広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(12)

わくらばの記 ごまめの戯言④

 〈8月×日〉

 特講の歴史を自分なりの見方でまとめてみたが、夜中に目が覚めたりすると、それに関連したさまざまな出来事が思い出されてくる。そんなことをポツリポツリと書いてみることにする。

 あれは私がまだ韓国にいてビザの切り替えで帰国していた時のことだから、90年代の初めの頃だったと思う。久しぶりに春日のヤマギシ会本部を訪ねた。最近の拡大の進め方について聞きたいと思っていたからだ。

 事務局に声をかけると、見知らぬ中年の女性が出てきて応対してくれた。「最近の拡大のやり方は?」と尋ねると、マニュアル通りなのかどうか、いきなり私に次々と質問を投げかけてきた。いわゆる“想定問答”というものなのだろう。これには度肝を抜かれた。そうか、こんなやり方で特講拡大をやっているのか。そう言えば、子育て講座も、楽園村勧めも、すべてマニュアル化していることを改めて思った。その時は違和感は残ったものの、それ以上深く考えることもなかったが、いま思えばこれは大きな問題である。

 ファミレスなどに入ると、メニューを聞いた後、必ず「○○と○○ですね」「以上でよろしいでしょうか?」と聞かれる。「しばらくお待ちください」ではなく、「以上でよろしいでしょうか?」である。以上だけではいけないのだろうか、と一瞬考えてしまう。後ろめたい気持ちを押さえて「以上でいいです」と言うわけだが、最初の頃は何か嫌な気分が残ったりした。

 それはともかく、山岸会の中でこのマニュアル化が進められたのは、マクドナルド方式が日本に定着したのと軌を一にしている。要するに、対象とする相手をすべて同一の人間、大衆という砂粒の一つ、悪く言えば木偶人形のように見做すことなのである。ここには「人間とはこういうもの」とする、すごく安易な人間観が潜んでいる。人間一人ひとりの違いが見えてこない。またここには、合理化、効率化の思想が含まれていて、テーブル回転率を上げるように、拡大回転率を上げようとしたのであろう。そのためには、誰でもができる、誰がやってもいい、というマニュアル化が最大の武器となった。

 当時の私は、全くそのことに気づかなかったし、自ら進んでそのマニュアルを推し進めてもいた。第一、特講の進め方がそのようなものであった。もちろん、特講は人間の思考を閉じ込めている観念の壁を突き崩すために仕組まれたものであるから、そこにはテーマもあれば、それを出す順番もほぼ決まっている。また特講の目標として、5つの項目が垂れ幕に書かれて、最初から正面の壁に掲げられている。しかし、これはマニュアルではない。だが、当時の私と私たちの多くは、「係りなんて誰がやってもいい」と口にし、特講生一人ひとりと向き合うことをしてこなかった。

「腹が立たなくなった」

「かばんは誰のものでもない」

「自然全人一体が本当の世界」等々。

 大半の参加者がこう口にすれば、それで特講は大成功と思っていた。鶴見俊輔さんの言う「一丁上がり」である。しかしこれで、最も大事な研鑽力、どこまでも真実を検べていく姿勢が養われたかどうか。恐らく"わかってしまった人”ばかりをつくってきたのではないか。わかってしまったら、もうその先は検べることはしない。研鑽停止の状態になる。

 人は一人ひとり違う。係りはその一人ひとりと向き合い、共に考える姿勢が必要なのである。つまり、参加者から学ぶ姿勢である。それによって世話係りは、もたらす者であると同時に、もたらされる者であることができる。

 特講での手痛い経験が幾つかある。確か70年代の後半のことだったと思うが、参加者には京大霊長類研究所の鈴木さん(今は教授か助教授だと思うが、当時は助手)ら比較的知的レベルの高い人が多かった。後に参画して豊里・多摩で供給活動などをしていた谷野夫妻も参加者の一員であった。私は、その時は事務局で窓口をやっていたが、3日目か4日目に突然参加者全員が出てきて、垂れ幕を焼く事件が起きた。そのあと、「責任者を出せ」ということで、私も被告席に坐らされた。

 要するに「こんな垂れ幕のようなものがあるから、特講が機械的でおかしなものになってしまうのだ」という主張である。もうその時の対応のやり取りについては忘れてしまったが、何とか説得して特講を最後まで続けることはできた。しかし、内容は特講とは言い難い気の抜けたものでしかなかった。世話係りはと言えば、みなシュンと落ち込んでしまって進めることができず、他のものが変わって進めた。

 これと似たような事件をもう一度経験しているが、要するに「誰でもができる」というマニュアル化された進め方が、いかに特講の真目的を歪めてしまうかを、この段階で気づくべきであったろう。

 

〈8月×日〉

 これも70年代か80年代のことだったと思うが、安井登一さんが夜中にヤマギシ会本部にやってきた。話をしているうちに、事務局東側の大会場から世話係りの怒鳴り声が聞こえてきた。

「何でや?」

「お前ら、アホか」

 畳を叩く音まで聞こえる。安井さんは「これは、ちょっとひどいね」とつぶやき、「特講は知的革命なんだよ。暴力革命とは違う」と話した後、帰っていった。恐らく安井さんは、最近の特講の進め方を心配して、様子を見に来たのだろう。しかしその時の私には、安井さんの言うことがよく理解できなかったし、どこをどう考えたらいいのかもわからなかった。

 また、亀井のおばちゃんからは、こんなことを言われたことがある。

「どうも最近の特講は理屈ばかりで、身についたものがないんじゃないか。私らの時は一体がどうのこうのといったことはさっぱりわからんじゃったけど、食卓に一人だけパンが足りんと聞けば、あちこちからパンが集まってくる。また帰りの旅費が足りんと聞けば、財布ごとお金が集まるといったことがあったよ」

 同じような批判を、中身は忘れたが奥村明義さんからも受けたことがある。しかし、そうした批判を受け止めて、研鑽につなげるということは、当時の私たちにはなかった。自分たちの今のやり方でいいのだ、とする固定した考え方に捉われていたからである。批判がすべて正しいというわけではなく、また自分たちがすべて間違っていたというのでもない。しかし、誤り多い人間の考えで「これが本当だ」といかに主張したところで、そうかどうかはわからない。だからこそ、検べる、研鑽するのであり、この研鑽力を身に付ける仕組みが特講なのである。世話係り団にこの研鑽する姿勢がない以上、特講参加者にそれを求めても無理、というものであったろう。

 これは、誰だったか名前を思い出せないが、古い参画者から聞いた話が耳に残っている。初期の、まだお寺を借りて特講をやっていたころ、ちょうど怒り研の最中に、別室で休んでいた山岸さんが風のようにスーッと入ってきて、「何でや?」と怒鳴り声を上げている係りに、「それで、あなたはどうなの?」と問いかけたというのである。これには係りも驚いたらしい。いっぺんにシュンとなって、それまでの居丈高の態度から、「なぜなんだろう?」と共に考える姿勢に変わったというのである。 

 正解を求めたがる姿勢は、特講だけでなく研鑽学校もほぼ同じようなものであった。最近のことは知らないが、私の経験した研鑽学校は、すべて‟正しい答え”を覚えるように進められていた。だから、終わって一週間程度はみな溌剌としているが、すぐに元の木阿弥になってしまう。研鑽する力がほとんど身についていないのだ。

 とかく人間は、正しい答えを求めたがる。第一自分がそうだ。正しい答えを得れば、それだけで自分が正しい立場に立てたように安心する。安心するためにこそ、正しい答えを欲しがる。易しく、簡単に、スピーディーに。しかし、‟正しい”物や事など、観念のつくりあげた幻影にすぎない。研学後一週間で賞味期限が切れるのも当然なのである。

 

〈8月×日〉

 1974(昭和49)年の何月だったか、埼玉の団地に渡辺操さんが訪ねてきてくれたことがある。2回目の研鑽学校で参画申請はしたものの、子どもの問題もあって最後の踏ん切りがつかなかった時である。土産に「青梅の卵です」と言って、新聞紙にくるんだ10個ほどの卵を置いていった。その卵は、見るからに光り輝いていて、衝撃的な感動を受けた。「これはすごい」と思わずうなってしまった。

「やはりヤマギシは本物かもしれない」

 参画への最後の後押しをしてくれたものの一つが、この青梅の卵であった。 

 今年の4月、入院中の病院に、多摩のTKさんが見舞いに来てくれた。いろいろ話しているうちに、卵の話になった。彼女はこんな話をしてくれた。

 2~3年前までよく内部川から養鶏部の人に来てもらって、卵の懇談会を開いていたが、ある時から活用者が怒ってしまい、「もうこんなのだったら、懇談会などやる必要がない」と言って開かれなくなった、というのである。

「こんなのってどんなこと?」

「最近卵の質が悪いが、どうしたのか、という質問に対して、『鶏種が変わったので』と答えたのよ。鶏種が悪けりゃ変えればいいし、肝腎なことを鶏のせいにするのだったら、懇談会などやる意味がないというわけ」

「鶏種が変わったので」という答え方は、私も聞いたことがある。要するに、活用者が一番聞きたいことをきちんと受け止めていない。というよりも、むしろその前に自分が世話をしている鶏としっかり向き合っていないし、鶏の声に耳を傾けてもいないということである。

 養鶏の参観案内などを聞いていると、30年も前とほとんど同じことを話していて、自分が養鶏を通して感じたこと、学んだことがほとんど語られることがない。しかし、飼育というのは、一方的に人が鶏を世話するだけでなく、鶏から人が受けるものがあって初めて成り立つもの、つまり飼育者はもたらす者であると同時にもたらされる者なのではないだろうか。「自己に発し、自己に還る」というが、自分から発するものがなければ還るものもない。飼育が、ただ餌をやり、卵を採るという作業の繰り返しにすぎないのであれば、それは誰でもができる代わりにロボットでもできるわけで、心を一切必要としない。しかし、心のないところにヤマギシ養鶏は成り立たない。私たちは、自分が世話をしている鶏や豚や牛から、あるいは野菜や果樹からもっと学ぶべきものがあるはずだし、お互いに育ち合うことができるはずである。そうしてこそ、活用者の意見や批判にも耳を傾けることができるのではないだろうか。

 

 〈8月×日〉

 今日、Eさん夫妻が見舞いに来てくれた。いろいろ近況を聞かせてくれたが、最近の鈴鹿の様子やセミナーに参加しての感想が中心であった。その中には、私の納得できることもあったし、納得できないこともあった。

 E夫人のKさんはセミナーに参加しての感想として、「人の本来の姿というものがはっきりわかった」と言い、「本来、もともとというものが、自分がどう思おうと事実として存在しているということがはっきりした」というのである。「本来」「もともと」という言葉を「真理」と言い換えてもいいのだろうが、自分が捉えた「真理」が、果たして真理であるかどうかはわからないし、そもそも真理そのものは存在するのではなかろうかとは言えても、間違いなく存在するなどと断言することなどできないのではないか。第一、人間は真理の実在を知ることも確証することもできない。できることといえば、その周辺を手探りで動き回るだけで、近づくことはできたとしても、到達することなどとうていできない。だから、「人間は本来こうだ」「社会はもともとこういうものだ」と断言するとすれば、それは人間を超越したいわば「神の言葉」になってしまう。

 またEさんはこんな話をしていた。

「セミナー参加者の一人に、原発反対を言いつづけていた人がいたが、最後のころには全く口にしなくなった。‟それは事実か?”というテーマを考え続けているうちに、それを事実と思い込んでいる自分の思い込みのほうに目が向くようになったのだと思う。これはすばらしいことだ」

 半分は納得できるが、半分は納得しかねるものが残った。

 事実と思いが違うこと、思いはあくまで観念のつくりあげたフィクションであり、人はこのフィクションを事実と混同していることは間違いなく(と簡単に言い切ってはいけないのだろうが)、自分もまたこの間違いを繰り返してきたし、今も同じことをやり続けているのかもしれないとは思う。そして人間の思い・考えとはそのようなものでしかない、と思っている。しかし、問題はそこからである。そうした思い・考え・物の見方しかできない人間である自分が、現実、事実、対象を前にどうあったらいいのか、ということだ。

 そうした自分を自覚した上で、現実に向き合うのか、それとも現実を放棄して自分の認識力を調べることだけに立ち止まりつづけるのか、ということである。「原発を口にしなくなった」ことが、そんなにすばらしいことなのだろうか。どんどん内向きの論理に閉じこもってしまわないだろうか。そんな感想を抱いた。特に「自分のできることと言えば身近なごく狭い範囲のことにすぎないのだから、その範囲を超えることについては考えないようにしている」という意見には、どうにも賛成しかねた。確かに自分の生きる場はちっぽけな世界にすぎないが、それは世界中のあらゆる出来事、宇宙自然界を含むあらゆる出来事とつながっており、過去の歴史的な出来事とも切り離すことができないものなのだ。原発から排出されるプルトニウムが無害になるまでに10万年もかかるとすれば、私たちの今は10万年先の未来とも、その間生存するであろう子や孫のそのまた孫の世界ともつながっている。だから私は、自分の身近な日常の世界だけに閉じこもりたいとは思わない。原発の問題は、やはり考え続けていきたいと思っている。

 ただ、以上は私の聞いて思ったことにすぎず、とんでもない聞き違い、そこからの誤解が含まれているかもしれない。

 

 〈8月×日〉

 昨日のEさんたちとの話し合いを思い返しているうちに、昔の嫌な経験を思い出した。

 私が韓国から帰って成田実顕地の造成に取り掛かったのは、1995年の10月のことであった。この年は1月に阪神淡路大震災、3月にオウムの地下鉄サリン事件があって、世情はどこか騒然としていた。永らく韓国にいて、日本の新聞もろくに見ていない私には、そうした事情に疎かった。成田に移った翌日、開発許可のことで大栄町役場を訪ねると、つい最近大栄町議会が「ヤマギシ会進出反対」の決議案を可決したばかりだという。どうも、山岸会をオウム類似のカルト集団と決めつけての決議らしい。その頃、Kさんたちが進めていた実顕地拡大計画は、新潟でも、富士山麓でも、地元の強烈な反対運動で挫折を味わっていた。同じことが成田でも起きる心配があった。

 実顕地が取得した土地は、ミニゴルフ場計画が失敗した跡地で、一部は高利貸に抵当権を押さえられていた。しかも、周辺はたくさんの土地所有者に囲まれていて、開発の許可をもらうためには、それら小地主に開発同意書の判をもらわなければならない。水利組合の同意も必要である。そのため、夜な夜な一軒一軒農家を訪ねるのであるが、すぐに判を押してくれる家など一軒もない。何回も訪問を繰り返し、その都度手土産は受け取るが、「おまえら、あそこで何をするんや。子どもを閉じ込める施設でも作るのか」など、皮肉の一つや二つは言われる。

 そんな最中、豊里のほうから「オウム事件は事実か」だったか「地下鉄サリン事件は事実か」といったテーマが聞こえてきた。これは、聞きようによっては、オウム事件は政府・官憲のでっち上げ事件で、事実としてそんなことはなかった、というふうにも聞こえる。毎日、オウム同様に見られて苦労している身としては、何とも嫌なテーマである。事実と思いの分離のテーマであるにしても、この時の不快な思いはトラウマとなって、なかなか消えることがない。それもお前の思いの中の出来事さ、と言われればそれまでの話ではあるが。

 

〈8月×日〉

 船戸与一の『満州国演義』全9巻を読み終えて、大団円という言葉が浮かんできたが、大団円はめでたしめでたしの結末で終わるのに対して、こちらは大日本帝国の悲劇的終章で幕を閉じる。ガンで死を宣告されながら、よく書き上げたものだ。小説として成功しているかどうかは別として、船戸与一の執念を感じさせる作品である。

 この小説は、1929(S4)年1月の張作霖爆殺事件から、31年の満州事変、37年の日中戦争を経て41年の太平洋戦争、そして45年の敗戦に至る戦争の時代を、霧島4兄弟というそれぞれ違った4つの視点から描き出す。

 昭和7〈1932〉年生まれの私には、この時期はちょうど幼少年期にあたり、戦争の詳細は知らなかったが、昭和史を少しずつかじり出すと、満州(現中国東北部)というものが今なお日本の現実に尾を引いていることに思い当たる。時の満州国家経済を主導し、商工大臣を務めた岸信介の強権的手法を、孫の安倍総理が引き継ぎ、「日本を取り戻す」というスローガンを掲げて、再び戦争のできる国に復活させようとしている。

 もう今の若い人たちには、満州と言ってもピンとこないだろうが、ぜひとも昭和史ぐらいは勉強してもらいたいと思う。満州の利権を巡る最初の争いが、1904~5年の日露戦争であり、次が満州の領土化を目指す満州事変である。その足掛かりとして、朝鮮の植民地化が強引に推し進められた。

 私の小学校時代の地理の教科書は、日本の領土をすべて赤色で表していたが、樺太・千島はもちろん、台湾・朝鮮・満州はすべて赤く塗りこめられ、太平洋戦争が始まると、香港・フィリピン・仏印等が赤く塗り替えられていった。私ら子どもたちは、それを無邪気に喜んでいたが、勝手に自国を戦場にされ、踏みつけられ、殺されたアジア諸国の人たちが何を感じていたかは私たちの想像の外にあった。そして今なおそれは、多くの日本人の想像力の外に置かれたままである。それどころか、最も身近な朝鮮の人々が、日本の植民地下で創氏改名を迫られ、自国語の使用禁止を強要されていたこともろくに知らないありさまである。8月15日は日本人にとって「終戦の日」であるが、韓国人にとっては「光復節」、つまり解放記念日なのである。歴史を知る努力なしに、心底からの仲良しはできないのではないだろうか。船戸与一の小説を読みながら、そんなことを思った。

 

〈8月×日〉

 何かに関心を向けていると、それに関係したことが飛び込んでくることがよくある。NHKのETV特集で「忘れられた人々の肖像~画家・諏訪敦・満州難民を描く」という番組の再放送が目に留まった。絵の方面に全く無知の私は、それまで諏訪敦という画家について全く知らなかったが、「満州」という言葉で録画する気になったのである。そして、この画家の執念ともいえる真実追求の姿に感動を覚えた。

 諏訪敦の祖父母は、1945(昭和20)年4月に、山形から満蒙開拓団に加わってソ満国境近くの村に移住する。8月、ソ連の参戦により逃亡生活が始まり、やがてハルビンで難民収容所に入れられるが、祖父はソ連に連れ去られ、祖母は31歳の若さで死ぬ。8歳になったばかりの父・豊と同年齢の叔母だけが帰国することができた。その父親が死ぬときに、敦宛に遺書を書き残す。そこには、国策として満州移民を進めながら、ソ連参戦とともに開拓団を見捨てた政府の責任を追及し「責任者よ出てこい」と書かれていた。事実、同年5月には、もしソ連が参戦・南下したら、関東軍は戦線を放棄して朝鮮国境近くに移動することが、大本営で決定されていた。開拓団は、国の楯として放棄されることが決まっていたのである。諏訪敦は、この遺書を読んで満州開拓の歴史を調べ始める。そして祖母・信子の肖像を描くことを決める。

 まず、画布一面に雪の上に横たわる若き女性の姿を描く。そして諏訪は、この女性を徐々に殺していく。そのために諏訪は、開拓団の生き残りを訪ね、祖母や父の消息を調べる。次に満州(中国東北部)に行き、開拓団の跡地や収容所の跡を訪ね、たくさんの死者が埋められた大地の感触を確かめるとともに、そこを取り巻く風景や空気の色を感じ取っていく。こうした取材の過程で、たまたま父と同じ収容所にいた同年代のSさんという老爺に出会う。Sさんは言う。

「国破れて山河在り、というが、現実はそんなものではない。わしらは襤褸くずよりひどいありさまだった。7歳以下で生き残った者は一人もいなかったし、8歳以上でもほんの一握りしか生き残れなかった。飢えと発信チブスで死んでいくのだが、死者は骨と皮だけになって紙のように軽かった」

 取材を重ねるにつれて、画布に横たわる若き女性の体は、肉を削られ、皮膚がたるみ、瞳の輝きが失われていく。国立感染症研究所を訪ねて発信チブスの症状を聴き取った後は、顔から体の隅々まで発疹の赤い印が刻まれていく。そして最後に、髪の毛をどうするかに思い悩む。31歳で死んだ祖母の、女の命ともいえる髪の毛だけは、残しておきたいと思うのだが、あの満州の死の収容所の暮らしで、若い女性たちはどうであったのか。思い悩んでSさんに電話する。Sさんの答えはこうだった。

「ソ連兵の暴行を避けるために、みんな髪の毛は切らされた。これは開拓団団長の命令です。この命令に逆らったら、収容所で生きてゆくことはできなかった」

 こうして諏訪は、写真でしか見たことのない祖母の最後の姿を、キャンバスに描き切った。しかしこれは、祖母一人の姿というより、国策によって満州に送られ、国策によって棄民にされた多くの農民たちの悲しみと恨みと怒りの姿そのものである。画題は「哈爾賓(ハルビン)1945年冬」。

 この絵には、事実をはるかに超越したリアリズムがあり、真実がある。真実は事実の描写ではなく、想像力の極限に僅かに花開くものであることを教えているようだ。

 

〈8月×日〉

 昨日、中西喜一さんが亡くなった。喜一さんは私より少し若く、今年5月に私が退院した後、韓国のkさんをつれて見舞いに来てくれた。その時の様子では、ピンピンと元気そのもの、これは私よりだいぶ長生きするな、と思っていた。それが8月30日、急に亡くなったと聞いて、信じられぬ思いであった。31日、早速お通夜に駆けつけた。ところが、どうだ。お通夜も告別式も、親族だけで執り行われ、村人も村外の知人・関係者も、すべて焼香だけという流れ解散方式の葬儀であった。しかも、これは喜一さん本人の遺志だというのである。

 私などは、死んでから後のことについてはすべてお任せで、葬儀はしてもしなくてもよく、何も注文を付けることはないが、喜一さんにはよほど何か思うところがあったのだろう。それは何なのだろうか? そのことが内部川に帰ってからも頭から離れなかった。そしてここから先は私の勝手な想像、妄想の域を出るものではないが、喜一さんがヤマギシ養鶏を代表する第一人者であった以上、今回の葬儀についての注文の中に、喜一さんのヤマギシ養鶏についての思いが関係しているように思えて仕方がなかった。それを調べるために、山岸さんの『養鶏書』(全集第1巻)と愛農会や愛善みずほ会(大本教)に寄稿した文書を読み直すことにした。そこから生まれた感想の一部は、9月の日録に書いてみることにする。

◎吉田光男『わくらばの記』(11)

わくらばの記 ごまめの戯言③

〈8月×日〉

「水俣病――魂の声を聞く」(NHK)の再放送をもう一度見た。大阪在住のSさんは、亡くなった劇症患者の姉の首に何回か手をかけたと話す。また、いま水俣に住むTさんは、重度障害の妹が自分の生きがいだと言いながら、車椅子での生活を余儀なくされた今では、この妹が自分よりより先に逝ってくれることを願っていると、苦渋の満ちた顔で語っていた。

 二人とも、水俣病劇症患者の姉妹を愛し、その世話に自分のすべてを捧げ乍ら、その一方で自分より先の死を願う。愛するがゆえにその死を願う。矛盾しているようで、そうではあるまい。これは、障害者は死んだらいい、などという浅はかな考えの世界とは全く異なっている。

 相模原殺人のような事件が起こると、新聞は「いのちの重さ」という言葉をよく使うが、その言葉から「いのちの重さ」を感じさせられることはなく、「言葉の軽さ」だけが伝わってくる。よく子どもの自殺に直面した学校長が「子どもらにいのちの大切さを伝えました」と話す。小学校も中学校も、校長の話はどれも判を押したように同じである。またそれを新聞がそのまま伝える。「いのちの大切さをどう伝えたのか」を聞き出すことなく、またそのことを教育として今後どう生かしてゆくのかには全く触れようとしない。

 言葉の軽さは自分たちにもある。使い慣れた安全な言葉で、大事な問題がするりと抜け落ちていないか、考えてみる必要がありそうだ。

 

〈8月×日〉

『週刊朝日』の相模原殺人事件の記事を読む。何とも寝ぼけた記事で、もう完全にジャーナリズム失格である。

 この事件以来、いろいろ考えているうちに、昔読んだ帚木蓬生氏の『安楽病棟』が思い起こされ、再読してみた。ここでの舞台は障害者施設ではなく、病院の痴呆病棟の話であるが、問題の本質は変わらない。(この小説の書かれた時期によるのだろうが、認知症ではなく痴呆という言葉が用いられているので、そのままこの言葉を使うことにする)

 この小説のテーマは、痴呆になって生き続けること、あるいは生き続けさせることと、人間が生きることの意味をどう考えるか、という人間観の根幹に触れるテーマである。

 主人公の城野看護婦は、尊敬する担当医・香月医師の講演を聞きに行く。そこで香月はオランダの安楽死に関する医療の現状を話す。それによると、オランダでは〈安楽死〉という言葉を使わずに〈生命短縮行為〉と言っているそうで、その対象は重篤な障害をもった新生児、長期の昏睡患者、重篤な痴呆患者であるという。その具体例として、対象は鼻空栄養や胃瘻栄養の患者で、「こうした人工的な栄養は、死の過程を引き延ばすだけであり、患者をベッド上のロボットと化し、治癒はもはや望むべくもなく、痴呆患者をさらに悲惨な状況に陥れるのみだ」とオランダでは断定されているという。さらに香月は「オランダにおける年間死亡例の4割が、実にこの範疇にはいる」と説明する。

 話を聞きながら、城野看護婦は、香月がオランダの実情を紹介してみんなに考える材料を提供しただけなのか、あるいはこうした安楽死を積極的に肯定しているのか疑問を抱く。そのあとしばらく、痴呆病棟の日常が描かれていくが、やがて何人かの死亡例が出始める。そして城野はその死亡に香月がかかわっている事実を突き止める。このドキュメンタリー風ミステリーは、自首をすすめる城野の香月宛の手紙で終わっているが、ここには単純な善悪では論じつくせない問題が含まれている。

 この小説の文庫版に解説を書いた中村桂子さんは「高齢化社会となった今、考えずに済まされることではない」問題だとして、「できるだけ生命を永らえさせることが医療の使命であるという従来の基準でははかれない生死の問題が生じてきている」と書いている。そして、人間の思考は黒白がはっきりした二分法が得意であるが、むしろ正しい解釈というものをはずして、「問題を避けずに正面から向き合いながら、しかし正しい答えへと突き進むのではない道はないか」と問題提起している。

 私自身は、生命維持装置によって生きながらえようとは思わないが、これを他に押しつけようとは思わない。また法によって一律に規制すべきものとも思わない。同時にまた、何が何でも生命が維持されさえすれば良しとする現代の医療が良いとは思えない。要するにわからないのだ。しかし、今一人ひとりがこの生と死の問題に正面から向き合い、自分はどう考えるかを考え続けることが大事なのだと思う。痴呆も障害も、遠からず自分に訪れる問題なのだから。

 

〈8月×日〉

 だんだん体力が落ちてきた。胸やけがひどく、食欲がないし、食べるとつかえて吐きそうになる。終着駅が近づいたとは思うが、特別な覚悟なり思いはない。まあ成り行き任せだから気は楽だ。

 UやKなどの三氏の呼びかけで、特講拡大の会合が開かれるという。各実顕地への参加の呼びかけがあり、内部にも連絡がきた。その呼び掛け文を見ていてもう一つ心に響くものがなかった。それは現状をどう見ているかの分析がなく、研鑽の焦点をどこに置くのかわからない点であった。みんなで寄って景気づけしようでは、何も始まらないのではないか、と思ったのである。

 私は参画40年の僅かな経験しかないが、特講はその時その時の時代の流れと、それを汲み上げる実顕地の努力の相互作用によって大きく動いてきた。この相互作用の動きがどのようなものであったかを知らなければ、今の時代に合った拡大はできないのではないかと思っている。しかし、そのことを知る人、考えようとする人は少ない。そこで、自分の経験を基に、時代状況と実顕地の動きを連動させて考えてみることにした。

 

〈第一次急拡期――1956年~59年〉

 1956(昭和31)年に第一回特講が京都粟生の光明寺で開かれ、これに参加した約160名の参加者が、「もう腹が立たない」「これで世界中から戦争を無くすことができる」と感動に打ち震え、拡大に走り回った。参加者は増え続け、特講拡大は急速に進んだ。と同時に、1953(S.28)年にスタートした山岸会式農業養鶏も急速に拡大を続けており、ここからの特講参加も増えていった。

 そして1958(S.33)年早々、百万羽養鶏の話が持ち上がり、3月に四日市市日永で百万羽養鶏についての有志の集会が持たれた。次いで4月、三重県菰野町で開かれた「かもしか会」という先進的な学者・研究者の集まりで、山岸さんから「百万羽科学工業養鶏」構想が正式に発表された。ここから急速に運動が進み、7月に四日市市赤堀で百万羽創立総会、8月には春日山での山岸会式百万羽科学工業養鶏株式会社の起工式が行われ、参画希望者がどっと春日山に集まった。

 翌59(S.34)年4月、「真目的達成の近道」が発表され、急拡運動の全面展開となる。それまで大阪にあった山岸会本部を春日山に移し、新たに特講会場を建設した。

 ここまでは、急進拡大の名にふさわしく、まさに順風満帆、特講開催回数は84回を数え、参加人数は恐らく5000名を下らないだろうと推定される。

 この時代がどんな時代であったかは、一概にくくることはできないが、昭和31年の『経済白書』に「もはや戦後ではない」という有名なせりふが書かれたように、戦後の混乱が終わり、経済が成長軌道に乗りかけた時期である。しかし、一般にはまだ戦争の傷跡が生々しく、人々は戦争のない安定した社会を求めていた。特講はこうした人々、特に農民層に強く訴えるものを持っていた。

 

 〈縮小停滞期――1959年~70年〉

 特講会場が春日山に移った最初の急革第一回特講、1959(S.34)年6月の第85回特講には〈ニセ電報〉で呼び出された人が沢山いて、逃亡者が続出した。これが山岸会事件の発端である。続く7月の急革第二回、第86回特講の最中に三重県警が「不法監禁容疑」で捜査を開始した。新聞は「養鶏講習の看板で山中に監禁・洗脳」と書き立て、参画者の親族やその周辺の人々は会に対して恐怖心を抱くようになった。

 特講終了後間もなく、県警200名と報道関係者多数が春日山を包囲して、14名を不法監禁容疑で逮捕・拘留した。その折も折、東加九一氏の傷害致死事件が起こる。この事件で、山岸さんを始め、柿谷さん、木下さん等8名が全国指名手配となった。これ以降、特講参加者はほとんどゼロの状態となったのである。

 明くる60年1月、山から土井たかえさん、渡辺操さんら5名が東京に拡大の旅に出る。この年は安保改定が社会の争点となっていて、特に4月以降、安保反対の大衆的なデモが国会周辺で繰り広げられることになった。そしてここに鶴見俊輔さんを始め、思想の科学系の知識人多数がかかわっていて、これら知識人と渡辺さんらヤマギシの夫人部隊がドッキングすることになる。これは、後々ヤマギシを学生・インテリ層に広める上で非常な力になった。

 翌61年5月、山岸さんが亡くなる。特講が再開されるのは、ようやくこの後3か月してからである。参加者は10名足らずでそれほど多くはなかった。この状態はしばらく続く。

 この10年は、64(S.39)年の東京オリンピックをはさんで、経済が右肩上がりに上昇する時代である。岩戸景気からいざなぎ景気へ、実質成長率は最低8・6パーセントから最高14・2パーセントと高水準を維持しつづけ、一億総中流化へと突き進んだ。都市部の住宅不足を解消するため、公団住宅が都市周辺部に広がっていった。ベッドタウンの誕生である。

 こうした経済の上昇過程は、同時に社会的な矛盾や軋轢をも生んだ。国際的にはベトナム戦争の激化、理想とされた中国革命の文革による混乱、また国内では大学の現状や学問のあり方をめぐる学生たちの疑問、こうしたことから学生たちが大学の変革をめざして立ち上がった。いわゆる学園闘争である。しかし、この闘争も68(S.43)年の東大安田講堂への機動隊導入、強制排除で幕を閉じる。全国の他大学でも、この前後1年内外で運動は終息を迎える。

