広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎ヤマギシズム実顕地について思うこと

〇はじめに

 村岡到氏から『ユートピアの模索 ヤマギシ会の到達点』を送っていただきました。読ませていただき、村岡氏が長年にわたって究明されてきた問題意識に照らし合わせて、実顕地が持つ豊かさや可能性など、一つの見解として纏め上げたと感じました。また、「生存権保障社会」としての実顕地の可能性を取り上げている箇所には、現在日本の社会状況からも、検討の価値があると思われます。さらに、現代社会に対する一つの提言としてのユートピアとして実顕地を描き出していて、これからのそのような社会のあり方を考えている人々への、考える一つの参考資料になるのではないかなとも思いました。

 しかし、現実顕地に対し好意的に捉え、大層な期待感を抱かれていますが、特定の情報と引用による表面的な捉え方に違和感を覚えました。短期間の見聞での限界もあるだろうし、参考になるかと思い、いくつか気になるところに触れてお礼の手紙を送りました。

 その後、村岡著への感想が契機になり、自分のことや実顕地のことなどについて、改めてじっくりと考えることになりました。

 同時期に知人Fさんからメールでのお便りがあり、以前知人を通して知らせてもらっていたHP「ビジョンと断面」(現在閉じられている)を久しぶりに読ましてもらいました。そこに村岡著についてのFさんの感想文もあり、興味深く読ませていただきました。見解の違うところもありますが、Fさんの観方と重なるところも多々ありました。そこで、私のやれることとして、村岡氏やFさんがあまり触れていない、実顕地を語る場合に欠かせないと思うことを書いて、FさんのHPに投稿し、知人にもメール等で送ろうと考えました。

 

 簡単に、実顕地を離脱して以後のことを書きます。

 私が参画を取り消したのは2001年です。最初実顕地を離れた鈴鹿の人たちと新たな試みを模索していましたが、少しずつ距離を置くようになりました。自分および家族のことを考えて離脱したほうがよいと思ったのも大きな要因だったような気がします。

 仕事は社会福祉協議会で精神障害者対象の介護職につきました。職場では難しいケースの担当がよくまわってくるようになりました。自立生活センターにも関わり、重度心身障害者や難病の人たちと交流するようになり、福祉社会のあり方などを考える日々でした。

 2008年に妻の90歳を越えた両親と暮らすべく出雲市に移住しました。出雲では地域の精神障害者支援グループに加わっています。

 実顕地離脱後は『山岸巳代蔵全集』の刊行・編集に一員として加わり、刊行終了後、『山岸巳代蔵伝』を執筆しました。私にとって山岸巳代蔵は不思議な魅力を感じながらも不可解なところも多々ありました。編集に関わり評伝を書き進めるにしたがって、その魅力が益々高まってきて、評伝では私の評価や推測は程々にして、全集から読み取ってもらえればと考え、研究の手引きになるように、できる限り口述の要点を取り上げるようにしました。

 昨年2月に『山岸巳代蔵伝』の紹介もかねて、ヤマギシ会総会に久しぶりに豊里実顕地を訪ねたとき、さまざまなことを感じました。まず、一緒に暮らした多くの人に会えて非常に懐かしかったです。いろいろなところを見て回りました。介護の棟では運動初期から活動されていた服部氏に触れたり、宿舎で佐貝夫妻と話をしたりして、その元気な様子に感慨を覚えました。東北震災の折、福島の知人などが岡部実顕地にお世話になった話や、石巻市で献身的に動いていた村人の話なども聞いていたこともあり、現実顕地の果たす可能性などにも注目していく必要を覚えました。

 また、福島で生まれ、東京で育ちましたが、よいも悪いも含めて、20年近く暮らした豊里も故郷のようなところだなと感じました。そのようなこともあり、村岡著についても他所事には思えなかったです。

 村岡著については大きく四点に絞って返書をしました。それにも少し触れ、『山岸巳代蔵伝』からも引用しながら、現時点での私からみた実顕地の変遷に対する見解を述べていきます。

 ただ、実顕地を離れてから12年になり、ここで述べるのは、それまで25年以上暮らしたときのことに基づいての見解です。いくらかの疑問を抱えて離脱したのですが、その疑問点がどうなっているのか等に関心があります。昨年訪れた時、真剣に実顕地のことを考えている村人にも出会いました。ささやかながらこの機会に一緒に考えていきたいと思い書いてみました。

