広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

元学園生の手記を読んで 吉田光男(1)(ヤマギシズム学園考18)

○吉田光男さんは、ヤマギシズム学園についてのいくつかの論稿がある。
その中から、Iさんという元学園生の手記について書いたものがある。
二回に分けてその一部をあげる。

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〇最近、ヤマギシズム学園出身者Iさんの手記を読む機会があった。学園についてはさまざまな批判があり、それが何であったのか実態を知りたいとは思っていたが、断片的な情報がほとんどで、学園出身者の生の声を聞くことはほとんどなかった。
Iさんの手記は、私が秘かに推測していたものと一致しており、それだけにこれを学園だけの問題として済ますことはできないと思った。思うにこれは実顕地全体の問題であり、実顕地参画者一人ひとりの問題であり、ひいては教育界全体の問題であるとさえ言うことができる。

手記は、次の一文から始まっている。
「私が小学校4年のとき、一緒に豊里実顕地の学育にいた小学校2年の弟のおねしょがなかなか治らない、ということがあった。おねしょをした朝、弟は真っ裸で学育舎の裏に立たされていて、そんなことが何度もあった。時には、寒い冬の日に、頭から水をかけられていることもあった。私は、すぐ横のニラ畑で収穫をしながら、『また、おねしょしたんだ。かわいそうだな。でも、自分はああならないように、いい子でいよう』と思って見ていた」

 次いで、中学・高校の時の個別研の経験を書く。
「高校1年のとき、豊里実顕地の高等部で2週間の『個別研』になったことがある。きっかけは『こういう服が着たい』と詳しく書いて提案書を出したら、買ってきてもらった服がそれと違っていたので、『こういう服じゃない。他のが欲しい』と言ったら『反抗的だ』ということで、そうなった。4畳半の窓のない部屋で、息が詰まりそうだった。トイレにだけは出られたが、お風呂はようやく5日に一回くらい入れただけだった。部屋には布団と反省文を書くための筆記用具や机があるだけで、隣が係の人の控室ということもあって、いつも緊張して座っていた。その部屋は2,3年生の階にあり、変な目で見られていることを感じていたので、トイレに行くのもとても気まずかった。とにかく、気が休まらなかった。『自分は何が悪かったのか』をずっと考えて、反省文を書いていたが、とにかく早く出たくて、『早く出してもらうには、何を係の人に言えばいいのか』とそればかり考えていた」

「その2週間の後、結局、反省が足りない、といいうことで高等部から追い出され、私は『実習生』になった。実習生は高等部に行っていない子たちの集まりで、村人と同じ空間で生活し、村の職場で働いていた。そこには数人の幼なじみもいたが、私は早く高等部に戻りたかった。『ヤマギシの中で実習生は落ちこぼれのように見られている』という感覚があったし、実際にそういう雰囲気が村にあったと思う」

 この「実習生は落ちこぼれのように見られている」というところは、村の大人の一人であり、間違いなくそう見ていた自分の胸にグサッと突き刺さる。

 私が大田原実顕地にいた時、Y子という高等部生が親元に帰されてきた。Y子の父親は、当時、村の流れに沿わないやや異端の人物とみなされていた。私が韓国の研鑽学校に世話係として行っていた時、彼が学育の係の女性を殴りつけるという事件が起こった。下の娘が叱られて泣いているのを聞きつけ、いきなり部屋へ飛び込んで暴力を振るったのである。私は、研鑽学校終了後すぐに帰国するように、との連絡を受け、爾後の収拾に腐心したが、そのしばらく後にY子が帰されてきたのである。当然のように「親が親なら子も子だ」という空気が醸成され、私も深く考えもせずその見方に同調していた。

 しかし、事情を何も知らない村人が、年端もいかない女の子を一方的に「落ちこぼれ」と看做すことが、どれほどひどい仕打ちであるか、いま思うと空恐ろしくなる。

 当時はそれほど深く考えることがなかったこの事件も、始めは喉元に小骨が刺さった程度にすぎなかったが、年月を経るにしたがってだんだん大きな痛みとして感じられるようになってきた。学園批判が高まったこの十数年来は、自分と自分たちの過ちとしてはっきり認識できる。

