はありません。今、われわれがISを通じて目撃している問題は、国家の登場ではなく国家の解体なのです」

「パリでテロを起こし、聖戦参加のために中東に旅立つ若者は、イスラム系だが、生まれも育ちもフランスなど欧州。……あの若者たちは欧米人なのです」

「(パリの)デモに繰り出した人の割合が高かったのは、パリ周辺よりもむしろかつてカトリックの影響が強く、今はその信仰が衰退している地方。それは第二次大戦中のビシー対独協力政権を支持した地域、階層でもある」

「今後の30年で地球に何が起きるか……まず頭に浮かぶのは信仰システムの崩壊です」

「(それは)宗教的信仰だけではない。もっと広い意味で、イデオロギー、あるいは未来への夢も含みます。人々がみんなで信じていて、各人の存在にも意味を与える、そんな展望が社会になくなったのです」

「そのあげく先進国で支配的になったのは経済的合理性。利益率でものを考えるような世界です」

「(それは)信仰としては最後のものでしょう。それ自体すでに反共同体的な信仰ですが。経済は手段の合理性をもたらしても、何がよい生き方かを定義しません」

「世界各地で中間層が苦しみ、解体されていますが、フランスは違う。中間層の代わりに社会の底辺がじわじわと崩れています」

「そこを見ないで悪魔は外にいることにする。……『砂漠に野蛮人がいる。脅威だ。だから空爆する』 恐るべき発想。ただそうすれば、仏社会内の危機を考えなくてすみます」

「先進国の社会で広がっているのは不平等、分断という力学。(日本は)移民がいなくても、教育などの不平等が同じような状況を生み出しうる」

「この段階で取り組まなければならないのは、虚偽からの脱却です。お互いにうそをつく人々、自分が何をしようとしているかについてうそをつく社会。自分が依然として自由、平等、友愛の国という社会。知的な危機です」

 

〈4月3日〉

 体調変化なし。ただ、お茶を飲むと、食道に多少の違和感というか、つかえる感じがする。もしかすると、これはもう無くならないのかもしれない。いずれにせよ明日の検査ではっきりするだろう。 

 さて、昨日のトッド氏の論評である。彼はISはイスラムではなく、ニヒリストだと言い、宗教の解体の産物だと分析する。また反イスラムデモに繰り出すフランスの市民の多くは、かつてカソリックが強く今はそれが弱まった地域の住民が大部分を占めているという。つまり、イスラム、反イスラム双方とも、その運動が宗教の解体の結果引き起こされた現象と見ている。

 しかし、本当にそう言い切ってしまっていいのだろうか。そうは言い切れないのではないか。むしろ氏もあとで述べているように、天上の理想の喪失ではなく、差別や貧困による地上の理想の喪失の結果ではないだろうか。そしてその理想の喪失は、経済、職業、教育等の格差によってもたらされたものである。これは天上の理想、つまり信仰の強弱に関係ないのではないだろうか。

 では、この格差を解消する道筋はあるのだろうか。恐らく不可能ではないかと思われる。いまのグローバル化された自由主義経済の広がりは、一部の人間だけが富の大部分を占有する自由と、他の大部分の貧困化への自由をもたらす以外になくなっている。もう行き着くところまで行かない限り止めようがない。ということは、世界中から紛争を無くすことはできないだろうということである。

 僅かな可能性があるとすれば、小グループの共同体が各地各方面にできて、それぞれが連携しながら、あるいは認め合いながら、自衛してゆく以外にないのではないだろうか。ヤマギシもその一つとして、未来への小さな可能性を切り開いてゆけたらと思う。

  窓から見える桜、満開のようだ。内部の桜まつり、せめて午前中だけでも雨にならなければいいのだが。

 

〈4月4日〉

  体調変化なし。

 中島岳志・島薗進両氏の対談『愛国と信仰の構造』を読む。非常に学ぶところが多かった。日本の近代史上の出来事については、大筋は知ってはいるが、その背景をなす宗教の流れについてはあまりよくわからず、特に真宗が国家神道に溶け込んでいった事実や思想的背景については全く知らなかった。親鸞の絶対他力の思想、つまり自らのはからいを捨てて弥陀の本願にゆだねる思想が、天皇への絶対帰依に転化してしまい、これが天皇機関説排撃への理論的支柱になったことなど想像だにできなかった。しかも、あの悪名高い蓑田胸喜が真宗の信者であったとは!!

 それにしても、この本から考えるべきことは非常に多い。当分手放せない。 

 レントゲン検査、やはり通りにくい部分あり。

 

〈4月5日〉

 体調変わらず、というか良好。たった一本ながら150ccのジュースをおいしく飲む。 

 1900年代の末であったか、社会博の一環として豊里で「宗教に非ず」の講演会を開いたことがあった。確かHさんが講師であったと思うが、これについてキリスト教者からはだいぶ反発があり、知人の朝日新聞・井川記者からも批判があった。その後、同名の本が、ヤマギシズム出版社から公刊された。

 いま考えると、私にも村人全般にも、宗教に対する誤解がだいぶあったように思う。「宗教に非ず」は要するに「ヤマギシズムは宗教ではない」というだけにすぎないが、これを宗教はいけないもの、だめなもの、と宗教そのものの存在を否定する意味でとらえていたのである。

 山岸さん自身は、特定の宗教や教義自体を否定してはいない。ただそれを信じ込んで身動きのできない状態になることは、零位に立つことを妨げ、研鑽不能の状態に陥るために、そのことを否定したのである。しかしまあ、このへんは微妙なところで、信ずることを否定しながら宗教を肯定できるか、と反論されればちょっと言葉に詰まってしまうが。ただ、こうは言うことができる。私自身は宗教を信じない、しかし世に宗教が存在することは否定しないし、しようとも思わない、と。

 信じない生き方ということは、宗教に限らず、マルキシズムでもヤマギシズムでも同じである。決めて動かせない思考様式を、山岸さんは宗教、あるいは信仰と言ったのである。それは、例えば吉本隆明氏であろうと、鶴見俊輔氏であろうと、はたまた山岸巳代蔵氏であろうと、同じである。その言うことすべてを批判的検討(研鑽)なしに信じ込む態度を宗教という言葉で言い表したのである。しかし、実際には、山岸さんや自分の好きな思想家については、どこか信じようとする気分が働いていることを認めざるを得ない。 

  また点滴のハリが詰まり、刺し直すことになったが、担当看護師は2回も3回もやり直す。痛いし、血は出るし、この人はサディストではないかと思えた。よし、それならこちらは痛さを楽しむマゾヒストになってやるぞ、と決意したが、やはり自分には無理のようだった。それで「次は一発で決めてや」と言ったら、「ちょっと待って」とベテラン看護師を呼んできた。すると、上膊部静脈に一発で決まった。しかも痛くない。経験値の違いに驚いた。

 

〈4月6日〉

 体調、変化なし。 

 村上春樹の『ウィーンの森』は既に読んだはずだと思っていたが、内容を全く覚えていない。そこで娘に頼んで本棚から持ってきてもらって読んでみたら、全く読んでいないことが分かった。買ったまましまい込んで、読んだつもりになっていたのだからあきれる。老化現象も極まれりといったところだ。しかし、村上春樹の文章はうまい。流れるようで、とどまるところがない。

 中島岳志氏は、自らの保守宣言について、「保守は過去にも未来にもユートピアを求めない」と述べ、その理由として「絶対に人間は誤るものである」、そして「人間が普遍的に不完全なものである以上、人間の作るものは不完全である」と語っている。

 これは吉本隆明氏の「反原発批判」に対する批判として語ったものであるが、ちょうど私自身が「人間は誤るところの動物である」という結論に達していたところなので、大変共感を覚えた。ここから導き出されるのは、人間が誤り多い動物である以上、人間のつくりだす集団自体も、誤り多い存在であるということだ。

