広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎集団の限界性と個人のあり方(鶴見俊輔の論考などから)

〇ヤマギシに限らないが、思想的な集団における個人のあり方や、総意の形成について『山岸巳代蔵伝』に記録したことがある。

【ある種の思想的な集団にとって、組織の活動の広がりにともない、一人ひとりの自由意志力による総和というよりも、管理維持的な要素や能率的な欲望が色濃く出てくるようになる。そのことから、特定の力のある人が運営面において影響力を発揮するようになり、その体制が固定化していくと、推進的な立場の人が自説補強的思考法になり、その組織の方針を徹底化しようと、他者を従わせようとするし、構成員自らもそこに合わせるような傾向も出てきがちになる。また、それを批判する人々による権力闘争的な動きも出てくる。結局、組織の方針に合わない人が排除され、ますます、その組織の現状維持的な体制が強固なものになっていく。そうすると、意識的にも無意識的にもそのようなベクトルが強く働くようになり、この傾向が特定の人だけではなく、組織を維持する全体の気風にまで発展するようになる。そうなってくると、一人ひとりのもっている活力がそがれ、ひいては組織全体の活力が失われることになる。思索というのは、常に、現状の枠組に収まりきれないところから芽生えるのである。

 山岸巳代蔵の提唱した「私意尊重公意行」という理念がある。事件後の『ハイハイ研鑽について』の中で、次のように述べている。
「固定不動の教義によらないで、みんなの意志を織り込んで公意志を見出し、それをまたみんなで改めて進展していく――公意に絶対服従」、「公意は個人の意志の集積であり、個人の意志によって変更できるものである」

 この論考では、「少数の異見こそ大切に」とか、「多数の暴力」の危うさが語られ、組織・機構のあり方が論じられていて、興味深いものがある。だが、みんなの意志をどのようにして総意にしていくかの方式が、特定の人たちに委ねられているとしたら、排他的になりかねないと思う。

 吉本隆明が、『中学生のための社会科』の「国家と社会の寓話」の中で、ヤマギシ会についても触れていて、そこで「自由な意志力」と「公共性」について言及している。
「個々の『自由な意志力』の総和をのみ『公共性』と呼ぶ。『自由な意志力』以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念はダメだ」とし、現代社会はどこかに高度な管理システムを含んでいて、そのことは不要なのではないが、「被管理者の利益と自由の最優先」の原則が貫かれていることが肝要であるとしている。

 私も大よそこれにくみするし、山岸の観方にも重なってくるものがあると思われる。
高度管理技術が普及した社会で、国家や地域社会に限らず寡民による小社会でも、その公共性をどのように形成していくのか。管理側が政策決定して住民が従う方式ではなく、そこで暮らしている人々の自由意志力によって総意が形成されていくための方式はどうあったらよいのか。また、個々の自由意志力を優先するとは、「公の意志」とはどういうことなのか、などの究明・実践が現代社会での大きな課題となっているのではないだろうか。】(『山岸巳代蔵伝―自然と人為の調和を』萌友出版 、2012年)


 これは、実顕地の機構運営の柱である「私意尊重公意行」の「私」と「公」のあり方、「集団」と「個」の関係につながり、ヤマギシに限らず、共同体やある集団における、大きな課題となると思う。
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 ここでは、ヤマギシズム運動誌『ボロと水』第1号所収の「ヤマギシズムの本質を探る」での鶴見俊輔氏の発言を見ていく。

『ボロと水』はヤマギシ会発足から18年経て、提案者山岸巳代蔵の思想をソシャクし、それを絶対視や固定することなしにたえず前進していく性質のものとして、1972年刊行されたもので、1973年第5号まで出版された。

 ヤマギシ会が出版したものとして、第一級の資料と私は思っている。実顕地本庁に一本化される前の出版物で、随時このブログでも取り上げるつもりしている。

「ヤマギシズムの本質を探る」は、『ボロと水』の一つの柱として、座談会形式で研鑽していく機会を設け、巻頭記事として第5号まで掲載された。ここに、鶴見俊輔氏や見田宗介氏が参加して、ヤマギシ会メンバーと鼎談を繰り広げている。

