※➀を投稿後、様々な方からコメントや個人的なメールをいただいています。
それらを読むと、決して過去のことではなく、いまに至るまで悶々として方も多く、身につまされる話もあり、こうして記録に残しておくことは大事だと考えています。
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〇様々な思いをもっている方からの投稿も続いている。忌憚なくいろいろ思っていることを出し合いながら、それぞれの今後に生かせていけたらいいなと思っている。
いくつか思っていること挙げてみる。(※私が在籍していた2000年頃のこと)
・究明、検討の中途半端さ:「子どもを叱る」というテーマや「怖い人」の存在も大きいなど、どのような考え方から出てくるのか。実行段階に入るまでに、種々の角度からの究明、検討が必要だが、特定の人の意見に左右されて、子ども達に関わっていこうとする皆のなかでは、どうだったのだろうか。
・検証や慎重な配慮のなさ:とりあえず実行段階に入るにしても、やってみてどうだったのか、きめの細やかな観察、配慮、検証、見直しが欠かせない。成長段階にある子どもたちを託されているのであり、これが肝心だと思うが、学園によってはほとんどなされていなかったのではないか。
・第三者による監査機能が全くなかった。:これは学園に限らず実顕地全体のテーマだと思う。中心になっている実顕地、人に聞いていくというか階層構造は強いものがあったが、実親や第三者に確かめていくような気風はなかったと思う。「かってない新しい社会、どこにもないことをやっている」という根拠のない自負からの傲慢さからくるのだろう。
・集団のもつ危うさ:「各人の行為は集団の意識によって制約され鼓舞される。」
上記の言葉は大岡昇平『俘虜記』「捉まるまで」にある。少し飛躍するかもしれないが、集団のなかの個人のあり方を考えるときに、とても参考になる知見だと考えている。
このことは鶴見俊輔が実験地のもつ危うさに触れている。
※(2016・3・16)のブログ「集団のもつ危うさについて」のなかで触れた「ヤマギシズムの本質を探る」(『ボロと水』第1号)に掲載された鶴見俊輔氏の発言から。
鶴見:「集団には集団の限界がある。集団は自然に集団の暴力性ってのを持ちやすいんだ。つまり強制するっていうかな。集団の多数による強制って、出ると思う。そうするとね、考え方の枠が決まっちゃうの。ちょっと違う考え方をしようとする人間を、何となく肘を押さえる形になって危ないんだ。それはね、その集団のいき方は間違いだっていうふうなことをいい得る強い人間をつくらなくなってしまうわけよ。だから集団だけに固執するとすればよ、だんだんとより多くの集団である国家に閉じ込められちゃってね、国家が「中国と戦争しよう。これが自由のためだ!」といえばね、集団だけに慣らされた人間はね、山岸会員であっても、のこのこと一緒にくっついていくような、去勢された人間になっちゃう危険性がある。」
W:「でも個人の意志が尊重されればね、集団であっても別にかまわないと思う。」
鶴見:「そのところは、とても、非常に難かしいねえ—-」
「集団は集団で暮らしている中に限界があるので、個人でなければやっていけないような、つまり、集団から離しちゃう個人というのを、繰り返しつくって、個人でも立っていけるような人間っていうのを、繰り返し突き放してやっていかなきゃ—-。春日山でしか生きられないように人間になったら、危ないわね。これは結局ね、日本の政府に飼い馴らされちゃう。」
「だから個人にも限界があるわけ。集団にも限界がある。そういうふうに両義的にとらえて欲しいんだな—-。」