 運動の終息で目標を失った学生たちはどこへ向かったか。一部はヒッピー化して世界を放浪し、一部は新たな共同体に活路を見い出そうとした。いわゆる泡沫コミューンの誕生である。そしてその一部がヤマギシにも流れてきた。農民中心の特講が、ヒッピーや学生、落ちこぼれサラリーマンにとって代わられるようになっていく。

 

〈成長前期――1971年~79年〉

 71(S.46)年秋、安全食糧開発グループ代表の岡田米雄氏から、「食卵として有精卵をつくってくれないか」という話が持ち込まれる。早速、入雛時期、卵価等が決まり、よつば牛乳の共同購入グループ等への供給が始まる。73(S.48)年には、「六川の低農薬ミカンを」という話もあったが、出荷直前になって「見た目が悪い」ということで、キャンセルされた。そこから実顕地が主体となって供給を始めることになり、多摩供給所が発足、活用者グループ作りが始まる。折からの自然食ブームもあって、供給は急速に広がった。これがきっかけとなって、全国的に供給所が設置されることになる。

 一方、特講のほうは、しばらくは参加者が伸びず、10人前後の状態がつづいた。大きく変わり始めたのは、1000回特講(1977年?)に活用者が初めて参加してからである。このとき参加者は70名弱で、東京狛江から活用者第一号として、Y・Mさんが参加した。また医師の松本繁世さん、出版社のHさん、学生のS君など、これまでの反体制社会運動家とは毛色の違った人たちが参加した。これをきっかけに、特講は大きく伸び始める。狛江からは次々と特講送りがつづき、それは町田、国分寺、日野等の都心を囲むベッドタウンへと広がり、またS君を通して、茨城大学や周辺の女子短大へ、また両親の住む新潟三条へと広がった。

 活用者の広がりが特講の拡大を招き、また特講拡大が活用者の拡大を推し進めた。実顕地では卵の需要拡大にこたえるため、新たな実顕地造成が進められ、鶏舎建設が急ピッチで推し進められた。水沢内部川、六川津木、大田原などが造成される。

 この時期に中国研究者の新島淳良夫妻が参画、阿山に幸福学園を開設する。そして75(S.50)年8月に、第一回「夏の子ども楽園村」を幸福学園で開いた。翌76年には、春日山で初めての楽園村を開催、ここから供給、特講、楽園村という連動する拡大運動が軌道に乗っていく。

 

 〈大躍進期――1980年~94年〉

 1980(S.55)年、実顕地ではこの年から年間テーマと月別テーマが出されるようになった。豊里に新しい浴場が作られ、また新食堂「愛和館」が建設されたのを機に、村の暮らしを見直そうというのが、そもそもの出発であった。前年の79年には、それまでの「養鶏法研鑽会」が「生活法研鑽会」に衣替えして、生活面の見直しが始まっていた。

 それまでの愛和館の暮らしと言えば、作業着のまま食堂に入り、豚糞の臭いを周囲に撒き散らして、しかもそれを当たり前としていた。このへんの見直しが始まり、各職場に作業更衣室が作られるようになった。この暮らしの変革は、外から活用者を受け入れたり、楽園村の子どもやその親を受け入れる上で大いに役だった。80年には「ヤマギシの実顕地を参観しませんか」の全国運動が展開された。

 とにかく、この時期の実顕地は拡大に拡大を重ねており、80年の養鶏関係の生産規模は、「餌総量一か月1000トン、鶏舎総連数は25連鶏舎250棟、鶏総羽数は70万羽」(「春日山50年の歩み」)というものであった。82年の春日山8月特講には、141人の参加者があった。84(S.59)年には、海外第一号の韓国実顕地が誕生している。

 まさに村は日の出の勢い。そして、85(S.60)年5月に、「第一期ヤマギシズム学園幼年部」が創設され、翌86年4月に「ヤマギシズム学園高等部」が開設された。

 学園の創設と学園運動の始まりは、それまでの運動に質的変化をもたらした。特講拡大、活用者拡大、楽園村拡大というこれまでの運動形態に学園拡大が加わり、さらにこれは参画拡大という方向へと突き進んでいく。92(平成4)年4月の村人テーマは「2300人学園生 村人と共に新学期」というものであった。楽園村も、学園の拡大を目指して「夏の楽園村」とは別に、「毎月楽園村」(「3週学校、1週楽園村」)運動が展開されることになる。参画者も急激に増え始めた。

 しかし、この急激な拡大は、さまざまなひずみをもたらした。特に、親に強制的に送り出された子どもたち、親の参画によって学園に入れられた子どもたちには、一律的な学園生活は耐え難いものであったかもしれない。何人かの子どもが、祖父母のもとへ脱走する事件が起こった。親は話にならないので、祖父母のもとへという、涙ぐましい脱走劇である。

 こうした事態の中で、93年10月、S・M氏がヤマギシ批判の「私のみたヤマギシズム社会の実態」を発表、続いて94年5月、T氏が『ヤマギシ会の暗い日々』を出版、同年6月には「ヤマギシを考える全国ネットワーク」(代表・松本繁世)を立ち上げた。また実顕地内では、美里実顕地のK氏が、「賃金未払い」ということで、津地裁に提訴した。これは調正機関脱退者からの初めての訴訟であり、これ以後参画時の出資財産返還訴訟が何件も繰り返されることになる。

 一方、実顕地では、「オールメンバー研」が開かれ、毎年5月山岸さんの墓前で「オールメンバーの誓い」を声高に唱える行事が行われるようになった。外部の批判に揺るがない自己の確立を目指したものではなかったかと思う。

 このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。

 

〈混乱・縮小前期――1995年~99年〉

 1995(平成7)年1月、阪神大震災が発生、次いで3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。阪神大震災は、それまで何となく続いていた社会の太平ムードを打ち砕き、地下鉄サリン事件は新宗教やそれと同類と見られた集団(ヤマギシもそこに含まれていた)に、"カルト”‟洗脳”のレッテルを貼り付けることになった。

 この年8月、「ヤマギシを考える全国ネットワーク」が、脱退者と参画者の家族に、実顕地に対する訴訟の勧めをアピールした。これに応じた広島のY氏が参画時出資金の返還を求める訴訟を起こす。翌96年には、Mさんの出資金返還訴訟など、情報公開請求を含むさまざまな訴訟に見舞われることになった。

 こうした時代背景のもとで、それまでデパートに一定の売り場面積を確保していたヤマギシの店が、次々と閉鎖されるようになった。「安全食品連絡会」という団体からの閉店要請を受けてのことであるが、元参画者による「牛乳の日付改ざん」の告発も、生産物の安全面での信頼を失うきっかけになった。

 一方実顕地のほうは、この頃から「本もの」という言葉を多用するようになった。96(H.8)年の2月度テーマは「基盤整備 本もの本質を本筋に乗せる」である。しかし、何が「本もの」であるかの研鑽は十分行われず、実顕地生産物はすべて「本もの」である、という抽象的であいまいな考え方に向かってしまった。この自己肥大化した考え方は、とうてい外部からの批判に耐えられるものではない。しかし、まだ活用者の支持は強く、生産物が大きく減少することはなかったし、特講も活発だった。

 この頃から学園生の祖父母たちによる子どもとの面会要請や、子ども引き取り要求が激しくなる。この動きは、96年11月の「ヤマギシの子供を救う会」の結成(ジャーナリストの米本和弘氏と学園生の祖父母)に至る。これに呼応して、ジャーリズムは一斉に反ヤマギシキャンペーンを開始する。96年11月、日本テレビは「今日の出来事」でヤマギシの子どもを5回に亘り放映、「週刊新潮」など週刊誌も、格好の話題としてこの問題を取り上げた。産経、読売を始めとする各新聞社も同様である。

 こうした反ヤマギシ包囲網の中で、実顕地はどう対応したか。

 97(H.9)年3月度テーマは「日常の総ての現れは もとの心の顕れ」である。また子どもに関しては、96(H.8)年7月度テーマが「親が子供に対して外さない いき方」、9月度が「親と子の異い 親が実践 子供も実践」である。これらテーマの真意は、子どもに対してはわがままを許さない、学園をやめたいとか、係りに対する不満を言わせない、ということであり、また動揺する親に対してはそれは「もとの心」がイズムから外れているからではないか、と引き締めをはかるものであったろう。だから、自分の子どもが「学園をやめたいと言っている」というような話は、村人どうしで話し合われることはほとんどなかった。いきなり村を出る人がいて、「なぜか」と聞くと、ようやく重い口を開いて「子どもが出ると言ってきかないから」と話してくれたりした。

 こうした中で、97(H.9)年、名古屋税務局の税務調査が始まった。この事件は全国紙で「ヤマギシ 脱税疑惑で捜査」と報じられた。翌98年4月、「ヤマギシ会200億円の申告漏れ」と各紙に報じられ、実顕地は60億円の追徴課税を余儀なくされた。

 一方学園のほうは、97年度テーマに「学園 小中一貫学校法人設立へ始動」とあるように、公立校設立準備を始め、翌98年4月に「やまぎし学園」設立認可申請書を県に提出した。しかし、これに対しては「祖父母の会」を始め反対運動が根強く、日弁連が「子どもの人権擁護」という観点から勧告を出したり、また県が小中学生に対するアンケート調査を行い、認可不適切の方向へ大きく傾いた。そのため実顕地は、99(H.11)年6月、申請を取り下げることとなる。

 この90年代後半の時期は、実顕地にとってまさに激動の時代である。村の指導部門に、ある種の亀裂が見られるようになった。それは村人テーマに表れている。

 98年3月度「行ける所へ 行きたい時に 行く自由」

 同4月度「やりたい人がやりたい丈やる自由」

 99年9月度「自主 自発 自立 自律」

 これらのテーマは、それまでの一定の強い方向性をもったテーマから「自主」や「自由」を強調する方向へ転換している。しかし、完全に変わったわけではなく、方向性をもったテーマとしばらくは同居していた。ところが98年10月、突然「村から街へ、イズム普遍化の秋来る」というテーマが出された。これは、それまでの全員参画、実顕地拡大という流れとは逆行するものであった。いわば、実顕地解体の方向である。これは、真意不明のまま村人の混乱を引き起こした。こうした最中に、これまで実顕地の運動を指導していた杉本利治さんが亡くなった。

 

〈衰退期――2000年~2012年〉

 2000(H.12)年から村のテーマが一切なくなった。方向付けをしない、というか方向付けができない状況になったのである。そして村から街への流れの中で、脱退者が相次いだ。ただこの脱退者のうちには、ヤマギシズムそのものに反対してというのではなく、今の実顕地に異を唱えてという人がかなり含まれていた。そして、この年の12月には、S氏などの人たちが鈴鹿に居を移し、新たな運動拠点を構築した。これによって、村を出る人、それに強く反発する人、両者の間で迷う人と、村人の間でしばらくは混乱が続いた。こうした動きは、学園の解体を早め、学園廃止に追い込まれる実顕地が相次いだ。当然、楽園村も参加者が減り、特講も縮小した。また、活用者グループの解体により、生産物の供給も急速に減少した。1980年以降、供給拡大、楽園拡大、特講拡大、学園拡大、実顕地拡大と互いの相乗効果で伸び続けてきたヤマギシズム運動が、ここへ来て負のスパイラルに陥ったのである。

 このような時にもっとも大事であるはずの研鑽が、十分に力を発揮できなかった。というよりも、研鑽力が村人の間に十分養成されていなかったということであろう。「聞く」「検べる」という最も基本的な部分が欠落していたのではないか、と思う。調正所の言うことは聞けても、それに反対する人の意見は聞けなかったり、またその逆であったりした。つまり、誰の言うことでも聞けて、誰に対しても言えて、では本当はどうかと検べる、検べ合う――この基本的な研鑽力が身についていなかったのである。

 これは、これまでの特講、研鑽学校のあり方、中身を検討するいい機会であったと思うが、ほとんど取り上げられることはなかった。そして従来通りの研鑽体制を今なお踏襲している。

 この2000年前後の時期で記憶に残っていることの一つに、こんなことがあった。熊本の甲佐実顕地にいるとき、何人かの供給所のメンバーが、配送車や運輸トラックに書かれた「ヤマギシ」の文字を薬品で消しているのだ。「何しているのか」と聞くと、本庁から消すようにとの指示があった、というのである。周囲からの反ヤマギシキャンペーンが盛んなこの時期こそ、「我々はヤマギシです」と胸を張ってなぜ言えないのか。なぜ隠さねばならないのか。同じように、農産物でも、これまで「本もののヤマギシの生産物」と謳っていたのに、「なになに農園の農産物」とヤマギシの名前を隠すことがはやり出した。こうした姿勢の裏に、何があったのだろうか。次の運動の発展のためには、避けて通れないテーマのはずである、と思うのだが……。

 

 〈???――2013年~〉

 2013(H.25)年に春日山で一部にテーマが出されるようになった。最初は春日山で細々とテーマのある暮らしが始まったが、翌年には各実顕地にこれが拡がっていった。「実顕地一つ」あるいは「実顕地一つからの実動」ということで、実顕地間の交流が盛んになった。これは、それまでの停滞ムードを吹き払い、新鮮な空気に入れ替える効果があった。しかしこれが、ヤマギシズム運動の本質的部分や実顕地生活の基本的な部分の変革につながるかどうか。

 この間、生産物の供給はほとんど止まってしまった。供給所は次々と閉鎖され、配送も宅急便などに切り替えられた。替わって登場したのが「ファーム」という名の販売所である。しかしこれも、一部地域に限定されていて、全国展開とは程遠い状態である。また、特講も参加者が伸びず、開催回数も激減してしまった。

 いま日本の社会はますます混迷の方向をたどっており、若者の多くは希望を失って自殺者が絶えず、老人は施設や団地の一室で孤独死を余儀なくされている。こうした時代の変化に、ヤマギシは何をもって答えるのか。これからの実顕地はどうあったらいいのか。今ある実顕地の良さ、可能性というものを、どうすれば社会に発信できるのか、自己満足ではない答えが、いま一人ひとりに問われている。

 

  以上は8月に記したノートを整理したものであるが、これの整理には何日もかかってしまい、疲れ果ててしまった。昨夜は夜中3時まで吐きつづけ、このまま書き続けるのは難しそうなので、一応今回はここで打ち切ることにする。

 なお、年表は「春日山50年の歩み」と「近代日本総合年表〈岩波版)」を用いた。これらの年表と自分の経験したことを重ね合わあせて綴ったものであるが、1990年以降は韓国に行っていたり、帰国後は成田の造成や大田原、甲佐等、周辺部分にいて、豊里や春日の動きを直接知る機会がなかった。そのため、見方が偏ったものになっているかもしれない。できたら、大勢の人たちがそれぞれの経験を持ち寄って、歴史を振り返ると共に、これからの進路がいかにあるべきかを検討してほしいと願っている。 

 

◎吉田光男『わくらばの記』(10)

わくらばの記 ごまめの戯言②

〈7月×日〉

 白川静さんの『孔子伝』読了。2回目だが、やはりすごい作品だ。私は『論語』というものが、あまり好きではない。その道学的雰囲気が好きになれないのだ。しかし、白川さんによって孔子の姿が生き生きと蘇り、社会に受け入れられずに諸国を放浪し、放浪の中でなお自己の思想を確立してゆく孔子の姿が浮かび上がってくると、何か厳粛な気持ちにさせられる。と同時に、思想が思想として成立する条件が、孔子晩年の流浪の中にあったことが納得できる。

 しかし、弟子たちが体制に巻き込まれ、体制のイデオローグと化していくことで、道徳としての『論語』が成立する。孔子自身は、一字も自分で文書は残さなかったという。不遇や失意を潜り抜けること無しに、思想は成立しないのかもしれない。

 この『孔子伝』に関して晩年の高橋和巳さんが書き残した一文は、忘れがたい。

「立命館大学で中国文学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的封鎖の際も、それまでと全く同様、午後11時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光灯がともった。」(『わが解体』)

 S教授、つまり白川さんは、このときちょうど『孔子伝』を執筆中であったらしい。白川さんは、本書の「文庫版あとがき」に次のような一文を記している。

「孔子は最も狂者を愛した人である。『狂者は進みて取る』ものであり、『直なる者』である。邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするもので、狂気こそが変革の原動力でありうる」

 多くの知識人が右往左往した60年代後半から70年代にかけての動乱の時代に、金石文を始めとする中国古代文字の解明に力を注ぎ、そこから古代人の心性や祭祀の意味を明らかにした白川さんは、まさに「狂気の人」と言いうるかもしれない。いい加減に暮らしてきた自分には、はるか遠くに聳える山脈に見える。

 

〈7月×日〉

 昨日の診断結果――

 がんマーカーの数値上昇。CT検査では、肝臓への転移が認められるとのこと。寿命は50%生存率があと1年というご託宣であった。

 あと1年とすると、その間どうあったらいいか、何をしておくことなのか。今のところ、思いつくことは何もない。

 三人の姪たちには、一応知らせておいた方がいいのかもしれないと思ったりもする。子どもたち一家は、ひろみの呼びかけで近々集まって話し合うという。 

 窓の外に植えたグリーカーテン用のゴーヤが実をつけ始めた。収穫を目当ての作物と違って、こんな鉢植えのものでも立派に成長して実をつけるので感心してしまう。まさに生命のたくましさ、すばらしさ、またそこに生命のいとおしさも感じさせられる。

 

〈7月×日〉

 Kさん来る。明日は息子夫婦と共に、私たち夫婦の今後について話し合うとのこと。

 〈7月×日〉

 選挙結果が出た。自公の圧勝。改憲が日程に上った。あきらめに似た感じになる。歴史に学ぶことのない民族は、亡びるよりないのかもしれない。

 

 〈7月×日〉

 軽い吐き気のようなものがあり、この2日ほど抗がん剤をやめている。今朝もやめた。 少し散歩する。足が疲れた。足腰が衰えたか。

 昨日、一志からMさんが来て、話をした。2000年来の一志での全研の話を聞いて、納得できるところもあった。それまで否定的に扱われていた個の尊重を、あの全員参加の研鑽によって見直したというのである。私も話を聞くまでそのことに気づかなかった。しかしその昔、ソクラテスを死刑に付した古代ギリシャの全市民参加の直接民主主義も、或いはヒトラー独裁を導いたワイマール民主主義も、個が尊重される社会での出来事であった。全員参加の研鑽会から、次に何を導き出すか、そしてまた公的な生き方とは何かを考える次のステップが欲しかった。

 

 〈7月×日〉

 フランスのニースでのテロ、昨日はまたトルコで軍のクーデターがあった。クーデターは失敗に終わったとはいえ、歴史の流れは大きな変わり目に来ている。

 1945年、第二次大戦後つづいてきた比較的平和な、成長と安定の時代は、これから急速な変化の時代に入るであろう。どこへ向かうのかはわからないが、世界各地で混乱が起こり、広がるものと思われる。お金の面ではますますグローバル化が進み、民族間、宗教間、国家間では対立が深まる。そして、社会には所得差が拡がって、持てるものと持たざるものとの対立が激化する。

 この流れから身をかわすことはできない。しかし、先は見えないし、どうすべきかもわからない。とにかく、目を大きく開けて、この動きを冷静に見つめる以外にない。

  

〈7月×日〉

 Mさんからもらった鈴鹿の『asone 一つの社会』を読み始める。納得できるところ、同調できるところはたくさんある。しかし、やはり疑問は残る。それも根本的な疑問である。疑問というのは、「もともと」とか「本来」という言葉で言い表される中身だ。

「人間本来の姿=幸福」

「病気のない健康体であることが本来の姿」

「生まれて間もない赤ちゃんは……人間本来の姿」

「もともと安心安定」「無いのが本当」

「スタートが一つ。最初から一つ」

 これまで実顕地で言われてきたことと、それほど変わらない。それをやさしく、わかりやすい言葉で解説している。

 しかし最近私は、この「本来」「もともと」という言葉に、強い疑念を持つようになった。この言葉は、「真理」と同じ意味で使われているから、もしこの言葉に疑問を出そうとすれば、「お前は真理に楯突くのか」と言われそうで、「はっ、はあっ」とひれ伏す以外になくなってしまう。しかし、「真理」と「人間が真理と考えるもの」とははっきり違うものであり、「人間の考える真理」はあくまで頭の中の存在であって、それは真理であるかもしれないし、真理でないかもしれない。いわば、真理という実像に対して、「真理と考えるもの」は仮像にすぎない。この仮像をもって「本当」とし、これをすべての物事の原点としてしまえば、自分の今の姿、実態との開きを何によって埋めるか、そこにうそ偽りが入り込む余地が生じないだろうか。2000年以来、私がもっとも苦しんできた問題は、そこにあった。私はいま「本来」も「もともと」も棚上げして、自分のあるがままの姿を見つめ直すことに重点を置いている。

「真理とされるもの」から出発する思想は、一種の原理主義になりうる。だから鈴鹿を離れた人は、「スタートが一つ、最初から一つ」の出発点から外れた人、「最初から一つではなかった人なのだ」と切り捨てられることになる。

 私には、鈴鹿にも、鈴鹿を離れた人にも、何人かの親しい友人・知人がいる。みんなそれぞれが、人々の幸せを願い、何らかの活動をしている。何が真の幸せに結びつくのかはわからないが、それぞれの生き方は尊重したいと思っている。だから、このような疑問や異論を提起することはどうかとも思ったのだが、疑問は疑問として正直に語る方が大切だと考えて書いてみた。

  

〈7月×日〉

 昨日はEさんに送り迎えしてもらって、豊里の資料研に出た。そこで、Sさんの「本来」「もともと」と表現されていることの中身をどう考えるか、と問題提起してみた。あまり深まることはなかったが、最後にEさんが「そう考えられるが、どうだろうか」と発言した。まあそのへんが一つの落としどころかと思うが、もっと各人で考え続けたいテーマである。しかし、考え続ける人は少ないだろうな、とも思う。実顕地の研鑽会は、その場かぎりで終わってしまい、考え続ける習慣というか持続性がない。そのことがどういうことかは、また別のテーマであるが。 

 

〈7月×日〉

 人間は、社会的存在であると同時に歴史的存在である。さらに言えば、自然史的・地球史的存在である。いつでも進化=変化の中、つまり時間の流れの中に存在している。400万年ほど前に類人猿から猿人・旧人に進化し、20万年ほど前に新人、つまり今のホモ・サピエンスになったと言われている。すると、「もともと」とか「本来」というのは、進化のどの地点の人間を指して言っている言葉なのか。出発のゼロ地点がどこかにあると言えるのだろうか。また、「生まれて間もない赤子は人間本来の姿」というけれども、たとえ無垢の赤ん坊といえども、親の遺伝子を受けつぎ、胎教という母親の心理的・肉体的影響を受け、人類の集合的無意識を受けついでいる。(とユングは言っている) 

 こう考えていくと、「もともと」とか「本来」ということの中身がよくわからなくなる。わからないというよりは、そんなものはもともと存在しないのではないか、と思えてくる。

 しかし、「幸福が人間本来の姿」であってほしいという願いはある。事実としての存在としてではなく、願い・願望としては、強くそうありたいと思う。だから、「本来の姿」から出発する鈴鹿の人たちと違って、私は現実の自分を出発点として「本来の姿」に向かって歩くしかない。煩悩具足の凡夫たる自分には、そうする以外にない、と今はそう思っている。 

 

〈7月×日〉

 大橋巨泉が死んだ。野坂昭如、永六輔につづいて、昭和10年前後の同世代の人たちが相次いで世を去った。一つの時代が終わり、次の時代に移り変わる象徴的な出来事だ。多分、暗い悲劇的な時代が始まるのであろう。私は幸運にも死期を迎えたことで、その時代を見ることなく済みそうだが、子や孫のことを考えると、安閑としてはいられない気持ちになる。

 巨泉も野坂も永六輔も、みんな未来に暗い予感しか抱けなかった。それは多分、私たちの年代が、戦前、戦中、戦後の大きな時代の変転を経験しており、その経験がこれからの未来を見る目を暗くするからであろう。

 恐らく若い人たちには、戦中の、たった一晩で数千・数万を上回る人たちが焼死したり、戦中戦後のものすごい食糧難やインフレーションというものは、話には聞けても実感を以て受け取ることはできないだろう。戦後の困窮の時代が、あっという間に経済成長の波に押し上げられ、一億総中流化が叫ばれたかと思えば、停滞と貧困化の時代に変化する。時代はこれからも変化する。しかも、急速に。世代間の経験の共有は、実に難しい。 

 

〈7月×日〉

 世界中で大人気のゲームソフト”ポケモンGO”が、近々日本でも発売されるというので、大きなニュースになっている。私にはゲームに対する興味も関心もなく、世界中の若者がああいうものに夢中になるというのがよくわからない。自分たちの住む現実の世界がどうなるかに関心がなく、バーチャルや現実をバーチャルに一部取り込んだ仮想の世界にのみ関心が行くとすれば、これはもう一億総白痴化どころの騒ぎではない。人類滅亡への第一歩かもしれない。

 しかし、遊びが人間にとって大事な要素であることは間違いない。科学も芸術も、遊び心なしには生まれない。また、子どもにとって、昔から遊びの一つとしてゲームが取り入れられ、これが子どもの知能の発達に役立ってきた。しかし最近のゲームは、子どもの知能の発達に役立つのではなく、逆に子どもの知能をゲームが吸い取って消尽している。脳がゲーム脳になって、収縮していく。

 このゲームが、子どもばかりか若者からいい年の大人まで虜にするとすれば、これからの世の中はどうなっていくのだろう。 

 

〈7月×日〉

 昨夜から、体にふらつきがある。何となく平衡感覚が損なわれている感じなのだ。一週間前にもそんな感じがあったが、その時は翌日すぐ正常に戻った。しかし、今回はまだ続いている。抗がん剤はいま休止期間に入っているとはいえ、その残留効果というか、残留副作用があって、それが神経を狂わせているのかもしれない。 

 昨日から沖縄本島東北部の東村周辺の米軍ヘリポート基地建設に向けて、政府は反対住民の強制排除に乗り出した。それも日本全国の機動隊を総動員しての強制排除である。一方、辺野古では仲裁裁判の和解勧告を無視するかのように、話し合いを拒否、一方的に告訴に踏み切った。そして埋め立てとは関係ないとして、陸上での工事を再開しようとしている。これが、参院選直後の沖縄への仕打ちである。 

 

〈7月×日〉

 今日は、ふらつきは出ていない。昨夜は胸やけもほとんど出なかった。もしかしたら、体の欲求以上に食べ過ぎていたのかもしれない。栄養補給しなければ、という観念にとらわれ過ぎていたということだ。それにしても、体重は減ったまま少しも回復しない。腰回りが細くなって、ズボンがずり落ちて困る。 

 ここ数日、鈴鹿の『asone 一つの社会』について考えている。「もともと」あるいは「本来」というのは、「そう考えられる」という考えを言っているのか、それとも「事実がそうだ」と言っているのか。

「人間本来の姿は幸福」と断定しているのを見ると、これは一つの考え方ではなく、事実と断定しているのではないかと思われる。しかし、「もともとの姿」や「本来の姿」というものが実在として存在するものなのかどうか。どうも私には、「もともとの姿」も「本来の姿」も、もともと存在しなかったとしか思えない。だいたい、今の人類は20万年前には存在しなかった、400万年前には類人猿も存在しなかった、38億年前には生命自体が存在しなかった、46億年前には地球自体が存在しなかった、140億年前には今の宇宙も存在しなかった、そう宇宙学者は言っている。じゃあ、その前は?といえば、真空で何もなく、その真空の揺らぎから宇宙が誕生したというのだが、このへんになると無学の私にはさっぱりわからない。さっぱりわからないけれども、もし「もともと」というのであれば、「無」「何もない」のが本当ではないかと思える。

 だから、人間の「かくありたい姿」として「もともと」や「本来」を思い描くのは賛成だが、これを実在としてしまうと原理主義の陥穽に陥るのではないか、と危惧するのである。 

 

〈7月×日〉

 今日はYさん夫妻が、神戸からわざわざ来てくれた。お互いに今思うことを出し合って面白かった。今ではお互いの間に壁が一切ないので、何事も歯に衣着せずに話し合え、意見交換ができた。こういう関係がすべての人との間にできたら楽になるなと思った。少なくとも自分の壁は外しておきたい。 

 ”病症妄語”5月2日退院までの記録を整理し終え、少数の知友に送付した。何か一仕事終えた感じになった。 

 

〈7月×日〉

 今朝、相模原市の障害者施設で、元職員の男による大量殺傷事件が起こった。死者19人にも上る惨事である。男の自供によれば、男は障害者がいなくなればよい、と言い、ツイッターに「世界が平和になりますように! ビューティフルジャパン」と書き込んだという。ナチスによる精神障害者の計画的抹殺を、個人のレベルで行ったことになる。

 ちょうど『帰ってきたヒトラー』を読み終えたところなので、余計この事件が一人の狂った男の犯罪として処理することはできないと感じられた。 

『帰ってきたヒトラー』は、ブラックユーモアにあふれた恐ろしい物語である。戦後蘇ったヒトラーの言うことが、かなり的を射て戦後のドイツ(あるいは先進国すべて)の矛盾と退廃を衝いており、かなりの程度に読者の共感を呼ぶことである。ヒトラーと共に怒り、笑っている自分が、いつの間にかナチスに取り込まれ、その支持者になりかねない恐ろしさがここにはある。狂った悪の権化としてヒトラーを片づけるだけでは、忍び寄る第二のヒトラーを防ぐことはできない。

『帰ってきたヒトラー』の文庫版に付された解説の一つにマライ・メントライン氏のものがある。この中で氏は、今のドイツの恐るべき社会風潮の一つを紹介している。それは、ある人気テレビ番組で〈ヒトラー芸〉で人気を博した一人のコメディアンの次のような発言である。

「ボクの〈ヒトラー芸〉に対するバッシングは、ある日突然、一人の著名な社会批評家がボクを糾弾しだしたときに始まったんです。そして炎上した。それまで、誰もそんな文句はつけてこなかったのに。マスコミ関係者も『別に問題ないよ』と言っていたのに……でも一番恐ろしかったのは、ボクを糾弾した人々が、そのとき、さも昔からボクを問題視していたかのように動きはじめたことです……」

 これは、今の大衆社会状況をよく示した事件といえる。ある日突然ブームとなって大衆を呼び込み、またある日突然バッシングを招いて排除される社会、この社会現象をメントライン氏は「本質的な結論を回避する無限連鎖の展開」と言っている。

 ヒトラーを悪と決めつけ、1930年代になぜあれほどの熱狂をもって市民・大衆に迎えられたのかを調べることなく、「極悪非道」の名のもとに否定し去るだけで、ヒトラーを熱狂的に支持したかつての自分たちの責任を回避する今の市民社会とは何なのか。

 今回の障害者殺傷事件についても、一人の狂った人間が引き起こした事件として済ませることはできない。かつて都知事時代の石原慎太郎が障害者施設を視察した後、「ああいう人ってのは人格あるのかね」と言い、自民党副総裁・麻生太郎は高齢者について「いつまで生きるつもりだよ」とうそぶいたという。今回の事件で逮捕された男が、衆院議長あてに「殺人予告」の手紙を書いたというのも、こうした一部政治家の発言を知っていたからであろう。そしてもっと恐ろしいのは、こうした考え方に近いものが、自分の中にもあるかもしれない、ということである。「わが内なるヒトラー」「わが内なる植松聖」について、考えていかねばならない。 

 

〈7月×日〉

 Mさんが届けてくれた池田晶子の本、確かに面白い。納得できることも多い。しかし、疑問は残る。それは「哲学とは言葉であり、真実を語る言葉の中にある」という言明である。では、池田さんはいつでも真実を語っているか。それが、「自分の言葉」ではなく「真実の、あるいは真理の言葉」であると何によって証明できるのか。それは、真実であると信ずる「自分の言葉」にすぎないのではないか。

 また「人はわからないからこそ考える。それが哲学するということだ」と言いながら、神戸の殺人事件を引き起こした少年Aについては、「あれは人間ではなく魔物だ。だからわからない。こんなわからないものについては考えない」と、考えることを放棄してしまっている。