 その中で、鶴見氏が何度か集団のもつ危うさに言及している。


【座談会「ヤマギシズムの本質を探る」〈第1回〉
・「集団の暴力性」とは
〈集団だけに慣らされた人間は、去勢された人間になる可能性を含んでいる。強い人間がつくれない。個人にも集団にも限界があって。それは両義的に捉えねば------。〉

 鶴見:「問題はしかし、どっちの極にいっても、限界があるんですよ。集団には集団の限界がある。集団は自然に集団の暴力性ってのを持ちやすいんだ。つまり強制するっていうかな。集団の多数による強制って、出ると思う。そうするとね、考え方の枠が決まっちゃうの。ちょっと違う考え方をしようとする人間を、何となく肘を押さえる形になって危ないんだ。それはね、その集団のいき方は間違いだっていうふうなことをいい得る強い人間をつくらなくなってしまうわけよ。だから集団だけに固執するとすればよ、だんだんとより多くの集団である国家に閉じ込められちゃってね、国家が「中国と戦争しよう。これが自由のためだ!」といえばね、集団だけに慣らされた人間はね、山岸会員であっても、のこのこと一緒にくっついていくような、去勢された人間になっちゃう危険性がある。」

 W:「でも個人の意志が尊重されればね、集団であっても別にかまわないと思う。」

 鶴見:「そのところは、とても、非常に難かしいねえ----」

「集団は集団で暮らしている中に限界があるので、個人でなければやっていけないような、つまり、集団から離しちゃう個人というのを、繰り返しつくって、個人でも立っていけるような人間っていうのを、繰り返し突き放してやっていかなきゃ----。春日山でしか生きられないように人間になったら、危ないわね。これは結局ね、日本の政府に飼い馴らされちゃう。」

「だから個人にも限界があるわけ。集団にも限界がある。そういうふうに両義的にとらえて欲しいんだな----。」

「だから原則はいいんだ。このテキスト(『ヤマギシズム社会の実態』)に書いてある限りは原則ってあるんだ。だが実際問題の運営でいうとね、研鑽会でもさ、やっぱり多数の暴力っていうのか、やっぱり、各所に現れてきているね。」


・「研鑽のよって立つところ」

 鶴見:「ひとりで生きられない人間が、こう、たくさん寄るとねえ、そこに集団の暴力性が出てきますねえ----。」

「そういう人間ってのはねえ、他の個人より多く狂信的でねえ、「この意見は決まった。正しいんだ!なぜ分らんのか」と、いたけだかになる形の人が多いんですよ、それは。威張り返るってのは大体そうですねえ。自分の考えを自分でやるという、こう考える人間ってのはねえ、そういうことを普通はしないもんなんですがねえ----。だから、そういう集団の暴力性を排除するっていうか、その悪はねえ、刈り取るわけにはいかないとなると、それを弱めるためにも、なるべくひとりで突き出していくし、ひとりでやらなきゃしょうがないんだということを、何度も何度も徹底的にやっていかないとですね------。

 集団と個というのは逆の極になるんでしょう。どっちにいったて限界があるんですよ。集団が一枚に固まっちゃったら、もう集団そのものが自滅しますよ。そういう問題があるわけ。だから、集団をつくろうと思ったらどうしても、こう、個に返すということを、繰返し繰返し突き放してやっていかなきゃあ----。そうしないと普通、集団の自己陶酔が始まるんですよ。」 (「ヤマギシズムの本質を探る」『ボロと水』第1号、ヤマギシズム出版社、1971より)】
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「各人の行為は集団の意識によって制約され鼓舞される。」
 上記の言葉は大岡昇平『俘虜記』「捉まるまで」にある。少し飛躍するかもしれないが、集団のなかの個人のあり方を考えるときに、とても参考になる知見だと考えている。

