広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎理想社会を描く人のある種の傾向について➀

〇先日(2月15日)、ブログに【「多一論」と山岸巳代蔵】を投稿し、その時に、「中島岳志×島薗進『愛国と信仰の構造』を読みながら、山岸巳代蔵とヤマギシズム運動について考えていた。」と書いた。

『愛国と信仰の構造』については、ブログ【日々彦「ひこばえの記】に3回にわたって掲載した。
 そこに、➀「ユートピア主義と全体主義」、②ユートピア主義と近代科学は、➂多元主義と「多一論」とともに、ブログ・日々彦「ひこばえの記」に掲載した。
 https://masahiko.hatenablog.com/

 
 その中から、理想社会を描く人たちの陥りやすい傾向を見ていく。

『愛国と信仰の構造』「全体主義はよみがえるのか」という副題がついたこの本は、〈明治維新からの75年〉と〈敗戦からの75年〉をそれぞれ25年ずつ三期に分けた上で、まずは、かつての日本が全体主義になだれこんでいった原因を検証する。

 中島岳志は次のようにいう。
〈戦前では、一九一八年に第一次世界大戦が終わってしばらくすると長期の不況に突入し、農村では深刻な貧困に見舞われました。同時に、急速な都市化や群衆の流動化によって、地域の共同性やトポスが喪失してしまう。

 一方の戦後の第三期では、一九九五年に阪神・淡路大震災とオウム真理教事件が起こる。さらにバブル崩壊の影響が本格化するのもこのころからです。以降、グローバル化によって非正規雇用も急増して格差や貧困の問題が顕在化していきます。

 一九一八年と一九九五年。前者は「明治維新後五〇年」であり、後者は「戦後五〇年」です。つまり戦前と戦後はいずれも五〇年目を境にして、社会基盤が急速に弱体化していくという共通点をもっています。〉


 そこで中島は、「明治期に近代化の過程で『自己とは何ぞや』と悩んだ煩悶青年らの潮流が国体論的なユートピア主義に傾倒し、その煩悶青年の一部は、理想的な社会像を『一君万民』、つまり天皇の下での平等な世界に求めた。」と述べる。

「煩悶」とは知的な探求を好む自由な個人の実存的な悩みという意味合いだ。
 以後、中島は煩悶青年に焦点を当てて、そこから、理想社会描く人の傾向の違う二つのユートピア主義に考察は進む。


 ここから、どちらのユートピア主義も否定する中島の「リベラル保守」の立場を表明する。

 中島氏は、自らの「『「リベラル保守」宣言』で、《人間が理性を存分に使って正しく設定すれば、未来はよい方向に変革できるはずだと考える。つまり、未来にユートピアをつくることが出来ると考える左翼的な主張に対して、「リベラル保守」の立場は、「理性万能主議」には懐疑的で、人間の理性だけでは、未来に理想社会が実現するとは考えない。長年の歴史の中で蓄積されてきた経験知や良識、伝統といった「人智を超えたもの」を重視するべきだと考える。「保守は過去にも未来にもユートピアを求めない」と述べ、その理由として「絶対に人間は誤るものである」、そして「人間が普遍的に不完全なものである以上、人間の作るものは不完全である」》と語っている。

 あまり、「リベラル保守」と「左翼的」とのラベル分けにこだわることはないと思うが、言わんとすることは、伝わってくる。

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 本書については、吉田光男『わくらばの記』にも書いているので、それを見ていく。

〇吉田光男「わくらばの記」より。
〈4月4日〉:中島岳志・島薗進両氏の対談『愛国と信仰の構造』を読む。非常に学ぶところが多かった。日本の近代史上の出来事については、大筋は知ってはいるが、その背景をなす宗教の流れについてはあまりよくわからず、特に真宗が国家神道に溶け込んでいった事実や思想的背景については全く知らなかった。親鸞の絶対他力の思想、つまり自らのはからいを捨てて弥陀の本願にゆだねる思想が、天皇への絶対帰依に転化してしまい、これが天皇機関説排撃への理論的支柱になったことなど想像だにできなかった。しかも、あの悪名高い蓑田胸喜が真宗の信者であったとは!!

