広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎科学性と精神(新・山岸巳代蔵伝⑥)

3 山岸と近江人の「商い」のセンス
 ここでは、山岸と近江商人との類似性という観点に絞って見ていく。山岸の「商い」のセンスは卓抜したものがあった。

 近江商人については渡来人説が有力である。滋賀県の湖東地方(近江商人輩出の地でもあり山岸の生地でもある)は早くから朝鮮半島からの渡来人が集住して、高い文化が形成された。この移住者である祖先の血が、行商に耐える忍耐強さ、商業的先進性、利殖の才にすぐれた計数に明るい多くの商人を生んだという説である。


 司馬遼太郎は『歴史を紀行する』滋賀の章で、近江人の商才という特質は朝鮮からの帰化人に帰すると考えるのが一番素直であるとしている。しかし、朝鮮からの渡来人の血は、近江人の、特に脳髄に濃く流れているかもしれないが、北九州、山口、出雲、関東など他の土地の日本人にとっても、それは同じであるのに、何故他では近江人のような商才をもたなかったのだろうと疑問も呈している。
 
 また、『街道をゆく―近江散歩』で、「近江を語る場合『近江門徒』という精神的な土壌をはずして論ずることはできない」とし、「寺の作法と、講でのつきあい、更には真宗の絶対他力の教義が、近江人のことばづかいや物腰を丁寧にしてきた」と述べ、「させて頂きます」という語法について取り上げている。

 このことは、真宗信徒で賢夫人の評判の高かった近江人である母の影響を強く受けていたことを思い起こす。

 山岸と同時代人に外村繁がいる。外村は現在の近江市五個荘金堂で生まれ、生年は山岸と一年違い、没年は同じである。自らの出自である近江商人の世界を題材にした小説や、晩年の妻との闘病生活を赤裸々に綴った小説『澪標(みおつくし)』で知られる。外村は大店の家業を弟に譲り自分の信念を貫いて創作活動に邁進した。現れ方は異うが、自己の信念への純粋性に、私は山岸との同質性を感じている。その著『近江商人考』で倹約ぶりに触れている。

 近江商人の倹約は、最早、科学的でさへあったとも言はれるようだ。私の母はコンロをおいて行かうとする女中に小言を言った。コンロの口を風の方向に向けておかなかったといふのである。が、やがて火がおこると、母はコンロの口の向きを換えて、口をしめた。母は今でも火鉢の中に生木を埋めて巧に炭を作るやうな人である。私の郷里、南北五個荘村は近江商人の一つの中心地であるが、近村の人々からは「嫁を貰うなら五個荘から」、が「五個荘へは嫁をやるな」とも言はれてゐたやうである。


 このような科学性は山岸にも大いにあり、省力養鶏にも一つ一つ綿密な根拠がある。日常の暮らし全般に亘って興味深いエピソードがいくつかある。第一号の実顕地となる北条実顕地の荒瀬(あらせ)崎次(さきじ)は、山岸の印象として、鶏や作物に限らず身体のことから、はては漬物の漬け方やそうめんの茹で方まで、何でも造詣が深いことに吃驚(びっくり)したと語っている、これは、本人の気質ということと、風土や家庭環境から培われていった面もあるかと思われる。

 近来になると近江商人については、商取引が社会全体の幸福につながるものでなければならないという意味での、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」という「三方よし」の理念がよく知られている。それは、社会の一員という社会認識の重要性を強調する近江商人の到達した経営理念とも言われている。「三方よし」については、「皆がよくならないと、結局自分もよくならないし終局において成り立たなくなる」というような、商人としての経済的な科学性、倫理、絶対他力などの考え方から見出された理念なのではないかと思われる。これは、山岸の経営理念、考え方にも当てはまるものである。


4 山岸養鶏=(技術二〇+経営三〇)×精神五〇
 山岸最初のまとまった著書である『山岸式養鶏法・農業養鶏編(前編)』(一九五四年刊。翌年七月に加筆出版され、『山岸会養鶏法・増補改訂・農業養鶏編』となる)の序には、

「私の性格は、実はそうではないのですが、事に当ると数理的に走り、自然界の歪みの良さを容れないために、殺風景で味がありません。私は私なりに労力・資本及び利子・生産機構・生活等実在値・無形値をも含めた、綜合計数点の一番高いものを狙ったものですが、数字を省き、精々通俗的に書いてみます」とある。

 この著作には、「大儲けされたい」「損益の岐(わか)れ目」「有形・無形の大欲勘定」「永久に儲け続けていく」「損をさせては相済まない」などのフレーズが次々に出てくる。このような経営理念からの「商いフレーズ」がおのずから滲み出てくるようである。これは他の著作にもよく見られる特徴でもある。その綜合計数点の一番高いものを簡潔に数式で表した。