 死に直面した過酷な状況のなか、目の前に迫ってきた米兵を銃で射たなかったときの自らの心理過程を描いている箇所で、次の文章がある。

〈それは私がこのときひとりだったからである。戦争とは集団をもってする暴力行為であり、各人の行為は集団の意識によって制約され鼓舞される。もしこのとき、僚友が一人でもとなりにいたら、私は私自身の生命のいかんにかかわらず、猶予なく射っていたろう。〉

 戦争という特殊な状況ではあるが、ある理念を掲げた集団のなかで、主体的に自己を打ち出していかないと集団の意識・気風などに押し流されてしまいがちになる。


 実顕地や学園での具体的なことは、このブログで度々触れているので、ここでは繰り返さない。


 自分のことを振り返ると、「村」では、アドバイスは受けたが、最終的にはそのとき精一杯考え中心になって自分なりに考えてやっていたつもりだが、「ここでは」どんなふうに考えるかなとの思いがついて回り、やはり「他律性」のある暮らしであったと思う。
「村」の規模が大きくなるにつれて、他律的な色合いが濃くなっていった。

 離脱して、もっとも大きな変化は、自分の足で立ち自分の頭で考える「自律性」のある暮らしになったこと。それに付随してある種の解放感を味わった。

 個人はもちろん、小さな家族であろうと共同体や大きな集団だろうと、人と人の関係は「自律性」のある個人が主体性に他との調和をする「自立性」のある人になって同格で関ることが基本となる。家族から大集団まで貫く大切なことだと考える。


 参照・理想を掲げた集団や実顕地についての覚書(2)
  https://hibihiko-ya.hateblo.jp/entry/2016/07/07/000000
   ・集団のもつ危うさについて(鶴見俊輔のヤマギシズム関連の論考から)
  https://hibihiko-ya.hateblo.jp/entry/2017/12/31/000000

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 また、その集団独自の空気がある。
 中島義道『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』の第5章「〈対話〉を圧殺する風土」は次のように述べる。

 この国では「集団において個々人の対立を避けるにはどうしたらよいか」という問題を解決することにほぼすべての労力が費やされるとし、次のことを述べる。

 個々人が意見を言い合うのでなく、社会(会議でも可)の全体的な「空気」の流れを読んで、「空気」を乱す(雰囲気を壊す)発言は押し殺し、「空気」通りの発言を繰り返す。様々な場において、同じことを強いられる中で、各人は自分の考えを持たなくなる。責任を持たなくなる。それが日本社会なのだ、という。

 そこに、すべての人が全体を配慮し、自己の痛みを語らず、他者との差異を語らない淀んだ和やかな空気が流れる。この空気の中で、恐ろしいことに、各人は自分の考えをもたなくなる。責任をもたなくなるのだ。

 竹内靖雄『日本人の行動文法』はこうした「空気支配」に身をゆだねる日本人の行動様式を「状況功利主義」と呼んで、状況を与えられたものとしての「状況受容」を基本原則とする。ここから諸規則が出てくるとしている。

〈竹内が指摘しているように、重大な案件であればあるほど、「こうするよりほかに仕方がない」状況へとみんなで追い込み、あとで非難されたときにも、各人が「こうするよりほかに仕方がなかった」と言い逃れることのできる黄金の抜け道をつくっておく。状況功利主義は何よりも個人責任を回避する方法を教えてくれるのだ。(P174)〉

「状況功利主義」こそ「和の精神」の内実と中島氏は言う。
 この国で要求されるのは「和の精神」である。和とは現状に不満を持つもの、疑問を投げかける者、変えてゆこうとする者にとっては重い足かせである。新しい視点や革命的な見解をつぶしてゆく。いいたいことを心のうちにしまって習慣的な挨拶をこなす社会。かくして「和の精神」がゆきわたっているところではいつまでも保守的かつ定型的かつ無難な見解が支配することになる。

 ※他者の異質性を尊重する社会(中島義道『「対話」のない社会から)
  https://masahiko.hatenablog.com/entry/2020/12/10/000000