広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎守下尚暉『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』を読んで。➂

〇「自分の足で立ち、自分の頭で考える」
 ②で次のことを書いた。
〈人が生きていくときに、考えたり問い続けたりすることは大切にしたいと思っている。それに先立って「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことは必然的なことである。〉

 だが、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことは、よほどの自覚がないと難しいこととなる。
 私は実顕地で、やらされているとは思ったことはなく、結構自分なりに考えてやっていたなと思っていましたが、調べていくと、自分の頭というより「ヤマギシ」の頭で考えていることも多かったと思う。

 人は誰でも、その時代、社会状況、身近な環境の影響を受けながら、考え方、感性などを培い身につけていく。その自覚の中で、特にこれは大事なことだと思うことは、まず今の自分の見方はどうなんだろうと一旦留保しながら、問い続けることを大切にしたい。
 厳密にいうと、さまざまな影響を受けながら、自分の考え方を育てていくので、自分の頭で考えるといっても限界があるが、そこを自覚する必要があると考える。


 当時のヤマギシ会、実顕地に限らず政治結社、宗教団体、特定の団体など、その社会でしか通用しない、独特の言葉を多用する。広げれば、テレビやインターネットや本や雑誌や広告などで語られる少なからずの言葉・表現にはそのような要素が含まれている。

 私はヤマギシズム実顕地に2001年まで25年余暮らしていた。その集団内でよく使っていた表現、他ではあまり使わない独特の言葉を、説得的な言葉として、あるいはその言葉を使えば伝わるのではないかと「お守り言葉」のようなものとして使い、その言葉、表現の一つひとつを吟味することなく、自らの感性に照らすことなく、安易な使いかたをしていた思いが残っている。

『ヤマギシ会』の活動に傾倒している参画者も会員たちも、自分の頭で考えているというより、ヤマギシ独特の思い方、言葉の選び方をする人が多いし、言動もそこで取り入れられている方式でやりがちである。学園世話係はその頃の学園の気風にそまった頭で思いを巡らしている人も多かったと思う。
 本書を読んでいると、思い当たる世話係も多く、あの人がどうしてこのようになったのかと不可解に思うし、やるせない思いになる場面もある。


〇本書から、世話係とのことは②に書いたので、ここでは親、同期生に絞っていくつか見ていく。

 独特の高等部生活に適応しようと懸命に取り組んでいた著者にとって、四カ月に一度三泊四日の「家庭研鑚」(それぞれの実家に帰り親と過ごす)は、ゆったりくつろぎ、以前の友達と交流できる機会で楽しみにしていた。ところが、それどころではない次のような展開となる。

 ヤマギシの広島支部は、高等部生が『家庭研鑽』で帰ってくる日程に合わせて、地域の子供が集まる『はれはれ集会』を企画し、苛酷なイベントと化していた。
〈ヤマギシの活動に傾倒する地元、広島支部の大人達は、広島県出身の高等部生に並々ならぬ期待をかけていた。もちろん、お母さんも、その例外じゃない。教育に行き詰まり、子供の心の荒廃が叫ばれていたこの時代において、親や先生に一切反抗しない高等部生の存在は、まさしく希望の光だったのだ。当時、ヤマギシズム学園の勢いは凄まじいものがあり、 その存在自体がヤマギシの活動の原動力になっていたと言っても、過言ではなかった。〉

 また、実家に帰っての母との会話で、疑問や悩みを打ち明けても学園世話係と同じようなヤマギシ流の言い回しがでてきてうんざりしていた。
 お母さんはいう、〈「そもそも、イヤイヤながらやらさている、ということ自体が、本当は無いんじゃないかしら?
 だって本人が行動をしてるってことは、それは既にやりたくてやってるって事なんだよ」
 その理屈は、ボクも『研鑽会』で何度か聞いたことがあった。行動している以上、それは誰かにやらされている訳ではないという、まるで詭弁のような理屈である。〉

