広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎理想社会を描く人のある種の傾向について②

〇実顕地生活を振り返る中で特に思うことは、私のなかに、ヤマギシズム運動、実顕地活動は、かってない社会を目指しているという根拠のない倨傲が心のどこかにへばりついていて、おかしなところが多少あるにしても、いずれ正されていくだろうという、あまりにもお粗末な甘さもあったのだろう。

 むろん、疑問を覚え、見切りをつけ離脱したのだが、25年ほどそこで暮らし、しかも長い間私は、そこでは様々なことを進めていく立場にあり少なからず影響を与えていたのではないか、また疑問を感じることもありながら、あまり突き詰めることをせず、もっと自分のやれることがあったのではないかなど、後悔のようなものも感じている。

 同じようなことを繰り返さないために、失敗から学ぶことや学びほぐすことを欠かすことができないと思っていて、このブログを立ち上げている。

 ここでは、自分のあるいは組織の描く理想像への過信というか、自分(たち)はかってない社会を目指しているという奢り高ぶりともいえる傾向への知性のあり方について見ていく。

 ヤマギシ社会に限らないが、理想主義者の『理性・知性への過信』、独りよがりなものの見方、自分の描く理想像に酔っていて、それと違う見解を受け付けようとしない傾向ともいえる。


 
 といっても特別難しいことではなく、次のことなどを心しておいたらいいと考えている。

➀自分の見方は、自分がそう思っているに過ぎないこと。
②どのような思い方も、自分はそう思う、その人にはそう見えているということ。
➂人間の究極の問題として、自分がまちがっているという可能性は、科学的に考えて排除することはできない。
④人間が誤り多い動物であり、その集団も不完全で当然誤りやすいものであること。


 上記の基本的なことを抑えて、大事だなと思うことに対処していく。幾つか思いつくことをあげてみる。

⑤どんな人でも間違いや過ちはあり、人間のできることは、間違いや過ちを謙虚に認め、そこから冷静に分析し学び、少しずつ方向を改めてゆきながら、むしろ間違いや過ちから学ぶこと。
⑥したがって、他からの批判に対しては、まず謙虚に耳を傾け、共によきものを目指していく。
⑦人は誰でも、その時代、社会状況、身近な環境の影響を受けながら、考え方、感性などを培い身につけていく。その自覚の中で、特にこれは大事なことだと思うことは、まず今の自分の見方はどうなんだろうと一旦留保しながら、問い返すことを大切にしたい。

 きりがないのでここまでにする。


 
 自分の手掛けていることに、やりがいや意義を感ずることは、その人の自己肯定感からも大事なことだし、わたしの共感する活動については何らかの応援もしたいと思っている。

 しかし、ひたすら有意義なことをしている、自分の善意に紛れ込んでいる欲望を意識化できていない、自分のものの見方に対する疑いを感じさせない論考にはついていけないものがある。



 なお、内田樹「ためらいの倫理学」(角川文庫、2003年)からも見ていく。
 これは、2001年個人名で出版した最初の単著で、いろいろな論考があり、その中で知性について折々に触れていて、共鳴するものがあり、そこからいくつか挙げてみる。


・《私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定に入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。》(「古だぬきは戦争について語らない」)

・《私たちは知性を検証する場合、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自己の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計算する。自分の博識、公正無私、正義を無謬を前提にしてものを考えている者のことを「バカ」と呼んでいいことになっている。》(「自由主義主観について」)

・《「私には分からない」というのが知性の基本的な構えである。「私には分からない」「だから分かりたい」「だから考える・調べる」「なんだか分ったような気になった」「でも、なんだかますます分らなくなってきたような気もする」と螺旋状態でぐるぐる回っているばかりで、どうにもあまりぱっとしないというのが知性のいちばん誠実な態様ではないのかと私は思っているのである。》(「性差別はどのように廃絶されるのか」)

 
 あとがき」の中で内田は、この諸論文で主張していることを「一言で無理して言えば、それは『自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ』ということになるだろう」と書いている。


 私たちの言動を大きく左右する、「よい・わるい」、「正しい・間違い」の判断も、よく調べていくとその基準は時代や地域によって全く違った捉え方になったりする。

「正しい」というのは「それが自分にとって心地いい」かどうかと言い換えてもいいぐらいだと思う。その方が精神的には安定するから、それを無意識に求めてしまう。

 自分が「心地よく」感じて「好感」を覚えるものを、「正しい」と判断しやすい。

 普段の生活の中で、だれかに対して「それは間違っているよ」と注意したりする。その「間違っている」を、「おれはその態度が嫌いだ」と言い換えてもいい場合もある。「正しいよ」と言ったりするのも、「俺はその思い方が好きだ」と言っている場合が多い。

「正しい・間違い」については、実顕地に限らないが、理想を掲げる人の良く使うフレーズであり、ほとんど無意識的に、個人的なあるいは社会的な意味での「好悪」のバランスの問題になっているときも多いのではないだろうか。