 また、このような文章を書く場合、無意識的にも自己正当化してしまうことは避けられないし、私自身、実顕地をすすめていくような立場に長くいたこともあり、かえって本質が見え難かったこともあると思います。

 

(一)山岸巳代蔵とヤマギシズム運動

 ここでは、評伝を書き上げる過程で印象に残ったことで、今まであまり取り上げられていないと思われる、晩年の山岸の特質がよく現われている二点に絞って考えてみます。

 人には、成長、年齢、時代の状況などにより、見方、考え方の変化していく面と、一貫して変わらないものがあります。山岸巳代蔵の変化したことの一つとして、熟慮断行の人から優柔不断の人への変化をあげることができます。(※山岸生没1901年8月~1961年5月)

 山岸の著作の主だったものは運動初期の第一回特講以前と、山岸晩年の1959年9月以後に集中しています。この晩年の到達点が、後の実顕地造成につながっていきます。

 1953年ヤマギシ会創設以後、めまぐるしく動く運動の渦中にあったが、熱湯事件や山岸会事件、数々の失敗などを経て、じっくり思索・検証できる時間がとれるようになり、「正解ヤマギシズム全輯」の著述をはじめるようになります。1960年2月に、『盲信』について考えることで、一つの大きな転機となったようです。

 

 この「盲信」の研鑽後、自信のもてない自分になる(優柔不断)→自分の観念にとらわれない(無我執)→どこまでも検べ続けていく(けんさん)→自信のもてないお互い同士で補い合って(仲良し)→そのようなお互いになってこそ、どこまでも探り究めていくことができる(研鑽会)、そのことで本質的なものを実現していけるのではないだろうか、その連続と、これまで考え続けていたことが一直線につながっていきます。これ以後は、何より先ず自分自身に対する「我執の抹殺」へのあくなき追求に向かっていき、それが晩年によく言っていたという「優柔不断が本当」という言葉に現われてきます。また「自信のない人になる」というような表現もよく出てきます。紆余曲折がありながらも、生涯に亘って無固定前進の生き方だったのではないかと思います。

 そのことと繋がりますが、生涯に亘って試験・研究、ときには試行・錯誤の連続生活だったと思います。資質としてどこまでも試験・研究の人であったと思います。青年時の偶発的な出来事からはじまる養鶏業時代から、伊勢湾台風で和田義一に見出され引き出される出会いから、やがて山岸会創設となり、「争いがなく、ひとりも不幸な人のない社会」という遠大な目標を掲げ、特講開設、『百万羽』展開、柔和子との取り組み(柔和子というそれに耐え得るような伴侶を得て)など、壮大な実験・研究をたゆまず続けました。

 

 1961年になって、山岸巳代蔵の思想や山岸会の運動に共鳴した人たちの中から、実顕地が誕生することになります。これは私の見解になりますが、実顕地造成に伴い、山岸は四大機関によるヤマギシズム運動の展開という構想を描きました。すなわち、自分の観念にとらわれず自信のないお互いになってどこまでも「けんさん」のできる人になる研鑽学校、あらゆる角度から実験・研究を繰り広げ様々な方法を探求する試験場、金の要らない楽しい村で暮らす顕現体としての実顕地、そして、ヤマギシズムを広く知らせる山岸会活動。この四機関は相互に重なりながらも、他に置き換えることの出来ない独自の活動目標があり、横一列の関係で、それぞれの機関が充実してこそ、ヤマギシズム運動が展開していくと考えたと思います。

 山岸自身は、その構想の実現に向けて身体の衰弱にもかかわらず、体力の許す限り各種の研鑽会に出席していましたが、これからという局面の1961年5月、59歳のときに亡くなることになります。その構想を受けて、主に山岸の身近にいた人たちによりヤマギシズム運動が展開します。

 

 1958年の『百万羽』の設立から始まった参画者は、1961年4月に、参画者の本財(人)及び雑財を調正する機関としてヤマギシズム生活調正機関が発足しました。私は1975年北海道試験場での研鑽学校受講後すぐに参画しました。その時に試験場の総務の方から、革命を目指すなら中央調正機関に、実顕地で仲良く楽しく暮らす方を選ぶなら実顕地本庁に参画手続きをするようにとの説明があり、中央調正機関に参画して北海道試験場に配置になりました。その後一年も経たないうちに、参画者の受け入れは実顕地本庁に一本化されました。この辺りの動きは、参画したての私には皆目わからなかったです。