 今から40年以上前に、見田宗介氏が真木悠介のペンネームで『展望』誌上に、「まなざしの地獄」という有名な論文を書いたことがある。四人を射殺した永山則夫(当時19歳)の生い立ちに触れて、親に捨てられ読み書きも教えられずに、ははみ出し者・厄介者と見られてきた少年永山則夫が、周囲の大人のまなざしをどれほど地獄のように感じていたかを見田さんは書いている。

「落ちこぼれ」という大人たちの見る目が、どれほど子どもたちを傷つけるか、傷つける側の大人にはほとんど自覚されることがない。いじめや差別に通じるこの見方、感受性の欠如は、私たちの一体どこから生ずるのだろうか。

 Iさんは、先の手記の中で「個別研の部屋から早く出してもらうには、どう書けばいいのか、そればかり考えていた」と書いている。
それで思い出すのは、やはりその頃よく本庁(あるいは学園事務局であったか)から送られてきた「赤鉛筆」という感想文集である。子どもの感想文に係が朱筆を加え、「ここは良い」、「ここは悪いからこう直すべきだ」等、いちいち指示を赤字で書き加えた文集である。
私はこれを読んで「これは何だ、文章のどれもが金太郎飴のようで子どもの本心が少しも出ていないじゃないか」と思ったことがある。しかし、それもそれまでで、感じたことを一歩踏み込んで考えることをしなかった。

 村の大人たちが、そういう文章を読んで不思議に感じないのには、それなりの理由がある。当時の私たちは、実顕地の行うことは正しい、学園は子どもの可能性が開花する唯一の楽園である、と信じていた。いや、そればかりでなく、子どもが係に合わせて作文していたように、大人の私たち自身が物事を自分の頭で考えようとせずに、本庁や研鑽部といった指導的役割の人たちに合わせて考えていた。それがヤマギシの生き方であるとさえ思っていたのである。

 こうした私たちであれば、指導的な人たちの間で対立・抗争が起これば、何を考えるかではなく、どちらの主張が正しいかと、すぐそちらの方向に頭が行ってしまう。そしてそのどちらかに、自分の考えを合わせようとする。
実顕地でやるのが正しいか、鈴鹿へ行くのが正しいか、あるいはこの花ファミリーへ行くのが正しいか……等々。いずれも研鑽の生き方とは懸け離れている。

 話を学園に戻せば、ヤマギシの学育という考え方は、子どもを育てる上でもっとも大事な考え方だと思う。「教え育てるのではなく、子ども自らが学び育つ」ようにする。そのためには大人は、教えない・導かない・枠にはめない・個々の能力が個性に応じて伸びるようにする、その環境を用意し、見守る。これは大変大きなテーマであり、世話をする大人の大変な能力と情熱を必要とする。
子どもは一人ひとり違っている。体力や能力が違うだけでなく、何よりもその一人ひとりを形成する心の宇宙が異なっている。大人ももちろんそうであるが、子どもは自分の心の宇宙で物事を感じ取り、理解し、それを広げることも、狭めることも、歪めることもする。大人と違って、子どもの宇宙はまだ柔らかくたくさんの色に染め上げられていない。しかも、個性があって、一律ではない。

 こうした子どもたちを世話しようとすれば、大人は自分たちの考えで子どもを律することなどできることではない。導くよりも何よりも、世話係はまず子ども一人ひとりを知り理解する努力から始めなければならない。子どもに教えるのではなく、子どもに学ぶことが学育の出発点なのだと思う。
しかし、これは口で言うほど簡単なことではない。また、配置で誰でもができることではないだろう。それだけの能力と情熱と感受性を備えていなければならない。学園にはそれをやりぬくだけの人材は用意されていなかった。しかし、何よりも問題なのは、学園の方向が学育理念とは懸け離れたものになっていたことである。
(つづく)