 本科の10月の『家庭研鑽』はいつもと違った。
母:「今までの『家庭研鑽』は、いつもイベントばかりで慌ただしかったから、これからはそういうのじゃなくて、ちゃんと親子でしっかり話が出来る時間をつくろうか、って事になったのよ。もともと『家庭研鑽』って、そういう趣旨のものだから」
本人:「なにそれ? 今更すぎるんだけど。それなら最初っからそうして欲しかったよ」
母:「研鑽会って、そういうものなのよ。これでやろう! でやったあと、やってみてどうか? と振り返る。そうやって研鑽会を重ねていく事で、少しずつ真理に近付いていくんじゃないの?」
本人:「それじゃ、あのめちゃくちゃ忙しかった『家庭研鑽』は一体なんだったの?」
母:「その時はそれが一番良いと思ってやってたのよ。今はまだ過渡期なんだから、昔は良いと思ってやってた事も、やっぱりヤメようかと研鑽会で決まったら、スパッとやめる。それが、ヤマギシの考え方でしょ?」

 本科の2月に、両親が実顕地に参画するという本人にとってどうしようもない喪失感におそわれる。その後の村での「家庭研鑚」で本人の切実な思いをだす。
本人:「ボクは本当は、尾道の家でお父さんとお母さんに待っていて欲しかった。なんでいきなり参画しちゃったの? 一言なにか言って欲しかったよ。お兄ちゃんには言ったの? お兄ちゃんは参画することについて、何か言ってた?」
 といい、さらに問い続けると次のような反応が返ってきた。
母:「生意気なこと言うんじゃない! 親の生き方に、子供が口出しするものじゃないよ!
 参画するのに、なんでナオキさんの許可を得なきゃならないの!
 これはお父さんとお母さんが決めた生き方であって、ナオキさんには関係ない!」
 
 それに本人は、趣味として書いた小説のことで、ある学園世話係に「オラ、いつまでもくだらない事してないで、早く農場に行け!」とすごい剣幕で執拗に制裁されたことと同質のものを感じ黙ってしまった。
 要するに両親は、なにを話しても、相手の切実さをまったく受けとってなく、ヤマギシでよく聞かされる定型的な言葉しか返さない、自分の言いたいことだけをいう、その頃よくいた学園世話係とダブって見えた。
 むろん、熱心な会員さんにはさまざまな方がおり、一人ひとり違いがあるが、彼の親と同じような傾向の人はいたような気がします。

 そして、「全人幸福親愛社会の実現。その理想の為に、ヤマギシの村に参画する生き方を選んだ」という両親に、以前に書いていた『カドルステイト物語』の中に登場する、とある人物のセリフを重ねていた。
〈自分の身近に居る大切な人を護り抜き、幸せな生活を営む事。それを世界中の人が体現すれば、そのとき自然に、理想的な世界が生まれているのではないでしょうか? 自分の身近な者の幸せを蔑ろにしてまで、遠い他者を慈しむような行為は、偽善ではないかと思います。自分の身近に居る大切な人を幸せに出来ている人物こそ、遠い国の名も知らぬ誰かを救う資格があるのではないでしょうか。〉


 ヤマギシ社会では、幼年期から親子分離を標榜していて、その延長で幼年部、学園体制を作ってきた。「子どもは群れで育つ」といいつつ、親子関係の微妙な深甚を探ろうとしていなかったと思う。一人ひとりに合わせた親代わりの人もなく、無責任体制で対応していた。
 ある時期、学園のテーマとして「子どもを叱る」があった。最近の親は子どもを甘やかすばかりで、叱ることができない。叱ることのできる親になることが大切だという趣旨であった。学園で研鑽したことは、絶対なものであると捉える会員さんも少なからずいたと思う。

 また、本人の苦い思い出としてこのようなこともあった。
 予科生の秋になり、中学の頃からの友達ユウジが「ナオキ…… 一緒に高等部、辞めようぜ」と言われたとき、次のように対応する。
本人:「ユウジ、それは考え過ぎだって。そういうのは自分の見方ひとつで、どんな風にでも変わるものだよ?」
ユウジ:「ほらー、ナオキも世話係と同じようなこと言うのな。だからもう、オレにはムリだわ」
 ボクが何か言っても、それはユウジの耳に届かなかった。むしろボクが言葉を発すれば発するほど、ユウジにとって逆効果のように見える。〉
考えられる思考力を総動員して何とか引き留めようとしたが、結局ユウジは高等部を辞める。

 その時は、それ以上考える余裕がなかったが後から次のように思う。
〈ボクはこの時、自分の言葉がユウジに届かないような錯覚を覚えていたけれど、実はボクの方が、ユウジの言葉の意味を、ちゃんと自分の頭で考えようとしていなかった。〉