 そのような流れのなかで、試験場や研鑽学校の機能が実顕地造りの傘下におかれるようになりました。このことが良くも悪くも山岸の構想とは違ったものになっていったと思います。本来すべての事柄、人々に対応するべく世界に開かれた試験場、研鑽学校が、実顕地が栄えるためのもの、現実顕地の体制にふさわしい人になるためのものとなっていき、実顕地の各機構や運営も実顕地の基盤がより強固になることに力を入れるようになっていったと思います。1976年12月には北海道試験場は別海実顕地となり、1961年3月に春日山実験地から名称変更したヤマギシズム世界実顕中央試験場は春日山実顕地に変わりました。

 

 その後次第に、試験場機能は乏しいものになっていったと思います。養鶏部門をはじめ産業部門で、何人かは熱心に取り組んでいたようですが、全体の気風としては、山岸が描いた本来のあり方からすると中途半端なものになっていったと思います。1991年になって、本来の体制にするため、改めてヤマギシズム世界実顕中央試験場発足となり、その後案内板なども設置されましたが、はかばかしい動きにはならなかったと思います。

 山岸没後から私が参画した1975年ぐらいまでは、一部に注目している人はありましたが、社会一般的にはそれほど知られていなく、農業を基盤とした自給自足的な生活形態で、経済的な基盤も整っていなかったです。そこでまず、実顕地造成における足元からの基盤づくり、特に生産物拡大など経済的な面に力を入れたのではないかと思います。

 

 1960年代後半から様々な分野からの青年たちの参画者が増えてきて、1973年末からはじまった生産物供給が軌道に乗りはじめ、楽園村運動などで注目されるにつれて参画者が増え続け、組織も大きくなっていき、経済的な基盤も強固になっていきました。それに伴って、研鑽会、機関誌、各種通信物などで村人の意識を高めていくようなことも活発になっていきました。

 それと同時に、実顕地の組織と運営も一人ひとりの自由意志力による総和というよりも、管理維持的な要素や能率的な面が色濃く出てくるようになり、特定の力のある人が運営面において影響力を発揮するようになりました。また、村人たちの多くも、その人たちに委ねるというような傾向もありました。

 

 組織の規模が大きくになるにつれて、管理的なシステムを整えていくことは欠かせないと思います。そのために「自動解任」「長を置かない」「総意運営」「私意尊重公意行」など、不完全な個人による支配や固定化しない組織・運営のあり方として考え出されたものです。しかし、真摯に自覚する人もいましたが、指導的立場の人の固定化もあり、一人一人の自律的な「けんさん」によるものというより、むしろ一部の特定の人たちによる他律的、操作的調整という面もあり、本来のねらいから逸脱した形骸化したものになっていきました。

 研鑽会も各種開催されていましたが、一人一人の可能性や「けんさん」する力を培い育てるという面もなくはなかったですが、実顕地や各専門部署のあり方の体得といったような意味合いも強かったと思います。

 私自身も村人たちもそれぞれの役割に専念していれば、実顕地が益々栄えるというような、思い込みを抱いていた人も多かったのではないかと思います。結局,力点が「われ、ひとと共に繁栄せん」から「われ、実顕地と共に繁栄せん」に変わっていったように思います。

 当たり前のことですが、山岸没後は次第に運動独自の生命を持ち始めて展開していきます。

 実顕地の基盤が整い、生産物の支持者が増え、楽園村や学園などに子どもたちが集うようになり、多種多様な分野で活躍されていた人たちの一家揃っての参画者が増えつづけ、益々実顕地の基盤はゆるがないものになっていきました。2000年以後、多くの離脱者がありましたが、それに伴うさまざまな見直しによる「世間への馴化」もあり、村岡氏が評価しているような実顕地になっていったかと思います。

 

 村岡氏はこの辺りのことについて氏なりの問題提起をしています。

『すっかり馴化=同化してよいのなら、わざわざヤマギシ会として存在する意味も必要もまったくない。外の世界とも広く交流しながらも、なおかつヤマギシ会として独自に活動する意味・目標・理念は何なのかをいっそう鮮明に自覚し、日々の生活の中で貫くにはどうしたらよいのか、が厳しく問われることになる』(p175)