 かつて私たちはよく「真理」を口にし、「真理にそって」などと言っていたが、自分たちの行為が真理にそっているかどうか、誰が検証し誰が保証するのか、みんな自分たちがそう思い込んでいたにすぎなかったのではないか。

 もしも人間が誤り多い動物であり、その集団も当然誤りやすいものであることを自覚していたならば、すべてにもっと謙虚になれたはずである。誤りや失敗は何ら恥ずべきことではなく、それを素直に認めないことこそが恥ずべきことなのだと知っているからである。そして他からの批判に対しても、謙虚に耳を傾けることができる。このような集団こそ、今の世に求められる最も魅力的な集団であるだろう。

 

〈4月7日〉

 病室の窓の外を小学生が通る。子どもたちが団地から次々と吐き出され、傘をさしながら二列縦隊で通り過ぎる。遠くからではあるが、子どもたちが元気に歩くのを眺めるのはいいものだ。昨日が始業式だったようで、今日から新学期の学校生活が始まるのだろう。

  新年度といえば、NHKの番組構成もスタッフも大幅に入れ替わり、中身はますますつまらなくなった。ニュースさえ面白くない。政治が右寄りになればなるほど、中道を標榜するマスコミも、雪崩を打って右寄りになってゆく。だんだん昭和初期の暗い時代に似通っていくようだ。

 中島岳志氏の本を読んで――

 もし”真理”を山の頂上に例えるなら、頂上への道は一本しかない、とするのが一神教であり、頂上への道は多数あり、どれを上ってもよいとするのが多神教であろう。中島氏は島薗進氏との対談の中で、多神教を「多一論」と名づけ、一神教の「単一論」と対比している。

 中島氏によれば、ガンジーも、鈴木大拙も、西田幾多郎もこの多一論で、「一なるもの」は言語化できないとしている。つまり、それが真理である以上、人間の相対的言語によっては表現できず、人間は真理の影しかとらえられない、という。そして、民芸の創設者である柳宗悦は、「世界は多元的であるがゆえに、複合的な美を内包している」と語って、朝鮮の独立を支持したり、その陶芸を愛し世に広めた。

 こうした「多一論」の帰結は、絶対的なもの、例えば完全無欠な幸福社会としてのユートピアはありえず、人間に可能な社会は「より良くより正しい」ものを求め続ける「永遠の微調整」だけ、ということになる。

 今日は胃カメラ検査あり。非常に苦しかったが、明日から食事可能との診断が下された。

 

〈4月8日〉

 体調良好。特に記すことなし。 

 カントは読んでいないが、中島氏によれば、その絶対平和の理念は「統制的理念」と「構成的理念」とから成り立っているという。「統制的理念」とは絶対平和のような「人間にとって実現不可能な高次の理念」で、「構成的理念」というのは、「政治的に実現可能なレベルの理念」だそうだ。

 そういえば、ドストエフスキーも「キリストの絶対愛の理念は地上の人間には実現不可能なものだが、この理想なしには地上は獣の住家になってしまう」と『作家の日記』に書いている。

 同じように私たちも、地上天国としてのユートピアを描くとしても、現実にはより良くより正しくを目指して、微調整しながら歩み続けるしかないのかもしれない。

  朝食の流動食、何かと思えば、具なしのみそ汁にゼリー一個、後から豆乳一箱。こんなものしか食えぬとあれば、当分病院を抜け出せそうにない。

 

〈4月9日〉

 体調、変化なし。

 昨日の流動食―― 

  朝 具なしみそ汁、ゼリー、2時間後豆乳。

  昼 ポタージュ、ゼリー、後から栄養ジュース。

  夕 豆腐少々、ジュース. 

 一昨日、E夫妻が来て、屋久島への旅の感想を話し、そのさい山下大明氏の屋久島の写真集『樹よ』を贈ってくれた。

 この写真集は見事なものだ。樹の一本一本が、あるいはその集合としての森全体が、生命のあり様を語りかけてくる感じがする。生命というものが、その中に死を含んでいるからこそ荘厳で美しい、ということがよくわかる。

 この本に解説を寄せた山尾三省氏は、「この写真集は山下さんの自画像である」と書いている。

 かつて私は、今西錦二氏の『生物の世界』を読んだとき、氏が「これは私の自画像である」と書いているのに驚いたことがある。戦時下、28歳で徴兵に服するさい、それまでの研究成果である”棲み分け”論を遺書代わりに書いたのがこの本であるが、ここには単なる観察記録ではない今西さんの心に映った見えざる自然のあり様と仕組みが映し出されている。しかもこれは、ダーウィンの競争と淘汰と適応を主軸とする進化論に拮抗する新しい生物理論として提起された。まさに”自画像”というべきものであった。

 同じように、昭和18年に出版された武田泰淳氏の『司馬遷――史記の世界』も、自画像だなあという感じの強くする著作である。中国大陸における2年間の軍務生活の中で氏に何があったのか、その心にどんな変化が生じたのかはわからないが、この本はこういう書き出しで始まる。

「司馬遷は生き恥をさらした男である。士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った。口惜しい、……腐刑と言い、宮刑と言う、耳にするだにけがわらしい、……日中夜中身にしみるやるせなさを、噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く『史記』を書いていた」

 何か身につまされるような書き出しである。昭和18年、31歳でこの本を出版した後、氏は再び上海に渡っている。竹内好氏はこの本の解説で「彼は見かけ以上に、他人に託して自己を語ることにすぐれた才能の持主である」と書いている。

 いずれにせよ、それがどんなにつらいものであったにせよ、自画像の描かれていない作品、書き手の心が映し出されていない論文などは、砂を噛むような味気ない思いしか残らない。 

 窓の外に見える桜は、すっかり色あせてしまった。もうすぐ葉桜の季節に入る。果樹園の柿も、新葉を伸ばす時期だ。今年はその世話ができるかどうか。

 

〈4月10日〉

 体調変わらず。しかし、昨夜は隣のベッドからの鼾に悩まされた。

 2000年以降のさまざまな出来事を振り返り、自分自身を省みる上で、何よりも大きかったのは『山岸巳代蔵全集』の編集にかかわることができたことであった。もちろん、山岸さんの真意を理解できたとは思えないが、言葉の端々から、実顕地のあり方や自分の思考の誤りに気づくきっかけを与えてくれた。硬直した考え方を見直す大きな契機となった。

 しかしまた、どうしても理解できないことや納得できない論説もある。これまでは、山岸さんの言うことに疑問が生じても、口に出して言うことができなかった。しかし、疑問を疑問として提起できないような態度からは、真の研鑽態度は生まれないと考えられるようになった。なぜならそれは、山岸さんを一種の教祖に祭り上げることになってしまうからである。

 山岸さん自身が、次のように書いて盲信を戒めている。

「特別人間や、神や、仏は仲間入りして居りませんから、或る人を盲信し、屈従迎合しない事で……」

「私を神仏化したり、絶対者扱いをする変り者や、中心指導者と思い違いしている言葉をよく聞きますが、これは大変な誤りで、このような間違った観点に立って事を進めると、偏った方向へ進み、宗教的になったり、独裁者が出来たり、分裂したりして、いつかは壊滅します」(『ヤマギシズム社会の実態』)

 そのことに関連して、長く記憶に残っていることがある。それは、高等部が発足した1986年かその翌年のことだったと思うが、高等部生に対するテーマとして「Sさんが『これが本当のことだよ』と言ったら、それは本当のことだろうか」という言葉が投げかけられた。

 当時Sさんは養牛部のリーダーとして学園生の受け入れにあたったり、実学の講師として教育面の指導にもあたっていた。このテーマが出された本当の理由はわからないが、やや独善的と批判のあったSさんに対する内々の批判的意図が含まれていたように思われる。しかし、しばらくして、このテーマが取り上げられることはなくなり、いつの間にか立ち消えになってしまった。

