広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎「真理観」について(吉田光男『わくらばの記』から)

〇吉田光男さんの『わくらばの記』は、2016年1月に食道癌で長期入院することになり、それ以前から心においていた、〈ヤマギシに関連して、自分が向き合わなければならないテーマについて、これから書き続けてゆくつもりです。黙ったままであの世に持って行くよりも、正直なところを書いておくほうが良いのではないかと思ったからです。まとまり次第お送りします。〉と、随時メールで送られてきたものを、編集した。

『わくらばの記』は、食道癌による入院前の2015年12月25日から書き始めている、翌年1月18日の入院前には、「真理観」およびそれを志向する心の働きについて書いている。

〈(1・5):青本の一番最後に「全世界の頑固観念・我執を一時も早く抹殺しよう」という文章が載っている。この文の冒頭で山岸さんはこう言う。
「自分の目から見て逆に見えること、間違いに見えることでも、批評・批判・非難を口にすべきでなく、そんなに思う時は、自分が批評・批判・非難などできる自分であるかどうかを、まっさきに検べることである。」
 この文章を今まで何回読んできたことだろう。言っている言葉は誰にでもわかるのに、その中身はほとんど理解されていない。いや、私自身は理解してこなかった。字面だけの常識的な理解しかしてこなかった。
 他を非難することは、無意識のうちに自分を正しいと位置づけることであり、その瞬間に過ちの地獄に落ちる。実顕地の歴史の中で、これまで数々の間違いを犯してきたが、それは自らを正しいと位置づけたことから始まったのだ。例えば――
「実顕地は真実の世界」
「ヤマギシの生産物は本物」
「世界でただ一つの真実の学園」……
 これらのスローガンは、無言のうちにこう言っていることにほかならない。
「実顕地以外は偽物の世界」
「山岸以外の生産物は偽物」
「ヤマギシズム学園以外は偽物の学園」
 他を非難する意識無しに、他を非難し、夜郎自大に陥ってしまって、しかもそれに気がつかない。謙虚さの欠片もない。そのことにずーっと気がつかなかった。

〈(1・6):自分を正しいと思いたい願望、これは根強い。あるいは正しくありたいという願望、あるいは正しいところに身を置きたいという願望、これも強く自分を捉えていた。
 そして実顕地が真実の世界であり、正しい存在であるならば、そこに身を置くことは正しい在り方であり、その真実の世界を推進(指導)する本庁なり研鑽部なりの方針に沿うことは正しい在り方である。…… 
 こうして、研鑽は名ばかりの会合となり、上から出されるテーマを理解するためだけの集まりとなった。正に真理は上から降りてくるのである。こうした大衆心理がピラミッド組織を下支えする。「特別人間はいない」「長のいない組織」のはずが、いつの間にか特別人間をつくり、長や指導者を生み出した。
 こうした誤りを、いま実顕地は克服したであろうか? あるいは、自分たちは、そしてまず自分は克服したといえるだろうか。〉

〈(1.13):よく自分たちは「真理から見れば」とか「真理から外れないように」とか、あたかも真理を我が手中にしているかのような言動をしてきた。これほどの思い上がりを、天人共に許すはずがない。
 有限で愚かな人間が、時空を超越した真理なるものを把握することなど不可能であり、ましてその真理から物事を見、判断することなどできるはずがない。人間のできることと言えば、間違いや過ちから謙虚に学び、少しずつ方向を改めてゆく以外にない。そのためには、過ちを過ちと認め、間違いを間違いと認める勇気が不可欠である。しかしこれが意外と難しい。認めたがらないのである。こうして真理の方向からますます外れてゆく。〉