『今日の時点で、ヤマギシ会として独自に活動する意味・目標・理念を鮮明にするためには、巳代蔵いらいの歴史と伝統のなかで、何が一貫して貫かれていて、また今後も堅持すべき理念・目標なのか、逆にどこを変化・改変してきたのか、すべきなのかを篩にかけて検討・研鑽する必要があるのではないか。部外者の私が立ち入るべきではないが、私にはそう思えるのである』(p176)

  相互扶助と相互規制の共同体でいくのか、独自のルールに基づくユートピア(「金の要らない楽しい村」)を目指すのか、「親愛の情に充つる安定した,快適な社会を人類に齎す」というヤマギシズム運動をしていくのかに道は分かれていると思います。いずれにしても、そこで暮らす構成員によって選択していくことですが、どの道を選ぶにしても、固定化にならぬような研究と「けんさん」は重視したいことだと考えます。

 

 以上のことを念頭におきながら山岸巳代蔵の言動をみてみます。

 山岸の思考法は直観型だと思います。感覚が事実性を追求しようとするのに対し、直観は事実そのものよりも、その背後にある未来への可能性に注目する機能だと考えます。その独創性は想像力の豊かさに負うものであり、データの豊富さに伴って精密度を増す自然科学的推論の場合とは違って、それをみる山岸の構想力、閃きによって思考が組み立てられていく傾向があります。

 山岸は、「永遠に変わらぬ」「永久に責任を持つ」「揺ぎない幸福世界が実現される」などの言い方をすることに、最初の頃、私にもなじめなかった思いがあります。しかし、どこまでも「私には、こう思える」の連続で、あくまでも現段階での「観方」であって、そうした観方や表現を採用することによって、一つの視点を指し示そうとしていたのではないかと考えるようになりました。

 山岸巳代蔵を批判する人の多くが取り上げる『ヤマギシズム社会の実態』の「人種改良と体質改造」について、とんでもないことだと私も思っています。この項には1954年頃の山岸の傾向として、近代的な科学技術や人間の知能への安易ともいえる信頼がうかがえます。

 山岸の言動には数々の矛盾があり、至らぬところ、一方的なところ、真意を諮りかねるようなことなど、突付き出したらきりがないほどあります。

 村岡著に限らず、特定の時期の言動による印象や思い込み、真偽が定かでない他著からの引用や聞き書きで巳代蔵を語ったりしている人が多いのではないかと思います。

「三利あれば、必ず三患あり」(『韓詩外伝』)という言葉があります。山岸巳代蔵を語るのでしたら、その思想の変遷を仔細に検討し、「利」と「患」をきめ細かく整理し、なおかつその真意や可能性の展開への配慮をしながら、優れたところと限界を分析していくのが研究者としての本筋だと考えます。そのためにこそ、運動初期から晩年にいたるまでの著述・口述をほとんど網羅した『山岸巳代蔵全集』を編集・刊行したともいえます。

 

(二)「けんさん」とヤマギシズム特別講習研鑽会(特講)の考察

 山岸会が結成されてから、山岸の思想というよりも、その農法・養鶏法に魅力を感じて集まってきた人が多かったです。その後の拡がりや参画者の多くも、一週間の特講体験に併せて、実顕地やその村人に触れて、あるいは暮らしに根ざした具体的な農法、生産物、楽園村を通しての子ども達の様子などから誘われるものが要因としては大きかったと思われます。私自身も、特講体験や二週間の研鑽学校に参加してヤマギシズムに参画を決めたのですが、そこで出会った村人の魅力と、鶏や卵の見事さ、北海道で生き生きと酪農に携わっている青年達に触れたことが参画につながったと思っています。

 その辺りのことは、村岡氏が村人に触れて感じたのと似たような感慨だったと思います。

 そして、その実感を支える根底には、ヤマギシズムへの入口である特別講習研鑽会の参加・体験がありました。

 特講は無所有・無我執・一体などのテーマで一週間通して時間をかけて、自分一人でも考えるし他者とも一緒にとことん考えます。男女性別・年齢・育ちの異なるさまざま人々と、密室的なそれでいて親密な空間で寝食をともにし、一週間何でも出し合える気風の中で、徹底的に話し合いを続けていきます。

 