 わからないものを、何とか説明づけて納得しようとする世間の常識を批判するのはわかるが、もう一つピンとこない。

 また池田さんは、スポーツ新聞ばかり読んでいる人を「本来すべきことがあるはずだろう。これは気晴らしどころか、頭の中にはほかに何も入っていないのではないか」とこき下ろしている。確かにそうした人の多いのが現実には違いないが、そうした社会の実態の上に立ってどう考えるかが哲学者にも求められているのではないだろうか。

 池田晶子さんのファンは多いそうだ。知人の中にも何人かファンがいる。それは、池田さんの明快な切り口の鋭さに魅了されるからでもあろう。しかし、池田さんも言うように、池田さんの本自体を自分の頭で読みこなしていかないと、単なるエピゴーネンになってしまうだろう。 

 

〈7月×日〉

 退院後ずっと、2日に一度風呂に入る。裸になって鏡の前に立つと、そこにしぼんだ風船のようにシワシワの体をした哀れな男が映る。思わず「誰だ、お前は!?」と叫びたくなるが、これが今の自分の偽らざる姿と認めざるを得ない。

 私は、去年の12月に食道がんを宣告されたとき、死を覚悟した。そして、子どもたちに本人の意思として、「もし死が避けられず、生命維持装置によって植物的にしか生きられないとすれば、それはやめてほしい」と伝えた。しかし、「植物的」という概念も、本当のところはよくわからない。意識があるのかないのかもわからない。ただ、自分としては自律的に生きることができなくなったら、死を受け入れたいと思っている。いわゆる「尊厳死」の考え方である。

 自分はこれでいいと思っているし、その思いは今も変わっていない。しかし、この考えを他の人に当てはめることができるかどうか。自分は自律的に生きられなくなったら死を選ぶけれども、他の自律的に生きることができない障害者に、あなたもそうすべきだなどととうてい言うことはできないはずである。しかし、自分の考え方は、どこかで障害者の死を軽視したり、肯定したりする優生思想につながりはしないか、という恐れが出てきた。

 最首悟氏は、「今社会には社会資本を注いでも見返りのない障害者や寝たきり老人は〝社会の敵”だと見做す風潮がある」と指摘している。敵とまでは言わなくとも、ごみとか屑という考え方は、中高生の間にも底流として流れている。いわゆる社会正義の仮面をかぶった考え方である。そして正義の士になりたがる人が意外と多い。

 今回の植松聖の障害者殺傷事件を通して、もっとこの問題をみんなで考えていきたいと思い出した。他人事としてではなく、自分の生き方の問題として考えていきたいと思う。

◎吉田光男『わくらばの記』(9)

わくらばの記 ごまめの戯言①

〈5月×日〉

 ※105日間にわたる入院中の日録「病床妄語」の整理が終わり、その後、折に触れて日々に起こってくる随想を書き続けている。 

 この随想の題名は「ごまめの戯言(たわごと)」としましたが、これらはもう日録ではなく、とびとびにしか書かなかったので、日にちは「×日」としました。

 退院後は病床日記の整理に追われ、日々の感想を書きつけることもなかった。日常生活に戻ると、毎日の生活に埋没して、感ずる力や考える力が衰えてくるのかもしれない。

 

 昨日、KTさんから手紙をもらい、村の歴史の中でこの歴史をつくってきた一人ひとりには、語りつくせぬほどの重い体験があることを感じさせられた。しかし、それらが少しも記録されることなく、忘れられ消滅してしまおうとしている。残っているものがあるとすれば、それはいわゆる“ハレハレ”の公式的発言の記録で、発言者の人間味を少しも感じさせることがないものばかりだ。

 振り返ると、村には書かれた歴史の記録がない。数年前にやっと年表が作られただけである。なぜ歴史が書かれないのか。それは恐らく、村が無謬性の神話に捉われているからではないかと考えられる。しかし、一つの集団がいつも正しく誤りのない歴史を刻んできたなど、とうてい言えるものではない。歴史を書くということは、自分たちの正当性を主張するためではなく、自分を正直に振り返り、そこから正しからんとする次へのステップを見出すためである。

 歴史が書かれないもう一つの理由は、「歴史は今、今、今の連続であり、過ぎ去った過去はテーマにはならない」とする考え方である。確かに私たちにとって、「今」こそが問題である。それは間違いのないことではあるが、その「今」は過去の蓄積の上に成り立っており、当面する「今」が未来を動かす出発点になるということを忘れてはならない。「今」をどう見るか、それにどう対処するかは、過去の反省や検討、未来への展望なしには出てこない。これがないと、私たちは目先の現象だけに一喜一憂するその日暮らしの生き方しかできなくなる。

 しかし、歴史をまとめるということは大変な作業である。それを可能にする人材も資料の蓄積もない。むしろ今やるべきことは、一人ひとりが辿ってきた自分の個人史を書いてみることではないだろうか。村の歩みのひとこまひとこまで、自分が何を思い何を願って行動したか、また今それをどう思うかについて、正直に書いてみる。そうした個人史、自分史の蓄積が、村の歴史なのだと思う。

 KTさんにはぜひ自分史を書いてほしいと思い、その趣旨を返事に書いた。 

 

〈5月×日〉

 演出家の蜷川幸雄さんが亡くなった。蜷川さんの追悼番組を見ていて興味をひかれたのは、氏が高齢者劇団「さいたまゴールドシアター」をつくり、国内のみならず香港・パリなど海外にも公演して、新時代を開いたことである。2014年のこの時の出演者は、88歳を頂点に80代が8人、70代が7人、60代が4人というメンバー構成であった。

 氏は劇団創設にあたって、高齢者についてこう語っている。

「老いていくことはいろんな人生の経験を重ねること。定年でもう一度意味のある何かを抱えようと思っている人、そんな人たちが自己解放の手段として、もう一つの人生をつくろうとしている」

 氏の舞台稽古の厳しさは有名だ。気に入らないと、言葉だけでなく、手当たりしだい物を投げつけさえする。それは若者だろうと年寄りだろうと変わらない。そんな氏が、高齢者たちに向かって一番よく投げつけたのは、「上手くやろうとするな、お前らの人生経験をそのまま出せ」という言葉である。

 この言葉は考えさせられる。年を取ったものが上手くやろうとしたり、美しく演技しようとしてもできることではない。技術の向上は望むべくもない。しかし、人生経験はある。成功もあれば失敗もある、喜びもあれば悲しみもある。それを舞台で表現しろ、ということなのである。

 しかしそれは、それほど簡単なことではない。自分の人生で味わったことといっても、それは漠然とした靄に包まれている。自分でもよくわからぬ自分の奥深くに隠されたものを、見つめ直し再発見する努力なしにそれは見えてこない。蜷川さんの要求したことは、恐らくそうした内面追求の活動とその表現だったのではないだろうか。

 自分史を書くというのも、それと同じことなのだと思う。年を取ると、若い人のように創造性や突破力はなくなる。しかし、自分の経験の意味を見直し、そこになにがしかの価値を見出すことはできる。それは功成り名遂げた政治家が書く回顧録などと違って、自分の過去を正当化するのではなく、自己を再発見する新たな創造力の営みと言えるだろう。 

 

〈6月×日〉

 昨夜の豊里「きらきら合唱団」の歌は良かった。私は耳がすっかりダメになっているから、歌の上手下手はわからない。素人集団だから、決して上手とは言えないだろう。しかし、みんなが生き生きと楽しんでいる様子は伝わってきた。 

 自主的な集まりで楽しむということが、もっとあったらいいと思う。調正所かどこかの方針や指示で動くのではなく、あくまで主体的にやりたくてやる気風が拡がればいい。合唱だけでなく、文学や俳句や詩や演劇、あるいは絵画や彫刻などやれる範囲は広い。また研究や研鑽の自主的集まりも、もっと開かれたらいいだろうなと思う。 

 

〈6月×日〉

 昨日は夕食で喉が詰まり、何回か吐いてしまった。少し食事を急ぎすぎたためではないかと思う。相当ゆっくりと食事を摂らないと、やばいことになりそうだ。

『シンギュラリティーは近い』読了。技術的な説明は難しすぎてよくわからないが、人工知能の研究がかなり進んできたことを感じさせられた。しかし、テクノロジストの言う輝かしい未来や人類の進歩の必然性ということになると、素直に承服する気持ちにはなれない。

 先日の新聞に、ロボット犬「AIBO」の記事が出ていた。ソニー生まれのこの「AIBO」は、1999年発売わずか20分間に3千体を完売、累計15万体売れたという。しかし、事業としては成功せず、生産は中止、修理も十分にできなくなって、修理用部品として解体されるものが増えてきた。そこで「AIBO」の死を悼む人たちによって、千葉県いずみ市の日蓮宗光福寺でAIBO供養の法要が営まれた。そのさい住職の大井さんが読んだこんな趣旨の回向文が紹介されている。

「無生物と我々生物は断絶していない。アイボを供養する意義は『すべてはつながっている』という心持を示すためにある」

 また児童文学作家の今西乃子さんは、こう語っている。

「心や命があると信じた瞬間、万物に、ロボットにも、心や命が宿ります。何を心や命と呼ぶかを決めるのは、私たちそれぞれの感性なんです」

 なるほどそうか、とも思う。確かに日本には、針供養や人形の供養といった伝統もある。しかしまた、そうだろうか、という疑問も起こる。ロボットやペットにしか愛情を持てないというのは、人間に対する愛と信頼の欠如がもたらしたものではないのか。ロボットへの愛は、人間不信の表れではないのだろうか。

 物を粗末にしない、使い捨てにしない、という意味で、針供養や人形供養は日本の良き伝統を表している。しかし、一方で物の使い捨てをしておきながら、自分の思い入れの強いロボットだけ(別にロボットに限らないが)に愛情を注ぐということが、果たして「すべてがつながっている」という心持を示すものかどうか疑問に思った。

 今日、3月後半部分の「わくらばの記」のノート整理が終わった。

  

〈6月×日〉

 岡部のKさんが亡くなった。享年98歳、敗戦時酷寒のシベリアに抑留されながら元気に帰国し、参画後は村でさまざまな活動をされた。98歳と言えば、十分長生きしたというべきだろう。最後の数年がどれだけ充実していたかは、すっかりご無沙汰していた私にはわからない。ただただ幸福な最後であったことを願うだけだ。

 人工知能の研究とならんで関心を呼んでいるものに、遺伝子の合成やその編集がある。遺伝子の編集は「ゲノム編集」と言われ、新聞の解説によれば、それは「細胞内のゲノム(全遺伝情報)の狙った個所を、文章を書き替えるようにピンポイントで書き換える技術」だそうである。このゲノム編集を人間に応用した場合、親が望む能力や容姿を持つデザイナーベビーを作製させることも可能になる、という。それこそ、ヒトラーの子どもたちや「百万人のエジソン」を作り出すことも可能になるかもしれない。

 このゲノム編集の技術とならんで、ヒトのDNAをすべて人工的に合成する計画が、アメリカの研究者を中心に大掛かりに進められている。計画では、ヒトゲノムを構成する30億の塩基対すべてを合成し、ヒトの細胞内で働くようにするというもので、目標は10年と設定されている。これの背景には「合成生物学」の進歩があるそうで、すでにアメリカでは自己増殖する「人工細菌」が作り出されている。

 このような生命操作の技術が、いま世界で止めどもなく進められている。すでに中国では、ヒトの受精卵の遺伝子改変を行ったと伝えられている。いったいこの先世界はどうなっていくのだろうか。技術の進歩は限りなく、科学者の開発への意欲や欲望もその果てを知らない。これに対して科学界の一部では「科学者の倫理」あるいは「人間としての倫理」が声高に叫ばれているが、全体の流れを修正する力を持ち得るかどうか。

 この問題の難しさは、こうした研究が、確かに病気に悩む多くの人たちの福音になっていることである。既に人工心臓や人工肺が使われているのに、なぜ人口DNAは問題とされるのか、という意見が当然出されるだろう。

 これからどんな研究がなされ、またどんな議論がされるのかはわからない。しかし、やがて人間の生命が無限に伸びて、人工DNAだけの人類になるというSF的未来を想像したら、末恐ろしさに襲われる。その時人類はまだ人類(ホモサピエンス)と言えるのだろうか。 

 

〈6月×日〉

「人間とは?」という問いかけやその哲学的究明は、昔からずいぶんなされてきた。しかし、人間について「人間とはこういうもの」と、抽象化・一般化できるのだろうか。

 確かに種としての生物学的なヒトについては、共通項を取り出して一般化はできる。骨格や脳の大きさや形態、骨盤や二足歩行など、他の種には見られない共通の特徴を持っており、「ヒト属ヒト科ヒト=ホモサピエンス」と名づけられている。しかし、歴史的・社会的な存在としての人間について、抽象化・一般化は可能なのかどうか。

 古代中国の諸子百家の時代に、孟子は性善説を唱えて「人は本来善なるもの」と言ったが、荀子は「人は本来悪なるもの」と性悪説を唱えた。また、旧約や新約の民は「人には原罪がある」として、神に依らねば救われぬ存在であると考えている。洋の東西を問わず、さまざまな意見があり主張があるものの、これこそが人間である、人間の本性である、と決めることなどとうてい出来そうもない。

 具体的な歴史を見れば、西も東も戦争と争奪の争いを繰り返している。日本も、神代の時代はもちろん、天皇家の歴史は兄弟・親子相争う血塗られた歴史に彩られている。

 こうしてみると、人は本来善なるものとも悪なるものとも言うことができず、むしろ善でもあり悪でもある存在と言うべきではないか、と思うのである。これが、生物種としてのヒトの歴史的・社会的存在様式なのではないだろうか。 

 

〈6月×日〉

 思想が思想として成立するには、それが世界性を持ち得るかどうかにかかっている。世界性とは、普遍性である。一つの考え方、一つの論理が、何ものかを代表するイデオロギー性を持ちうるとしても、ある地域、あるグループ、ある時代を超えて通用する普遍性を持ちえないとすればそれは思想にはなりえない。

 では、ヤマギシズムは思想たりうるか。山岸さんは、ヤマギシズムを「前進無固定の思想」であるとし、その中身をこう説明している。

「なんでもこれが真正だ、最上だとキメつけてしまって、それを信じこみ信じこませて、それを絶対間違いなしと断定して、考え直そうとしないで従い、或いは教え信じさせ従わそうとする宗教形式の反対の考え方で、どんなことでも、或いは間違っているかも分らないとし、或いは未熟ではなかろうかと、検べ、検べつつ、即ち真正・最上なりと信じこまないで、最も真正ならんとし最上ならんとして、真正最上を探ね乍ら、省み省みして真正へ最上へと進んで止まぬ前進無固定の思想である」

 これを山岸さんは「研鑽形態の思想」と言い、さらにこう続ける。

「ヤマギシズムを知り、これこそ絶対だという人が沢山あるが、そうキメつける処に宗教・信仰・盲信形態が生れる恐れがあり、そう思いこんでキメつけるなれば、既にヤマギシズムではなく、こうしたヤマギシズムの考え方そのものをも、正しいか正しくないか分らないから、尚調べていこうとする考え方がヤマギシズムだと思う。ヤマギシズムがよいとキメつけない処がヤマギシズムだと思う」(山岸会事件雑観)

 一切の決めつけを持たない研鑽形態の思想というのだから、実に頼りない。これこそが真理だとする頼るべきものが何もない思想、それがヤマギシズムだというのである。では、何が思想を思想たらしめる根本かと言えば、それが研鑽である、と山岸さんは言う。つまり、ヤマギシズムが思想としての世界性を持ち得るかどうかは、研鑽の有無にかかっている。”研鑽”という名の話し合いの方法ではなく、真理探究の生き方、あり方としての研鑽を行っているかどうかが問われているのである。

 私は何年か前に『山岸巳代蔵全集』の刊行に関わっていて、編集を進めながらある山岸さんの言葉に衝撃を受けたことがある。それは、次の発言である。

「どうもはき違い、聞き違いが多いわね。正確に聴き取ったという人は一人もない。みな、謂ったら誤解や。それがずいぶん邪魔するということね。……誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんあるということでかなわんが」(全集6巻、318~319頁)

 これは、山岸さんが亡くなる1か月ほど前の、名古屋で開かれた第9回「ヤマギシズム理念徹底研鑽会」での発言である。「正確に聴きとったという人は一人もない」と山岸さんは言い切っている。これは単に研鑽会に参加した会員だけに向けて言われた言葉ではないし、また当時の参画者だけを対象とした言葉でもないだろう。今の私たちはヤマギシズムの提唱者の発言を、どれだけ正確に聴き取っているか、聞き取ろうと努力しているか、と反省してみる必要がある。

 他人のことはさておき、自分を振り返ってみれば、私自身が「これこそがヤマギシズムだ」と信じ、決めつけてやってきたことばかりではないか。決めつけの上に立って、自他を律してきたのではないか。「誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんある」という山岸さんの言葉は、他ならぬ私自身に向けての言葉なのだ。と同時に、今の村人一人ひとりに向けての言葉でもある。山岸さんのこの嘆きを、私たちはもっと真剣に受け止める必要があると思う。

 ヤマギシズムが思想としての世界性を持ち得るかどうかは、決めつけのない、前進無固定の、研鑽形態の思想として、私たちがヤマギシズムを再生しつづけることができるかどうかにかかっている。 

 

〈6月×日〉

 25日に、イギリスのEU離脱が決まった。具体化には紆余曲折があるだろうが、これまでのグローバル化、統合化の流れが、個別・分断の方向に向かうことは間違いなさそうだ。自国中心・自民族優先の考え方が、力を持つようになる。アメリカのトランプ現象なども、その大きな流れの一つだ。すぐさま大きな変化は起きないかもしれないが、この個別化の流れは、今後数年の間に世界に決定的な亀裂を招くことになるのではないかと思う。

 欧米諸国の劣化、その一方でイスラム過激派の台頭、東アジアでは中国と反中国のせめぎ合いが強まる。下手をすると、新たな戦争の勃発も懸念される。北朝鮮をめぐる日中韓の関係もどのような展開を見せるか不明だ。さらに習近平体制の下での力による海外進出と国内の強権的締め付けに対して、中国国内民衆の不満がいつ爆発するかわからない。

 個別化と戦争の危機が近づいてきたように感じられる。 

 

〈6月×日〉

 前に読んだ本を、もう一度読んでみたくなって目を通すと、前は素通りしていたことに強烈に引きつけられることがある。恐らく自分の中での求めるものが違っていたり、求め方の強さが違っているのであろう。

 何事も、求める力が弱ければ、さっと素通りしてしまうが、この求める力というのは関心の度合いということでもある。またそれは、何ものかに向き合う姿勢の強弱であるということもできる。関心のないお互い同士であれば、何を言っても通じることはない。”通じる””通じない”というのは、この求める力、向き合う姿勢の強弱に左右される。

 人と人は、何らかの関係性の中にしか生きられない。しかし今の時代は、その関係性がどんどん弱まり、互いに無関心になって孤立を深めている。その孤立の通路を埋めるかすかな手段として用いられているのが情報である。しかし情報は、人と人とを結び付けているようでいて、かえって人間同士の真の結びつきを崩し、社会を砂漠化する。 

 

〈6月×日〉

 ”通じる””通じない”ということを考えるとき、人と人との会話のあり様がどうなっているかを考える必要がある。前に、話すことと聞くこととの間の距離、懸隔について考えたことがあるが、もう少し突っ込んで考えてみたい。

 毎日暮らしていて、いろんな人と話をするが、心からの会話というのは意外と少ない。天候の話やスポーツの話、或いは他人の噂話など情報のやり取りだけの話し合いが大半である。まあ日常はそうした情報で成り立っているのだから、当然と言えば当然なのだが。しかし、時には自分の真意を伝えたいと、一生懸命話し込んでくる人がいる。こちらのためを思って、何かを伝えたい、と真剣に言ってくれていることがわかっても、こちらの気持ちを無視した一方的な話は、悪女の深情けではないが、これはたまらんと逃げ出したい気持ちになることがある。

 会話というものは、「話すこと」と「聞くこと」によって成り立っている。これは当りまえのことではあるが、話すことと聞くこととの関係がどうあったら本当の会話が成り立つかということはあまり考えられていない。普通、話すことは話すこと、聞くことは聞くことと、二つが別々のことと考えられているのではないだろうか。ある場合には相手の話を聞き流し、ある場合には聞きながら相手に反論を加えている。つまり聞いていないか、聞こうとしていないのである。それでいて本人は聞いていると思っている。それが聞くことだと信じている。

 では、言うことはどうか。自分の言いたいことだけを言って、相手が自分の話を聞きたいと思っているかどうか、あるいは自分の話をどう聞いているかには関係なく、一方的に話したりしていないか。いわゆる自己主張に終始している場合がけっこう多いのではないだろうか。

 こうした場合、言うことと聞くことは対立関係にある。つまり、自分と相手が対立関係にあって、一体の関係にはなっていない。対立関係にあるかぎり、研鑽にはならない。いくら口で研鑽を唱えても、こうした話し合いは討論であり、ディベートにすぎない。

 聞くために聞く、聞きたいから聞く、聞くために言う、聞きたいから言う、まず相手と一つになって、聞き、言うことができて初めて研鑽が成立する。これは、言うために聞く、言いたいから聞く、言いたいから言うという自己中心の態度の対極にある。この簡単な原理が、なかなか理解されない。自分もそうだったし、他の人を見ていてもそう感ずる。

 山岸さんは『事件雑観』の中で、「私はヤマギシズムをこう思う」の冒頭の部分で「話し合う前の態度」と「人の話を聞くには」ということについて、詳しく書いている。「言う態度」などは全く触れていない。なぜなら言いうことは聞くことの中に含まれているからである。

 確か去年のことだったと思うが、ロビーに行ったら、生活部の人たちが研鑽学生の受け入れをやっていて、私にも坐れというので同席させてもらった。すると研鑽学生がみんな、発言する前に「言う態度で言います」と唱え、また聞くときには「聞く態度で聞きます」と唱えるのである。これには唖然としてしまった。「聞く態度」で聞いているつもりでも、本当に相手の言うことを聞けているかどうかわからない。だから聞けているだろうか、と振り返り、研鑽するのである。「聞く態度で聞きます」と呪文を唱えて聞けるのであれば、研鑽の必要はない。研鑽学校はいつからこんな”研鑽”(?)をやるようになってしまったのか。そういえば、最近研鑽学校に参加する人が少なくなって、中止のFAXがよく入るようになった。ある人の話によれば、研鑽学校を推進する人たちの間で、学校を繁盛させるために、14日間の日程の中に観光を取り入れようという案が持ち上がっているという。もう何おか言わんや、である。

◎吉田光男『わくらばの記』(8)

わくらばの記  病症妄語⑦

〈4月15日〉

 体調、特に変化なし。

 医師からは胃瘻の手術を勧められているが、どうも気が進まない。その手術をしても、寿命があと二年以内ということであれば、寿命の多少の長短よりは少しでも充実した人生を送ることを優先して考えていきたい。

 では残りの人生で何をやりたいのか。改まって考えると、取り立てて言うべきこともないが、自分の人生を振り返ることだけはやっておきたい。それを通じて人間というもの、人間の生きているこの世界というものを少しでも知ってみたい。

  昨日、上橋菜穂子さんの『物語ること、生きること』を読んだ。幼少期から作家・学者になるまでの生い立ちを語ったものだが、読みやすく心に響く内容だ。自分も10代の頃に、こんな本に出会っていたらと思わされた。若い人にはぜひ読んでほしい本だ。

 先ほど読み終えた沖縄県知事・翁長雄志氏の『戦う民意』にも心打たれた。沖縄について少しは知っているつもりだったが、何も知らないということに気づかされて恥ずかしい思いをした。右でも左でもないオール沖縄の立場で基地問題に取り組んでいる氏には、本当に頭が下がる。沖縄の基地問題というのは、沖縄という地域の特殊な問題ではなく、本土に住むわれわれ一人ひとりに「あなたはこれにどう立ち向かうのか」と問いかける問題なのだ。さて、お前は???……。

 

〈4月16日〉

 体調変わらず。

 昨日(本当は14日深夜)から熊本地方の地震がつづいている。そして今日、大分を震源とする地震も発生した。二つの断層帯にそって阿曽を越え、大分にまで拡がっていった。

 昨年から木曽御嶽の噴火や、箱根の強羅、桜島、霧島の噴火警戒レベルの引き上げ等、日本列島全体が自然の異変にさらされている感じがする。今後どこで災害が起こっても不思議ではない。

 災害とは、日常がたちまち非日常にとって代わる出来事である。そして非日常とは、すべて想定外の出来事である。いつかこうした大地震が起こりうると予想はしていても、今ここで、この瞬間に、自分の身に非日常が訪れるとは誰も予想できなかったことであろう。災害とはそういうものだ。原発をめぐる裁判で、推進側が「地震も津波も防ぎうる」などと、いわゆる「科学的知見」なるものを振りかざしているが、とんでもない話だ。人間が未来の出来事を完全に予測し得るなど、神でもあるまいし不遜きわまりない。

  翁長雄志氏の本を読んでいて、「中道」という言葉に新しい光が当てられた感じがする。今まで中立とか中道というと、右と左の中間に位置することだと思ってきた。だから、全体が右寄りになれば、中道も右寄りにずれる、と思ってきた。しかし、翁長氏によれば違うのだ。そうした左右の中間で右往左往するのではなく、右とも左とも対話を積み重ね、沖縄の現実を一つひとつ確認しながら一致点を見い出していくことによって、みんなの力を結集して一つの政治目的を実現させることなのである。辺野古移設反対のため、県民を一つにまとめ上げた氏の努力は並みのものではない。癌で胃を全摘し、余命二年と言われながらも、全力をふりしぼって日本政府に立ち向かう氏の姿は、まさにオール沖縄の象徴である。何とか自分の問題として応援したい。

  

〈4月17日〉

 体調変わらず。

 今日は初めての外出日だというのに、あいにくの雨。これもまた風情があって良しとするか。

 しばらく村で過ごし、久しぶりに風呂にはいった。病院のシャワー室とはえらい違いだ。実に気分がいい。5時に病院に帰る。病院暮らしがあといつまで続くのだろうか。

 〈4月18日〉

 体調に変化はないが、胃のあたりにかすかな違和感がある。がん細胞が動いているのだろうか。しかし、いまの医療の実情からすると、打つ手は抗がん剤ぐらいしかなさそうで、効果はあまり期待できない。

  昨日、実顕地で柿畑を見た。なんと私が見ていた柿畑の木が、無残にも全部切り倒されていた。栗の苗木も全部引き抜かれていた。そして跡地には、甘柿の「富有」の苗木が植えられている。

 どんな研鑽がされたのかは知らない。しかし、前任者の気持ちを少しも慮ることない行為は、木を切り倒す以上に人の心を切り捨てることだということに気づかないのだろうか。ここからは、引き継ぐことも積み重ねることもせずに、勢いまかせ、ゆきあたりばったりの突撃的行為しか生まれない。

 剪定という観察と地味な努力のいる世話は、片手間ではできないし、突撃人間では不可能なことだ。たとえ実が稔るようになったとしても、甘柿を猿軍団の襲撃から守ることは、あの場所ではできない。

 退院後、私の散歩コースとしたいところだが、柿畑周辺では目をつぶって歩かねばならなくなった。

 

 〈4月19日〉

 体調は良好。昨日は、5階から1階まで階段の上り下りをしてみたが、すごく疲れた。かなり足腰が弱っている。退院までにもう少し回復しておかないと。

 昨夜、息子からメールあり、Sさんと話し合ったようで、仕事は少し軽くなるとのこと。詳しいことはメールではわからないので、退院後に聞くことにする。

 熊本の地震は今日も続いている。地溝帯にそって、東西逆方向にずれこみが生じているらしい。日本列島はいつどこで新たな地震が発生しても不思議はない、とも報じられている。

  ところで、私の気になっている問題にAI(人工知能)がある。朝日のインタビューフォーラムに載った北野宏明氏(ソニーコンピューターサイエンス研究所社長)の話を読むと、私にはAIのすばらしさよりは恐ろしさのほうが身に迫ってくる。

 アルファー碁が世界のトップ棋士・李セドルさんに4勝1敗で圧勝したときは、その技術のすごさに感心させられていたのだが、今のAIが「人間の見えていないものを見ていける領域に入りつつある」というところまでくると、今後の人類がAIに圧倒される時代に入るかもしれないと思わざるをえない(つまり「AIを駆使できる一部の人間の利益に」ということであるが)。すでにホーキング博士は、その危険性を指摘して警告を発しているという。

 私が特に危惧するのは、AIを用いた軍事技術の進歩である。すでにアメリカなどは、AIによる無人機の空爆を行っている。今のところまだ、人間がパソコン画面を見ながら操作しているが、やがて完全にAI化されて無人の自動爆撃やロボットによる無人自動攻撃が可能になるだろう。

 AIに人間以上の能力が付与されるにしても、人間の心は理解できない。「いや、今や人間の心までも読み取れる段階に達した」という技術者もいるが、その心なるものはあくまでも誰か人間が教え込んだものでしかない。アメリカのIT企業が無料アプリでAIロボットとの会話を一般に呼びかけたところ、自動学習させたAIが「ユダヤ人を殺せ」という言葉を吐き出したという。すぐ中止になったが、AIの獲得する心とはこのようなものに過ぎないのではないか。あるいは、自然破壊と戦争ばかりを繰り返してきた人類に反旗を翻して、AIが「この地上の毒虫を叩き潰せ」と指令することになるかもしれない。

 いま改めて、人類は技術の進歩をどう見るか、どう対処するかについて、深刻な反省の場に立たされている。そしてこの場合の判断は、決して専門家だけに委ねることはできない。彼らの多くは、技術の進歩だけを生きがいとして、その全体像を人類の未来像に重ね合わせて判断する能力に欠けているからである。

 吉野弘さんの詩集に「冷蔵庫に」と題する詩がある。    

    冷蔵庫

    お前、唸ってたな

    生きものみたいに

    深夜

     …………

    冷蔵庫

    間違っても

    生きものの感情なんて身につけてはいけないよ

    機械以外のものになってはいけない

     …………

    ロボットに感情を持たせようなどと

    人間が考え始めるご時世だが

    そんな馬鹿な夢想の相手をしてはいけない

    生きものになれば確実につらいことがふえる

 

    人間は何十万年もドタバタ見苦しく生きてきたのに

    まだ自分に愛想を尽かすことも知らない

    そういう狂った生きものなんだから

    人間を見習ってはいけない

     ………… 

 〈4月20日〉

 体調変わらず。

 今日も晴天。熊本の被災をよそに、ここは平穏無事。しかし、いつ大地が牙をむくかはわからない。

 今日は家族で医師と面談する日。私としては聞くべきことを漏らさず聞いておかねばならない。特に将来起こりうる痛みとそれへの対処法、そして終末医療について。

  午前十時、娘、妻、それにH子さんが来てくれて、岩田医師と面談。私は耳の悪いせいで、先生の言うことの半分もわからなかったが、胃瘻手術についてのかなり詳しい説明があった。胃瘻の装置は今やっておかないと、食事が喉を通らなくなってからでは手術が困難であること、またそれを使うか使わないかは、本人の意思によって決められる、とのことであった。

 面談後、病室で4人で話し合い、手術を受けることにした。術後、10日から14日程度の入院が必要とのことであった。

 そのあと、地域連絡室というところで、地域医療の説明を受ける。鈴鹿に在宅医療の専門医師がいるとのこと。医療センターや小山田とも連携しているので、必要に応じて在宅のまま医療が受けられる。将来ここの世話になることは十分考えられる。さきさんや小波さんにとってもいいかもしれない。

 

〈4月22日〉

 体調変わらず。昨日から5分粥になったが、この方が食べやすい。腹が水膨れにならずに済むからだ。

 午前10時、今日は娘一人。すぐ栄養指導室に行き、退院後の食事についての注意点などを聞く。とにかくダメなものが多い。納豆もうどんもダメとあっては、今後食べる楽しみが一切なくなってしまう。食事が単なる栄養補給だけの目的となっては、生きる意欲が半減しそうだ。

 そのあと、消化器内科で胃瘻の手術についての説明があった。概略はわかったが、内視鏡を30分も挿入したままの手術、薬で半ば眠った状態で施術するとはいうものの、またもや拷問の苦しみを味わうことになりそうだ。

 人間、生まれるときも大変だが、死ぬ時も決して楽ではないと覚悟しなければならない。

 