 私自身は、面白いテーマだとして記憶に残ったのだが、その時はあまり深く考えることがなかった。しかし、今思えばこれは大変重要なテーマだったと思う。「Sさんが『これは本当のことだよ』あるいは『これは真理だよ』と言ったこと」というテーマの「Sさん」を、他の「Aさん」「Bさん」に置き換えてみたらどうだろうか。誰の言うことだろうと、その人の言う「本当」が本当かどうかはわからないことなのである。実顕地内のどんな指導的立場にある人だろうと、あるいは山岸さん本人であろうと、あるいはまた歴史上の宗教上、思想上の偉大とされる人物であろうと、その言説が真理かどうかはわからないことであり、それだからこそすべての言葉を信ずることなく謙虚に耳を傾け、研鑽しなければならないのである。学園生のテーマは、そこにつらなる大事なテーマであった。しかし、少しも深めることなく、いつの間にか消え去ってしまった。

 このテーマがなぜすぐに消えてしまったのか。なぜ学園生のテーマから村人全体のテーマにならなかったのか。もしこのテーマが、特定の個人の影響力を排除するためにのみ使われたのであれば、あまりにも姑息と言わねばならない。真相はわからないが、このあたりに当時の村の実態が示されているように思われる。

 

〈4月11日〉

 体調、特に変化なし。 

『ヤマギシズム社会の実態』を読んでいて、最近一番疑問に思うのは「人間の知能」のところである。山岸さんは、人間の知能に全幅の信頼を置いているように感じられる。

「私は人間の持つ知能は、必ずやこれ位の事(人間社会に紛争が断たれず、不幸から脱却出来ない事)は容易に解決し得るものであることを、堅く信ずるものであります」

 そして、こう結論する。

「人間を幸せにするものは人間であり、その知能であることに間違いなしと断定しております」

「他の何物も真似られない優秀な知能を持っている人間が、人間自身の不幸を無くすることの出来なかった原因は、知能の用い方が間違っていたからです」

 私が生れてから今年で84年、第二次大戦後からも71年、その間人間の知能が少しは進んだかと言えば、決してそうは言えない。あるいはもっと古く歴史上の何百年か前と比べてみても、人間の知能が深まったとは言えないだろう。その原因が「知能の用い方が間違っていたから」と済ますことができるだろうか。「知能」と「知能の用い方」を二つに分けているけれども「用い方」も知能の一部なのではないだろうか。

 ところで、「人間の知能」という場合の「知能」とは何だろう? 知識のことなのか、あるいは知識を現実に働かせるテクノロジーを指すのだろうか。あるいは、もっと根源的な人間の心の働きのことなのだろうか。恐らく最後の心の面を指して「知能の用い方」と言ったのではないかと思うが、心の問題こそ、人間にとって一番厄介な、解決困難な問題である。

 前にも書いたことだが、知識やテクノロジーは論理や数式として幾らでも個人の外部に蓄積可能であり、他への引き継ぎが可能なのに対して、心は一人ひとりの個人の内面にしか存在しえず、人から人へ直接引き継ぐことはできない。知識・テクノロジーがジェット機での移動なら、心は自らの足でテクテクと移動するアリの歩みのようなものである。この両者のギャップはますます拡大するばかりだ。

 何人かの友人にこの話をしたことがあるが、みんな「知能の用い方の問題だ」と言うばかりで、「では、いつどのようにして用い方が改まるのか」ということには、明確な答えがなかった。特講などの講習がその答えの中身なのだろうが、特講を受けたはずの自分たちの知能の使い方が、満足できるほどのものかと問われれば、まことに心もとない。

「人間の知能」のところは、単に「使い方の問題」として、その解決策は特講だと、簡単に割り切ってそれでお終いにするのではなく、もっと真剣に考え直す必要があるように思う。

『広辞苑』から――

〈知能〉

 ①知識と才能

 ②知性の程度、環境に対する適応能力

〈知性〉

 頭脳の知的な働き、知覚をもととして、それを認識にまでつくりあげる精神的機能

〈知識〉

 ①ある事項について知っていること。またその内容

 ②物事の正邪などを判断する心の働き

 

〈4月12日〉

 昨日の昼から三分粥とペースト状の副食三品という食事になった。最初はすぐ腹が膨れ、三分の一は残したが、夜は何とか全部食べられ、今朝はわりと楽に全部食べられた。しかし、この食事は楽しいというより、義務感による仕事のようなものだ。一刻も早く点滴を外し、退院にこぎつけるためには、食事が欠かすことのできない労働の一つになった感じである。 

 私が特講受講時から心にひっかりを感じていたのは、「人種改良と体質改造」に関する山岸さんの主張である。『ヤマギシズム社会の実態』には、次のように書かれている。

「人間という生物は案外迂闊なもので、他の動植物に対しては、随分思い切った改良を加え、新しい優秀な品種を作出し、その特徴を高揚して来たにかかわらず、肝腎の人間自身の問題には頗る狭い考え方で、……因習・道徳・宗教観に捉われ、……劣悪体質・低知能に、自他共に苦しみ、進化向上の跡見るべきものがありません」

 そこからの帰結として、人類中の優れた遺伝因子の組み合わせにより「百万人のエジソン、千万人のシャカ、キリスト、カント、マルクスに優る人を」生み出すことを提案している。

 私はこの40年間、何回も青本を読み返すことはあったが、この部分だけには目を閉ざしてきた。口にも出さなかった。出せなかったのである。

 しかし、最近の人工知能の研究者たちの間で、遺伝子操作による体質改造やナノテクノロジーを用いた人体改造がテーマになってくると、これは大変なことだと思わざるを得なくなってきた。『シンギュラリティーは近い』を書いたレイ・カーツワイルによれば、「2030年代までには、人間は生物よりも非生物に近いものになる。……2040年代までに非生物的知能はわれわれの生物的知能に比べて数十億倍、有能になっているだろう」と書き、

「われわれはサイボーグになっていく」と言っている。そして、「魂の不死」ではなく、「肉体の不死」がやがて訪れるだろうと予言する。

 何か恐ろしい時代がやってくる感じがする。こんなことがそう簡単に実現するとは思えないが、一部先端技術の研究がこのような方向に向かっていることは間違いないように思われる。こうした時代の空気に触れると、今一度山岸さんの説に研鑽の光を当てる必要がありはしないかと思うのである。

 昔何かで読んだ話だが、イギリスのある批評家(名前を忘れた)に有名な肉体女優がささやきかけた。

「先生のその優れた頭脳と、私のこの素晴らしい肉体が合わさったら、どんなにすばらしい子どもができるでしょう」

 するとその批評家はこう答えた。

「君のその貧しい頭脳と私のこの貧弱な肉体が合わさったら、どんな子どもが生まれると思う?」

 「世界で一番貧しい大統領」として有名な南米ウルグァイのホセ・ムヒカ前大統領が来日した。氏は、記者会見でこう語った、と7日付の「中日」は報じている。

「いまだ人類は先史時代を生きている。戦争を放棄する時が来たら、初めてそこから脱却できる」

「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に多くを必要とし、もっともっと欲しがることです」

「質素な生活は自分のやりたいことをする時間が増える。それが自由だ」

 

〈4月13日〉

 体調は良好。早く普通食に移れるといいのだが、医師の話ではそれは難しそうだとのこと。そして、万が一むせることがあると肺炎をおこす可能性があり、その予防措置として胃瘻の手術をしておいたらどうか、と提案された。しかし、胃に穴を開ける手術は気が進まない。そんなにしてまで長く生きる価値があるのかどうか。まあしばらくは見合わせることにする。 

