○述懐、という言葉が浮かんだ。これまで書いてきた論考とか、随想とか、手記でもない何か。このところそのようなスタイルに収まらないようなものが溜まってきたような気がする。だが、捌け口が見えない。それはこれまでなかったいろんな人との交流の中で、新…
○すでに随所で間接的に触れているが、感動体験(生成体験)とは人間にとって、人生にとって、いいかえれば教育にとっても何なのか、についてここでもう少し視野を広げて述べておきたい。 それは先回最後に紹介した「蕩尽は聖なるものを呼び起こし、『全体的…
○先回の主旨は、子どもは遊ぼうとして遊んだわけではなく、何をやっても遊びだった、ということである。 しかし遊び自体は子どもとは区別すべき概念である。そのことを矢野氏は「(子どもには)自分が遊んでいるというより、遊び自体が生き物のように自己展…
○矢野智司本かじり歩き (3)子どもの遊び領域 「贈与と交換の教育学」より *『愛児へのおくりもの』について 先回、矢野本の「ボランティア」についての記述から体験学習の意味を考え、さらにそこからそれほど予測できたわけではないが、ヤマギシの学育、…
矢野智司本かじり歩き(2)感動とは教えることができない 「贈与と交換の教育学」より 先回、「感動体験」と言いうるもののおおよその枠組み、構造を探ってみた。今回はその少し外延を考えてみたい。 先回のキーワードの一つは、「深い感動は言葉にはならな…
〇福井さんが昨年死去されて1年が経ちました。 私のやれることとして「福井正之記録集1」をつくり、何人かの方には読んでいただけたようですが、もっとも嬉しかったのは、奥様から電話があり、感謝のこもった心が伝わってきて、先ずはよかったなと思いまし…
※『わが学究 人生と時代の “機微”から』の2018年6月に、【(62)人生と人間の〝再構築〟――夫婦のこと】【(63)われら元〝種族〟の「人生再構築」について】を掲載している。この2編は実顕地離脱後の「人生の再構築」について述べている。 - ◎人生と人間の〝…
※『わが学究 人生と時代の “機微”から』では、2017年9月に、【(12)難しい本はまずルーズに読む イリイチ訳者註】【(13)「自立共生」のイメージを深めるための数編の引用】に続いて【(14)「使用価値」だけの、金の要らない社会の現存】を掲載している…
※2017年8月に、ブログ『自己哲学第2章 反転する理想』から『わが学究 人生と時代の “機微”から』に変えて、改めて自分の仕事をふり返った。その第1回、2回の記録である。 - はじめに (1)自分の仕事 ブログを始めるきっかけになっているのは、ソロー『森の…
※『回顧―理念ある暮らしその周辺』の➂⑬に再度掲載された。このブログは『時空遍歴』からの転載。「時空遍歴」について福井氏は次のように述べている。 〈現在の私は認識の基本軸において、過去は同時に未来および現在であり、その逆も真であることをしっかり…
※『回顧―理念ある暮らしその周辺』の⓺⑦に再度掲載された。このブログは「回顧」とあるように過去のブログ、特に最初の頃は『時空遍歴』からの転載が多い。 この記事は、ジッケンチ離脱前後のヤマギシ的理念から生活実感への足掛かりとなる記録である。 - ◎<…
※『回顧―理念ある暮らしその周辺』(92)(93)で、経済の観点から実顕地について述べている。これは(45)で述べた村岡到氏の著作に触れての実顕地総括論である。村岡著について2013年3月に【村岡到「ユートピアの模索」から示唆されたこと、特に『生存権…
※『回顧―理念ある暮らしその周辺』(67)(68)で、「ジッケンチって何だったのかな?」という問いかけをしている。 文中に〈2000年時実顕地離脱について、私は長いことあれは<恥ずべき逃亡>のような負い目を抱いてきたが、近時実はそうではなく「出発」だ…
※これから順次掲載する福井正之記録は、自費出版した『福井正之記録集1』に掲載したものである。なお福井さんのブログでも読むことがでできる。〇『回顧―理念ある暮らし、その周辺』では、㉜~㊳まで「わが初期ジッケンチ論」を掲載している。ジッケンチにつ…
※「元学園親との対話から」は、2013年に記録した【<ヤマギシ学育>って何だったの?】の中で記述したものである。 内容は、①<自責の念>のその先、②<事実としての被害>と自己責任、③わが子との対話から始まる。となっている。 この論考は学園親からの声…