広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎私意尊重公意行➂(鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法」など)

※「私意尊重公意行」に限らないが、実顕地の「機構と運営」に関するヤマギシズム独特の言葉について、鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法」などから考察する。

【説得的定義と「言葉のお守り的使用法」と実顕地】から
〇鶴見俊輔氏の考察に「言葉のお守り的使用法」があります。
「言葉のお守り的使用法とは、人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場を守るために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事の上にかぶせたりすることをいう。このような言葉のつかいかたがさかんにおこなわれているということは、ある種の社会条件の成立を条件としている。もし大衆が言葉の意味を具体的にとらえる習慣をもつならば、だれか煽動する者があらわれて大衆の利益に反する行動の上になにかの正統的な価値を代表する言葉をかぶせるとしても、その言葉そのものにまどわされることはすくないであろう。言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとり能力がひくいことと切りはなすことができない。」とし、お守り的に用いられる言葉の例として、「民主」「自由」「平等」「平和」「人権」などを挙げている。(※『鶴見俊輔集3 記号論集』筑摩書房、p390)

 ヤマギシズム)実顕地でいえば、「研鑽、一体、調正、本当の仲良し、~が本当、私意尊重公意行、理----」などがあります。その言葉をお守りのように身につけることで、あたかも自分が体得しているかのように錯覚し、その言葉や表現を用いて論をたて人々の説得の道具にするような使い方をしている人、が少なからずいたのではないかと思っています。

「研鑽」の限らず、その頃の実顕地は説得的な「お守り的言葉」の使用に闌けていたと思います。その言葉の一つひとつを吟味することなく、自らの感性に照らすことなく、安易な使いかたをしていた。むろん私も例外ではありません。

 このことは特定の理念を掲げた集団にはよく見られることで、その集団内でしか通用しない言葉で語りがちになります。学術分野、健康分野、教育分野などにも感じます。

 鶴見俊輔は『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』の解説で、〈「説得的定義」とスティーブンスンの呼ぶものは、数学や自然科学にも少量ふくまれており、社会科学や歴史学においてはさらに大量、そして日常生活で使われる言語では野ばなしで使われている。政治や広告では、説得的定義の本領が発揮される。〉と述べています。

 「説得的定義」「言葉のお守り的使用法」は、その頃の実顕地を語るための一つの視点になると思っています。また、情報化の激しい現社会の留意しておきたい課題だと考えています。

【指向性の強い観念と実顕地のこと】から
〇次に、実顕地の目指す方向への強い指向性のある言葉として、「提案と調正」「私意尊重公意行」という運営の根幹となる表現に触れる。
「私意尊重公意行」は実顕地独特の言葉である。
 おそらく、理念提唱者の山岸巳代蔵がそこに込めた意味合いは、一人ひとりの意思を尊重し、研鑽の持続で、公意(だれもが納得するような一致点)を見出し、まずはそれで実行し、さらに繰り返し研鑽で確かめつつ、よりいいものを見出していこうという意味あいである。

 その言葉は山岸自身の問題意識を背負っていると思われる。その発した言葉の奥底の心や問題意識まで迫っていかないと、その隠された大きな意味をとらえることが出来ず、浅薄なとらえ方に陥ってしまう。実際このようなことを実現するのは容易ではないと思う。

 私が所属していた頃の実顕地では、個人の意思は一応大事にしますが、実顕地のあるべき方向で、それに相応しい人たちで考えるので、その判断に任せて、出た結論に従ってください。というような感じだった。

「提案と調正」も、共に同じ土俵でとことん話し合い検討するというよりも、提案する人と調整する人とにくっきり分かれていて、結局は調整する人にお任せするというような「調正」の意味とかけ離れたものとなっていた。

 このようなことになっていたのは、専門分業の「任し合い」という考え方もあるだろう。
 他の部門の人たちの言動について違和感を覚えても、ことさら異を唱えることを控える。あるいは、何か深い考えがあってそうしているのだろうと、実顕地の目指している方向や中心になって進めている人たちへの根拠のない信頼などが、「任し合い」の負の要素を引き出していたと思われる。

 また、自分たちはかってないような素晴らしいことをしているという根拠の全くない倨傲などもあり、実顕地独特の観念にくもらされて、個人的な感覚や感情による違和感を覚えたとしても、積極的にとことん疑問を解消しようとしない体質もあったのではないだろうか。
 勿論すべての人には当てはまらないが、特に積極的に運動を進めていた人、調正を担っていた人に、目立つ傾向であったように思っている。私のことを振り返っても。

 実顕地について述べてきたが、理想を掲げた集団や政治結社の多くに、あるいは「反戦使い」にすら、多かれ少なかれ共通した体質を感じるときもある。特に大声で自説を叫んでいる人を見ると、いたたまらない気持ちが出てくる
 その組織特有の表現、言葉を使うことによる、意識、認識過程の変容と、それに伴って、その組織の進む方向に合わせたような感覚になっていくこと。
 ことさら「正しい、本当の、真の」というような表現を多用し、その集団独自の表現が目立つと、内容を吟味する前に嫌な感情が出てくる現在の自分がいる。

参照・本ブログ◎指向性の強い観念と実顕地のこと(2015-09-28)
・◎説得的定義と「言葉のお守り的使用法」と実顕地(2019-04-16)