 青本を読んでいて、もう一つ心にかかることがある。それは山岸さんが、ヤマギシズム社会の実現をすぐにでも実現できると考えていたのではないか、と考えられることである。「受講者一粒万倍運動の展開」には、特講受講者を3年以内に世界中の全人類にまで拡大すると書かれている。そこから、世界急進Z革命という構想も生まれた。1958(昭和33)年に春日山に100万羽科学養鶏KKとして一体生活が始まると、その翌年にはこの急革運動は山岸会事件を引き起こすことになる。

 急革という考え方はその後も引き継がれていった。61年に実顕地構想が打ち出され「現状そのままでの社会変革」が叫ばれると、全国各地に近隣の会員同士による実顕地が作られていった。しかし、長続きすることはなかった。70年代の”泡沫コミューン”と同じように、いつの間にか消え去ってしまったのである。

 急革運動が最も進んだのは、1980年代である。高度成長からバブル崩壊に至る80年代はまた、特講拡大、活用者・生産物拡大、楽園村拡大、学園拡大、参画拡大というヤマギシズム運動の急進革命期でもあった。しかも運動は、日本のみならず韓国、スイス、ブラジル、タイ、オーストラリア、ドイツにまで広がった。しかし、これも長続きはしなかった。

 それが何故なのか、という解明は未だなされていない。このことの究明なしに、次の新しい展開は困難だと思われるのだが、そのあたりの研鑽がなされているようには感じられない。聞こえてくるのは、以前に行われていた運動の延長線上にあるものばかりである。

 私の考えでは、原因は恐らく、人間というものの心の解明の甘さにあったのではないかと思うのだが、今日は疲れた。また別の日に考えることにしよう。

  再度、造影剤によるレントゲン検査。結果は食道の通りがだいぶ良くなったので、点滴を外し毎食栄養ジュースを出すことにする、とのことだった。

 夕方、いよいよ点滴チューブともお別れになった。身動きが何と自由なことか! この分なら退院も近いかもしれない。ただ、医師に「正直なところ、あとどれくらい生きられそうか」と聞いたところ、「いいとこあと2年」という話だった。それはあと1年かもしれないし、3年かもしれない。いずれにせよそう長くはなさそうだ。

 しかし、それは覚悟していたことだ。ただ、残された人生をどう生きるか、それだけが残されたテーマである。

 船戸与一『満州国演義⑥』読了。

 

〈4月14日〉

 胃に僅かな違和感はあるが、ほぼ快調と言える。

 今日、別の医師から話があるようだが、何なのか。多分、退院後のケアのことだと思うが、こちらとして聞いておきたいことは、今後痛みが発生した場合の対処法である。

  話というのは、親族との面会日の打ち合わせで、特別のことはなかったが、しばらくして一度外出してみるかと言われた。そうか、一度内部へ帰ってみるのもいいかもしれない。入院中に移動した新しい部屋も見ておきたいし、パソコンも点検しておきたい。みんなにも会える。

  点滴が外れたので、久しぶりにシャワーを浴びた。頭のてっぺんから足のつま先まで、石鹸で洗い流した。実に気分がいい。日ごろ毎日風呂に入っていた時は、風呂のありがたみなど感じたことはなかったが……。やはり失って初めて見えてくる世界があるのだろう。

◎福井正之『追わずとも牛は往く』刊行のお知らせ

夢太き人と大地と春の空

 福井正之氏の『追わずとも牛は往く』が出版された。

 この小説のエピローグの最後は、次のようになる。

〈「このことは人生についても言えるだろう。死期に近づけば近づくほど人生を右肩上がりに描きたくなる。丈雄ももはや七十半ばである。しかし三度も人生コースを変更してきた自分には、これからの余生に寄りすがれる記憶は何もなかったように思っていたのである。が、まったくそうではなかった。今、その悔恨を別海『睦み』への愛惜によって溶かしながら、希望への、いいかえればわが自己肯定への道に、微かながらに灯りがついたように感じるのである。(完)」〉

 そして、次のように語っている。

「このことが実現できたのも私の長い孤独な学究生活からというより、ブログやFacebookを通しての新旧の友人たちの心からの励ましあってのことでした。私は決して孤独ではなかったのです。最後になりますが、お伝えさせていただきます。」

 

★新刊本「追わずとも牛は往く」概要紹介

大空と大地と牛と 夢太き人々

今からざっと40年前、〝ブラブラ酪農〟の噂を聞いた社会科教師。

何を血迷ったか職をなげうち、一家四人でそこへ飛び込んだ。

ところは北海道別海原野。

おまけにそこは給与も出ない代わりに、仕事に出ることも強いられない。メシだけは普通に食える

――さてどんなことになるやら。 

 

幻視される「金のためには働かない時代」 

 主人公は巨大化したコミューンを離脱して十数年。惜別の思いとともにしきりに想い出されるのは別海の「睦みの里」であった。 
 原野に転住した老いた農民たちが、仕事をしないブラブラ族の若者とともに、小さなコミューンを築いていた。
 厳しい冬、はじけるようにやってくる春、牛たちとの生活。 労働とは? 共同体とは?

 激動する時代の裂け目に、ふと幻視される「金のためには働かない時代」。それを日々体現しながら生きる人々。その群像を描く。

本書の内容 

序章 番外地

第一章 発端

ハンカクサイ教師/雄大の〝越境〟/ブラブラ酪農/『睦み講』/妻

第二章 春遠し

転住第一夜/トレンチサイロ/育児舎/たちまち夜がやってくる/雄大の寝込み

〝襲撃〟/里育ちの娘/春吹雪/お父ちゃんわすれたんやろ/多佳の看病/母親が

迎えに来るまでの時間/睦み会

第三章 夏牛たち

萌え出ずるもの/摩周湖/自動解任/新職場/子どもたちの情景/乳牛との〝格

闘〟/「どれ代わってみろ」/固い焼き肉/広い敷地の長い通路/経営はここだって

生命線/メモ「金のために働かない時代は」/巣穴に籠もるブラブラ蜂へ/働かざる者/

一日の時間の長さ/里の結婚式

第四章 冬子離れ

ゆるぎない弓/里帰り/親しかできないこと

終章 岐路「一国平和主義」のゆらぎ/オニギリかモチか

エピローグ

 ※参照 わが学究 人生と時代の〝機微〟から:★新刊本「追わずとも牛は往く」概要紹介

 

◎吉田光男『わくらばの記』(6)

わくらばの記  病床妄語⑤

〈3月16日〉

 体調はまずまず、特に問題は感じない。

 一昨日、クローズアップ現代でISの女性奴隷市場のことを取り上げていた。実におぞましい現実だ。

 エマニエル・トッド氏は、ISはイスラム教という宗教から生まれたのではなく、宗教の崩壊から派生したニヒリズムの現象だという。確かに、イスラム教には男中心の思想が含まれているかもしれないが、性奴隷を肯定するようなものではないと思われる。

 しかし、この資本主義社会でも、性の売買が当たり前のように行われている。タイなどの後進国では、はるかにひどい児童性虐待が行われているらしい。ヤン・ソギル氏の小説には、そうした現実がかなりどぎつく描かれている。日本でも、70年ほど前には、従軍慰安婦という形の性奴隷が公然と存在していた。

 暴力・貧困・戦争は、性奴隷を必然的に伴うものなのか。これは、人間存在のどこから生じてくるものなのだろうか。

 

〈3月17日〉

 昨日からだいぶ咳が出たが、朝起きてからは治まった。今日は造影剤によるレントゲン検査。

  先日、人工知能とロボットによる近未来というすでに一部現実化している社会状況について、クローズアップ現代で取り上げていた。それに関連して、囲碁の世界でトップクラスの棋士、韓国の李セドルさんがAIのアルファ碁に三タテを喰らわされたという事件があった。四局目でやっと一矢を報いたものの、最終の五局目がどうなるか。結果がどうなるにせよ、これに関しては人間の知能の敗北を認めざるをえない。

