広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎徴兵検査をうける。(新・山岸巳代蔵伝④)

第二章 人間の生活は一生を通じて遊戯であり

1 何しにこんなところへ来んならんかな
 一九二一年二〇歳の時に、郷里に帰って徴兵検査を受けた。検査場は近江八幡、検査の結果は乙種であった。それに関して語っている発言は山岸らしいものである。

《------もうとにかく、そういうことにかまっておれなかったわけで、髪もぼうぼうとして伸び放題で行ったわけなんです。それから、ちょっと気にさわったらしいんですな。私は何でもないことを言ったんですけども。
「何しにきたんかな」それから、まあ隣の人に
「何しにこんなところへ来んならんかな」こう言ったわけなんです。

 私、ああいう空気あまり知りませんからね。検査場へ行きましてね。そしたらあれ軍曹ですか曹長ですか、何やちょっとこう、ちょっとこうあの金筋のついた兵隊さんが、それがね、えらいこと私に言うんですな。まああんな言葉、ちょっと失敬なこと言いよるんですな。「お前ッ」ちゅうんだ。「お前ッ、そんなこと言うとると」、何とか言いよったぞ。非常にその何ちゅうんですか、私に親切な言葉かも知らんですけどね、つまり「損やぞ」ということを言うんやね。

 それから目方のこと、ちょっとやられたんです。しかし、私は目方のこともそんなことも、通して貰おうという気がないから、……かまいませんよ、そんなもの。といって、あの当時徴兵忌避に無理に痩せたのがあったそうです。しかし、そんなもんでもない。わざわざ痩せたもんでないんですがね。そこへぴったり向こうの目と合ったわけなんです。で、そういう点で、非常に叱られたわけなんです。

 えー、叱られたこと二回覚えておりますが、それ以前にも一回叱られたことございますが。まあ叱られたのは、子供のうちからその二回くらいかと思うんですけども。叱られた時、とてもきつくこたえましたが、つまらんこと言いよる奴やなと思うてまして。そしたら、またもう一つ怒ったけど、これはやられなかって、まあ後で友達が言ってくれたんですけどね、「よう無事にすんだなあ」って。それから司令官の前に出た時に、さすが何とかいう、大佐でした。「糸のように細いな」とこう言うて、言われただけでね。別に何でもなかったですけどね。

 そんなことございましたが、要するに、非常に、その当時は今よりもっともっと身を削っておりましたからね。まだまだ私は自信があるんです。

 会員の方が非常にご心配いただくんですが、まだ死にませんし、声も出ますよ。
 先ほどから、しかし……声はね、これおかしいんですね、自分で調節する場合もあるんです。まあ今日なんか多少そういう傾向もあるんです。今日おしゃべりしたいから、なるべく節約しておいたということもございますし、それからね、気がすすまないともう声が出ないんです。パッと詰まってしもうて声が出ない。こういうこともあるんですがね。まあまだまだ、まだまだ自信あります。十一貫五百までぐらいはいけるんです。そういう経験持っておりますから。その当時真剣に取り組んでやったのは、やはりこの……社会なんです。

 なぜこんなつまらんことやるかと、子どもの時からおかしな……なんと言いますかね……まあその当時は反逆になるんですけども、既成社会に対して、その当時の社会に対して、おかしい思うたんですな。
 それで、むろん友達がなかったんです。ずっと友達がなかったんです。親とも離れておったんです、事実。で、親達は、私の言うことは「分からん。この子の言うことは分からん」と、こう言うんです。また友達ともどうしても妥協がないんです。今はもうこんなに年も……「老体」というのは情けないね、まあだいぶ世間慣れてきたんですか、多少妥協的な点があるんですがね……その当時からずっと、この絶対妥協がなかったんです。それで非常に淋しいんです。まあ自分で淋しいと思いませんがね。しかし形の上で友達がなかったんです。で、何が友達かというと、こういうことやってたわけなんです。

 まあそんなことやって、やればやるほどやらねばならん。こういう形になりまして、いろいろ面白いところも歩んで参りまして、まあ一つのものを見つけ出したわけなんです。
 しかしその当時はね、おかしいことにはね……もう今ありがたいんですけど、こういうこと言えるようになったんですがね……非常に面倒なことが起りまして、事ごとに圧迫受けたわけなんです。

 ところが、人間の社会で出来ることを鶏に応用してみようかと、こういうことを感じたわけなんで。ある機会があったんですがね。その時から、もうちょっと面倒だから、とても……そういう交友関係のところ訪問してもすぐ面倒な問題が起ったんですから、とても面倒で、それで鶏を取り上げただけのことなんです。

 自分が思うておることを鶏に実験したことなんです。それを今度はおかしな回り合せになりまして、ちょうど百姓……まあ誰も百姓するつもりもなかったんですけども、百姓やりかけた時に、ごく近いんで二四(昭和二四・一九四九)年でしたか、頃に、一旦やめた鶏をまたやりかけた。百姓をやりかけて、その必要上、鶏を入れたということなんです。