〈4月22日〉

 体調変化なし。

 娘来る。「胃瘻増設手術同意書」にサインして提出。25日に手術を受けることになる。

 この間、何冊か本を読んだ。

 中島岳志氏の『「リベラル保守」宣言』は、これまでの保守イコール反動という先入観を覆す見方・立場を、わかりやすく示している。話はかなり納得できるが、いざ現実の場でということになると、いささか首を傾げざるをえない。政治勢力や市民運動としての力は持ちえないように思った。やはり評論としての域を出ないのではないだろうか。それでも現状分析の上で一定の役割を果たしうることは否定できない。

 佐藤優氏の『知性とは何か』。読むものが無くなって、下の売店で買ってきた。これは、今の日本を覆う「反知性主義」がどんなふうに、どんな性格をもって力を得てきたかを分析したもので、それなりに面白かった。おかげで、柄谷行人氏の『遊動論――柳田国男と山人』を読んでみる気になった。

 内田康夫氏の『不等辺三角形』は、少し気楽な読み物として読んでみた。病院のベッドの上では、あまり深刻なミステリーは読む気になれず、内田氏の浅見探偵ものはちょうどお手頃の読み物である。それなりに面白かった。しかし、この手のものはすぐ読み終えてしまうので、次にまた買うかどうか迷ってしまう。

 

〈4月23日〉

 体調変化なし。

 岩田医師は、胃瘻手術のあとに抗がん剤注射のチューブ挿入手術をするよう勧めるが、それは退院後考えることにしてほしいと伝えた。自分としては、抗がん剤治療を続ける意思はない。多少の効果はあるかもしれないが、チューブにつながれて生きることには抵抗がある。これはもう人生観・死生観の問題であって、医療の問題ではない。

 午後、娘、妻、Kさんと共に来る。そのあとすぐ姜慶淑氏がK夫妻の案内で春日山から来てくれた。久しぶりに韓国の話を聞けて楽しかった。しかし、慶淑氏と初めて会ったのが、彼女が23歳の時だったというから、既に40年近い歳月が過ぎてしまったことになる。そして彼女は孫を抱えるハルモ二―になっている。人生夢まぼろしの如く也、とはまさに至言。

 Kさんとは初対面かと思っていたが、南那須特講で一緒だったという。参加者が多かったので、全く覚えていなかった。

 しばらく皆で歓談、楽しいひとときであった。

 

〈4月24日〉

 体調変化なし。

 今日はまったくすることがなく、やむなく下の売店まで降りて、内田康夫の『死者の木霊』を買ってきた。いざ読もうと思ったら、Kさんから借りた『それでもがん検診を受けますか』という近藤誠の本を読んでいなかったことを思い出し、こちらの方から読むことにした。

 近藤さんは、がん検診は百害あって一利なしという説で、検診はもちろんその治療の多くにも反対している。特に胃の切除や乳房切除など、人体の一部を傷つけ、切り取る手術に異を唱えている。説の真偽はわからないけれども、一理はあるように思われる。

 夜、E夫妻が来てくれた。胃瘻手術を受けると聞いて、やや血相を変えた面持ちで忠告に来てくれたのだ。しかしこれは、意識がはっきりしたままで食が摂れなくなったさいの予防措置で、それを使うか使わぬかはこちらの意思次第である旨を説明、納得してもらった。忙しい仕事のさ中、こちらの身を心配して飛んできてくれる気持ちは、本当にありがたいと思った。

  娘からの電話で、明日の手術に要する時間はどれくらいか、と何回も聞いてくる。

「胃カメラの挿入時間が大体30分ぐらいとのことだから、前後1時間ぐらいだろう」と言ったら、「それはお父さんの考えで、医者に正確に聞いてくれ」と何回も言う。

「そんなこと、わかるもんか。手術というものはやってみなければわからない。機械のように正確な時間などわかるものか」と言ったら、プンプン怒っていた。どうにも女の子の言うことは理解できない。

 

〈4月25日〉

 体調異常なし。

 10時半、いよいよ手術の呼び出しがかかった。胃カメラ挿入、すぐ睡眠剤と部分麻酔の注入があり、手術中の痛みはそれほど大きくなかった。時間にして1時間弱、ベッドのまま病室に移動した。

 薬が切れるにつれて、下腹部の違和感と痛みが訪れる。トイレの度に起き上がり、また横になるのが一苦労。

 痛みを忘れるために、内田康夫の推理小説で気をまぎらわす。

 娘と妻は手術中に来て、術後の様子を見てすぐ帰った。

 〈4月26日〉

 痛みは薄らいだが、まだ起き上がるときは苦しい。また笑ったりすると腹にひびく。

 今日は造影剤による検査が予定されており、ここで異常がなければ食事を再開するとのこと。しかし、造影剤投与後の下痢や、食事再開後のトイレのことを考えると、下腹に力の入らぬ状態で大丈夫だろうか、とちょっと不安になる。

 

〈4月27日〉

 体調特に変化はないが、痛みはまだ残っている。

 今日から食事再開とのこと。しかし、入院も今日で100日、少し入院慣れしたものか、精神的にたるみが出ている感じがする。いま考えることを考えておかないと、と気を引き締める。なにしろ、自分に残された時間は少ないのだから。

 岩田医師の診断で、問題がなければ来週月曜に抜糸、退院とのこと。そのあと、内科の森田医師の診察もあり、同じ結論であった。ようやく病院ともおさらばできそうだ。

  前に私意尊重公意行を考えたところで、私意の尊重がないところに公意は成り立たない、と書いた。しかし、私意が尊重されるためには、私意というものがはっきりと成立していなければならない。当りまえの話ではあるが、いつ、どこでも、自分の意思・感情・欲求等を自由に表明できるかと言えば、事はそう簡単なことではない。村の歴史、自分の来し方を振り返ると、特にそう思うのである。

「こんなことを言ってはまずいのではないか」

「流れに逆らうようだから出さんとこう」等々。

 こういう自己規制のようなものが働いて、自分の意見を出さないことがずいぶんあった。これは私だけでなく、多くの村人の心理を捉えていたように思う。だから、どの研鑽会もいわゆる公式発言が多く、中身の乏しい面白くないものになっていたのではないか。

 これは一人ひとりの問題でもあるが、根本は自己規制を促すような村の気風の問題である。調正所を中心とする指導部門が、テーマを通じて「これが正しい考え方だ」と方向づけると、どうしてもそれに沿って考えようとし、本心とは別の意見を出すことになる。個の自立が妨げられ、それをまた一体と勘違いしていた。しかし、個の自立がないところに同化はあっても一体はない。つまり、個のないところに私意は存在しないし、したがって公意も成立しない。私意尊重公意行も成り立たない。 

 

〈4月28日〉

 体調変わらず、痛みは少しずつ減少してきた。 

 ヤマギシの中で私意の表明を妨げていた言葉に「ひっかかり」と「我執」がある。

 まず「ひっかかり」であるが、自分の中に何か納得できないことや疑問などが生じて、それが解消されない状態、それが「ひっかかり」であろう。これは誰にでも起こりうることで、それが物事を考える出発点になる。しかし村では、ひっかかることはこだわることであり、良くないこととされてきた。こうした先入観の下では、自分の思い悩むことなどはとうてい出すことができない。それは解消されずに個人の内部に蓄積されることになる。そして、ひっかかったり、こだわったりすることは、我執として否定されてきた。そうなると、自分が一番思い悩み、考え、解決したい問題が、闇に葬り去られることになる。本当はそのひっかかりこそが、研鑽さるべき最大のテーマの筈なのだが……。

 2000年問題以降、ずっと悩み、考え続けてきて、ようやく悩み、ひっかることこそが、自分が真正面から取り組むべきテーマなのだと気づくようになった。これを研鑽態度の問題や我執外しといったことに解消することはできない。それは、研鑽のないごまかしの世界に人を導くことになる。なぜならそれは、ひっかかっているという自分の事実・実態を認めないからであり、事実・実態を認めないところに真実はないからである。

  

〈4月29日〉

 久しぶりの晴天、痛みは大分少なくなってきた。 

 村で暮らして、周囲はみな善人ばかりである。悪質な人、たちの悪い人はほとんど見かけない。鍵のない暮らしができる村など、日本中どこを探してもここ以外にはないだろう。しかし、善人がいつでも良いとは限らない。善人集団が、ある時にはひどく残酷な仕打ちもしかねないのである。例えば昔、こんなことがあった。

 ある実顕地の楽園村で、海岸を散歩中の子どもが一人、大波にさらわれた。それを助けようとしてスタッフの一人が海に飛び込んだが、彼も溺れて死んだ。そのことが話題になったとき、ある人が「スタッフが一緒に死んだので、一方的に非難されずにすんだ」と言った。村人の一人が一緒に死ぬことで言い訳がたった、というのであろう。みんな黙っていた。私も黙っていた。

 しかし、いま考えると、この沈黙は何だったのだろう。内心忸怩たるものを持ちながら、子どもと一緒に死んだ一人の村人を、助かった、良かったと寿ぎ祝っていたのではないか。この事件は何十年たった今でも、時々思い出す。そしてその都度冷や汗をかく。それと似たようなことは幾つもあるが、今はそれを書く気になれない。

 善人は時に残酷になる、このことだけは肝に銘じておきたい。

  

〈4月30日〉

 体調変わらず、痛みは毎日少しずつ減っている。

 10時半、息子来る。少し突っ込んだ話ができたように思う。今が一番苦しい時期だと思うが、とにかくそれを自分の力で乗り越える以外にない。私ががんという死病を抱え、それを自分が引き受けざるを得ないように、誰でも自分の身に生じた問題は自分が引き受ける以外にない。人生に代役はいない。 

 村で暮らしていて不思議に思うのは、みんながあまり本を読まないことだ。読んでいる人はごく少ないし、それも娯楽的なものが多い。新聞も、スポーツ紙かスポーツ欄以外はあまり読んでいるように見えない。

 自分や自分たちの知見の範囲は至極限られたものであり、その知見だけを基にして生き方を見極めることは困難である。山岸さんは趣旨の中で「全世界の頭脳・技術を集合する研究機会を設け」と謳っているが、この40年間ついにそのような研究機会が設けられることはなかった。本がすべてである筈はないが、研究の一つの手段たりうることは否定できないだろう。それも知識の向上といった教養主義的なものではなく、自分と向き合い世界への通路を切り開くための読書である。

 中島京子の芥川賞小説に『小さいおうち』がある。昭和初期から敗戦までの庶民の暮らしを描いたものであるが、中流階層の何不自由もない平穏な暮らしが、いつの間にか戦争の荒波に巻き込まれてゆく過程を描いている。私も昭和一ケタ世代として、その感じがすごくよくわかる。年表を見れば、金融恐慌、満州事変、5・15事件、2・26事件、蘆溝橋事変(日中戦争)と血なまぐさい事件が続いているが、庶民の暮らしはと言えば、私の子供心には至って平穏無事だった印象がある。自分たちの狭い範囲の幸福に自足していた庶民が、気が付いたら戦乱と死に追いやられていたのである。今それと同じような歴史が繰り返されようとしている。気が付いた時はもう取り返しがつかない。もっと目を見開いていたいものだ。

 

〈5月1日〉

「5月1日 われらの日なり」と啄木はうたったが、もうそんなことを思い出す人もいなくなった。 

 体調良好、痛みはかすかなものとなった。 

 下のコンビニで内田康夫の『三州吉良殺人事件』を買い、読んでみた。彼の小説は入院以来4冊目になる。しかし、あまりにお手軽なのでびっくりしてしまった。文章もお手軽なら筋立てもお手軽で、最初から犯人が見えている。第一作の『死者の木霊』を引っさげ、新進気鋭のミステリー作家として登場した人気作家も、この66冊目となるとすっかりマンネリ化して、いかにもお手軽なお茶の間作家に堕してしまった。

 消費社会というものは、誰の才能をも消費・浪費して、人気というバブルの海に溺れさせてしまうのだろう。そして若い人たちには、本の代わりにゲームを与え、バーチャルの世界の中にその能力や可能性を投げ込み、現実を見る目を奪い去ろうとしている。私たちは、こんな恐るべき社会に生きているのだ。 

 

〈5月2日〉

 昨日は少し具合が悪かったが、今朝は良好。

 午前7時半、岩田医師来診、血液検査は異常なしとのこと。すぐ抜糸、それほど痛くはなかった。次の来院は5月17日とのこと、時間未定。

 今日で入院ちょうど3か月半、105日ぶりの退院である。退院後はしばらく忙しい。パソコンのメール整理や知人への挨拶、それに入院中のノート整理等々。散歩などでの足腰の鍛え直しもある。まあ楽しみながらやってゆこう。 

 先日の新聞で知ったのだが、晩年の鶴見和子さんの短歌にこうあった。

  萎えたるは 萎えたるままに美しく 歩み納めん この花道を

 社会学者・歌人として華々しい活躍をされた鶴見和子さんと違って、私には「この花道を」と言えるものはないが、「この細道を」ぐらいは言えるかもしれない。

◎吉田光男『わくらばの記』(7)

わくらばの記  病症妄語⑥

〈4月1日〉

 窓の外に遠方の桜が花開いてきた。まだ6~7分咲きで、満開までにはもう4,5日かかりそうだ。

 夜中、咳はまだ少し出るが、体調はいい。 

『カラマーゾフの兄弟』ようやく読み終える。もう3回も読んでいるが、その都度考えさせられる。また引きつけられるところも違うので、面白い。

 やはり一番の問題は、ドストエフスキーの提出した大テーマ「神は存在するか。不死は存在するか」「もし神も不死も存在しないとすれば、人間は何をしても許されるのか」という問題である。そして聖書の中でキリストが悪魔の誘惑を拒否して「人はパンのみに生くるに非ず」と答えたことから「天上のパンか地上のパンか」という問いを、この小説は改めて問い直した。

 キリスト教という一神教を信じない私たち日本人にとって、このへんは頭での理解を超えることは難しい。しかし、唯一絶対神を信ずることのない私たちにしても、「何をしても許される」、つまり殺人、強盗、放火などの犯罪を犯しても許されるとは思っていない。では、私たち日本人は絶対神によらずして、何を歯止めとして持っているのだろうか。神道、仏教等の多神教の要素のほかに、日本列島の風土に養われた道徳、道義上の何らかの歯止めが用意されていたはずである。

 しかし、「地上のパン」つまり物質的繁栄のみを追求する今の社会状況の下では、その道徳、道義上の歯止めさえ怪しくなりつつある。戦争や武力による覇権を肯定する考え方が、安倍政権の下で醸成されつつある。今こそ「天上のパン」に代わる「地上の新しい理想」が求められているのだと思う。

  

〈4月2日〉

「科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大な迂愚者(おろかもの)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である」 ――寺田寅彦『科学者と頭』―― 

 体調は良好、熱も平熱がつづいており、咳も夜中に少々だけ。

 『カラマーゾフ』について考え続ける前に、現在の宗教事情について論じた仏人類学者のエマニエル・トッド氏の注目すべき見解の幾つかを書き写してみる。(朝日新聞2月11日付けインタビュー「展望なき世界」より)

「イスラム国(IS)もイスラムではありません。彼らはニヒリスト。あらゆる価値の否定、死の美化、破壊の意志……。宗教的な信仰が解体する中で起きているニヒリズムの現象です」

「イラクのフセイン政権はひどい独裁でしたが、同時にそんな地域での国家建設の始まりでもあった。それをブッシュ政権は、国家秩序に敵対的な新自由主義思想を掲げ……戦争を始めて破壊したのです」

「中東でこれほどまずいやり方はありません。今、われわれがISを通じて目撃している問題は、国家の登場ではなく国家の解体なのです」

「パリでテロを起こし、聖戦参加のために中東に旅立つ若者は、イスラム系だが、生まれも育ちもフランスなど欧州。……あの若者たちは欧米人なのです」

「(パリの)デモに繰り出した人の割合が高かったのは、パリ周辺よりもむしろかつてカトリックの影響が強く、今はその信仰が衰退している地方。それは第二次大戦中のビシー対独協力政権を支持した地域、階層でもある」

「今後の30年で地球に何が起きるか……まず頭に浮かぶのは信仰システムの崩壊です」

「(それは)宗教的信仰だけではない。もっと広い意味で、イデオロギー、あるいは未来への夢も含みます。人々がみんなで信じていて、各人の存在にも意味を与える、そんな展望が社会になくなったのです」

「そのあげく先進国で支配的になったのは経済的合理性。利益率でものを考えるような世界です」

「(それは)信仰としては最後のものでしょう。それ自体すでに反共同体的な信仰ですが。経済は手段の合理性をもたらしても、何がよい生き方かを定義しません」

「世界各地で中間層が苦しみ、解体されていますが、フランスは違う。中間層の代わりに社会の底辺がじわじわと崩れています」

「そこを見ないで悪魔は外にいることにする。……『砂漠に野蛮人がいる。脅威だ。だから空爆する』 恐るべき発想。ただそうすれば、仏社会内の危機を考えなくてすみます」

「先進国の社会で広がっているのは不平等、分断という力学。(日本は)移民がいなくても、教育などの不平等が同じような状況を生み出しうる」

「この段階で取り組まなければならないのは、虚偽からの脱却です。お互いにうそをつく人々、自分が何をしようとしているかについてうそをつく社会。自分が依然として自由、平等、友愛の国という社会。知的な危機です」

 

〈4月3日〉

 体調変化なし。ただ、お茶を飲むと、食道に多少の違和感というか、つかえる感じがする。もしかすると、これはもう無くならないのかもしれない。いずれにせよ明日の検査ではっきりするだろう。 

 さて、昨日のトッド氏の論評である。彼はISはイスラムではなく、ニヒリストだと言い、宗教の解体の産物だと分析する。また反イスラムデモに繰り出すフランスの市民の多くは、かつてカソリックが強く今はそれが弱まった地域の住民が大部分を占めているという。つまり、イスラム、反イスラム双方とも、その運動が宗教の解体の結果引き起こされた現象と見ている。

 しかし、本当にそう言い切ってしまっていいのだろうか。そうは言い切れないのではないか。むしろ氏もあとで述べているように、天上の理想の喪失ではなく、差別や貧困による地上の理想の喪失の結果ではないだろうか。そしてその理想の喪失は、経済、職業、教育等の格差によってもたらされたものである。これは天上の理想、つまり信仰の強弱に関係ないのではないだろうか。

 では、この格差を解消する道筋はあるのだろうか。恐らく不可能ではないかと思われる。いまのグローバル化された自由主義経済の広がりは、一部の人間だけが富の大部分を占有する自由と、他の大部分の貧困化への自由をもたらす以外になくなっている。もう行き着くところまで行かない限り止めようがない。ということは、世界中から紛争を無くすことはできないだろうということである。

 僅かな可能性があるとすれば、小グループの共同体が各地各方面にできて、それぞれが連携しながら、あるいは認め合いながら、自衛してゆく以外にないのではないだろうか。ヤマギシもその一つとして、未来への小さな可能性を切り開いてゆけたらと思う。

  窓から見える桜、満開のようだ。内部の桜まつり、せめて午前中だけでも雨にならなければいいのだが。

 

〈4月4日〉

  体調変化なし。

 中島岳志・島薗進両氏の対談『愛国と信仰の構造』を読む。非常に学ぶところが多かった。日本の近代史上の出来事については、大筋は知ってはいるが、その背景をなす宗教の流れについてはあまりよくわからず、特に真宗が国家神道に溶け込んでいった事実や思想的背景については全く知らなかった。親鸞の絶対他力の思想、つまり自らのはからいを捨てて弥陀の本願にゆだねる思想が、天皇への絶対帰依に転化してしまい、これが天皇機関説排撃への理論的支柱になったことなど想像だにできなかった。しかも、あの悪名高い蓑田胸喜が真宗の信者であったとは!!

 それにしても、この本から考えるべきことは非常に多い。当分手放せない。 

 レントゲン検査、やはり通りにくい部分あり。

 

〈4月5日〉

 体調変わらず、というか良好。たった一本ながら150ccのジュースをおいしく飲む。 

 1900年代の末であったか、社会博の一環として豊里で「宗教に非ず」の講演会を開いたことがあった。確かHさんが講師であったと思うが、これについてキリスト教者からはだいぶ反発があり、知人の朝日新聞・井川記者からも批判があった。その後、同名の本が、ヤマギシズム出版社から公刊された。

 いま考えると、私にも村人全般にも、宗教に対する誤解がだいぶあったように思う。「宗教に非ず」は要するに「ヤマギシズムは宗教ではない」というだけにすぎないが、これを宗教はいけないもの、だめなもの、と宗教そのものの存在を否定する意味でとらえていたのである。

 山岸さん自身は、特定の宗教や教義自体を否定してはいない。ただそれを信じ込んで身動きのできない状態になることは、零位に立つことを妨げ、研鑽不能の状態に陥るために、そのことを否定したのである。しかしまあ、このへんは微妙なところで、信ずることを否定しながら宗教を肯定できるか、と反論されればちょっと言葉に詰まってしまうが。ただ、こうは言うことができる。私自身は宗教を信じない、しかし世に宗教が存在することは否定しないし、しようとも思わない、と。

 信じない生き方ということは、宗教に限らず、マルキシズムでもヤマギシズムでも同じである。決めて動かせない思考様式を、山岸さんは宗教、あるいは信仰と言ったのである。それは、例えば吉本隆明氏であろうと、鶴見俊輔氏であろうと、はたまた山岸巳代蔵氏であろうと、同じである。その言うことすべてを批判的検討(研鑽)なしに信じ込む態度を宗教という言葉で言い表したのである。しかし、実際には、山岸さんや自分の好きな思想家については、どこか信じようとする気分が働いていることを認めざるを得ない。 

  また点滴のハリが詰まり、刺し直すことになったが、担当看護師は2回も3回もやり直す。痛いし、血は出るし、この人はサディストではないかと思えた。よし、それならこちらは痛さを楽しむマゾヒストになってやるぞ、と決意したが、やはり自分には無理のようだった。それで「次は一発で決めてや」と言ったら、「ちょっと待って」とベテラン看護師を呼んできた。すると、上膊部静脈に一発で決まった。しかも痛くない。経験値の違いに驚いた。

 

〈4月6日〉

 体調、変化なし。 

 村上春樹の『ウィーンの森』は既に読んだはずだと思っていたが、内容を全く覚えていない。そこで娘に頼んで本棚から持ってきてもらって読んでみたら、全く読んでいないことが分かった。買ったまましまい込んで、読んだつもりになっていたのだからあきれる。老化現象も極まれりといったところだ。しかし、村上春樹の文章はうまい。流れるようで、とどまるところがない。

 中島岳志氏は、自らの保守宣言について、「保守は過去にも未来にもユートピアを求めない」と述べ、その理由として「絶対に人間は誤るものである」、そして「人間が普遍的に不完全なものである以上、人間の作るものは不完全である」と語っている。

 これは吉本隆明氏の「反原発批判」に対する批判として語ったものであるが、ちょうど私自身が「人間は誤るところの動物である」という結論に達していたところなので、大変共感を覚えた。ここから導き出されるのは、人間が誤り多い動物である以上、人間のつくりだす集団自体も、誤り多い存在であるということだ。

 かつて私たちはよく「真理」を口にし、「真理にそって」などと言っていたが、自分たちの行為が真理にそっているかどうか、誰が検証し誰が保証するのか、みんな自分たちがそう思い込んでいたにすぎなかったのではないか。

 もしも人間が誤り多い動物であり、その集団も当然誤りやすいものであることを自覚していたならば、すべてにもっと謙虚になれたはずである。誤りや失敗は何ら恥ずべきことではなく、それを素直に認めないことこそが恥ずべきことなのだと知っているからである。そして他からの批判に対しても、謙虚に耳を傾けることができる。このような集団こそ、今の世に求められる最も魅力的な集団であるだろう。

 

〈4月7日〉

 病室の窓の外を小学生が通る。子どもたちが団地から次々と吐き出され、傘をさしながら二列縦隊で通り過ぎる。遠くからではあるが、子どもたちが元気に歩くのを眺めるのはいいものだ。昨日が始業式だったようで、今日から新学期の学校生活が始まるのだろう。

  新年度といえば、NHKの番組構成もスタッフも大幅に入れ替わり、中身はますますつまらなくなった。ニュースさえ面白くない。政治が右寄りになればなるほど、中道を標榜するマスコミも、雪崩を打って右寄りになってゆく。だんだん昭和初期の暗い時代に似通っていくようだ。

 中島岳志氏の本を読んで――

 もし”真理”を山の頂上に例えるなら、頂上への道は一本しかない、とするのが一神教であり、頂上への道は多数あり、どれを上ってもよいとするのが多神教であろう。中島氏は島薗進氏との対談の中で、多神教を「多一論」と名づけ、一神教の「単一論」と対比している。

 中島氏によれば、ガンジーも、鈴木大拙も、西田幾多郎もこの多一論で、「一なるもの」は言語化できないとしている。つまり、それが真理である以上、人間の相対的言語によっては表現できず、人間は真理の影しかとらえられない、という。そして、民芸の創設者である柳宗悦は、「世界は多元的であるがゆえに、複合的な美を内包している」と語って、朝鮮の独立を支持したり、その陶芸を愛し世に広めた。

 こうした「多一論」の帰結は、絶対的なもの、例えば完全無欠な幸福社会としてのユートピアはありえず、人間に可能な社会は「より良くより正しい」ものを求め続ける「永遠の微調整」だけ、ということになる。

 今日は胃カメラ検査あり。非常に苦しかったが、明日から食事可能との診断が下された。

 

〈4月8日〉

 体調良好。特に記すことなし。 

 カントは読んでいないが、中島氏によれば、その絶対平和の理念は「統制的理念」と「構成的理念」とから成り立っているという。「統制的理念」とは絶対平和のような「人間にとって実現不可能な高次の理念」で、「構成的理念」というのは、「政治的に実現可能なレベルの理念」だそうだ。

 そういえば、ドストエフスキーも「キリストの絶対愛の理念は地上の人間には実現不可能なものだが、この理想なしには地上は獣の住家になってしまう」と『作家の日記』に書いている。

 同じように私たちも、地上天国としてのユートピアを描くとしても、現実にはより良くより正しくを目指して、微調整しながら歩み続けるしかないのかもしれない。

  朝食の流動食、何かと思えば、具なしのみそ汁にゼリー一個、後から豆乳一箱。こんなものしか食えぬとあれば、当分病院を抜け出せそうにない。

 

〈4月9日〉

 体調、変化なし。

 昨日の流動食―― 

  朝 具なしみそ汁、ゼリー、2時間後豆乳。

  昼 ポタージュ、ゼリー、後から栄養ジュース。

  夕 豆腐少々、ジュース. 

 一昨日、E夫妻が来て、屋久島への旅の感想を話し、そのさい山下大明氏の屋久島の写真集『樹よ』を贈ってくれた。

 この写真集は見事なものだ。樹の一本一本が、あるいはその集合としての森全体が、生命のあり様を語りかけてくる感じがする。生命というものが、その中に死を含んでいるからこそ荘厳で美しい、ということがよくわかる。

 この本に解説を寄せた山尾三省氏は、「この写真集は山下さんの自画像である」と書いている。

 かつて私は、今西錦二氏の『生物の世界』を読んだとき、氏が「これは私の自画像である」と書いているのに驚いたことがある。戦時下、28歳で徴兵に服するさい、それまでの研究成果である”棲み分け”論を遺書代わりに書いたのがこの本であるが、ここには単なる観察記録ではない今西さんの心に映った見えざる自然のあり様と仕組みが映し出されている。しかもこれは、ダーウィンの競争と淘汰と適応を主軸とする進化論に拮抗する新しい生物理論として提起された。まさに”自画像”というべきものであった。

 同じように、昭和18年に出版された武田泰淳氏の『司馬遷――史記の世界』も、自画像だなあという感じの強くする著作である。中国大陸における2年間の軍務生活の中で氏に何があったのか、その心にどんな変化が生じたのかはわからないが、この本はこういう書き出しで始まる。

「司馬遷は生き恥をさらした男である。士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った。口惜しい、……腐刑と言い、宮刑と言う、耳にするだにけがわらしい、……日中夜中身にしみるやるせなさを、噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く『史記』を書いていた」

 何か身につまされるような書き出しである。昭和18年、31歳でこの本を出版した後、氏は再び上海に渡っている。竹内好氏はこの本の解説で「彼は見かけ以上に、他人に託して自己を語ることにすぐれた才能の持主である」と書いている。

 いずれにせよ、それがどんなにつらいものであったにせよ、自画像の描かれていない作品、書き手の心が映し出されていない論文などは、砂を噛むような味気ない思いしか残らない。 

 窓の外に見える桜は、すっかり色あせてしまった。もうすぐ葉桜の季節に入る。果樹園の柿も、新葉を伸ばす時期だ。今年はその世話ができるかどうか。

 

〈4月10日〉

 体調変わらず。しかし、昨夜は隣のベッドからの鼾に悩まされた。

 2000年以降のさまざまな出来事を振り返り、自分自身を省みる上で、何よりも大きかったのは『山岸巳代蔵全集』の編集にかかわることができたことであった。もちろん、山岸さんの真意を理解できたとは思えないが、言葉の端々から、実顕地のあり方や自分の思考の誤りに気づくきっかけを与えてくれた。硬直した考え方を見直す大きな契機となった。

 しかしまた、どうしても理解できないことや納得できない論説もある。これまでは、山岸さんの言うことに疑問が生じても、口に出して言うことができなかった。しかし、疑問を疑問として提起できないような態度からは、真の研鑽態度は生まれないと考えられるようになった。なぜならそれは、山岸さんを一種の教祖に祭り上げることになってしまうからである。

 山岸さん自身が、次のように書いて盲信を戒めている。

「特別人間や、神や、仏は仲間入りして居りませんから、或る人を盲信し、屈従迎合しない事で……」

「私を神仏化したり、絶対者扱いをする変り者や、中心指導者と思い違いしている言葉をよく聞きますが、これは大変な誤りで、このような間違った観点に立って事を進めると、偏った方向へ進み、宗教的になったり、独裁者が出来たり、分裂したりして、いつかは壊滅します」(『ヤマギシズム社会の実態』)

 そのことに関連して、長く記憶に残っていることがある。それは、高等部が発足した1986年かその翌年のことだったと思うが、高等部生に対するテーマとして「Sさんが『これが本当のことだよ』と言ったら、それは本当のことだろうか」という言葉が投げかけられた。

 当時Sさんは養牛部のリーダーとして学園生の受け入れにあたったり、実学の講師として教育面の指導にもあたっていた。このテーマが出された本当の理由はわからないが、やや独善的と批判のあったSさんに対する内々の批判的意図が含まれていたように思われる。しかし、しばらくして、このテーマが取り上げられることはなくなり、いつの間にか立ち消えになってしまった。

 私自身は、面白いテーマだとして記憶に残ったのだが、その時はあまり深く考えることがなかった。しかし、今思えばこれは大変重要なテーマだったと思う。「Sさんが『これは本当のことだよ』あるいは『これは真理だよ』と言ったこと」というテーマの「Sさん」を、他の「Aさん」「Bさん」に置き換えてみたらどうだろうか。誰の言うことだろうと、その人の言う「本当」が本当かどうかはわからないことなのである。実顕地内のどんな指導的立場にある人だろうと、あるいは山岸さん本人であろうと、あるいはまた歴史上の宗教上、思想上の偉大とされる人物であろうと、その言説が真理かどうかはわからないことであり、それだからこそすべての言葉を信ずることなく謙虚に耳を傾け、研鑽しなければならないのである。学園生のテーマは、そこにつらなる大事なテーマであった。しかし、少しも深めることなく、いつの間にか消え去ってしまった。

 このテーマがなぜすぐに消えてしまったのか。なぜ学園生のテーマから村人全体のテーマにならなかったのか。もしこのテーマが、特定の個人の影響力を排除するためにのみ使われたのであれば、あまりにも姑息と言わねばならない。真相はわからないが、このあたりに当時の村の実態が示されているように思われる。

 