 このアルファ碁は、従来のコンピュータの方式と違って、19路×19路の全局面を計算するのではなく、「深層学習」と「強化学習」という二つの手法で盤面のパターン認識と分類を行い、勝つ確率の高い手筋を記憶するという新たな方法を用いているという。しかもその深層学習たるや、一人の一流棋士が200年かかっても打ち切れない対局数を一瞬のうちにこなし、記憶するという優れたものらしい。何か末恐ろしいことが始まりつつあるのを感ずる。

 このような人工知能とロボットの組み合わせによって、生産も流通も将来人手を必要としなくなり、大量の失業が生じるかもしれない、とクローズアップ現代は報じていた。こうした技術革新の中で、スウェーデンでは勤務時間を8時間から6時間に短縮して給与は据え置くという、実質賃金の引き上げに踏み切ったという。またスイスでは、働いても働かなくとも一人月30万円を支給する制度を導入するかどうかをめぐって、5月の議会で審議されるという。

 こうしたことが現実化したとき、今の資本主義のシステムは大きく変わらざるを得なくなるかもしれない。問題はこれが人類の繁栄のために利用されるのか、或いは一部支配者の利益のためにのみ利用されるのかということである。

 またそれと関連して、いわゆる労働が不要になったとき、人間は何を生きがいとして生きるのか、という問題が生じる。これは、定年退職・余暇・老後、あるいは病床で、働く必要がなくなったり働けなくなったときに、人が何を生きがいとし、どんな目標をもって生きてゆこうとしているかが問われる現実の問題でもある。

  以上を書きつけたあと、検査の造影剤のせいかどうか、体の震えがとまらなくなり、栄養剤を中止してからやっと治まったが、そのあと37・8度の熱がつづいた。

 

〈3月18日〉

 朝起きてからは、体調はいくらか回復し、声の嗄れは治まりつつあるが、まだ咳はつづき、微熱が治まらない。食道のレントゲン検査は少し延期になりそうだ。

  昨日書いた人口知能の話は、近未来の技術の方向性としてはそうなのであろうが、現実の社会には労働力の使い捨て、切り捨てが横行している。

 昨日のクローズアップ現代は、そうした現実にメスを入れ、それに抗して立ち上がる若者たちの自発的な動きを報じていた。

 安保法制反対に立ち上がった学生たちシールズの動きや、銀行を立ち上げて地方の中小事業者や起業家に貸し付け、これに中小金融機関が参加する動きもあるという。またブラック企業の従業員でユニオンを結成し、団体交渉を行っているところがあるとも報じていた。実に多様で面白い動きだ。

 これらの動きで特徴なことは、若者たちが集団を結成しても集団の方針として動くのではなく、基本はあくまで個人を主体とし、参加者を束縛する組織的制約がないことだという。

 これは極めて重要なことだが、この方向がずっと保てるかどうか。またその場合、個が個を保ちながら集団としてどのようにまとまっていけるのか、ということもテーマになる。人間は弱い。個で始まったものが、いつか集団の論理に埋没してしまうことがないかどうか。

 私はこの時に重要になるのが、「公」という考え方ではないかと思う。

「私」を尊重しながら「公」を目指す生き方、このところは次にもう少し考えてみたい。

 

〈3月19日〉

 今日はいくらか体調が戻った。熱も下がった。しかし、咳はつづいて痰もよく出る。

 娘、妻来る。そのさい、Sさんからの差し入れで漫画の『わたしはカルト村で生まれた』が届けられた。数日前の新聞書評欄を読んで、もしかしたらヤマギシのことではないかと想像していたが、まさにそのとおりだった。

 学育や学園の実態は、この10年の間に私自身がかなり知ることにはなったが、子ども自身の目にそれがどう映っていたのかはあまり知ることがなかったので、改めて「やはりそうだったか」という思いを新たにさせられた。

 また元村人の一人が「日々彦通信」なるブログでこの本についての書評を寄せており、その中で当時の村の実態とそれについての意見を書いていた。このブログではやみくもに一部指導層を非難するのではなく、村人やその集団が生み出す暴力性について語っており、妥当なものと思われた。

 これは単にヤマギシの村だからというのではなく、人間の集団の持つある種の恐ろしさ、危険性について語っているように思われ、私自身のテーマでもある。一人ひとりが個としての自分を生かしながら、集団として存続することがどうすれば可能なのか。

 個がばらばらのアトムに分解されては人間の結びつきが失われ、社会の存続は難しい。といって、一つの方向だけに収斂されるのは、もっと恐ろしい。個と集団、あるいは個と社会、それはどうあるのが望ましいのだろうか。

 

〈3月20日〉

 咳はまだ治まらない。朝は37・2度の微熱だったが、午後は36・5度に下がる。

 今日は、静かにテレビを見ながら過ごした。

 〈3月21日〉 

 夜間、ひどい咳で胸の筋肉が痛くなる。薬としてトローチが出たので何個かなめたが、一向に効果がない。

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」にさしかかったところで、また点滴が詰まり、新しいのに取り換えられた。もう毎日、血管に針を入れられている。針地獄とはこのことか。

 〈3月22日〉

 相変わらず咳がひどく、造影剤によるレントゲン検査は中止となる。代わりに、喉の治療として薬液の噴霧が行われることになった。午後、その第1回、少し効果があるように感じられた。夜8時に2回目を行うという。

 

〈3月23日〉

 咳はつづいているが、昨日よりは減ったようだ。しかし、夜中に下痢、喉の風邪の菌が胃腸まで降りて、下痢の症状を引き起こしたのではないかと思われる。

  村上春樹の小説には、しばしば「失われる」とか「失われていく」という表現が出てくる。「失う」ではなく「失われる」なのだ。最初ちょっと違和感を覚えたが、最近は自分の体を通してこの言葉が入ってくるようになった。最初に感じたのは、聴力のことである。耳が聞こえなくなった当初は、聞こえないのは相手の声が小さいからではないかと思っていたが、他の人にはちゃんと聞こえている。とすれば、嫌でも自分の聴力が衰えたことを認めざるを得なくなった。

 この聴力の喪失は、自らが「失った」ものではない。自分の意志や過失ではなく、老いによって自然と「失われた」ものなのだ。聴力に次いで記憶力が、そして筋力や体力など体のあちこちが衰え、やがては自分自身が「失われていく」ことになる。

 村上春樹の若い読者の中には、この喪失感に惹かれるという感想が多い。今の時代には、何か大事なものが失われつつあるのかもしれない。

 

〈3月24日〉

 咳は相変わらず止まらない。耳鼻科で喉の声帯部分の検査を受けるが、異常なしとのこと。 

 昨日、新しい「けんさん」紙が届けられたのでざっと目を通した。2面のSさんの論考の中で「稲と鶏」の「と」についていろいろ書いていたが「と」という接続詞に特別の意味を持たせることに何か違和感を感じた。この「と」については、昔水沢の理念研でも取り上げられたことがあるが、まだそれがテーマになりうるのかという不思議な感覚なのである。

 接続詞としての「と」は、同一概念、または類似概念を並列的に並べるときに使われるし、また反対概念、対立概念を並べるときにも用いられる。というだけの話であって、「と」という言葉にヤマギシズムの何かが含まれるようなものではない、と私には思われる。そのことよりも、山岸さんが農業養鶏を通じて何を実現しようとし、またその後の実顕地造成と共に始まった社会式養鶏では何を願い、何を実現しようとしていたのかを解明することが大事なように思われる。