 それにしても、この本から考えるべきことは非常に多い。当分手放せない。
中島岳志氏は、自らの保守宣言について、「保守は過去にも未来にもユートピアを求めない」と述べ、その理由として「絶対に人間は誤るものである」、そして「人間が普遍的に不完全なものである以上、人間の作るものは不完全である」と語っている。

 これは吉本隆明氏の「反原発批判」に対する批判として語ったものであるが、ちょうど私自身が「人間は誤るところの動物である」という結論に達していたところなので、大変共感を覚えた。ここから導き出されるのは、人間が誤り多い動物である以上、人間のつくりだす集団自体も、誤り多い存在であるということだ。

 かつて私たちはよく「真理」を口にし、「真理にそって」などと言っていたが、自分たちの行為が真理にそっているかどうか、誰が検証し誰が保証するのか、みんな自分たちがそう思い込んでいたにすぎなかったのではないか。

 もしも人間が誤り多い動物であり、その集団も当然誤りやすいものであることを自覚していたならば、すべてにもっと謙虚になれたはずである。誤りや失敗は何ら恥ずべきことではなく、それを素直に認めないことこそが恥ずべきことなのだと知っているからである。そして他からの批判に対しても、謙虚に耳を傾けることができる。このような集団こそ、今の世に求められる最も魅力的な集団であるだろう。


〈4月7日〉:中島岳志氏の本を読んで――
 もし”真理”を山の頂上に例えるなら、頂上への道は一本しかない、とするのが一神教であり、頂上への道は多数あり、どれを上ってもよいとするのが多神教であろう。中島氏は島薗進氏との対談の中で、多神教を「多一論」と名づけ、一神教の「単一論」と対比している。

 中島氏によれば、ガンジーも、鈴木大拙も、西田幾多郎もこの多一論で、「一なるもの」は言語化できないとしている。つまり、それが真理である以上、人間の相対的言語によっては表現できず、人間は真理の影しかとらえられない、という。そして、民芸の創設者である柳宗悦は、「世界は多元的であるがゆえに、複合的な美を内包している」と語って、朝鮮の独立を支持したり、その陶芸を愛し世に広めた。

 こうした「多一論」の帰結は、絶対的なもの、例えば完全無欠な幸福社会としてのユートピアはありえず、人間に可能な社会は「より良くより正しい」ものを求め続ける「永遠の微調整」だけ、ということになる。


〈4月8日〉:カントは読んでいないが、中島氏によれば、その絶対平和の理念は「統制的理念」と「構成的理念」とから成り立っているという。「統制的理念」とは絶対平和のような「人間にとって実現不可能な高次の理念」で、「構成的理念」というのは、「政治的に実現可能なレベルの理念」だそうだ。

 そういえば、ドストエフスキーも「キリストの絶対愛の理念は地上の人間には実現不可能なものだが、この理想なしには地上は獣の住家になってしまう」と『作家の日記』に書いている。

 同じように私たちも、地上天国としてのユートピアを描くとしても、現実にはより良くより正しくを目指して、微調整しながら歩み続けるしか、ないのかもしれない。
(吉田光男『わくらばの記』(7)2018-05-03より)

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 わたしは、本書から次のことを思った。

〇理想を高く掲げた人と集団の、他を思い通りにしたいという心の働き  
 自分の思い描くように自己の内面を深めようとする意欲・心の働きは、その人の成長につながるもので、そのように自己を誘ってきた人も多いだろう。

 しかし、理想を高く掲げた人は、その理想の実現に燃えていて、そこに疑いや問いを発することなく、その実現に邁進することに躊躇するものがない状態に陥りやすい傾向がままある。特にある理想を掲げた人々が、共鳴者を得て集団化・組織化すると、ますますその傾向が強くなる場合がある。

 その結果、その理想に沿うように自己の内面を深めていくと同時に、あるいはそれ以上に、周りを自分の思い描くように、ひどい場合は、他を思い通りに動かそうとする意欲が言動に現れる。

 理想を掲げた組織に共鳴した人の、その理想に合わせるような傾向が強いと、集団として構成員を、意識下でそのように仕向けていくようなことも生みやすい。

 指導的立場の人が、本人の自覚がないまま発した言動から、受け取る側の姿勢、態度から影響を及ぼすこともある。厳密にみていくと「他を思い通りに動かそうとする」心理が働いていることも多いが。