 こういうわけで、やはりもとは本当の世界、これを究明して、それの実現を願っておったんですが、その当時は容れられなかったから鶏に応用したと。その鶏を、それも出すつもりはなかったが、取り上げられたんです。それが拡がったと。そうすると、会が出来たと。この会も作る気はなかったんですが、会が出来たと。その時に、やはり本当のものを出しておかないかんというのを……。会の本当の、私の願っておる、目指しておる、そういうものを一端書きとめまして、それから、この精神でこの養鶏はやらねばならないと、成功しないということは最初に、これは発表したわけなんですが、どうも私達がそれを徹底さすだけの充分の準備が出来てなかったために、取り上げられたものは、うわべの――その当時行われておった、今でも多いんですが――損する養鶏なんです。本当の精神の入ってない、形の上で表れた、ただ鶏に餌をやって卵産まして、少しばかりお金儲けてあと損すると、こういう養鶏と同一に見られたわけなんです。

 この養鶏は全然出発が違うんです。組み立てが違うんですが、しかし、それと同一に見られたわけなんですから。それで、そういうふうに見られたが故に、養鶏の、損する養鶏に、損する養鶏にと、こう持っていってしまわれた。
 ところが、やはり全国的にそういう損する養鶏が拡まっていく姿を見まして、やはり気づいた方がたくさんあったわけなんです。これではいかん。私もやはり、今日、この養鶏技術、損するような形のものを出すことは非常にたくさんの人に迷惑かけると。こういうこともいよいよ私自身に分かってきたわけなんです。それで再び、もう技術はこのくらいで止めておいて、それから損しない本当の養鶏法を知っていただかねばならん。それで非常に線が濃くなってきたわけなんです。(以下略) 
 (「第一回山岸会特別講習研鑽会〈記念講演〉」から抜粋)


 後から振り返って、他の人に自分自身の体験を語るときや公に発表する場合は、どうしても物語化してしまう。そこで受け取る側としては勘案しつつ読み込むことが必要だが、この徴兵検査の話とその後養鶏に携わることになったことに関しては、おそらくこんな調子ではなかったのかと思われる。

 一九六一年の巳代蔵生家訪問時に、巳代蔵について千代吉夫人は、
「冬になってもタビもはかず、人間はどこまで辛抱出来るかと行をしてたらしい」、
「深草練兵場で弾丸背負いの演習見て、自分でレンガ背負って這う稽古していた。用心深い人やった。うちの人が召集になったとき送っていって、『千代の顔をよう見なんだ、可哀想で』と言って帰って来た」などの話をしている。

 これらの話から、徴兵については否定的であるが、様々な面で鍛錬を試みる山岸の気質からして、そうとなったら一つの辛抱の機会ぐらいに思っていたのではないだろうか。

 一九二二年になると、それまでに見つけ出した社会組織のあり方を鶏に応用・実験しながら検討するために、郷里に帰って人工孵化を養鶏未開地滋賀県で始めることになる。

 本来の仕事としていた理想社会の究明を続けながら、仕事も生活も悠然としたものになっていった。次に掲げる文章は山岸の本性の一面が現れていると思われる。


《人間の生活は一生を通じて、遊戯であり、私は自分を自分から離して、例えば芝居の登場人物を、客席から観る態度で、眺め、楽しんでいますから、喜怒・哀楽・不遇・得意の感情に冷淡な訳で、儲かってもそれ程嬉しくないし、損しても他所事のようです。

 徴兵検査の時、厳めしく威張って、上官だと思っている人の前でも、或は子供の時に大人が目に角立てて、私に怒っている顔を見ておかしくなり、自分を忘れてクスリッと笑って、一層ヒドク怒らした記憶があります。

 養鶏も、農業も、本来の仕事の方も、凡て芝居であり、遊びであり、生きている間のなぐさみで、楽しい一つの踊りに過ぎないのです。
 養鶏を職業とした時代でも弄び的で、飼養法にしても、鶏種にしても、いろいろ建てては壊し、積んでは崩し、組み変えて試る癖が抜けなかったのです。

 養鶏を甫(はじ)めた当時から、一定の師が無く、型がなく、珍しい鶏種を手に入れ、観賞・観察し、文献を漁り、種々の交配を試みたうちの一つが、この交雑種です。

 名古屋種×黒色ミノルカも、ゴールデンネックに似て、眼が美しく、アンダルシャン(白ミノ×黒ミノの永久雑種)が一番好きで、灰色の夢のような可愛いヒヨコを見ると心がうずき、小羽数を永年愛育したこともあります。

 山岸三号種は、横斑ブリマスロック♀×ロードアイランド・レッド♂から出た一代交配雌ゴールデンネック×単冠白色レグホーン♂から生まれる近交系三種間交配雑種で、二十年近く試育し続けた実用食卵鶏です。以下略 (『山岸会養鶏法』「山岸三号種について」)》
 

 この頃について千代吉は、一九六一年の訪問時に場所を案内しながら、
「ここで育雛をはじめた。この辺にバラック建ててはじめた。二人で建てたもの。壁の外の板はトロ箱の板にした。最初はトロ箱と紙貼っていたのだが寒かったので壁塗った。トロ箱を大事に使った。釘抜いて伸ばして大事にした。蝶番(ちょうつがい)も釘や針金曲げて作った。
(兄は)勉強もだけどいつでも考えどうしやった。自転車でもゆっくりこいで考えていた。八日市の方へ卵持っていったり、餌取りに行ったりしていた。羽数は二千羽くらいか、最高三千羽だった」と語っている。

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「引用文献」
・「第一回山岸会特別講習研鑽会〈記念講演〉から抜粋」→『全集・第一巻』(一九五六年一月)
・『山岸会養鶏法』「山岸三号種について」→『全集・第一巻』(一九五五年七月)