〈4月11日〉

 体調、特に変化なし。 

『ヤマギシズム社会の実態』を読んでいて、最近一番疑問に思うのは「人間の知能」のところである。山岸さんは、人間の知能に全幅の信頼を置いているように感じられる。

「私は人間の持つ知能は、必ずやこれ位の事(人間社会に紛争が断たれず、不幸から脱却出来ない事)は容易に解決し得るものであることを、堅く信ずるものであります」

 そして、こう結論する。

「人間を幸せにするものは人間であり、その知能であることに間違いなしと断定しております」

「他の何物も真似られない優秀な知能を持っている人間が、人間自身の不幸を無くすることの出来なかった原因は、知能の用い方が間違っていたからです」

 私が生れてから今年で84年、第二次大戦後からも71年、その間人間の知能が少しは進んだかと言えば、決してそうは言えない。あるいはもっと古く歴史上の何百年か前と比べてみても、人間の知能が深まったとは言えないだろう。その原因が「知能の用い方が間違っていたから」と済ますことができるだろうか。「知能」と「知能の用い方」を二つに分けているけれども「用い方」も知能の一部なのではないだろうか。

 ところで、「人間の知能」という場合の「知能」とは何だろう? 知識のことなのか、あるいは知識を現実に働かせるテクノロジーを指すのだろうか。あるいは、もっと根源的な人間の心の働きのことなのだろうか。恐らく最後の心の面を指して「知能の用い方」と言ったのではないかと思うが、心の問題こそ、人間にとって一番厄介な、解決困難な問題である。

 前にも書いたことだが、知識やテクノロジーは論理や数式として幾らでも個人の外部に蓄積可能であり、他への引き継ぎが可能なのに対して、心は一人ひとりの個人の内面にしか存在しえず、人から人へ直接引き継ぐことはできない。知識・テクノロジーがジェット機での移動なら、心は自らの足でテクテクと移動するアリの歩みのようなものである。この両者のギャップはますます拡大するばかりだ。

 何人かの友人にこの話をしたことがあるが、みんな「知能の用い方の問題だ」と言うばかりで、「では、いつどのようにして用い方が改まるのか」ということには、明確な答えがなかった。特講などの講習がその答えの中身なのだろうが、特講を受けたはずの自分たちの知能の使い方が、満足できるほどのものかと問われれば、まことに心もとない。

「人間の知能」のところは、単に「使い方の問題」として、その解決策は特講だと、簡単に割り切ってそれでお終いにするのではなく、もっと真剣に考え直す必要があるように思う。

『広辞苑』から――

〈知能〉

 ①知識と才能

 ②知性の程度、環境に対する適応能力

〈知性〉

 頭脳の知的な働き、知覚をもととして、それを認識にまでつくりあげる精神的機能

〈知識〉

 ①ある事項について知っていること。またその内容

 ②物事の正邪などを判断する心の働き

 

〈4月12日〉

 昨日の昼から三分粥とペースト状の副食三品という食事になった。最初はすぐ腹が膨れ、三分の一は残したが、夜は何とか全部食べられ、今朝はわりと楽に全部食べられた。しかし、この食事は楽しいというより、義務感による仕事のようなものだ。一刻も早く点滴を外し、退院にこぎつけるためには、食事が欠かすことのできない労働の一つになった感じである。 

 私が特講受講時から心にひっかりを感じていたのは、「人種改良と体質改造」に関する山岸さんの主張である。『ヤマギシズム社会の実態』には、次のように書かれている。

「人間という生物は案外迂闊なもので、他の動植物に対しては、随分思い切った改良を加え、新しい優秀な品種を作出し、その特徴を高揚して来たにかかわらず、肝腎の人間自身の問題には頗る狭い考え方で、……因習・道徳・宗教観に捉われ、……劣悪体質・低知能に、自他共に苦しみ、進化向上の跡見るべきものがありません」

 そこからの帰結として、人類中の優れた遺伝因子の組み合わせにより「百万人のエジソン、千万人のシャカ、キリスト、カント、マルクスに優る人を」生み出すことを提案している。

 私はこの40年間、何回も青本を読み返すことはあったが、この部分だけには目を閉ざしてきた。口にも出さなかった。出せなかったのである。

 しかし、最近の人工知能の研究者たちの間で、遺伝子操作による体質改造やナノテクノロジーを用いた人体改造がテーマになってくると、これは大変なことだと思わざるを得なくなってきた。『シンギュラリティーは近い』を書いたレイ・カーツワイルによれば、「2030年代までには、人間は生物よりも非生物に近いものになる。……2040年代までに非生物的知能はわれわれの生物的知能に比べて数十億倍、有能になっているだろう」と書き、

「われわれはサイボーグになっていく」と言っている。そして、「魂の不死」ではなく、「肉体の不死」がやがて訪れるだろうと予言する。

 何か恐ろしい時代がやってくる感じがする。こんなことがそう簡単に実現するとは思えないが、一部先端技術の研究がこのような方向に向かっていることは間違いないように思われる。こうした時代の空気に触れると、今一度山岸さんの説に研鑽の光を当てる必要がありはしないかと思うのである。

 昔何かで読んだ話だが、イギリスのある批評家(名前を忘れた)に有名な肉体女優がささやきかけた。

「先生のその優れた頭脳と、私のこの素晴らしい肉体が合わさったら、どんなにすばらしい子どもができるでしょう」

 するとその批評家はこう答えた。

「君のその貧しい頭脳と私のこの貧弱な肉体が合わさったら、どんな子どもが生まれると思う?」

 「世界で一番貧しい大統領」として有名な南米ウルグァイのホセ・ムヒカ前大統領が来日した。氏は、記者会見でこう語った、と7日付の「中日」は報じている。

「いまだ人類は先史時代を生きている。戦争を放棄する時が来たら、初めてそこから脱却できる」

「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に多くを必要とし、もっともっと欲しがることです」

「質素な生活は自分のやりたいことをする時間が増える。それが自由だ」

 

〈4月13日〉

 体調は良好。早く普通食に移れるといいのだが、医師の話ではそれは難しそうだとのこと。そして、万が一むせることがあると肺炎をおこす可能性があり、その予防措置として胃瘻の手術をしておいたらどうか、と提案された。しかし、胃に穴を開ける手術は気が進まない。そんなにしてまで長く生きる価値があるのかどうか。まあしばらくは見合わせることにする。 

 青本を読んでいて、もう一つ心にかかることがある。それは山岸さんが、ヤマギシズム社会の実現をすぐにでも実現できると考えていたのではないか、と考えられることである。「受講者一粒万倍運動の展開」には、特講受講者を3年以内に世界中の全人類にまで拡大すると書かれている。そこから、世界急進Z革命という構想も生まれた。1958(昭和33)年に春日山に100万羽科学養鶏KKとして一体生活が始まると、その翌年にはこの急革運動は山岸会事件を引き起こすことになる。

 急革という考え方はその後も引き継がれていった。61年に実顕地構想が打ち出され「現状そのままでの社会変革」が叫ばれると、全国各地に近隣の会員同士による実顕地が作られていった。しかし、長続きすることはなかった。70年代の”泡沫コミューン”と同じように、いつの間にか消え去ってしまったのである。

 急革運動が最も進んだのは、1980年代である。高度成長からバブル崩壊に至る80年代はまた、特講拡大、活用者・生産物拡大、楽園村拡大、学園拡大、参画拡大というヤマギシズム運動の急進革命期でもあった。しかも運動は、日本のみならず韓国、スイス、ブラジル、タイ、オーストラリア、ドイツにまで広がった。しかし、これも長続きはしなかった。

 それが何故なのか、という解明は未だなされていない。このことの究明なしに、次の新しい展開は困難だと思われるのだが、そのあたりの研鑽がなされているようには感じられない。聞こえてくるのは、以前に行われていた運動の延長線上にあるものばかりである。

 私の考えでは、原因は恐らく、人間というものの心の解明の甘さにあったのではないかと思うのだが、今日は疲れた。また別の日に考えることにしよう。

  再度、造影剤によるレントゲン検査。結果は食道の通りがだいぶ良くなったので、点滴を外し毎食栄養ジュースを出すことにする、とのことだった。

 夕方、いよいよ点滴チューブともお別れになった。身動きが何と自由なことか! この分なら退院も近いかもしれない。ただ、医師に「正直なところ、あとどれくらい生きられそうか」と聞いたところ、「いいとこあと2年」という話だった。それはあと1年かもしれないし、3年かもしれない。いずれにせよそう長くはなさそうだ。

 しかし、それは覚悟していたことだ。ただ、残された人生をどう生きるか、それだけが残されたテーマである。

 船戸与一『満州国演義⑥』読了。

 

〈4月14日〉

 胃に僅かな違和感はあるが、ほぼ快調と言える。

 今日、別の医師から話があるようだが、何なのか。多分、退院後のケアのことだと思うが、こちらとして聞いておきたいことは、今後痛みが発生した場合の対処法である。

  話というのは、親族との面会日の打ち合わせで、特別のことはなかったが、しばらくして一度外出してみるかと言われた。そうか、一度内部へ帰ってみるのもいいかもしれない。入院中に移動した新しい部屋も見ておきたいし、パソコンも点検しておきたい。みんなにも会える。

  点滴が外れたので、久しぶりにシャワーを浴びた。頭のてっぺんから足のつま先まで、石鹸で洗い流した。実に気分がいい。日ごろ毎日風呂に入っていた時は、風呂のありがたみなど感じたことはなかったが……。やはり失って初めて見えてくる世界があるのだろう。

◎福井正之『追わずとも牛は往く』刊行のお知らせ

夢太き人と大地と春の空

 福井正之氏の『追わずとも牛は往く』が出版された。

 この小説のエピローグの最後は、次のようになる。

〈「このことは人生についても言えるだろう。死期に近づけば近づくほど人生を右肩上がりに描きたくなる。丈雄ももはや七十半ばである。しかし三度も人生コースを変更してきた自分には、これからの余生に寄りすがれる記憶は何もなかったように思っていたのである。が、まったくそうではなかった。今、その悔恨を別海『睦み』への愛惜によって溶かしながら、希望への、いいかえればわが自己肯定への道に、微かながらに灯りがついたように感じるのである。(完)」〉

 そして、次のように語っている。

「このことが実現できたのも私の長い孤独な学究生活からというより、ブログやFacebookを通しての新旧の友人たちの心からの励ましあってのことでした。私は決して孤独ではなかったのです。最後になりますが、お伝えさせていただきます。」

 

★新刊本「追わずとも牛は往く」概要紹介

大空と大地と牛と 夢太き人々

今からざっと40年前、〝ブラブラ酪農〟の噂を聞いた社会科教師。

何を血迷ったか職をなげうち、一家四人でそこへ飛び込んだ。

ところは北海道別海原野。

おまけにそこは給与も出ない代わりに、仕事に出ることも強いられない。メシだけは普通に食える

――さてどんなことになるやら。 

 

幻視される「金のためには働かない時代」 

 主人公は巨大化したコミューンを離脱して十数年。惜別の思いとともにしきりに想い出されるのは別海の「睦みの里」であった。 
 原野に転住した老いた農民たちが、仕事をしないブラブラ族の若者とともに、小さなコミューンを築いていた。
 厳しい冬、はじけるようにやってくる春、牛たちとの生活。 労働とは? 共同体とは?

 激動する時代の裂け目に、ふと幻視される「金のためには働かない時代」。それを日々体現しながら生きる人々。その群像を描く。

本書の内容 

序章 番外地

第一章 発端

ハンカクサイ教師/雄大の〝越境〟/ブラブラ酪農/『睦み講』/妻

第二章 春遠し

転住第一夜/トレンチサイロ/育児舎/たちまち夜がやってくる/雄大の寝込み

〝襲撃〟/里育ちの娘/春吹雪/お父ちゃんわすれたんやろ/多佳の看病/母親が

迎えに来るまでの時間/睦み会

第三章 夏牛たち

萌え出ずるもの/摩周湖/自動解任/新職場/子どもたちの情景/乳牛との〝格

闘〟/「どれ代わってみろ」/固い焼き肉/広い敷地の長い通路/経営はここだって

生命線/メモ「金のために働かない時代は」/巣穴に籠もるブラブラ蜂へ/働かざる者/

一日の時間の長さ/里の結婚式

第四章 冬子離れ

ゆるぎない弓/里帰り/親しかできないこと

終章 岐路「一国平和主義」のゆらぎ/オニギリかモチか

エピローグ

 ※参照 わが学究 人生と時代の〝機微〟から:★新刊本「追わずとも牛は往く」概要紹介

 

◎吉田光男『わくらばの記』(6)

わくらばの記  病床妄語⑤

〈3月16日〉

 体調はまずまず、特に問題は感じない。

 一昨日、クローズアップ現代でISの女性奴隷市場のことを取り上げていた。実におぞましい現実だ。

 エマニエル・トッド氏は、ISはイスラム教という宗教から生まれたのではなく、宗教の崩壊から派生したニヒリズムの現象だという。確かに、イスラム教には男中心の思想が含まれているかもしれないが、性奴隷を肯定するようなものではないと思われる。

 しかし、この資本主義社会でも、性の売買が当たり前のように行われている。タイなどの後進国では、はるかにひどい児童性虐待が行われているらしい。ヤン・ソギル氏の小説には、そうした現実がかなりどぎつく描かれている。日本でも、70年ほど前には、従軍慰安婦という形の性奴隷が公然と存在していた。

 暴力・貧困・戦争は、性奴隷を必然的に伴うものなのか。これは、人間存在のどこから生じてくるものなのだろうか。

 

〈3月17日〉

 昨日からだいぶ咳が出たが、朝起きてからは治まった。今日は造影剤によるレントゲン検査。

  先日、人工知能とロボットによる近未来というすでに一部現実化している社会状況について、クローズアップ現代で取り上げていた。それに関連して、囲碁の世界でトップクラスの棋士、韓国の李セドルさんがAIのアルファ碁に三タテを喰らわされたという事件があった。四局目でやっと一矢を報いたものの、最終の五局目がどうなるか。結果がどうなるにせよ、これに関しては人間の知能の敗北を認めざるをえない。

 このアルファ碁は、従来のコンピュータの方式と違って、19路×19路の全局面を計算するのではなく、「深層学習」と「強化学習」という二つの手法で盤面のパターン認識と分類を行い、勝つ確率の高い手筋を記憶するという新たな方法を用いているという。しかもその深層学習たるや、一人の一流棋士が200年かかっても打ち切れない対局数を一瞬のうちにこなし、記憶するという優れたものらしい。何か末恐ろしいことが始まりつつあるのを感ずる。

 このような人工知能とロボットの組み合わせによって、生産も流通も将来人手を必要としなくなり、大量の失業が生じるかもしれない、とクローズアップ現代は報じていた。こうした技術革新の中で、スウェーデンでは勤務時間を8時間から6時間に短縮して給与は据え置くという、実質賃金の引き上げに踏み切ったという。またスイスでは、働いても働かなくとも一人月30万円を支給する制度を導入するかどうかをめぐって、5月の議会で審議されるという。

 こうしたことが現実化したとき、今の資本主義のシステムは大きく変わらざるを得なくなるかもしれない。問題はこれが人類の繁栄のために利用されるのか、或いは一部支配者の利益のためにのみ利用されるのかということである。

 またそれと関連して、いわゆる労働が不要になったとき、人間は何を生きがいとして生きるのか、という問題が生じる。これは、定年退職・余暇・老後、あるいは病床で、働く必要がなくなったり働けなくなったときに、人が何を生きがいとし、どんな目標をもって生きてゆこうとしているかが問われる現実の問題でもある。

  以上を書きつけたあと、検査の造影剤のせいかどうか、体の震えがとまらなくなり、栄養剤を中止してからやっと治まったが、そのあと37・8度の熱がつづいた。

 

〈3月18日〉

 朝起きてからは、体調はいくらか回復し、声の嗄れは治まりつつあるが、まだ咳はつづき、微熱が治まらない。食道のレントゲン検査は少し延期になりそうだ。

  昨日書いた人口知能の話は、近未来の技術の方向性としてはそうなのであろうが、現実の社会には労働力の使い捨て、切り捨てが横行している。

 昨日のクローズアップ現代は、そうした現実にメスを入れ、それに抗して立ち上がる若者たちの自発的な動きを報じていた。

 安保法制反対に立ち上がった学生たちシールズの動きや、銀行を立ち上げて地方の中小事業者や起業家に貸し付け、これに中小金融機関が参加する動きもあるという。またブラック企業の従業員でユニオンを結成し、団体交渉を行っているところがあるとも報じていた。実に多様で面白い動きだ。

 これらの動きで特徴なことは、若者たちが集団を結成しても集団の方針として動くのではなく、基本はあくまで個人を主体とし、参加者を束縛する組織的制約がないことだという。

 これは極めて重要なことだが、この方向がずっと保てるかどうか。またその場合、個が個を保ちながら集団としてどのようにまとまっていけるのか、ということもテーマになる。人間は弱い。個で始まったものが、いつか集団の論理に埋没してしまうことがないかどうか。

 私はこの時に重要になるのが、「公」という考え方ではないかと思う。

「私」を尊重しながら「公」を目指す生き方、このところは次にもう少し考えてみたい。

 

〈3月19日〉

 今日はいくらか体調が戻った。熱も下がった。しかし、咳はつづいて痰もよく出る。

 娘、妻来る。そのさい、Sさんからの差し入れで漫画の『わたしはカルト村で生まれた』が届けられた。数日前の新聞書評欄を読んで、もしかしたらヤマギシのことではないかと想像していたが、まさにそのとおりだった。

 学育や学園の実態は、この10年の間に私自身がかなり知ることにはなったが、子ども自身の目にそれがどう映っていたのかはあまり知ることがなかったので、改めて「やはりそうだったか」という思いを新たにさせられた。

 また元村人の一人が「日々彦通信」なるブログでこの本についての書評を寄せており、その中で当時の村の実態とそれについての意見を書いていた。このブログではやみくもに一部指導層を非難するのではなく、村人やその集団が生み出す暴力性について語っており、妥当なものと思われた。

 これは単にヤマギシの村だからというのではなく、人間の集団の持つある種の恐ろしさ、危険性について語っているように思われ、私自身のテーマでもある。一人ひとりが個としての自分を生かしながら、集団として存続することがどうすれば可能なのか。

 個がばらばらのアトムに分解されては人間の結びつきが失われ、社会の存続は難しい。といって、一つの方向だけに収斂されるのは、もっと恐ろしい。個と集団、あるいは個と社会、それはどうあるのが望ましいのだろうか。

 

〈3月20日〉

 咳はまだ治まらない。朝は37・2度の微熱だったが、午後は36・5度に下がる。

 今日は、静かにテレビを見ながら過ごした。

 〈3月21日〉 

 夜間、ひどい咳で胸の筋肉が痛くなる。薬としてトローチが出たので何個かなめたが、一向に効果がない。

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」にさしかかったところで、また点滴が詰まり、新しいのに取り換えられた。もう毎日、血管に針を入れられている。針地獄とはこのことか。

 〈3月22日〉

 相変わらず咳がひどく、造影剤によるレントゲン検査は中止となる。代わりに、喉の治療として薬液の噴霧が行われることになった。午後、その第1回、少し効果があるように感じられた。夜8時に2回目を行うという。

 

〈3月23日〉

 咳はつづいているが、昨日よりは減ったようだ。しかし、夜中に下痢、喉の風邪の菌が胃腸まで降りて、下痢の症状を引き起こしたのではないかと思われる。

  村上春樹の小説には、しばしば「失われる」とか「失われていく」という表現が出てくる。「失う」ではなく「失われる」なのだ。最初ちょっと違和感を覚えたが、最近は自分の体を通してこの言葉が入ってくるようになった。最初に感じたのは、聴力のことである。耳が聞こえなくなった当初は、聞こえないのは相手の声が小さいからではないかと思っていたが、他の人にはちゃんと聞こえている。とすれば、嫌でも自分の聴力が衰えたことを認めざるを得なくなった。

 この聴力の喪失は、自らが「失った」ものではない。自分の意志や過失ではなく、老いによって自然と「失われた」ものなのだ。聴力に次いで記憶力が、そして筋力や体力など体のあちこちが衰え、やがては自分自身が「失われていく」ことになる。

 村上春樹の若い読者の中には、この喪失感に惹かれるという感想が多い。今の時代には、何か大事なものが失われつつあるのかもしれない。

 

〈3月24日〉

 咳は相変わらず止まらない。耳鼻科で喉の声帯部分の検査を受けるが、異常なしとのこと。 

 昨日、新しい「けんさん」紙が届けられたのでざっと目を通した。2面のSさんの論考の中で「稲と鶏」の「と」についていろいろ書いていたが「と」という接続詞に特別の意味を持たせることに何か違和感を感じた。この「と」については、昔水沢の理念研でも取り上げられたことがあるが、まだそれがテーマになりうるのかという不思議な感覚なのである。

 接続詞としての「と」は、同一概念、または類似概念を並列的に並べるときに使われるし、また反対概念、対立概念を並べるときにも用いられる。というだけの話であって、「と」という言葉にヤマギシズムの何かが含まれるようなものではない、と私には思われる。そのことよりも、山岸さんが農業養鶏を通じて何を実現しようとし、またその後の実顕地造成と共に始まった社会式養鶏では何を願い、何を実現しようとしていたのかを解明することが大事なように思われる。

 いま卵の売れ行き不振から養鶏はどんどん縮小されてきているが、そういう時期での社会式養鶏の真価とは何なのか、ぜひ研鑽したいものである。そしてその研鑽は誰かが論ずることで終わるのではなく、職場の一人ひとりが仕事をとおして観察し、考え、研鑽するものでなくてはならないと思う。

 

〈3月25日〉

 咳はまだ止まらない。しかし、睡眠時間が長くなっていることを思えば、咳と咳との間隔が開いて、回数が減ったせいかもしれない。

 窓の外を見ると、青空の下に白い雲がぽっかりと浮かんでいる。大きいものもあれば小さい塊りもあり、東西に長く延びたものもある。じっと固定しているようでいて、しばらく目を離していると、互いにくっついたり離れたりして一瞬たりともじっとしてはいない。

「雲はある。しかし無い」と、山岸さんはどこかで言っていたが、味わい深い。人間はいる、しかしいない。私はいる、しかしいない。生も死も、青空に浮かぶ一片の雲のようなものかもしれない。

 そういえば、昔テレビドラマで見た水滸伝の主題歌は、こんな歌詞であったと記憶している。

  ――人生は知れたも~のさ、

    うまくい~っても

    一片の雲のよ~うに

    流れ去るだけ――

 

〈3月26日〉

 咳はまだ続いているが、少し下火になったようだ。多分来週には検査可能になるだろう。

  確か「中日」の論評だったと思うが、内山節氏が「公」という考え方が今の時代に必要だと書いていた。ちょうど私自身、「公」の思想について考えていた時期だったので共感を覚えた。

 ヤマギシではこの「公」の思想は出発当初から大事にされてきて、研鑽学校では「私意尊重公意行」がテーマとして用意されてきた。だが、2000年以降、このテーマに違和感が生じてきて、一部には公然と反対の声を上げる人も現れ、何となく中心テーマになりにくいような感じになってきた。その理由は、「公意」というものがその時々の実顕地の方針に合わせることだとする雰囲気があったためではないかと考えられる。鈴鹿問題や裁判問題を通じて「公意」を「押し付け」と受け取っていた人たちが結構いたのである。

 しかし、本来「私意尊重公意行」という考え方は、そんなものではないだろう。このテーマを考えるさいの重要なポイントは、「公」と「私」の関係をどうとらえるかにかかっているように思う。つまり、「公」と「私」を対立概念としてとらえるか、共通概念としてとらえるか、である。

「私意尊重」というのは、一人ひとりの「私」が納得しないうちは「公」が成立しないということである。だから山岸さんは「一人でも反対のあるうちは結論は出さずに次に持ち越す」と言っている。

 しかし、実際の運営上では、大多数が賛成し少数の反対者があった場合に、「みんなが賛成しているではないか」と有形無形の圧力がかかる場合が多かった。「それが調正所の方針だ」とか「研鑽部の誰それがそう言っていた」とか、そう言われるとそれに賛成できない自分はイズム理解が浅いのではないか、とかえって自分を責める方向に向かってしまう。自分の「私意」を自分自身が尊重しないことにもなる。振り返ると、そうした動きに私自身が陥ったり、逆にその動きを推進していたのである。これは戦中の「滅私奉公」と同じで「私意尊重」ではなく「私意抹殺」につらなる。

 本来のヤマギシの「公」は、あくまで「私」を尊重し生かすものでなくてはならない。「公」と「私」は対立するものではなく、「私」がやがては「公」に高まり、それに含まれるようになる。もともと「公」とされる考え方も、最初は誰かの「私意」にすぎなかったものが、同調する人が増えて「公」になったのである。その意味で調正所の見解といえども、それは調正所の「私意」に過ぎない。研鑽を経て「公意」にまで高める努力を怠ってはならないのである。

 しかし、日々動いている現実の活動体にあっては、何日もつづけて議論に明け暮れるわけにはいかない。そこで、「とりあえずこれでやってみて、その結果をまた研鑽しよう」と、一時保留を含む公意が成立することになる。だから、「公意」といっても絶対的なもの、永続的なものではなく、たえず振り返り、反省、検討を加えるべき対象である。

 山岸さんは、公意に関して次のような発言を残している。

「公意そのものが、いい加減なものだとしてかからんと、危ない。……『まあまあ』で『せめて』というのが入るのやぜ」

 公意は参加者全員の一致によってのみ成立するのである。しかし、その一致が雰囲気に押されたものであったり、多数に呑み込まれて成立するものであったりする場合もある。あるいは、単に反対でないというだけのものかもしれない。だから、山岸さんはこうも言っている。

「意見が違うならば、なおさら寄って話し合う。しかし同意見の時は、なおなお注意する。みんなの意見が一致した時は最も注意すると、こうなるのと違うやろか」

 研鑽学校のパネルの最後には、「公(おおやけ)に生きる私の生き方」というテーマがあった。ここでいう「おおやけ」は、実顕地での思考・行動様式としての「公」というだけでなく、社会全体、世界全体を通じての「公」であって、人間の人間としてのあるべき生き方・あり方を意味するものと思われる。内山節氏の言う「今の時代に求められる公」とは、そういうものではないかと思った。

 

〈3月27日〉

 咳も痰もだいぶ減り、睡眠時間が長くなった。回復に向かっている実感がある。 

 昨夜、「精霊の守り人」の第二回を見たが、まったくお粗末だった。原作を読んでいない人には、前後関係がよくわからないだろうし、読んでいる人にはすごく物足りない。それは、テレビがCGを駆使して映像化することで、かえって視聴者の空想力を制約してしまったからである。空想力の働かないファンタジーなど面白くもおかしくもない。綾瀬はるか演ずるバルサも、短槍を振り回しているだけで、原作の短槍の名手としてのバルサのすごさが少しも伝わってこない。ファンタジーの映像化には、原作者と同等以上の力量が必要なのかもしれない。あるいは、すっかり分解して、アニメ化するかだ。

 昨日は「公」と「私」について考えたが、もう少し蛇足を加えるならば「公」と「私」は相互に移行したり転化したりするものだと考えられる。例えば、戦中の「滅私奉公」などという当時の公的スローガンは、今では一部ウルトラ右翼以外には見向きもされない。逆に敵対思想として摘発された個人主義が、公的思想として支持されている。

 このように「公」と「私」は時代状況によって変わるものであるが、いかなる時代にも変わらぬものが「公(おおやけ)」という考え方・生き方ではないだろうか。磯田道史氏の『無私の日本人』を読んでいると、そんな感じがしてくる。

 

〈3月28日〉

 咳、喉を含め体調はいい。 

「公」と「私」を考える上でのもう一つのポイントに、多数決主義がある。戦後民主主義の浸透とともに、この多数決主義が正しいものとして広く認知されるようになった。この考え方は私たちの間にも深く入り込んで、どこか常識化している。しかし、ヤマギシでの公意は、全員一致であって多数決ではない。にもかかわらず、「みんなが賛成しているのに」とか「何で一人だけ反対するのか」といった多数決主義が無意識のうちに通用している。恐るべきことだ。数の論理は力の論理でもあることを忘れてはならないと思う。

  造影剤検査のあと、栄養ジュース(150ml)と食道の薬が与えられたが、ジュースを飲んだとたんに胃がパンパンに張り、両目の間隔が狭まって目まいに似た症状になった。2時間ばかりダウン、ようやく4時過ぎに回復したが、夜のジュースでも同じ状態になった。2か月以上胃に何も入っていなかったので、胃が突然の侵入物に驚いたのかもしれない。

 

〈3月29日〉

 今朝は体調良好。7時にジュースと薬を飲む。まだ多少の違和感はあるが、昨日のようなことはなくなった。

 「私意尊重公意行」で考えておかねばならないもう一つのことは、私たちの間にある上下感(観)の問題である。私の場合、どうも小学校時代にこれをしっかりと植え付けられたらしい。軍国教育の下では、上下のケジメは特にやかましかった。敗戦後、自由だ、平等だと教えられても、心の底に染みこんだ上下感(観)はなくなりはしなかった。だから、参画してから後も、村の中枢部門(調正所、研鑽部、経営部等)にいる人の意見は正しいものと、予め決めてかかっていた。こうした予見の下で、どうして徹底的な研鑽ができるだろうか。

 山岸さんは『ヤマギシズム社会の実態』の中で、こう書いている。

「私の言動や所説や、このヤマギシズム社会構想に対しても、……これを以て最上決定的なものと思い込まずに、又貴方の今持って居られるものと、一致しないから駄目ともしないで、相対者と、条理とを、切り離して考察される事が大切で、人物を通さずに、盲信しないで、厳正な批判の目で検討し、容赦なく叱正され度いです」

 このように「相対者と条理とを切り離して」「人物を通さずに盲信しないで厳正な批判の目で検討」することが、研鑽の最も大切な要件であると述べている。

 ところが、である。現実には、この研鑽の最も基本中の基本が歪められていた。誰によってかと言えば、自分たち自身によってなのである。そのさいの心理的要因に、上下感(観)が大きく作用していたのではないだろうか。

 しかし、上下感(観)を無くすことは、尊敬の念を排除するものではない。村にも世間にも尊敬に足る人物はいる。ただ、尊敬することが、その人の意見を信ずることにつながってはならないということなのである。

 

〈3月30日〉

 夜、多少咳は出るものの体調はいい。ジュースも薬も楽に飲めるようになった。食道の狭い部分が少し広がった感じがする。今週か来週、再び胃カメラの検査をするという。嫌だが仕方がない。 

 ところで私たちを捉えていた上下感(観)だが、それは村人を上位にあるものと下位にあるものとを二分するだけではなく、さまざまな階層的なヒエラルキーを成立させることにつながっていった。

 例えば村の隠れた指導者であったSさんとその周辺にいた人たち(本庁調正所・研鑽部等)は正しく、各地実顕地の調正所は次に正しいといった暗黙の合意である。だから、90年代末には地方の実顕地内で解決すべき問題でも、すべて本庁に問い合わせるというおかしな構造が出来上がった。

 この上下感(観)がヤマギシ会活動に適用されると、村人、会員、活用者という上下のヒエラルキーとなって表れる。村人が口にする「会員さん」という呼称の中には、会員をどこか一段下の存在として見る風潮があった。そのさいよく口にされた言葉が「資格」という言葉である。

 80年代始めに、ようやく一般活用者が特講に参加し出したころ、Sさんが「やがて村人は実顕地にいるだけで、光り輝く存在になるだろう」と言ったという話を、間接的にではあるが聞いたことがある。事実、村が拡大に拡大を重ねていた当時は、多くの人がそんな気分になっていたのではないだろうか。やがて、特講→研学→全員参画の方針が打ち出され、村は新参画者であふれた。多くの会員が村人の「資格」を得ようとして参画したのである。

 しかし人間は、村に移り住んだからといって急に中身が変わるわけではない。やがて脱会者が相次ぎ、財産返還訴訟も続出することになった。

 2000年代に入って、私はこうした事件に振り回され、何を考えていいかわからぬ事態になったが、今考えるとこれがなければ自分自身を振り返ることも、実顕地のあり様を考え直すこともなかっただろうと思う。その意味で貴重な経験であった。

 これから考えると、良いことが良いのではなく、悪いことも失敗したことも良いことなのだ。逃げ出さず、放り出さず、向き合いさえすれば。

 

〈3月31日〉

 夜中も咳はほとんど出なくなった。ジュース、薬とも楽に飲めるようになった。多少のひっかかりはあるが。先生に聞くと、水やお茶は飲んで差支えないという。

 上下感(観)を促すもう一つの要因に、秘密主義のヴェールがある。公開されないことによる秘匿の重みのようなものである。情報を知っているものと知らないものとの格差といっていいかもしれない。だいたい秘密というものには、それが何であれ、知りたい触れたいという、人の願望を誘う何かが含まれている。そして、それを知りうるものと知りえないものとの間には、大きな格差が生まれる。

