広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎守下尚暉『根無し草:ヤマギシズム物語1学園編』を読んで。②

〇私の知る限り、ヤマギシズム学園高等部に在籍していた生徒が、当時の実態をありのまま書き綴った書籍は、本書しかないと思う。また、青少年の成長に欠かせない大事なテーマがあるとも思う。
 まず何よりも、著者が大変な厳しい思いをして過去を振り返り書き現したことで、明日に繋がる大事な経験になることを願っています。そして、今後の作家としての活躍を見守っていきたいと思っている。
 当ブログは、特異な共同体として数々の興味深い試行錯誤もあり、おかしなことも数々行われ、その影響の大きさを鑑みて、理想集団がどのように変容していったのか、様々な視点から考察することで、今後に生かしていければいいかなと考えている。
 特にヤマギシ会、実顕地が力を入れ、異様な展開をしたヤマギシズム学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返ることは大切で、その意味合いにおいても本書は第1級の資料になるのではないかと思う。
 その学園を産み出したヤマギシズム実顕地で、25年以上暮らし、その頃中心になって活動していた私から見て、この作品から感じた、考えたことを書いていく。


〇大雑把に本文を参照して著者の中学三年生から学園高等部での生活を見ていく。
『ヤマギシ会』の活動に傾倒している母親の影響で、「楽園村」「はれはれゼミナール」など参加していて、中学三年生の夏に「学生特講」「進路ゼミナール」などで、親しい友達も増え、高卒の資格を得られない無認可の高校だと告げられていたが、「実はそんなに好きじゃないけど、お母さんがそこまで喜ぶのなら」と、学園高等部へ進学する。
 その頃の著者は「ボクにとって、王様の言うことは絶対だった。王様に逆らうなど以ての外。十四年間生きてきた中で獲得した、ボクなりの処世術だった。」と、周りから良い子、やる気のあるように見られるように演じていたという。見方を変えると反抗を好まない面もあったようだ。
 その頃、『ヤマギシズム学園高等部』の子供達は、親や先生に一切反抗せず、何でも素直に「はい」で実行する理想的な子供として話題になっていた。

 高等部新1年生(予科)の四期生は百一名。食事は昼と夜の一日二食。二人で一枚の布団に入って寝なければならなかった。気の合った数人と隠れて『テーブルトークロールプレイングゲーム』をするぐらいで、三百六十五日、いつも朝早くから起きて日が沈むまで農作業に勤しむ暮らしであった。
 農作業は真面目に取り組んで、そのうち「エリート・男子部」と「落ちこぼれ・その他」と区分けされ、著者は世話係からも認められ、「エリート」になっていた。
 恋愛なし、個別研、係の説教・殴る蹴る、友だちの退学など、数々の疑問を抱えながら、王様には決して逆らわないという生き方は、言い表しようのない不自由さを伴うものであるという事を、少しずつ理解し始めた。

 そして次のようなことを思うようになる。
〈何が起こっても明るく前向きな『はれはれマン』
 屈強な体と優しい心をあわせ持った『男らしさ』
 どんな時もハキハキ取り組む『覇気のある子供』
 そして完全無欠な『ヤマギシズム学園高等部生』
 ヤマギシで語られる色んな理想やその人間像。それらを実際に演じていく中で、ボクは既にどこまでが演技で、どこからが本当の自分なのか。自分でもよく 分からなくなっていたんだと思う。〉
 一方、次のことも思う。
〈高等部では世話係の言うことが絶対だ。誰も、世話係に対して意見できる生徒なんて居ない。きっと世話係には、ボクの考えも及ばないような、なにか深い意図があるに違いない。いつからかそう思うことで、世話係の理不尽にも納得するようになっていた。〉
 それでもエリートであり続け、模範的な学園生で構成される「核研」のメンバーであった。予科が終わるころは、男子部の生徒52名のうち、本科(2年生)に進級できたのは36名だった。

 本科生(二年生)になり、秋ごろ思いもかけないような事件が起こる。世話係に相談してもあまり受けとってくれないように思い、世話係との間に距離を感じるようになり、さらにさまざまなことや疑問に遭遇し、いろいろなことに身が入らなくなる。
〈ヤマギシは、互いに他人のことを思い合う事で成り立つ社会じゃなかったの?
 本気で他人の事を考えてくれる人間なんか、どこにも居ないじゃないか。口では理想を語っても、結局外の社会と本質は何も変わらない。
 誰もボクを護ってなんかくれなかった。最後にボク を護るのは、ボクしか居ないんだ!〉
〈この人はちゃんとボクの話を聞こうとしてくれていない。何を言っても自分の取り組み の問題にすり替えて、跳ね返されてしまうのだ。 この人には、ボクの本当の気持ちなんて 伝わらないし、本当の気持ちを打ち明けられない、とボクは思った。〉
 さらに、世話係から次のようなことも言われる。
〈ハッキリ言うけど、お前には才能なんて無い。お前はもっと現実を見た方がいい。自覚しろ、お前は無能だ。お前がそんな事やらなくても、お前のかわりなんて幾らでもいるんだぞ〉

