広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

福井正之さんと「元学園親との対話から」(ヤマギシズム学園考29)

③ わが子との対話から始まる
元学園親との交流を企図してそんなにも経っていないのですが、これはなかなかどうして至難の業だなあというのが今の感想です。何とか連絡が取れ、懐かしいお話はできますが、その先の事実実態の究明まで行ける例はやはり少ないと言っていいでしょう(私の方の物理的訪問能力もありますが)。その想定はhp発足時からないわけではありませんでしたが、それが極めて自然必然的なことだと今さらながら納得です。はっきりいって私の<自責の念>などは、お呼びじゃなくてまったく当然なことなのです。自己責任の総括によって解決済みということでしょうし、今さらヤマギシについての古く暗くもある過去を引っ張り出して何になるのか、という思いもあるだろうと思います。

このことの実際的な背景として、離村時における重要切実な「生活援助金」、あるいは財産返還をめぐる係争問題は、ほとんど本庁との個別対応という方式によって解決済みであり、すでにそのピーク、タイミングを過ぎています。(このテーマからは少しずれますが、ジッケンチの過去の問題点として、これまでの事故や不祥事に触れてみようとすれば、そこには金に糸目をつけない本庁の<不都合な真実>の隠蔽の痕跡を感じるときがあります。しかし個人情報保護の名目のために、想像や噂の次元を越えることは容易ではありません)

そこで私としては意識的働きかけよりは、<求められての>自然な交流の時期を待つしかありません。もちろん「ジッケンチ・学園とは何だったのか」というテーマに沿っての交流の扉はずっと開いておくつもりです。
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残されたというか、実は最初から気になっていたのは、子どもらの育ちの問題でした。「結婚しました」「子どもらは元気にたくましく育っています」はたしかにそうでしょう。しかしそうでなかった悩みの時も、普通一般子どもらとは違った形で、現われたこともあったのではないでしょうか。これらの内情は幼年部というより、親の参画により子どもが長年学園に在籍した場合に、様々な問題状況を表わしていたと推測されます。その中には深刻なものもないとはいえないでしょうが、たとえ学園に批判的であっても、即、表に出せないこともないとはいえないし、またそういう交流の場もありませんでした。

その問題状況が想定されるのは、本hp<論考>へのyさんの投稿にもありましたが、学園の目標・方針にそれなりに適応できた子はなんとかやってこれたとしても、不適応の子どもらへ扱いは「かなりお粗末だったと思う」という指摘に関わる問題です。発足当初は幼年部、高等部はいわば少数精鋭で、環境設備人材も充分用意できていたようです。ところが親たちの大量参画が軌道に乗るや初等部、中等部学園の設立とそれへの大量入学の流れができてきました。それに伴って<不適応の子どもら>は増えていったと思われます。

それへの対応・対処として、私など拡大現場にいた人間には学園の内情はあまり知らされず、「子ども研鑽会」という考え方が有効だと考えていました。しかし、そういう場で考えられる子どもらの層は少なくなっていった、あるいはそういう研鑽会を成り立たせるためにも別対処が必要な子どもらが増えていったと考えられるのです。この背景には親子の問題を抱えたままの子どもへの親の叱り、ごり押しもかなりあったでしょう。そこでは、私などもその考え方の普及にかなり尽力した「分類の子育て」(親子対等観の克服を意図した)の考え方がマイナスに作用したケースもないとはいえません。

そのためある意味では必然でしょうが、そういう子らへの言葉は悪いが<力による圧伏>が行われたこともままあったのではないか、と考えられます。それがいわばのちに「係の暴力」としてマスコミの指弾を受けることにつながっていったのではないか。これらの情報は、子どもをほとんど学園や係り任せにしていた親たちには寝耳に水なショッキングな話であり、改めて子どもらに確認して真実を知るなど、のちの大量離脱の引き金の一つになっていったと考えられます。同時に学園の体制についてもいささか尋常ではない状態についての情報も少しずつ入ってきました。
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このことの最も身近な証人は、やはりわが子です。私はまず自分自身の<トラウマ>払拭のために、あれこれ自己哲学してきましたし、またそれに必要な身近な旧同志や知友との交流も少しずつ回復してきました。そして今回のような元学園親との交流です。しかしそれはいわば大人たちの<トラウマ>払拭がメインの課題でした。それで子どもらのことを考えながらも、そこに届かないもどかしい思いが続きます。しかしそれは交流という観点からだけのことで、もろヤマギシ学園体験の当事者はわが家の一員として生きているのです。

その子どもらのことを考えれば、いわゆる学園後期ほど<良い子>になり切れない子どもらがかなり出ていて、<村>を出て後も<何であんなところへ入れたの>という親子間葛藤が現出した可能性は充分あります。その葛藤は次第に断続しながら払拭されていきそうですが、親=大人よりはずっと長く深くその子の人生に利いていくようにも思われます。場合によってはその子の人生観形成の重要な柱になりうるかもしれません。これは直接伝聞したとかでなく、現に30代後半から40に入りかけのわが子2人と私ら親とのこれまでの長い葛藤と和解の断続という歴史に徴して明らかです。その大勢は親子間の親愛の情の取り戻しに費やされ、世間よりはずっと遅れた時間を経過してはいますが、ようやく家族らしくなってきたなあという感慨もないとはいえません。

つまりそれまでは自分の思い込み以下で、<良い親>になり切れていなかったわけです。私は「学育外論」において、<子どもらの反発は係りが主で、親には向いている感じではない>と述べましたが、のちになって子どもらにもう少し内情を聴いてみると<本当に助けてほしいときに親に説教され、その親にかえって呆れていた>というのが真相のようです。そのことで子どもらはかえって 「捨てられた」と絶望することになったかもしれないのです。まったく慚愧に堪えないことですが、こういう親失格は親子の真実についてより深く考えてみることもなく、理念の命ずるままに安易に(そこに私たち親のテーマが凝縮してあるようです)子どもを離す時点から始まっていたのではないか、とザクリと思い返されてしまうのです。ふり返ってみれば私は最初の小説「面接」と「息子の時間」において<良い子>になり切れない「大人」と「親」を描いていました。

本庁や学園関連の<不都合な真実>は隠匿可能かもしれませんが、こういう家庭・家族における親子の<不都合な真実>は、ずっと火山のように休火、死火することはありません。その観点からすれば、私は今頃になって<自責の念>を放棄し<良い子>になるべく努めているようですが、子どもらに対してはそうはなり切れるはずはありません。そういう子どもらへの慚愧の念から、改めてわが子と向き合い、その思いをじっくり聴いて対話してみることがとても大事なことだと思います。それが可能になった親子共の<村外>離脱によって、親子間の心通うつながりが回復できた経験は、私どもだけではないはずです。 今ではかなり豊富な事例があちこちにあると思います。こういう親子間の体験的真実についてこそ交流すべき本質があるのではないでしょうか。<交流>というより、表わすことで心を通わすというのか・・・

さらに前述のかつて猛威を振るった「叱る子育て」の見直しとして、「叱らない子育て」や「おもしろ」子ども塾の実践が元参画者から生まれています。このことは現ジッケンチにおける楽園村復活の動きに対して、確実にその<次>が始まっていることをお伝えできることだと思います。
(2013/7/6)