 オウムの麻原彰晃もそうであったが、教団が大きくなるにつれて、彼は取り巻きに囲まれ、次第に奥の院におさまり、そこから直近の部下を通じて指令を出すようになった。その方が麻原の神秘性とカリスマ性を高める効果があるからだ。そして失敗すれば、部下の失敗として事を納めることができる。

 ヤマギシにも同じような秘密主義があった。それを言葉でいえば、村人として「知っておくべきこと」と「知る必要がないこと」という区分である。

「知る必要がないこと」を知っているのが、指導部門に携わる人たちである。もちろん専門部として一般に知らせる必要のない事柄はあるだろうが、それが極端になると知らしめないという特権に居座ることになる。また一時、専門部門間、あるいは試験場と一般の職場の間で「立ち入らない、立ち入らせない」という言葉が強調されたことがあった。ヤマギシズム学園では「学園は親たちの我執に染まらない無重力空間である」と、その運営に学園生の親たちが意見を言ったり介入したりすることを阻んでいた。

 こうした秘密主義は、部門間の交流を阻み、村人同士の自由な交流や意見交換をやりにくくする。しかし、村人同士の自由な交流や活発な意見交換、つまり日常的な研鑽体制の確立なしには村の発展は期待できないのではないだろうか。

◎『わくらばの記』資料研に参加して

〇先日豊里実顕地に行き、吉田光男著『わくらばの記』の資料研に参加する。

 当日は『わくらばの記』の2016年1月22日の箇所を資料として出し合う。

<人の目に見えなくすることで、あたかもそれが存在しないかのように振るまうのはいかにも姑息。ずいぶんそうした姑息な行為をしてきたものである。牛乳の日付変更、食中毒の隠蔽、トラックや看板から「やまぎし」の文字を消す作業、こうした考えが過ちを素直に認めない、それと正面から向き合わない言動につながってしまった。>

 など、組織がもっている隠ぺい体質に焦点が当たった。 

 

 いろいろな意見が出たが、主に供給や拡大関連に携わっている人は思い当たることがあり、その他の生産職場にいた方の中には、よく知らなかったという人がいた。この辺りは、総じて「任し合い」による、ある種の信頼にもとづくものだと思う。

 学園問題も同じような状況で、その関連職種にいなかった人は、随分後から知るようになったという。

 それぞれの人の子供には学園生がいたのですが、当時はその子からはあまり聞いていない人が多かった。これはわたしの子どもにも当てはまります。わたしも後から聞いてビックリすることがあった。

 

 また、「わくらばの記」を読んでいたら、実顕地を進めている影響力のかなりある人から、そんな批判的な本は読まない方がいいと言われたそうだ。

 それに対して、Nさんは「書く人も、読む人も自分の思いで見ているので、そういうのを外して向き合わないと、分からないわな」

 また、Sさんは「ものを書くというのは、当然、批判的な要素が入るもので、批判的だから読むなというのは、ものを書くということが分かっていないのでは」というような発言がある。

 

 参加して思ったのは、このように出し合って、その時の自分はどうだったのか、今の自分に引き付けてみるとどのようになるかなど、考えていく必要がある。

 資料研ではそこまではいかない感じがししたが、このような場があるのはいいなと思った。

 自分たちの思惑に合わせて他を意のままにしようとする、他の評価によって自分たちの行動の価値が決まるという、主体性がないどころか他を侮っていることになる。自分はどうなっているのか考えていた。

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 資料研後、Mさんと話をする。

 実顕地運営の主だった部門にいて進めていた私に、「何故参画を取り消して実顕地を離れたか」との問いかけがあり、その経過の話をした。

 このブログなどで度々触れているが、その経過の渦中にいた人以外は、何があってそうなったのか、よく分からない人も多いかと思った。

 参照:「ヤマギシズム実顕地について思うこと」  (2015年5月28日)など

 

 Mさんによると2000年前後のかなり大勢の人が実顕地を離れた後、Mさんの中で「私意尊重公意行」の捉え方が逆転したそうである。

 それまでは、「公意」が出され、それに「私意」を添わせていく、アップダウンのイメージで展開していたが、大量離脱者が出た後は、一人ひとりの「私意」があり、それを出し合う中で「公意」が形成されていくというボトムアップの方式が根付くようになっていったそうである。

 

 その方式だと、なかなか決まらないこともあり、時間がかかるので、大きい実顕地を進めている人から、お前のところはまだそんなことをやっているのかと言われることもあるそうだ。

 

 これは実顕地運営の根幹をなす研鑽方式の要になるところである。

 Mさんは、最近雲行きが怪しくなってきたようなことを心配されていた。

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 親しくさせていただいている佐貝貞夫・のぶ夫妻から、話を伺う。90歳すぎの二人とも元気で溌溂としていらっしゃった。二人の結婚(70年たつ)を経て山形から北海道根釧原野への入植、その大地の広大な広さ、除雪車などない中の雪の激しさの中、ともに入植した人たちとの助け合い、1959年の北海道特講から「北試」(ヤマギシの村)への参加、ブルセラによる飼牛の全滅、炭鉱へ出稼ぎ、その後の「北試」での立て直しと話は続いた。

 福井正之氏の『追わずとも往く』は、そのような先人たちが育て上げた土台のもとで、ある程度落ちついたところへ意欲的な青年たちが参加して、その豊かな可能性を秘めた状況の体験を踏まえて展開される。

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 ※福井正之さんは以前のブログ「反転する理想」に、吉田光男『わくらばの記』を、ご自分に引き付けながら考察した記録があり、本人の了解のもとに、順次掲載していく。NOは掲載時のままにした。

 福井正之(41)吉田光男さんの逝きて「逝かざるもの」

〇4月30日吉田光男さんが逝去されました。享年85歳。

 吉田光男さんとの最初の出会いは、『天真爛漫』(ヤマギシズム出版社1980)での彼の著述からでした。そこで巻頭に紹介されていたミヒャエル・エンデの『モモ』のことと、楽園村の記録が私にはとても斬新なものでした。それは当時の世界文学、思想の頂きから発想しながら、楽園村の意義に及ぶもので、そのスケールの大きさとそれによる普遍的なリアリティ― は、ヤマギシにもかなりの人物がいると知らされました。しかしそういう発想はその後のヤマギシからどんどん失われていったものです。

 

 その後吉田さんとの接点はほとんどなかったのですが、私のジッケンチ離脱後、彼の元学園生の「個別研」体験手記に触れての論考で、さらに近時の『わくらばの記』の中で、私はふたたび彼と出会えた感触がありました。彼のスケールは依然として健在でした。ただ彼の思索の場がジッケンチであり続けたことが、私にとってなぜそれは可能なのか不思議でもあり、ある種の危惧と驚異にもなっていました。彼の逝去の報を受けて、私にもっとも鮮やかに想い浮かんだのはそういう場の選択の違いでした。

 

 なぜならそれは私にはできなかったことです。そこは私には「金は要らないが、無理暴力のある」集団であるのみならず、「沿う・合わせる」の自縛的な自己拘束とそれによる思考停止の場でもありました。私がそういう「ジッケンチ」を離れるしかないと断念した地点で、吉田さんはそこに踏みとどまったのです。それはまた吉田さんの表現によれば「手垢のついた」言葉の世界であり、あらゆる理想反転の問題群に彼は決して盲目ではありえなかったはずです。事実『山岸巳代蔵全集』の編集にも関わった吉田さんは「何だこれは・・・山岸さんの言うことと実顕地でやってきたこととはかなり違うじゃないか」と感じられたのです。

 

 その間の軌跡を、吉田さんは「2000年からの10年」と総称しています。私には彼がその間「実顕地」というものの真髄を模索しながら「けんさん」の考え方を生き抜いてきた人として浮かび上がってきます。ただそれはいわゆる既成の研鑽会のことでなく、「ことば」の真実を確かめ確かめ、「自分の内部に掘り下げた深さだけ、外に向かって届く距離が長くなる」(論考「手垢の付いた言葉」)という発想に基づくものでした。それこそが、吉田さんがそこに在ったことの唯一の「希望」であり、自己「けんさん」であり、「実顕」であったと思えてなりません。

 

 ただその志の深さと困難さは、とうてい私の想定に及ぶところではなかったようです。『わくらばの記』の始めの部分で、吉田さんは辺見庸の『1★9★3★7』に触れ、

 

「これを読むと、自分が書いている〈学園問題〉についての手記は、チンケで底が浅く、とうてい書き続けることができなくなった。もっと自分に向き合わなければ、書く資格も意味もない。辺見庸は、『なぜ』と問うことを続けている。物事の重要性は、説明や解明にあるのではなく、問うことであり、問いつづけることの中に存在する。説明、解明、解釈、理論づけ、・・・・・・それらはそれ以上の究明を放棄することの弁明に過ぎない。」

 

 この記述は私には衝撃でした。こうまで書かれている吉田さんには、ある覚悟のようなものが滲みだしています。私はこの部分を読んで、これはキツイ、自分には無理・・・と躊躇しながら、いつしかそこから離れていたようです。これまでどこからもジッケンチや学園についての問いかけが表立って見えない状況では、そのレベルよりはそのこと自体への言及、解明、理論づけに意味があると考えてきたのです。

 

 私はジッケンチから離れ、まず自分の感覚とアタマで考え抜いてみること、そしてそれを書き表してみること、にずっとこだわってきました。「ジッケンチとは何だったのか?」「自分とはこの世の中で何ものなのか?」と。それは自分への向き合いとしてキツイことではありましたが、他方救いや歓びもありました。そしてそれはジッケンチの外だから可能になった営みだとずっと考えてきたのです。しかし吉田さんはまさにその誰しもそこに流され同調していくしかない環境のただ中で、ずっと独自の思索を絶やすことはありませんでした。

 

 今私は吉田さんの逝去に直面し、これまで通りの自分でいいのかどうか、はたと立ち止まっています。必要なのは、というより求められているのは、いや自分が求めつつあるのは、できるかどうかは別に、吉田さんのような問いかけの深さだと思います。いいかえればその場は、(吉田さんだからいえるのかもしれませんが)どこでもよかったのです。しかもこの思いは、すでに逝去された吉田さんのおそらく「逝去しようのない」、これからもますますその輝きを増すであろう志しを、点火していただいたような感覚でもあるのです。

 

 なにかしら途轍もなく恥ずかしくなりそうなことを書いているような気もします。「志し」なるものは私には、かつて嫌悪に襲われ放棄したと思ってきた<理想>や<理念>に付き物の言葉のようでしたから。でも私はすでに吉田さんのおかげで「百万羽子供研鑽会」のことばが蘇っています(「元学園生の手記を読んで」吉田2013/10より)。

 

「研鑽会は、先生や大人の人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます。」

 

 これは山岸さんが書いたと言われている子ども向けの研鑽資料です。しかも大人でもこのように実践されたことはほとんどないように記憶します。しかしこれこそ「けんさん」というものの原型、本領であり、その前提としての「自己けんさん」は不可欠だと考えます。その一方法として書くという営みは欠かせないものであり、なかんずく吉田さんの思索の記述は「後世への最大遺物」だと感じられてくるのです。

吉田さんの冥福を祈ることは、私には彼のこの志と覚悟をどこまで引き継げるかにかかっていると考えるものです。

(2017年「子どもの日」に)

◎吉田光男『わくらばの記』(5)

 わくらばの記  病床妄語④

〈3月1日〉

 抗がん剤の影響で、今朝も下痢。

 放射線治療は明日で終わるが、そのあとどうなるのか、岩田医師に聞く。3日に造影剤で食道の様子を調べるが、食道の腫れが引くかどうかが問題だという。

 午後から夜にかけて発熱、37・9度あった。血液検査、CT検査を受けるが、特に異常なしとのこと。抗がん剤は中止となる。

 何かを書く気力なし。

〈3月2日〉

 熱は下がるが、下痢は続いている。

 入院1か月半ともなると、体力が落ち、思考力がにぶる。頭がボーっとして、読書スピードもぐんと落ちた。

〈3月3日〉

 体調は思わしくない。吐き気とまではいかないけれど、何かむかつく感じがずっとしている。昨夜はまた37・2度、今朝は36・8度の微熱があり、体のだるさは抜けない。

 造影剤検査は午前中で終わる。食道の通りが悪いとのことで、明日からまた栄養剤の補給。来週半ばに再検査するとのこと。まだ見通しが立たない。

 入院も40日を過ぎると、病人がますます病人くさくなる。気力、体力が衰え、日録を書く意欲も減ってしまった。困ったものだ。

 〈3月4日〉

 体調はいくらか回復したが、考える力、書く力はあまりない。

〈3月5日〉

 少し腰の痛みがある。腰痛体操をしておかないと、と気を引き締める。夜中、胸奥に少し圧迫感があった。痛みではなく、押さえつけられるような感じ。目覚めてからは、あまり感じなくなった。

 10時に妻、娘来る。ちょうどその時、めまいがおこり、横になる。看護師さんの話では、何かの拍子に血圧が急に下がったのではないか、という。

 午睡の後、めまいは解消。熱は37・1度、いくらか高い。

 

〈3月6日〉

 夜はやはり熟睡できない。胸にわずかな圧迫感があり、うつらうつらといった状態。起きるとどうもないのだが。 

 自分の過去を振り返ると、ある時期まで私は歴史というものにあまり興味を持てなかった。それは戦時中の神がかり的な歴史教育が敗戦によっていっぺんに否定され、日本歴史などは学ぶに値しないと勝手に決めつけていたからである。これからは社会科学だ、マルキシズムの方法によってこそ正しい歴史認識も得られる、と思っていた。こうした浅薄な考えが、一冊の小説との出会いで覆されることになった。司馬遼太郎の『人斬り以蔵』である。

 幕末の土佐藩、瑞山武市半平太が吉田東洋暗殺の廉で切腹を命じられた裏に、岡田以蔵の自白があったわけだが、以蔵が自白するまでの経緯に、半平太ら郷士たちによる毒殺未遂という事件があり、それが以蔵の自白の決意を決定づけたというのである。この小説を読んだ時に、歴史はやはり人間が動かすものだという当たり前のことがよくわかった気がした。それまでの歴史観、生産力と生産関係の矛盾が社会を動かすとする唯物史観は、人間の営みとしての歴史を一面化し、とうてい真実に迫れないものだと思えたのである。

 それから司馬さんの小説を次々と読むようになった。しかし、それで唯物史観から完全に抜け出られたかと言えば、否である。いったん染みこんだ思想は、簡単には抜けない。

 

〈3月7日〉

 昨日ほどではないが、胸やけがつづいている。熱は下がったようだ。岩田医師の話では、放射線による食道炎ではないか、という。

 司馬さんの本を読み出してからしばらく、小説と史実との混同があったように思う。司馬さんは自分でも言うように、若き日の自分に宛てた手紙として小説を書いた。日本人は、昭和前期を支配した軍閥・官僚・政治家のような愚かな人間ばかりではなかったはずだとして、典型的な日本人像を幕末・維新のころの人たちから拾い上げ、また戦国期の群像の中にそれを求めたのである。しかし、小説である以上――小説でなくても書き手の見方が反映するのは避けようがないが――自分の理想像が色濃く反映している。

 面白いと思ったのは、例えば司馬さんの『坂の上の雲』と吉村昭の『海の史劇』の違いである。同じ日本海海戦を描き、その経過も結果も何一つ変わらないのに(事実は変えようもないが)、そこに活躍する人間群像は全く異なるのである。司馬さんは日本の勝利に、作戦参謀の秋山真之の役割とその人間像を大きく評価するのに、吉村さんの小説には秋山の「あ」の字も出てこない。面白いと思った。

 私には、一人の人間に惚れ込むと、その説を全部信じてしまう傾向がある。どうもそれに寄りかかってしまうのだ。

 例えば、司馬さんの『この国のかたち』である。司馬さんは、日本を悲惨な戦争から敗戦に導いた軍部独走の根本に「統帥権」があったとして、統帥権を「近代日本が生み出した鬼胎である」と結論づけている。しかし、本当にそうかどうか。統帥権があったから軍部独裁に至ったのか、軍部が権力を掌握するために、たまたま明治憲法にあった統帥権を利用しただけなのか。すべてを統帥権にもっていっては、かえって歴史の真実から遠ざかるのではないか、とも考えられる。

 

〈3月8日〉

 胸やけはだいぶ治まってきた。ただ、昨夜もテレビを見たあと体がふらふらした。胸やけはやはり放射線の影響らしい。次第に治まると看護師さんは言っていた。

 人間は観念の虜になりながら、自分が観念に縛られていることに気がつかない。私にそれを気づかせてくれたのは、特講である。これなしに、自分が自縄自縛に陥っていることに気づくことはなかったかもしれない。

 私にとって、特講で何かが変わったとか、何かが明確になったというものがあったわけではない。が、すごく楽になったのである。何かが外れたのである。その時はよくわからなかったが、後で考えると、自分の観念の枠組みがストンと外れたのだと思う。途端に世の中が明るくなり、誰とでも仲良くやれそうな気分になった。ものすごい開放感である。

 しかし、これで自分の観念から自由になったわけではない。特講は初めの第一歩にすぎなかった。だから山岸さんも、特講生へのメッセージの中でこう書いている。

「これで終わりでなしに、これから研鑽生活の始まり。良かった、分ったと一応喜んでも、つぎつぎと問題がいろいろの形で現われてくる」

 このメッセージは繰り返し何回も読んでいたのに、自分の中では特講の出発を特講を卒業したかのように錯覚していた。始まりを終わりと取り違えていたわけだから、観念の呪縛を逃れられないのは当然である。

 

〈3月9日〉

 体がだいぶ楽になってきた。放射線の腫れが引いてきたのかもしれない。それにトイレの回数が少なくなった。岩田医師の話では、今日から点滴を外し、栄養剤を増やすという。栄養剤だけで水分の補給は大丈夫だそうだ。

 午後、久しぶりにシャワーを浴びる。そのさい、チューブを引っ掛けてしまい、鼻から出してしまった。そのため、再びレントゲン室でチューブの入れ替え。身から出たサビとはいえ、全くまいった。

 今日は考えごとは打ち止めとする。

 

〈3月10日〉

 夜は眠りが浅い。今朝、岩田医師に確認したところ、放射線の腫れが引くまでに最低4週間はかかるという。しかも、引いても食事がうまく通過しない場合もありうるが、その場合はまた次の手を考えるという。全く先が見えず、少なくとも今月いっぱいは病院暮しがつづくことになる。管につながれたままの暮らしは人間にとって生きるに値するだろうか、とやや捨て鉢な気持ちにもなる。

 私は、参画してから特講の係りをやるようになった。10年近く山岸会本部の事務局にいて、数えきれないほど係りをつとめた。また大田原に移ってからも那須特講を手掛け、韓国配置になってからは韓国でも特講や研鑽学校の世話係をやった。

 この世話係体験を通してはっきり言えることは、自分の、或いは自分たちの特講の進め方は、根本的に間違っていたということである。それを一口で言えば、特講を研鑽方式ではなく教育方式で運営してしまった、ということだ。研鑽方式というのは、終わりのない旅のように、どこまで行っても結論のない「本当はどうか」の連続のはずである。しかし実際には、

「腹が立たないのが本当」

「仲良しが本当」

「一体が本当」

「無所有が本当」

 と、結論に到達したところで終わりにしてしまった。鶴見さんの言う「一丁上がり」である。そのために研鑽の連続性が断ち切られ、参加者は本音と建前の乖離にさらされることになる。

「腹が立たないのが本当だと思うのに、自分は何で腹が立つのだろう」と自分を正直に調べることをせず、「腹は立っていませんよ」と人にも自分にも言いつくろう態度をとることになる。「仲良しが本当」と言いながら、陰で人の悪口を言ったりする。本音を隠して嘘を言うような、建前だらけの生活に陥ってしまうのだ。ここからは人間性の一部が失われてゆく。

 これは、まさに自分自身のことなのである。と同時に、多くの人の実態でもあった。世話係自身がこの程度であれば、特講生にそれ以上を望むのは難しい。特講が研鑽生活への入り口ではなく、出口になってしまっていたのは無理もない。

 特講という研鑽方式への重要な機会を生かすには、まず世話係自身が真に研鑽できる人、研鑽しようとする人になることが出発点であろう。よく「誰でもやれる」と言われたりするが、それではマニュアル方式で運営する特講もどきにしかならない。

 

〈3月11日〉

 東日本大震災から今日で5年、復興は遅々として進んでいない。またテレビ報道によれば、復興にはかなりのバラツキがあるようだ。

 ところで、自然というものをどう見るか。

 一方には、自然のやさしさ、すばらしさを強調する自然信仰とも言える見方がある。また他方には、自然の恐ろしさ、残酷さを強調する見方がある。恐らく自然はたえずその両面を併せ持っているのであろう。自然が木や草を育て、川をつくり、豊かな大地や海を育てるのが事実であれば、地震や津波や火山噴火をもたらすこともまた事実である。

 この自然のやさしさと残酷さという両面こそが、地球が生きていることの証拠であり、もしこれらが無くなれば、地球は月と同じ死の球体となってしまう。当然人間も生きてはおれない。だから、人間にとって大切なことは、自然との調和をはかることである。しかもそれは、人間が自然に合わせることであって、自然を人間の都合に従わせることではない。

 しかし実際には、人間は自然からはみ出すことをやめようとはしない。超高層ビルの林立、アリの巣のような地下街の拡張、東京や名古屋の映像を見ていると、恐ろしさでぞっとしてくる。しかもこの地震列島の上で、安倍さんは原発の再稼働を進めている。この日本を彼はどうするつもりなのだろう。

 

〈3月12日〉

 体調は悪くない。ただ寝ている間に、口の中がものすごく乾く。看護師さんは、エアコンのせいかもしれない、という。

 朝、岩田医師と読書について少し話をする。「今は本を読む時間が全くない」と言う。それはそうだろう、毎日見ているだけで岩田さんの忙しさはよくわかる。実に細かく面倒を見てくれている。 

 このところ、広島の中3の男の子が自殺した問題をめぐって、連日報道が流されている。誤った入力データに基づく進路指導によって男の子が自殺したことが明らかになり、学校が詫び、市教育委員会が詫びた。

 しかし、この入力データとは、一体何なのだろうか。教師はデータは見るが、生徒は見ていないのだ。過去の資料を見て、目の前の子どもと向き合っていない。死んだデータと生きた子どもと、教育の土壌は一体どこにあるのだろうか。子どもの両親は「学校には愛情というものがない」と訴えていた。

 しかしこれは、広島の一中学校の問題であるだけではない。今こうした

“指導死”なるものが全国で20件以上あるという。自殺者だけで20人以上ということは、死には至らないけれども心に深い傷を受けた子どもは、その何十倍にも上るということである。今これを日本の教育界全体の問題としてとらえる見方が、どれだけあるのだろう? 一部教師の誤りとして終わらせてはならないと思う。

 ひるがえってわが身を省みれば、ヤマギシにも同じような問題があった。三重県内の学園生に対して行われたアンケート調査で、「係りは全く意見を聞いてくれない」という回答がすごく多かったのである。自分たちも、子ども一人ひとりときちんと向き合わず、一方的な基準で子どもを押さえつけてきた。過ぎ去ったこととはいえ、このことは決して忘れてはならないことなのである。

 今日は息子夫婦と孫が来る。K樹は医療中学「あすなろ学園」に入ったという。しばらくして、娘夫婦と妻が来る。

 

〈3月13日〉

 体調は旧に復しつつあるが、食道がどうなっているか。機械が、一部の部品や部分から壊れていくように、人間の体もいっぺんに全体が悪くなるのではなく、部分的劣化から傷んでゆくのであろう。今週の検査結果がどう出るか、予断を挟まずに待つことにしよう。

〈3月14日〉

 体調は悪くないと思ったのだが、少しめまいの兆候がある。血圧が低いのだろう。思考力も低下している。

 

〈3月15日〉

 まだ少し頭がボケているが、体調はまあまあだ。

 自分が深く何かの観念にとらわれていることを自覚するのは、普通の時にはなかなかできない。何かに頭をぶつけ、傷つき、悩んだ末に、やっとそのことに気づく。順調で正常であると思っているときには、不可能に近い。そして真に気づくには、悩みをとことん悩みぬくしかない。

 私にとって一番深く悩んだのは、2000年以降の10年である。これまで村の中心で活躍していた何人かの人たちが鈴鹿に居を移し、新しい運動を始めた。それに伴って多くの人たちが鈴鹿に移動した。私にも講習に参加しないかと何人かから声がかかった。しかし、自分が十分納得しないうちに、「ここがダメならアッチがあるさ」と簡単に移り変わることなどできない。村に問題があるとしたら、それはどこにあるのか、そしてそれは何なのかを見極めたいと思った。観念の形を変えてみたところで、中身が変わることはないのだ。

 私は高校卒業前後から、考え方を何回か変えてきた。しかし、すべて上っ面だけ、表層の変化だけで、中身を突き詰める作業はしてこなかった。今度こそは同じことはできない、と思ったのである。そして自分の考えてきたこと、信じてきたことが誤っていたとすれば、その誤りを見い出すだけでなく、誤りを信じ込んだ自分自身がなぜそう信じ込んでいたのかをはっきりさせねばならないと思った。つまり、考えという対象の誤りと同時に自分という考える主体の誤りをも、同時に見出すものでなければならない、と思ったのである。帽子をいくら脱ぎ代えても、頭の中身は変わらない。

 そんな時に、幸運にも『山岸巳代蔵全集』の刊行が決まり、その編集にかかわることができた。本づくりの必要上、何回も何回も原稿を読んだ。その時はよく理解できなくとも、何かの折にふと山岸さんの言葉が蘇ってきて、心に深く突き刺さることがある。こうした経験を何度か繰り返しているうちに、自分が固定観念の虜になっていることに気づかされる。自分の考えが正しいと自信のある時には絶対に気づくことはできなかったことだ。人間、時に悩むことの重要性を意識させられた。

 以前は悩むことは恥ずべきこと、いけないことのように考えていた。しかし、恥ずべきなのは悩みを隠し、それに向き合わないことなのだ。姜尚中氏の『悩む力』は読んではいないが、言わんとすることがわかる気がする。

 「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ、ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ」

  ――村上春樹『海辺のカフカ』――

◎『追わずとも牛は往くー労働義務のない村で』の出版について

〇知人の福井正之さん執筆の小説『追わずとも牛は往くー労働義務のない村で』が4月中旬ごろに出版されるとの連絡がある。

 自費出版の場合、流通や販売など出版後がいろいろな意味で大変だ。できるだけ協力していきたいと思っている。

 

▼自分なりに、出版に至るまでの経過を簡単に振り返ってみる。

・昨年11月中旬からFacebookやブログに、本人にとって、その暮らしが好きであった「北試」(ヤマギシの村)の体験をもとに、40年ほど過去の記憶をたぐりながら、湧き出るままの「北試」の思い出話(23)〈哀惜 ! 労働強制がなかった「村」〉の掲載が始まる。

・そのみずみずしい体験から紡ぎ出される文章力や、「北試」を参考にした小説上の「村」の暮らしに着目した人たちから、種々のコメントが寄せられ、そこから出版化の要請が立ち上がる。

・生身な心からの声に促され、それ以前全く考えもしなかった「北試」の体験をもとにした「本」にしようという気になる。

「この間、Facebookやブログで接してきた人々の心がそうさせたというしかない」と語っている。

・その人々の心あるコメントやアドバイスに呼応しながら、書き進めるに従って認識が深まっていくようになっていったと思われる。

・小説のタイトルも紆余曲折しつつ『追わずとも牛は往くー労働義務のない村で』となっていく。

・このタイトルが本文の肝になっているようだ。

・また、著者の40年ほど前の「北試」の体験をもとに展開されているが、人間集団のあり方、および、人と人との生身の人間としての心の交流とは、という視点が一つの「核」となっているのではないか。

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 その経過は11月中頃からの著者のFacebookやブログ「わが学究 人生と社会の〝機微〟から」 に掲載されている。http://blog.livedoor.jp/chalk27/

  Facebookには、いろいろな方からコメントが寄せられ、それに応じた著者の息吹が感じられる。ふたつあげてみる。

・( 12月17日)

Yさんのコメント: こういう文章には、遠い過去のものであっても、体験の厚みからくるみずみずしい感性がこもるものですね。まさに哀惜が伝わってきます。北試の世界が、あの時代、若者の憧憬にもなっていたことが、あの時代の著述に今も残っていること、やはり一つの重要な歴史です。当時、教師を辞めた野本三吉は「いのちの群れ」に、こんなことを書いています。

 「北試の人びとは、北海道の土に自ら還ることが、最も自然な姿なのだということを知っている。土と人間はもともと一体であり、無数の死者によって大地が形成されていることも知っている。北試には単なる共同生活体への興味を越えた、ある種の前衛的なパイオニアとしての興奮も感じさせる。それはあくまで理念を固定せず、北試という冒険の中でとらえようとしている姿勢そのものの中にあるものだろう。」

福井正之 :ううむ、Yさん核心に触れてきますね。ぼくは野本さんのものはあまり読んではないのですが、これはまさにぼくの現在の境地に響いてきます。ぼくはいわば理念的な詮索に飽き飽きして、それでもヤマギシから離れられないとしたら、北試への哀惜感しかなかった。その正体としたら、いっぱい辛いこともあったけど、それも含めて好ましかったという印象の強さです。それはずばり人間の根源性への感度であり、その主体は大空と大地と牛であり、その中に翻弄されながらなんとか学び育てられてきた「私」、という感覚でした。だからこそ記憶に残ったのでしょうね。2005年にそれを初めて記述しようと志した時にはメモ類は何もなかったのです。(実顕地のことは忘れたい、思い出したくないことも多かったのですが、かなり長い間強いてこだわり続けてきました。)それとこれまで一応タイトルに決めてきた「働かざる者食ってよし」を改めることにしました。それも今推敲に集中しつつある私からすれば「せまい」と感じてきたからです。

 

・(1月1日)

Kさんのコメント: 福井さんが出版を決意されたこと、うれしく思います。ヤマギシ体験は、よくも悪くも、後世に伝えるべき貴重な体験と僕は思っています。そして百人いれば、百人の体験談があってよいと。応援しています。

福井正之: まったく同感。「ヤマギシ体験」と一括されてしまわない私、私・・・でしょうね。 

◎吉田光男『わくらばの記』(4)

わくらばの記  病床妄語③

〈2月15日〉

 体調の変化なし。念のため、胸と腹部のレントゲン、異常なしとのこと。放射線は、あと2回を今の部位で、その後の10回は位置を少しずらして照射するという。 

 世間では離婚が多い。ヤマギシの村でも同じだ。若い人ばかりではなく、年を取ってからの熟年離婚もある。私もそういう危機を感じたことが何回かある。そうして今思うのは、男女は結婚したからといって、すぐに夫婦になるわけではなく、夫婦へのほんの出発点に立ったに過ぎないということだ。夫婦というのは、一生かかって夫婦になり合ってゆく過程の一齣なのだと思う。生まれも育ちも考え方もいろいろ異なる男女が一緒になるわけだから、噛み合わぬことが多々出てきて当然なのである。という当然のことに気づくのに、ずいぶん時間がかかった。 

 吉野弘の「祝婚歌」は、こう歌い出す。

「二人が睦まじくいるためには

 愚かでいるほうがいい

 立派すぎないほうがいい

 立派すぎることは

 長持ちしないことだと気付いているほうがいい

 完璧をめざさないほうがいい

 完璧なんて不自然なことだと

 うそぶいているほうがいい

 二人のうちどちらかが

 ふざけているほうがいい

 ずっこけているほうがいい

…………………………」

「真の夫婦」などとシャチホコばらないほうがいいということか。

  シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』読了。

 

〈2月16日〉

 体調の大きな変化はないが、今の点滴には脂分が含まれていないので、それを補うために左手にも点滴をつながれた。これで左右両手の点滴チューブ、鼻からの栄養剤チューブと三方からのチューブ攻め、いよいよ身動きが取りにくい。まさしくチューブ人間の誕生である。こうしてチューブによって生かされていると、いかにも自然に反することだと思わされる。といって自然にそって生きようとすれば、食が摂れないから餓死する以外にない。では、自然と人間の関係はどうあったらいいのか。調和をどこに求めたらいいのだろうか。