 今までまともに考えなかったことを、様々な人たちと共に向き合うことで、ものの見方・考え方が、従来は自覚のないままキメつけた判断で見ていたことが、はたしてそうなのか、本当はどうなのかというように、物事を根底から検べる「けんさん」及び「幸福研鑽会」の楽しさ、厳しさ、大事さを味わうことになります。

 特講の特色は、「全てのことを一旦疑い、そこから本質的なものを見出す」という「禅」思想に通じる要素があります。参加者同士の対話を通して、あるいは他者との対話の舞台に参加しながら、各自が奥底にある自らの心を真っ直ぐ凝視して、本当の自分の心を見つめ把握することで、自分の中にある無限の可能性を追求していくようになることです。

 その過程で、無我執、無所有、自他一体観などの理念、あるいは「腹が立たない」「われ、ひとと共に繁栄せん」「全人幸福」などの考え方が、知識ではない一つの実感として、程度の深浅はありますが多くの人の腹に入ってくるようになります。

 特講のもつ特色が充分に発揮されたときには、各自の人生にとって大きな転換の機会となります。ほとんどの参画者にとってこの特講体験が根底にあり、その人の人格形成に多大な影響を与えたと思います。

 

 私が参画した1975年頃は、社会運動、全国学園紛争を体験した青年やコミューン志向の若者なども多く、参画の動機も多種多様で試験場への出入りも激しかったです。雑財といえるようなものもあまりなく、参画といっても一時的にとらえている人もいれば、幸福一色というような言葉に拒否反応する人、ヤマギシズム運動に斜めに構えている人など、さまざまな人がいました。それでも、かなりの仕事量をこなしてから、何かと夜遅くまで意見を交わす日々で、意見が違ってもあまり気まずい関係にはならなかったです。どこまで「けんさん」になっていたのかは心もとないですが。そのようなことも、特講や研鑽学校などで、とことん話し合った体験が効いていたような気がします。

 しかし、特講体験は一時的なものです。そこで得た実感が、その後の生き方に根付いていくには、絶えざる「けんさん」連続生活の実践を通してしか深まっていきません。そのため、実顕地では種々の研鑽会を企画し運営してきました。だが、要になるのは、日々の「けんさん」生活であり、いくら研鑽会に参加しても、やはり一時的なものになります。

 山岸の描いた「けんさん」の要点を上げれば、どこまでもキメつけないで本質を探究し続け最も深く真なるものを解明しそれに即応しようとする考え方、ということになると思います。その特色は生活即研鑽との考え方です。日々の暮らしが研鑽連続生活であり、山岸自身そのような生き方をしてきたと思います。その「けんさん」方式が、人々の間に浸透し、遍く社会全般まで広がることを目指したと思われます。

「けんさん」は、「本当はどうなのか」「もっと考えられないのか」「間違っているかもしれない」という疑問の持続という側面をもちます。今まで常識とされていたことに対しても、自分の観方・捉え方に対しても厳しい問いかけが続くという自覚がいります。山岸が理想社会実現の方法として、「けんさん」方式を基本としたのは卓見であると思います。

 だが、ヤマギシ会に深く関係した人達の中には、この研鑽という言葉を、「少し考えておく」とか、単なる打合せに、「研鑽しよう」と使っていて、その集団内だけでしか通用しないような使い方をしていました。そのために、研鑽ということばに食傷を感じている人も少なからずいました。私をはじめ実顕地にくらす人々が「けんさん」の本質をどこまで掴んで自覚していたのかと自問してみると、かなりの疑問符がつきます。

 

 鶴見俊輔氏の考察に「言葉のお守り的使用法」があります。

〈「言葉のお守り的使用法とは、人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場を守るために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事の上にかぶせたりすることをいう。このような言葉のつかいかたがさかんにおこなわれているということは、ある種の社会条件の成立を条件としている。もし大衆が言葉の意味を具体的にとらえる習慣をもつならば、だれか煽動する者があらわれて大衆の利益に反する行動の上になにかの正統的な価値を代表する言葉をかぶせるとしても、その言葉そのものにまどわされることはすくないであろう。言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとり能力がひくいことと切りはなすことができない。〉とし、お守り的に用いられる言葉の例として、「民主」「自由」「平和」「人権」などを挙げている。

(※『鶴見俊輔集3 記号論集』筑摩書房、1992年)

 