 いま卵の売れ行き不振から養鶏はどんどん縮小されてきているが、そういう時期での社会式養鶏の真価とは何なのか、ぜひ研鑽したいものである。そしてその研鑽は誰かが論ずることで終わるのではなく、職場の一人ひとりが仕事をとおして観察し、考え、研鑽するものでなくてはならないと思う。

 

〈3月25日〉

 咳はまだ止まらない。しかし、睡眠時間が長くなっていることを思えば、咳と咳との間隔が開いて、回数が減ったせいかもしれない。

 窓の外を見ると、青空の下に白い雲がぽっかりと浮かんでいる。大きいものもあれば小さい塊りもあり、東西に長く延びたものもある。じっと固定しているようでいて、しばらく目を離していると、互いにくっついたり離れたりして一瞬たりともじっとしてはいない。

「雲はある。しかし無い」と、山岸さんはどこかで言っていたが、味わい深い。人間はいる、しかしいない。私はいる、しかしいない。生も死も、青空に浮かぶ一片の雲のようなものかもしれない。

 そういえば、昔テレビドラマで見た水滸伝の主題歌は、こんな歌詞であったと記憶している。

  ――人生は知れたも~のさ、

    うまくい~っても

    一片の雲のよ~うに

    流れ去るだけ――

 

〈3月26日〉

 咳はまだ続いているが、少し下火になったようだ。多分来週には検査可能になるだろう。

  確か「中日」の論評だったと思うが、内山節氏が「公」という考え方が今の時代に必要だと書いていた。ちょうど私自身、「公」の思想について考えていた時期だったので共感を覚えた。

 ヤマギシではこの「公」の思想は出発当初から大事にされてきて、研鑽学校では「私意尊重公意行」がテーマとして用意されてきた。だが、2000年以降、このテーマに違和感が生じてきて、一部には公然と反対の声を上げる人も現れ、何となく中心テーマになりにくいような感じになってきた。その理由は、「公意」というものがその時々の実顕地の方針に合わせることだとする雰囲気があったためではないかと考えられる。鈴鹿問題や裁判問題を通じて「公意」を「押し付け」と受け取っていた人たちが結構いたのである。

 しかし、本来「私意尊重公意行」という考え方は、そんなものではないだろう。このテーマを考えるさいの重要なポイントは、「公」と「私」の関係をどうとらえるかにかかっているように思う。つまり、「公」と「私」を対立概念としてとらえるか、共通概念としてとらえるか、である。

「私意尊重」というのは、一人ひとりの「私」が納得しないうちは「公」が成立しないということである。だから山岸さんは「一人でも反対のあるうちは結論は出さずに次に持ち越す」と言っている。

 しかし、実際の運営上では、大多数が賛成し少数の反対者があった場合に、「みんなが賛成しているではないか」と有形無形の圧力がかかる場合が多かった。「それが調正所の方針だ」とか「研鑽部の誰それがそう言っていた」とか、そう言われるとそれに賛成できない自分はイズム理解が浅いのではないか、とかえって自分を責める方向に向かってしまう。自分の「私意」を自分自身が尊重しないことにもなる。振り返ると、そうした動きに私自身が陥ったり、逆にその動きを推進していたのである。これは戦中の「滅私奉公」と同じで「私意尊重」ではなく「私意抹殺」につらなる。

 本来のヤマギシの「公」は、あくまで「私」を尊重し生かすものでなくてはならない。「公」と「私」は対立するものではなく、「私」がやがては「公」に高まり、それに含まれるようになる。もともと「公」とされる考え方も、最初は誰かの「私意」にすぎなかったものが、同調する人が増えて「公」になったのである。その意味で調正所の見解といえども、それは調正所の「私意」に過ぎない。研鑽を経て「公意」にまで高める努力を怠ってはならないのである。

 しかし、日々動いている現実の活動体にあっては、何日もつづけて議論に明け暮れるわけにはいかない。そこで、「とりあえずこれでやってみて、その結果をまた研鑽しよう」と、一時保留を含む公意が成立することになる。だから、「公意」といっても絶対的なもの、永続的なものではなく、たえず振り返り、反省、検討を加えるべき対象である。

 山岸さんは、公意に関して次のような発言を残している。

「公意そのものが、いい加減なものだとしてかからんと、危ない。……『まあまあ』で『せめて』というのが入るのやぜ」

 公意は参加者全員の一致によってのみ成立するのである。しかし、その一致が雰囲気に押されたものであったり、多数に呑み込まれて成立するものであったりする場合もある。あるいは、単に反対でないというだけのものかもしれない。だから、山岸さんはこうも言っている。

「意見が違うならば、なおさら寄って話し合う。しかし同意見の時は、なおなお注意する。みんなの意見が一致した時は最も注意すると、こうなるのと違うやろか」

 研鑽学校のパネルの最後には、「公(おおやけ)に生きる私の生き方」というテーマがあった。ここでいう「おおやけ」は、実顕地での思考・行動様式としての「公」というだけでなく、社会全体、世界全体を通じての「公」であって、人間の人間としてのあるべき生き方・あり方を意味するものと思われる。内山節氏の言う「今の時代に求められる公」とは、そういうものではないかと思った。

 

〈3月27日〉

 咳も痰もだいぶ減り、睡眠時間が長くなった。回復に向かっている実感がある。 

 昨夜、「精霊の守り人」の第二回を見たが、まったくお粗末だった。原作を読んでいない人には、前後関係がよくわからないだろうし、読んでいる人にはすごく物足りない。それは、テレビがCGを駆使して映像化することで、かえって視聴者の空想力を制約してしまったからである。空想力の働かないファンタジーなど面白くもおかしくもない。綾瀬はるか演ずるバルサも、短槍を振り回しているだけで、原作の短槍の名手としてのバルサのすごさが少しも伝わってこない。ファンタジーの映像化には、原作者と同等以上の力量が必要なのかもしれない。あるいは、すっかり分解して、アニメ化するかだ。

 昨日は「公」と「私」について考えたが、もう少し蛇足を加えるならば「公」と「私」は相互に移行したり転化したりするものだと考えられる。例えば、戦中の「滅私奉公」などという当時の公的スローガンは、今では一部ウルトラ右翼以外には見向きもされない。逆に敵対思想として摘発された個人主義が、公的思想として支持されている。

 このように「公」と「私」は時代状況によって変わるものであるが、いかなる時代にも変わらぬものが「公(おおやけ)」という考え方・生き方ではないだろうか。磯田道史氏の『無私の日本人』を読んでいると、そんな感じがしてくる。

 

〈3月28日〉

 咳、喉を含め体調はいい。 

「公」と「私」を考える上でのもう一つのポイントに、多数決主義がある。戦後民主主義の浸透とともに、この多数決主義が正しいものとして広く認知されるようになった。この考え方は私たちの間にも深く入り込んで、どこか常識化している。しかし、ヤマギシでの公意は、全員一致であって多数決ではない。にもかかわらず、「みんなが賛成しているのに」とか「何で一人だけ反対するのか」といった多数決主義が無意識のうちに通用している。恐るべきことだ。数の論理は力の論理でもあることを忘れてはならないと思う。

  造影剤検査のあと、栄養ジュース(150ml)と食道の薬が与えられたが、ジュースを飲んだとたんに胃がパンパンに張り、両目の間隔が狭まって目まいに似た症状になった。2時間ばかりダウン、ようやく4時過ぎに回復したが、夜のジュースでも同じ状態になった。2か月以上胃に何も入っていなかったので、胃が突然の侵入物に驚いたのかもしれない。

 