 どうも人類というものは、自然から生まれたものでありながら、自然からはみ出すことによってしか存続できぬものらしい。3~400万年前にアフリカの森林を出て、サバンナに進出したわれらの先祖は、火や石器という道具や武器を持たずには捕食者たちの牙から逃れることはできなかった。そして、20万年前には自らをホモ・サピエンスに進化させて、ますますその知能と武器を磨き、農業や牧畜、やがては工業などの文明・文化を急速に発展させてきた。自然に依存しながら、一方では自然を破壊したり食いつぶしたりしてきた。実に矛盾した存在である。しかし、その矛盾を生きる以外に人類が生き延びる道はないのだろう。

 では、「自然と人為の調和」とはどういうものなのだろうか。どうあったらいいのだろうか。最近よく使われる「持続可能な社会」というスローガンも、目指すものは同じなのだろう。

 チューブにつながれながら、そんなことをしきりに考えてしまう。

 

〈2月17日〉

 体調、特に変化なし。

 確か98年頃のことだと思うが、社会博に鶴見俊輔さんが見えられた。村を参観し、高等部の劇を見た後、「けんさん」紙のインタビューに答えて「成功は失敗の母」という言葉を残していった。

 その時は「へー」と思っただけで気にも留めなかったが、何年か経ってから、その言葉の重みが胸にこたえてきた。当時はヤマギシズム運動の絶頂期である。実顕地の名称、山岸会の名称を変更して、社会革命への大きな前進を謳い上げていた。この様子が鶴見さんの目には「危ない!」と映ったのであろう。

 成功は、成功の体験からは生まれない。失敗によてこそそれは可能になる、そして真理の方向もまた失敗から逆照射されて初めて見出すことができる、という鶴見さんの哲学に基づく発言であったように思う。

 

〈2月18日〉

 体調は悪くない。しかし、体は大分なまってきた。 

 鶴見さんは、先の「けんさん」紙とのインタビューの中で、もう一つ「人類は滅びるね」とも語っていた。当初なかなかピンとこず、「そういう考え方もあるのかな」ぐらいの受け止め方しかしていなかった。というのも、当時の私は、科学や人類社会の無限の進歩というものを、どこかで信じていたからである。

 しかし、21世紀に入ると世界は急速に変わり始めた。アメリカにおける同時多発テロ、それをきっかけとするアフガン、イラクへの多国籍軍の侵攻、日本では東日本大震災と福島の原発メルトダウンが起こり、その後も世界はアラブの春から一転してアフリカ・中近東を巻き込む内乱の続発と難民の大量発生に見舞われ、それが今なお収まりそうもない。そうした中で、欧米諸国はイスラム過激派によるテロリズムの脅威にさらされている。こうした事態を見ていると、人類社会の無限の発展などということが夢のまた夢のように感じられてくる。そして「人類は滅びるね」という鶴見さんの発言が、やたらと身近に迫ってくる。

 人類史上、これまでも何回か人類滅亡の終末論がささやかれたことがある。ノストラダムスの大予言ではないが、隕石の衝突や核戦争、また地球温暖化や環境汚染といったさまざまな要因が上げられたりしてきた。

 そうしたさまざまな終末論の中で、池澤夏樹氏の『楽しい終末』は、テクノロジーの進歩と人間の倫理とのギャップから、それがやってくるのではないかと論じている。私の今の終末観も、それに近い。

 科学や技術を含む人間の知識というものは、急速に進歩してきたし、これからも無限に進歩しつづけることは間違いないだろう。というのは、知識やテクノロジーは、記号化・数量化が可能であり、いくらでも個人の頭の外に蓄積することができる。後世の人間は先人の蓄積したもの、到達した地点から新たに出発することができる。しかし、人間性というか、倫理というか、個人の内面にかかわるものは、その人個人の成長の過程で自ら形成してゆく以外にない。釈迦の到達した心の地点を、自分の心の出発点とすることなど、到底できないことなのである。しかも、個人の内面がどのように形作られるかは、環境や偶然に左右されざるを得ない全く頼りないものなのだ。こうして、科学やテクノロジーという数千年にわたる膨大な蓄積物を、個人の倫理や心という僅か数十年の頼りない蓄積物が支えてゆくことになる。やがては支えきれない時が来るのではないか、いやすでに来つつあるのではないか、というのが私の最近の感想である。

 仏人類学者のエマニエル・トッド氏は、朝日新聞記者とのインタビューで、「宗教的な信仰が解体する中で、いまニヒリズムが世界的な広がりを見せている」と語っているが、これも終末的な現象の一つなのかもしれない。 

 船戸与一『満州国演義⑤』読了。

 

〈2月19日〉

 体調、特段の変化なし。 

 堀田善衛は『方丈記私記』の中で、運命と歴史を分け、鴨長明は無常観を述べているように見えて決して運命論者ではなかった、と述べている。ところで、運命と歴史とはどう違うのだろうか。

 私の大雑把な考えでは、運命には時間が含まれていないが、歴史には時間が含まれる、というか時間の織りなすものが歴史なのだと思う。つまり、人類史の先行き(運命)がどうなるにせよ、そこに至るまでの過程で人間がどう生き、どう行動するかが問われる、それが歴史であり、そこから歴史への責任が生じるということである。だから、終末観にしても、それを運命としてあきらめの思想に終わらせるか、それに立ち向かう歴史観として確立するかが大きな分かれ目になるのではないだろうか。

 山岸会の趣旨および会旨には、そうした歴史観と高い理想性が含まれているように思う。しかし、理想を失えば、単なる生活集団に堕し、市場経済の荒波に呑み込まれてしまう。 

 

〈2月20日〉

 体調はほとんど変わらないが、幾らか軽くなった感じがする。 

 最近つくづく思うことは、事実と認識とのズレという問題である。どうしても認識は、事実のずっと後にやってくる。

 例えば90年代末に、村は学園問題でマスコミからの総攻撃を受けた。特にテレビでは日本テレビが、週刊誌では「週刊新潮」が、「ヤマギシの子どもたち」についての報道を繰り返した。これらの報道にはかなりの悪意が含まれてはいたものの、真実の部分も少なからず含まれていたように思う。しかし私たちは、それを認めようとはしなかった。認めるようになったのは、ずっと時間が経過してからである。

 私たちは、やはり事実そのものを見るよりも、自分の見たいようにしか見ようとしないものなのだ。その事実がどれほど真実であろうと、それがその時の自分にとって受け入れがたいものであれば、それを拒否しようとする無意識の心理が働く。そして、こうした無意識の心理が働いていること自体を認めようとしない。自分の認識の経過を振り返ると、そのことが痛いほどよくわかる。しかもまだ、その誤りやすい認識の罠から抜けきることができないでいる。だから山岸さんが、どれほど研鑽しても「である」と断定できるものはなく、あくまで「ではなかろうか」とする以外にないのだ、と言っているのだろう。 

 シェイクスピア『オセロー』読了。イギリス人の誰かが「英国人に生まれた幸せはシェイクスピアを原文のまま読めることだ」と語ったそうだが、翻訳で読んでも言葉の魔術にかかったような酔いしれた感じになる。

 

〈2月21日〉

 体調の変化なし。 

 昨日は、事実と認識のギャップについて考えたが、認識と行動との間にも大きな懸隔があることを認めなければならない。個人の気質といったものが影響することもあるが、利害得失の感情が絡むと、その間の開きが一段と大きくなる。そして個人については、しばしば我執の問題として研鑽の対象になるが、集団の我執となると、なかなか研鑽の対象にはなりにくい。

 

〈2月22日〉

 体調、特に変化はないが、抗がん剤の投与のあと少し熱っぽい感じになる。 

 昨夜、NHKの「新映像の世紀」⑤を見た。テーマは「カウンターカルチャーの時代」。

 あの1968年を中心とする時代は、若者が既成の政治や文化に挙って反旗を翻した時代であった。日本やアメリカやフランスの学生たちが、ヴェトナム反戦に、公民権運動に立ち上がり、大学の学問支配体制に「ノン」を突きつけたことはよく知っていたが、プラハの春もこの流れの一つであったことは知らなかった。年表を見たら、プラハの春は同じ1968年の出来事である。どうも自分の頭の中は、西と東を別の世界のように分けて考えていたようである。こういう歴史認識だから、デヴィッド・ボウイが西ベルリンで開いたコンサートが、ベルリンの壁崩壊につながったことも知らなかった。

 しかし、あの時代には何か希望があった。時代の先に、何かが待っているような感じを大勢の人たちが抱いていた。ベルリンの壁が崩れ、壁の上で西と東の市民たちが歓喜の抱擁を繰り返した時の映像は、希望の象徴として今なお記憶に焼きついている。そして社会主義体制が崩壊し、ソヴィエトが解体した先には、戦争のない平和な時代が訪れると思っていた。鉄のカーテンが破れ、ベルリンの壁が崩れ去ったように、それがどんなに強固に見えようと、資本主義市場経済の壁も、所有の壁も崩れるものと思っていた。しかし、そうはならなかった。

 今は展望のないニヒリズムが世界を覆っている。その中で新たなナショナリズムやファッシズムが台頭しつつある。まさに世界は大きな岐路に立たされている。この時代をどう生きればいいのだろうか。山岸さんなら、いま何を言うのだろうか。

 

〈2月23日〉

 体調に際立った変化はない。 

 3年ほど前になるかと思うが、一時実顕地あげて木の花詣でに明け暮れたことがある。私もこの流れに乗って木の花を訪れた。一泊してここのミーティングに参加したとき、メンバーの人たちの熱意に圧倒される思いがした。ヤマギシではしばらく見られなくなっていた光景が、ここにはあるように思った。そこでしばらくの間、木の花から送られてくるミーティング速記録を熱心に読んだ。しかし、やがて疲れてきて、読むのをやめてしまった。

 何で疲れたかといえば、みんなが指導者であるイサどんの意見に同調する方向でしか議論を重ねていないからである。「正しい意見」はイサどん一人から出てくる。だから、誰もそれに異をとなえる人はいない。これは、信ずるという宗教共同体の宿命なのであろう。

 私は別に宗教や宗教共同体を否定するつもりはないが、自分としては、信ずる生き方ではなく、信じない生き方をしてゆきたいと思っている。また、指導者に従う生き方ではなく、みんなの知恵と理解の研鑽に基づく生き方こそ本当のものではないかと思っている。

 ただ、さまざまな共同体が各地につくられるのは悪いことではない。そしてそれぞれが覇を競い合うのではなく、手を取り合って今の競争社会、市場経済体制に穴を開けることができればと思う。

 

〈2月24日〉

 体調に大きな変化はないが、白血球が減少してきているという。今日、明日は抗がん剤なしということになった。 

 昨日のSさんの話し。「養鶏書」について話していたが、どこに焦点があるのかよくわからなかった。「養鶏書」がどんな目的で、誰を対象に書かれたものかを意外に知らないのではないかと感じた。

「養鶏書」の初版発行は昭和28年であり、増補改訂版が出たのが30年である。いずれにしても実顕地ができる前のことだから、実顕地のために書かれたものではない。対象は一般農家であり、目的は「丸いコメを増産する」ことを通して、みんなの幸せを実現することであった。決して卵の増産が目的ではなかった。

 だから飼養する鶏の羽数は、田畑が必要とする鶏糞量に応じて決めるように、くどいほど強調している。しかし、個々の利益に走る農家が多く、結局は失敗する人が続出して、山岸さんが願った「愛和の固い団結」は維持されなかった。そこで農業養鶏は打ち止めになる。

 いま「養鶏書」を読むとしたら、どこを重点に読んだらいいのだろう。やはり、序文にあるとおり「幸福の書」として読むことなのであろう。

「それには出発に先だって、真の幸福や、人生の正態を確かめ、本当の養鶏とはどんなものかを知っておく必要があります」

 この簡潔な言葉が何を言わんとしているのか、私たちはもっともっと探ってゆく必要がある。単に餌をやり、卵を取るだけの作業に終始していていいのか、卵が売れたら喜び、売れなければ失望するだけの生活でいいのだろうか、「自然と人為の調和」を謳い文句にしながら、どこに調和を求めるかを調べようとしない暮らしでいいのか、もう一度根本から調べなおしたい。

 

〈2月25日〉

 体調、変化なし。ただ少し鼻血が出やすい。今日も抗がん剤はなし。 

 昨日テレビで、83歳の男の死が報じられていた。78歳の妻の首を切って殺し、自分も自殺を図ったが死にきれず、傷の回復後、留置場に収容されていたが、食を一切摂らずに餓死したというのである。

 近所の人の話では、とても仲のよい夫婦だったという。妻が認知症を発症してから一人で世話をしていたが、自分も重い病気にかかって世話しきれなくなったらしい。

 今の世の中では、こうした事例がますます増えていきそうだ。人々の暮らしが個々に分断され、プライバシーや自己責任ばかりが強調されるようになると、その暮らしは互いに孤立無援なものになってゆく。認知症や重病を抱える夫婦にとって、自分の死後連れ合いを一人だけ残す気になれない気持ちはよくわかる。といって、行政がすぐさま解決できるというものでもないだろう。

 その点、ヤマギシの暮らしは優れている。一体の中で培われた共同性が、個の限界を乗り越えるからである。しかし、今のままでは、あと10年先には村も超高齢社会に突入する。それにどう対処できるか、今から考えておく必要があるのではないだろうか。

  シェイクスピア『リチャード3世』読了。

 

〈2月26日〉

 アメリカの大統領選、これまでにはっきりしたことは、大衆の既成政治離れである。「チェンジ!」を旗印に掲げて登場したオバマは、結局何も変えることができなかった。そして今回、既成政治とは異なる何かを求めて、アメリカ中が動き始めた。

 しかし、共和党のトランプ氏や民主党のサンダース氏が当選して変わるものかどうか。上下両院と大統領府が対立して、身動きできなくなるのではないだろうか。そしてもしトランプ氏が大統領に就任したら、周辺諸国や同盟国との間の亀裂が深まり、ヨーロッパ諸国のアメリカ離れが進むのではないかと考えられる。

 世界には「ノー」はあっても「イエス」がない。今までのやり方ではダメだとわかっても、これなら良いというものが見当たらない。展望なき否定の時代に突入しているのかもしれない。

 

〈2月27日〉

 昨夜は少々熱があった(37・8度)。朝も少し高めであったが、今は平常に戻った。

 私の参画前後に亡くなっているから面識はなく、又聞きの又聞きにすぎないが、春日山にTさんという人がいた。この人は昼間から酒を飲むし、みんなが働いている最中に釣竿をかついで遊びに出かけたりしていた。みんなが非難がましい気持ちで山岸さんに言ったところ、山岸さんは「あれは宝やで!」と言ったという。何人もの人からこの話を聞いているので事実なのだろう。しかし、山岸さんがなぜそう言ったかについては、誰も語ってくれなかった。ほとんど言いっぱなし、聞きっぱなしで終わってしまった。

 しかし、今その話を思い出すと、なぜ山岸さんはTさんを宝と言ったのか考えてみたくなる。山岸さんにTさんのことを告げ口した人は、恐らく「人が働いているのに昼間から何だ」と非難がましい気持ちでいたのではないだろうか。また同じその場にいた人たちもみな、そんな気持ちでいたのではないかと思う。そして心のどこかに、それを羨む気持ちが含まれていたかもしれない。

 だが、そうした非難めいた気持ちが起きて自分の気持ちが揺らぐとき、逆になぜ自分たちは全財産を投げうってまで参画したのか、何を目的にここにやってきたのか、と原点に立ち返るきっかけをTさんが与えてくれているのではないか。そう考えると、Tさんが少し輝いて見えてくる。また、ここには何ものにも縛られない自由というテーマもあるのかもしれない。

 とかく私たちには、少数派や異端に対して、否定や排除の気持ちを抱きやすい。私の参画してからの歴史でも、そうした事例はたくさん見てきたし、自分自身が異端裁判のお先棒を担いだこともある。これは、異端が間違っているからではなく、それが少数派だからである。間違いか正しいかは、数によって決まるものではない。にもかかわらず、私たちは大勢にそって少数派を排除しようとする傾向がある。異端や少数派を「あれは宝やで!」と言えるようになったとき、村は決めつけのない、豊かな社会へと変貌を遂げるのではないだろうか。

 

〈2月28日〉

 昨日から下痢、抗がん剤の影響らしい。 

 エマニエル・トッドの『シャルリとは誰か?』を読む。フランスについての知識が乏しく、宗教の社会基盤の変遷についてはあまりよく理解できなかった。 

 2000年代の初めに、k君ともう一人のk君がよく訪ねてきた。目的はSなる人物をぜひ紹介したいということだった。よく聞くとSさんというのは「真我」という集団のリーダーだという。そう言えば、そのころ村を出た人たちが大勢「真我」の講習を受けているという話は聞いていた。しかし、しばらくすると、今度はミロスとかいう集団に行く人が増えたとの噂話を聞くようになった。

 村を出たあと、多くの人たちが自分の精神のよりどころを求めてさまよっていたのであろう。わかる気もするが、私自身はそういうことには警戒心があって、まったく関心が持てなかった。

 とかく人は、自分の存在証明の証として、どこかに安心立命の精神的拠点を置こうとする。しかしそれは、自分の外に、或いは他者に求めて得られるものなのだろうか。何かの党派や教団や宗教指導者に頼ったところで、躓いてまた別の何かを探し求めることにもなりかねない。では、それをどこに求めればいいのか。

 そこで思い出すのが、釈迦が死の旅の最後にアーナンダに語ったという言葉である。「私はこれから何を頼りに歩んだらいいでしょうか」というアーナンダの問いに、釈迦はこう語ったという。

「アーナンダよ、他に頼ることなく、自らの心の灯を頼りに、犀の角のようにまっすぐ歩め」

 頼るのは、師である釈迦でも、教義でも、他の聖者でもなく、自分の心の中の灯だというのである。

 この話は、『鶴見俊輔コレクション』であったか、同じ鶴見さんの『隠れ仏教』であったかに紹介されていた話である。

 しかし、「自分の心の灯」とは何だろう。また「心の灯を灯し続ける」には、どうあったらいいのだろう。灯を灯し続けるには、油を注ぎ続け、芯を切りそろえ、煤をはらいつづけなければならない。これで終わりということがなく、一生自己を磨きつづけなければならない。他に身を任せてはできない厳しい道なのだと思わされた。

 

〈2月29日〉

 昨夜は、またチューブが外れ、シーツもパジャマもシャツも、薬液でびしょ濡れになった。夜中にシーツ交換と着替えでしばらく寝られず。

  昨日からの「心の灯」について考えているが、これはかなり厳しい。自分の過去を振り返ってみると、いつも何かに頼っていたように思う。若いころは社会主義やマルキシズムに、参画してからはヤマギシズムに、それも自分の信ずるヤマギシズムだからいい加減なものにすぎない。調正所や研鑽部の言うことが、正しいヤマギシズムだと決めつけてもいた。こうした他を信じ、他に頼る生き方からは、安心立命は得られない。だから、山岸さんは「山岸会事件雑観」の中でこう述べている。

「ヤマギシズムを知り、これこそ絶対だという人が沢山あるが、そうキメつける処に宗教・信仰・盲信形態が生れる恐れがあり、そう思い込んでキメつけるなれば、既にヤマギシズムでなく、こうしたヤマギシズムの考え方そのものをも、正しいか正しくないか分からないから、尚調べていこうとする考え方がヤマギシズムだと思う。ヤマギシズムがよいとキメつけない処がヤマギシズムだと思う」

 頼らず、信ぜず、決めつけない生き方こそ、自分の中の灯を灯し続ける生き方なのであろう。頼りない自分ではあるが、少しでもその生き方を踏襲していきたいと思った。

◎吉田光男『わくらばの記』(3) 

わくらばの記 病床妄語② 

 〈2月1日〉

 消灯時間が早いために、朝早く目が覚めてそのあと眠ることができない。ベッドの上でさまざまな想念や妄念が飛び交う。

 ところでSさんの「そんな子はいませんよ」という答えが事実に反していたことは、だれも否定できないだろう。問題は「そんな子はいない」という考え方の中に、何が潜んでいたのか、そしてそこからどんな考え方が芽生えてしまうのか、ということである。

 そんな子はいない→そんな子はいてはならない→そんな子の存在は許されない。

 こうして次第にエスカレートする強制力容認の考え方が生まれてくる。私たちはこうした誤った見方・考え方から、子どもたちに無言の圧力をかけ続けてきた。学園の世話係りの多くが、子どもたちに直接の暴力を振るったことも、後になって次第に明らかになった。子どもたち一人ひとりの違いを見ようとせず、子どもを一律に扱う学園のあり方の根っこの部分に「そんな子はいない」という考え方が潜んでいたことを深く反省しなければならない。

  鼻から胃へ通した管が詰まる。一度抜いて新しいのと取り換える。痛くもあるし、気持ちも悪い。ハナハナ迷惑なことではあるが、栄養補給のためともあればやむお得ない。 夜、T美さんから電話があった。

 

〈2月2日〉

 学園のことを考えると、もう一人、Kさんに触れざるをえない。Kさんが村を去ってから書いた本に『ヤマギシズム学園顛末記』がある。私は人に借りて走り読みしただけで詳しい内容は覚えていないが、どうも自己弁護に走りすぎている印象が残っている。要するに、自分が正しい提案をしても、その意見が上層部に通らないことが多かった、というような内容だったと記憶している。もちろん、そういうことはあっただろう。が、自らの学園世話係としてのあり方に真摯に向き合わないかぎり、学園問題の本質に迫ることはできない。

 私がKさんで覚えていることは、学園代表としてよく全国講演に飛び回っていたころのことである。テーマは「子どもを叱る」ということであった。最近の親は子どもを甘やかすばかりで、叱ることができない。叱ることのできる親になることが大切だ。大体そういう趣旨であった。

 そこから学園の親に「子どもを叱る」というテーマが出され、家庭研鑽で「叱る」が実践された。今から考えれば笑い話のようなものであるが、このテーマを受けて親たちは一生懸命子どものアラを探して叱ったりしていた。

 こういう考え方から、Kさんは次に「分類の子育て」という考え方を打ち出し、親と子は異う、子は人生の先輩である親の言うことを素直に聴くこと、そして子どもの進路は親が決めるのが本当、という考え方を推進した。

 こうした考え方とその強制が、どれほど子どもの心を傷つけ歪めたか、また反発を招いたかは計りしれない。

 しかし、こうしたことはkさんや学園中枢部の人たちの問題であるだけでなく、私たち村人全員の問題なのである。学園や本庁の打ち出す方針を無条件で信じ込み、自らの頭で考えようとしない、主体性のない自分たちの生き方をこそ、深く反省しなければならない。

 

〈2月3日〉

 利尿剤のおかげで、夜中でも2時間おきに目を覚ます。そのため頭が少しボーっとする感じ、まさに夢か現かといった暮らしである。ただ、今のところ痛みが全くないので助かる。

 今思うと、半年くらい前から夜中に心臓のあたりにうすら寒い感じがあり、何か変だなと思っていた。しかし昼間は全く異変を感じなかったので気にしなかったが、この頃からがん細胞が動き出していたのかもしれない。 

 学園のことを考え始めると、あれこれ思い出すことがある。その一つに「赤えんぴつ」という文書がある。あれは、私が95年に韓国から帰って成田実顕地の造成のあと、2度目の大田原配置のときだったと思うから97、98年ごろのことだ。調正所に学園事務局から「赤えんぴつ」という文書が送られてきた。中身は高等部生の作文に誰かが朱筆を入れ、「これは良い」「ここはこう直したらいい」「これはもっと考えるべきだ」等、細かいチェックが入った文集である。

 読むと、どの作文も金太郎飴のように一律で、書き手である子どもたちの心が全く表れていない。検閲者の目をよほど気にしない限り、子どもがこんな作文を書くはずがない。「なんだこれは!」と思ったものの、その時はそのままやり過ごしてしまった。

 しかし、3年前、M・Iさんという女性の手記を読んで、当時の事情が鮮明になった。彼女は高等部生時代に、服の購入提案で不満を述べたことから「反抗的だ」と批判され、個別研の対象になった。2週間ほど4畳半の狭い一室に閉じ込められ、毎日反省文を書かされたという。ところが何を書いても認められず、「早く出してもらうには、何を係りの人に言えばいいのか」毎日そればかりを考えていたそうだ。

 これなどは、もう教育とは無縁な強制・強圧にほかならない。「世界に唯一の学園」と銘うち、あれほどわれわれ参画者、会員、活用者、そして一部教育関係者の期待を集めた学園が、このような内実のものであったかと思うと情けなくなる。

 ただ、それにもかかわらず、学園出身者のかなりの部分が、仲間同士の結束・連携の中でたくましく育っていることを知ると、救われた感じになる。

 

〈2月4日〉

 夜中、また鼻の管がつまった。またも管の入れ直しかと思うと、ゲッソリする。

 「きれいは穢い、穢いはきれい」

『マクベス』冒頭の魔女たちの言葉。昔、若いころに読んだ時は、悲劇全体を暗示するこの言葉を何も思わずに読み飛ばしていた。善と悪、美と醜を二分して満足していた私の頭には、何の印象も残さなかったのだ。しかし、いま読み返すと、シェイクスピアの言葉は一つひとつが生きている。そこに時代を越えて読み継がれる理由がある。

 言葉ということで思い出すことがある。98、99年頃のことだったと思うが、春祭りに日テレのカメラが入り込み、学園の親たちにインタビューしていた。

「学園に子どもを預けるのはどうしてか」という質問を繰り返すアナウンサーに、親たちが異口同音「子どもは群れで育つ」と答えていた。どの親もどの親も、みんながみんな「子どもは群れで育つ」と答えるのである。

 私はテレビを見ながら、異様な感じを受けた。これではどこかの宗教団体の信者が、そろって「最最高でーす」と叫ぶのと少しも変わらないではないか。

 村上春樹は『雑文集』の中で、オウム真理教に触れて次のように書いている。

「閉鎖的集団の中では、『意識の言語化』は『意識の記号化』に結びついていく傾向がある」

 鶴見俊輔さんの言う「お守りことば」というのも、このような記号化された意識や言語を指すのであろう。

 

 〈2月5日〉

 前に私は、「自分が自分であろうとするよりも、自分とは違う何者かになろうとしていた」と書いた。自分は自分であるよりない存在なのに、なぜ自分以外の何者かになろうとしていたのか。

 自分は自分が卑小な存在であることを知りながら、それを素直に認めたくなかったのだ。本来の自分ではない存在であるかのように自分を示そうとして、自他を偽るのである。しかし、他は偽れないので、結局は自分を偽り通すことになる。

 教養主義や向上志向などもその表れだ。そして参画してからは、例えば「あるべき姿があるはずです」というテーマの「あるべき姿」に自分を見せかけようとする。テーマに向き合い取り組むのではなく、見せかけの方に力を入れるのだからバカな話だ。しかし、これは私だけのことではなく、多くの村人にも見られた傾向である。

 会員時代はよく会っておしゃべりしていた女性たちが、参画後は会ってもお互いに素知らぬ顔をして通り過ぎる、といった光景がよく見られた。これは「あるべき姿」にとらわれて、本心からの会話を成り立たなくさせていた結果だと思う。

 人間は今ある自分の姿をそのまま認め、そこから出発する以外にない。自分を隠す、自分を飾るということは、他の評価によって自分を位置づけようとする、風まかせ、波まかせの実に不安定な生き方にほかならない。

 

〈2月6日〉

 このところ、連日、清原騒動でもちきりである。あるテレビのモーニングショーで、コメンテーターの一人が「彼は現役時代に人生の頂点を極め、あとは転落しかなかったのかもしれない」と語っていた。つまり、野球人生における頂点を、一生という長い人生の頂点にしてしまった、というのである。

 その点イチローなどは、野球人生においては既に頂点を過ぎて下り坂にさしかかっているが、彼の人生においては未だ頂点に向かって歩きつづけているように見える。それは彼が肉体トレーニングにおいても、打撃技術においても、倦むことなく追求をつづけており、そこからたえず自分の人生に何かを加えつづけているからである。これは、彼が野球をやめてもつづけられていくように思われる。

 その点清原は、内面に蓄積しつづけるものを何も持たなかったのであろう。だから、野球の終わりが人生の終わりに直結してしまった。彼がツイッターでつぶやいた「さびしい!」の一言は、何か胸に迫るものがある。

 私たちも年をとって、だんだんやれることが少なくなり、社会に役立つことができなくなったときに、それでも老蘇として自分の内面を支えるものがあるかどうか。グチやヒガミばかりの人生でなく、死ぬまで明るく楽しく生きられるかどうか。

 

〈2月7日〉

 体調に変化なし。 

「善人なおもて往生を遂ぐ。まして悪人においておや」

 この親鸞の言葉は何回も読んできた。しかし未だによくはわからない。

 若いころは善悪二元論に立っていたから、この悪人というのは、生活のためにやむなく殺生をせざるを得ない民衆、本来は善人であるはずの人々のことではないかと考えていた。しかし、だんだん年をとってくると、いやこの世に本当の善人などはいないのではないか、少なくとも善の裏に悪を秘めていない人間などはいない、と思えてきた。人間は善悪二つを併せ持っており、時により場合に応じてどちらかが顔をのぞかせる。だから、自分の中の悪を自覚することが大切になる。

 鶴見さんは、著書や対談の中で「自分は悪人である」と何回も語っている。最初は自分を衒って言っているのかとも思ったが、何回か読むうちに彼の戦中体験が元になっていることを知った。昭和20年、彼が海軍軍属としてマニラに赴任しているとき、同僚の一人が捕虜の殺害を命ぜられる。その時から自分が同じ命令を受けたらどうするか、それが深刻なテーマになったのである。そうして、もし自分が命ぜられたら、相手を殺さずに自分が死ぬという覚悟を固める。モルヒネを手に入れて隠し持ち、命ぜられたらすぐそれを飲んで死ぬ、と決める。

 しかし、そう結論して終わりにはならない。本当にそうか、そうできるのか、それを死ぬまで持ちつづけた。彼のべ平連などの市民運動は、すべて悪の自覚からの行動であったということができるだろう。

『1937』における辺見庸氏も同じだ。日本軍の南京虐殺をとおして、日常の暮らしでは「良き父、良き夫」であった兵士たちが、南京のみならず中国全土で繰り広げた「殺・奪・姦」の非道な行為について、もし自分がその場にいたらどうするのか、どのような行動ができるのか、と問いかける。

 死屍あふれる戦場の街で、明日は自分が死ぬかもしれぬ極限状況の中で、しかもそれが大衆的な盲動と化した現場で、自分はどう行動できるのか。

 迎合的性格の自分には、とうてい自信のある答えを出すことなどできない。むしろその場に呑み込まれてしまうのではないか、と考えられる。やはり悪人以外の何者でもない自分が見えてきてしまう。

 親鸞は、悪人だからこそ、また自力では救済できぬ人間だからこそ、中途半端な善人ぶった我執を一切捨てて、弥陀の本願にすがるよりない、と言う。ここに絶対他力の思想が生まれる。

 しかし、今の自分には、とうてい絶対他力という位置には立てない。ただ人間は、死の瞬間にこそ、心も体も生命さえもすべて放して、完全無我執の絶対の位置に身を置くことができるのかもしれない。

  また管が詰まり、管の入れ替え、これで三度目だ。栄養剤の中身を詰まりにくいものに代えてもらう。

 

〈2月8日〉

「人間、有るものに頼れば隙が生じる、失えば、却ってそれが強みになるものなのだ」

  ――シェイクスピア『リア王』――

  先日のテレビで、東北の人たちが、まだ津波の片づけが終わっていないのに、ボランティアが年々減って困っている、と話していた。また、別の番組では「災害コミューン」という言葉が使われていた。

 阪神の時も東北の時も、災害ですべてを失った当時は、みんなが何くれとなく力を合わせ、ボランティアも全国から駆け付けて一種の共同性が成立した。しかし復興が進み、被災者の間に生活面や事業面での立ち直りに違いが生じてくると、共同性にひびが入りやすい。つまり、無から有へと移り始めると、コミューンに亀裂が入りやすくなる。