 実顕地でいえば、「研鑽、一体、調正、本当の仲良し、~が本当、私意尊重公意行、理—-」などがあります。その言葉をお守りのように身につけることで、あたかも自分が体得しているかのように錯覚し、その言葉や表現を用いて論をたて人々の説得の道具にするような使い方をしている人、が少なからずいたのではないかと思っています。

 実顕地の中で日常的によく使われる言葉は研鑽と研鑽会でした。それは次のように使われていました。「研鑽したの」「研鑽会で決まったよ」「研鑽しておくね」「研鑽してないでしょう」とのように。このような表現そのものが「けんさん」の本質から逸脱しています。

 言葉というものは、その意味するところの奥に、それを発している人全体の世界を抱えている場合があり、「けんさん」「無我執」「自然と人為の調和」あるいは、「最も相合うお互いを生かし合う世界」「やさしさ一色のけんさんで、みんなの仕合せの世界を作ろう」「みんな好きや、仲良ういこうな」などの言葉・表現には、山岸自身の心や問題意識を背負っていると思われます。その発した言葉の奥底の心や問題意識まで迫っていかないと、その隠された大きな意味をとらえることが出来ず、浅薄なとらえ方に陥ってしまいます。

 ヤマギシ会に限らず、様々な見解の人たちの合意をどのように形成していくのかは大きな課題ですが、ヤマギシズム社会ではそれの方式として「幸福研鑽会」を位置づけ、その理解への入口として「特講」を設け、あらゆることを研鑽会で検討し一致点を見出していくということを組織構成の原理としました。また個々人の日常生活は、生活即研鑽の研鑽連続生活としました。

 ヤマギシ会の現状について評価を下すには、その実態を見定める必要があります。ヤマギシズム社会で最も重視している「けんさん」や研鑽会が、現在どのように機能していて、なされているのか。どこまでも深め追求するという「けんさん」が村人の気風となりえているのかなど、実顕地を語る場合には最優先となる分析課題だと思います。

 

(三)さまざまな理由で実顕地から離れた子どもや、参画を取り消した人への配慮

 村岡著で記録しているように、現象面では素晴らしい実績をあげている実顕地から、財産を投げ出して参画しそこで暮らした多くの人が、なにゆえ離れたのか。離れた人達の中には、その後、かえって生き生きとしてきたような人も少なからずいます。

 私の乏しい知見ですが、実顕地を離脱した人が、さまざまな苦労を抱えながらも、離れたこと自体に後悔している人をほとんど知らないです。また、長年実顕地で活動してきた人や、実顕地で育った若者や参画してきた青年たちが、実顕地に疑問を感じ、新たな可能性を求めて実顕地から離れ、各地で地域社会をつくるべきさまざまな意欲的な取り組みを続け、10年以上に亘っている試みもあります。

 

 そして、未だに精神的な困難を抱えているような人もいます、なにゆえにそうなのか。

 実顕地を語る場合には、そのようなことにも焦点を当ててみたいと思います。

 身近な例をあげます。私の娘のことですが、これには苦い思いがあります。中等部のときに随分辛いことがあったようです。私の立場を知っている娘があからさまには言わずにいたのですが、近くにいた人から聞いて、それはさぞ辛かっただろうなと思いました。しかし、係も考えがあってしているのだろうぐらいにとらえていました。多少変な人・ことがあってもやがて修正されるだろうと、学園関係者全体へのある種の信頼がありました。そのことに全く異を唱えなかった私がいました。

 

 これは、「専門にそこを見ている係に任せる」「人はそれぞれ考えがあってしているのだから、余計な口出しはしないでおこう」というような「任し合い」の負の側面があります。

 あえて身近な例に触れたのは、決して特殊なことではなかったからです。学園や学育の掲げる方針に適応できる子は、紆余曲折がありながらもやっていけるのですが、適応できない子への扱いは、かなりお粗末だったと思います。

 これは、自らの意思で参画した親にもあてはまることで、実顕地が掲げる方針をすんなり受け入れることができれば、それなりにやっていけるのですが、その方針に抵抗のある人への対応の仕方次第では、心身ともに大変辛かった人もかなりいると思います。(これについては私自身もかなり関わっていて責任のようなものを感じています)

