広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎自分を見つめ直す

〇吉田光男さんは『わくらばの記』のなかで、随時「自分とはなんだろう」と自問している。」
  福井正之さんの〈『わくらばの記』に触れて〉の一連の「問い直す」の論考も「自分とは何者なのか」がメインテーマになっている。
 それに関連する『わくらばの記』の記事からいくつか見ていく。(改稿)


・本ブログ『わくらばの記』(2)(3)より。
〈2016年1月27日〉:「少年時代からの自分を振り返ると、自分が自分であろうとするよりも、いつも自分以外の何者かになろうとしてきたように思う」

〈2月5日:前に私は、「自分が自分であろうとするよりも、自分とは違う何者かになろうとしていた」と書いた。自分は自分であるよりない存在なのに、なぜ自分以外の何者かになろうとしていたのか。
 自分は自分が卑小な存在であることを知りながら、それを素直に認めたくなかったのだ。本来の自分ではない存在であるかのように自分を示そうとして、自他を偽るのである。しかし、他は偽れないので、結局は自分を偽り通すことになる。
 教養主義や向上志向などもその表れだ。そして参画してからは、例えば「あるべき姿があるはずです」というテーマの「あるべき姿」に自分を見せかけようとする。テーマに向き合い取り組むのではなく、見せかけの方に力を入れるのだからバカな話だ。しかし、これは私だけのことではなく、多くの村人にも見られた傾向である。
 会員時代はよく会っておしゃべりしていた女性たちが、参画後は会ってもお互いに素知らぬ顔をして通り過ぎる、といった光景がよく見られた。これは「あるべき姿」にとらわれて、本心からの会話を成り立たなくさせていた結果だと思う。
 人間は今ある自分の姿をそのまま認め、そこから出発する以外にない。自分を隠す、自分を飾るということは、他の評価によって自分を位置づけようとする、風まかせ、波まかせの実に不安定な生き方にほかならない。

・『わくらばの記』(17)より。
〈2017年1月2日〉:この日、息子一家が来てくれた。しばらくみんなで話し合っているうちに、孫の一樹から鋭い質問が飛び出してきた。こうした真正面からの問いかけには、ごまかしたり、はぐらかしたりはできないなと思い、こちらも真剣に答えることにした。 

 ――年を取って体が衰えても筋肉は鍛えられるというから、筋肉ムキムキになる運動をしたらどうか。

「皮膚がたるんで皺だらけの体で、筋肉だけ鍛えることはできそうもない。鍛えることよりも、できるだけ衰えないようにするための足腰の運動はつづけている」

 ――もっと長生きしたいとは思わないか。

「生きられるだけは生きようとは思うが、より長くとは考えていない。薬や生命維持装置で、生きる時間を少しでも長くとは考えていない」

 ――もっと幸せになろうとは考えないか。

「その‟もっと幸せ”というのは、どういうことだろうか。幸せに普通の幸せ、もっとたくさんの幸せ、といった区別があるだろうか。幸せにAランク、Bランクという区別はないのではないか。もしあるとすれば、前のは本当の幸せではなかったということになる。幸せを感ずる中身は日々違っているとは思うが、その時その時を幸せに生きることが大切だと思っている」

 ――じゃあ、幸せって何か。

「その質問に全部答えることは難しいが、最近考えたことを言うと、自分を知るということが大事な一歩かと思っている。宇宙の話を聞くと、宇宙空間に存在する物質やエネルギーはほとんどが未知なるものだと言われている。その90パーセント以上は、不明な物質やエネルギーで、それを暗黒物質とかダークエネルギーと言っている。同じように、人間の心の宇宙もわかっていない。つまり、人は自分が何者であるのかわからぬうちに、一生を終えることになる。それにもかかわらず、みんな自分は自分だとわかったつもりになっている。じゃあ、何を以て自分だと思っているかというと、自分以外の何か――例えば財産とか名誉とか地位とか知識とか――そういうものが自分であると思っているのではないか。しかし、そうした自分以外のもので自分を幸せにはできない。それでは、おじいちゃんは自分がわかっているかと聞かれると、とうていわかっているとは言えないけれども、わかっていないことがわかったとは言うことができる。だから、自分の心の中を旅する努力をしているが、それが楽しい。そこに生きがいを感じている」 

 そんな話をして、多分よくはわからなかったと思うが、真面目に答えたことの何かは伝わったかもしれない。〉 


・『わくらばの記』(18)より。
〈2月×日〉夜中に目覚めたときなど、ふと自分はなぜこんな文章を書いているのだろうか、と考えることがある。去年の1月以来だからだいぶ長いことになる。文章としては拙いし、考えていることも侏儒の戯言に過ぎない。何人か読んでくれる友人知人がいるからという理由もあるが、そうした知友に甘えて書いているだけであれば、貴重な時間を奪うだけで申し訳ないし、自分にも嘘をつくことになりかねない。出発は、ガンになったことをきっかけに、自分を見つめなおすことにあった。何もしなければ、時間の流れにただ流されるだけで一生を終わってしまう。流されながらも、自分が何者でどこから来てどこへ行くのかを見つめなおしてみたい、そのために書き始めたはずである。あくまで、自分のために書き始めたはずである。昨夜、ふとそのことを思った。〉


 実顕地という特異な環境にいると、そこに大きく影響されながら自己を形成することになる。私の場合も、やらされていたということはほとんどなく、大方は納得の上で、自分のこととして行動していた。離脱してみて、かなりそこの気風に染まっていたなと思っている。
 また、ことさら「自己とは何か」というような問いは立ててはいない。時折立ち止まって、なんで自分はこのことをしているのかと問い直すことは大事にしている。

 福井さんは「自分とはいったい何者なのか?」という問いをたてる。〈その出発点は私の場合、ジッケンチを離れたからこそ生まれた認識だった。〉と述べる。
 晩年の吉田光男さんは、実顕地で暮らしながら、ある程度そこに距離をおいて「自分はいったい何をしようとしているのか」と真摯に自問されていた。
 
参照・吉田光男『わくらばの記』(3)(2018-02-17)
  ・吉田光男『わくらばの記』(17)(2019-02-13)
  ・吉田光男『わくらばの記』(18)(2019-03-05)