 そして18日から105日に亘って入院する。その後度々それについて言及している。
 ここでは現在につながる記録を上げる。

〈〈7月×日〉:Mさんからもらった鈴鹿の『asone 一つの社会』を読み始める。納得できるところ、同調できるところはたくさんある。しかし、やはり疑問は残る。それも根本的な疑問である。疑問というのは、「もともと」とか「本来」という言葉で言い表される中身だ。
「人間本来の姿=幸福」
「病気のない健康体であることが本来の姿」
「生まれて間もない赤ちゃんは……人間本来の姿」
「もともと安心安定」「無いのが本当」
「スタートが一つ。最初から一つ」
 これまで実顕地で言われてきたことと、それほど変わらない。それをやさしく、わかりやすい言葉で解説している。
 しかし最近私は、この「本来」「もともと」という言葉に、強い疑念を持つようになった。この言葉は、「真理」と同じ意味で使われているから、もしこの言葉に疑問を出そうとすれば、「お前は真理に楯突くのか」と言われそうで、「はっ、はあっ」とひれ伏す以外になくなってしまう。しかし、「真理」と「人間が真理と考えるもの」とははっきり違うものであり、「人間の考える真理」はあくまで頭の中の存在であって、それは真理であるかもしれないし、真理でないかもしれない。いわば、真理という実像に対して、「真理と考えるもの」は仮像にすぎない。この仮像をもって「本当」とし、これをすべての物事の原点としてしまえば、自分の今の姿、実態との開きを何によって埋めるか、そこにうそ偽りが入り込む余地が生じないだろうか。2000年以来、私がもっとも苦しんできた問題は、そこにあった。私はいま「本来」も「もともと」も棚上げして、自分のあるがままの姿を見つめ直すことに重点を置いている。
「真理とされるもの」から出発する思想は、一種の原理主義になりうる。だから鈴鹿を離れた人は、「スタートが一つ、最初から一つ」の出発点から外れた人、「最初から一つではなかった人なのだ」と切り捨てられることになる。
 私には、鈴鹿にも、鈴鹿を離れた人にも、何人かの親しい友人・知人がいる。みんなそれぞれが、人々の幸せを願い、何らかの活動をしている。何が真の幸せに結びつくのかはわからないが、それぞれの生き方は尊重したいと思っている。だから、このような疑問や異論を提起することはどうかとも思ったのだが、疑問は疑問として正直に語る方が大切だと考えて書いてみた。〉

〈〈7月×日〉:昨日はEさんに送り迎えしてもらって、豊里の資料研に出た。そこで、Sさんの「本来」「もともと」と表現されていることの中身をどう考えるか、と問題提起してみた。あまり深まることはなかったが、最後にEさんが「そう考えられるが、どうだろうか」と発言した。まあそのへんが一つの落としどころかと思うが、もっと各人で考え続けたいテーマである。しかし、考え続ける人は少ないだろうな、とも思う。実顕地の研鑽会は、その場かぎりで終わってしまい、考え続ける習慣というか持続性がない。そのことがどういうことかは、また別のテーマであるが。〉

 わたしの場合、自分の主張として真理についてほとんど発言したことはないが、「本来」「もともと」などは使いたいときがある。表現としては「だと思うが」という類のニュアンスを込めているつもりだが。
 科学の欠かせない要素に反証可能性がある。
 そこから、自分が考えていることはどこまでも仮説で、他の見方を検討する余地や、自分のとらえ方を見直す態度があることにつながる。
「今の段階では自分はこのように見、考えるが、どうだろうか?」という心の態度だ。
 人間の究極の問題として、自分がまちがっているという可能性は、科学的に考えて排除することはできないと考えている。

 鶴見俊輔は、次のように言っている。
「私はI am wrong だから、もしそれらから「おまえが悪い」といわれても抵抗しない。この対立においては、結局決着はつかないんですよ。私がYou are wrongの立場に移行することはないし、You are wrongは私の説得には成功しないから。」
 ※(鶴見俊輔『言い残しておくこと』より)

参照:本ブログ・吉田光男『わくらばの記』(1)(2018-01-17)
吉田光男『わくらばの記』(10)(2018-08-13)
日々彦「ひこばえの記」・「間違い主義」と「アブダクション」について(1)(2016-02-13)