 もちろん、どんな社会組織にも適応できない人は出てくるかとも思いますが、皆が幸せになることを願っている実顕地らしい対応の工夫・試みがあって当然だと思います。

 だが、自分の意思で参画してきたわけではない子供たちにたいして、学育・学園では、その方針に適応するような工夫は熱心になされたようですが、適応できない子への扱いに、どのような工夫がなされていたのか心もとない思いがあります。

 

 これは人から聞いた話ですが、学園のことについて世間的に取りざたされた頃に、各実顕地へのアンケート調査を三重県が行い、実顕地によってなぜこんなに差があるのかということに、担当官が驚いていたそうです。

 いくら管理システムが整っていても、実顕地をつくっていくのは、そこで暮らしている一人ひとりの村人であり、各実顕地に異いがあったと思います。特に、学育・学園については、そこを見ていく人の資質による影響が大きいですから。

 この論考(三)は、主に豊里実顕地での見聞に基づくものです。他実顕地に比べ規模もかなり大きく、大層な影響力もあり、全体を見ていく本庁機構の中心になってすすめている人の多くが豊里の村人でもあり、それに基づいています。各実顕地を見ていけば、それぞれの違い、特色もあったと思います。これは実顕地を語るときに大事なことだと考えます。

 

 山岸巳代蔵は、実社会の中では三十戸単位の一体生活体を生み出し、それをヤマギシズム生活実顕地と銘打つと考えていたようです。私の推測では、顔の見える範囲で、そこの構成員の話し合い「けんさん」の一致点によって実顕地をすすめていくことを考えたのではないでしょうか。初期の実顕地誕生もそのように展開したと思います。

 私の印象では、豊里実顕地の影響力が大きく、そこをモデルにするような面もありましたので、学育に限らず実顕地ごとに特色を発揮できるあり方は望ましいと考えています。

 それと、学育・学園で共に育った人たちが、同窓生というよりも、実の兄弟、姉妹のような関係を現在も保っている人も多いのではないかと思っていて、このことについても解明していきたいなと考えています。

 

 村岡著の第4章 <学育>の挑戦とその弱点(p71)と第7章 成長が招いた「逆風」(p157)などで,学園のことについて、元学園・学育係りの著述や聞き書きを取り上げていますが、現在精神的な困難をかかえている当事者やその近くにいる人への話がほとんど出てこないように思いました。私からみたら、元の学育・学園関係者が当事者の気持ちを理解できるとは思えないです。学園を中心になってすすめてきた人の理論提供者と現場の「ズレ」の発言(p105)には唖然としました。それを反省と言うのだろうかと。

 そのような聞き書きを集めても当時のことはほとんど分からないだろうと思います。

 何も実顕地非難目的のネットワークなどを取り上げなくても、各地で試行錯誤しながら活動をしている元学園生や実習生を幅広く取材したら、その頃の学園のありようは容易に分かると思います。そこでの聞き取りや視点が感じられず、多くのことを現実顕地の村人や元学園・学育関係者からの聞き書きで構成されている印象があります。幅広く取材し、優れたところ、間違っていたところなど、いろいろな角度から見てほしいなと思います。

 社会の子どもとして、一人一人の可能性を伸ばすようなことを、どこまで考えているのか。

 実顕地に適応できない子どもたちにどのような道筋を用意しているのだろうか。

 現実顕地が「専門分業」「任し合い」というものをどのように考えているのだろうか。

 などの考察は、実顕地や学育の現状をより豊かにするためにも大切ではないかと思います。

 

(四)大量の実顕地離脱者と、その頃の経緯

 村岡著の第7章の成長が招いた「逆風」の4で杉本利治氏に触れています(p164)。私は経営や人事的な役割を担っていたこともあり、比較的杉本氏と触れ合う機会が多かったです。その人柄などに親しみすら覚えています。実顕地造成には命をかけていらしたことも認めますが、実顕地の数々の酷い問題を起こした責任は当然大きなものがあります。

 この章の2(p161)で取り上げている1997年に起きた税務調査の聞き取りが契機となり、杉本氏も中心となって進めてきた運動のすすめ方、経済活動のあり方などに、甚く反省され大きな責任のようなものを覚えたようです。その後、かなり欝的な状態になり、毎日のように集っていた各部門の経営を見ている人たちとの研鑽会では、自ら発言することなくほとんど身を引いていました。私らの問いかけにも「皆で考えて進めてください」というような発言が耳に残っています。それまでの影響力が大きかったので、精神的なショックもあり、おそらく杉本氏なりの身の処し方だったと思います。