〈3月29日〉

 今朝は体調良好。7時にジュースと薬を飲む。まだ多少の違和感はあるが、昨日のようなことはなくなった。

 「私意尊重公意行」で考えておかねばならないもう一つのことは、私たちの間にある上下感(観)の問題である。私の場合、どうも小学校時代にこれをしっかりと植え付けられたらしい。軍国教育の下では、上下のケジメは特にやかましかった。敗戦後、自由だ、平等だと教えられても、心の底に染みこんだ上下感(観)はなくなりはしなかった。だから、参画してから後も、村の中枢部門(調正所、研鑽部、経営部等)にいる人の意見は正しいものと、予め決めてかかっていた。こうした予見の下で、どうして徹底的な研鑽ができるだろうか。

 山岸さんは『ヤマギシズム社会の実態』の中で、こう書いている。

「私の言動や所説や、このヤマギシズム社会構想に対しても、……これを以て最上決定的なものと思い込まずに、又貴方の今持って居られるものと、一致しないから駄目ともしないで、相対者と、条理とを、切り離して考察される事が大切で、人物を通さずに、盲信しないで、厳正な批判の目で検討し、容赦なく叱正され度いです」

 このように「相対者と条理とを切り離して」「人物を通さずに盲信しないで厳正な批判の目で検討」することが、研鑽の最も大切な要件であると述べている。

 ところが、である。現実には、この研鑽の最も基本中の基本が歪められていた。誰によってかと言えば、自分たち自身によってなのである。そのさいの心理的要因に、上下感(観)が大きく作用していたのではないだろうか。

 しかし、上下感(観)を無くすことは、尊敬の念を排除するものではない。村にも世間にも尊敬に足る人物はいる。ただ、尊敬することが、その人の意見を信ずることにつながってはならないということなのである。

 

〈3月30日〉

 夜、多少咳は出るものの体調はいい。ジュースも薬も楽に飲めるようになった。食道の狭い部分が少し広がった感じがする。今週か来週、再び胃カメラの検査をするという。嫌だが仕方がない。 

 ところで私たちを捉えていた上下感(観)だが、それは村人を上位にあるものと下位にあるものとを二分するだけではなく、さまざまな階層的なヒエラルキーを成立させることにつながっていった。

 例えば村の隠れた指導者であったSさんとその周辺にいた人たち(本庁調正所・研鑽部等)は正しく、各地実顕地の調正所は次に正しいといった暗黙の合意である。だから、90年代末には地方の実顕地内で解決すべき問題でも、すべて本庁に問い合わせるというおかしな構造が出来上がった。

 この上下感(観)がヤマギシ会活動に適用されると、村人、会員、活用者という上下のヒエラルキーとなって表れる。村人が口にする「会員さん」という呼称の中には、会員をどこか一段下の存在として見る風潮があった。そのさいよく口にされた言葉が「資格」という言葉である。

 80年代始めに、ようやく一般活用者が特講に参加し出したころ、Sさんが「やがて村人は実顕地にいるだけで、光り輝く存在になるだろう」と言ったという話を、間接的にではあるが聞いたことがある。事実、村が拡大に拡大を重ねていた当時は、多くの人がそんな気分になっていたのではないだろうか。やがて、特講→研学→全員参画の方針が打ち出され、村は新参画者であふれた。多くの会員が村人の「資格」を得ようとして参画したのである。

 しかし人間は、村に移り住んだからといって急に中身が変わるわけではない。やがて脱会者が相次ぎ、財産返還訴訟も続出することになった。

 2000年代に入って、私はこうした事件に振り回され、何を考えていいかわからぬ事態になったが、今考えるとこれがなければ自分自身を振り返ることも、実顕地のあり様を考え直すこともなかっただろうと思う。その意味で貴重な経験であった。

 これから考えると、良いことが良いのではなく、悪いことも失敗したことも良いことなのだ。逃げ出さず、放り出さず、向き合いさえすれば。

 

〈3月31日〉

 夜中も咳はほとんど出なくなった。ジュース、薬とも楽に飲めるようになった。多少のひっかかりはあるが。先生に聞くと、水やお茶は飲んで差支えないという。

 上下感(観)を促すもう一つの要因に、秘密主義のヴェールがある。公開されないことによる秘匿の重みのようなものである。情報を知っているものと知らないものとの格差といっていいかもしれない。だいたい秘密というものには、それが何であれ、知りたい触れたいという、人の願望を誘う何かが含まれている。そして、それを知りうるものと知りえないものとの間には、大きな格差が生まれる。

 オウムの麻原彰晃もそうであったが、教団が大きくなるにつれて、彼は取り巻きに囲まれ、次第に奥の院におさまり、そこから直近の部下を通じて指令を出すようになった。その方が麻原の神秘性とカリスマ性を高める効果があるからだ。そして失敗すれば、部下の失敗として事を納めることができる。

 ヤマギシにも同じような秘密主義があった。それを言葉でいえば、村人として「知っておくべきこと」と「知る必要がないこと」という区分である。

「知る必要がないこと」を知っているのが、指導部門に携わる人たちである。もちろん専門部として一般に知らせる必要のない事柄はあるだろうが、それが極端になると知らしめないという特権に居座ることになる。また一時、専門部門間、あるいは試験場と一般の職場の間で「立ち入らない、立ち入らせない」という言葉が強調されたことがあった。ヤマギシズム学園では「学園は親たちの我執に染まらない無重力空間である」と、その運営に学園生の親たちが意見を言ったり介入したりすることを阻んでいた。

 こうした秘密主義は、部門間の交流を阻み、村人同士の自由な交流や意見交換をやりにくくする。しかし、村人同士の自由な交流や活発な意見交換、つまり日常的な研鑽体制の確立なしには村の発展は期待できないのではないだろうか。

◎『わくらばの記』資料研に参加して

〇先日豊里実顕地に行き、吉田光男著『わくらばの記』の資料研に参加する。

 当日は『わくらばの記』の2016年1月22日の箇所を資料として出し合う。

<人の目に見えなくすることで、あたかもそれが存在しないかのように振るまうのはいかにも姑息。ずいぶんそうした姑息な行為をしてきたものである。牛乳の日付変更、食中毒の隠蔽、トラックや看板から「やまぎし」の文字を消す作業、こうした考えが過ちを素直に認めない、それと正面から向き合わない言動につながってしまった。>

 など、組織がもっている隠ぺい体質に焦点が当たった。 

 

 いろいろな意見が出たが、主に供給や拡大関連に携わっている人は思い当たることがあり、その他の生産職場にいた方の中には、よく知らなかったという人がいた。この辺りは、総じて「任し合い」による、ある種の信頼にもとづくものだと思う。

 学園問題も同じような状況で、その関連職種にいなかった人は、随分後から知るようになったという。

 それぞれの人の子供には学園生がいたのですが、当時はその子からはあまり聞いていない人が多かった。これはわたしの子どもにも当てはまります。わたしも後から聞いてビックリすることがあった。

 

 また、「わくらばの記」を読んでいたら、実顕地を進めている影響力のかなりある人から、そんな批判的な本は読まない方がいいと言われたそうだ。

 それに対して、Nさんは「書く人も、読む人も自分の思いで見ているので、そういうのを外して向き合わないと、分からないわな」

 また、Sさんは「ものを書くというのは、当然、批判的な要素が入るもので、批判的だから読むなというのは、ものを書くということが分かっていないのでは」というような発言がある。

 

 参加して思ったのは、このように出し合って、その時の自分はどうだったのか、今の自分に引き付けてみるとどのようになるかなど、考えていく必要がある。

 資料研ではそこまではいかない感じがししたが、このような場があるのはいいなと思った。

 自分たちの思惑に合わせて他を意のままにしようとする、他の評価によって自分たちの行動の価値が決まるという、主体性がないどころか他を侮っていることになる。自分はどうなっているのか考えていた。

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 資料研後、Mさんと話をする。

 実顕地運営の主だった部門にいて進めていた私に、「何故参画を取り消して実顕地を離れたか」との問いかけがあり、その経過の話をした。

 このブログなどで度々触れているが、その経過の渦中にいた人以外は、何があってそうなったのか、よく分からない人も多いかと思った。

 参照:「ヤマギシズム実顕地について思うこと」  (2015年5月28日)など

 