 そして、〈何もかも何もかも嘘くさく感じてしまう。自分が思い描くヤマギシの優等生を 演じ続けるのに、ボクはもう限界を感じていたのかもしれない。でもボクには、もうどうする事も出来なかった。〉となる
 2月に入り村人の『愛和館仲良し研』で、両親の参画を知る。
〈どうしようもない喪失感。なにもかも失くした脱力感。一番底で安定する心の拠り所を、 ボクは失った。もうボクには、帰る家がなくなってしまったのだ。
 帰る家を失った今、高等部を卒業したボクは、何処に行けば良いのだろうか。家も無い。親も居ない。学歴も無い。お金も無い。〉
 専科生(3年生)に進級できたのは、わずか二十八名だった。

 専科に入って夏の終わりの北海道への『学究旅行』(修学旅行)で作った四期生ソング『Let' s Begin(さぁ、始めよう!)』は仲間から才能が豊かと絶賛され、次のように思う。
〈才能とは、元々備わっている個人の資質 だと、ずっと思い込んでいた。でも、それは誤りだった。才能は、人から認められて、初めて才能に昇華するのだ。〉
 そして次のような決意を固める。
〈ボクは高等部を卒業したら、参画せずにヤマギシを出る。その為には、 あと半年以内に、 具体的な計画を立てなきゃならなかった。〉

 新年になって、高等部・大学部生全員の「全体研」で、ある事故を知らされる。「この件について噂話を流したり、憶測で変に話を広めたりしないように! 以上!」というような説明があり、あっけなく終わる。先に夏でも、二歳の乳児が脱水状態 で死ぬという事故があり、その時も詳しいことは知らされず、当日の新聞もおいてなかった。その時も教えてくれた、村で働いている社員さんから、学園の『中学生女子、飛び降り自殺』の事実を知る。
 卒業まじかになり、ある女子とのささいな手紙のやりとりで、執拗な地獄のような折檻があり、一週間二十四時間ずっと小さな部屋に閉じ込められるという、肉体的な苦痛以上にキツイ、監禁による精神的な苦痛を受ける。

 そして卒業時に次のことを思う。
〈自分を護る為には、誰かとぶつからなきゃいけない。ボクはもっと、自分の我を通せば良かった。それは、我執を捨てる事を是としているヤマギシの考え方に、真っ向から反するものだ。でも、そうしないと、 ボクはボクを護れない!
 ボクは決意した。こんな村、絶対に出ていってやる!
 そしてボクは気付く。そうか。これが、志を立てるという事なんだ。ボクは今、初めて志と呼べるものを立てたのかもしれない。自分の意志で決定し、その意志に従えばいい。
『王様』には逆らわない? いや、違う。これからはボクが、『王様』になるんだ!皮肉なことに、 ボクはこの瞬間、男らしい覇気を身につけていた。故郷を失ったボクの長い旅は、たった今、始まったばかりだ。


〇 このように要約してきて、図式的に次のことを思う。
 15歳の処世術として身につけてきた、長い者に巻かれろしきのイエスマンで、波風の立たないように生きてきて、おそらく周りから素直な良い子のように見られていたと思う。
 そして、大変な苛酷な思い出したくないような高等部生活体験から、自分の足で立ち、自分の意志で動いていく、明日につながる覇気を身につけていた。

 ヤマギシ学園は、教え育てる「教育」ではなく自らが学び育つ「学育」として子どもたちを見ていこうという目標で始まった。
 その頃の学園は、もっともらしい理屈を並べ、ひたすら世話係の意向に合わせ恣意的に子どもたちを動かし、それに従わないと説教・殴る・蹴るなど執拗な折檻に及ぶこともあった。
 当時の学園世話係の少なからずの人は、反抗的であろうとなかろうと、どの子にも、ひとりひとり精神的な人格者として見ることをしなかったのではないだろうか。

 押さえておきたいことは、実顕地参画者は、ある程度熟慮して、自分の意思でその理想に共鳴し集まってきて、そこの経営理念のもとで、一つになって取り組んでいたことでは構造としては同じような面があるが、そこを構成する一人ひとりはさまざまな特色があった。

 ところが親に連れてこられた、自らの意思で選び取ったわけではない多くの子どもたち、成長段階にあり、これからいろいろなことを身に着けていく子どもから見たら、実顕地の学育方式が一枚岩のごとく立ちはだかっていたのではないだろうか。
 そのような学育方式でも、ある程度こなしていけた子にとっては、その子の持っている力やその他の要因で、ある種の逞しさを身につけた人もいるが。

 しかし、その学育方式についていけなかった子に対しては、あまりにも非道なためなおしや、ここにいる資格がありませんなどの切り捨てが安易に行われていた。そのことで押しつぶされ、いまだに悶々としている人も少なからずいる。


〇自分の足で立ち自分の頭で考える。
 人が生きていくときに、考えたり問い続けたりすることは大切にしたいと思っている。それに先立って「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことは必然的なことである。
 特に、中高生から成人にかけての年代にはもっとも身につけたいことだとも思う。
 その上で、あることに集中することや優れた指導者についていくことはあるとしても。

 1歳半の孫の育ちを見ていて、多くのことを親など家族に支えられて育まれていくが、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことをおさえ、ひとりの精神的な人格者として、そして「心をもつ者」として見ることが基本になると考えている。

 そのことは、乳幼児期に限らず、人が生きていくことは、数多の人に支えられ、見守られながらも、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」人同士のお互いの相互作用によって生き・生かされてきたのだと思う。

(つづく)