 この辺りのことは、杉本氏と一緒に税務調査に関わった人や当時の経理や豊里各部門の経営を見ている人らに取材をすれば、ある程度見えてくるのではないかと思います。

 

 そのような経緯があり、実顕地のありかたについて有志で研鑽や検討する機会が盛んになりました。一つの大きな動きとして、試験場と研鑽学校を実顕地の運営から切り離し、それ本来の活動を展開するように位置づけ、そのような仕組みに変えていきました。その後、試験場に配置された人が中心になっての研鑽会が盛んになり、そこに参加する人が増えていくと同時に、現状の実顕地に対して疑問を呈する人、批判をする人が増えていきました。

 その動きに対して、実顕地の運営を進めている人たちから、実顕地を批判するような研鑽会は認めるわけにはいかない、そんな研鑽会は実顕地の外でやってくれとなり、疑問を感じた人から離脱が始まりました。この一連の動きにともなって、私も研鑽学校の配置となり、豊里から研鑽学校のある東部実顕地に移住し、そのような動きの渦中にいました。

 それ以前に、「村から街へ」の拡大の動きがあり、それまで各部署で中心になって活躍していた人などが、実顕地を離れて各地で活動をはじめていました。その動きのなかで、実顕地のあり方に疑問を呈する人も少なからず現われて、併せてそれまで実顕地のすすめ方、学園のあり方、子どもの扱い方などに疑問や不満を抱えていた人も加わって、2000年以後の多くの離脱者に繋がります。

 

 杉本氏を批判する人はいましたが、そんなことはほとんど問題にならなかったです。杉本氏の影響力は大きなものがありますが、私も含めて、そこに同調した多くの人たちで実顕地を造ってきたのですから。

 多くの離脱者については、「何故実顕地にとどまって一緒に考えていかないのか」という意見もありました。各部門をすすめていくような立場の人もいたので、村人の中にはよく意味合いが掴めなかった人も多いかと思います。

 私も実顕地にとどまって一緒に考えていくことが大事だと思いましたが、いろいろな事情で、結局離脱の道を選び、そのことは個人的にはよかったなと考えています。

 離れた理由は、一人ひとり違うし、その後の動きも多様だと思います。よく鈴鹿グループとか言われますが、グループに参加して地域社会づくりに気をおいている人もいれば、距離をおいている人、ほとんど関心を示さない人など様々です。安曇野では元学園生や青年参画者(現在は40歳台)が地域社会の人々と共に「農に生きる仲間たち」の試みを続けていて10年以上になります。熊本には会員さんたちによる互助的な地域があり、そこにも実顕地を離れた知人数家族が暮らしています。また、FさんのようにHPを通して発信したり、いろいろな試みをしたりしている人もいると思います。

 私自身は、どこで何をしていようと、一人ひとりとつながっていきたいと思っています。

 実顕地の可能性に注目するといっても、村人一人ひとりのありようで、つくられていくのではないかと思っています。ですから一人ひとりを大切にして、交流していきたいと考えています。実顕地に暮らすとか離脱したとかに関わらず、研鑽会などで一緒だった会員さんなど、何人かの知人には、触れ合う機会があると、懐かしさ以上の親しみと安心感を覚えるのも、どのような心の動きなのだろうかと考えたりします。

 

〇おわりに

 村岡著やFさんのHPに触れて、私の離脱前後の実顕地について語っておくことも大事かなと思い述べてきました。実顕地について語ることは、同時に私について考えることにもなりました。二人の論考が契機になり、ありがたいと感じています。

 山岸巳代蔵についての資料はかなりあるのですが、実顕地に関してはあまりないこともあり、ほとんど記憶に頼って書いてきました。勘違い、とらえ違いなど多々あると思います。

 この論考を手始めに、さまざまな角度から考えていきたいなと思っています。

「ある場所に自分の足で立てるのはいつも一人だけだから、孤独ではある」。そして、その立っている場所は、自然界を含めて様々な要因、縁などが重なり合わさって形成されていて、社会に支えられて自分の足で立つことができるともいえます。そのようなことも含めて、社会のあり方や、地域社会のさまざまな試みなどに関心を寄せています。今回はこれぐらいにしておきます。 2013年5月6日 山口昌彦記