〇『山岸巳代蔵伝 ―自然と人為の調和を―』12章から
ここで、思想的な集団における総意の形成について考えてみる。
ある種の思想的な集団にとって、組織の活動の広がりにともない、一人ひとりの自由意志力による総和というよりも、管理維持的な要素や能率的な欲望が色濃く出てくるようになる。
そのことから、特定の力のある人が運営面において影響力を発揮するようになり、その体制が固定化していくと、推進的な立場の人が自説補強的思考法になり、その組織の方針を徹底化しようと、他者を従わせようとするし、構成員自らもそこに合わせるような傾向も出てきがちになる。
また、それを批判する人々による権力闘争的な動きも出てくる。結局、組織の方針に合わない人が排除され、ますます、その組織の現状維持的な体制が強固なものになっていく。
そうすると、意識的にも無意識的にもそのようなベクトルが強く働くようになり、この傾向が特定の人だけではなく、組織を維持する全体の気風にまで発展するようになる。そうなってくると、一人ひとりのもっている活力がそがれ、ひいては組織全体の活力が失われることになる。思索というのは、常に、現状の枠組に収まりきれないところから芽生えるのである。
山岸の提唱した「私意尊重公意行」という理念がある。
事件後の『ハイハイ研鑽について』の中で、次のように述べている。
「固定不動の教義によらないで、みんなの意志を織り込んで公意志を見出し、それをまたみんなで改めて進展していく――公意に絶対服従」、「公意は個人の意志の集積であり、個人の意志によって変更できるものである」
この論考では、「少数の異見こそ大切に」とか、「多数の暴力」の危うさが語られ、組織・機構のあり方が論じられていて、興味深いものがある。
だが、みんなの意志をどのようにして総意にしていくかの方式が、特定の人たちに委ねられているとしたら、排他的になりかねないと思う。
吉本隆明が、『中学生のための社会科』の「国家と社会の寓話」の中で、ヤマギシ会についても触れていて、そこで「自由な意志力」と「公共性」について言及している。
「個々の『自由な意志力』の総和をのみ『公共性』と呼ぶ。『自由な意志力』以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念はダメだ」とし、現代社会はどこかに高度な管理システムを含んでいて、そのことは不要なのではないが、「被管理者の利益と自由の最優先」の原則が貫かれていることが肝要であるとしている。
私も大よそこれにくみするし、山岸の観方にも重なってくるものがあると思われる。
高度管理技術が普及した社会で、国家や地域社会に限らず寡民による小社会でも、その公共性をどのように形成していくのか。管理側が政策決定して住民が従う方式ではなく、そこで暮らしている人々の自由意志力によって総意が形成されていくための方式はどうあったらよいのか。また、個々の自由意志力を優先するとは、「公の意志」とはどういうことなのか、などの究明・実践が現代社会での大きな課題となっているのではないだろうか。