 Mさんによると2000年前後のかなり大勢の人が実顕地を離れた後、Mさんの中で「私意尊重公意行」の捉え方が逆転したそうである。

 それまでは、「公意」が出され、それに「私意」を添わせていく、アップダウンのイメージで展開していたが、大量離脱者が出た後は、一人ひとりの「私意」があり、それを出し合う中で「公意」が形成されていくというボトムアップの方式が根付くようになっていったそうである。

 

 その方式だと、なかなか決まらないこともあり、時間がかかるので、大きい実顕地を進めている人から、お前のところはまだそんなことをやっているのかと言われることもあるそうだ。

 

 これは実顕地運営の根幹をなす研鑽方式の要になるところである。

 Mさんは、最近雲行きが怪しくなってきたようなことを心配されていた。

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 親しくさせていただいている佐貝貞夫・のぶ夫妻から、話を伺う。90歳すぎの二人とも元気で溌溂としていらっしゃった。二人の結婚(70年たつ)を経て山形から北海道根釧原野への入植、その大地の広大な広さ、除雪車などない中の雪の激しさの中、ともに入植した人たちとの助け合い、1959年の北海道特講から「北試」(ヤマギシの村)への参加、ブルセラによる飼牛の全滅、炭鉱へ出稼ぎ、その後の「北試」での立て直しと話は続いた。

 福井正之氏の『追わずとも往く』は、そのような先人たちが育て上げた土台のもとで、ある程度落ちついたところへ意欲的な青年たちが参加して、その豊かな可能性を秘めた状況の体験を踏まえて展開される。

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 ※福井正之さんは以前のブログ「反転する理想」に、吉田光男『わくらばの記』を、ご自分に引き付けながら考察した記録があり、本人の了解のもとに、順次掲載していく。NOは掲載時のままにした。

 福井正之(41)吉田光男さんの逝きて「逝かざるもの」

〇4月30日吉田光男さんが逝去されました。享年85歳。

 吉田光男さんとの最初の出会いは、『天真爛漫』(ヤマギシズム出版社1980)での彼の著述からでした。そこで巻頭に紹介されていたミヒャエル・エンデの『モモ』のことと、楽園村の記録が私にはとても斬新なものでした。それは当時の世界文学、思想の頂きから発想しながら、楽園村の意義に及ぶもので、そのスケールの大きさとそれによる普遍的なリアリティ― は、ヤマギシにもかなりの人物がいると知らされました。しかしそういう発想はその後のヤマギシからどんどん失われていったものです。

 

 その後吉田さんとの接点はほとんどなかったのですが、私のジッケンチ離脱後、彼の元学園生の「個別研」体験手記に触れての論考で、さらに近時の『わくらばの記』の中で、私はふたたび彼と出会えた感触がありました。彼のスケールは依然として健在でした。ただ彼の思索の場がジッケンチであり続けたことが、私にとってなぜそれは可能なのか不思議でもあり、ある種の危惧と驚異にもなっていました。彼の逝去の報を受けて、私にもっとも鮮やかに想い浮かんだのはそういう場の選択の違いでした。

 

 なぜならそれは私にはできなかったことです。そこは私には「金は要らないが、無理暴力のある」集団であるのみならず、「沿う・合わせる」の自縛的な自己拘束とそれによる思考停止の場でもありました。私がそういう「ジッケンチ」を離れるしかないと断念した地点で、吉田さんはそこに踏みとどまったのです。それはまた吉田さんの表現によれば「手垢のついた」言葉の世界であり、あらゆる理想反転の問題群に彼は決して盲目ではありえなかったはずです。事実『山岸巳代蔵全集』の編集にも関わった吉田さんは「何だこれは・・・山岸さんの言うことと実顕地でやってきたこととはかなり違うじゃないか」と感じられたのです。

 

 その間の軌跡を、吉田さんは「2000年からの10年」と総称しています。私には彼がその間「実顕地」というものの真髄を模索しながら「けんさん」の考え方を生き抜いてきた人として浮かび上がってきます。ただそれはいわゆる既成の研鑽会のことでなく、「ことば」の真実を確かめ確かめ、「自分の内部に掘り下げた深さだけ、外に向かって届く距離が長くなる」(論考「手垢の付いた言葉」)という発想に基づくものでした。それこそが、吉田さんがそこに在ったことの唯一の「希望」であり、自己「けんさん」であり、「実顕」であったと思えてなりません。

 

 ただその志の深さと困難さは、とうてい私の想定に及ぶところではなかったようです。『わくらばの記』の始めの部分で、吉田さんは辺見庸の『1★9★3★7』に触れ、

 

「これを読むと、自分が書いている〈学園問題〉についての手記は、チンケで底が浅く、とうてい書き続けることができなくなった。もっと自分に向き合わなければ、書く資格も意味もない。辺見庸は、『なぜ』と問うことを続けている。物事の重要性は、説明や解明にあるのではなく、問うことであり、問いつづけることの中に存在する。説明、解明、解釈、理論づけ、・・・・・・それらはそれ以上の究明を放棄することの弁明に過ぎない。」

 

 この記述は私には衝撃でした。こうまで書かれている吉田さんには、ある覚悟のようなものが滲みだしています。私はこの部分を読んで、これはキツイ、自分には無理・・・と躊躇しながら、いつしかそこから離れていたようです。これまでどこからもジッケンチや学園についての問いかけが表立って見えない状況では、そのレベルよりはそのこと自体への言及、解明、理論づけに意味があると考えてきたのです。

 

 私はジッケンチから離れ、まず自分の感覚とアタマで考え抜いてみること、そしてそれを書き表してみること、にずっとこだわってきました。「ジッケンチとは何だったのか?」「自分とはこの世の中で何ものなのか?」と。それは自分への向き合いとしてキツイことではありましたが、他方救いや歓びもありました。そしてそれはジッケンチの外だから可能になった営みだとずっと考えてきたのです。しかし吉田さんはまさにその誰しもそこに流され同調していくしかない環境のただ中で、ずっと独自の思索を絶やすことはありませんでした。

 

 今私は吉田さんの逝去に直面し、これまで通りの自分でいいのかどうか、はたと立ち止まっています。必要なのは、というより求められているのは、いや自分が求めつつあるのは、できるかどうかは別に、吉田さんのような問いかけの深さだと思います。いいかえればその場は、(吉田さんだからいえるのかもしれませんが)どこでもよかったのです。しかもこの思いは、すでに逝去された吉田さんのおそらく「逝去しようのない」、これからもますますその輝きを増すであろう志しを、点火していただいたような感覚でもあるのです。

 

 なにかしら途轍もなく恥ずかしくなりそうなことを書いているような気もします。「志し」なるものは私には、かつて嫌悪に襲われ放棄したと思ってきた<理想>や<理念>に付き物の言葉のようでしたから。でも私はすでに吉田さんのおかげで「百万羽子供研鑽会」のことばが蘇っています(「元学園生の手記を読んで」吉田2013/10より)。

 

「研鑽会は、先生や大人の人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます。」

 

 これは山岸さんが書いたと言われている子ども向けの研鑽資料です。しかも大人でもこのように実践されたことはほとんどないように記憶します。しかしこれこそ「けんさん」というものの原型、本領であり、その前提としての「自己けんさん」は不可欠だと考えます。その一方法として書くという営みは欠かせないものであり、なかんずく吉田さんの思索の記述は「後世への最大遺物」だと感じられてくるのです。

吉田さんの冥福を祈ることは、私には彼のこの志と覚悟をどこまで引き継げるかにかかっていると考えるものです。

(2017年「子どもの日」に)