(技術二〇+経営三〇)×精神五〇=山岸養鶏。技術のみでは二千五百分の二〇だが、技術と経営が合わさり、そこに精神五〇を掛けることで、二千五百になるというものである。精神面を強調するのは、鶏を飼う場合の鶏や社会との繋がりを知る精神であって、自分一人よくなろうとの精神では養鶏も絶対に成功しないとの観点からのものである。

 山岸巳代蔵は「社会式養鶏法発表会に寄せて」という文書にこう書いている。

《山岸式養鶏は、(技術二〇+経営三〇)×精神五〇の切り離せない仕組みになっていることは、 前から言い続けている通りです。
技術を離れた山岸養鶏はなく、精神のない技術は山岸養鶏でなく、またヤマギシズム精神のない経営は山岸式経営ではない。
山岸養鶏技術は、経営とヤマギシズム精神が組み合わさって初めて技術となる。即ち、精神や経営を度外視した山岸養鶏技術はない」(「社会式養鶏法発表会に寄せて」)》

 この文書は、当初山岸巳代蔵も出席を予定していたが、体調不良のため急遽口述筆記されたもの。(なお、この半月後に山岸は亡くなる)



『山岸会養鶏法・増補改訂・農業養鶏編』の「山岸三号種の特徴」から一部見ていく。
《かように優れた雛が生産されるのも、原種改良と、種卵養鶏会員・孵化会員及多数実用養鶏会員間の緊密な連繋によったもので、相手方を栄えさして全体が栄え、自分も栄える一体機構が養鶏面にも具現され、親愛協力社会のモデルケースと云えましょう。

〝われひとと共に繁栄せん〟の会旨を有形体に実現したもので、喜び、喜ばし合いの世界では良い実が稔り、デカデカと広告しなくとも、真価が認められて、鶏界不況はどこ吹く風と伸び行くのです。

 私共はこの素晴らしい業績を省みる時、いよいよ、ますます、各自各自の持ち場に専心没頭し、他を愛し、自らも住む世界全体の繁栄に、心と力を致したいものです。

 原種改良家も一人で幾種類、幾系統も併養せないで、他の系統保持者と計画・連繋・交流し、一人一系統ぐらいに専心没頭し、純度を最高頂点に引き上げ、安定血液を確保し、種卵養鶏家にその業績を大きく生かすことで、そこに種鶏改良の意義と生きがいがあるのです。

 種卵養鶏家も後代調査や、経済面等で原種養鶏家に協力し、一方種卵養鶏家として、その子の代での最高性能に主力を注ぎ、種鶏・種卵の厳選、疾病隔絶、環境・飼料・管理による卵質の向上(無理に産卵せしめぬ)、 一〇〇%孵化、一〇〇%育成、雌雛歩合引き上げ、老熟種鶏による発育充実等、生産原価が相当嵩んでも、その子が行く先々でよく稼ぎ愛され、種鶏家達の心の響く雛が孵る種卵を、生産することです。

 求められる雛を造ることのみを考えて専念しておれば、質のことや値段のこと等を一口も云わなくとも、必ずその種卵は認められて、安く売ろうとしても、買う方が種鶏家を栄えさす値段にするものです。
 これは、私の多年の体験から保証します。

 いずれの部門の人も、鶏や稲に対しても、彼等を儲道具と思って搾ろうとしては、かえって本当の働きが出来ませんから、いつも余裕を持たし、彼等を満足さすことが成功の秘訣です。

 鶏も稲も共生の世界であり、人と人とは無論のことで、対立紛争一切を起さずに、官・民・業者相協力し、総親和で共に繁栄しましょう。 
一九五五・五・一〇  山岸 巳  (「山岸三号種の特徴」)》

※注 種卵・種鶏:食用ではなく孵化用の卵を種卵、種卵を採るための鶏が種鶏。

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「引用文献」
『山岸会養鶏法・増補改訂・ 農業養鶏編』「山岸三号種の特徴」→『全集・第一巻』(一九五五年七月)
『ヤマギシズム社会式養鶏法について』「社会式養鶏法発表会に寄せて」→『全集・第四巻』(一九六一年四月)
『日本の歴史 第十四巻』“「いのち」と帝国日本”小松裕、小学館、二〇〇九年
司馬遼太郎『歴史を紀行する』「滋賀の章」文春文庫、一九七六年
司馬遼太郎『街道をゆく二十四』「近江散歩」朝日新聞社、一九六四年
外村繁『外村繁全集第六巻』「近江商人考」講談社、一九六二年