広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎指向性の強い観念と実顕地のこと

〇ブログの『野火』(1)についての感想で次のことを書いた。

「極度に(観念が)肥大したということは、本来的に持っている感覚機能を鈍らせ、素朴な感覚とはなはだかけ離れたことを考える可能性もあるということになる。さらに生まれつき持っているだろう、よりよく生きたいと本能的な欲望もあり、自分に納得いくように、ときには強引に捻じ曲げてでも、自分の気持ちが収まるように、ものごとを解釈することになり、それを当たり前と思うようになる。それに付随するように感覚も変化していく。」

  そのとき、私が所属していたヤマギシズム実顕地のことも思っていたが、別に取り上げたほうがよいと考え、それについて書いてみる。

 ヤマギシズム実顕地に限らず、理想を掲げ、その実現のため組織を作りあげてきた集団、政治結社、共同体などは、その集団独自の表現の体系を作りあげることになりがちである。

  特に実顕地では、その中でしか使われないような独特のことば使い、表現の仕方が随分とある。

 幸福研鑽会、提案と調正、私意尊重公意行、自動解任、腹の立たないのが本当、本当の仲良し、真の幸福と幸福感などなど。

「正しい、本当の、真の」というような意味あいのことばをつけたような表現が多い。

  実顕地に参画するときの誓約書は、「最も正しくヤマギシズム生活を営むため,本調正機関に参画致します。」からはじまる。

 どのような組織であれ、様々な調整は行われるだろうが、それを「調正」と称して、調正機関、提案と調正、結婚調正など実顕地運営の根幹をなすものになっている特色がある。

 私たちは、ある事象について、それは「正しい、間違い」と評価をすることが結構ある。

 しかし、数学の公理、定理、あるいは法や規則などの人による公になったような決め事については、正・誤の判断は成り立つが、ある事象の価値判断としての正・誤は曖昧であり、その基準は、時代や地域あるいは人それぞれによっても、全く違った捉え方になったりする。

 ある事象について、「正しい」と判断するとき、「それは自分にとって心地いい」と言い換えてもいい場合が多い。その方が精神的には安定するので、それを安易に求めてしまう。

  普段の生活の中で、だれかに対して「それは間違っているよ」と注意したりする。その「間違っている」を、「おれはその態度が嫌いだ」と言い換えてもいいぐらいだ。「正しいよ」と言ったりするのも、「俺はその思い方が好きだ」と思っている場合が多い。

 「正しい・間違い」は一つの価値判断であり、「好き・嫌い」は個人的な感情、感覚である。あえて「正しい・間違い」というとき、他者に同調を求める指向性が強いことばにもなる。

 実顕地でよく使われる「~が本当」との表現も、それ以上の同調を促す指向性があった。

  ヤマギシズム社会の入り口である特別講習研鑽会の力を注いでいる研鑽事項に「怒り研」がある。それぞれの事例と向き合い続けることで、随分つまらないことで腹を立っている狭量さバカバカしさを見ることになる人もいて、特別な印象を残す参加者も多い。

 それが、「腹の立たないのが本当」という表現になって、腹の立つ自分はおかしいのではないか、間違っている、腹が立っている人を見て困ったものだなと思うなど、実顕地参画者の観念として、実顕地の目指す方向への強い指向性のある認識として機能することになる。

 「怒り」はそれぞれの個人的な感情であり、濃淡の違いはあるが、本当も「くそ」もないのである。人によっては、エネルギーの元ととらえている人もいて、そのような傾向の人もいるが、エネルギーの出方も一人ひとり違い、怒りはどこまでも個人的な感情にすぎない。

  しかし、今の自分の身についている感覚、感情と向き合い、揺さぶりをかけ、様々な思い込みの水ぶくれで鈍くなっている感覚を研ぎ澄ませていくことは大きなことだと思っている。

 

 次に、実顕地の目指す方向への強い指向性のある言葉として、「提案と調正」「私意尊重公意行」という運営の根幹となる表現に触れる。

「私意尊重公意行」は実顕地独特の言葉である。

 おそらく、理念提唱者の山岸巳代蔵がそこに込めた意味合いは、一人ひとりの意思を尊重し、研鑽の持続で、公意(だれもが納得するような一致点)を見出し、まずはそれで実行し、さらに繰り返し研鑽で確かめつつ、よりいいものを見出していこうという意味あいである。

  その言葉は山岸自身の問題意識を背負っていると思われる。その発した言葉の奥底の心や問題意識まで迫っていかないと、その隠された大きな意味をとらえることが出来ず、浅薄なとらえ方に陥ってしまう。実際このようなことを実現するのは容易ではないと思う。

 