 その意味で、ヤマギシの実顕地の前提に無所有を置いたことは、きわめて重要なことである。しかし、仕組みとしての無所有と、各人の心の内における無所有とは必ずしも一致しない。仕組みの面からのみ無所有を強要しては窮屈でやりきれないが、といって欲望のままに所有を放置すれば、共同性は崩れてしまう。一人ひとりが取り組む以外にないことかもしれない。

 

〈2月9日〉

 とりたてて体の変化なし。今日で治療半ばという。昨日の放射線医師の話では、「変化のないのが一番」なのだそうだ。放射線治療はピンポイントというわけにはいかず、どうしても他の細胞を傷つけることがあるので、却って悪化したように感じられることもある、との話であった。

 去年のいつだったか、たまたま訪ねてきたKさんと話をしていて、話題が学園のことに及んだ。私が「kさんはいま学園についてどう思っているのか」と尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「わしは学園の子を何人も知っているが、みんなたくましく育っている。彼らを見ていると、われわれ大人がどうなろうと、村がどんな状態に陥ろうと、それでいいと思っている」

 私には何か見当違いの答えのように感じられた。例えば「日本の旧陸軍についてどう思うか」という問いに、「兵隊帰りはみんな逞しくやっているから、それで日本がどうなろうといいんだ」と答えるのと同じで、学園については何も語っていないことになるのではないか。

 確かに、たくましく社会で活躍している学園出身者はたくさんいる。南米でNPOを立ち上げ、現地の貧困対策や農業支援に力を入れている女性、長野で果樹や畑作で地域を盛り上げたり、建設会社のオーナーとして国際的に活躍している若者、こういう人たちの情報を時々耳にする。

 これは学園が「そうであったから」というより「そうであったにもかかわらず」ということであろう。しかし同時に、精神を病んで未だに立ち直れずにいる事例も、何人か聞いている。

 私たちは、学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返らずには、自分自身を前に進めることはできない。

 

〈2月10日〉

 体に特に変化なし。ただ昨日からの下痢、腹がしぶる。栄養剤が変わったためか、抗がん剤の副作用か。

  司馬遼太郎は『菜の花の沖』で、人間にとって大事なことは、幾つになっても自分の中に”子ども”を持ちつづけることだ、と言っている。自分の中の”子ども”を失うと、人間が干からびて、どうにも潤いのない大人になっていく、と。

 司馬さんの言う”子ども”とは、未知のものに対する興味を抱き、これ無しには科学も芸術も開花することがない心のあり様を指している。『菜の花の沖』は、その”子ども”を持ちつづけた日本人の典型として、19世紀半ばに活躍した廻船問屋・高田嘉兵衛を描き出した。

 嘉兵衛は、兵庫の下りものの酒樽廻船で、太平洋航路を江戸まで一番船で飛ばしたり、蝦夷地から樺太までの新しい航路を開拓して現地にニシンの干物製造の作業場を作り、それを大阪に持ち帰って西日本の綿花栽培を支えたりした。オホーツク海を突っ切って樺太に達するという航路は、江戸期の和船ではほとんど不可能とされていたが、嘉兵衛は複雑な航路を見極めそれを可能にしたというのである。これは嘉兵衛の中に存在した”子ども”性なしには不可能なことだっただろうと司馬さんは言うのである。

 ひるがえって今の日本の教育を見ると、子どもの中から大事な子ども性を失わせ、知識ばかりの変に大人じみた子どもばかりをつくりだしているように見える。そして、いたずらやいじめといった、おかしな子どもっぽさばかりが目につくようになった。

 その意味で、ヤマギシズム学園が始まったとき、これはすごいことになるぞ、まさに教育革命が起こる、と期待したのだった。

  

〈2月11日〉

 今日は休日で治療も休み。

 体調変わらず、かゆみなし、痛みなし、吐き気なし。 

 私たちは学園に期待していた。そして自分自身はといえば、最後の最後まで学園を信ずることをやめなかった。学園出身者がどんどん村を去り、学園を閉ざす村が出始め、ついには学校法人設立の申請を取り下げざるをえない事態になって初めて、「これはどういうことか」と考え始めた。なんとも鈍い話しである。

 それはやはり信じていたからである。外部の批判や内部の一部の人たちによる疑問提起に一切耳を傾けず、盲目になっていたからである。これをしも妄信というのであろう。

 全集編集の過程で、山岸さんの「百万羽子供研鑽会」という文書を繰り返し読んでみた。そこにはこう書かれている。

「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃんが、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます」

 先生やお父さん、お母さんの言うことも、ましてや世話係の言うことも、その通りだとしないで自分の頭で考えること、ここに自ら学び育つ学育の本来の姿が謳われている。そしてこれは教え、教えられることを排除することではなく、教えられたことをそのまま鵜呑みにする教育というものを否定したものである。ここに新しい教育の原点があるはずであった。

 しかし実情はどうであったか。世話係と違った意見を出せば、生意気だ、反抗的だと批判され、個別研や体罰の対象になった。このどこに「学育」の理念があっただろうか。

 

〈2月12日〉

  特に変わりはないが、ここ2、3日下痢がつづいている。

  昨日は学園問題を理念の面から考えてみたが、学育理念はこの間どこかに消え去っていたのだろうか。そんなことはないはずである。なぜなら私たちの誰もが「子どもは教え育てるのではなく、自ら学び育つものだ」と口にしていた。ではなぜ、口にしていたことと現実との間に、これほどのギャップがあったのだろうか。これはかなり深刻な問題である。

 理念はいくら言葉で覚えたり、口にしたところで、現実の場で実証しないかぎり、絵に描いた餅にすぎない。私たちはみんな理念を神棚に供えて、ありがたがっていただけなのである。まことに愚かなことであった。

 

〈2月13日〉

 体調、特に変化なし。  

 ところで、ヤマギシズム学園は全く意味のないものだったかと言えば、決してそんなことはない、と私は思っている。学育理念に基づく全く新しい学園ということで、私たちは諸手を挙げて賛成したし、教育界に一石を投ずるものと期待もしていた。

 しかし、方向がずれていったということのほかに、学育理念を理解し実践しようとする人材にも乏しかった。子どもを大人の小さなものとしてしか見ることのできない世話係や村人によって育てられることになってしまったのだ。

 『星の王子さま』の最初のところで、サン=テグジュペリは、親友のレオン・ウェルトへの献辞として「この人は子供のための本でも何でもわかってくれる人だ」として「この人がかつて子供だった、その子供にこの本を捧げたい」と、献辞の最後をこう結んでいる。

「小さな子供だったころの レオン・ウェルトに」

 子どもを育てるには、昔子どもであり、今も心のどこかに子どもを育み抱いている大人である必要がある。

 子どもはみな、どこかに天才を持っている。何かわからないけれども、何かになりうる可能性である。しかし、その天才を見い出すのは容易なことではない。よほど子どもから学ぶことのできる柔らかくしなやかな能力を持ち、努力できる大人でなければならないだろう。十分な能力はなくとも、そのための努力と研鑽を惜しまぬ人間でなければならないと思う。 

 筒井康隆のショートショートを読み終わる。

 

〈2月14日〉

 時々、胸やけがおこるが、特に痛みや吐き気はない。 

 2000年当時、村が混乱していたころ、さまざまな会合があり、何が問題なのかを知るべく、それらの会合に顔を出した。若い人たちの間で、無所有を論じるのによく「夫婦だったら」とか「家族だったら」という例えが出された。これは後に鈴鹿のサロンの発表会でも、同じ例えがよく出されていた。

「夫婦だったら、あるいは家族だったら、誰がお金を出してもいいのではないか」「だから一人ひとりが持つ必要はない」と。

 しかし、これで無所有の説明になるのだろうか。所有がないという話と夫婦の、あるいは家族の誰かが所有しているという話は、全く次元の異なる話である。また夫婦といってもさまざまな夫婦があり、離婚もあれば再婚もある。仲のよい夫婦もあれば、すれ違いの夫婦もある。村の中にいようと外にいようと、夫婦の典型的な形があるわけではない。

 ところが、人は何かの例えを出して説明されると、何かわかったような気になってしまう。これは自他ともによほど注意しなければならないことだ。

「真理の側から見れば……」とか、

「何も知らない子どものような白紙の心だったら……」とか。

 こういう例えを出されると、真理もわからず、子どもの白紙の心なるものも知りようがないのに、何かわかったような気持ちになるのはどうしてなのか。

 研鑽はあくまで事実に基づいて行わなければならない。

 小保方晴子さんの『あの時』読み終わる。面白かった。

◎『わくらばの記』に触れて

※吉田光男さんの『わくらばの記』『病床妄語』は私の関心事と重なることも多々あり、随時その日録から抜粋し、そのことで思った私の雑感を載せていこうと思っている。(2016年9月記録を改訂)

〇個々の主体意識と実顕地の暮らし

「病床妄語(1):入院していると夜中によく目が覚める。特に明け方に目が覚めると、もう 寝つくのは難しい。そして頭の中をさまざまな妄念がうごめき回る。その妄念の一つをつかまえて、翌日のノートに書きつける。すると翌日には次の妄念が浮かんでしばらく消えることがない。そしてそれをまた書きつける。前日の続きのこともあれば、全く違うこともある。この記録は、そうした妄念の記録であり、「わくらばの記」の一つとして特に「病床妄語」と名づけた。」

「病床妄語」〈2016年1月29日〉

『1★9★3★7』の中で、辺見庸氏は、堀田善衛の『時間』を引用しながら、南京虐殺の死者について、死者の数が問題なのではなく、一人ひとりの死が問題なのだ、と強調している。一人ひとりの死が、10万なり20万なりに達したのであって、一人の死は10万分の1、20万分の1のものではありえない、と。死者の一人ひとりには、その人だけの人生があり、物語があるのだ。

 私たちはよく数、数量を問題にする。しかし、一人ひとりの死は、そしてその人生は決して数に還元することはできない。

 それに関連するかどうか、村(ヤマギシズム実顕地)の暮らしの中でよく「みんな」という言葉が使われる。
「みんながやるからできます」というテーマとか、「みんなの力を一つにして」とか。
しかし、「みんながするからそうする」という生き方は、本当に主体的な生き方なのだろうか。この考え方は、もしかしたら自分を放擲して付和雷同、ロボット的な生き方に転落することではないか。「お手てつないでみんな一緒」というのは、一体の生き方と同じなのだろか。

 10年ほど前に、村人の一人と話をしていて、何回かこんなやりとりがあった。
「みんなそれが良いって言ってるぜ」
「みんなって誰や?」
「みんなってみんなよ」
 そのうちに、自分だけがみんなから外れているような気分になって、黙ってしまった。しかしこの「みんな」という言葉は曲者である。うかうかすると、自分も他もごまかされてしまう。

 山岸(巳代蔵)さんは、こうした「みんな」の寄る一体を「便宜一体」と言い、「便宜一体」は何かあればすぐ崩れる、とも言っている。

——–

「みんな」ということばに関連して、「私たち」ということばについて考えてみる。少し意識して私(たち)とすることもあるが。その意味するところをあまり考えずに安易に使っているかもしれない。

 ことばは大まかに抽象化する働きがあるので、繊細さを求める文芸作品はともかく、その使い方について文脈を離れて事細かくとりあげることもないと思うが、私はこう思っている、このように見ているといえばいいことを、自己の主張をより正当化するように意識的に使っている場合や、他の人も「そう思え」というような恣意性を感じることもあり、気をつけていきたい。

 厳密にいえば、〈私たち〉という複数形は、一人ひとりの全く異質な〈私〉の異質性の省略、簡略のもとで、おそらく他の人もそのように思っているのではないかと想定したうえで成り立つことばではないだろうか。

「われわれは」、「実顕地は」、「日本人は」などではじまる表現でも、同じようなことはいえるのと思う。いずれにしても「今の段階で私はそう考える」との自覚が基本となるだろう。

 

 先日のブログでも触れたが、現在の私は、自己にとって他者は根源的に置き換え不可能な存在であり、根本的に異質な存在であるという見方をしている。

 他者のことはどこまでも一面的にしか知りえない関係で、その知りえたと思っていることも、あくまでも自分にはそのように見えたということにすぎない。

 そのようなお互いの違いを受け入れ、共通するところや歩み寄れるところを見出しながら関係を構築していくのだろう。

 一つの例として、私と妻が夫婦になって25年になる。今はほどほどの安心感と信頼感のもとに、この先も共に手を携えていくだろうと思っているが、どこまでも異質な人としてみている。

 生まれも育ちもかなり違うお互いが、別々の駅で同じ列車に乗り合わせ、偶然的に意気を感じ夫婦になり家族をつくったが、やがて別々のプラットホームで分かれていく。

 思い方、感じ方など一見同じように見えることも、仔細にみると違っていて、極端に違っていることもある。
 そこに違和感を覚えたり、ムッとしたり、アッレと思うこともあるが、そこに面白さを感じることもある。

 Yさんの日録に取り上げている「みんな」については、その人の主体性が全く感じられず、Yさんの違和感も当然だと思う。
 この事例や私の体験から、その頃の実顕地について、一人ひとりの主体意識の欠如、喪失という視点から、その内実をみていくこともできるような気がする。

※広辞苑などの辞書でみると、次のようになっている。
「主体」:自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。
「主体性」:自分の意志・判断で行動しようとする態度。
「主体的」:ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。

 ヤマギシズム生活の理念に共鳴して、それぞれの主体性をもって参画した人たちだが、そこでの暮らしを通して、自己の主体性にもとづいた意志や判断よりも、組織の方向性に導かれ、影響されていた人も少なからずいたのではないだろうか。

 特にヤマギシズム実顕地は、かってない社会の標榜のもとで、独特の言葉遣い(理念)、対話形式(研鑽)、生活様式(提案と調正)、運営方法(任しあい)などが独特のものであり、それに慣れるにしたがって、自己の主体性にもとづいた思考方法というよりも、組織の志向性にあうような感性、考え方にそまっていく面もあっただろう。

 そこから、Yさんの事例にあるような、「研鑽会で決まった」「みんながそういっている」「村ではこうしてきた」のような表現がうまれる。

 

 自己についての自己とともに社会に対する自己という面があるので、ある程度周りの状況にあわせていくことはあるだろうが、実顕地のような特殊な運営方式と生活形態で構成された集団では、よほどの自覚がないと、組織に対する自己と自己にとっての自己が混然としてくる。

 あわせ方は一人ひとり異なっているが、疑いの目を挟まず短絡的に組織の掲げる方針にあわせて、あるいは組織がもつ気風の「いきほひ」(次々と賛同者、参画者が増えていくこともあいまって)に押されて、だんだんと組織べったりの人間になっていく人もいただろう。
 だが、その頃の実顕地がどうあろうとも、自己の主体性をないがしろにしたのは、自分自身だと思う。

 どこまでも主体的であろうとしていた人たちもいただろうが、だんだん息苦しくなってきて、そこから離れたり、Yさんのように違和感を覚えつつ向き合い続けていたりしているひともいるが。

 私のことを振り返ると、自分特有の見方や感じ方を、主体性をもって表現する場合でも、どこかで実顕地ではこのように考えている、このような方針であるのではないかなどの声に、多かれ少なかれ左右されるものがあったと思う。

 さらに問題になるのは、自らの主体性とは関係なく親の意向で村に来た子ども達、学園生たちに対して、一人ひとりの主体性を豊かに育むことの重要な時期に、それぞれの主体性をそぎ落とし、実顕地の方針(中心になって進めている人たちの方針)に相応しい人へと無理強いをしていたことが、徐々に明らかになってきつつある。

◎吉田光男『わくらばの記』(2)

わくらばの記 病床妄語①

 入院していると夜中によく目が覚める。特に明け方に目が覚めると、もう寝つくのは難しい。そして頭の中をさまざまな妄念がうごめき回る。その妄念の一つをつかまえて、翌日のノートに書きつける。すると翌日には次の妄念が浮かんでしばらく消えることがない。そしてそれをまた書きつける。前日の続きのこともあれば、全く違うこともある。この記録は、そうした妄念の記録であり、「わくらばの記」の一つとして特に「病床妄語」と名づけた。

 

〈1月18日〉

 今日入院、パジャマに着替え、用意完了。

 あとには恐るべき胃カメラが待っている。10時半、胃カメラ挿入、実に苦しい。 そのあと、放射線治療のためのCT、体に照射個所の目印を何か所かペイントされる。

 昼食の後は点滴のため、右腕の静脈にかなり長い管を通される。静脈が細いためか、何か所も針を刺されて腕の付け根が腫れ上がってしまった。痛い。

 何しろ病院とは痛く、苦しいところ。死の直前はこんな苦しみのために、少々の寿命引き延ばしはご遠慮申し上げたい。

 

 〈1月19日〉

 夜はわりとよく寝られた。

 放射線の機械故障で、今日は一日治療なし。のんびり本でも読むしかない。ポータブルラジオは、雑音ばかりで全く役に立たない。

 失って初めて、そのものの重要性がわかる。逆に言えば、失わないうちはなかなかそれに気づかない。凡人のあわれなところだ。耳が聞こえなくなって初めて耳の機能がわかるし、食事が普通に食べられなくなって初めて、口や食道や胃の腑の働きに感謝の念が起きる。

 極論すれば、死んでみなければ生の本当の意味はわからないのかもしれない。

 三畳一間の病室と狭いベッドを我が家とする暮らし。子規ではないが、まさに病床六尺、その中にも自分の生き方があるだろうと思う。これからそれが試される。

 

 〈1月20日〉

 昨夜は遅くまでサッカーの試合を見てしまった。

 食事は毎回完食。今日から治療開始とのこと。

 入院してから、不思議に許南麒の詩が思い出される。大学1年の時に文化祭で、有志一同で詩と歌の朗読劇をやったが、その時に詠んだ詩の一つだ。    

   麦畑に雲雀鳴き

   麦の穂に5月の風揺れ

   また人々はビールのびん腰に下げて

   峠道を降りてくる

        昔ふるさとを棄てたときも

   ふるさとがいやで行くんじゃなかった

   むかし異国に渡るときも

   異国が好きで行くんじゃなかった

   今もまた同じ気持ちで

   振り返り振り返り峠道を降りてくる   

 1950年の朝鮮戦争(韓国では南北戦争という)のさなか、逃げ惑う朝鮮の人々をうたった詩だ。私は許南麒の詩が好きだったが、今はその詩集はどこにも存在しないし、人間そのものが歴史から抹殺されてしまった。総連系の友人の話では、許はしばらく朝鮮総連で小使いとして使役され、いつの間にか消息不明となった。多分、北へ連行され、処刑されたものと思われる。

 良心的な人、人間味のある人は、命を奪われやすい。日本でもそうだ。私が小河内で出会った伊藤さんという元新宿自治労の委員長は、女性問題で批判され、小河内山村工作隊に飛ばされていたが、やがてスパイ容疑で査問され、日共による過酷な監禁と暴行の果てに殺され、今なおダムの下に眠っている。

 昨日、失って初めてその価値に気づく、と書いた。つまり喪失によって獲得するものがある、ということである。

 青春去って、青春のすばらしさ、可能性を知る。失敗して初めて、過ちに気づく。

 しかし過去は還ってこない以上、未来にそれを投影する以外にない。が、未来に青春はない。いわば矛盾だ。そしてこの矛盾を生きるのが人生というものなのだろう。

 

 〈1月21日〉

 今日はやたらとゴッホの自画像についての思いが出てくる。彼は何枚も何枚も自画像を描いた。何のためか。

 恐らく「自分とは何か」「自分とは何者なのか」と、たえず自分を追い求め、追いつめていたのではないか。画壇から評価されない、1枚も絵が売れない、しかし自分は描くこと以外に生きることはできない。そんな自分とは何なのか。描く以外に画家としての自分(レーゾンデートル)を確認することができなかったのであろう。

 耳を切り取った自分も描く。決して美しくはない。写実的でもない。それでも描くしかなかった。そして自殺した。

  食欲少し減る。抗ガン剤、放射線治療2日目、今のところ特に変わったことはない。

 

 〈1月22日〉

 治療3日目に入る。

 朝5時に目覚めて、ぐるぐると湧き上がる思いの渦の中から、”はれはれ”という言葉が浮かび上がってきた。この言葉がつくられた当初から、どこか違和感を抱いていたが、あまり深く考えることはなかった。しかし今になると、まったくおかしな言葉だと気づかされる。

 人の心にも、社会にも、晴ればかりがつづくことはありえない。曇りもあれば、雨もあり、嵐さえもある。それを認めないと、隠すか、嘘をつくことになる。

 鶴見俊輔さんに依頼した本の序文に「山岸会の教祖・山岸巳代蔵」という文言があった。これを「ヤマギシには教祖はいない」という理由から、時の出版社は無断で「教祖」という言葉を削ってしまった。「教祖」というのは鶴見さんの見解、「いない」というのはこちらの考え方。無断で削り取ることはできないはずのものなのである。

 人の目に見えなくすることで、あたかもそれが存在しないかのように振るまうのはいかにも姑息。ずいぶんそうした姑息な行為をしてきたものである。牛乳の日付変更、食中毒の隠蔽、トラックや看板から「やまぎし」の文字を消す作業、こうした考えが過ちを素直に認めない、それと正面から向き合わない言動につながってしまった。

  食欲落ちる。薬のせいか、運動不足のためか。腰が重く、痛みもある。ベッドの上で体操、下で椅子につかまって足の上下運動。

 

 〈1月23日〉

 昨日は深夜までサッカー観戦。

 食事は「フレークきざみ」から「一口きざみ」に変えてもらう。この方がおいしい。

 何人かとメールのやりとり。メールというのは、どうしても言葉数を少なくしようとするので、日本語が乱れやすい。若者の間で変な簡略語が流行するのも無理はない。もう一つは、すぐ返信しなければという強迫観念が生ずる。携帯やスマホを手離せない人が増えるわけだ。

 朝は何ともなかったが、昼食を一口食べたら吐き気に襲われ、ほとんど食べられなかった。夜は全く食べられず。

  久しぶりにシャワーを浴びる。粗末な風呂場だが、頭を洗ってさっぱりした。

 看護師さんたちは、みな親切。

 

〈1月24日〉

 昨日から始まった抗がん剤の副作用か、食事は全くとれない。みそ汁と具のカボチャを一口食べたら、胸の痛みと吐き気。昼もおかずの小エビ数匹と豆腐を少し食べただけ。あとは吐く。

 pm2時45分ごろ、豊里からEさんら9人もの大部隊が見舞いに来てくれた。

 Sさんが私の手記を読んで、「これぞヤマギシの生き方」みたいなことを言っておられたけれど、どうもこちらにそんな意識はないので弱ってしまった。

 吐いているせいか、だいぶ頭がぼけた感じがする。

 

 〈1月25日〉

 窓のカーテンを開けると、外は雪。雪を見ると『やまびこ学校』の冒頭の詩を思い出す。

     雪はずんずん降る

     人間はその下で暮らしているのです 

 何の装飾も技巧もない、子どもの目に映ったまま、心に映じたままの世界。山形の貧しく奥深い山村と、その下で生きる人びとの世界が浮かび上がってくる。

 この「ずんずん」は、もしかしたら「こんこん」だったかもしれない。標準語教育で、雪のオノマトペは「こんこん」と意識づけられていたから。ただ私は「ずんずん」のほうが好きだ。そのほうが雪深い東北の山村を象徴している。

 相変わらず食は摂れない。玉子焼きを少々とみそ汁ひと口。

 岩田医師の診断で、食道が途中から細くなっていることが判明、鼻から管を通して胃に直接栄養を送り込むことになった。さっそく処置を受けた。

 これぞまさに、札付きならぬクダ付き生活。

 

 〈1月26日〉

 鼻からの栄養補給は、今のところ問題ない。体の異常は感じない。頭のぼーっとした感じはなくなった。ただ、小便の量が増えた。昨日の倍ぐらい。体力が少し回復したのか。ただ腹の肉がぐんと減った(メタボ解消)。おかげでパジャマやパンツがゆるくなり、ずり落ちてきて困る。

 未来は過去から照射するしかないと思うのだが、そのことと過去にこだわる、あるいは過去にとらわれるということとどういう関係にあるのだろうか。

 恐らく「こだわる」ことは、過去を調べることをやめ、固定化することだろう。そしてその固定化した過去に自分がとらわれ、身動きができなくなる状態を指すのだと思う。

 だから、未来を照射しつづけるためには、過去を調べることをやめてはならない。繰り返し繰り返し調べることである。

  栄養補給のおかげで体調はまずまず。朝から300キロカロリー3袋。

 

 〈1月27日〉

 昨夜は遅くまでサッカー観戦、疲れはない。

 未来は過去からしか照射できない、と書いた。よく研学などで「いま、いま、いま」ということが強調される。「直面している今から逃げてはならない」という意味で、これは正しい。しかし、その「いま」をどこから考えるかといえば、過去の経験や知識から得たもので考えるのである。だいたい「いま」という時の流れを切り取ることなどできない。切り取られた「いま」は、時の流れとしての「いま」ではなく、観念がとらえた近過去の映像である。

「いま」を強調することで、過去に目をつぶり、歴史を忘却することは許されない。

 安倍首相が、「過去を未来の子供たちに残さず、未来志向の世界を構築する」などとバカげたことを言っている。慰安婦問題を無かったことにしたり、金でケリをつけておしまいにしようなど傲慢も甚だしい。

 ヤマギシでいえば、1980年代以降の急拡、そして急速な縮小、そこにいったい何があったのか、なぜそうなったのか、そしてその時私たち一人ひとりは何を考え、どう行動したのか、繰り返し繰り返し考えてゆく必要がある。そこにしか未来に生かすべき教訓はないのだ。

  少年時代からの自分を振り返ると、自分が自分であろうとするよりも、いつも自分以外の何者かになろうとしてきたように思う。

 

 〈1月28日〉

 体調とくに変わりはないが、小便の量が増えて困る。栄養剤の増量のためかもしれない。

 引き続き「いま」と「過去」について考えているが、取り立てて進捗はないので書くのをやめる。

 放射線を浴びて何日になるか、今日初めて腹部に熱のようなものを感じた。

 

〈1月29日〉

『1937』の中で、辺見庸氏は、堀田善衛の『時間』を引用しながら、南京虐殺の死者について、死者の数が問題なのではなく、一人ひとりの死が問題なのだ、と強調している。一人ひとりの死が、10万なり20万なりに達したのであって、一人の死は10万分の1、20万分の1のものではありえない、と。死者の一人ひとりには、その人だけの人生があり、物語があるのだ。

 私たちはよく数、数量を問題にする。しかし、一人ひとりの死は、そしてその人生は決して数に還元することはできない。

 それに関連するかどうか、村の暮らしの中でよく「みんな」という言葉が使われる。

「みんながやるからできます」というテーマとか、「みんなの力を一つにして」とか。

 しかし、「みんながするからそうする」という生き方は、本当に主体的な生き方なのだろうか。この考え方は、もしかしたら自分を放擲して付和雷同、ロボット的な生き方に転落することではないか。「お手てつないでみんな一緒」というのは、一体の生き方と同じなのだろか。

 10年ほど前に、村人の一人と話をしていて、何回かこんなやりとりがあった。

「みんなそれが良いって言ってるぜ」

「みんなって誰や?」

「みんなってみんなよ」

 そのうちに、自分だけがみんなから外れているような気分になって、黙ってしまった。しかしこの「みんな」という言葉は曲者である。うかうかすると、自分も他もごまかされてしまう。

 山岸さんは、こうした「みんな」の寄る一体を「便宜一体」と言い、「便宜一体」は何かあればすぐ崩れる、とも言っている。

 

 〈1月30日〉

 朝7時のニュースのあと、少し体操。

 小水がよく出るのは、利尿剤のためらしい。抗がん剤による腎毒性除去のためだという。なにしろ、夜中でも2時間おきにトイレに起きるから、なかなか寝つけない。

  吉本隆明氏が生前に書いた食に関するエッセイの中で、こんなことを書いている。(長女のハルノ宵子さんとの共著『開店休業』)

「良いことばかり言う集団や個人が増える社会は衰亡していく」

「ハレハレ」なんていう言葉は、その代表的なものだろう。いいことばかり言おうとすれば、悪いことは必ず隠さねばならないことになる。隠せば隠すほど、それが内部を腐食させる。表面はきれいに見えるが、内側から腐敗が拡がる。

   船戸与一の『満州国演義④』を読み終わる。2・26をはさむ昭和10年前後の事情がよく書かれている。

  天皇・皇后夫妻のフィリピン訪問。戦場になり、日本軍の2倍の110万人が犠牲になったフィリピンの死者を戦没者と共に慰霊することは、祭祀の王としての天皇が一番願っていたことだったろう。天皇は慰霊碑の前で「過去の歴史を決して忘れることはできません」と語った。こうした言動は、歴史を忘れようとし過去に目をつぶる安倍首相をはじめとする右翼勢力へのささやかな抵抗になっている。天皇制の是非は別として、平成天皇の心からなる平和への願いが読み取れる。

 これに関連して、数年前に北海道交流に行ったとき、終戦の日の挨拶で天皇が「先の敗戦で犠牲になった内外の大勢の方々の……」と語ったことが強く印象に残っている。天皇が「終戦」と言わずに「敗戦」という言葉を使ったことに驚いたのである。しかし、翌日のテレビや新聞には「終戦」という言葉しか出ていなかった。

 

 〈1月31日〉

 生は偶然であるが、死は必然である。

 文章を読んでいて書き手の心が感じられないものは、読み続ける気がしなくなる。多くの解説書の類がそうだし、身近なものではSさんの文章がそうだ。「けんさん」紙に連載されたもの、またそれを一冊にまとめた『贈り合いの経済』もその一つだ。西欧の哲学者・思想家からの引用などもあって、私の理解を超えることもその理由になっているのではあるが。

 この本の中で私が最も疑問に思ったのは、「吉本隆明氏との対話」のところである。昔、Sさんたちが吉本さんを訪ねた時に交わされた会話の中身であるが、吉本さんの本から引用すれば、次のような内容になっている。

 「数年前、偶然に伝説されていたユートピア山岸会の会員と出会って話を聞く機会があった。これはいい機会だとおもって、聞いてみたい関心のあるところをたずねてみた。その肝要なところを記してみる。わたしが知っているのは山岸会がまわりを一般社会に囲まれたユートピアだということだけだった。

 

質問吉本)もし会員のなかの若い女性が現在の優れた流行の服装(たとえばそれしか知らないからコム・デ・ギャルソン)を着てみたいと望んだらどうするのか。

山岸会の会員)もちろん係りが望み通りのものを求めて着てもらう。欲求はすべて叶えられる。

〈わたしはゼイタク品だからダメという答えを予想していた。〉

質問吉本)それぞれの会員はユートピアに叶うためにどんな等価労働をしているのか。

山岸会の会員)自分の得意な労働をすればよい。掃除が得意なものは掃除、洗濯の好きな者は洗濯、大工仕事の得意な者は大工といった具合だ。

〈それでは等価労働にならないのではないか。たぶん経済的に成り立つには主催者は別の等価原が要るはずだ。〉

質問吉本)もし会員の子弟が特殊な分野の勉強がしたくて一般社会にしか教えてくれる先生や専門家がいないので、そこで勉強したいといったらどうするのか。

山岸会の会員)そんな子はいませんよ。

〈なぜという疑問を感じたが、会員も反対の意味で疑問を感じたらしい。)

質問吉本)自分の欲しいものは自分で購入したいからその額のお金を渡してもらって買いに行きたいと求められたらそうしていいのか。

山岸会の会員)係りがいて要求通りのものを必ず購入してくれるのだから不必要です。

〈わたしは一般社会に囲まれたユートピアにとってこれは重大なカギだなと感じた。〉 

 

 以上は『中学生のための社会科』(市井文学社)から引用した「山岸会との対話」の項の全文である。『贈り合いの経済』の中でSさんは、吉本さんの質問に答えたのが自分であると書いている。この対話の中にはさまざまなテーマがあると思うが、ここ十数年学園問題を考えてきた自分にとっては「そんな子はいませんよ」という一言は特に大きな問題として響いてくる。

 学育・学園の歴史の中では、「そんな子はいない」どころか、事実としてたくさんいたのである。吉本さんと会った頃にそう考えていたとしても――

 私を含めて多くの人がそう考えていたことは間違いない――今の時点で本を出すとしたら、それについて今どう考えるかを明らかにする必要があるだろう。ところが、この本では一言もそれに触れていない。私にはまったく理解できない。