 世話係や母親との対応とは別の意味で、仲間との事件、行き違いは何ともならない苦悩があった。
 一方、仲の良い友達や同期生もいて、そのことが学園生活を続けられる原動力にもなっていた。

〈ボクが精神的に追い詰められても、何とか持ち堪えれているのは、間違いなくヒロキとマサルのおかげだった。仲の良い友達が居て、共通の楽しみがあるというだけで、なんとかボクは腐らずに踏ん張ることが出来た。〉
〈高等部生活も三年目に突入し、いま居る四期生男子部のメンバーは皆、入学から半数近くもの生徒が退学させられてもなお生き残っているという、その実績だけは伊達じゃない。あのヨシオも含めて、基本的にみんな真面目で、かつ、一癖も二癖もあるメンバーばかりだっ た。 そこには「馴れ合い」とか「足の引っ張り合い」と言ったものとは一味違う、生き残るための知恵とも言うべき、奇妙な仲間意識と共生関係が生まれていたのだ。〉

 専科に入って北海道への『学究旅行』で作った四期生ソング『Let' s Begin(さぁ、始めよう!)』は仲間から才能が豊かと絶賛され、とりわけ印象に残っている。
〈「お前、マジですげぇわ! ぜったい才能あるって!」
どの同期生も、蟠りを全て超え、みんなが本当にこの曲を気に入ってくれて、喜んでくれていることが分かる。ボクにとって、それは何ものにも代えたい喜びだった。 そうだ! ボクは、こういう事がしたかったんだ! 世話係に褒められなくても、認められなくても、四期生のみんながボクのことを認めてくれて、喜んでくれれば、それが一番じゃないか!〉
〈才能とは、元々備わっている個人の資質 だと、ずっと思い込んでいた。でも、それは誤りだった。才能は、人から認められて、初めて才能に昇華するのだ。〉

〈世話係のウチダさんは言っていた。(お前には才能なんて無い) たしかに、ボクには才能なんて無いのかもしれない。
 自分にしか出来ない事なんて、結局なにも無いのかもしれ ない。 でも、何もしないまま人生を終えるのは、もっとイヤだ! このまま何もせずに、死んでたまるものか!〉
〈人の役に立つことを、自分の喜びにする。それはヤマギシでよく聞かされる、教訓的な言葉である。でもそれは、やせ我慢をする事じゃない。四期生ソングを作って皆が喜んでくれたみたいに、自分がやりたい事をやって、かつ人の役にも立てたなら、それが最高じゃないか。
 だとすれば、ボクはヤマギシの村から出て行かなきゃならないだろう。〉

※四期生ソング『Let' s Begin(さぁ、始めよう!)』
『飛び立とう! 限りのない世界へ。 
 ボク達の舞台は、この地球!
 まぶしく輝く陽 の光を追って、 どこまでも走り続ける。
 吹き抜ける風が語りかけてくる。 今こそ飛び立つ時さ!
 さぁ、蒔こう! 天地に恥じぬ種を、この腕で!
 やがて集う世界中の子達を思い描いて』 

参照:◎説得的定義と「言葉のお守り的使用法」と実顕地(2019-04-16)
(つづく)

〇付記
 本書を読んでいて、世話係に思い当たる人がいて、あの人がどうして、という場面がいくつか出てくる。
 アウシュビッツの経験を問い続けたプリーモ・レーヴィに、「ありとあらゆる論理に反し慈悲と獣性は同じ人間の中で同時に存在し得る」(『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日選書)というような表現がある。ごく普通の人たちがナチス体制を支えていたとの記述がいくつか見られる。
 同時代日本では、B29による空襲の戦下、各地焼野原の状況の中で、「鬼畜米英」の頭で竹槍訓練に励んでいた人が多くいた。私たちの父母、祖父母の世代である。

 自分自身を振り返っても、様々な面があり、〈善・悪〉あわせ持っていると思っている(なにが悪でなにが善であるのかはいい加減な面があるが)。その自覚のもとで、少なくても「悪」の面を他に及ぼすことだけは避けたいと願っているのみである。
 ここで課題にしたいのは、同じ人間が、どのようなときに「善性」が働き、どのような経緯で人を思い通りに制御するような「悪性」のようなものが色濃くでてくるのか。その態度はどのようにできてくるのか、その頃の自分にも引き付けてじっくりと見ていきたい。