 私が所属していた頃の実顕地では、個人の意思は一応大事にしますが、実顕地のあるべき方向で、それに相応しい人たちで考えるので、その判断に任せて、出た結論に従ってください。というような感じだった。

「提案と調正」も、共に同じ土俵でとことん話し合い検討するというよりも、提案する人と調整する人とにくっきり分かれていて、結局は調整する人にお任せするというような「調正」の意味とかけ離れたものとなっていた。

 このようなことになっていたのは、専門分業の「任し合い」という考え方もあるだろう。

  他の部門の人たちの言動について違和感を覚えても、ことさら異を唱えることを控える。あるいは、何か深い考えがあってそうしているのだろうと、実顕地の目指している方向や中心になって進めている人たちへの根拠のない信頼などが、「任し合い」の負の要素を引き出していたと思われる。

   また、自分たちはかってないような素晴らしいことをしているという根拠の全くない倨傲などもあり、実顕地独特の観念にくもらされて、個人的な感覚や感情による違和感を覚えたとしても、積極的にとことん疑問を解消しようとしない体質もあったのではないだろうか。

  勿論すべての人には当てはまらないが、特に積極的に運動を進めていた人、調正を担っていた人に、目立つ傾向であったように思っている。私のことを振り返っても。

 

 実顕地について述べてきたが、理想を掲げた集団や政治結社の多くに、あるいは「反戦使い」にすら、多かれ少なかれ共通した体質を感じるときもある。特に大声で自説を叫んでいる人を見ると、いたたまらない気持ちが出てくる

  その組織特有の表現、言葉を使うことによる、意識、認識過程の変容と、それに伴って、その組織の進む方向に合わせたような感覚になっていくこと。

 ことさら「正しい、本当の、真の」というような表現を多用し、その集団独自の表現が目立つと、内容を吟味する前に嫌な感情が出てくる現在の自分がいる。

 

【参照資料】

◎「けんさん」は、「本当はどうなのか」「もっと考えられないのか」「間違っているかもしれない」という疑問の持続という側面をもちます。今まで常識とされていたことに対しても、自分の観方・捉え方に対しても厳しい問いかけが続くという自覚がいります。山岸が理想社会実現の方法として、「けんさん」方式を基本としたのは卓見であると思います。

 だが、ヤマギシ会に深く関係した人達の中には、この研鑽という言葉を、「少し考えておく」とか、単なる打合せに、「研鑽しよう」と使っていて、その集団内だけでしか通用しないような使い方をしていました。そのために、研鑽ということばに食傷を感じている人も少なからずいました。私をはじめ実顕地にくらす人々が「けんさん」の本質をどこまで掴んで自覚していたのかと自問してみると、かなりの疑問符がつきます。

 

 鶴見俊輔氏の考察に「言葉のお守り的使用法」があります。(「言葉のお守り的使用法とは、人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場を守るために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事の上にかぶせたりすることをいう。このような言葉のつかいかたがさかんにおこなわれているということは、ある種の社会条件の成立を条件としている。もし大衆が言葉の意味を具体的にとらえる習慣をもつならば、だれか煽動する者があらわれて大衆の利益に反する行動の上になにかの正統的な価値を代表する言葉をかぶせるとしても、その言葉そのものにまどわされることはすくないであろう。言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとり能力がひくいことと切りはなすことができない。」とし、

  お守り的に用いられる言葉の例として、「民主」「自由」「平和」「人権」などを挙げている。

 

 実顕地でいえば、「研鑽、一体、調正、本当の仲良し、~が本当、私意尊重公意行、理----」などがあります。その言葉をお守りのように身につけることで、あたかも自分が体得しているかのように錯覚し、その言葉や表現を用いて論をたて人々の説得の道具にするような使い方をしている人、が少なからずいたのではないかと思っています。

  実顕地の中で日常的によく使われる言葉は研鑽と研鑽会でした。それは次のように使われていました。

 「研鑽したの」「研鑽会で決まったよ」「研鑽しておくね」「研鑽してないでしょう」とのように。このような表現そのものが「けんさん」の本質から逸脱しています。

  言葉というものは、その意味するところの奥に、それを発している人全体の世界を抱えている場合があり、「けんさん」「無我執」「自然と人為の調和」あるいは、「最も相合うお互いを生かし合う世界」「やさしさ一色のけんさんで、みんなの仕合せの世界を作ろう」「みんな好きや、仲良ういこうな」などの言葉・表現には、山岸自身の心や問題意識を背負っていると思われます。その発した言葉の奥底の心や問題意識まで迫っていかないと、その隠された大きな意味をとらえることが出来ず、浅薄なとらえ方に陥ってしまいます。

(「ヤマギシズム実顕地について思うこと」より)